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昭和20年、広島・長崎に新型爆弾たらいう恐ろしい爆弾を落とされ、まもなく、夏の日差しのきつい8月15日、日本は無条件降伏して、負けてしまいました。
街中では誰もかれも、気の抜けた顔で汗を拭きながら、歩いておりましたが、百姓してる此処らではそうもゆかず、次郎作の跡継ぎの嫁さんなどは、子供らと、親戚の大阪の子らにも手伝わせ、玉音放送の後も、草むしりにここらの田へ出ておりました。
心中恐らく、中国出征中の旦那さんが、これで無事還ってこれるのを、喜んでおられるのが、その笑顔で判りました。
唯でさえ真っ暗なここらの夜道でしたが、ため池向こうの数軒の農家の明かりが、その日以来、誰に遠慮もなく点り、戦争が終わった事を皆実感したことでしょう・・・。
まもなく大阪の親戚の子らも、親元に引き取られ、子供たちも新学期も始まり、少しづつ、世の中は落ち着いてきました。その頃から、街中の人々は、バラック小屋や焼け残りの家々から、農家に食料を求めて、背中に大きなリュックサックを背負い、ここらにも伝を求めて買出しに来るようになりました。
最初頃こそ、気の毒に思い、代金以上になけなしのさといもや野菜等、食料を過分に渡しておりましたが、その内、そんな人も随分多くなり、持ち込んでくる、着物や掛け軸の値踏みしてから、駆け引きしながら渡す事を覚え、だんだんこの辺りの百姓もこすっからくなってゆきました。
戦地から戻ってきた人も大分増えましたが、中には親も自慢する優秀な子なのに特攻隊から帰ってくるなり、すぐ、ぐれてしまい、白い落下傘の絹の首巻をして、仕事もせず、ねめつける様な目つきをして、親元から、そんな着物や掛け軸を賭け金代わりに召し上げたりしておりました。案の定、大阪のヤクザ屋さんに出入りし、まもなく第三国人たら言うグループとの抗争に巻き込まれて亡くなりはりましたが・・・
自由とか権利たら言う言葉もはやり出し、次郎作の跡継ぎさんが北向こうの小作人に貸していた土地代も払わなくなってきたりしました。 皆わが身が生きる事に必死の時代でした。
その内、アメリカさんの指導たらいう事で、「農地改革」が始まり、次郎作の跡継ぎさんが自作していた二反以外の八反が国に不在地主たらいう事で安く買い上げられ、それでも、小作人が元々払わなくなっていたので、まだましと未だ戦地から還って来ぬ主人に代わって、はんこを、押しました。
詳しい事までわかりませんが、まあ当時坪二百円とか二百五十円とか三百円とか、幾ら高くても四百五十円とか、こういう価格でもって売り払いを受けたものらしく、しかも予算がないたらいう事で、実際に国から支払いを受けたのは、ご主人が戦地から翌々年還ってきた、大分後の事らしゅうございましたよ。
その頃にゃ、世の中インフレたらいうて、物価もどんどん上がり、馬鹿みたいな値打ちしかありませなんだが・・・
戦争に負けるいう事はこんなもんかいうて諦めるほかありませんがね~
しかし、本当に本当の田舎の小作人達には朗報で、皆食料増産に大いに励んだようですが、ここらの大阪近郊の百姓連には、その後大いな矛盾に悩まされる時代がまもなくやってきました・・・
続きはいずれ又近い内にお話しましょう・・