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昭和20年8月15日の玉音放送により、価値観のガラリと変わった戦後の生活が始まりました。
H家には出征兵士もおらず、引揚者でもなく、空襲で吹き飛んだわけでもなく、家も二軒残り、親子と5人兄弟仲良く、無事暮らしておりました。
親父は戦後すぐ過労でなくなりましたが、戦死などで父親のいない家庭も多く、子供達は親にかまってもらえぬ分だけ徒党を組み、遊び道具などは、自分たちで木を削って、ちゃんばらごっこや、ターザン遊びと、それこそ日の暮れるまで皆で田畑や近くのお寺の境内や、車の少ない大通りで遊びました。
着る物は兄弟からのお下がりで不自由はありません・・但し、冬場に姉の赤い足袋を履かされた時だけは、近所の坊主からひやかされるので子供ながら嫌でした。
電気は炭鉱などの産業優先で、民家にまわる電気は蝋燭送電といって電圧が低い為薄暗く、100w電灯をつけても、やっとぼんやり、と明るくなる程度でした。
問題は食料が何もありません。たちまち田舎へ買出し列車に乗って、野菜や芋類をあさりに行く日々となりました。時折経済警察がいきあたりもしない食糧配給制度を守る為、手入れ等をかいくぐっての買出しでした。3歳のH氏こそ、そんな経験はありませんが、5歳上の兄の次男は大きなリュックを背負わされて、母らと、20k位離れた行橋辺りまで汽車に乗って買出しに狩り出されました。モノの値段はたちまち値上がりし始めました。
母は土製の大きなひょうたん型の窯を買い、買った芋で焼き芋屋もしてみたり、街の闇市に子供のH氏の手を引き、売りにも行きましたが、儲かる筈もなく、自分の家の子沢山の子供達が食べられた分だけ、が儲けで、借金だけ残りました。
その頃の小倉の街は、進駐軍のPXといって、亡くなった父が戦前勤めていた玉屋デパートを接収した一角は、まるで、輝く程明るく、ウインドウには、見たこともないぜいたく品が展示されていましたが、後の街はバラック建で薄暗く、踊る宗教等がはやっていて、交差点の一角で踊っていたり、又街の中心部の紫川にかかる橋の欄干に、戦地からの引揚げの兵隊が「命売ります」等の張り紙をして寝転ぶ等、雑然としておりました。
戦いに敗れた日本経済は、戦争によって国富の約4分の1を失ったほか、生産水準も戦前の2~3割にまで落ち込むなど、大きな痛手を受けていました。
そうしたなかで、終戦処理費として巨額の財政支出が散布されたことから、日本経済は激しいインフレに見舞われ、国民生活は極度に窮乏化してゆきました。
昭和10年(1935年)の卸売物価水準を基準とすると、終戦時には3.5倍程度でしたが、昭和24年には208倍を記録するなど、復興期の日本経済は強烈なインフレの渦中にありました。
これに対し政府では戦争中の戦費に当てる国債の償還期にあたり、財源が無く、昭和21年2月、金融緊急措置令および日本銀行券預入令を公布し、5円以上の日本銀行券を預金、あるいは貯金、金銭信託として強制的に金融機関に預入させ、既存の預金とともに封鎖のうえ、生活費や事業費などに限って新銀行券による払い出しを認める(いわゆる「新円切り替え」)という非常措置を実施しました。
お陰で、H家の家長の爺さんが、自分の息子の残った家族位ワシが面倒をみると、後生大事に、門司鉄道管理局からの退職金、数千円(・・戦前なら、当時で庭付き一軒家が充分建つ)も預金していたのですが、価値が激変したのを理解するのに時間はかかりましたが、実情が判ると、すっかりしょげてしまいまい、翌々年には亡くなりました・・・いわゆる、年寄り殺しの新円切り替えでした・・
子供ながら、ものの役に立たなくなった、十銭、二十銭札束を貰い、それでごっこ遊びの支払いとして使い、遊んだのを思い出します・・・
母は末息子のH氏にも、大きくなった際に学費になるよう生まれたときから保険をかけてくれてましたが、
(確か15年満期で当時の200円位か・・インフレが無ければ充分高校大学の入学費位に成ったはず・・)満期時、お袋が養育保険通帳を恥ずかしそうに見せてくれましたが、・・勿論母の責任ではないのに・・これでは、コッペパン位が10個も買えたかどうか・・・・でした
ひるがえって、現在の国の800兆円超の借金を棒引きし、庶民に付け替えする新円切り替えは、先年、銀行法も変えた事だし、現在の日本でも、いつかはやりかねませんがね・・
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