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吉田茂は昭和11年イギリス大使となった後、 日独伊三国同盟に反対の立場であった事もあり昭和14年に退官し、外交の一線からは退いていたが。 大東亜戦争時は牧野伸顕、元首相近衛文麿ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事、露見して憲兵隊に40日間拘束される等、徹底した和平派であったようで・・
戦後、首相になったのは次の事情による。
ポツダム宣言第10項の「軍国主義者の権力および勢力を永久に排除する」方針にもと づき、GHQは46年(昭和21年)1月4日、軍国主義指導者(戦争と軍国主義を支えた者)の職場 からの 追放 を政府に指示した。 その折、1946年の総選挙で自由党が第一党になって、鳩山総裁が首相の指名を待つばかりであった 鳩山一郎が 公職追放に指名され、戦後政治を左翼に渡すわけにはいかないという危機感もあり、ピンチヒッターとして吉田に白羽の矢を立てられ、半ば騙された形での総裁就任からであった様だ。
吉田首相が登場するや、戦後処理の難問を連合国最高司令官 マッカーサーに対して 「よき敗者」(good loser)として臆することなく振る舞い、

戦後の主な方向付けを殆ど独断で決め、それに対して、反対勢力から「 ワンマン政治」と揶揄された訳だが・・今振り返ると、「 戦争に負けても、外交で勝つ事ができる」という、吉田首相の 敗戦国日本の再生理念は、無論、全てが全てではないが、改めて、評価できる。
一つは首相在任中に示された連 合国(アメリカ・ソ連・中国・イギリスら)による分割統治案に対し、吉田は「冗談じゃありませんよ」の一言で一蹴、拒否したというエピソードがある。 勿論米国の強いバックアップもあり、この分割統治案は否決されたが、左翼政治が主流を占めていたら、どうなっていたか、東京はベルリン並みに分割支配され、関東以北が共産化され、 朝鮮半島の様になっていたのでは・・・と改めてゾッとする分割統治案ではあった。
二つは、米国案に基づく憲法改正案が主流の、新 日本国憲法発布・・1947年(昭和22年)5月3日・・だったとは言え、それを急ぐ吉田に疑問を呈する議員たちに対して「日本としては、なるべく早く主権を回復して、占領軍に引き上げてもらいたい。彼らのことをGHQ(General Head Quarters)というが、実は、『Go Home Quickly』の略語だというものもあるくらいだ。」と、吉田らしい辛辣な皮肉をこめた答えを返したそうだ。
その結果の 第9条(戦争放棄)は寧ろ、報復を恐れる米国が提案し、条項に盛り込まれた訳だが、1950年(昭和25年)6月25日 勃発した 朝鮮戦争以後、米国の圧力や都合で、警察予備隊・保安隊・自衛隊と 序々に格上げされたが、
吉田首相は徹頭徹尾、国内外にその第9条項目を楯に、実戦には参加しようにも出来ない、自衛隊と防衛庁が発足された際、野党は「自衛隊の存在は違憲ではないのか」「自衛隊は軍隊となんら変わらない」と、追及するも、吉田首相は「 自衛隊は戦力なき軍隊である」と答弁した。屁理屈では 子供じみたコイズミの遥か上をゆく答弁だが、これにより、国力の殆どを経済復興に向ける事となり、戦後の繁栄をもたらした。名を捨て実を取った 大人の政策といえよう。
現在、改めて問題となっている、1946年(昭和21年)5月3日から 極東国際軍事法廷(東京裁判)が1948年(昭和23年)まで開廷した訳だが、 これは第1次吉田内閣(5月22日~1947年5月24日)と、吉田内閣成立以前に開廷された事実からみて、直接、彼の承認の元ではないが・・。戦争とは勝って初めて正論を言う事が出来るモノ・・と実感せざるを得ぬ。
万一、傀儡とは言え、イラクの法廷なみに、日本人による国民裁判が行われていた場合、結果はモット酷い結論で、大小の密告による死刑執行も増え、昭和天皇の裁判(良くて証人出席)もあるいは行われていたと思えるのだが・・・
いずれにせよ、敗戦の事実は誰かが負わねば収まらず、それを粛々と受け入れた東条首相以下の死刑執行は、日本人の思いは色々あったにせよ、惻隠の情として理解している事。
であればこそ、の 現在の内外の混乱は、対外的には、 サンフランシスコ講和会議・・1951年(昭和26年)
で吉田首相を団長とする派遣団が渡米し、 極東国際軍事法廷の結果を批准し、講和条約を調印することにより、成立した現在の体制下、極東国際軍事法廷の結果の不平不満を述べる事は、余程の国民の合意と国際社会の受け入れの可能性を見通した上でないと、国内向けの空論で、とやかく言われぬ手順手法のまずさ故の 揚げ足取りの中国・韓国に対しての意地の張合いは、子供の喧嘩手法に過ぎない。
腹をすえて・・日本人が原爆投下の国際法違反と共に、ハーグ国際司法裁判所に再審提訴して述べるべき筋合いの事と思われるが、果たして・・其処まで日本全体が右翼化する勇気もないだろう?。
「 やすらかに眠って下さい 過ちは繰り返しませんから 」の主語は、政治・軍事の責任者達というより、その政治に賛同協力し、その流れを作ってしまった、 大多数 の人の, その時の、又その後の世界中全ての人類が負うべき主語だと思う・・・。 大多数 の人とは読んで字の如く、結果に無責任な怖い数ではあるが・・・それをミスリードするマスコミその他も充分注意すべき数字ではある。
時の政治家は 歴史に対して責任を取る気概を持つべきだが・・・現今の無責任さが幅をきかす風潮下、 少数派の気概こそ、ミスリードへの盾を自認すべきかも?・・・。
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