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昭和28年6月25日から降りだした雨が28日迄4日間降り止まず、一年分の40%の雨が降り続き・ 当時の北九州五市(現在の北九州市)一帯は、大集中豪雨に見舞われました。その結果、死者・行方不明者183人、家屋倒半壊3800戸、総罹災戸数8万3000戸、総被害額110億円(現在の額で約600億円)に達するという未曾有の大惨事となりました。
旧小倉市でも、中心部を流れる紫川が増水し、激流となってあふれ出し、中島、天神島、三郎丸の各校区一帯を泥海化させました。また、市街地の道路は、ほとんど汚れた水につかってしまい、電車、バスなどの交通機関は、完全に途絶えた状態となりました。旧小倉市では、河川が決壊したこともあって、なんと全世帯の8割が浸水被害を受けました。被害の地域も、上流部から下流部まで広域にわたり、浸水面積は3230ha(現在の小倉北区の約8割に相当する面積)にのぼりました。 ( 北九州市昭和28年の北九州大水害より )
幸い、H氏の住む場所は篠崎の高台の為、水には浸からなかったが、川筋の朝鮮の人の住む町は屋根近くまでの水位で、豚小屋は流れ、家や人も流され、無残な有様となった。
その町へ下る道の途中のお風呂やさんの処迄、水位があがっていた。その辺りから坂は更に下っている町だったのに・・・
南小倉駅から山田弾薬庫に続く、引き込み線も流され、途中で盛り土の無くなった線路が水面に浮いていた。田圃を埋め立てて出来た、振興住宅地辺りも、ほぼ全戸水に浸かり、町へ出ようにも、バス停留所までの道路も流れる水に覆われ、H氏の住む高台の町でさえ、陸の孤島のような有様となっていた。
母の知り合いの家族も濡れ鼠になりながら、我が家に避難してきて、水が収まるのを待っていた。
ようやく、雨の止んだある日、小倉の街を見はるかす、 足立山の麓をみると 、未だ雲は谷から山上へ巻き上がり、山腹から幾筋もの 土砂崩れの 後が痛々しく残っていた。
小4生のH氏以下、男兄弟はその知り合いのお宅にバケツと長柄杓を持ち込み、床下に溜まった水をくみ出すお手伝いをするのが、精々だった。
濡れた畳を積み上げ、泥まみれの台所が痛々しかった。途中の田圃に建てられていた田舎芝居の掘っ立て小屋も、ぺしゃんこに潰れていた。 町々は暫く、消毒の粉があちこちにまかれ、喉も痛い程だった。
その頃、東京に本社のある通信社の小倉支店に勤めていた姉が、全国の各支店からの、援助物質で、缶詰等食料や毛布を頂いて帰ってきたが、お陰で被害のさほどない我が家まで頂くのは、どうも??と変な気がしたが、民間会社の社内同士の事でもあり、その好意はうれしかったのを妙に覚えている。
そんな経験から以降H氏は東京では下宿先を探したり就職後大阪で住処を捜す場合、必ず、その辺りで高台を探す事にし、低地の下町に会社の寮住生活をする時は何か落ち着かず、まもなく嫁を貰い、生駒山の高台に新居の借家住まいをした折も、その後に自宅住まいとなった折も必ず高台に住むことにしている。
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