PR
Calendar
Category
Comments
Keyword Search
Freepage List
毎年アメリカ独立記念日の7月3日に 小倉兵器廠後の米軍基地が開放され、自由に見学できる催しがあった。
日頃のアメリカ人の生活振りがどうなっているのかにも興味があり、学校を終わると早々に日頃は警備の米兵屯所も厳しい基地門をくぐり、 米国旗と国連旗の翻る 、広い敷地内を訪ね歩いた。後年の 日本万国博 を見る様なもので、対象が 平和なモノに限られていないだけに、当時としては見ごたえがあった。
アメリカ式の広い芝生の庭の将校クラブの一部や、教会内も見学出来、映画館では当時初めて見たスローモーションカラー撮影の花の開花シーン等が印象的だった、
広い練兵場には米軍の戦車が数台置かれ、砲塔のキャビンが開けられ、キャタピラーによじ登り、狭い操縦席に交代で座らせてくれた。

迫撃砲・重機関銃などの装備の展示や、「 コンバット
」等の映画の場面に出てくる通信兵の無線なども操作を教えてくれ自由に触れ、偶々、もう一機貸し出しの無線相手も近くの上級生の女の子だったので、「誰と来たん?」等と無駄話しが出来たのも、今では当たり前の事が当時は珍しかった。
解放地域の兵舎を訪ね歩いているうち、食堂に続く、娯楽室に、休暇中らしい黒人と白人の二人の米兵がなにやら、大きな木で出来た玉を、交互に廊下に転がしているのが目に入った
「 何やっとんじゃろう?」
と中にはいって見物する事にした。それが ボーリング
だとは後で知ったが、当時ピンは自動で立つ訳ではなく、廊下(2レーン)の奥の一段低くなった処で、日本人の従業員が、倒れたピンを一々、決まった位置にその都度立てていた。
そのオジサンの顔は近くの見知った人で、日がな、 賽の河原に小石を積みあげる様な? こんな仕事をさせられているのかと、子供心に少しショックだった。
(調べてみると日本には、1861年6月22日 (文久元年)長崎出島に伝来し、1864年5月7日に横浜にボウリングサロンが開店し、1869年4月20日には、神戸にボウリングレーン付きの外国人社交クラブが誕生したそうだ。・・・・日本ボウリング振興協議会HP より)
その後、ボーリング場は東京の青山ボーリング場や、関西でも、大阪北の阪急ボーリングセンターで、投げる機会があったが、昭和30年代後半から40年代始め当時は ピンに紐が付いており 、弾き飛ばされた後、機械的に、紐を絞り、立てる方式が暫く続き、
日本万博の終わった1971 年(昭和46年)頃から 中山律子さん須田加代子 さん、並木恵美子さん 等のプロボーラーも登場した一大 ボーリングブーム が訪れた頃より、現在どこでも見かける自動式になり、計算も自動的にできるシステムになったと記憶している。
そういえば、昭和20~30年代当時の米国のニュース映画のスポーツ版表紙に、氷の上の石を箒でしきりに掃くシーンが写り、これも暫く「 何じゃろうな??」 だったが、
最近の日本女子 カーリング チームの健闘で、ルールも少しはわかる様になった。
その3 <続>少年に背負われた子は・・・『… August 11, 2018
その2 少年に背負われた子は・・・『俺… February 18, 2018
その1. 少年に背負われた子は・・『俺だ… February 18, 2018