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昭和20年代当時から、また現在でも、綿々と、核実験や原水爆の問題は、当時のH氏ら子供達を含めて日本人の意識にしっかり植え付けられていかなければならない・・。
「 原爆の子
」という映画も1952(昭和27)年公開され、この映画は小学校からクラス単位で、行く時は遠足気分で歩いて街の映画館に見に行った・・・。
舞台は同じ1952年の広島。原爆投下時広島におり、家族の中で一人だけ生き残った石川孝子( 乙羽信子
)は、瀬戸内海の小島で教員をしている。当時勤めていた幼稚園の園児達の消息が気にかかった孝子は、夏休みを利用して七年ぶりに広島を訪れた。
あたり一面焼け野原であった広島の町は、恐るべき速度で復興しているかのようだ。孝子は、幼稚園での同僚、旧友の夏江から園児の住所を聞き、中学生になっている彼らを次々と訪問してゆく。
そんな 出だしから始まった映画だったが、モノクロ映画とはいえ、回想シーンの掛け時計の針の進行とともに、運命の昭和20(1945)年8月6日 時計が8時15分の時刻を示し、 ピカドンの閃光が館内の全員の目をくらまし、その後の悲惨な光景は、すさまじかった・・・
小4のH氏らにも、擬装体験・・というか、実体験に近いショックを与え、「 嗚呼、原爆許すまじ
」の精神全てはこの映画から受けた無残さに対する本能的なおののきと怒りから、始まっている。
この意識は被爆国として次世代に伝えるべきことが山のようにあり、恐れずに云えば、その折に唯一度しか見た記憶がないが、この映画こそ風化させずに、
ヒロシマ平和映画祭
等でのローカル上映だけでなく、世界中で何度でも、幾たびでも、再上映し、再鑑賞すべき映画かも知れない・・。
改めてWEBで復習してみると
『 原爆の子
』は、いまだ原爆投下の記憶も生々しい1952年の広島をオールロケで描いた、 新藤兼人
の第二作目である。 当時、敗戦国日本では、当然アメリカ批判に繋がる「原爆問題」はタブーであった
。
新藤は、誰に気兼ねするでもなく自由に映画制作をする為に、自主制作の道を選んだのであった。脚本も、本来シナリオ・ライターである新藤自身によるもので、原爆を被災した広島の子供達が綴った作文を元にしている。
元宝塚で大映のスター、” 百万ドルのえくぼ
”と云われた 乙羽信子
の自主的参加や、広島市民からの盛大な応援の後押しを受けたこの低予算映画は、現在に於いても、「原爆」を知る上でかかせない重要な作品である。
中川敬のシネマは自由をめざす!
より
続いて、関連映画として「 第五福竜丸
」
1954(昭和29)年3月1日午前3時42分、 静岡の焼津港
を拠点とする 遠洋マグロ漁船・第五福竜丸
は、中部太平洋マーシャル諸島にあるビキニ環礁付近で操業中に、アメリカの水爆実験による高濃度の放射性降下物(死の灰)を浴び、全乗組員二十三名が被爆した。
夜明け前の暗闇の中に乗組員達が見たのは、天に立ちのぼる 白黄色の大きな火柱
。天空はやがて赤く染まり、船員の一人が叫ぶ。「 太陽が西から出た
!」。その数分後、大爆音による振動とともに、異様なキノコ雲が西方に浮かび上がる・・・。
この事件は、第五福竜丸が被爆の二週間後に焼津港へ帰港した際、当時、日本はもとより世界中の人々を震撼させる大ニュースとなった。
同時期に出漁して帰港した、他の漁船の 原爆マグロ
も問題になり、クレーンで吊り下げられたマグロを ガイガーカウンター
で調べているニュース写真が、連日続き、日本人の心を「またか!」の思いで、暗くした。

この映画は昭和34 (1959年 ) 年 「原爆の子」と同じく自主制作した監督 新藤兼人
にて封切され、小倉馬借町にあった「 大洋映画館
」に母と見に行った。
日頃 「映画を見に行こう!」等と余り云わない多忙な母が、H氏をダシに誘って見に行った位だから、相当怒っていた訳で・・・
映画で、水爆症の為、やせ衰えた最年長の乗組員の通信士 久保山愛吉
氏を 宇野重吉
が演じ、病室で「 原水爆の被害者は私を最後にして欲しい」
と口ごもりつつ、言葉を遺す演技は迫真に迫り、今思い出しても、胸を打つ・・。
同じく 中川敬のシネマは自由をめざす
! より
追記) 新藤兼人監督の 「
映画 第五福竜丸 について語る!」
というWEBがありますので、H氏の舌足らずな話より、ずっと面白いので、ご興味あれば、是非ご覧下さい。
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