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元禄七年閏五月二十二日、膳所の曲水宅を辞した芭蕉はその日の夕刻には去来の待つ 京都落柿舎に大方四年振りに草鞋を脱いだ 。
そこには去来を始め 先に大津の乙州宅まで出迎えた支考・丈草、それに素牛や、 大阪からは柳 行李を片荷に、もう片方に芭蕉の好物の真桑を京の町で買って背負ってきた 洒堂も顔を揃え、久しぶりの再会を喜ぶ弟子達と旧交を温めあい、早速歌仙が興行された。 その折の句に 柳行李片荷は涼し初真桑 ( やなぎごり かたにはすずし はつまくわ) 。

江戸の一部の門人達 わけても 江戸の 今風
点取り俳諧業界
で 今や時めく高弟 其角 らと違い、
そこには芭蕉に心酔しきった門人との 有無相通ずる会話のなかでの句会に、芭蕉はどれほど癒され、心中密かに 「住むは関西、わけても大津こそ・・」と心に決めた事だろう・・
思えば江戸では 、 将来を嘱望した 甥の桃印が看病むなしく長患いの末 元禄六年三月、享年三十三歳で亡くなり 、 諸々の煩わしさに 、 「閉関の説」を書いて、八月中旬まで芭蕉庵の門を閉ざしたが
続いて同月下旬 愛弟子の 嵐蘭まで鎌倉で客死し 、 度重なる不幸事や、俳風ますます乱れる江戸で気力の萎えた芭蕉だった ・・。
此処 関西でも、門弟間で いさかいがない訳でなく、大津での医業をたたみ、 大阪で 俳諧師を生業にした洒堂と先業の之道との間で勢力争いの確執を起こしており、
その席でもぼやく酒堂をみかねた、面倒見の良い芭蕉はその仲裁にいずれ大坂に赴くことを約束したことだった。
が 思えばそれが最後の道行きになろうとは・・・
しかし、不幸はそれに留まらず、江戸に残した、芭蕉の伊賀での幼馴染で愛人だったといわれる寿貞尼が 、 江戸芭蕉庵で六月二日亡くなり、その訃報が落柿舎に届いたのは、八日のことで、
江戸表から同行させた寿貞尼の子 二郎兵衛 を慌しく旅支度させ、 「 何事も何事も夢まぼろしの世界」 と、 落柿舎門外まで見送る芭蕉の背中は深い寂寥感を漂わせ、
見守る弟子たちは掛ける言葉もなく、共に並んで 二郎兵衛の 道中の無事を見送るだけであった。
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