全2件 (2件中 1-2件目)
1
『週刊金曜日』1/27号に、ぺぺぺの会 ぶいの「ぺ」公演『斗起夫 ―2031年、東京、都市についての物語―』の劇評を執筆。
Jan 27, 2023
心の安寧を保つ処方箋 新型コロナ禍による過度な感染の忌避は、人々を生活圏内への自粛に追いやり、社会経済活動の縮小を余儀なくさせた。加えてロシアによるウクライナ侵攻によって、戦禍による人道的危機はもとより、第二次世界大戦後に築かれたルールに基づく国際秩序も揺らいでいる。また安倍晋三元首相の暗殺事件は、白昼の選挙期間中に銃撃されるという、およそ現代日本では想像だにしていなかった出来事であるだけに、日本中に衝撃が走った。その後には、社会学者・宮台真司が暴漢に遭う事件も起こった。2つの事件は、日本の安全神話がテロリズムの勃発によって崩壊したことを印象付けた。こういった事象のニュースに日々接していると、生活圏、地域圏、国家、世界と範囲をどこまで広げても、人間は危険と不安から逃れられないのではないかと思わされる。本来は別個の問題が、〈危機〉という一点で連続して起き、倍化しながら加速度を増して我々の日常を侵食しているように感じさせられるのだ。 いいへんじの2本立て公演を通して、私は「令和の都市劇」が展開されていると強く抱いた。2作品に登場する人物は、上記のような不確実性が高進した世界を背景に、不安を抱えながら生きている。そのような中でいかに心の安寧を保つか。コロナ禍の3年間には、有名芸能人の自死もたびたび報道された。2作品は現在の大きな課題のひとつである心の問題への、取り組み方と癒しを観る者に与えたのである。 『器』(作・演出=中島梓織/2022年6月/こまばアゴラ劇場)は、誰もが精神疾患になり得ることを示唆しながら、それでも恐れず自己対話を行うことを促す作品だ。自分を深く見つめることで、見守り支えてくれる他者との関係の修復も見出されることになる。本作では、精神に不安を抱く若者が暮らす3つの世帯が描かれる。それぞれに顔見知りであったり友達同士であるため、3つのグループはゆるくつながっている。3つの世帯で暮らす人々を素描してみよう。まず1人目はカズキ(宮地洸成)である。新卒の就活に失敗した彼は大学卒業後の1ヵ月間、無為な生活を送っている。生活費用は同居する恋人・カナコ(松浦みる)に頼っている。2人目のサキ(波多野伶奈)は、登録者数4000人のチャンネルを運営する配信者である。ほぼ毎日、深夜に配信を行っており、カズキもたびたび参加している。後にサキとカズキは高校の同級生だったことが判明する。3人目のハル(竹内蓮)は3年前まで引っ越し会社で働いていたが、現在は弟のショウ(藤家矢麻刀)と同居して生活費を頼っている。ショウはカズキとカナコの共通の知人である。カズキはカナコの出勤を寝ながら見送り、16時に起きてからようやく頼まれていた買い物のためにスーパーに行く。ハルもショウに頼まれていた食器洗いと洗濯物の取り込みを、彼が帰宅するまで放置する。サキの生活風景は描かれないが、似たようなものだと推察される。3人共に、社会生活を営む気力を失った状態で生きているのである。 彼らをそのようにさせているマイナス思考・不安・鬱といった要因や症状が、擬人化されている。これが本作の特徴である。本作の主軸となるカズキはスーパーの買い物時、子供のように無邪気でいたずら好きのメラン(小澤南穂子)に出くわす。その日以来、メランはカズキの傍から離れることなく、カナコとの生活の間に割って入るようになる。メランはカズキを鼓舞するように様々な言葉を与える。その言葉に奮起されたのか、カズキは改めて就活を再開する。メランの存在をうとましく感じていたカナコも、カズキの頑張りを応援して見守る。だがカズキの就活はことごとく失敗する。力を入れていただけに、その反動でカズキは以前にも増して塞ぎ込むようになり、精神が不安定になってゆく。カナコとの会話も少なくなり、旅行先で二人で作った「器」を割ってしまったことで一線を越え、「死にたい」と泣き出して情緒が崩壊してしまう。 メランがカズキを「一人前の男になれ」などと奮起させるような言葉を投げかけていたのは、実は応援ではなく煽っていたのである。日中に活動を活発化させて疲れさせ、さらに夜も寝かせない。そうすることで気力を奪って衰弱させ、やがて死に至らしめるのが目的だった。メランは、人間に死にたいという感情を醸成させる「死にたみ」として生まれてきたのだ。 そんな「死にたみ」の実践例のひとつが、カズキとサキが喫茶店で合う場面である。久しぶりの再会の場面に、カズキとサキの「死にたみ」であるメランとクラン(飯尾朋花)も、それぞれの後ろに控えて同席する。そこでサキは、クランを前に出してカズキと会話をする。クランを盾にして押し出すということは、サキがそれだけ「死にたみ」を頼らないといけないくらいに精神の不安が進行していることを示す。そのために、カズキがサキを気遣って投げかけた言葉も、盾となったクランによってよりマイナスなものへと変換されてサキに伝言されてしまう。結果的にサキは、誰かを救いたいというのは建前であり、結局は自分の精神安定のために配信をしているだけでしかない。そのように後ろ向きに考えてしまい、その日以来、配信を止めてしまう。 「器」としての人体から切り離され、擬人化された鬱の概念。この「死にたみ」はしかし、先述したように憑いた相手を決して殺すためだけに存在しているのではない。このひねりが本作を奥深いものにしている。「死にたみ」が人間と一対である以上、もしカズキが死ねばどうなってしまうのかとメランは考える。自分が死ぬことは嫌なメランは、「死にたみ」の先輩であるドンク(箕西祥樹)とクランとやり取りを重ねる内に、「死にたみ」の本当の役割は、人間を守ることにあると知る。カズキのやる気を削いで脱力させるのは、今の彼は無理をしていてキャパオーバーであることを気付かせるためであった。まず「死にたみ」から発せられるサインに気付き、真正面から受け取ることができるか。そしてその言葉を、自身を殺そうとするマイナスの言葉ではなく、一旦立ち止まって生活を振り返る戒めにすることができるか。つまり、いかに鬱という自身の精神状態から逃げずに正視することができるかを、人間と「死にたみ」との関係で描いているのである。本作に深みをもたらしているのは、「死にたみ」自身も人間のように存在理由を巡って思い悩み、その果てにカズキと共に歩むという前向きな答えを導き出す点だ。メランが自身の役割を思考することは、すなわちカズキが内省することに他ならない。あたかも肉体と精神を二分するかのように、自己対話を他者との会話のように視覚的に設えている点は、演劇的な仕掛けにもなっていた。 自己対話を経た先にある、対人関係の不安定さを描くのが『薬をもらいにいく薬』(作・演出=中島梓織/2022年6月/こまばアゴラ劇場)である。東京という都市で、疎外感を抱えながら生きる者を優しく包み込み、前向きな一歩を踏み出すための背中を押す作品である。 不安障害を抱えるハヤマ マミ(タナカエミ)は、数週間前にバイト先のカフェでパニックを起こした。それ以来、自宅に引きこもりカフェのバイトも欠勤している。抗不安薬も切らしてしまったため、街に出てクリニックに行くこともできない。そこにバイトの同僚・ワタナベ リョウヘイ(遠藤雄斗)が、生存確認も兼ねてシフト票を提出するよう訪れる。意を決してハヤマは、羽田空港まで付き添って欲しいとワタナベに告げる。今日は旅行関係の仕事をしている同棲中の恋人・マサアキ(小見朋生)が、2週間ぶりに九州から帰ってくる日で、しかも誕生日である。そのためにサプライズで出迎えたいのだという。戸惑いながらも優しいワタナベはハヤマの依頼を快諾。西荻窪の自宅を出て駅に向かい、中央線に乗るまでの道中が展開する。ワタナベは道中で自分の恋愛を語る。ゲイであるワタナベには同姓の恋人・ソウタ(小見朋生)がいる。同姓カップルゆえの偏見にさらされても自分は気にしないが、ソウタはそういったことを真正面に受け止めて悩んでいる。それでいてハヤマのように恋人へ気持ちを伝える人ではないためにすれ違いが生じ、最近は連絡が途絶えているという。そんな彼らが羽田空港までの道中で人生や恋愛観を話し合って心が解放され、さらにそれぞれの恋愛が前進する過程が描かれる。 本作の核は精神疾患、同姓愛というマイノリティーの側に立つ両者が、無意識の内に自分以外をカテゴリー分けして、偏見や予断を持っていたことが露呈することだ。ハヤマは不安を解消するため、ワタナベに手をつないでもらって街を歩くのだが、その立ち位置がマサアキとは逆だと言う。自分が車道側になってもマサアキは場所を代わってくれない。そしてハヤマは、何事にも無頓着で大らかなマサアキの性格に、いささかの不満を漏らす。その言葉を受けてワタナベは、男性が車道側を歩いて女性を守るという、男女の恋愛を前提にした発言にやんわりと反発する。同様のことはワタナベにもある。中央線の車内で、シートに膝立ちになって窓の景色を眺める娘(飯尾朋花)に、母親(小澤南穂子)が注意をする場面を二人は目撃する。電車はその直後に起こった地震で緊急停車。ハヤマは過呼吸になったために中野駅で降りて休憩をする。そこでハヤマは呼吸を整えながら、さきほどの娘が母親に注意されている様子を見て、まるで自分が怒られているように感じたとワタナベに告げる。「気にしなければいいじゃないですか」と答えるワタナベに、ハヤマは「・・・じゃあ、気にしちゃう、わたしが悪いってこと?」と、むしろ地震よりも怖かったと反応する。2つのシーンは自分を基準に物事の価値判断を行ったり、性別による役割や振る舞いがあるはずだという人間の先入観をあぶり出す。自分にとっては取るに足らない問題だったり当然だと思っていることが、その視線を向けられた当事者にとっては切実な問題になり得る。そのことを恋人ではなく第三者から指摘されることで、彼らは内なる差別を発見し、反省を経て友情を築いてゆく。しかもそれらがさりげなく描かれるので、無自覚さがかえって強調される。この辺の手つきが、本作における人間の掘り下げを深いものとしている。 ハヤマとワタナベの道中と並行して、同時間帯のマサアキとソウタの姿も描かれる。ハヤマとワタナベは互いの恋人の顔を知らない。しかしマサアキとソウタを演じる俳優は同一人物だ。小見はキャップの色やスーツケースの有無という、ワンポイントを変えただけで早変わりする。そして明るくコミュニケーションに長けたマサアキと、うつむき加減で表情が乏しくハヤマと同じクリニックに通院しているソウタを演じ分ける。性格が対照的な彼らを一人の俳優が演じることで、ハヤマとワタナベが同一人物と交際しているかのような錯覚を抱かせつつ、ハヤマとワタナベを間接的に橋渡しするという演劇的な効果も与える。劇中、それぞれのカップルのやりとりが回想されて2組の関係性や悩みが浮かび上がるのだが、それぞれのカップルの距離感はそのまま先述したハヤマとワタナベとの齟齬に重なるように描かれている。すなわちハヤマにとってワタナベは、性格的にマサアキに近く、ワタナベにとってのハヤマは精神疾患を抱えているという意味でソウタに近いのだ。つまりハヤマとワタナベは、互いにそれぞれの恋人を投影しているように見える。だからハヤマとワタナベの齟齬とそれを発見した上での反省は、本来のそれぞれの恋人との関係の修復の布石、あるいはレッスンとして機能している。 自己と向き合うことを促す『器』から、他者との理解を深める『薬をもらいにいく薬』。これらは生き辛さを感じた時にこそ思い出したい、「薬」のような作品であった。舞台上の俳優も現在進行形で思い悩んでいるように立ち振る舞う。その総体が、観客とフラットな関係性を築いた。2作品に都市で生きる辛さを包摂する優しさがあったのは、創り手にとってもそのことが切実な問いだからである。「国民国家」から降りる方図 ニットキャップシアター『カレーと村民』(作・演出=ごまのはえ/2022年8月/こまばアゴラ劇場)にも、精神を崩した人間が出てくる。この場合は、ベトナム戦争やイラク戦争から帰還したアメリカ兵にも見られた、PTSD(心的外傷後ストレス障害)などの精神障害である。日露戦争に海軍兵として従軍した若者の潮(澤村喜一郎)は、戦争の影響で耳が聞こえなくなってしまう。従軍時のトラウマがフラッシュバックした彼が、敵の発見から艦砲射撃へ至るまでを、取り憑かれた様に再現するシーンがある。潮は他の登場人物たちに指示を出して妄想に巻き込む。真っ赤な照明の中で、無感情ながらもテキパキと作戦をこなす潮と、戸惑いながらも同僚の兵隊を演じたり砲弾になったりして妄想に参加する登場人物たち。「異常」に「正常」が絡め取られてない交ぜになる舞台後半に訪れる光景は、関西弁のゆるい笑いと共に展開してきた本作の空気を一変させる。このシーンは戦争がいかに従軍した者を変えてしまうか、そして日常生活を営む人間を、緊迫した環境に動員してしまうかを視覚的に表現していた。 潮は死なずに日本に帰還したが、日露戦争での日本側戦没者は、病死を含めて8万人を超す。お留(山下多恵子)の息子やオマサ(越賀はなこ)の孫を含む大勢の若者が、日露戦争で戦死した。他に身内がいない彼女たちは、大阪府吹田村(現吹田市の一部)にある浜家で、それぞれ従業員や奉公人として身を置いている。大阪府北部に位置する吹田市は明治以降、アサヒビールの前身である大阪麦酒が創業した地である。現在もアサヒビール吹田工場があり、「ビールのまち」として栄えた。浜家は庄屋(名主)であり、水路でビールを大阪や神戸に運ぶ問屋である。実質的に日露戦争に勝利した大日本帝国は、ロシアと結んだポーツマス講話条約において、樺太の南半分の割譲や、満州南部の鉄道と領地の租借権を獲得。しかしロシアからの賠償金の支払いは得られなかった。この決定を受け暴徒化した国民が起こした日比谷焼打事件は有名だが、抗議運動は全国各地で起こった。本作はその大阪での国民の反応を描く群像劇である。その姿を通して、国民国家を問い返す射程を有している。 戦争は人々にナショナリズムを焚き付け、国家としてのまとまりを再認識し強化する究極の行為である。領土拡張のため、はたまた国内の経済や人権問題の批判からを目を背けるためだったりと、その内実は時々の情勢や国家体制によって様々であろう。いずれにせよ何かしらの大義を名目にした戦争は、政府による国民の垂直統合として機能する。ロシアによるウクライナ侵攻とはまさにそのようなものである。また2022年も相次いだ北朝鮮からのミサイル発射や核実験、中国による香港に続く台湾併合への懸念もしかりだ。そしてこれら東アジア情勢の緊迫を理由に、2023年度から5年間の防衛費をGDP比で2%の総額約43兆円にしようとし、反撃能力の保有を決定した日本の防衛力増強も同様であろう。しかしナショナリズムの高進は何も上からの統合だけではない。時にボトムアップの格好で国民の側が突き上げ、好戦的な方向へと突き進むしかない状況へと、政府の行動を縛ることもある。そして国民の政府に対する不満の声を、もはや沈静化が不可能なまでに拡散し累乗化する役割を果たすのが、各種メディアである。太平洋戦争開戦の責任は決して政府だけにあるのではない。好戦的だった国民とメディアが一体となって、そうせざるを得ないまでに政府を突き上げたことは歴史研究において指摘される点である。そして新聞社や交番が焼き討ちに遭った日比谷焼打事件も、条約交渉で「弱い政府」への、国民の抗議であった。これらの動因には一貫して、近代の欧米に始まって明治政府も倣った、「国民国家」の概念の確立が見て取れる。ここで言う国民国家とは、国境線で区切られた領土という名の「国家」に、民族的なルーツを共有し連帯する「国民」が誇りをもって住まうという意味である。だからこそ、この国民国家をより大きくそして強固なものにすべく、大国がこぞって他国を侵略してまでもそれを達成しようとする帝国主義がはびり、その結果、20世紀という「戦争の時代」に至ったのである。 本作においても、浜家の玄関口に集まった人々は、日清戦争で勝ち取った賠償金(3億円)の300倍は確実などと期待する。彼らは講和の内容が記された新聞を読み上げる当主・浜太郎(福山俊朗)に視線を集め、固唾を飲んで聞き入る。だが実質的な領土の獲得が樺太の南半分だけであり、賠償金が日清戦争に勝利した際の半分である1.5億円に留まったことが明らかになる。すると彼らは東京の動きに同調して、政府への抗議集会を計画。浜太郎に5円の金を出させた上で、帰還兵である潮を弁士に担ぎ上げようとする。それを嫌がって浜家に逃げ込んだ潮を、人々がしつこく追いかけ回し、それによってパニックを起こした彼の採った行動が、先述したフラッシュバックのシーンなのである。一連の展開は、一方向へと流れる国民の行き過ぎたナショナリズムを映し出す。 そのような人々の中で、注目すべき人物が2人いる。オマサと庄屋の次男・次郎(門脇俊輔)だ。女学校に通っていたアキ(山下あかり)は、選挙権を持った一部の男性が国を間違った方向に向かわせている。二度と戦争は嫌だと言うアキは、そうさせないためにも国民に等しく選挙権がほしいと述べる。それを聞いたオマサが「国民」という言葉に拒否反応を示して取り乱す。オマサは言う。ロシアが憎い以上に、日本が敵であると。なぜ弱々しかった孫が戦争に行き、戦死しなければならなかったのか。大日本帝国がロシアと戦争したからである。そして国家に属する国民である以上、孫は徴兵制度によって国に奉仕する義務が生じるからだ。村単位の小さな共同体で静かに暮らしていた家族が、国民国家の原理によって有無を言わせず国に道具のように使われる理不尽さを、オマサは吐露する。ほうきを手に暴れまわるオマサの姿からは、国民ではなく「村民」として生きたいという、市井の人間の素直な願いと怒りの発露が込められている。 世代がぐっと若く、出自も生き方もオマサとは全然異なる次郎も、彼女と同様の思想を持っている。それだけでなく、その思想を体現してしまう。イギリスに3年間も留学していた次郎は、弱々しくて女性に優しいと自認する。一方でハイカラで理知的な彼は、講和条約に不満を持つ人々の怒りを理論的に説得して収めてしまう。その弁舌の鋭さゆえに、人々から潮に代わって弁士を要請されるほどである。しかし彼自身は政治運動には興味を持っておらず、そればかりか社会の役に立たない、人間の屑として漂って生きることを宣言する。実は次郎はアキと恋愛関係にある。彼のイギリス留学は、次郎の実母・まん(日詰千栄)によって、二人を別れさせるために仕組まれたことだったことも判明する。しかしアキは次郎を想い続け、3年間も彼の帰国を待ち続けた。そんなアキとの間に隙間風が吹くと、次郎はあっさりと彼女と別れてしまう。そして次郎に興味を持つ、奉公人の娘・ネ(高原綾子)と駆け落ちして姿を消してしまう。次郎は雑誌『ホトトギス』に、「吾輩は猫である」を発表して小説家デビューした夏目漱石に憧れを持っている。洋行帰りで微温的な性格の次郎は、まさに猫の目線で人間世界を俯瞰する漱石の小説世界に相応しい。そして野良猫のように、根無し草で漂う生き方を実践してしまう。その行動は、名家を含めた共同体からの出奔である。明治期に確立した家父長制とは、家長である家父の下に家族がまとまり、やがて長男が家を継いで行く男性優位の制度である。そのような無数の家庭が、天皇を父に頂く子供として大家族を形成することが、大日本帝国以来の我が国の国家と国民の関係性の規範とされてきた。そういう意味で、駆け落ちで名家を捨てる次郎の行動は、積極的に国家から降りることを意味する。国家や世界的に軍事的緊張が高進する現在にあって、次郎のような生き方こそが唯一、そのような動きに振り回されずに人間が個人として生きる道ではないか。そのことはフェイクニュースが飛び交うSNSなどに翻弄され、個人としても鬱へと晒されがちな社会から逃れる手段でもある。 もう一点、本作で言及しなければならないのはカレーである。抗議行動への賛同を求められた太郎は、5円を拠出するが、大金を相談なしに持ち出したことで、妻のお茂(仲谷萌)に叱られてしまう。気分を変えるために「何かピリッとしたものが食べたい」との太郎の言葉を聞いた薬屋(池川タカキヨ)が、カレースパイスを提供する。本作のラストシーンに、アキを見送るためのパーティーが開かれる。彼女はまんの資金支援によって、東京の女学校に再入学することになったのだ。そのパーティーで、登場人物たちはスパイスを使ってカレーを作って食す。だが調理の過程で、彼らは日本人の口に合わないなどと、味噌を追加したり具に厚揚げを入れたりして、結果的に味噌汁のようにしてしまう。 本作におけるカレーは太郎が言ったように、当初は食べた者をピリッとさせて覚醒を促すためのものであった。それによって目覚めた人間が、暴動といった手段ではない方法で政治に影響を与えて、国家全体をピリッとさせる。つまりカレーは、批評アイテムとして機能すべきである。しかし彼らはピリッとするどころか、自分たちの口に合うように日本風にマイルドにしてしまう。欧米に倣って外国から最先端の制度や文化を輸入しては、自国風にアレンジしてきたのが日本という国である。それは日本という国の強化や因習の延命になりこそすれ、根本的に変革することにはつながらない。そのような性格ゆえに、明治以降の日本は帝国主義的拡張路線を突き進み、第二次大戦の敗戦へと至る。しかし敗戦から70年以上経った今、軍備の拡張を推し進めようとする現状を鑑みた時、歴史の繰り返しを見ているような気分になる。 アキはオマサに、しっかりと勉強して日本を良くするために努めたいと言う。その際、オマサから「はぁ?」と返答されて、何とも言えない微妙な表情を浮かべるアキが印象深い。国の未来を若者に託そうとするまんと、その期待に応えようとするアキの関係性は、親から子へと受け渡される、持続的な国の発展の縮図である。この構図は一見、崇高に感じられるかもしれないが、そのことは結局、国民国家の連帯を強めて補強するという、家父長制の維持でしかない。「国民」としてくくられることを拒否するオマサは、そのことを見抜いているからこそ、呆れた反応をアキに示すのである。追いつけ追い越せで明治以降、現在もなお維持されている国民国家の制度や日本人のメンタリティ。カレーのみそ汁化は、そのような国家の現状を示す象徴である。したがって国家と国民をピリッとさせることに失敗するカレーは、それら全体をメタレベルで批評する、高度なアイテムとして機能している。だからこそ、本作で描かれる劇世界は明治時代のものではなく、現在であり、そして未来の映し絵なのである。母なる国家からの逃れ難さ ナショナリズムを動員しながら国家と国民が互いに統合を求め、補完し合う国民国家という関係性。そのいかがわしさと不自由さに対して、オマサと次郎は国家や国民なるものから積極的に降りようとする。精神的に国家に依存しない生き方は、本当の意味での自立した個人としての力強さがある。しかしその一方で、国家が人の生を支える強い吸引力があることも事実だ。したがって、精神的な支柱なしに生きようとするには、孤独と不安に耐えなければならない。ぱぷりか『どっか行け!クソたいぎい我が人生』(作・演出=福名理穂/2022年11月/こまばアゴラ劇場)は、個人=孤人を目指すことの困難を家族の問題として描く。タイトルにある「たいぎい」とは、「面倒くさい」といったネガティブな意味を指す広島弁の方言である。本作を通して、人はどこかでたいぎい国家なるものから離れがたく、そしてどこかで求めて寄りかかって生きていることを痛感させられた。 広島県のとある住宅街のアパートの一室が主な舞台。パート勤めをしている赤木かすみ(占部房子)は、大学3年生の娘・初衣(岡本唯)と2人暮らしだ。かねてよりスピリチュアルに傾倒しているかすみは、パワーストーン付きのブレスレットを収集したり、タロット占いなどに凝っている。かすみの弟・宮本将太郎(富川一人)の妻・紗々子(林ちゑ)にも、それらを指南して影響を与えている。かすみがスピリチュアルに傾倒したのは、病気になった母親の面倒を見るために近くに引っ越したことと、優しくて働き者だが金遣いが荒い夫の存在があった。心身の疲労をスピリチュアルに求めたかすみは、夫に運気や金運を上げるべく口出ししすぎたために離婚された。そんな過去を持つかすみが、強迫観念に苛まれてスピリチュアルへの依存をますます強くしてゆく。そして初衣は、強く束縛するようになったかすみからいかに逃れるか。母と娘の相克と和解が物語の筋である。 かすみに強迫観念を植え付けたきっかけは、近所の住宅で発生した殺人事件にある。かすみの中学時代の同級生だった女性が、付き合っていた彼氏を殺害したという事件だ。そして容疑者の弟は、将太郎と同級生であった。身近でかつ家族構成の似た家庭で起きた殺人が、かすみに自身の家族への危機を抱かせたのであろう。自身が襲われる悪夢を見たかすみは、その人物が元夫であり、娘を奪い去りに来るのではないかと警戒するようになる。家中にハサミやカッターナイフを仕込み、スタンガンまで常備したかすみは、娘を守ると称して初衣を束縛。初衣にジュエリーショップでのアルバイトを辞めさせて、なるべく家にいるようにさせる。他にも家の気の流れを良くすると言っては、何かと家中をくまなく雑巾がけしてファブリーズをまき散らす。挙句の果てには、初衣から誕生日祝いでもらったルビーのピアスも、苦渋の末に捨ててしまう。捨てられたピアスを見つけた初衣から激しく咎められたかすみは、これを付けた日に件の殺人事件が起こり、そして弟夫妻が交通事故に遭ったために縁起が悪いのだと述べる。強迫観念がもたらす妄想が膨らみ、それを払拭するためにスピリチュアルにますますのめり込むかすみに、初衣は激しい嫌悪感を抱く。 本作はかすみを中心とする家族以外の唯一の人物として、柴田大志(阿久津京介)という若者がいる。かすみの職場の後輩である大志は、写真家を目指しての上京を控えている。かすみと殺人事件について会話する内に、大志は幼少時に母親から暴力を振るわれていたと身の上を吐露する。かすみは大志の誕生日を近所の焼き肉屋で祝った後に、彼を家に上げて初衣たち家族に紹介し、何度も「かっこい」と褒めてブレスレットをプレゼントする。かすみは、大志に男として見ているような振る舞いである。初衣はそんな大志に母親の束縛の強さを相談する。すると数日間、写真の修行で東京に行くという大志は、ディズニーランドを初めとする東京観光を初衣に勧める。そのことを知って「ママのこと置いてくんじゃね」と言うかすみは、かつての態度とは一転させ、初衣を迎えに来た大志にスタンガンを向けて追い出そうとする。それを目にして、初衣は母に対する嫌悪感がピークに達する。 数日後、かすみから離れた初衣が東京観光を終えて帰宅する。その際にかすみがいないことに動揺し、家中を探し回る。しばらくしてから、散歩に行っていたというかすみが、不思議に落ち着いた様子で娘を出迎える。かすみの様子が変化した理由は、元夫がガンで死んだことにあった。強迫観念の元凶が取り払われたことで、かすみは憑きものが落ちたように穏やかになり、「意地張らず会わせてやりゃあよかった」と後悔の念を口にする。初衣は東京で買い直したルビーのピアスをかすみに渡す。そして大学卒業後に上京し、宝石関係の専門学校に行きたいと言いう初衣の希望に、かすみが同意して幕となる。 本作のポイントは2点ある。かすみが強迫観念を抱くようになった理由と、かすみが象徴する母=故郷の郷愁から逃れ難い娘という構図である。まずは、かすみが強迫観念を抱く理由について考えてみたい。きっかけは、近所で起こった殺人事件である。だが事件そのもの以上に、事件を起こした家庭と、かすみの家族構成が似通っていることの方が大きいのではないだろうか。すなわち犯人の女性とその弟が、かすみと将太郎と同級生であるという事実である。身近に住んでいる顔見知りの家庭で殺人事件が起こった。加害者は、被害者から強迫された末に殺害に至ったらしい。そのことからかすみは、元夫から強迫されて、初衣が連れ去られると連想したのかもしれない。そして何かのきっかけさえあれば、同様の殺人事件は自分たちの家庭で起こっても不思議ではなかったかもしれない。たまたま事件は同級生の家庭で起こっただけで、初衣を巡ってかすみか元夫が犯人となる殺人事件が起こらないとも限らない。今生きて家庭を維持しているということが、実は人智が及ばない偶然である。つまり生と死の境はまさに紙一重であり、不可抗力に身をまかせるしかない。そのように思うからこそ、かすみはとりわけこの事件にショックを受け、可能性としての自身の家庭を重ねた上で、元夫が娘を奪いに来るという強迫観念に駆られたのではないだろうか。そしてどうしようもない強迫観念を取り払うべく、彼女はますますスピリチュアルにのめり込むのである。 昨年の夏以降、旧統一教会の問題が話題になっている。これを受けて、昨年の臨時国会では被害者救済法案が成立したが、マインドコントロール下にある者の献金を禁止することはできなかった。内心の自由に踏み込んだ禁止規定を法律で規定することに対する、憲法上の問題が壁になったからである。しかし、そもそも個人がマインドコントロール下にあるか否かは、第三者はおろか、進んで高額献金をしていると思い込んでいる本人にとっても判別は困難であろう。だからこそ、良かれと思って献金を行ってのめり込んでいる者を、第三者が「会心」させることもまた困難なのである。家族の幸せを願いながら、強迫観念を高進させてかえって娘を束縛してしまうかすみと、そんな母の抑圧から逃れようとする初衣。旧統一教会問題を想起させられる二人のすれ違う関係を見ると、彼女たちから滲み出る不幸や苦労の根底には、人間が主体的に物事に関与する余地のあまりの少なさと、それ故に偶然性にまかせるしかないという、生の予測不可能性というものが透けてくる。 だからこそ、偶然性に左右されて恐怖や強迫観念を抱き、スピリチュアルに傾倒するかすみを救うのもまた、元夫の死という偶然がもたらすのである。かすみの変化には、スピリチュアルからの脱却に努めた自身の努力や、母に送ったプレゼントを破棄された初衣の悲しみが伝わったといったことではない。すべては偶然である。しかし起こってしまった事実が変更不可能である以上、事後的に見ればそれが起こるべくして起こった必然だと見なすしかない。そういう意味でも彼女たちを救うのは、偶然という名の運命の神としか言えないものであり、良くも悪くも人はそこに身を任せるしかないのだ。 そのような「恩寵」によって、初衣もまたかすみの束縛から解放されて、未来が拓けるのである。母と娘の相克と和解を描く本作が、単なる親子物語に見えてそれに終始しないのは、見えざる神の存在を背景に感じさせるからである。そのことは、人が運命の神から逃れられないように、子供の支柱としての親からの自立は本当に可能なのか、という第2の本作の特徴を浮かび上がらせる。過去に母の病気のために近くに引っ越したかすみ自身も、母なる故郷へと吸引された者である。かすみがスピリチュアルへと傾倒する素地の大本は、母からの自立を果たせなかったことに起因しているのかもしれない。だからこそかすみは、初衣も自分のように母の傍から離れるとは考えていないのである。子供は親との対立を経て自立を果たすと言うのは一般論だが、一方で母に代表される故郷や国家といった個人を包摂するものが、人間の孤独な生を支えてもいる。東京には人がたくさんいて、自分が目指す宝石業界の仕事もたくさんある。そのようにして東京に憧れを抱く初衣だが、いざ完全な孤独に放り出されたらどういう生が待っているのだろうか。東京に憧れを抱くことができたのは、時に束縛する面倒な母の保護という、安全地帯に自分がいたらからだと痛感する日がやってくるかもしれない。その時、孤独な生にある者は、切っても切り離せない母=故郷が恋しくなるのではないか。それはそのまま、国家や民族的アイデンティティーによっでまとまる、あの垂直統合まではすぐそこである。 強迫観念から逃れたかすみと母の束縛から解放された初衣が、しんみりと会話を交わして終わる本作は、一見すればハッピーエンドに思える。しかしこの時の彼女たちは、良くも悪くも自身の拠り所となっていたスピリチュアルや母という、偶然性に左右される生の不安を糊塗していた支柱を失い、丸裸になっている。それゆえに無垢な美しさを感得させはするが、新たな恐怖に晒される未来を想像させもする。本作が一筋縄ではいかない作品に仕立てているのはこの点である。そのことは演出面でも随所に強調されている。そ強迫観念に掻き立てられたかすみが、突然出てきた手に首を絞められて殺される悪夢の視覚化や、客席に向かって床に置いた2台の照明を強烈に照らすことで車のヘッドライトを表現し、将太郎夫妻が交通事故に遭う瞬間のシーン。不穏を掻き立てる演出が、人間の不安定さというトーンを、舞台全体に印象付けていたのである。共感に支えられたコミュニティが鬱から人を救う ここで話は元に戻る。初衣はかすみから自立して上京しても、支柱を失って丸腰のために思い悩むのではないか。そう私が想像したのは、上京した初衣がいいへんじに登場する、都市生活者の若者たちにつながったからである。いいへんじの2作品に登場する若者たちを救うのは、ここでは同じ境遇にある人々を包摂するラジオ番組であり、誰もが持っている「死にたみ」とのコミュニケーションを促すことだ。 それらをこの2作品では、物語を包摂する大枠としてそれぞれ設定している。『器』における劇冒頭のメランによるモノローグと、『薬をもらいにいく薬』におけるFMラジオ番組「Cross Voice Tokyo」である。前者では、生まれたばかりのメランが客席に向かって、「みんな」に自分の姿が見えているかを聞き、そして観客からの反応がないこと=見えていないことを確認してモノローグを喋る。もちろん俳優が舞台上で喋っているのだから、観客にはメランの姿は見えている。観客がメランの姿が見えていない体裁を採った上での、これは演劇的な台詞である。メランの台詞は、作品全体を追った上で改めて噛みしめると示唆的である。つまり観客にメランの姿が見えていない(ことになっている)とは、我々もすでに大小さまざまな精神の不安定さを抱いており、それぞれの内にある「死にたみ」=メランに気付いていないことを示すからだ。観客がメランの姿が見えない前提で語りかける劇冒頭で、すでに作品の核が描かれているのである。 後者では要所要所で、メールテーマ「今日だけわがまま言ってみよ」に送られたメールが、パーソナリティーとアシスタントの軽妙なやりとりと共に読み上げられる。ハヤマの「わがままを言いたいというわがまま」、ワタナベの「恋人と一緒に大きな一軒家に住んで大きな犬を飼いたい」というメールも、番組内で紹介される。FM番組は彼らのような、東京の片隅で生き辛さを抱える者の声を掬い上げる。小さく個的な悩みであるため、他者には受け止めてもらえないと半ば諦めながら、鬱々とした生を送っている者は都市に数多くいる。FM番組によって舞台の射程が拡がり、観客を含む都市に住まう人々を包摂する。 我々は究極的には、国家や資本主義からは逃れ切れないのかもしれない。いや、逃れたと思い込んで、あえて孤を貫くことがあり得べき振る舞いなのかもしれない。とはいえ紙一重の不可抗力に左右される世界に生きている以上、いつまでもそのような生き方が続けられるかは不透明だ。その不安がもたらすストレスは、心身の不調として現れることだろう。その時、かろうじてのセーフティーネットになるのは、他の人も同じだと共感し共有する場の存在である。国家や家族といった個人を束縛し不自由にするものではない、第三者的でありながら苦しみに寄り添い合える場でゆるく人とつながるということ。不透明な世界を生き抜くには、そのようなコミュニティを手にすることができるかにかかっている。それすらも主体的には手に入れられず、「偶然」にまかせるしかないことがまた、生き辛さでもあるのだが。
Jan 21, 2023
全2件 (2件中 1-2件目)
1