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現在形の批評 #53(舞台)楽天ブログ★アクセスランキング・オリゴ党 『虫のなんたるか。』1月21日 TORII HALL ソワレ集団の総意よ、現出せよ劇集団とはひとえに、集団的想像力をもってして華麗なる美と醜のシンフォニーを奏でた作品を生み出す作業拠点のことにほかならない。超資本主義の現代において無名の個人が寄り集まって反-経済的なる演劇活動を行うことはいかにも無力である。わずかな足跡も残せずに登場しては散りゆく離合集散が、いかに我々の与り知らぬ所で再生産されてきたかは容易に想像がつくだろう。明治期、西洋の戯曲と演技スタイルを丸ごと輸入し模倣することでもって「新しい演劇」の確立とした。この演劇との不幸な出会い以降、日本はその関係を根底から見つめることなく維持し続けてきた。90年代に入ってからいくらか国家から助成金が出るようになり、その一つの成果として97年に現代演劇専用の新国立劇場が建設された。開場までの演劇人の反応(国家との関係にいて)をも含め、この劇場の建設は、演劇のマイナー性をいくばくか相対化し、演劇の源基的考察も促した。だが、そうしたところで、ドラスティックに状況を転換するようなものではなかった。ここで今一度、劇団を組織し表現するという特異性の根拠を改めて問い返されねばならない。「美と醜のシンフォニー」が創出されるのはもちろん劇団活動に限ったことではない。作品毎にスタッフ・キャストを集めて公演を行う所謂プロデュース型の方式もそれなりの見せ物として成立してはいる。だが、プロデュース型の多くが企業協賛であったりするためにどうしても話題性、観客動員が先行し、経済主導にならざるをえないため、いきおい作品制作は美学的インパクトを優先させてしまう。演者を華やかにするのがその代表であることは書くまでもないが、そういった「目の欲望」を満たすために物の美学的配置に試行錯誤することと、持続的な小集団活動とは完全に峻別されねばならない。両者を峻別するもの、それは歴史性と呼べるものでしかないだろう。それを意識することは、まっさらな白紙に油絵の如く幾度も色を塗り重ねて行く作業に似ている。その行為自体が歴史となる。そこには完全なる正解はない。それだけでは何事をも語りえない完結した色と色との交じり合った偶然の配合=関係性が織り成す刹那の輝きに堆積の妙が表れるのだ。その二度と再現不可能な妙技ほど多くを語る時はない。また、無名性が武器となる唯一の生命線でもあるのだ。その時、作品の手から自由になった集団的想像力はどこまでも突き進んでいく無限の許容力を得、日常に確かな亀裂を生じさせることになるだろう。「美と醜のシンフォニー」とは単体のものの羅列による絢爛さやスペクタクルではなく、目には見えない一回毎に更新される初発の思想の開示をさすのである。そんなことをオリゴ党の『虫のなんたるか』を観ながら考えていたのは、この劇団が結成15年を迎えるというからである。決して短くはない15年という年月を一つの非営利集団が続いたということだけ取ってみても誇れる要素の一つであり、また今後の転轍期となる時期である。集団の成熟が十全に露呈してくる瞬間とはひとえに、はからずも透けて見える貌を垣間見た時ではなかろうか。つまるところそれこそが劇団の思想の表出なのであり、歴史の重みである。小集団をここまで組織してきた歴史性が齎す強みとは、集団内の関係性が即興的に様々な化学反応を起こし、しち面倒な段階を経ることなく、ある高みへと俳優・スタッフの集中力を瞬間的に導く点だ。それは、内在的コミュニケーションを発揮し得る至福の状態だと言える。しかしだ、鍾乳洞に出入りする様々な人々の人間模様を描くこの作品がいま一つ私の関心を惹かなかったのは、15年におよぶ活動歴を肌身に感じたいという私の動機付けとの隔たりを終始感じたからである。手練手管を尽くして虫と恋愛を絡め、不法投棄問題も登場する物語はどこを、だれを支点にされているのかが掴み難い。空間を二分割して客席を対面式にし、真ん中を横長にして鍾乳洞内の演技フィールドを取っているものの、舞台上に居る役者は戯曲の上で喋ることになっている、対話を交す2者に限られているために出入りが単調。それを目の前で繰り返されることに辛さを感じた。若者の手によって産声を上げたばかりの劇団には、持て余した表現欲の発露の仕方が確立していないが故に、徒手空拳でもって劇場空間を突き破ってどこまでも疾走する。それは暴力にも似た硬くて粗い表現だが、かえって同志的観客の琴線に触れて力へと反転させることがある。それとは違い、今作が初見のこの集団には、15年間で培ったであろう歴史が紡ぎ出した、確固とした貌を見たかったのである。しかし、それは叶わなかった。端的に言ってしまえば、歴史性が獲得させた劇団のスタイルや個性というものが先立った上での作品創造というプロセスを経られておらず、未成熟な、アマチュア芝居と同様の感を抱かされた。厳密に個別作品と集団の理念のどちらが先行すべきなのかは区分けする事はできないが、少なくとも今日に至るまで何を考え何を矜持として守ってきたのかが核となった上で創造されなければ、せっかくの15年という歴史性が無化されるしかない。15周年記念で成すべき事は、己自身の「集団の物語」を見つめるものにすべきだったのではないか。集団の思想をはっきりと共有していかなければ、今後さらに劇団活動を続けていくに際しての懸念材料ともなりかねない。息切れ、惰性というエアーポケットに落ち込まず、劇団が劇団であるために少しは自己言及的になる必要があるのではなかろうか。
Jan 25, 2007
現在形の批評 #52(舞台)楽天ブログ★アクセスランキング・ニットキャップシアター 『お彼岸の魚』12月24日 in→dependent theatre 2nd マチネこの時代における「自分探し」なんといってもこの舞台で終始目を引き続けるのは大仏の存在である。だがその他はいたって普通のマンションの一室。このワンフロアーには上手奥に玄関ドア、上手前にシンクと冷蔵庫があり、二人用のダイニングテーブルがすぐ近くにある。下手にはトイレへと繋がっていると思われるドアと、別の部屋への入り口である襖がある。そして大仏である。真正面奥の引き違い窓のカーテンが引かれると窓外いっぱいに大仏の顔が現れる。日常空間に突然出現した異物としての大仏を登場人物達は景色を遮断する障害物に思いながらも、今や見慣れた様子で受け入れる。しかし観客にとってはそうはいくまい。穏やかなる生活になかなかどうして出くわす事のない大仏の存在を中心に、この舞台を語り出してみよう。「自分探し」というテーマは古くて新しく、それから遁走するしないにかかわらずいつの時代を生きるにせよ全ての人々に差し迫った問題として横たわってきた。それは個々人間が為すべき生き方や世界との関係の取り方が不可視であることら起因する、最上の真理への終わりのない憧れ・追求に追い立てられた、近代的自我を持つ我々の半ば宿命である。古の時であっても神を求め崇拝し、時に対峙して乗り越えようとしてきたのは神という存在が、生きる社会・国家・世界の擬体の証左であり、そこに連結点を探ろうとしてきた点では同様である。すなわち芸術の歴史とはそういった方策を巡る思想の累々たる堆積に他ならないのである。小劇場演劇の歴史を俯瞰してみても「自分探し」がブームとなった時代があった。80年代。この響きと世相・風俗が21世紀にもたらした種々の中に、かつてない経済の飽和状態の先のパースペクティブを見出せず、無常と諦念といった閉塞感を抱いた人間がいた。この時代に多感な青春時代を過ごした彼らは、内閉する人間の第一世代として今日のサブカルチャー社会をかつてないほどに前景化させ且つ、社会化してきた。演劇もまた然りである。「今、ここ」の地点から目をそらし、全く別の理想郷に身を託して夢想する舞台が親和空間を形成し支持されたのだった。身の回りの小さな幸せに人生の機微を見出し、その針の穴ほどの一筋の手がかりを、無限に拡大する想像力で描き出す事で得られるのは、優しく身を包んでくれる安息の場である。となれば80年代の「自分探し」とは、居場所を探すことであったとひとまず言えるのではないだろうか。神をも含めた全ての存在が優しく「私である」事を承認保証する居所としての。ではこの舞台で繰り広げられる現代の「自分探し」劇とはいかなるものか。そこに作・演出のごまのはえが差し挟んだのが大仏だったのである。終始空間に漂うのは、母親の失踪を聞きつけて10年振りに帰ってきた主人公、早良美智子の主観である。母・美和子に関係する親族や美智子の友達といった第三者はいるものの、全ては美智子自身が「私が私である理由」を探る材料でしかなく、さして重要とは思えない。そのことも含め、作品には強く私の関心を抱かせるものが見当たらなかった。関心は抱かなかったが、現代における「自分探し」劇の困難さを見た。なぜなら「自分探し」とは表現材料としてあまりに身近な思想マテリアルであるにも関わらず、その「身近さ」はまた「安易さ」と表裏一体であり、そのことから引き出される答えは「わざわざ言われなくても分かってる」という冷徹な視線の浴びせかけという悲劇が内包されているからである。現代では齟齬をきたしているこの要素を、批評的に描くのではなく時流に遅れた感覚のまま提示した点に、私は関心を抱けなかったのである。大仏投入はいわばそれを避けるための措置なのであり、最終場面、自己内面の世界へと没入を深化させた美智子が発見する、「私は私」という回答を打ち破るように「ではご本人様の登場です!」と大仏が最初で最後の語りを入れた時、「自分探し」にまつわるあらゆる凡庸さをとりあえず相対化させることにはなった。加えて、大仏がそれまでの美智子にはなかった神なる視線である究極の客観性を持ち得たとも見ることもできる。しかし全体的にどうにも腑に落ちないしこりが残るのもまた事実である。舞台を積極的に咀嚼しきれない何か、それはイメージの氾濫が原因ではないだろうか。それを見ていくために劇構造を少しづつ遡ってみることにしよう。示唆的なイメージは多い。舞台が始まってから美智子はしきりに瞼を押さえてマッサージする。居合わせた警官に「眼球歪みますよ」と言われてしまう位。おそらく眼の病気の症状が出ているのだろう。舞台後半、診察を受けた美智子は眼に包帯を巻いて登場する。視覚の遮断は普段意識することのない聴覚と触覚が研ぎ澄まされ、鋭敏になることで見えないものを見せ始めることになる。幼い頃の海の記憶(波の音がきっかけとなる)と共に美智子は自己の内面世界へと旅立つことになるが、と同時に無意識下へと抑圧されていた様々な思いが「朗読者」「関係のない人」達によって吐露される。それまで確固としていた「私」が多種多様な「私」によって多角的に暴き出され、励まされるという段階を踏まえた結果、「私は私」という回答へと美智子は至り、自分のテーマを歌えるまでになる。しかし、その直後、美智子をただただ見つめていたさらに大きな自分=大仏に全てを覆される。ともあれ、視覚の喪失は後半の幻想世界への大きなきっかけにはなっている。また、ボタンがこの舞台には氾濫する。シイラが飲んだ味噌汁の中から発見されたボタンは死者の遺物としてだろうか。それは再び無くしたと思ったら床に落ちてたという思わせぶりなものだ。チヌ子は袋に大量に入ったボタンを床にぶちまける。ボタンは何かの忘れ物のように誰かに拾われる。「この世界からなくなっちゃうなんてこと。絶対ありえないんです。絶対。絶対。見つかるはずなんで。」と言う台詞が示すように、探されるボタンとは「自分探し」のメタファーとして機能していることが分かるだろう。もう一つ、ボタン本来の役割である衣類にしろ、カバンにしろ2つの物を一つに繋ぎ合わせるということに、何が自身にできるのか、世界への関わり・スタンス模索にもなっており、2重の意味が付与されているのである。さらに物語を遡れば、2人の不在の人物が話に挙がる。美和子と鮟鱇江愛子の関係だ。愛子とは小学生時代、美智子になついていたという学年が一つ下の女性であり、彼女がどうやら舞台のキーマンとなっているようなのだが、これが分かるようで分かりにくい。美智子は10年前、母親との相違で家を飛び出して東京へ出てきた。鮟鱇江も全く同じ過程を踏み、今は捜索願が出ているという状況。美智子は劇中、鮟鱇江と親しかったこと、彼女の物まねが一番上手であったこと等が友人から指摘されるが全く覚えがない。果たして鮟鱇江という人物は本当に存在しているのか、美智子と周りの者、どちらの言い分が正しいのかは定かでない。しかし、上演台本に掲載されている『荒木君』という本作の基となったコント台本の内容が、記憶にない人物の噂話がいつしか自分の記憶と取り違えてしまうという作品であることから、この作品においても美智子=鮟鱇江という見方が成立する。しかし、『荒木君』と異なる点は、不在の人物が2人という所である。失踪した母・美和子と鮟鱇江=美智子という図式が成り立つとすれば、美智子は美和子、鮟鱇江いずれの人物でもあるとも言えるだろうし、またいずれの人物でもない(なり損なった)とも言える。あり得たかもしれないもう一つの世界というキーワードは劇中で語られるように、他者の生と自己、現世と死後の世界といった二者択一の狭間で不断に揺れ動くこと、あるいは片方であることに自足し得ず常にもう一方を希求することを示唆させる所に、先述したボタンの機能のメタファーがあるのだろう。同化ではなく異化、相対化した視線を感じさせる。以上、最終的な大仏の視線に直接繋がる主観的な「自分探し」と、それを相対化するいくつかのイメージを見てきたが、この他にも伏線となるものは多々散見される。はっきりと言えば、あらゆる要素が何かを指し示していることは分かるのだが、多すぎる伏線がかえって作品の構造を薄めることはあっても、虚焦点をうまく結ぶことがないためにもやもやした思いが残るのである。大仏の啓示を受けた美智子はラスト、「お母さん。私は死んでません。でも生きてるわけじゃありません。(略)私はきっとあいだにいます。この世とあの世のあいだです。そこで私はご本人様をまってます。(以下略)」と語る。結局、母はオジカ半島なる場所で発見されるのだが、「お母さん。探さないで下さい」と拒否の姿勢を取って会いに行かない選択を取ることで、アイデンティティの帰結先としての母(胎内回帰)からも、「私は私」という一旦解決を見た結論からも放り出されて曖昧模糊たる立場となったまま幕となる。観客にすっきりさせないイメージをイメージのまま提示させる終わりである。これをどう捉えるかがこの作品の評価を二分するところだろう。現代における安住の地などどこにもなく、自己の証明とは見る、見られるの相対関係でしかさぐることができないことを、大仏という存在を象徴として可視的に据えたと見るならば、私はその一点については大いに肯定したいと思う。実際の舞台で、大仏が照明によって種々様々な表情を示す。そのことが、絶大なる神(客体)もが思い迷い、迷走する姿に私には映った。これは、上演台本を読むだけでは伝わらない、演劇ならではの仕掛けだと言えるだろう。自己完結的な答えすら見つけ、安住することが難しいシニカルな時代精神における「自分探し」劇の困難さを示した作品であった。それは加えて、観劇後ここまで書き綴ってきた劇評内での私自身の揺れ動きに相当するものでもあるのだ。最後に、美智子を演じた長沼久美子の演技が光っていたことを記しておきたい。劇団八時半での静謐な演技と違い、舞台全体を引っ張っていく溌剌とした演技はこの女優新たな一面であり、それに出会った事は大きな収穫であった。とりわけ目に包帯を巻き、視界が遮られた時が実力の見せ所で、まるごとの身体を諸環境に投企させ、研ぎ澄まされた鋭敏な感覚をその時々で生きる様は素晴らしいの一言であった。
Jan 8, 2007
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