2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全22件 (22件中 1-22件目)
1

年末なのに(だから)忙しいLyreの2枚目のCDを聴きながら、朝食を食べていた。 ♪ すべての国よ 主をほめ歌え すべての民よ 主をほめ歌え 主の恵みは わたしたちに 大きく 代々に 代々にいたる 主のまことは わたしたちに 変わらず 代々に 代々にいたる とわに とわに 続く とわに とわに 続く 「詩篇117」(CD『Lyre1999』) 「すべての国よ」「すべての民よ」という呼びかけの歌詞を、もぐもぐしながら口ずさんでいたら、瞬間的に「朝鮮」のことを連想させられた。あの地域・民族を含めて、「すべての国」「すべての民」が、天地万物を創られた方をほめたたえるその日。そんな日が、いつか来るという約束。いつかなぁ?旧約聖書では、イスラエルが、神に従わないどころか、逆らい続け、他民族の侵略を受け、最終的に国が滅ぼされる様が、克明に描かれている。そして、その象徴が、都「エルサレム」だ。愛して止まないイスラエルが立ち返るため、罰せざるを得ない神の嘆き、憂い、苦悩は、旧約聖書全編を通じて、記録されている。「立ち返れ。立ち返れ」と。同時に、いつの日か、イスラエルが悔い改め、神との関係が回復される約束とともに。エルサレムをいとおしむように、あの朝鮮さえ、神が愛したもう国であり、その現状に、誰よりも、神さまご自身が、心を痛め、和解と回復を願っておられることを、深く深く感じさせられた。神さまの悲しみ・痛みを、ほんのわずかだけ、分かち合わされたような感じ。そして、同様に、わが日本も、世界のどの国・地域も、神さまによって作られ、愛されていることを。この年、日朝関係においては、戦後50年以上の歴史において、もっとも激動の1年であったかもしれない。(いずれ、もっと激変する時が来るだろうが。それとも、イエスさまが、再びいらっしゃる方が先かな?)若い頃は、まかり間違えば、かの地に対する、何かの支援のために、身を投じていたかもしれない。結局は、道も開かれず、動機もはっきりせず、生活のため、職を捨てる勇気もなく、普通の生活を続けているが。ただ、いまだに、心は、揺さぶられる。いまだに、独裁・恐怖政治・圧政に苦しむ人々がおり、今、また、緊迫が高まっている。ただ、主のみわざだけが、なされるように、祈り続けよう。そして、主よ、疾く来たりませ。 午前中は、家族で芦屋へ。Yオークションで、学習机を1円で落札、そのピックアップが目的。 掃除中で、引き出しがみっともない姿だけど、けっこう、きれい! もらった住所を、ネット地図で検索し、阪神拘束高速湾岸線を一路、西へ。無事、学習机を受け取り、車に積んで、お昼は神戸の南京町へ。半屋台のような店で、ラーメン、カレー焼売、小籠包、水餃を食べる。うまうま。 帰宅後、ちょっと昼寝したら、あっという間に夕方。家族で、車で5分くらいの教会員Oさんの家に。(ちなみに、以前、日記に登場してもらったI君の家。でも、今、Iくんはパパと男2人旅中。)うちからは、妻の実家から送られてきた「きりたんぽ」と、昨日ついてもらったおもちを持って、遊び、じゃなくて、夕食をいっしょにさせてもらった。またまた、話に花が咲き、5時半頃に行って、帰ってきたら、9時半まわっていた。毎日毎日、休みなのに、あちゃこちゃ行って、忙しい。(忙しくしている。)
2002年12月31日
コメント(6)

今日は、年末恒例の教会のもちつき。というか、実は牧師一家およびB一家が、中庭でもちをつくのだが、ついでに、教会員の分も、ついてしまおうという非公式企画。家族で朝10時に教会というか、教会に隣接するB家に集合。合計で、8升半のもちをつく。これで4回目かな。もちつきもだいぶ、慣れてきた。もちつきは、まず、研いだ米を各自持参、かまどで、せいろをつかって蒸らす。柔らかくなった米を、臼に入れ、成人男子が中心に交代でつく。つき上がったもちは、奥様方や、子供たちの手によって、あっという間に、ころころに。 結局、10家族以上が参加。午後も、かなりの人数が残り、会話(子どもは遊び)で盛り上がる。本来、自然解散のはずが、あまりの盛り上がりに、急遽、B家が、夕食を用意して下さるというオファーをして下さり、ご厚意に大甘えすることにする。この時点で、牧師一家、B一家をはじめ、他に4家族が残存。大人11名、こども15名の、とんでも夕食に。(Bさんご夫妻、おもてなし、本当にありがとうございました。) 結局、夜の8時半くらいまで、残っていたから、今日は、10時間以上、教会で過ごしたことになる。ああ、そろそろ、筋肉痛がぁ。
2002年12月30日
コメント(6)

●子どもメッセージプロ野球のホームランシーンを見て、次の日から、「さあ、ホームランを打つ練習をしよう!」実は、これは、大きな間違いですよね。ホームランを打てるようになるためには、まず、基礎になる体力が必要です。ホームランどころか、「打つ」練習を始める前に、たとえば、グラウンド○周、階段上り下り○往復などの、練習が必ず必要ですね。いきなり、大きなことはできません。小さいことの積み重ねが必要です。信仰生活もいっしょです。必要なことは、今、できること、しなければならない、小さなことを一つ一つ忠実に行うことですね。それは、しっかりと、お話を聞くこと、教会の集会に出席すること、時には、信頼できる人に相談やアドヴァイスを求めることかもしれませんね。小さいことを忠実に行う者とさせていただきましょう。 ●礼拝メッセージ 「束縛でなく 益のため」 新約聖書 コリント人への手紙第一 7章 「へぼ将棋 王より飛車を かわいがり」将棋の下手な人は、飛車をかばいすぎる間に、ゲームに致命的な王の立場を危うくしてしまう。信仰生活においても、一番肝心な「たましい」のことを忘れ、「●●がないから」「誰それが●●だから」と、「手段に過ぎない」ものごとに、心を捕らわれ過ぎることはないか。でも、一番大切なことは、「いのち」「たましい」自体。 ・世の中の当然を当然とは思わないこと コリントという町にある教会にあった混乱の一つは、結婚および結婚後の性生活に対する考え方の違い。 ・ユダヤ的思考 - 民族主義的 結婚は義務 必ず結婚はすべき ・ギリシア的思考 - 禁欲主義的 結婚しないことで、信仰的に一段高い、きよいレベル しかし、パウロは、そのどちらにも、捕らわれていない。7節で、みなが独身でいることを、個人的な意見・願いとして述べるが、あくまで、願いであって、9節では、情が燃えるようであれば、結婚するようにと述べ、決して結婚するな、いや、場合によっては結婚しなさいと説く。同様に、割礼の問題、奴隷の問題も、外側・立場の問題に過ぎず、まず「神の命令」を守ることが大切であり、自分の召された状態、与えられた場所で、忠実に神さまに従うことが求められる。 「牧師になる人は、レベルの高いクリスチャン、宣教師になる人は、さらにレベルの高いクリスチャン、ただの信徒は、レベルの低いクリスチャン」 競争社会の現代においては、こんな間違った見方が、教会の中にさえ入り込んでしまう。召しがないのに、なってしまった宣教師より、主によって与えられた場であると、感謝して受け入れて働く、一般の職業の人の方が、神さまの召しに忠実に生きているということもあり得る。 ・信仰を口実にしてしまうキケン 「これぞ、信仰」との自分勝手な思いこみで、結果的に、みこころを踏みにじるキケン3節~5節 夫婦相互の体について、互いに権利。「祈るため」という口実で、夫婦の交わりを留保する間違い。 ・現実の中で、具体的に、一つ一つ神さまのみこころに従っていく 10節~15節において、離婚の問題が取り上げられるが、おそらくコリント教会で直面していたであろうケースについて、想定されている。2人とも信者のケース、どちらか一方が信者の場合、去ろうとしているのが、信者側か、信者でない側かというケースまで例に出して、きめ細かく言及。 グンゼの創業者、波多野鶴吉はクリスチャン。戦前の日本の輸出品は、見本としては一流品を送って、注文が来たら、実際に送る商品には二流品を混ぜ、コストを下げることが日常茶飯事だった。しかし、波田野は、断固として、サンプル以外の混入を認めなかった。会社の役員、同業者など、内外からの反対と圧力は想像に難くない。単なる理想としての信仰ではなく、波田野は、毎日、問題に直面しつつ、主にある決断をしていったことであろう。(結果、取引先から、絶大な信用を勝ち得、後に、大きく成長・発展することになる。) ●夜子どもを寝かしつけた後、自転車で夜9時頃近所のNさん宅に、信仰書を借りに行く。ところが、奥さま&お子さま3名さまがたは、すでに帰省されており、お茶をいただきながら、「NewLife」のテープなどを聞かせていただきながら、楽しいお交わり時を過ごし、ついつい長居。気がつくと、12時半。げげげ。もともと、フィリップ・ヤンシーというクリスチャン・ジャーナリストの本をお借りしようと思っていたのだが、結局、一気に7冊貸して下さった。(汗)(とりあえず、連休期間中に3冊は読もう!) ↓ ↓ ↓ お 借 り し た 本 ↓ ↓ ↓
2002年12月29日
コメント(0)
「いのちの種」いつ咲くのかないつ咲くのかなごみ同然のわたしの心に蒔かれたいのちの種いのちがあるということは 法則にしたがい 変化していくこと時が満ちるたびに 自然に 育つこといつの間にか わたしは愛されていることを知りいつの間にか あなたの愛がわたしを包み知らない間に 愛はわたしを満たし 周りにあふれ出るまだ未完成 まだまだ欠けもたくさんだけど いつの日か完成されるんだね嬉しいね楽しみだね (あいちゃん ゆいさん、スタイル、拝借しましたぁxxx) ---------- 「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでに それを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」 新約聖書 ピリピ人への手紙 1:6 「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、 ご自分の前に立たせるためです。」 新約聖書 エペソ人への手紙 5:27 (ここでいう「教会」とは、神さまを信じた人々のこと) 「たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」 新約聖書 コリント人への手紙第一 3:7 イニシアチブは、ぜ~んぶ神さま。だから、主語も、ぜ~んぶ神さま。今まで、知らず知らずに、どんなに、自分の力で、踏んばっていたか、考えさせられちゃう。でも、神さまの促しによって、気づかされ、これからは、神さまの養いとケアを受けていくだけ。神さま、みこころのままに、成長させ、実を結ばせてください。あなたの時に、あなたの方法で。 昨日から、いろんなことを通して、「種」と「愛」と「いのち」について、考えさせられてる。第一コリント15章を読んでいたら、「種」のたとえを通して、復活の体について書かれてあった。蒔かれた種が、一旦死ぬことで、新たないのちとなるように、復活の体も、以前の肉体が、そのままよみがえるわけでないが、もとの体と、まったく関係のないものとしてよみがえるわけでない。そして、かつての存在と関係はあるものの、さらにすばらしい形でよみがえらせられるということらしい。なんとなく、分かるような、分からないような。でも、その日になったら、はっきり分かるよね。 今日で、今年の仕事は終わり。明日から8連休かぁ。基本的に寝正月(&家族サービス)の予定だったが、1月3日から、和歌山県の南紀白浜の温泉に1泊することにした。(一昨日、急遽、決めた。)和歌山県自体、5、6回しか足を踏み入れたことがない。ましてや白浜は初めて。温泉も久しぶりだなぁ。 そういえば、一昨日昨日と、出張のうわさが、ちらほらと。(行くとすれば、来年。)出張自体、可能性は低いけど、行かされる可能性があるのは、カザフスタン!か、アメリカはシアトル近郊のエバレットという町(員子ガガさ~ん!)。でも、戦争起きたら、どっちもこわいなぁ。
2002年12月28日
コメント(10)
イエスさまのことを思いながら、ある人へのメールに、イエスさまのことを書いていたら、「なりふり構わず」ということばが、ふ~っと湧き出てきた。 「親心」日曜日の礼拝での牧師のメッセージが、頭に残っていたのだろうか。 幼稚園のクリスマス劇。我が子を見つめる親の視線。 時に、劇そっちのけで、退場する我が子の姿を追いかける親。 神さまの「親心」 あなたを愛し、あなたに注目してやまない。 そして、あなたが救われるために、どんな犠牲をも惜しまれない。 神さまの、なりふり構わない「愛」「親心」 神につくられたにも関わらず、道を見失い、さまよう人々。神を知らず、神から離れ、罪にまみれていく人々。完全な「義」である神は、どんなに彼を愛していても、罪人を罰しなければならない。正しい警官が、どんなに彼を愛していようと、犯罪を犯した者を見逃すことができないように。しかし、神の完全な「愛」は、罪人にそのまま、永遠の滅びという罰を下すことに、どうしても耐えられなかった。 神は、実に、「なりふり構わず」そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 ヨハネ 3:16 神は「なりふり構わず」そのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを 得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。 私たちが神を愛したのではなく、神が「なりふり構わず」私たちを愛し、私たちの罪のために、 なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 ヨハネの手紙第一 4:9~10 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、 「なりふり構わず」ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。 ピリピ人への手紙 2:6~7 ~注~ 「なりふり構わず」部分は、原文にはありません。勝手につけてみました。 神さまの愛は、「なりふり構わず」一方的。わたしを救うため、「なりふり構わず」赤ん坊という無防備な姿で、この世に降り立ち、わたしの罪を赦すために、「なりふり構わず」十字架上で、苦しみ、死に、罰を受けて下さった。 もう一度、神さまの一方的な愛を感じ、その中に留まろう。ああ~っ、イエスさま、ありがとう。
2002年12月27日
コメント(2)
クリスマス、いかがお過ごしでしたか。神ご自身が、人の姿をとって、この世にお生まれになったこと。しかも、最も貧しい場所に、最悪のシチュエーションで、無防備な赤子の姿で、この世に来てくださったことの感謝と感動。あらためて、メリー・クリスマス!!! その余韻に浸りつつ、2つの詩を紹介させてもらいます。 「一人の孤独な生涯」 作者不明 彼は、あまり世に知られていない小さな村に生まれた。母親は、貧しい村の人であった。彼が育った村も、あまり世に知られていない村であった。彼は、30歳になるまで、大工として働いた。 それから彼は、旅から旅への説教者としての3年をすごした。1冊の本も書かず、自分の事務所も持たず、自分の家さえ持たなかった。彼は、自分の生まれた村から300キロ以上出たことがなく、有名人につきものの業績は、何も残さなかった。彼は、人に見せる紹介状を持たず、自分を見てもらうことが、ただひとつの頼りであった。彼は旅を続け、病人をいやし、足の不自由な人を歩かせ、盲人の目を開き、神の愛を説いた。ほどなく、この世の権力者たちは、彼に敵対し始め、世間もそれに同調した。彼の友は、みな逃げ去った。彼は裏切られ、敵の手に渡され、ののしられ、つばをかけられ、なぐられ、引きずり回された。 彼は十字架につけられ、ふたりの犯罪人の十字架の間に立てられた。彼はさらし者にされ、まさに死につつある時、処刑者たちは、彼の地上におけるただひとつの財産、すなわち彼の上着をくじ引きにした。彼が死ぬと、その死体は十字架からおろされ、借り物の墓に横たえられた。ある友人からのせめてものプレゼントだった。 長い19世紀が過ぎていった。今日、彼は人間の歴史の中心であり、前進する人類の先頭に立っている。かつて進軍したすべての軍隊と、かつて組織されたすべての海軍、かつて開催されたすべての議会と、かつて権力を振るいながら統治したすべての王たちの影響力のすべてをあわせてひとつにしても、人類に与えた影響、人々のいのちに与えた影響の大きさにおいて、この1人の孤独な生涯には、到底、比べようがないと言っても、決して誤りでないと思う。 「コリント人への手紙第一 13章」 クリスマスバージョン 意訳 たとえ、私が自分の家を縞模様の帯や光り輝く電球や、ガラス球で完璧に飾り付けても家族と愛を分かち合えないなら、私は単なる、別の「装飾屋」に過ぎません。 たとえ私が 死にものぐるいで台所に向かい何ダースものケーキを焼き、グルメ料理を用意してもまた、どれほど食卓を見事に飾り付けても、家族と愛を分かち合えないなら、私は単なる、別の「料理人」に過ぎません。 たとえ、私が路上生活者に食事の配給をし、老人施設でキャロルに参加し持っているものを慈善活動に供しても、家族を愛することがなかったら何の役にも立ちません。 たとえ私がぴかぴか光る天使を飾るモミの木をきれいに刈り込み、雪の形を編み上げ、たくさんのホームパーティーに参加し、聖歌隊と一緒に宗教曲を歌ってもイエスキリストに焦点をあてることがなかったら、私は的はずれなことをしていることになるのです 愛とは、子供を抱きしめるためにお料理を中断すること愛とは、伴侶にキスするために飾り付けを中断すること愛とは、どんなに忙しく、疲れていても 親切なこと愛とは、よその家の見事にコーディネートされたカップやテーブルのセットを見ても嫉妬しないこと愛とは、子供に「邪魔しないで」と怒鳴らないことむしろ、そこに「いてくれること」を感謝すること愛とは、きっと「お返し」をしてくれる相手に何かをプレゼントするのを喜ぶだけでなく、それが出来ない人にも、プレゼントできることを喜ぶこと愛は、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 愛は決して絶えることがありません。クリスマスの時期でさえ、そうです。 ビデオゲームは壊れることがあり、真珠のネックレスは、紛失することがあり、ゴルフクラブは錆びてしまうでしょう。しかし、愛のギフトを分かち合うことは絶えることはありません。 「コリント人への手紙第一 13章」 オリジナル(新改訳) たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
2002年12月25日
コメント(6)
静まって 感覚を 研ぎすませ既成概念を 捨て去り頭を 初期化しよう五感を 働かせて聖なる書物に向かえただ テキストからのみ その描写を 読みとれ 視覚 色は 景色は聴覚 音は嗅覚 においは 香りは味覚 クリスマスには あまりないかな?触覚 手触りは 暑さ 寒さは マリヤは月が満ちて男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。 新約聖書 ルカの福音書 2:6~7飼葉おけは、家畜のえさ(わらとか)を入れる桶。だから、きっと、家畜小屋だったんだろうな。臭かっただろうなぁ。出産も大変じゃなかったかな。旅先の、しかも、家畜小屋。飼葉おけは、牛や馬のよだれで、どろどろだったのかな。でも、イエスさまは、わらのクッションで、あったかかったかな。「布にくるんで」? なぜ、わざわざ「布」って書かれているのかな。産着なんかなく、もしかしたら、ぼろ切れ? 少なくとも、赤ちゃんに着せるようなものでなく、ただの「布」だったんだろうなぁ。ごわごわして、ちくちくしてたかなぁ。 この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。 ルカ2:8~9「野宿で、寝ずの番」か。キャンプだったら、野宿に近いけど、夜はぐっすり寝られる。だけど、羊飼いは、寝ずの番。闇沈黙静寂星のまたたき風無言たきぎの燃えるかすかな音と、小さなほのおさえ、星空に吸い込まれてしまいそうな、長い長い静かな夜。仲間との会話も、話すことがなくなり、途絶えがち。ひたすら、星を見ながら、時に盗賊や、獣を恐れて、毎晩毎晩、変哲のない、なが~い夜を過ごしていたんだろうなぁ。日曜日の礼拝メッセージで、牧師先生が話していたけれど、徹夜してると、自分のちっぽけさや、孤独が、じんじん感じられるって。そうかもしれないなぁ。孤独不安時に、自分の人生を振り返る時間……そんな羊飼いたちに、救いの知らせ、良き知らせが告げられたんだなぁ。でも、ぶわ~っと、天使が現れたら、本当に、ぶったまげるだろうなぁ。 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。 ルカ2:10~16う~ん。手がかりは5つだけ。「今日」「ダビデの町で」「布にくるまっている」「飼い葉おけに寝かされている」「みどりご(赤ちゃん)」喜びに満たされた羊飼いたち。「ダビデの町」というだけで、ベツレヘムってすぐ分かったのかな。この5つの手がかりだけで、ベツレヘムに向かい、片っ端から、宿屋や家畜小屋を探し回ったんだろうな。どんどんどんどん☆ 深夜だったら、迷惑だったろうなぁ。 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。 ルカ2:20礼拝を終え、帰路につく羊飼いたち。「見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだった」羊飼いたちは、何より、この赤ちゃんが、「救い主」「主キリスト」であることも含めて、「御使いの話のとおりだった」と思ったんだろうなぁ。イエスさま、この世に来てくださり、本当にありがとう。礼拝に招かれた羊飼いたちが、うらやましいな。生まれたばかりの救い主を礼拝でき、喜んで、神をあがめ、賛美しながら、帰路につけたんだから。 祝 クリスマス 祝 聖誕 讃美歌103番1 牧人ひつじを 守れるその宵 たえなるみ歌は 天よりひびきぬ2 仰げばみ空に きらめく明星 夜昼さやかに 輝きわたれり3 その星しるべに みたりの博士ら メシヤを尋ねて はるばる旅しぬ4 くすしき光の 導くまにまに 博士はまぶねの 主イエスに見えぬ (おりかえし) 喜びたたえよ 主イエスは生まれぬ
2002年12月24日
コメント(4)
色もない音もないイメージも ムードもない行事も スケジュールもないそんな 静かな クリスマス ただ 主イエス・キリストの降誕だけを 思い巡らすそんな クリスマスに ちょっとだけ あこがれたりする
2002年12月23日
コメント(7)

●子供メッセージ5人兄弟の末っ子五郎くん。いつも、おにいちゃんたちに「あっち行け!」 おやつも「お前は、こんなの、いらないだろう。」と、横取りされたり。毎年、冬になると、田舎のおばあちゃんが、りんごを送ってくれます。そして、宛先にはお父さんの名前、お母さんの名前、お兄ちゃんたちの名前、そして、最後に自分の名前も書かれていることが、五郎君にとって、うれしくて、りんごが着くと、いつも、自分の名前を読んでもらっていました。五郎君が少し、大きくなって、字が読めるようになった頃、いつものように、おばあちゃんから、りんごが届きました。その中に、「ごろうくん」宛の小さいお手紙が入っていました。「ごろうくんも、じがよめるようになりましたか?」そんな内容の短いお手紙。いつも「お前なんか」と言われ続けている五郎君。でも、遠くに住んでいるおばあちゃんだけど、自分を大事に思っていてくれていることを知り、とっても、うれしくなりました。他の人は、いろんなことを言うかもしれません。でも、どんなことがあっても、たった一人でも、誰かが、自分のことを覚え、大事に思ってくれていることを知ることは、とてもうれしく、励まされることですね。イエス様は、あなたを覚え、大事に思ってくれる一人です。たとえ、他のどんな人も、あなたを大事にしてくれない、分かってくれないとしても。そして、クリスマスは、そのイエス様が、この地上に来てくださったことを、記念する日です。 ●礼拝メッセージ 「来てくださった」 ルカの福音書 2:1~20から ・神さまは、私たち一人一人に目を留め、知ってくださる、分かってくださる方。当時の羊飼いの身分は、社会の底辺層。まわりからは、「うそつき」「信頼のおけない人々」とみなされ、裁判の証人にもなれない立場。そんな冷遇されていた人々に、神さまは、みつかいを送り、一番に、救い主の誕生を知らせてくれた。しかも、この世のどんなものよりすばらしい、天使による最高のコンサートとともに。「ベツレヘムに行って……出来事を見て来よう(15節)」「急いで行って……捜し当てた(16節)」信頼されない者、社会の底辺層の彼らが、町に入り、宿屋や家畜小屋を、何軒も何軒も捜し回ることは、何を意味するか。理解されない、信用されない、通りや玄関で冷たい仕打ちを受けるかもしれない。しかし、「神さまが天使を送って、自分たちに現れてくださった。神さまは、こんな自分たちにさえ、目を留めてくれている、大事に思っていてくれている」と実感した羊飼いたちにとって、そうしたリスクは、もはや問題ではなく、逆に、喜び、よき知らせに、じっとしていられなかったに違いない。 ・神さまは、あなたのために、喜んで犠牲となってくださる方ユダヤ人ならば、救い主=メシア=キリストが来られることを、心待ちにしていた。しかし、その救い主、神の子は、この世で最悪ともいえる環境の中で、人としてお生まれになり、最悪の形で死んでくださった。それは、ただただ、愛するあなたのため。幼稚園のクリスマス劇の親の視線。時に、劇そっちのけで、退場する我が子の姿だけをずっと追い続ける。当たり前の愛情。神さまは、あなたに注目し、あなたが救われるために、どんな犠牲をも惜しまず、ひとり子イエス・キリストさえプレゼントしてくださった。神の子であるにも関わらず、宮殿ではなく馬小屋でお生まれになり、十字架上で命を落とすという最悪の生まれ方、最悪の死に方にも関わらず。 ・救いを与えることが明確にみつかいが現れた時、羊飼いたちは恐れた。聖なる存在に、聖くないわたしたちは、恐れを覚えるのは当然。自分のしてきたこと、密かに思っていたこと、隠している部分があることを、自分だけが知っているから。おまわりさんを見かけて、どきっ☆とすることはないか。(特に実際に犯罪を犯した人は。)しかし、神さまは、すでに、すべてを、お見通しの上で、救いを与えようとされている。裁くことでなく救うことが、本当の目的。だからこそ、「恐れることはありません。」(10節) ●キャロリング夕方、教会周辺の教会員の家の前や、最寄りの大きな駅前で、キャロリング。(外で、クリスマスの賛美歌を歌い、イエス・キリストのお生まれというよき知らせを、広く知らせ、祝福を願うこと。)行き帰りを含めて、約2時間の行程。駅前では、イブ礼拝のお知らせを配布。ひとりでも多くの人が、神さまの愛に触れ、救いの計画を知り、救われますように。教会に帰ると、おでんと、お汁粉が用意されていて、暖まる。ゆっくりしてて、気がつくと、8時半過ぎ。うわぁxxx。 ●キリ番プレゼント楽天仲間の真路さんの8888番を踏み、キリ番踏んじゃった&開設1周年のプレゼントを、共通の知人経由で受け取った。(sereちゃん、ありがとう) 家族でおいしくいただいています。そんなに超甘甘でもなく、程良い甘さで、おいしい! 真路さん、ありがとう。(また、お願いね! オイオイ)
2002年12月22日
コメント(3)

「うぎゃあ!」おかしが欲しくて 駄々をこねる 3歳の長男「うぎゃあ!」だけど きみの だいすきな 電車のビデオを見せたり「お出かけする?」と 聞いたりすると今までの おかしのこと すぐに 忘れちゃう 「うぎゃあ!」おねえちゃんと 長男が おもちゃの 取り合い(大体 姉のおもちゃを 横取りして 怒られることが多い そして 負ける)「うぎゃあ!」だけど きみの だいすきな 電車のおもちゃを 見せるとおねえちゃんの おもちゃ ぽいっ☆すぐに 忘れちゃう この1週間、神さまから、教えられたのは、こんなことだったみたい。(別のもの、もっとすてきなもので「つる」ことなんだけど、それによって、不要なものから離される! 神さまに、「つられた」?) 「●●しなきゃならない」「○○してはいけない」って考えがちで、自分を強いて、無理矢理、そう思わせがちだった自分に、神さまは、「徹底的に、わたしの一方的な恵みにとどまりなさい。」って神さまご自身の愛と恵みを、優しく優しく、よく分かるように見せるとともに、感じさせてくれた。まるで、神さまのベルトコンベアに、乗せられているみたいな感じで、なんだか分からない内に、いつの間にか、自然に無理なく、自分の理想を求めたり、自分を厳しく見る(裁く)ことを、忘れてしまっていた??? (いやいや、びっくりびっくり!!!) 私たちは、空(から)の器。まず、神さまの愛と恵みを思い、その中に、じっくり浸り、憩い、味わい、養いを受けること。(それまで、動くことなく、ただ留まるだけ) 満たされるまで。すると、いのちの水や、ごく自然にあふれ出て、流れ出て、そして、周囲を潤す。無理なく自然にね。 「主はぶどうの木」主は ぶどうの木 わたしは 枝です いつも 離れずに主は ぶどうの木 わたしは 枝です 豊かな 実を結ぶ みことばに とどまり 愛に 生きるなら この世は 知るでしょう 主の 救いと いやし (くりかえし) この歌も、留まることだけが条件だぁ。そうすれば、時が来れば、証となって流れ出る! ただJESUSだけに、FUCUSを合わせよう彼の 愛に彼の 義しさに 彼の 優しさに彼の 憐れみに彼の 十字架の死と よみがえりに 12月17日付日記で紹介した讃美歌529番3節「われもなく よもなく ただ主のみ いませり」日曜日に賛美した時には、ただの感動、そうなれたらいいなって、思っただけ。でも、今は、不思議に、イエスさまにしか目が行かず、いつの間にか、歌詞の通りになってた!いつの間に、変わったのさえ、分からない。でも、変わってた!(すごいすごい!!!) さあ、人生劇場 第○幕の始まりだ。もうすぐ、どん帳が上がる。私は、観客であり、同時に役者。ただ、イエスさまが用意してくださっているドラマを、見せてもらおう。さあ、どんな脚本になってるのかな。あなたのみわざを、見せてください! どきどき、わくわく。 そんなわけで、いろいろな気づきが与えられ、エキサイティングな1週間だった。神さまに感謝感謝! 3歳の長男の一人遊び。知らぬ間に、こんなものを作っていて、親が、ぎょっとすることも。(笑)
2002年12月21日
コメント(1)

とんとんとん なんの音でしょう?ヨセフさんとマリアさんが 夜の ベツレヘムの町を あちこち あるいていますとんとんとん 「宿やさん どうか一晩 泊めてください」 「もう まんいんだよ」「あいてないよ」「あいにく もうまんしつだ」どんなに たくさん まわっても 全部だめもうすぐ イエスさまが お生まれになるというのにどこにも 泊まるところが 見つかりませんだれも 泊めてくれる人は いませんさんざん 歩き回って とうとう 馬小屋に 泊まることができました とんとんとん なんの音?今 イエスさまが あなたの心を ノックしていますあなたの心には イエスさまを おむかえする 場所がありますか?とんとんとんあなたの 心の中の 意地悪や うそや けんかの心や わるい心を 捨ててイエスさまを おむかえしませんか?とんとんとん…… 今日は、次女が通う幼稚園のクリスマス祝会。年中さんの次女のクラスは、聖誕劇。(ちなみに、次女は天使役) 荒野で 天使が 羊飼いたちに現れ 「恐れることは ありません」「きょう ダビデの町で あなたがたのために 救い主が お生まれになりました。この方こそ 主キリストです。」「いと高きところに 栄光が 神に あるように 地の上には 平和が みこころに かなう人々に あるように」 「さあ ベツレヘムに行って 主が知らせてくださった できごとを 見てこよう」羊飼いたちが 生まれたばかりの イエスさまを 礼拝 東の国から来た 3人の博士たち 黄金・乳香・没薬を 贈り物として イエスさまにささげる たんにんの先生と 幼稚園からの クリスマスプレゼント クリスマスの オーナメントとカード 帰るときに プレゼント 子供たちの、すなおな信仰と、その表現には、いつも感動させられるなぁ。クリスマス。神さまからの、全人類への最大のプレゼント、イエス・キリスト。人の姿、しかも、まったく無防備な赤ん坊の姿で、しかも、馬小屋という場所で、この世に来て下さった救い主のお誕生を、ゆっくり、じっくり、味わいたいな。 とんとんとん とんとんとんとん……
2002年12月19日
コメント(5)
以前からうすうす、感づいてはいたのだけれど、最近、いくつかの自分の弱さが、明らかにされつつある。 ひとつは、自分が無意識のうちに「いい人間(いい子ちゃん)でなければならない」という思いに捕らわれがちなこと。また、ちょっと似てるかもしれないけど、非常に罪意識というか、恥意識というかが、強いこと。別の表現をすれば、他者の目が、ものすごく気になる(気にし過ぎる)っていうことかな。自分の気づく範囲でという、とてもいい加減な基準なんだけど、その範囲内では、完璧でないといけない、逆にいうと、失敗は許されない、弱さは恥ずかしいっていう感じ。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」というけど、その一時の恥が、耐えられなかったりする。悩みなんかがあっても、「そんな悩み(弱さ)持ってるの?」と思われそうで、他人に、なかなか、相談できなかったり。どこで、身に付いてしまったのかなぁ、「いい子ちゃん」じゃなきゃならないと思ってしまうくせ。なぜかな?(実際は、気づいてないところで、ぼろだしまくりなのだから、早く、あきらめた方がいいっていうのも、分かるってるんだけど。)(実は、こんな文章を書きながらも、本当は、すごく恥ずかしいの。(赤面◎^_^◎) でも、ちょうど、神さまに診断してもらって、気づかされた後、直視させられてる途中。それで、このくらい表現できるまでに回復してるっていうところかな。リハビリリハビリ。) 信仰生活に当てはめれば、イエスさまが十字架で、身代わりとなって、命を捨てて下さったことにより、救いが提供されたことを信じている。それだけが、救いであり、それ以外に、何の救いの条件がないことも。でも、救いと違うところで、何か別の基準、例えていうなら「クリスチャンたるもの、かくあるべし」みたいなのがあったことに、気づかせられる。教会では、よく、「委ねる」「従う」「自分を捨てる」「自我に死ぬ」「砕かれる」という表現が使われるけど、自分にとっては、これらが、また、くせ者だった(ことにも、最近気づかされている)。昔の受け取り方「そうしなければならない」けど、できなかった。=> だから「だめだ」(どこか罪意識・失格のにおい)「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」「隣人を愛しなさい」といった聖書のことばも、「喜べない」「ちゃんと祈れなかった」「今は感謝なんかできない」「人を許せなかった」など、すぐに、ものすごく、敏感に自分を裁いていたなぁ。また、「つぶやいてはいけません」という聖書のことばも、気づかないうちに、必要以上に、厳格に適用してたようだ。「さびしい」とか「いやだな」と感じることが、自分の中では、罪である「つぶやき」「不満」になっちゃうから、知らず知らずに、ものすごく抑圧して、感じなかったこと、思わなかったことにしようとしてたみたい。本当は、感じないこと、見ないことで、それが、無くなるわけじゃないのにね。ずいぶん、窮屈なことしてきたんだな。でも、それが、自分にとっては、身に染みついた普通で自然な感覚だった。今でこそ、いろいろ感じても、それを、そのまま、神さまに持っていくことを学んだから、信仰を持って、神さまにぶつけていいことを学ばせてもらってるけど。今、思わせられること「心底、そうしたい」「そうありたい」けど、できない。=> でも、だからこそ、十字架がある=> だからできなくとも大丈夫 感謝 そうそう、もう一つのの大きな変化は、以前は、聖書の教えなどを、「守らなきゃならない!」というような、強迫観念みたいなのが、あったかもしれないけど、いつの間にか、「そうありたい」という願いに変えらるてるなぁ。神さまの働きに感謝。 結局、自分の力や、がんばり、努力で、何かしようとしちゃってたし、しちゃう傾向があるんだなぁ。神さま、脱線したら、修正して下さい。 日曜日のB姉妹とのお交わりの中での話。「理想を求めてひたすらがんばっていると、弱い人の声が聞こえなくなる。そして、どんどん『自分が自分が』という自己中心的な視点になっていく。」 おお~っ、そうだそうだ、と、うっすら感じていたことを、ずばり、言語化していただいた。B姉妹のご経験では、理想を追及し、結果が出ていく時、人からは「すごいね」と賞賛されるけど、上に行けば行くほど、弱者の気持ちが分からなくなっていくそうな。う~ん……う~ん……う~ん……。鋭い。砕かれる必要のある部分を、さり気なく(いや、ずばりだ、)神さまに示されたのかな? (と、ここまで書いて、いったん休憩していたが……) 教会の一日一章聖書日課は、今、新約聖書のローマ人への手紙(今日は12章)。 ちょうど、きよきよさんのロゴス・ミニストリーHPに、ローマ書12章の学び「慎み深く生きる」が掲載されていた。 (一部抜粋) 私たちが教会生活を営んでいるときに、自分は何を行なったらよいのかと悩みます。教会の掃除をすることか、献金集めの奉仕をすることか、あるいは伝道活動のミーティングに参加することかなどなど、いろいろな役割や活動内容が考えられます。とにかく与えられたものは神からのものであるから、それをこなそう、そしてその活動を神が祝福して下さるように祈ろう、という発想になります。けれども、この出発点が「自分は何を行なったらよいのか」であるところで、間違っています。パウロは、「自分に与えられた恵みによって、あなたがたに言います。」と言いました。神の恵みによって、パウロはローマの信者たちに勧めをしているのであり、これがなかったら勧めを懇願もしないという立場でありました。神の恵みとは、神が私たちのために行なって下さったことです。受けるに値しない霊的祝福を、キリストにあって受けるようにして下さった、神のご好意です。すべては神から始まります。私たちが一旦、自分が教会で何をすべきかという発想を捨てて、神が自分のために何をして下さったのか、という恵みの確認をする必要があります。そこには、私たちが何かを行なう余地は残されていません。ただ、「神が行なって下さったことを受け入れ、信じる」ことしかできません。つまり、自分の行ないではなく、信仰によって生きるのです。 このように、神が自分に与えられた使命を知ると、今度は、それを淡々と行なうことに集中できます。それが、ローマ12章の続きに出てくる、賜物の説明です。「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。(ローマ人への手紙12:6-8)」「~であれば、何々しなさい。」という勧めであり、これは与えられた任務を、黙々とこなしていく官僚のような響きすらあります。神から任されたものを、忠実にこなしていく姿勢です。だれだれが、どの賜物を持っているというような幼い議論は、ここには入る余地がありません。それぞれが、ただキリストを愛し、主に仕え、喜んでいることでいっぱいであり、その奉仕の中で、主を自然に賛美し、礼拝している意識であります。 パウロが、「慎み深い考え方をしなさい」ということは、こういうことです。自分からことさらに、何かを行なおうとする試みを捨てること。むしろ、神がキリストにあって、自分のためにして下さったことを受け入れ、信じること。その恵みの中に生き、信仰によって与えられた確信と導きの中で生きること。主がその奉仕をさらに祝福し、地境を広げて下さるように祈ることであります。終わりが近い今、私たちはますます、慎み深く生きていく必要があります(1テサロニケ5:6,8)。 http://home.att.ne.jp/gamma/logos/new_b/rm12essay.html ↓↓↓ 11章の学び「恵みと行い」もよかったよ。今日の日記とも関連。 http://home.att.ne.jp/gamma/logos/new_b/rm11essay.html そうだ、そうだ。神さまの側で、一方的に愛して下さってるんだ。そして、命まで捨てて下さったんだ。まずは、その愛を知り、感じ、そこに留まり、安息すること。神さまが、して下さったことと、与えて下さった恵みに、目を向け、目を留め、喜び、感謝すること。そして、神さまが与えて下さる使命を、「信仰の量りに応じて」神さまが与えて下さる能力・賜物・個性を使って果たすだけ。自分の力に頼ること、がんばることは、間違ってたし、それ以前に、その必要さえないんだ。すごいよ、すごいよ、神さま。おそるべし、神さま。(おっと、ちょっと、興奮気味。落ち着け落ち着け。)これが、恵みに生きることなんだよなぁ。いつの間にか、すっかり、忘れてたよ。 「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1) この箇所も、B姉妹とのお交わりで引用された聖書箇所。ああ、神さまが、ものすごく、近く感じられるなぁ。神さま、あなたが創り、与えて下さったこの命と身と魂を、あなたにお献げします。私が、自分の思いで、何かをすることがありませんように。あなたが、与えて下さるものを、しっかり受け、みこころのままに、歩ませて下さい。そして、あなたの奇しいみわざを、見せてください。み思いのままに、自由につくりかえて下さい。必要を満たし、不要なところを取り去って下さい。 なんだか、わくわくしてくるなぁ。
2002年12月18日
コメント(4)
むねのなみ おさまり心 いとしずけし我もなく 世もなくただ主のみ いませり 先日の礼拝で歌った、賛美歌529番の3節。 今まで、何度も歌ってきた有名な賛美歌の歌詞が、しんみりと、心に入ってきて、歌いながら&歌い終わってから、密かに目はうるうるになってしまった。(歌詞を味わうのは、初めてだったんだけど、なぜか、歌詞が目に飛び込んできた感じ。今回は。) 静かな心 神さまに、より頼もうとする時、上から与えられる、一方的なプレゼントとしての平安。 「胸の波 おさまり 心 いと静けし」あらしが過ぎ去ること(問題解決)で与えられる直接の平安。あらしのまっただ中でさえ、神さまにより頼むことで与えられる平安。どんな時にも、愛する神さまが、ともにいらっしゃることを感じる時に、与えられる平安。 「我もなく 世もなく ただ主のみ いませり」その時、ただ神さまを見上げているから、もはや自分の状態や、まわりの状況に捕らわれることはない。そして、平安があるからこそ、神さまに全き信頼を寄せ、従っていける。 今の自分の問題。依然として、何も解決していない。解決の目途も、方向性も、方法も、何も見えない。(人間的には、逆に悪化してるかも)でも、いや、だからこそ、問題にのみこまれるのではなく、主を見上げて、主に従っていきたいな。 (たぶん、この歌の本来的な意味は、イエスさまを信じて、救われてうれしいな。その喜びで、 いっぱいで、毎日、わくわく。救われた喜びゆえに、平安が訪れたっていうことだと思うんだ けどね、試練の中にある平安っていうようにも、感じられて……。) 賛美歌529番 1 ああうれし 我が身も 2 のこりなく みむねに 3 むねのなみ おさまり 主のものと なりけり まかせたる 心に 心 いとしずけし うき世だに さながら えもいえず 妙なる 我もなく 世もなく あまつ世の ここちす まぼろしを 見るかな ただ主のみ いませり (おりかえし) うたわでや あるべき すくわれし 身のさち たたえでや あるべき み救いの かしこさ ↓ ↓ ↓ こんな曲 & 英語の歌詞 ↓ ↓ ↓http://www.PreciousLordTakeMyHand.com/christianhymns/blessedassurance.html
2002年12月17日
コメント(8)
長女の水ぼうそうは、だいぶよくなったので、次女と3人で教会へ。水ぼうそう真っ盛りの長男は、妻と自宅待機。(熱は出てないので、エネルギーとフラストレーションがたまって、大変な状態の長男。) 礼拝メッセージは、ローマ書9章から「神による」●間違った救いの条件 ・人間的なつながり(=コネ)じゃ救われない どの民族か、どの教団、教会に属してるか、親戚関係などは、救いと全く無関係 (ユダヤ民族だから、この教会のメンバーだから、○○の親戚だから……) ・聖書知識 いくら知っていても、救われない 知識の量は、救いと全く無関係 ・行い どんな信仰者らしい振る舞い・行動も、救いとは全く無関係 どんなに大きいわざをおこなっても、たくさんの行いをしても、救いとは全く無関係 (マタイ7:21~23)う~ん、分かっていても、ややもすると、3つのことに、流されそうになるなぁ。●では、どんな人が救われるの? 神が目を留め、憐れみをかけて下さった人 = 一方的な神の選び ルカ5章 イエスは、ご自身を求める多くの民に囲まれていたが、それらの人々ではなく、 イエスに無関心だった、レビ(=マタイ)に声をかけられた。●一方的に憐れまれ、目を留めていただいたら…… 神さまの語りかけに、応答するだけ ローマ10:10 「あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の 中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」 先のルカ5章で、レビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。 羊飼いたちは、みつかいの知らせを聞いたとき、「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに 知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」と、赤子のイエスさまに会いに行った。 午後は、クリスマスお楽しみ会。幼稚課のかわいらしい劇あり、手話聖句クイズあり、牧師が極道に扮しての劇あり、楽しい一時。 ぽん#が、教会学校教師を担当している高学年課は、詩「絵のねだん」の朗読と、「ここに愛が」のリコーダー合奏。 絵のねだん 作:まほある国の おとぎばなしにでてきそうな 小さな村その村の 小さなちいさな役場にいちまいの絵が かざられていますさあ どんな絵でしょうふつうの絵ですそんなに上手な絵というわけでもありませんだれが書いたかも わかりません額ぶちは あちこち 焼けこげていますよく見ると 絵にも すりきずや こげがついています悪いことばでいえば ぼろぼろです どうして こんな絵が 村役場に? 絵の下に「この絵のねだん」が はってあります この絵のねだんいくらだと おもいますかそれは「村長さんのいのち」でした 火事があったのでしょうかこのおだやかな うつくしい村にも せんそうが きたのでしょうか村長さんが 絵をはこびだして ぎせいになったのでしょうかきっと 命がけで 絵をまもろうとした村長さんを忘れないように かざっているのでしょうねきっと 村長さんは 絵だけでなく村人や 村をあいし まもろうとする人だったのでしょうね --- x --- x --- x --- x --- x --- 目の前に 絵があります命をかけて 救い出された絵が その「絵」は あなた あなたに 「あなたのねだん」が はってありますあなたのねだん いくらだとおもいますかそれは 「神のひとりごのいのち 十字架」 (天のお父様が 私たちを愛してイエスさまをお送りくださった クリスマスそのことを おぼえて このさんびを ささげます) 「ここに愛が」ひとりごを つかわし 神は わたしたちにいのちを 得させてくださいましたわたしたちが 神を 愛したのではなく神が わたしたちを 愛し 御子を つかわされたここに 愛がある 神の愛が 示されたここに 愛がある 神は 愛なり クリスマス会が終わってから、B姉妹と「夫の救いを『祈る』とき」という本(&本を出しているG1ミニストリー)について、会話を始めたら、いつの間にか、夫婦間のコミュニケーションの話題になり、気がつくと、教会と棟続きのB家に招かれ、1時間あまり、お交わりの時が与えられた。深く、鋭く、優しく、濃く、話に耳を傾けてくださり、また、助言を与えてくださった。さすが、B姉妹。今まで、なぜか、時間をとっていただくことに、躊躇があったりしたのだが(恥ずかしかったり……)、今日は、不思議なタイミングで、お交わりができた。イエスさまが、その交わりの真ん中にいらっしゃることを、強く感じさせられるすばらしい時間……。そんな時間が与えられ、感謝感謝感謝。
2002年12月15日
コメント(0)
がんばって、朝6時過ぎ起床。7時過ぎに家を出る。伊丹から、羽田行きが混んでいたので、成田行きの飛行機に。国際線用機材なので、エコノミークラスのくせに、パーソナルテレビもついている。ちょっと快適。途中、名古屋沖、伊豆大島上空を通過。北アルプス、富士山がとてもきれい。房総半島南端を左手に見て、九十九里浜沖へ。銚子・犬吠埼・筑波山がきれい。なつかしの成田空港に着陸後、スポットまでの移動に20分以上かかり、定刻30分遅れの10時20分過ぎに、飛行機を降りた。(それにしても、来るたびに成田は変わっていく……)京成線の上野行き特急に乗ろうと走ったが、間に合わず、20分後の特急に。久々の京成線。成田の町を横目に、気持ちは4年前、5年前にタイムスリップ。あの建物、この街並み、駅、この階段、アナウンス……。出てくるイメージはあの時のまま。結婚生活を始めた町。子どもが与えられた町。人生のいろんな節目を迎えた町。思い出の町。思い出す家族の姿も、4年前のままの姿……。 佐倉を出て、数分経つと、右手に印旛沼、そしてチューリップ公園の風車が見えてくる。4年前の11月、新聞の求人広告を見て、履歴書を送った。その前年、7年半勤めた最初の会社を辞め、転職したものの、しっくりいかず、というか、気持ち的には、がんばっているのだが、空回りするだけで、アップアップ状態だった。すると、月末に、書類が通ったとのことで、12月8日に一次面接および簡単な筆記試験を受けた。結果は「ご縁があれば、1週間以内に、遅くとも2週間以内に電話連絡します。」とのこと。毎朝、印旛沼の風車を見ながら、通勤していたが、いつの間にか、この風車が転職の象徴となっていた。1週間、連絡なし。2週間、連絡なし。実は、当時、信仰生活も破綻、ぼろぼろで、教会から離れていた時期でもあった。しかし、祈りを忘れていたはずだったのに、祈りにならない祈りを献げていた。「神さま、もうだめです。道を開いて下さい。受からせて下さい。」漏れ出る言葉は、ただ、それだけ。感謝も賛美もない、ただ、助けを求める言葉だけの、わがままな祈り。もう、とにかく、そこから脱出したい、その一心で。そうそう、一次面接を受けたころだったかな、なぜか、「恵みの雨」というキリスト教の月刊小冊子に、目を通した。どこかの、キリスト教書店で、買い求めたのかな、よく覚えていないが、その本に、以前からお名前は存じ上げていた唄野絢子さんの連載が掲載されていた。プロフィールを読みながら「堺大浜教会かぁ。堺って、大阪だよなぁ。」応募している勤務地が、実は大阪。インターネットの地図サイトで、勤務地と堺の位置関係をチェックしたりしてたなぁ。(結局、今、その教会の会員に。)とうとう、納会の日まで、なんの連絡もなし。「ああ、だめだった。本当に、もうだめだ。」絶望。「神さま、助けて。どうしてですか。もうだめ。ああ、助けて。神さま、あんまりだよぉ。」ぐちゃぐちゃの思いだけがあふれ、それらを、神さまにぶつけるしかなかった。悲しくて、つらくて、苦しくて。(文章だと、なかなか、うまく再現できないけど)でも、そんな中、ふぅっと、意識が軽くなるっていうのだろうか、突然、楽になる瞬間があった。もしかしたら、本当に、「ぷっつん」しちゃってたのかもしれないが、思い患いがなくなっちゃったような。そして、不思議なことに、何だか、受かるような気持ちにもなってきたのである。妻も、何だか、そんな気がしていたとか。でも、「受かっても、大阪なんか、絶対行かないわよ」、と当時、3人目をお腹に宿していた妻は、そう豪語していたが……。そして、年末年始休みが明け、数日後、人事から連絡が入った。うれしかったぁ。と言っても、まだ、二次面接の案内だったんだけど。最終的に、2月までに内定をもらい、3月末日付けでの前職退社と、4月1日付け入社と相成った。神さまの、憐れみに感謝。 というわけで、思い出の風車もあっという間に過ぎ、高砂・柴又・金町・亀有経由で、大急ぎで綾瀬に向かったが、結局12時15分くらいになってしまった。綾瀬では、成田時代の教会で何回か、来て下さったことがある、ここの掲示板にも、よく来て下さっているきよきよ先生のお宅に。お昼をごいっしょしながら、小1時間のお交わり。話題は、韓国・朝鮮。韓国キリスト教会の問題点、北朝鮮の体制のこと。あっという間。お仕事の合間に快く迎えて下さったご夫妻に感謝。 その後、千代田線でお茶の水へ。すかさず、お決まりの、お茶の水キリスト教センター(OCC)にあるCLCというキリスト教書店へ。 ゲットしたもの CD 「FOREVER The best of 1979-2002」 ニューライフ 本 「いてくれて ありがとう」 関根一夫その後、三省堂や、東方書店をまわった後、近くのマンガ&インターネット喫茶で、ネットサーフィン。1時間300円也。お茶の水は、1日2日くらい、ゆっくり、古本やとか、まわりたいんだけどな。 さてさて、上京の主目的は、実は会社のクリスマスパーティ。本当は家族で来るはずが、水ぼうそうでぼつ。(本人の足代と、宿泊すれば、家族のホテルは、会社持ち。先月末に、水ぼうそうにかかり完治した次女だけは、来ようと思えば、来られたが、父と二人っきりじゃいやだって。長女は、飛行機に乗っておもちゃをもらうことができず、泣いていたのに。)17時半頃、有楽町に移動。会場は、並木通りとみゆき通りの交わる辺りのビルの4階。で、最終の飛行機の出発が、21時なのに、ビンゴが始まったのが19時40分。しかも、クリスマスに合わせて、単なるビンゴじゃなくて、X(ばつ)字型じゃなきゃだめというルールにしちゃったんで、大阪日帰り組3人は、55分頃、ビンゴ中に中座、空席があるかとの不安を胸に、羽田に走る。結局、20時40分頃に到着、無事、空席もあり、一路関西空港へ。(2席だけ空いてたりしなくて、よかったぁ。)帰宅は23時過ぎ。 ん?今日は、期せずして、東京大阪4空港1日制覇をしてしまった。これで、3回目だぞ。(伊丹、成田、羽田、関空)
2002年12月14日
コメント(6)
長女に引き続き、とうとう長男にもぶつぶつ(水ぼうそう)が!最近は、高い薬と安い薬があって、(といっても1000円までは違わないらしい)、薬で症状は、かなり抑えられるらしい。だから、水ぼうそうは、薬飲んで、塗り薬塗って、学校休ませて、治るのを待てばいいだけのだが……。 実は、一昨日、別の問題が!水ぼうそうのため、行った医者で、長女の頭から、毛ジラミ しらみ発見。帰宅後、家族全員の頭をチェックしたところ、次女にも棲息していた。いやいや、妻曰く、「長女が水ぼうそうになってくれて、医者行って、毛ジラミ しらみ見つけてもらってよかったよかった。発見遅ければ、家族全員に移ってたかも……。さすが、神さま!」というわけで、1本2700円の、毛ジラミ しらみ退散用シャンプーで、毛ジラミ しらみと格闘&予防の毎日。 (最近、近所のいくつかの小学校でも流行ってるらしい。<毛ジラミ しらみ)
2002年12月12日
コメント(4)
ちょっとしたことから、30年以上前に、日本のキリスト教会に、大ブームを巻き起こしたゴスペル・フォーク歌集「友よ歌おう」が気にかかり、検索してみたら、「日本のゴスペル」※というページに行き当たった。 http://www.save.or.jp/jel/back/jgospel.html ゴスペル・プレイズ&ワーシップなど、1970年代から現在までの歴史が簡単にまとめられているページで、その中に「現在牧師の関根一夫さん」の青い文字(=リンク)が。クリックしてみると、白髪が多くなっているが、確かに関根先生のお顔が出現した。なつかしい! そして、青春時代がよみがえってきた。( ※ 内輪ネタの余談だが、このページ、最後に執筆者が載ってるが、なんとびっくり! みみげ~ ) 90年に大学を卒業、就職で上京したが、入社してみると、・都内(有楽町)ではなく現場勤務、・しかも土日関係ないシフト勤務 と入社前の話とは、全然違っていて、社会人1週間目から、社会の荒波にもまれることとなった。(簡単な研修後、1週間経ってから、その事実が伝えられた。え゛え゛ぇ~???) 結局、引っ越すお金もなく、都内勤務のために引っ越した都内のアパートから、職場まで、下り電車に乗って片道2時間弱の道のりを2年間、通い続けた。同時に、生まれて初めて、日曜礼拝を必ずしも守れない状況に置かれ、最初の数か月は、かなり信仰的にぶれていたことを覚えている。上京当時は、横浜の日吉にある、出身教団がらみの教会に通っていた。教会に行けるのが、平均月2回くらい。運動会シーズンなんかになると、下手すると1回だけ。礼拝に休まず出席できるという機会が取り去られることを通して、自分が何のために礼拝に行っているのか、礼拝の意味と大切さを思い直す時期となり、出席できる礼拝の日は、まさに、信仰的な飢え渇きの中、喜びと感謝のうちに、教会に足を向けることとなった。ちゃんと、神さまは、学ぶべきレッスンを与えていてくださった。感謝! そんなある日、「お茶の水」「KGK(キリスト者学生会)」というつながりで、2つの再会と、新たな出会いが与えられた。1つは、お茶の水にあるキリスト教書店で、以前、KGKの訓練会でいっしょになったM兄弟に、ばったり出会ったこと。彼は、同じビルの中にあるKGKの事務所に寄ってかないか?と声をかけてくれた。暇だったので、ついていき、コーヒーなどをごちそうになっていたが、そこに、1枚のチラシが置いてあった。それは、ある共産圏の国(=キリスト教信仰を守ることが困難)の伝道のために、その国のことをよく知るためのセミナーのチラシだった。関心のあったので(本来は、現役学生対象だったけど)、そのチラシのセミナーに参加することにした。確か府中か調布の青年の家まで、首都高をバイクで走って行った。そこで、勤務地のある町の教会から参加している姉妹がいて、その教会が、その国の宣教の働きに、直接関わっていること、夕拝(夕方や夜に持たれる礼拝)も持たれていることを教えてくれた。そして、次の勤務の日曜日の前日、教えてもらった教会に電話をし、その教会の夕拝におじゃますることにした。それが、カルバリー・チャペル系の教会で、結局、2年後、勤務地および教会近くに引っ越した際、教会籍も移し、普通の礼拝に出席するようになる。もう1つの再会・出会いは、お茶の水のそのビルで開かれていた、ある国に聖書を送るための祈祷会に参加した時のこと。集会の途中、なんだか、見たことがあるような人がいるなぁ、でも人違いかなぁと、ちらちら、気になる人がいたが、現地からの報告なんかの後、隣の人と祈る時間となり、話してみたら、やっぱりそうだった。KGKは、全国いくつかの地区に分かれているが、ある年の夏の夏期学校(キャンプみたいなもの)に、関東地区から派遣という形で参加してくれたS兄弟だった。2人とも、月例のその集会に初めて参加して、そして、隣どうしに座ったというわけ。彼も、似てるなぁ、でも違うかなぁって思ってたとのこと。集会後も、いろんな話をしているうち、S兄弟が、関根一夫先生が牧会されているMACFという教会に行っていて、毎週水曜日には、そのビルの別の階の某放送宣教団体のスタジオがお借りして、祈祷会ではなく礼拝をもっているという。こうして、日曜日に礼拝に出られる日は、横浜へ、仕事の日は、勤務地近くの教会の夕拝へ、そして、水曜夜に時間があれば、S兄弟の教会の水曜礼拝に通うこととなった。 こうして、KGKの信仰の友2人との不思議な再会と、神さまの導きによるカルバリー・チャペル&MACF(ミッション・エイド・クリスチャン・フェローシップ)との出会いは、自分の信仰生活に、新たな局面を切り開くこととなった。自分には、これまで、信仰生活の転機が大きく3つあったように思う。先の日記の「自分を愛すること(=聖書的に自分を肯定的に受け入れていいということ)」を学んだことが、1つ目の転機だとすれば、これが2つ目の転機であった。 (内容については、また、こんど。乞うご期待。)
2002年12月11日
コメント(0)
先週、注文した、きよきよ先生の本が入荷したとのことで、また、長男を連れて、地元系クリブクへ。ゲットしたもの。「聖書預言の旅」 明石清正 リバイバル新聞社「ビジョンによる自己改革」 姜 俊旻 いのちのことば社最近、ちょっと本を買いすぎかも。まずは、たまってる本もどんどん読まなきゃ。 で、先週、次女が水ぼうそうだったが、とうとう長女への感染・転移が確認された。お次は……。というわけで、週末によていされていた家族での東京行きは中止!ちゃんちゃん!
2002年12月10日
コメント(0)
今日は、教会で、礼拝のあと、小学高学年~中学生くらいのお友達での「びーばっく」というお楽しみ会みたいな催しがあった。だいたい2ヶ月に1回くらい、開催される。大なわとびや、キャッチボール、巨大ビーチボール遊びなどで汗を流し、ちょっと早めの夕食後は、恒例のトランブ大会。今日は、ブラックジャックと、うすのろばかまぬけ。両方とも異様な盛り上がりで、幕を閉じた。あっという間に8時半も過ぎ、4年生のYちゃんと5年生のIくんを乗せて帰る。まず、Yちゃんの家に立ち寄り、Yちゃんを下ろし、次にIくんの家へ。うちの次女が、水ぼうそうになったのを知っていて、なぜか、水ぼうそうの話に。「水ぼうそうってたいへんなん?」「人によって違うみたいだよ。I君は、水ぼうそうなった?」「それが、お母さんに聞かへんと、わからへんねん。」「水ぼうそうって、一生に一回しかなれないんだよ。」「うそぉ、なんで。 でも、大学受験の時に、水ぼうそうなったら、たいへんやんな。」(おいおい、いきなり、なんで大学受験だい?)「水ぼうそうで、受験できなくなったとしたら、どう思う?」「そんなん、最悪やん。」「そやな、最悪やな。 でもな、Iくん、イエス様信じて、教会来てるやろ。」「うん。」「神さま信じてたら、最悪やないねん。」「なんでぇ~?」「なんでか分からんけど、神さまの計画って、そういう時あるの。たとえば、その大学じゃないところに、別の道が用意されていたり。だから、神さまが、そういう方法で、その大学に行かないようにされる時もあるかもしれないし。または、受験の時に水ぼうそうなったら、全然、受験できないから、次の年まで待たなきゃなんないよね。でも、「待つ」ことで、神さまが何かを教えようとしておられるかもしれないよ。」「ふ~ん」(目はまじめ!)「神さまは、必要なことは絶対、与えて下さる方だから、与えられない時は、いらないことか、まだ早いっていうこともあるかな。Nくん(4歳の弟)が、カッターナイフほしい、って言ったらどうする?」「う~ん???]「まだ、小さいから、今はだめだって言うよね。危ないから。でも、上手に使える年になったら、貸してあげるでしょ。神さまもいっしょ。時が来るまで、待たせることもあるんだよ。だから、受験できなかったり、希望の学校に落ちたりすれば、世の中では、最悪で悪いことかもしれないけど、クリスチャンにとっては、いい事なんだよ。神さまに従っていく時に、必ず、神さまが道を開いてくれるからね。お父さんとお母さんだって、そういう神さまを信じてるんだよ。すごいでしょ。」と話している間に、Iくんの家に到着。ご両親にごあいさつして、さようなら。 ちょっと、わんぱくが入ってきたIくんだけど(失礼!)、車中で、一瞬見せた真剣なまなざしに、厳粛な思いにさせられた。「願わくは、Iくんが、名前の通り、献げられた子として、信仰の道を歩む人生を送りますように。」そう、祈りつつ、家路についた。
2002年12月08日
コメント(8)

楽天仲間で、クリスチャン・ママの真路さん(日記リンク参照)の掲示板で、「祈り」について、その中でも、特に子育てに関する祈りについての話題で盛り上がっている。誰もが、激変する社会と未来に不安を覚え、でも、その中で祈りを通して、子どもを愛し、守り、神さまに委ねている熱意が、ひしひしと伝わってくる。そんな掲示板の中身を見ていると、ニュースで流れてくる社会の悲惨さ、異常さが、別世界のように思えてくる。そして、クリスチャンでいることが、神さまからどんなに平安を与えられるものかということを、改めて思わされる。(つくづく信仰を与えられてよかったと思うひととき)こんな愛に満ちたお母さんたちが、もっともっと増えればいいのにな。 10月に、東京のキリスト教書店で、何気なく買ってしまった1冊の本を、ちょうど読んでいる。 「子どもを守る30の祈り」ストーミー・オマーティアン著/原田治子 訳CS成長センター発行 楽天仲間の員子ガガさんの日記でも、ストーミー・オマーティアンの話題になったこともあったけ。http://plaza.rakuten.co.jp/kazukor/diaryold/20021111/ ほそぼそと、ゆっくり読んでいるが、この本、実に奥が深い。子どものための祈りの本なのだが、「祈り」自体について教えられることも多い本だ。祈りの力のリアリティ、実際に祈りが力あるもので、聞かれるものであること、また、私たちを神様の愛から引き離そうとする力の存在と、だからこそ、祈りによって、守り守られなければならないこと。 「人生における子供たちの戦いは、親の肩にかかっています。祈らない親は、戦場の脇に立ち、子供たちがあらゆる角度からねらいうちにされるのを傍観しているようなものです。祈ることによって、私たちは彼らと共に戦場に立ち、彼らの代わりに神の御力を行使するのです。」 「子供の将来にポジティブな変化を与えることは、今、この瞬間から始められます。早すぎることも遅すぎることもありません。わが子がまだ三歳の完璧なよい子も、お酒のせいで三度めの離婚を迎えようとしている三十歳でも関係ありません。彼らは人生のすべての段階で 親の祈りを必要としており、私たちの祈りによって非常な恩恵を受けることができるのです。」 それぞれのテーマに対して、ストーミーの祈りは、一貫して具体的だ。ただ単に、守られますようにとか、祝福がありますように、といった漠然とした祈りではない。 例えば「うそ」。ストーミーは言う。どんな小さなうそでも、うそはうそ。うそが通用することを子どもが覚えてしまうと、子どもの心の中に、サタンの足場を与えてしまう、死がしのび込むことになるとまで表現する。 他にも、みこころにかなうお友達、先生が与えられるように。学びが守られ、最善を尽くし、努力できるように。努力が報いられ、学ぶ楽しみを知ることができるように。子どもが自分が愛され、受け入れられていることを知ることができるように。子どもの心の中に、赦せない思いがありませんように。などなど。 具体的な祈り。大人の自分の実生活にも、どんどん応用できる内容だなぁ。「今日、出会う上司、部下、取引先の人との関係をスムースにして下さい。」「トラブルがあっても、怒ったり、憎んだりすることがないように。」「家族との関係に、あなたが介入してくださいますように。」「魅力的な異性に出会いませんように。」などなど。 そんな親に育てられなかったなぁとか、ややもすると、現世利益や厄払いみたいに扱ってしまう危険性もあるかもしれないけど、何よりも、祈りと聖書のことばが、具体的に力のあるものであること、そして、個々の問題に対して、実際的に、具体的に祈ることの大切さを、しっかりと教えられる。実感実感。お父さん、お母さんにお勧めの1冊。 (オリジナル・タイトルは 「The power of a praying parent」 だそうです。「親の祈りの力」かぁ。) ちらっ☆と 目次紹介 祈る両親になる子供を神の御手にゆだねる危険からの守り愛され、受け入れられている感覚永遠の未来を築く両親を敬うことよい家族関係を維持する子供の友人関係のために神への飢え渇きを育てる神につくられた者として生きる真理のうちを歩み、嘘を拒絶する癒しと健康自分の体に気を遣う命をもたらす言葉を語るきよさと純粋さの魅力恐れからの解放主からの全き心主の喜びの中に家系のくびきを打ち砕くアルコールやドラッグなどすべての依存・中毒を回避する性的不道徳の拒絶ゆるせない思いからの解放悔い改めつつ歩むサタンの要塞を打ち砕く知恵と見分ける力を求める信仰のうちに成長する仲間と一緒に祈り会を……。
2002年12月06日
コメント(17)
今日も、水ぼうそうの次女は自宅待機。幸い、熱もほとんど出ず、軽症だけど。 3番目の長男を連れて、ドライブがてら、地元系キリスト教書店、通称クリブクへ。本当の目的は、このHPにも来ていらっしゃる、きよきよ先生の本が、出版されたというので、もしかしたら、入荷してないかと思い……。残念ながら、入荷していなかったので、すかさず注文。(今日、はじめて見た。クリブクの白髪のおじさん!) 今日、ゲットしたもの「荒野の祝福 ~苦しむ人よ、起き上がれ!」 河用祚 ツラノ出版「信じたって悩んじゃう みなみななみの人生劇場」 みなみななみ いのちのことば社「小さな門につづく道」 みなみななみ いのちのことば社「夕べ雲焼くる 空を見上げれば」 藤井圭子 一粒社 帰宅後は、みなみななみの2冊を、一気読み。(実はまんがだけど) なんだかなぁ、3回くらい、泣いちゃったぜ。
2002年12月03日
コメント(6)
次女が、水ぼうそうにかかり、外出できないので、今日は妻は、礼拝お休み。そして、このHPの掲示板にもよく登場してくれてる「ちぼさん」が、関西旅行中、昨日から泊まりに来てくれているので、今日の礼拝は、ぽん#と、長女、長男、ちぼさんという、不思議な組み合わせで出席。 ● 子どもメッセージ こまなし自転車(注)に乗る時、こけないためには、思いっきりこいで、早く進むこと。でも、最初は、こわいから、ちょっとしかこげなくて、すぐに、こけてしまう。イエスさまを信じることも、最初は、こわくて、ちょっとしか、こげないこともあるかも。でも、おそるおそるからでも、少しずつ、信じて従っていこう。 (注) 関西では、補助輪のことを、「こま」と表現する。 ● 礼拝メッセージ 「勇気を出しなさい」 使徒の働き23章 「俺が責任をとる」と上司に言われ、全力投球し、困難な仕事に立ち向かったものの失敗。その上司は「『俺も責任をとる』とは言ったが、俺に責任を押しつける気か?」 不真実・不条理がうずまく社会では、よくありがちな話。 今日の箇所、使徒23章に出てくる ・大祭司アナニヤ ・千人隊長 ・総督ペリウス は、まさに、そのような不真実・不条理に生きる人々であった。・大祭司アナニヤ 当時の宗教指導者のリーダー しかし、自分の立場・プライドを守るため、本来のあるべき裁判の手順を 逸脱した制裁を加えようとさえする。・千人隊長 町で争乱が起き、パウロを保護したものの、当初は、犯罪者かもしれないと疑い、 取り調べのため、むち打とうとした時、パウロがローマ市民であることを知る。 しかし、上司には「ローマ市民であるパウロが殺されようとしていたので、兵を 出して、救出した」と、自分の手柄のように、微妙に表現を変えて、上司に報告。 ・総督ペリウス 24章を読むと、パウロに信仰の話を聞きに来たが、パウロからお金をせびろうと もしていたみたい。 (なんだ、みんな悪い人ばっかじゃん。水戸黄門や銭形平次のドラマみたい。私利私欲や、保身のために、駆け引き、相手を利用し利用され、時に裏切り、だまし、のし上がっていく。操作や裏取引は、しようと思えば、やりたい放題。2000年前も、江戸時代も、今も、社会は、けっこう変わってないんだなぁ。どろどろどろ。) パウロの運命は、このように、吹けば飛ぶような状態のもとに置かれてしまった!ピーンチ!1 パウロは、自分は神さまのものだと、確信していた11節で主のことば 「あなたは、ローマでも証しなければならない。」神さまはローマ以降の約束もせず、ただ、いずれ、パウロがローマに行くことだけを告げた。また、パウロも、ローマ以降のことを尋ねる節もない。ただ、その都度その都度、一歩一歩を示して下さる神さまを信頼していたに違いない。 2 イエスさまとの親しい交わり11節の、パウロが、神さまから約束をいただいたのは、きっと、常に、神さまとの親しい交わりがあったからに違いない。 (ビデオのたとえ話) 大逆転で勝った、という結果だけを知っているゲームのビデオを見る時の楽しみ。それは、どんなに、 試合内容が悪くても、途中、負けていても、どの辺が、クライマックスかな?と、わくわくしながら、 見られること。あ、ここから、逆転劇がはじまるか?お、このヒット(シュート)かな? なんて。パウロにとって、信仰生活は、このようなものだったかに違いない。結果を知っているから(約束を信じているから)、さあ、神さま、ここは、どうやって、切り抜けさせてくださるのか。わくわく、どきどき。 (イエスさまとの親しい交わり・祈りに対する誤解) アル中のご主人に苦労しているご婦人。毎日、屋根裏で1時間も2時間も祈っていた。しかし、牧師は 彼女に「そんなくだらない祈りはやめなさい!」 その女性は、祈りという形をとりながら、自分の心 を見つめていただけ。時間もかけてはいたが、祈りの姿勢をとってはいたが。 3 神さまだけを見上げる = 自分の欠け・失敗・見にくさを問題にしない確かに理不尽な言動をとる大祭司アナニヤに対し、パウロは「わたしは彼が大祭司だとは知らなかった」(5節)と、強烈な皮肉ともとれる発言。もしかしたら、パウロは、ぷっちんきてたかもしれない。パウロの不完全なところの現れかもしれない。自分の欠け・失敗・見にくさで、落ち込むことは、ある意味では、自分にのみ目をとめること。神さまは、その部分さえも、ちゃんと、用いて下さり、益として下さるから、上を見上げよう。 ● お昼の交わり いつもは、ややもすると、発言がさびしいことがあるが、今日は、なぜか異様な雰囲気。いつもは、一人ずつ順番に発言が一周するのだが、今日は、発言とコメント・反論がひっきりなし。まずは、メッセージの中の、アル中のご主人の奥さんのたとえ話が矢面に。「あの話は、あわない。」「結局、本人に、自分の心見つめてるだけだって、指摘しないで、やめなさいってしかいってないんちゃう?」「イエスさまがそこにいたら、ぎゅっと抱きしめて、よしよしって、慰めてくれるでしょ。自分の心見てるだけって言われたら……。」適応できる幅が多かった分、牧師の意図していない感情が、特に女性陣から引き出されたみたい。社会的に、自分に都合のいいように、見えないところで操作しちゃう件。部下がぽかして、上司が取引先に謝って、別に取引先も、いいよいいよ、今度、気をつけてね、で終わってるのに、部下があまりにも、ミスが多すぎるもんだから、ちょっと、お灸据えちゃえ、って「お客さん、かんかんだったよ!」なんて、ありがち。でも、それって、千人隊長とおんなじことだよね?あと、パウロの召しについて。「ほんなん、パウロかて、ユダヤでユダヤ人に伝道するん、いややったんちゃう?そんなパウロの気持ちも、神さま、くんでくれたんちゃうか?」エルサレムにはかつての仲間はいるし、かつて迫害したクリスチャンがいるし。もしかしたら、昔、捕まえ損ねたクリスチャンや、捕まえられたけど、後に釈放された人もいるかもしれない。エルサレムは、そんな意味で、パウロにとって、危険だし、つらい場所でだったんだろうな。異邦人伝道は神さまからの召しだったけど、そんなパウロの気持ちも、考慮されたのでは、という視点には、目からうろこだったぁ。 ● 結婚式慰労会23日の結婚式準備委員が、秘密裏に(でもないけど)一同に会し、反省と感想の後、コーヒーとケーキをほおばりながら、式の様子をビデオ鑑賞。新郎の熱い眼差しに、一同感激。(あっ、あの日の日記、ほったらかしだっ)
2002年12月01日
コメント(0)
全22件 (22件中 1-22件目)
1
![]()
