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March 26, 2024
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カテゴリ: 教授の読書日記
マイケル・リット・ジュニアとカーク・ランダースの共著になる『「成功哲学」を体系化した男 ナポレオン・ヒル』(原題:A Lifetime of Riches, 1995)という本を読みましたので、心覚えをつけておきましょう。

 っていうか、これ、再読なんですけど、前には心覚えをつけておかなかったので、改めまして。

 ナポレオン・ヒルは、泣く子も黙る自己啓発本の王者『思考は現実化する』の著者なんですが、その割に伝記が無かった。まあ、自己啓発本の著者なんて、文学史的には馬鹿にされていますから、それも珍しいことではないのですけど、ヒルの場合は、ナポレオン・ヒル財団というのが作られているので、そこがこの伝記を企画し、ようやく一応は伝記的なものが書かれたと。

 ただ、そういうものとして、結局、お手盛りの伝記になっているわけですよ。悪いことは書かない。っていうか、書けない。だから、ここに書いてあることを、100%真実だと見做すのはちょっと、っていうところがある。話半分で読まないといかんわけ。

 まあ、それはそうとして、ざっと見ていきます。

〇ナポレオン・ヒルの実母サラは、ヒルが9歳の時に他界。そのため、ヒル少年は近所でも評判の悪ガキに。(29)

〇サラの死から1年後、ナポレオンの父ジェームズは再婚。この再婚相手のマーサがいい人で、彼女のお陰でヒルは真っ当に育つことに。(31)

〇ヒルが12歳の時、マーサは、銃と交換する条件で、ヒルにタイプライターを買い与え、これがヒルの文筆業を志すきっかけとなった。(34)

〇ヒルは、一時期弟と共にロースクールに通うが、その際、Bob Taylor's Magazine という立身出世雑誌を出していたロバート・L・テイラーという人物の元でフリーランスのライターのバイトをする。その後ロースクールでの学習に飽き、法曹の道は断念。(56)

〇結局、1908年、25歳の時に、先の雑誌会社に勤めることになり、産業界の名士にインタビューする仕事に就く。そこでインタビューすることになったのが、アンドリュー・カーネギーだった。(59)

〇同じ1908年、ヒルはフローレンス・エリザベス・ホーナーと結婚。(77)

〇結婚した13カ月後に、ヘンリー・フォードにインタビュー。その場でT型フォードを680ドルで購入。フローレンスの顰蹙を買う。(84)

〇1912年11月11日、次男ブレア誕生。ブレアは耳の障害を抱えていた。(90)

〇1913年冬、家族を置いて単身シカゴに出たヒルは、ラサール・エクステンション大学の宣伝・販売部門に就職。ここで「人に教える」ことについての自分の才能に気づく。(93)

〇その後、1915年に「ベッツィ・ロス・キャンデー・カンパニー」なる菓子製造業を起こすが失敗。企業よりも教育が自分の天性であると悟り、1916年、通信教育コース「ジョージ・ワシントン・インスティテュート」を設立。(-102)

〇1917年、アメリカは第1次世界大戦に参戦。ヒルは既知の間柄であったウッドロー・ウィルソン大統領に手紙を書き、何らかの貢献を志願。その結果、ウィルソン大統領からプロパガンダ資料作成の仕事をオファーされる。ヒルはこの申し出を無給を条件に受ける。(106)

〇1918年11月、休戦を申し出るドイツに対し、カイザーの退位を条件にすることをウィルソン大統領に進言。(110)

〇1918年11月11日、終戦の日、黄金法則に基づく資本主義の再編というアイディアを思いついたヒルは、その思いを文章にし、シカゴの印刷業者ジョージ・ウィリアムズに見せたところ、同意を得ることに成功する。(-117)

〇1919年1月、『Hill's Golden Rule』なる雑誌創刊。そこそこの成功。
 「この成功は、ナポレオン・ヒルの才能、忍耐力、そして彼のユニークな編集コンセプトの証明であった。
 当時、アメリカには数え切れないほどの宗教関連雑誌があった。おそらく、ビジネスに関する雑誌の数はさらに多かっただろう。しかし、"Hill's Golden Rules" は、この二つの分野を統合したユニークなものだった。それは倫理的ガイダンスと成功の秘訣を統合させた、前例のない雑誌だったのだ。」(120-121)

〇「すべてのストーリー、人物描写、意見は人生における二つの真実を読者に教えていた。一つは、「自分がしてほしいと思うことは、なによりもまず他人にそうしてあげることだ」という黄金律こそが、ビジネスと人生における成功の切符であるということ。もう一つは、ゴールを定め、障害物や失望をものともせず、それを追求する人物が成功するということであった」(122)

●「狂乱の一九二〇年代は、ナポレオン・ヒルにとって新しい時代の到来を意味した。彼は自分のことを、成功した雑誌をつくり出した才能ある文筆家兼哲学者ととらえていた。(中略)
 ”Hill's Golden Rule” の誌面は毎月、ビジネスの世界で成功するよう、労働組合や社会主義といったアメリカ社会における反競争的要素と闘うよう、読者に勧める何万もの単語によって埋め尽くされていた。
 当時の伝統的保守主義者たちとは違い、ヒルは資本主義の行き過ぎを正当化したりはしなかった。彼は理解しやすい哲学を構築し、放任資本主義を一般人にとってずっと魅力的で身近なものとした。それは「高い身分には道義的な義務が伴う」という、古くからあるヨーロッパの概念に二〇世紀のアメリカ独特のひねりを加えたものであった。
 このヨーロッパ産に概念は、貴族には富と権力を支配する権利があるが、同時にそれらを公正に賢く運用する義務もあるというものである。「すべての人間には、成功を手に入れるだけでなく、手に入れたなら、人生と財産のある部分を他人が同じゴールに到達するのを手助けするために捧げる義務がある」とヒルは説いた。
 ナポレオン・ヒルの哲学は、物質主義と道徳を、そして資本主義とヒューマニズムを統合していた。
 何千人何万人ものアメリカ人にとって、彼の説明は説得力があった。彼の哲学は、苦しい状況を乗り越えようとしている人々に希望を与え、厳しい労使対立をやわらげた。彼は野心を抱く労働者に、ストライキをやめ、自由の国アメリカで彼らが見いだすことができる無限の可能性の中から、もっといい機会を見つけるよう説いたのである。」(124-125)

〇Hill's Golden Rule の表紙絵あり。「A Business Magazine of a different kind」の文字あり。(127)

〇この雑誌はそこそこの成功を収めたが、ジョージ・ウィリアムズと不和になり、ヒルはこの雑誌から手を引く。(127)

〇1921年4月、新雑誌『Napoleon Hill's Magazine』創刊。『Hill's Golden Rule』より判型を大きくし、目立たせた。(128)

〇「加えて、新雑誌は毎号、インスピレーションを与えることを目的としたフル・ページ・メッセージで彩られていた。実際に大きな活字で組まれたこれらのメッセージは額縁に入れるのに最適であった。これらの「ページ・エッセイ」は、他の雑誌における全面広告と同じ効果を生み出していた。それはグラフィックと編集の両面で、記事と意見のページに緩衝地帯を生み出していたのである。」(130)

〇1921年夏、ヒルは文筆業よりも講演業に力を入れていた。
 「当時、彼は二つの講演シリーズに基づいてスピーチを行っていた。
 一つは”Magic Ladder of Success”と『呼ばれ、ビジネス団体を対象としたものであった。これは、ヒルが成功の基盤であると信じていた十五の原則を網羅したもので、黄金律の哲学に忠実に、ヒルが最も大切にした理想を織り込んだ。それは友好的な協力、そして人種的、宗教的不寛容、憎しみ、ねたみの追放であった。
 彼のもう一つの講演シリーズ”The End of The Rainbow"は、純粋にインスピレーションの喚起を目的としたもので、市民グループや宗教団体を対象としていた。
 これはヒルが「私の人生における、七つの主要なターニング・ポイント」と呼んだものに基づいていた。彼は自分の個人的、そして仕事上の成功と失敗、そしてその両方から、彼が学んだ教訓について話した。ヒルは、こうした自分が得た教訓を、人生を乗り切る上での指針としてほしいと願い、聴衆に伝授したのである。」(133)

〇「ヒルの、影響力を持つ話し方をフルに活かすため、このコースには教科書一〇冊だけでなく、六枚のレコードがつけられた」(134)

〇1922年、火事でそれまでのすべての記録を失う。(142)

〇1926年、『カントン・デイリーニューズ』の発行者ドン・メレットと共同で、USスティールの会長の庇護の下、「成功哲学」を説いた本の出版に向けて計画を進めるが、ドン・メレットがギャングに殺害され、計画が反故になり、ヒルも隠遁生活を強いられる。(147⁻150)

〇1927年、カーネギーとの約束からほぼ20年が経ち、いよいよ成果を出すことを決意。1500ページ、8分冊の成功哲学書の刊行を計画。コネティカット州の印刷業者アンドリュー・ペルトンに対し、外連味たっぷりのセールスを行い、この本の出版を引き受けさせる。それまでヒルがアプローチした出版社は、すべて文学系出版社だったが、ペルトンの出版社は自己啓発本の出版社だったことが幸いした。(-162)

〇リライトは1927年の暮れから1928年3月末まで続き、その結果、完成したのが『Law of Success』。8冊の分冊で販売され、一冊4ドルでバラ売り。全巻揃えると30ドルだが、1929年当時、30ドルあれば一家四人が一か月生活できたという。それでもバラ売りの効果か、それなりに売れた。(166)

〇『成功哲学』で説かれていたのは理論ではなく、事実と証拠であり、「個人のための資本主義の福音」であって、こういう種類の本が出されたのは初めてのこと。(167)

〇小売り業にとって、『成功哲学』は現在の「シリーズもの出版物」の先駆け。第一巻を買った人は、第二巻、第三巻・・・と繰り返し買って行くので、書店にとってはありがたいものだった。(167⁻168)

〇『成功哲学』の第一巻の主要レッスンは、「マスターマインド」。この法則は、「二人で考えるほうが一人で悩むより良い」という古来の格言を実用的に発展させたもの。ユニークではないが、ヒルはこの法則をビジネスに応用した、という点で独創的だった。マスターマインドを組むことで、ビジネス上の協力関係にある人々の間の軋轢を取り除き、すべてのエネルギーを市場にそそぐことができる点で、大きなメリットがあった。事実、当時26歳だったクレメント・ストーンは、マスターマインドの考え方を自社と自分の家庭に応用し、効果を上げていた。(168⁻169)

〇また第一巻には、振動する流体である「エーテル」に関する抽象的な議論も展開している。人間の思考の波はエーテル中で永遠に振動し続ける、的な。ゆえに、この本は「狂人の戯言」とみなされても仕方ない類のものでもあった。(169⁻170)

〇『成功哲学』の好評により、1929年夏、ヒルと妻は、一時的な裕福さを味わう。そしてニューヨーク州キャッツキル山脈のふもとに、成功哲学を教える学校を作らんと、夢を見た。(174⁻)

〇1929年の年末、ヒルは次の作品『The Magic Ladder to Success』の執筆に入っていたが、ここで世界大恐慌勃発。(183-)

〇『Magic Ladder』は恐慌のために売れず、1930年10月には、ヒル一家は再びどん底へ。(186)

〇1931年4月、ワシントンDCに移ったヒルは、「Mental Dynamite」と題した講演シリーズのプロモーションを開始。その他、貧困を脱出する様々な企てを立てるが、すべて失敗に終わる。(187-)

〇1933年、50歳の誕生日を迎える直前、ヒルはルーズベルト政権からアプローチされ、国家再建本部のスタッフになる。ウッドロー・ウィルソン政権の時と同じく今回も無報酬を申し出る。ルーズベルトの「私たちは、恐怖そのもの以外、何も恐れるものはない」というフレーズは、実はヒルが考案したものだった。(189⁻190)

〇ルーズベルト政権が大恐慌から国を立て直すことに成功したのも、ヒルのマスターマインドの考え方を政権が取り入れ、国を挙げて不況克服のゴールに集中することが出来たからである。(196)

〇1935年、多忙により齟齬の大きくなったこともあり、フローレンスと離婚。(198)

〇1936年年末、ローザ・リー・ビーランドと出会い、「情欲を掻き立てられ」結婚。(200⁻201)

〇しかし、ローザ・リーは、後に書いた本の中で、「金のために結婚するのは、他の動機と同じく立派なことだ」と主張していたように、ヒルを金づると見ていた。(202)

〇ヒルはこの頃、『The Thirteen Steps to Riches』という本の原稿を書いていたが、ローザ・リーはこれを励まし、自らタイプを打って三回に及ぶ書き直し作業を手伝った。(203)

〇ヒルの出版を担当していたアンドリュー・ペルトンは、当初、難色を示したが、ローザ・リーに押し切られる形で出版に同意、タイトルを魅力的にすることが条件となり、『Think and Grow Rich』というタイトルで出版された。当初、一冊2.5ドルで5000部だった。そして、不況下であるにもかかわらず、本書は飛ぶように売れた。(204)

〇本書の成功は、理論的に『成功哲学』に基づいていたこと、カーネギーとのエピソードのユニークさ、そしてローザ・リーが本書の明確さ・簡潔さに貢献したことなどが挙げられる。性衝動をビジネスに活かすことなど、初期にはなかったものも入っていた。想像力がビジネスに重要であることを指摘していたことも、この本が初めてだった。(206)

〇クレメント・ストーンは、1938年にこの本に出会い、実際に彼の会社は、この本に基づいて大きく成長した。(208⁻209)

〇1940年には、ヒルの財産は100万ドルを超えていた。この年、ローザ・リーは『How to Attract Men and Money』を出版。この後、両者の関係は悪化し、裁判の末、1941年3月に離婚成立。(212)

〇その後、失意のヒルは、サウスカロライナ州クリントンで織物業の広報を担当していたオーアム・プラマー・ジェーコブズに招かれ、この地で労使関係を改善するために手を貸す、という仕事をもらう。(214⁻215)

〇ここでヒルは『Mental Dynamite』の改稿・執筆をしていたが、同時にアニー・ルー・ノーマンという女性と出会い、ゆっくりと二人の交際が進むことになる。(220)

〇1941年末、『Mental Dynamite』出版。(228)

〇しかし、この頃、第二次大戦が勃発。紙が配給になり、出版事業には痛手となる。(228)

〇ところが、軍事物資の生産をしていた地元の業者ルトゥルノーに、労使関係改善のアドバイスを求められ、この分野で再び活躍。(230)

〇1943年、ヒル、アニー・ルーと結婚。(240)

〇ラジオ番組で、成功哲学を説くようになり、評判になる。(242)

〇1949年、65歳でセミリタイア宣言。(243)

〇1951年、シカゴで講演をしたヒルは、知人の紹介でクレメント・ストーンに会い、ここからヒルの晩年の活動の扉が開かれる。(248)

〇1952年8月、「ナポレオン・ヒル・アソシエイツ」結成。(251)

〇1953年、ヒルとストーンとの共著『Science of Success』(後の『PMA Science of Success』)の最初の一巻が出る。これは例の17の成功法則の自習紙上講座。(254)

〇1953年、ヒルとストーンは『How to Raise Your Own Salary』を出版。アンドリュー・カーネギーとの対話形式で、成功原則を語るという趣向。本書は、ヒルの文才を、ストーンの販売力で売る、という形式のパワーが存分に発揮され、ストーンは様々な媒体を使ってこの本の販促を行なった。なかでもラジオ/テレビ・パーソナリティーとして活躍していたアール・ナイチンゲールがヒルの信奉者だったことから、ナイチンゲールも熱心にこの販促に協力した。(255⁻256)

〇アソシエイツの発展には、デール・カーネギーやノーマン・ヴィンセント・ピールも協力。(267)

〇1959(1960?)、ヒルとストーンは共著として『Success Through a Positive Mental Attitude』(『心構えが奇跡を生む』)を出版。ほとんどはストーンが書いていた。

〇1961年、78歳になったヒルは、アソシエイツのフランチャイズ化を企画。これはあまりにも無茶であるということで、ストーンはアソシエイツ事業をヒルに委託して、自らは手を引いた。(271)

〇1962年8月、ヒルとアニー・ルーは「ナポレオン・ヒル財団」を設立。(276)その目的は、『アンドリュー・カーネギーの協力による、ナポレオン・ヒル博士の生涯をかけた研究、著作、教義を永遠のものにすること」。(277)

〇1970年11月8日、ヒルは87歳にて永眠。(287)


 ・・・というような感じかな。

 さて、一巻を通じて学んだのは、黄金律の重要性。

 黄金律はキリスト教徒にとっては非常に重要な概念であるけれども、ヒルはこれをビジネスの極意として位置付けた。これによって、キリスト教徒のビジネスマン化に貢献したということ。

 それから、彼のマスターマインドという考え方が、彼の生きた時代には大きな問題であった労使関係の改善に用いられ、効果を発揮した、ということ。つまり、アメリカが嫌悪する社会主義的な発想を廃して、それでもなお労使が力をあわせることで、労使の間にウィンウィンの関係が築けることを実証したこと。これも大きかった。この意味で、実際にヒルが二つの政権に協力したかどうかは別としても、彼の思想が、政権にとっては非常に受け入れやすいものであったことは事実。だから、彼が自分の思想の政治的活用を夢想したとしても、それは納得できる。

 そして、分冊方式での本の販売や、オーディオ・ブックの販売、メディア・コングロメリットによる本の販促といった、革新的なマーケットを試みた、という点も評価できる。

 これらのことが納得できたことだけども、本書を読んだ甲斐はありましたね。

 それにしても二番目の奥さんのローザ・リーは、したたかな女だなあ・・・。


これこれ! 
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Last updated  March 26, 2024 04:53:11 PM
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