《違いをもたらす40日 第16日目》
あなたの人生は
あなた一人だけのものではありません。
また、
あなたに与えられている
それらの賜物も、
あなたの個人的な
楽しみだけのために
あるのではないのです。
しかしながら、
その賜物の用い方が
間違った動機でなされている場合、
信仰生活や教会生活の中で
クリスチャンの口から
実に様々な 不平不満
の
言葉を耳にすることになります。
「わたしがこれだけしているのに、誰も見てない」
「これだけしてやっているのに、ねぎらいのことばもない」
「わたしがこれだけしているのに、あの人この人は何もしていない」
「これはわたしがずっとやってきた働きなのに、なぜ、あんな新米がのうのうとやっているのか」
とうていクリスチャンの
口から出るとは思えない
これらのつぶやきは、
実は、
「間違った動機で、
自分の喜びのために
、
賜物を利用している
とき」
に産み出されるようです。
どういうことかというと、
神様の働きに貢献するために
与えられた賜物
を、
人だけに貢献する目的で
使ってしまうという間違いです。
もちろん、
人に貢献することは
素晴らしいことなのですが、
人に喜ばれようという
目的ばかりを求めるとき、
その裏側には、
「人から誉められたい」
「社会から認められたい」
「正しい人、よい人と思われたい」
というような、
「世のため人のため」と言いつつも、
結局は、
自分自信の勝手な
満足心を満たすため
、
になってしまう場合が多いようです。
ですから、
賜物を
神様に貢献する目的のために
正しく用いるのです。
そして、
神様に喜ばれることをすれば、
もちろん結果として、
人にも喜ばれるのです。
たとえ、
誰も見てなかったとしても、
誰からも称賛や労いの言葉がなかったとしても、
神様はすべてを見ていてくださり、
ねぎらい、報いてくださいます。
むしろ、
人に誉められてしまえば、
「彼らはすでに報いを受けている」(マタイ6:2-3)
と聖書は諭しているのです。
貢献したことで
見返りを求めてしまうのではなく、
もうすでに、イエス・キリストの救いという
素晴らしいプレゼントをいただいたことへの、
わたしたちの心を尽くした応答として、
賜物を捧げ、
用いさせていただくのです。
賜物を出し惜しむことなく
神様のために
捧げるならば、
それは祝福され
増やされ
聖霊の力添えを
溢れるほどに受けながら、
不可能と思われることが、
可能とされるような
神様の偉大なる
宇宙規模の働きに
参加することができるのです。
長々と回りくどく言いましたが、
まとめて言えば、
あなたは神様に
「貢献」するために
造られました
。
あなたの賜物を
正しい動機で
真実に捧げるなら
今です。