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正式に離婚届けへサイン・捺印するよう、納得させるまで根気が要る日々だったけど、なんとか説得し、晴れて離婚した。離婚を期に子供たちを連れて、関東地方へ引っ越した。子供たちと、三人での生活。もちろん、不安は大きかった。しっかり食べさせていけるのだろうかと、不安を顔に出さぬように振舞った。生活面での不安にあわせ、借金も120万近くあった。借金を全て引き受けてまで離婚したかったのだ。新しい職につき、その給料で以前住んでいた町のIターン援助金の一部、40数万を返済。そのほか、車検費用及び食料を立て替えてもらっていた知人に約45万、その他にMが一時帰国のときに持ち帰ったミキサーテーブルとパソコンのローン十数万と引越し費用・・・ええ、払いましたとも!知人や町役場へは分割払いをお願いして毎月の給料から食費だけを残し、全部送った。更に、離婚と帰国を納得させるために提案したブラジルの大学費の援助、月3万円を2年間送り続けた。約束では、働きながら生活費を稼いで、学費は私が送ることになっていた。大学は、2ヶ月くらい通っただけで、学費払えなくて退学。後に聞いた話では、母親との共同生活が嫌で不満を撒き散らし、自分の「キャリア」には、賃金が低すぎるとか大ぼらばかりほざいて、仕事を選びすぎ、職にも就けず母親に愛想つかされて、出て行かれた。食事の世話になっていたのが、無くなったものですから一日二回外食で、ビール付。・・・それじゃぁ、学費も無くなるわけだ。それを知らずに、月3万円~送り続けた。二、三回7~8万円送ったこともある。ブラジルの生活費、一般家庭で(2~3人くらい)の生活費だけだったら、月3万円で十分のはず・・・どうりで、羽振りが良かったはずだ。こちらでは、私立高校へ通う娘の学費も危うくなるような有様だったのに、よくもまぁ、そんな生活ができたものだ。Mの妹に電話した時に、その生活ぶりの話が出て送金していることを言ったら、送金を止めるように忠告された。「大の大人、それも健康な大人を養うことは無いし、子供二人引き取ったあなたが送金することは無い。」とね。送金を止めると伝えたら、そこでまた一モメありましたよ~そりゃあ、金づるがなくなるんだもの。訴えるだの、どーのこーの・・・・・・ははっ、大学資金援助?信じた私が、バカみたい。でも、2年間仕事づけで送金や借金返済してかなりきつかったけど、やっと、あの変質的な束縛と理不尽な結婚から開放されたと思っただけで報われたものだった。一歩踏み出す勇気が無かったら、今がどうであったのか想像もしたくない。最初の一歩を踏み出す勇気を持てて、良かった!私自身にも、子供たちにも、絶対良かった!
2006.03.03
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「希望は、一番最後に死ぬ」ポルトガルに、このような諺があります。今日まで断片的に過去に起ったことを書いてきました。過去には辛いこと、悲しいこと、数え切れないほどありました。でも、辛い時も悲しい時も、この諺を思い出し、絶対、この状況は変わる! 絶対、好くなる!絶対、幸せな日々が来る!と信じて、全ての物事を必ず良い方向へ行くように、考えるようにしていました。物事がうまく運ばない生活で、元夫には、自分の祖国を離れ言葉が話せないので、自由に意思表示できないからストレスが溜まり、鬱になったりしたのだと責任を感じていたのかもしれない。何時か起るだろう好転を願いながらできるだけの努力をして、何度も、何度も、自分の気持ちを抑え相手を持ち上げるように努めました。それは、夫婦として、当たり前な行動だと思っていたし、心の底で、「何時か、気づいてくれる・・何時か解ってくれる・・・」と、願いながら、離婚へ踏み切るのを、何度も何度も、思いとどまりました。でも、最終的にお互いの尊重がないと解り、諦めました。そして、結果的には、離婚を決意したことが好転へのきっかけだったとしか、今は、思います。希望を持つことは、忘れてはならないけど、見切りをつけ、諦めることも大事だと、解った。そうでもしないと、人間としての自分をダメにしてしまうから・・・
2006.02.21
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借金地獄・・・といっても、そんなに膨大な金額でもない。100万以下のはなしだ。町の助成金で、一部返済した。そのころ、Mにドライバーの仕事を見つけ、関東から九州全域まで走り回っていた。私も、次女を保育所に預け、隣町で事務の仕事をしていた。彼なりに努力していた。工場内に縛られること無く、自分一人で行動することは自由だと感じていたようだ。数ヶ月、順調だったが、仕事の割合に、給料が少ないと思い始め、また愚痴の嵐が始まった。毎月、給料日の後は最悪だった。ある日、鬱憤晴らしに飲みに出かけたいといって出かけ、朝帰りをした。滅多にないことだから、大目に見た。その後もドライバーの仕事を続け、落ち着いたのかと思っていた。・・・ある週末、家の前にトラックを止めて洗車した。いつもの事だった。私は、寝泊りする室内を掃除するよう頼まれて、掃除機かけていた。すると、マットの下に長い髪の毛が数本・・・?先週、掃除したのに?冗談交じりに問い詰めたら、口論になり、Mがほざいた言葉が「あの飲みに言った夜、女の子と一緒だったんだ」「日本人女は、ふしだらで尻軽だから、飲ませて誘ったら喜んでホテルまでついてきやがった」「手荒くヤッテも、喜んでいたぜあのビッチ・・・」「日本人女と遊んで、どれだけ日本人女がバカでダメな女だか分った。お前と同じだ」「ただ遊んで、踏みにじってやりたかっただけ」「トラックに乗せて、九州まで連れて行ったんだ」「キャビンの中で何度もヤッタさ!」・・・離婚を決心した時だった。
2006.02.17
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そう思っても、自分が家を出た経緯、来日した時の希望を棄てきれず、私の実家に、これまでの数多くのトラブルは一切話していない。愚痴一つ、言ったことがない。自分が選んだ道だったから、愚痴を言えなかった。次女が生れてからも、なんとか生活を改善して行こうと努力した。Mも、自分がいる環境を変えたかった。同郷の人たちとの交流、家族以外のブラジル人との付き合いがないし、悩み事や愚痴を聞いてくれる友が近くに居ないから身近にいる私に全てをぶっつけるので、口論になったり、傷つけたりするのだと言った。そして、どういったきっかけだか忘れたけど、次女が四ヶ月の時に友達の紹介で他県へ転職を兼ねた引っ越しをした。同郷の友達だった。その夫婦の近くへ引っ越した。希望を持ち続け、頑張って行こうと約束した。友達もいるし、きっと良くなる。Mは、友達と思っていた人に期待をかけすぎ、自分の思う通りにことが運ばず、その友人たちと上手く行かなくなり、彼らの期待を裏切るような形で「友情」に傷つけ、信用まで失った。八ヵ月後、以前いた中国地方へ戻った。引越しなどの費用が嵩み、借金だけ残った・・・戻っても、すぐ仕事には就けず別のブラジル人のコネで、ワンルームのアパートに2ヶ月いさせてもらった。そして、次女の出産の時にお世話になった知人の勧めもあり、ある小さな町のIターン制度を利用してその町に住むように決めた。少なくとも10年は町内に住むということで、50万円の援助金を受けた。それでも、借金を払いきれず毎日請求の電話が来た。毎回、電話に出ると、請求。支払いの期日を言っても、払えないことがあり、一ヶ月も支払いが遅れると脅迫めいたことまで言われたりした。電話に出るのも嫌になって常に留守電にしていた。
2006.02.17
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転職を繰り返し、鬱病になり、子供を否定したM・・・出産準備も、ほとんど手伝ってくれず、お金が無くて、ベビー服もろくに買えなかった。別の知り合いにミシン借りて、数枚自分で縫った。それは、苦痛ではなかったのでむしろ、気分転換として良かった。ベビー用品、ベビーベッドは知り合いが、お子さんたちのお古をくれたので、助かった。入院の十二日間、娘をその知合い宅に預けた。いざ入院し、帝王切開で出産した。 次女が生れた。 Mは、次女が生まれてからもしばらくの間、抱こうとしなかった。生れて数日後、病院でのこと・・・色白でグレーの瞳をしていた次女を見て「この子は、俺の子じゃない!」 と、言った。・・・もう、呆れるしかなかった。退院して帰ってからも、抱こうとせず、長女だけが健気に手伝ってくれた。次女を見ては、「俺の子じゃない。xxxか○○の子じゃないのか!?」と、知り合いや義理兄の名前をだした。・・・これは、もう、鬱とは関係ない。もう、この結婚はダメだと思い始めたときだった。
2006.02.16
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仕事、収入も安定し、安心しきった頃妊娠した。私は、嬉しかった。でも、Mの第一声は・・・「子供はいらない!」そして、「日本では、産むなといっただろう!」ショックだった・・・娘の前でも憚らず、「いらない」と、言い続けた。そして、妊娠によって不安を煽ったのか、Mの様子が、変わった。そして、安定していた職場にまで影響が出てきた。人間関係が、悪くなったといい始めまた不満を募らせ、愚痴を吐き「子供はいらない。産むな。」と、言い続け、赤ちゃんの存在を否定した。私一人で、作ったわけじゃないのに・・・そしてある日、自分が吐き出している暴言に気づき、泣きながら、誤った。そして、自分から精神科へ行くといった。自分で、変だと気づいたらしい。医師から、鬱病だと言われ、帰国を勧められた。医師に、鬱についての説明を受け、鬱には波があるから、落ち込んでいる時には、彼から目を離さないようにと言われた。仕事も、休みがちになりまた、生活が苦しくなり始めた。私もつわりがひどく、休みがちだったが、無理してでも、仕事に行った。そして、ほとんど毎晩、泣いた。娘も、一緒に泣いた。娘に、「お父さんが心の病だから・・・言ってることは、本心じゃないから」と、言い聞かせた。お腹も目立ちはじめた頃、溶接の工場を辞めた。そして、また、職探しの日々が続き、そのために、何日も仕事を休んだ。運良く、大型トラックドライバーの仕事を見つけた。Mは、一週間のうち、大半を外で過ごすようになった。臨月に入り、その頃にもまだ出産について不満を持っていたらしい。
2006.02.16
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相変わらず転職を繰り返していたM、住居だけは県営住宅に入居することができ、一見落ち着いたように見えていた。私も自動車免許を取得し、縫製工場3年半目に辞めて転職した。家から車で30分ほどの所にある電子関係の工場に正社員として勤めることにした。そこには、100人近くのブラジル人が派遣会社を通して働いていた。一年現場に勤め、二年目に技術部へ移動され、執務係りでデーター処理、日報や週報、ファイリングなどをしながらマニュアルの翻訳などもした。ブラジルで勤めていた頃のような仕事に就けて、満足していた。その当時、Mは、大型免許を取りドライバーをしていたが、相変わらず不満をもち、しばらくして辞めた。数日間、職をさがしたが、見つからず知り合いのコネで派遣会社を通して、送迎担当兼従業員として、私と同じ会社の工場に勤めることになった。・・・私は賛成ではなかったが、仕事してもらわないと困る。数ヵ月後、とあるイベントで、現場で同僚だった若い子に手伝ってもらうことになった。そのイベントの帰り、自宅によってお礼を兼ねた食事をし、帰りが遅くなってしまった。駐車場が離れていて、暗いので危ないから、Mが駐車場まで送ることに・・・そこまでは、紳士的で良かったが、戻るのが少し遅かった。様子がおかしいなと思いつつ、ほうっておいた。彼女も、翌日なにも言わなかったし、いつもどおりだった。・・・でも、数日後とあることでMを問い詰めて、聞き出した。その子に迫ったのか、迫られたのか、キスしたらしい。「つまみ食い」したかったのだろう・・・それからしばらく、Mが勤め始めて2ヶ月たったころかな・・・送迎していた内の一人、送迎のことでブラジル人女性ともめた。場外で解決すればいいものを、工場内の準備室で派手な口論になった・・・。工場の上司の耳にも入ったので、Mは辞めるしかなかった。正直言って、迷惑だった。せっかく安定した職場についたのに、Mが起こしたもめごとのおかげで、居心地悪くなってしまった。Mは、私まで巻き込もうとして「あんなビッチがいる工場、辞めてしまえ」とまで、言ってぐだぐだ言ってた。(聞き流したけど、不愉快だった)その後、仕事を探して(勿論、私が)溶接工として、市内の工場に勤め始めた。そこには他にブラジル人もいなかったし、物珍しさもあったのか、工場の人たちと仲良くなり上機嫌で勤めていた。生活もやっと安定したかのように見えて、収入も、やっと人並みになった頃、安心しきっていたのか、妊娠した。
2006.02.16
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娘の来日後、二週間後くらいに友人夫婦と一緒に娘をディズニーランドへ連れて行った。長い間、おばあちゃんに預けたままだったし誕生日も一緒に過ごせなかった償いだった。Mの腰痛を気にしながらも、一日を過ごしたが、夕方のパレードの時に倒れ、座り込み、立てなくなった。腰痛のピークで歩けなくなった。フィナーレが近づくまで、Mは、横になったまま花火を見ることになった。なんとか車まで歩いてゆき、帰りは友人にも運転してもらった。その日以降、腰痛は悪化するばかりで、仕事を辞めることになった・・・その後、約7ヶ月、一人で働いた。母が、一緒にいてくれて、娘の面倒を見てくれた。Mの腰痛が落ち着いた頃、派遣業者が、別の工場へ紹介してくれた。体力を使う仕事ではなかったが、残念ながら腰痛に悩み続け、結局、仕事を辞めた。地域内で仕事を探したが、長時間、重労働ばかりで、仕事に就けないまま時が過ぎた。一年になる頃、職業安定所で、中国地方の縫製工場に仕事を紹介してもらった。日本人と同じ待遇で、社会保険と厚生年金にも加入し、安い賃金ながらも、安定することが出来た。でも、Mはそこにも、二年持たなかった。(ここが、一番長かった)腰痛の治療がうまくいって、多少の重労働も可能になったからと、工場を辞めた。仕事探しには、必ず付き添い、チラシをみては、電話して交渉し、仕事を探した。その後も仕事を転々とし、一年に2箇所以上職場を変わったこともある。
2006.02.15
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幸い、叔母の機転で、叔母が母から預かっていたお金を送ってくれ、電話した二日後に届いた。電話した日の夜から二日後まで、残っていたインスタントラーメン2パックと工場で弁当を食べて凌いだ・・・これが、一月のことだった。M本人が抱える腰痛の問題に関しての不満、娘の来日に関しての不安・・・私たちの間でトラブルが絶えなかった。2月下旬、東京にいた姉が週末に泊まりに来た。姉がいる前でも、不満の愚痴、それを宥めようとする姉にまで暴言を吐いた。注意した私と口論になり、姉の前でも手をふりかざした。憚ることなく、殴ろうとした。姉も、呆気に取られた・・・3月の中旬、娘が来日する日が迫り娘を連れてくる来ないで、口論のすえ、殴られた。Mは、私の上に跨って何度も殴った。振り払って、110番通報した。取り上げられ、切られた。警察から確認の電話がかかってきた。脅され、その当時の国際電話が001番だったのだが、掛け間違えたと言った。その後も殴られた。アパートから飛び出し、近くの港へ走っていった。余程、飛び込んで死のうと思った。でも、娘の顔が脳裏に浮び、思いとどまった。少し落ち着いてゆっくり歩いて帰ろうとしたとき気が付いたのだが、下着の上に大き目のトレーナーだけ着ていた。ゆっくり歩いていくとパトカーがゆっくり巡回しながら向かってきていた・・・見られたら・・・とっさに、ちょっとくぼんだ(田んぼのほとり?)電柱の後ろに隠れた。じっと、身を潜めた。アパートに帰り、誤るクソヤローに目を向けず布団に入った。その夜から、翌日にかけて腹痛に襲われ苦しんだ。その時、私は妊娠していた。生理不順だった私は、生理が遅れているのには気づいていたが、妊娠の兆候は無かったが、2ヶ月目だった。ちょうど週末で、同僚の隣人の車で病院の救急外来へ行った。切迫流産寸前だった。安静が必要だった。安静にしても、子供が救えるかどうか保障できないし、生れても健康な身体かどうかも分らない、又、心拍が弱っていて、ほとんど聞こえなくなっていると、医師が説明した。翌日、流産した・・・医師は詳しく聞かなかったが、私の目の周りの炎症を見て、分っただろう・・・五日後、現場に復帰した。周りの目が気になり、目の周りの痣をファンデーションで隠そうとした。二週間後、私の母に連れられ、娘が来日した。そのときも、まだ痣が残っており、ファンデーションを何度も重ねて塗りたくった。母は気づいたが、私が口に出すまでは何も聞かなかった。もう既に、姉からも聞いていたのでしょう・・・
2006.02.15
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プラスティック工場でのトラブルはおさまらず、旅費を立て替えてもらっていた分を全て一ヶ月目の給料で返済し、工場の仕事を辞めることになった。その後、日系人を対象にした派遣会社を通し、釣具の工場へ紹介された。そこでプレスの仕事についた。男性は自動プレス機、女性は足で蹴りながらプレスする作業だった。勤務は昼勤のみだったが、8~23時送迎ワゴンでアパートをでるのが7時前、帰宅が24時だった。それを月~土、下手すりゃ日曜日出勤もあった。前回の工場は手と腕を只管使う仕事だったが、今度は、それにプラス足を使う仕事だった。一日に数千個、一万個の部品をプレスで組み合わせる仕事だった。丸い椅子に腰掛け、一日中右足で蹴る。女性従業員の中には、その動作で腰を悪くした。それも、一人二人じゃない・・・四、五人以上は異常を訴えていた。でも辛いって休んだりすると、工場側は、「あの人、要らないから別な人に代えてくれ」と、派遣業者に文句をつけ、腰を悪くした人は、お払い箱・・・身体を痛めて、クビ! 最悪だった。だから、女性従業員の中には、我慢して、腰痛を只管隠すものもいた。でもって、仕事中にホロホロと涙流しながら作業をしたりしていた。私はなるべく姿勢を良くして、腰を痛めないように気をつけていた。私は日本語が読み書きできるからと、工場側からの指定で、女性グループの通訳兼リーダーになっていた。作業自体も、半日交代で検査をするようになり、プレス機から離れることが出来た。更に、作業手順書などの翻訳もした。私のほうは、順調に皆と馴染んで、仲良くなった同僚も大勢いた。(でも、通訳として利用するために近づいてきた人が大半だったのかも)Mは工場の別棟で自動機を操作しながら、製品で満杯になった40Kgくらいの箱を移動したり積み上げたりする作業をしていた。そして、一ヶ月経った頃、疲労も高じて、腰痛を感じるようになった。ある日、仕事を終えて片づけ中にリーダーに何を言ったのか、言われたのか・・・口が悪い態度で言ったのかもしれないが口論になった。私が見たときには、お互い箒を振りかざしたりして、威嚇していた。最悪だ。また、始まったよ・・・人間関係のトラブル。私は様子見ることにした。リーダーが腰痛に関して、「疲れからのじゃないの?本当に痛いのか?」と聞いたことが、原因だった。自分が仮病していると思われたので、腹が立ったらしい。ほぼ一方的な怒りで、何につけても文句言ってた。腰痛は、決して仮病じゃなかったのだ。一日休んで、病院に行った。椎間板ヘルニアだった。医師は、仕事が原因とは特定できないと説明してくれたが、それを聞き入れるようなMではない。ブラジルにいるときのように、療養中の保証をしてもらえると、思っていた。ブラジルで正社員の場合、事故や病気のとき、医師の診断で療養日数が指定されれば、その期間の給料が保証される。出稼ぎの身では、何の保証もない。休めば金にならないし、仕事もクビになる。当然、寮も出なきゃいけない。Mは、自宅療養が必要と診断され、仕事を辞めることを考えた。幸い、この時期、私のほうが安定しており、寮を追い出されることは無かった。が・・・、転職して間もなく、一か月分丸ごとの給料はまだもらっていなかった。〆の関係で、一週間分くらいしか貰っていなかった。そこに病院費、などがかさんできて、食料もつきて、お金が無くなった。百十円くらい手元にあったので、公衆電話から兵庫の叔母に電話して手元の小銭しかないことと、住所を言い終えた時に通話時間が終わった・・・今夜の食事も出来ないのに、Mがリーダーと喧嘩したので、彼を通して給料の前借も出来ない。目の前、真っ暗になった。
2006.02.14
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独身者含む9人の共同生活が始まり、仕事も来日から三日目にスタートした。ハードな時間帯だった。いきなり初っ端から、8時~22時の枠に入った。2,3日おきに時間がずれていく仕組みだった。8時~17時半8時~20時8時~22時土曜日が8時~23時お昼休憩が30分のみ、夕方休憩が15分のみ。その後は、ずーーーーーーーーっと立ちっぱなし。仕事の内容は、機械からコンベヤーに出てくるプラスティック製品をホットニッパーで切り取ること。勿論、機械で成型されたばかりなので、熱い。軍手にホットニッパーをつけて、只管切り続けるのだ。小さめの軟らかい製品は楽だが、大きくて厚めの製品は最悪だった。表面に傷が入ってはいけないし、切った部分も綺麗に滑らかではないといけない。綺麗に出来ていないと、班長から怒鳴られる。初心者もへったくれもない現場だった。逆らう従業員はいなかった。Mも怒鳴られた。それで、班長を睨み付けたらしい。拳を握って、堪えたらしい・・・でも、班長のマークが始まった。何かにつけて、怒鳴られた。同僚の日系人の間で、班長は車のトランクに刀を隠して持ち歩いていると噂が流れた。その当時まだ、昼勤だった。そして、その組み合わせのまま夜勤へとローテーションしていくはずだった。そして、トラブルの始まり・・・寮での生活状況、そして勤務でのイザコザ・・・寮に関しては、しばらく我慢して、班長の件は、なるべく気に障らぬように行動しようと話し合った・・・つもりだった。ところが、Mはそう捉えなかった。M「お前は、誰の味方をしているんだ。」 「班長と出来上がっているのか?」私「・・・?」でたよ、被害妄想。夜勤に交代していく時期になると、拒んだ。「あの共同寮で、鍵もかからない部屋に住まわせといて、 妻を一人にして夜勤なんかできるか!」・・・彼の言い分にはある程度、筋が取っていた。工場の人事担当者が簡易だけど、鍵をつけてくれた。そして、Mを説得した。ローテーションに入ってくれないと、他の人にシワ寄せが来て、迷惑をかけることになるからと言って、説得した。不満をモロ出しながら、夜勤に入った。数日たって、胃の具合悪いといって休んだ。実際、現場で吐いたりもしていた。休憩時間が短く、かきこむようにして食べていたからだ。でも、その日は単なる仮病だった。本当は、慣れていない仕事で足裏が痛かったらしい。翌日も休んだ。・・・私は普通に勤務し続けた。確かに、足は棒になりそうで痛くて、たまらなかった。私は、仕事の合間ストレッチしたりして乗り切っていた。22時、23時までの勤務日は本当に辛かった。最初の二週間は、ニッパーを握る手が痛くて、二の腕が腫れあがった。涙しながら、現場にたった。周りの叔母ちゃんたちが心配して、シップとか貼ってくれた。仮病して休んでいる彼は、何故そんなにしてまで、仕事に行くんだと私のことをあざ笑った・・・。やはり、日系人でブラジルで育ったけど、ブラジル人とは、考え方が違うのだ。国際結婚、上手く行く場合もあるが、認識の違いで、非常に難しい面がいっぱいある。
2006.02.13
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人間関係が上手く行かないM、三年目にしてはっきり分ってきたMの人柄。口先は大きいが、やることが全てに於いて上手くことが進まないと、人が嫉んでいるからだと言ってまったく関係のない人まで逆恨み。日本へ3年間の出稼ぎに来る話が出ていたが、私は、当時の夫婦生活、夫婦関係も良くなかったので、正直言って、気が乗らなかった。Mは、知り合いの出稼ぎの話などを聞いて、乗り気だった。「日本語の読み書きできるし、 お前が生活面において責任取るなら日本へ行こう」「仕事に関しては、恐れることはないから」Mは、既に嫌気が差していた会社を辞め、エージェント通いをした。二ヶ月ほど、職にも就かずにエージェントを急かした。エージェントは、子供も同行できるような良い職場を探してくれていた。それでも、急かし続けた。結局、そのエージェントの紹介で、子供は同行できないがあるプラスティック成型工場に働き口が見つかった。数ヶ月働いた後に、子供のことを相談するようにとエージェントに言われ子供をMの母親に預け、来日した。工場にほど近い場所に「寮」があった。古い民家に他の出稼ぎと共同生活だった。そこには、既に母子一組、夫婦二組、独身男3人が住んでおり、私たち夫婦が加わり、計9人で生活するようになった。民家の4部屋。幸い夫婦たちと母子は部屋を与えられ、独身男たちは居間、縁側の廊下などに各自寝場所を確保していた。台所も、時間をずらしながら使用。冷蔵庫の中も、全て名前入り・・・夫婦用の寮も建築中だからと宥められ、数ヶ月そこで、我慢するようにと宥められた。勤務に体系は、私が昼勤、Mの勤務は最初の二週間のみ日勤の予定で、その後は三交代で各週時間帯がずれていく条件だった。日本での仕事と夫婦間のトラブルの始まりだった。
2006.02.13
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炎症の原因をつくった歯科N、友達だったので、自宅に相談に行った。N歯科は、Mの腫れあがった顔を見て、「なんてことをしたんだろう」 と言って、必要な治療を使用といったが、彼女の手に負えない状態だった。翌日、診療所で会う約束をして帰った。そして、翌日会いに行くと様子が一変していた。「自分のせいで、炎症起こしたのではない」の一点張りだった。両親に吹き込まれたのだろう・・・大学で言われた事も伝え、原因は明確だったのに、コミュニティーの理事が出てきて、責任はないと言った。Nには絶望した。Mは、訴える事を約束した。その頃、Mが勤めていた会社の上司が全国支店のカンパをして、治療の資金を集めてくれた。前に日記に書いたとおりだ。それとは他に、母が日本からの年金を貯金していたのをくずし、治療費にあてがう様に準備してくれたが、母に唯一の楽しみの場であるコミュニティーを訴えてくれるなと頼み込まれた。納得は行かなかったが、M訴えるのを諦めた。この事件は、後が長かった。治療終えて、復帰したころ他の人から聞いたのだが、コミュニティの理事とつるんでいたオヤジ連中が、私の姉たちまでも巻き添えにして、よからぬ噂を立てていた。「Xさんたちは、金欲しさにNさんの娘を訴えようとしている」と言うないようだった。つまり、女手だけで暮している私の実家がNファミリーから金を巻き上げようとしていると言う事だった。・・・私たちの怒りは、おさまらなかった。母は一生懸命私たちの怒りをおさめようとしていた。Mの中でその事件は、その後一緒に暮した12年間、私や母への恨みとして残っていた。私の知り合いの歯科医で病気になった↓母のために訴えなかった。↓私が全ての原因だと。一緒に暮してほぼ15年のうち、12年間・・・喧嘩するたびに過去の初恋の彼のことと、N歯科事件のことで攻められた。日本人の付き合いの柵を軽蔑し、妻である私も軽蔑すると・・・・・日本人が嫌いだと・・・・・家庭内で差別を受けた。
2006.02.11
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つまり、医療ミス・・・Mと結婚して一年半頃、私が歯科で治療を受けることにした。私の行きつけの歯科医、男の先生が気に喰わなかったらしく、他の歯科医をさがす事になり、青年会の友達Nがコミュニティーの会館に歯科医開業したのを思い出し、行く事にした。数回通い、Mも歯垢が気になる箇所があるから治療するといった。4本治療が必要だったうちの一本。その一本に麻酔が必要だった。麻酔を使って治療して数日後、口腔に異常を感じた。歯科医に見てもらい、原因が分らないといった。数日間、複数のクリニックへ行き調べてもらったが原因分らず、その数日の間に顔全体が腫れあがった。両目が開かないくらいまで腫れあがった。勿論、痛みを伴い、痛みに苦しんだ。Mも知り合いLが歯科医になっている事を思い出し、Lの歯科に行った。そして、相談の上、歯科大学まで行く事になった。歯科大学の教授に見てもらったら、「麻酔を打つときの具合で、炎症が起っている」と、診断された。それは、はっきり言った。でも、倫理上書類に出来ないとも、言った。そして、治療法として、歯垢も何も以上のない前歯5本の神経を抜き、顔の炎症の原因となっている膿を取り出さなきゃならないといった。Lは、綺麗な歯を殺すのはもったいないと考え、それをしなかった。一本だけ、神経を抜いて化膿している膿を出そうとしたが、ダメだった。結局、前歯5本はぐら付く様になり、炎症も治らず一ヶ月がたとうとしていた。サンパウロへ行かないと、こちらでは対処できないと言われた。それには、膨大な費用がかかり、数ヶ月を要する事になる・・・途方にくれた。
2006.02.11
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後悔は増すばかり・・・最初の一年はAO関係の直売店の販売員だった。直の上司が自分より能力ないから、自分の事やっかんで、落としいれて辞めさせようとしていると常に思い込んでいた。二年目に、ある歯科医の重大な医療ミスで前歯5本を失うことになり、ひどい目にあった。(これも、口論のたび、攻められる理由になった)一ヶ月ほど、色んな歯科クリニックをたらいまわしにされ、SPまで行って、治療しなきゃ命まで関わるような状態になった。それには、かなりの費用がかかり、とても自費ではいけなかった。その時、目の敵にしていた店長が全国の支店長に声をかけ、治療のためにカンパしてくれた。親子三人、Mと私と娘の旅費といくらかの資金を持って、SPへ行った。二ヶ月の治療の間、SPで全国の支店を管理している上司のお宅に親子三人、居候した。つまり、店長や他の支店の皆が助けてくれたのだ。それでも、業務復帰後も店長に対しての見方を変えずに更に一年過ごした。復帰から半年経とうとしていたころ、Mが狙っていた営業部へ店長が移動した。順番から行って、それが普通だったけど、そこでまた、先を越されたと思い込んだ。更に半年後、会社の方針で事業を営業のみにして、店舗閉鎖することがきまった。店舗閉鎖にあたりフランチャイズのチャンス話があった。当時店長だったので、頭金も何も要らないのでフランチャイズしないかというとてもよいチャンスだった。でも、元店長を出し抜こうと思い込んでいるMは、そのチャンスをみすみす逃し、別業者へ転職した。次の業者へ移っても、二ヶ月も経たないうちにまた人とのトラブルが浮き出てきた。秘書が自分の行動を逐一本社へ密告していると言った。・・・やましいことが無ければ、ほっとけばいいのでは?何らかの問題を愚痴るたびにフォロー入れていた。勘違いや思い違いではないのか、そんな事ないよ、とか・・・そしたら、誰の味方をしているんだと口論になった。そんなMの行動を見ていて、なんてわがままな男だろうと、思い始めた。自分に、そんなことはない。きっと、周りの人間が本当に嫌がらせをしているのだと、自分に納得させようとした。さすがにMの行動や言動に疑問を抱き、観察する事にした。転職しても、何処へ行っても不満ばかり・・・、人との関係が上手く行かず毎回、誰彼が、自分を見下しているとか、自分を貶めようとしているとか、そんなことが続く。その頃、姉が日本へ出稼ぎに来ていた。それを知っていたMは、自分たちも出稼ぎに行こうと言って、行き先も決まらないうちに勤めていた会社をさっさと辞めた。日本へ行けば、働く分だけお金になると言って出稼ぎに行く気満々だった。来日・・・更に悲惨な状況になるとは、思いもせず、希望を持って、来日した。
2006.02.11
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家を出て、妊娠中。M方の義兄夫婦、よからぬことを言い始めた。Mが、週末釣りに出かけるといって出かけているが、女と同行していると・・・問い詰めると、否定したがその後、じつは同行していたことが分った。それが臨月近くだった。あまりのショックで大泣きし、ベッドに身を投げ出し、お腹を打ちつけるような行動を取った。(この行動が、後から攻められる題材となった)その女とは、何の関係もないと言う弁解を聞き入れ仲直りをした。無事出産を終え、産後のセックスは当分控えるように言われており、実母が、「男は生理的に行動するから、多少は目をつぶるように」とか、言っていたのを聞き、旦那にも、生理的必要あればそういったケアは、プロの女とするようにといっておいた。理解ある妻のつもりだった。プロの「娼婦」であれば、あと腐れない。また会うこともないだろうと思っていたからだ。・・・数週間後、Mは釣りに出かけた。よく行く川向こうの釣り場へ、母親と行くといって出かけた。・・・義兄夫婦は、その当時正義感強く、不倫に対しては厳しい人たちだった。「Mは、お母さんと釣りに行ったけど、Xも同行したんだ。帰りは、Mが自宅まで送ったらしいよ」と、言って教えてくれた。(おせっかいだったのだろう)数日後、何食わぬ顔で「Xも、一緒だったんだって?」 と、聞くと「誰がそんなこと言ったんだ!」 と、逆ギレされた。口論になった。実は一緒だったのと、彼女と数回会って、身体の関係をもったのも事実だと分った。・・・何もかも、信じられなくなった。・・・死にたかった。でも、長女がいたので思いとどまった。数日間眠れない夜が続いて、ある晩、睡眠薬を飲んだ。指示通り飲んだが、効き目が無かったように思った。翌日、倍増して飲んだ。Mが勘違いして、大騒ぎになった。眠くて意識朦朧としていると、救急病院へ連れて行かれた。腸内洗浄までされた。。。。。そんなに、大事ではなかったのに・・・大事になった。(これも、後々の喧嘩の都度使われる攻撃の題材になった)
2006.02.10
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新たな関係が始まり、毎日会いにきてくれるMに心動かされるようになった。色々尽くしてくれているようだった。二十歳の誕生日に、私が眠りについた頃、窓の外でガヤガヤ人の声がして、目覚めた。窓を開けると、Mが連れてきた友達とセレナーデ・・・びっくりした!家の姉たちもひっくるめて、計画していたらしい。セレナーデに感動した。本人が歌っているわけじゃなく、ギター引きのおっさんと、友達たちなんてロマンチックなんだろう。乙女心を擽られた。誰だって喜ぶだろう。そんな、一見心地のいい付き合いが続き一年後、子供が欲しいと言って一緒になろうと決めた。私の実家に両親しき連れてプロポーズに来た。家のほうは、母と姉たちとその旦那さんたちがそろった。婚約したいと話し始めたが、母たちは、「まだ、若いし無責任だから、ダメ」の一点張り。Mの両親も、呆れて帰ってしまった。 見下され、バカにされたとかなり怒っていた。----------じつは、Mの兄貴とM本人の評判が、私の住んでいる地域の一部でも悪かった。姉(三女)の婚約者の実家近くに、ワルの溜まり場があり、以前そこにも出入りしていたと、いうことだった。そのワルたちは、マリファナと酒は当たり前の連中。印象が悪いはずだ。それと、母親の「勘」とやらが働いたらしい。「Mと付き合う程度ならいいけど、結婚したら絶対苦労をする。」「結婚は、止めておきなさい。まだ若いし、もっと時間をかけなさい。」と、言い張った。・・・でも、母には「あの事件」から、疑問を抱いていた。心のどこかに、家を出たいと思っていたのかも知れない。成人する21歳になるのを待って、家を出た。家を出る頃には、すでに妊娠していた。
2006.02.10
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辛い失恋から数ヵ月後・・・銀行に勤めていた頃の先輩「M」にカントリークラブで再会した。Mは、銀行でも会うたび、ちょっかいをかけて来たちと、軽めでエロエロ丸出し男、という感じの印象だった。その日は、日系人の元上司に頼まれ、カントリーにアルバイトにきていたらしい。私は、親友の家族と共にプールに遊びに行っていた。一日を過ごし、夕方親友と帰ろうとしていると、ちゃっかりと、Mが親友のお父さんの車に便乗して帰った。私は自宅近くのバス停まで送ってもらい、そのMも、「バスで帰る」と口実に、そこで車を降りた。挨拶をして別れたが、数分後、後を追いかけて走ってきた。家まで送るからと、ついてきた・・・その時、追い返すべきだった・・・なんだかんだと、おしゃべり上手に取り巻かれた(?)じつは、高校の先輩だったこと、Mのお兄さんは高校の札付きの番長で、よく知っていたがMのことは、見た覚えがなかった。お兄さんが悪いことしでかさない様に、見張り役だったそうだ。そんな、呆れるような話や、楽しい話題もあったが、家族の暗い事情両親が離婚の危機にあるとか、父親と同じ屋根の下で暮しながら、一年以上口を利いていないとか、父親が母親に向ける拳銃、母親を守るために前に立ちはだかってからのギクシャクした父親との関係・・・などなど。。。話し相手になっていると、毎日、仕事帰りに家に来た。付き合って欲しいと言った。まだ、失恋の傷が癒えてもいないのに・・・Mと付き合ってみようかと思った。付き合うなら、嘘や隠し事は無しにする条件で数ヶ月前に起ったことを明かした・・・まだ癒えていない傷、それでもいいと言った。Mの前で、過去の彼に対する気持ちを綴っていた日記や写真を焼いた。隠し事のない、新たな付き合い、関係を築こうとした。ゼロからのスタートのつもりだった。好感持っていたが、まだ愛情は持っていなかった。それを承知で、付き合おうとMは言った。嘘や偽りのない良い関係が築ける、といった。それを、私は信じた。
2006.02.09
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たまたま、失望した翌日、地元コミュニティーでカーニバル・パーティーが開催された。コロニー青年会の一員だったので、不参加だと、色々聞かれると思い、出席した。ふっ・・・・・一夜、踊りまくった。時々休憩はさんで、踊りまくった。前日付き添ってくれた親友が、心配してくれた。でも、ほうっておいてくれた。コミュニティー・ホールでカーニバルグループが生演奏をし、ホールにガンガン鳴り響くサンバとカーニバル・ミュージック。暑い気候の中、ハードリズム、満員のホールに汗だくの人々・・・一晩中身体を動かし、友達を騒ぎ、奇声を発し、騒いだ。昨日起ったことを、忘れたかった。飲めるものなら、酒でも飲みたかった。・・・まだ、その頃は、飲めなかった・・・辛かったのは、その数日後。家事手伝いをしていると、汗とは違う何かで、胸元が濡れて来た。わけが分らなくて、焦った。Tシャツのバストトップが濡れた。・・・水道水をわざとぶちまけて、シャツが濡れる様にしむけた。そして、自分の部屋に帰り、鏡の前でシャツを脱ぐと・・・つーーーーーっと、母乳が一筋流れた。女性の身体の神秘。途中でもぎ取られた命でも、母となる身体は、そのまま反応すると、そのとき知った。20年前の話だが、振り返ってみると恐ろしい。翌日に踊りまくって、体力消耗して・・・死んでも不思議じゃない状況だった。自分はなんて無力で、無知でバカな娘だったのかと思うと、胸が痛い。私に出来るのは、命日に手を合わせるだけ。決して忘れることのない、若い頃の過ち。
2006.02.08
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同じ週の週末、彼の母親と私の母親、週末通っていた習い事の後、「ちょっと、検査しに出かけよう」と言われ、ついていった。「あれ?・・・」様子がおかしかったので、親友に頼み、彼女もついてきてくれた。とある病院について、診察台に上がった。なぜか、気分が高まっているからと、注射を打たれた。・・・・・・・・・全身麻酔だったらしい・・・・・・やられた。裏切られた。彼の母親と、自分の母親・・・彼は、私が彼の友達と彼の家で寝ていたといったらしい・・・彼女たち、私の言葉信じず、グルになっていた。十代の妊娠・・・小さなコロニーでのタテマエ、体裁・・・気が付いたら、親友が真っ青な顔で、震えながら、側についていてくれた。彼女には、何をすることも出来なかった。数時間後、病院から他の病院へ移され、具合が悪くなったのでという理由で点滴を受けに行った。彼の家の近くの病院だった。白々しくも、会いに来た。母親と。母親の前で、自分の子でなかったと言い切った。泣く涙も、なくなっていた・・・実の母の顔も見たくなかった。その日は、親友に頼み、彼女の家に泊めてもらった。後々聞いたのだが、親友の母親が、彼女が悩んでいる様子を察知し、彼女から事情を聞き、彼の母親と私の母に告げたらしい。彼女の母は、良い方向へ話が進むだろうと思っていたのかも。ところが、真逆の方へことは進み、終わった。人生で初めて、愛する人たちに裏切られた時だった。それから、今年の2月でちょうど20年。20年前の話だ。
2006.02.07
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女性の恋心、男性の恋。まったく別物なのか、人によるのか・・・恋に恋する頃、自分の身体を任せるのは(男女とも)愛する人だけだと思っていた。初恋の人に身体を任せ、自分たちの関係なども、共に色々築いていくものだと思っていた。ふっ・・・今考えると、なんて未熟な考えだろうね。ずっと、一緒にいたい。一緒の時間をいっぱいいっぱい過ごしたい。大学、就職、色々社会人を経験して、最終的には、一緒にいたい・・・と、思っていた。大学に入り、時間の調整しては、会いに行った。何度も、何度も、会いに行った。一緒の時間を過ごした。お互いの親は、私たちが会っていることに気づかなかった。そして、時は過ぎ、起るべきことが起きた。子供を授かった。親友の手をかり、検査等をして、確認した。彼は、その頃自分から私のうちにくることはなかった、でも、彼は焦り、ピルを手に入れ持ってきた。つまり、処分しろということだ。優しい言葉を発しながらも、処分しろと・・・ショックだった。目の前で、ピルを飲んだ。これで、解決すると思ったのかな・・・無知な十代。恐るべし、十代。勿論、解決するはずがない。日にちばかり経った。ある日、彼の母親が大学まで迎えに来た。「???」ついに、母親に告げたらしい。母親「あの子の、子供じゃないと言ってるんだけど・・・どうするの?」私 「はぁ???」 「あんたの息子は、私の初めての男だよ!」と、内心思いつつ、何も言えず、絶句した。母親 「あなたのお母さんと、相談するから」と、告げられ、家の前で車から降りた。
2006.02.07
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幼少の頃、叔母の家によく来ていた母子家庭の男の子がいた。淡い栗色の髪の毛がお日様にあたると、金髪がかって見えた。その当時、家庭の事情はよく分らなかったが、おばあちゃんと、お母さんと彼の三人でコロニーに暮していた。ヨーロッパ系と日系のハーフで、コロニーの他の子供たちに虐められていた。こどもって、残酷。物珍しさを露わにして「父なし子」 となじったり、色々、ちょっかいを出す。小学校低学年の頃、よく一緒に遊んだ。小学高学年の頃、家族で町へ引っ越した。しばらく経って、私の家族も父が亡くなり、コロニーを出た。町の叔父の家に預けられてた時に、その子にまた会った。よく、彼のお母さんが「家のお嫁さんになってね」 と、言って恥ずかしかったのを、覚えている。更に数年たち、我が母と彼の母がお付き合いするようになり、高校受験を終えた頃に彼がうちに来た。一学年留年して、数学が不得意なので、私と一緒に勉強しろと彼の母が連れてきた。数回、うちに勉強しに来た。色々話して、楽しかったし意外と気があった。アガサ・クリスティーの小説が好きだった。何冊か借りて、読んだ。面白かったので、自分もはまった。ほぼ毎週、土曜日に母親と遊びに来るようになった。別に特別なことが起こったわけでもなく、自分に恋心が芽生えた。・・・気持ちは、一方通行。恋心の対処・・・分るわけない。毎晩、寝る前にポエム読んだり、自分で書いたり・・・絵を書いたりして、気持ちを宥めていた。高2の頃かな、自分から行けなかったので自分の通う高校まで来てもらったことがある。バースデープレセントを渡すためだった。アガサ・クリスティーの新しい本。嬉しそうに受け取ってくれて、帰っていった。とある土曜日、彼にキスされ、舞い上がっているうちにあっという間もなく・・・少しずつ、関係を築いていけたらいいなと思っていた。・・・数ヵ月後、彼の祖母が亡くなった。彼は、母親が仕事している間、祖母との日常を過ごしていた。それが、無くなったとたん、壊れ始めた。・・・?それとも、もともとそうだったのか・・・毎日のように、彼のワル仲間が彼の自宅に集い毎日女の子も入り浸っていた・・・やきもきした。何処かの女の子が彼の部屋に彼と閉じこもりっきり・・・辛かった。。。慰めてあげたかったのは、私。なのに、知らない子が私が居るべき場所にいた。
2006.02.06
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十代前半、恋に憧れ十代後半、恋に失望し二十代前半、恋していると思い込んだ二十代後半、更に失望し耐えた。三十代前半、耐えるのに疲れた。三十代半ば、行動を起こした。三十代後半、幸せを実感している。
2006.01.25
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久しぶりの書き込みです。前旦那、8月26か27日に無事出国し、ブラジルへ帰った。・・・本当に、やっとほっとできる。離婚に至るまで、散々な目にあった。離婚して帰国した後も、居所を知らせずに向うでの離婚が成立されないままでいた。今回、やっと本人が書類を提出してくれるので、成立する。内心、飛び上がるほど嬉しい。今の旦那様は、過去のことはあまり聞いてこない。再婚で子供たちも受け入れてくれ、現在を大事にしてくれる。ほっと、心休まるような人だ。「クソヤロー」と暮した日々、全てが悪かったわけではないが、仕事を転々し、その度 振り回された。散々振り回された。安定所で仕事を探すために、私の仕事を休まされ、面接に付き添い、本人を売り込む。場合によっては、安定所通さずに求人募集の広告を見て、直接工場へ電話して交渉したり。おかげで、口は上手くなった。でも、2~3ヶ月、長くて10ヶ月かそこいらで、職場の誰かしろ因縁つけていると被害妄想をしはじめ、即、辞めるの繰り返し。「因縁とか嫌がらせは、気のせいだよ」と、宥めると「お前は、誰の味方しているんだ」 「俺を、やつらと一緒になってバカにしてるのか」と始まり、何度も暴力を振るわれた。「クソヤロー」の捨て台詞は「日本人なんか、嫌いだ。お前も同類だ。」「Japones FDP, お前も含んでな!」仕事探しを渋ると、またそれも暴力を振るう原因だった。ここまでは、まだ良いほうだ。私が仕事を休むのを嫌がると、「職場に媚を売ってる男が居るのか」「誰と、寝てるんだ」「Vagabunda!」「Porca, puta!」等など・・・それはまだ序の口。仕事中、プライベートの携帯電話に出ないと「何ででないんだ!誰と寝てたんだ!」「店長とでも、出来てるのか」仕事中だから、そんなこと出来ないでしょと返答すると、「陰で何をやっているか見てないから、分かるもんか!」と、くる。腹が立って、口論にでもなったら、それでまた暴力振るわれた。・・・・気を使って、宥めても、 理不尽なこと言われて、返答しても、 何かにつけて、暴力。我慢に我慢を重ね、離婚を考え始めた頃、とある研修に応募して、受かった。3ヶ月の缶詰研修。たまたま男性の比率が多かった。また、因縁の原因になるから、辞めようと思った。でも、本人が進めた。そこで色んな人とであって、仲良くなった。研修中、授業の最中にも携帯にコールが入った。勿論、でれるわけ無い。部屋に居ても、電波が悪く、通じない。それで、また喧嘩の原因になった。電話かけてきて、延々と続く口論。むしろ一方的だったので、罵られるばかり。何を言っても、聞きやしない。研修の途中で、連休があって自宅へ帰った。散々電話で罵っていたくせに花束なんぞ持って、迎えてくれた。本人の要望で、ホテルへ直行した。内心嫌で、嫌でたまらなかった。アイツとのセックスは、吐きそうなくらい嫌だった。私が乗り気じゃないと分かったら、「男が出来たんだな。Vagabunda!!!!!」・・・呆気にとられて、反応も出来なかった。自宅についてから、荷物を置いて纏わりつく子供たちをおいて、二人で出かけようといった。「大事な話をしよう」と、無理やり連れ出された。田舎だったので、人気の無い山道に入って車を止めた。車から降りて話そうと言われ、降りた。ヤツはトランクから、タイヤ交換に使う十字の金具を出してきた。・・・「これは、何のためだと思う?」「・・・」「これは、お前を殴るためで、俺の手を汚さないためだ!!!」「・・・」「男作っただろう!Sua puta! Vagabunda!」「・・・私を殺して気が済むなら、好きにしていいよ。」精一杯の抵抗だった。金具を頬に擦り付けられた。死を覚悟した時だった。ヤツは卑怯者だ、言ったことを決行出来なかった。私の中にあったヤツに対する「哀れみの気持ち」それさえも、吹っ飛んだ。このあと、ヤツは母親を監視代わりに残し一時帰国した。母親は何を勘違いしたのか、私が悲しんでいると思い呼び戻した。戻ってきても、同じだった。喧嘩する気にもならない私に苛立ったらしく、ヤツの母親と子供たちの前で、私の喉に包丁を押付けた。・・・凄まじい経験だ。
2005.09.23
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今日もまた、電話があった。それも、夕食時に。食事前に食器洗いしていると、電話が鳴り主人が出た。「○○です」 とはっきり言ったはずなのに「誰ですか?」と返ってきた挙句、切れた。「・・・」また電話が鳴った。番号表示見て、娘が出た。それを、部屋に持っていったと思ったら、洗い物している所に持ってきて、耳に押付ける。「○○○か?」 で始り、ぐだぐだと、言いがかりをつけてくる。近々帰国するので、色々と神経が立っているらしい。「俺が預けていた物の中にあった革ジャンはどうしたんだ」「家で使っていた冷蔵庫は、どうしたんだ?」「電話は?」衣類は帰国中本人承知の上処分した。長女が取って置いてほしいと言った数点を残し、処分した。どうしても革ジャンがほしいらしい。でも、預かっていた中には無かったはず。だから処分した覚えが無い。それは、ただ因縁つけたいための口実だと思う。「冷蔵庫使っているらしいな、それと電話加入代、当時の金額払え」・・・要は、何が何でも金がほしいだけ。娘たちを奪っただの、○○は俺の家庭に入り込んだ、訴える、慰謝料を取ろうと思えば取れるはずだとか、そんなことばかり、ほざく。家庭を壊し離婚に至たるまで、少なくとも彼の行ないに問題があったから、もちろん100%とは言わない。日本で離婚を成立した後帰国した。それを何寝ぼけてるんだ?娘たちを奪った?生活維持能力も無いくせに!自己満足のために娘たちがほしいのか?娘たちを引き取るとは一度も言ってない。都合がいいもんだ。「養えないから引き取れない」だそうだ。仮に引き取ったとして、何らかの「慰謝料」を巻き上げようとするだろう。十五年間も一緒に生活したのが信じられない。意地を張るものじゃない。私は意地を張って最後の10年を我慢してきた。その価値?ないに等しい。経験は宝として見なす事にして、今日に至っている。だからこそ、今の主人を今後も尊敬尊重し大事にしていきたい。
2005.08.02
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日曜日、子供たちがExに会った。その前日、長女が会う場所と時間の打ち合わせをしていると、私と話したいと言って、娘に電話を持ってこさせた。通常、長女は現夫に気を使って、部屋で子機を使って話す。子機を元の場所に戻すとき、泣顔や不機嫌な時がある。それも、一、二回じゃない。こっちの都合で合えないときや電話をしないとき、電話し忘れるに責められる。必ずといっていいほど、「父親なのに、会えない」「もうすぐ帰国したら、二度と会えない」など、泣き言をいったりする。私になんの用事があるのか、私は電話でさえ話したくない。なんだろうと思い、出てみるとEx- 「金貸してくれないか。」私 「はぁ?」Ex- 「帰国するのに旅券買って、お盆前に揃えたいものもあるし、アメリカのトランジットビザを取ったり、再入国ビザと取らなきゃいけないし、色々金がいるんで・・・」私 「悪いけど、学費とかで金かかっているから、持ち合わせない」Ex- 「そっか・・・、じゃ、いいよ。」・・・って、私に相談することか?ご自身がいらだっている時には、娘たちを取り戻すとか、父親だから、俺が好きなときに会うんだ、とか訴えるとか、後悔させてやるとか、言いたい放題、言い放つくせに・・・何言ってんだ、この人?もう、私はあんたが何をしようが関係ないし、知りたくもない! 好きで皆に反対されながらも一緒になって、家で同然の結婚して、後悔しても、自分で選んだ道なので15年も我慢して、子供たちも傷ついて・・・離婚するのに、子供のためといって、自分に言い聞かせ何度も思いとどまってやっと、離婚したんだ!離婚して4年経った今もまだ存在をアピールしたがるクソヤロー!都合よすぎ!・・・と、ぶち切れぎみでしたが、全て心のうちで。
2005.07.29
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はぁ~~~・・・ここは愚痴を書くだけのブログなので、読んでくれている人がいたら、毒々しくて気持ち悪くなるかも。でもね、またまた前夫の愚痴なんだな、これが。平常心キープするためには何処かに吐き出さなきゃいけないって思う。だから、書く。先日、午後二時ごろ知らない番号から携帯電話がなったのにでなかった。数分後自宅の電話が鳴った。何気なく出たら、EXだった。はぁ~~~・・・っと、ため息を飲み込んで「はい。あっ・・・どうしたんですか?子供たちは学校ですよ」「いや、いいんだ。今度帰国するから、それを言いたかっただけ」「あ、そう。で?子供たちには言ってあるのですか?」「まだ・・・」ふ~ん、と思いつつ、自分から言うように促した。はっきり言って、電話でも話したくない。体調が悪いから、帰るらしい。 ←さっさと帰ってほしい。「日本にいるのは、嫌いだから。ここにきたのは子供に会いにきただけだから」「子供たちも幸せそうだし、子供たちを頼む。」 ・・・子供たちが幸せなのは前からいってるし、頼まれなくてもいい!ケッ・・・(`ε´)「ここにいるのは耐えられないんだ。」そんなこと、知りたくないし、関係ないし・・・「でも、子供たちにも会えなくなるかも知れないから・・・」「お前に悪くしようとは思ってないから、子供たちに会いたかっただけだから・・・」と、だらだら続く・・・。挙句の果てに、泣き出した。・・・こりゃぁ、相当ストレスきてるんだな~と、思った。こんな状態、十数年のうち何回あったか数え切れない。昨夜も娘に電話してきて長々と話していたと思いきや、電話を変わるように娘が受話器持ってきた。「じつは、内耳炎なんだ。聞いたことある?」「知らない・・・なにそれ?それがどうしたのですか」「耳から目に通じて脳まで達する神経がやられてるらしい。バランス感覚が悪くなって、倒れそうになることもある」「あ、そうなんだ」実際私が返したかったのは、「私には関係ないんで」 だったけど、やめた。その言葉は、現夫が入院している時の週末に子供たちに会いたがって、「入院しているから会いに行けない。おじいちゃん達も来るし、病院にも行かなきゃいけないし。」と断った時に帰ってきた言葉だ。「お前の旦那が入院してるのは、俺が子供に会いたいのとは関係ないから」・・・関係あるだろうよ!誰が私たちを養っていると思ってるんだ?そんなに私たちの今の生活に「気まずさ」を吹き入れたいのか?現在、子供たちの「親」は入院していた現夫。その養ってくれている人に対して失礼に思わない、常識はずれなクソヤロー自分の事に関しては、同情を引きたいらしい。全て、自業自得。
2005.07.09
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再婚して、現夫は子供たちに何の隔たりもなく接してくれている。子供たちもなついていて、自然に夫が仕事から帰宅するのを待って晩ご飯を共にし、食事後に雑談をしたりする。長女もテスト前は勉強を手伝ってもらったりしてる。それでも、長女が助言や相談をしてくると、妙に畏まって、言葉を選ぼうとし、逆に不自然になってしまったりすることもある。ここまでは、家族として自然にまとまっている。平和な暮らしの中にどす黒い雨雲のような、元夫の存在。前にも書いたが、現在も日本にいる。子供に会いたいのは、分かるし、可能なときには会いに行かせたりする。問題は、時とこっちの家庭の事情などを弁えない自己中心的な考えの持ち主であること。子供の父親であるがゆえ、彼女たちの前で下手に元夫の悪いことを指摘できない。特に長女には悪口は言えない。(遠まわしに言ってるけどね)彼女も薄々分かっている。父親が自己中の妄想に明け暮れるキチガイヤローだってね。だから、なるべく刺激しないようにしているみたいだ。気を損ねたら何をするか分からないからね。私としては、離婚後私たちの周りから完全に断ち切りたかった。それが出来なかった。もちろん、理由がある。それは、今もブラジルにいる我が母と姉家族の安全を考えてのこと。元夫も実家を知っている。離婚時の条件が離婚後の住所や生活の基となる職場名、子供たちの学校名などを「報告」しておくことだった。離婚をスムーズにするため、一応その条件を受けるしかなかったのだ。条件を受けたら、納得して帰国した。帰国後、一度引っ越して電話番号が変わったりした。一ヶ月くらいして、実家と連絡取ったらクソヤローが乗り込んできたらしい。義兄に離婚したが、自慢げに「あいつを殴ったのは事実だ、あいつは殴られるのが好きなんだよ」「殴らないと言う事を聞かないんだ、そういう女なんだよ!」と、DVの事実まで「正当化」して大きな声で話していたらしい。その挙句、離婚したことを後悔しているとか、娘たちを奪い取ってやるとか、言うことも、支離滅裂だったらしい。その時は知らぬ存ぜぬで通したが、まだ辺りを探ってウロウロしていた。目つきも、態度も普通じゃない。それを聞いて、ぞっとした。キチガイは何をするか分からないからだ。拳銃持ち歩いて自慢げにしているヤツだから・・・本人談だけど、独身時代、働いていた銀行で同僚に腹を立て、同僚が銀行をでたところを狙って一発ぶっ放したヤツだから。実家の皆の安全を思えば、居場所を知らせるしかなかった。で、再婚を決意した時も色々脅迫なんぞもあって(それはまた今度)乗り越えて、現在に至っている。元夫、ご機嫌な時には、何にでも協力的。子供たちに会いたいだけだと言う。会いたいときに会えなくて、気分を損ねると脅迫じみたことを言う。娘たちも其々のお付き合いや行事があるので、会いにいけないこともある。それを分からせるまでの段階が困難だ。先月、約束していたにもかかわらず、次女が行きたくないと言い出した。長女が間に入って会いたくない理由を色々説明したが、分かってくれようとしない。「何故?約束は?理由は?」理由を言っても、「そんなの理由じゃない、他に理由があるんだろう。母親が邪魔してるのか? 訴えてやる。」そんなことを長女に言っても仕方がないのに・・・長女は、「私をあなた達のイザコザに巻き込まないで」 と、言う。で、後日会うことになっても今度は長女が現夫に会いに行くことを伝えなきゃいけない。現夫は、「日本にいる間は会ってあげなさい。ショウガナイからね。合いたい気持ちも分かるから」と、こころよく行かせて、お小遣いまで持たせる。夫は、気を使っている。子供に対する気遣いだ。どんな心境なのかは・・・本当は嫌なんだろうけど。子供は、「ごめんね、会いにいってくる」「ごめんね」「ごめんね」 を繰り返す。子供なりの気遣いだ。後ろめたいんだ。ギクシャクする。「ごめんね、ありがとう。」言わないのは、クソヤローだけ・・・ま、聞くことを期待してないけどね。早く帰国することを願うしかない。
2005.06.18
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このHPに書き込むのは、これで4度目のこと。もう一つのページには日常の些細なことを書き留めているけど、旦那、子供たちもアクセスできる。ここには家のものに見てほしくないことを書くことにしている。以前書いたように、国際結婚をしていた。子供二人をつれて、再婚した。で、現在旦那が発病した。腎不全で、一生透析をすることになる。両親が、この事態を受け入れるのはとても辛いでしょう。私も辛い。健康体に戻れるのなら、私の腎臓あげてもいい。入院して二週間経つ、明日退院する。この発病で、浮上してきた問題がある。我が娘、受験生で今進学に悩んでいるところ・・・留学も希望していた。それを、ちらほら聞いていた旦那の両親何を思いつめたのか、母君がパニックになっているらしい。入院してから、毎日電話をして報告していた。向うから電話かけて来た。それが、火曜日からパッタリ電話口に出ない。旦那に聞いたら、将来に不安をもってパニクっているらしい・・・私も、子供たちの誰かが一生付き合わなきゃいけない病気になったら、パニックになるだろう。でも、なぜ入院から一週間も経ってから?多分、週末姉がきたときに娘の進学の話が出たからだと思う。大学探し、留学の希望・・・などなど、話をした。それが、伝わったのだと思う。母君、入院中の旦那に電話して、エキサイトしたらしい・・・「家庭に食われている」と、言ったらしい。旦那は、なんとも思っていないけど、私は・・・ショックだった。その日には、父君が3回も電話してきた。今週末、来るそうだ。将来のことも含めて、話したいそうだ。それからというものの、毎日母君からかかってきた電話父君がかけてくる。チビと話すのを楽しみにしていて、息子の様子も聞く。火曜・水曜・木曜・・・電話口に出ない。こんな事初めてだし・・・困惑している。ましてや、前旦那のクソヤローが娘たちの周りで存在を振りまいている。両親は、来日していることを知らないし知ったら、パニックに拍車がかかる。先週、会いに行った娘たち。今週末に連絡きたら、はちあわせになる。最悪。
2005.06.17
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同文化の夫婦間でも、結婚生活を送っていく上で一人一人の考え方はもちろん違いますし、どう対処していくかにより結婚が成り立つんですよね。(成り立たせると言ったほうがいいのかな?)男女の性格にも左右されますしね。国際恋愛の段階までは、相手方の出身国によりますが、とても心地いいんだと思う。<夫>が外国人の場合に限って書くことにするまず、外見がかっこよかったり、ちょっとした行動が紳士的だったり、優しい言葉を恥ずかしげもなく言ってくれたり、気持ちや考えることをストレートに話したり、大事にしてくれたり、このような要素で、多くの女性は引かれるのかも知れません。とにかく、お口がうまい。(セックスは2の次だと思う)でも、実際一緒に暮らして見ないと異文化の違いは分からない。国際結婚の場合、どう人種間の結婚より更に困難なのは、文化の違いからでる視点・論点の違いだと思う。西洋の人たちは、物事の白黒をはっきりさせたがる。それと反し、日本人はどっちかと言えば、中間のグレーっぽい態度が多い。日本人特有の遠まわしなものの言い方・・・日本の文化を理解していない外国人旦那がたは、日本人妻の言い回しをみて納得しない。簡単な例えで、スーパーでイチゴを買いました。表面は熟して美味しそうな色合いのパックを買って家へ帰りました。いざお家で食べようと思い、パックを開けると、中のほうのイチゴがかびてました。そこで、商品を交換してもらうか返品するかに・・・日本人妻は多分、柔らかめに、「先ほどイチゴを買ったのですが、中身が少し傷んでいましたので、取り替えて頂けないでしょうか?」と言うでしょう。外国人旦那は(性格にもよりますけど)「先ほど買ったイチゴ、腐ってるので、交換して!」 (多分、下手には出ない)または、「腐ったものを平気で売るとは、どういうことだ!訴えてやる!」と、出るかも知れません。日本人でしたら、 たかがイチゴ外国人でしたら、 されど、イチゴクダラナイことでも、白黒つけたがるかも・・・知れませんよ!?これが、クダラナイ事ではなく、もっと深刻な内容であったら想像できます? ・・・最悪ですよ。まぁ、この記述は、あくまでも私の「甘くない国際結婚」経験からの意見であり、独断と偏見満載ですけど、ね。こういったことも、ある。って、事を分かっていただければ幸いです。
2005.04.10
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カッコいいとか軽く思っちゃいけない。結婚ということは、他人同士である二人の人間が愛のちからで一生をともに暮らしていくことだ。もともと他人だから、共同生活する中で色んな「壁」に突き当たる。愛の力を糧に、「壁」を乗り越えるなり、壊し進むなり、遠回りするなり、色んな方法で「壁」に立ち向かうだろう。同じ民族であって、似たような風習や習慣で育っていてもあらゆることに対しての価値観や考え方は其々異なる。だから結婚生活をするには、お互いへの信頼・尊敬がなければ本当に愛があるとはいえない。国際結婚は、そういった状況に習慣や文化の違いが加わってくる。言葉の違いも、ものの考え方も違う。前にも書いたが、特に金銭的に恵まれた人の国際結婚であれば、旨くいくだろう。日常生活をしていく上でストレスが少なければ、旨くいくはずだ。(それは国際結婚じゃなくても同じかも)もちろん、個性と忍耐力の有無にもよるかもしれないけれど、外国に住みながら、片言しか話せないのに生活するのは厳しい。例えば母国で銀行員とかホワイトカラーだった人が、日本に来てどこかの企業で社員として働こうと思ってもパーフェクトな日本語の読み書きが出来て、エリート級でなければならない。平の銀行員、日本では工場内作業員になるくらいしかできない。日本の社会(工場)では、上から下への一方通行が多い。欧米人は実力主義が大半、実力あるものは意見し、提案する。たかが従業員の提案など、聞く耳もない。そこで、仕事に対してのストレスが生じる。言いたいことを、自分で話せない。(もとは自分の勉強不足だろう) ↓外国人に対し偏見を持った人が必ずいる。それは、多分言葉が通じないから(立回りできないのは自分の問題) ↓人間関係が旨くいかない。嫌がらせされていると思い込む。 ↓仕事を止める。転職する。などを繰り返す。 ↓転職の繰り返しで生活が苦しくなる。 ↓ストレスが溜まる。夫婦間に歪が出てくる。自分にとっての外国で生活することに対し不満が生じる。などなど・・・切がない。本当に切がない・・・・・・私の場合、何度も理不尽な言いがかりをつけられた。転職の際、大した理由でもなかったので(本人の偏見)考え直すよう頼んだら、「日本人の味方なのか!」「何で日本人のかたを持つんだ!」と、帰ってくる。暴力を受けることもあった。はたから見ていて物事を冷静に考えれば、ちっぽけな出来事なのにコップの水で荒波を立てる勢いだ。私は、文化の違い・考え方の違いを説明するに明け暮れた。お互いに疲れた。時が経つにつれて愛情も薄れていった。暴力受けて、尊敬も信頼も踏みにじられた。信頼があれば、ぜったい何とかなる、良くなると錯覚する。とんだ間違いだった。国際結婚するなら、相手の経済力を十分把握し、愛があれば何とかなるなんて思わないことだ。現実は厳しかった。
2005.03.27
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私は二人の娘を持ちながら離婚し、再婚を経て長男出産し、今はとても幸せな生活をしています。このHPは、日常の中で感じた複雑な気持ちを書き込もうと思い、立ち上げました。いわゆる、裏バージョンです。私は帰国子女で、外国で国際結婚をして家族を連れて、日本へ帰国した。自分は帰国したつもりだったが、世間からみれば「出稼ぎ」と見られていた。「国際結婚」って、あこがれる人は多いかもしれない。でも、決して楽じゃあない。金持ちの外人と結婚し、リッチな生活をするんならいいだろうけど、必ずしもリッチな相手にめぐり合うとは限らない。私の場合、どっちかといえば質素な家庭で育った相手だった。移住していた国で多くの日系人の友達がいた。でも殆どが幼馴染で、恋愛対象にはならなかった。むしろ「兄弟」のような関係だった。もちろん、日系人どうしや、日本人と日系人のカップル→夫婦も大勢いる。でも私は銀行の先輩だった人と結婚した。それも、家族の反対を無理やり乗り越え駆け落ちした。結婚して、子供が生まれ、やっと親が許してくれた。途中経過は省略して後日談に。とにかく、私は家族とともに帰国した。そして、すっごく、苦労した。それも、気が向いたら後日書こう。そんなこんなで離婚した。離婚に至るまで、大変だった。そして今日、娘たちは実父に会いに出かけた。実父は、母国へ帰国していたのだが、再入国ビザが切れるため、去年の11月に来日し、6月頃までいるらしい。その前旦那は、離婚し帰国したのだが私が再婚するとは思っていなかったらしい。結婚が決まってからは、半端じゃない攻撃を受けた。いまだに嫌がらせは続いている。でも、子供たちは別れた両親の感情には関係ない。父はどんな「く○やろう」でも、父親だ。 そこで、複雑な空気が家の中を漂う・・・義父を気遣う娘。特に長女。義子の気遣いを察知して、気遣う夫。両方に気遣う私・・・義父である現夫は、素晴らしい男性。正直言って、いい人にめぐり逢ったものだ。もちろん日本人だし、以前のように自分の家にいながら「差別」している・されている様な気持ちにならないし、気遣わないでいいから、すごく楽になった。ありのままの私でいいから、楽になった。で、現在家に長男と(昼寝中)留守番しているのだが、複雑な気分にたまらなくなり、HPを立ち上げることにした。吹っ切れたらいいんだけど、子供たちが会いに行くたびにこうなるんだ。これでまだ3回目なんだけどね。いろいろ都合をつけて、なるべく会わない様にしているから。長女もそんなに会いたそうでないし、次女も嬉しいらしいけど今は義父のほうが大好きだからね。
2005.03.27
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