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id,password 変更している 忘れないように
2014.11.21
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利用してなければ 消されるとか
2014.09.04
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2011.09.19
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2011.09.13
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2011.09.09
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2011.09.07
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2011.09.07
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2011.09.06
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2011.09.05
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2011.09.04
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2011.09.03
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2011.09.02
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2011.09.01
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2011.08.31
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Shonen Knife(少年ナイフ) - Making Plans For Bison(がんばれバイソン)THE RAINCOATS ーF airytale in the Supermarket両者の共通点は というとKurt Cobain は 彼女らのファンだった事。
2011.08.30
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1979
2011.08.29
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やくしまるえつこ、いしわたり淳治、砂原良徳
2011.08.27
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日本では ギターインスト・プログレ・ロックバンドが流行中 とか。その 源流は このあたり?なんか 病み付きになるギター・リフです。
2011.08.26
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ノイジーなギターに 女性ヴォーカル、という パターンが 好きなんだなあ。ちょっと 脱力系なところも
2011.08.26
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こんなヴァージョンもあった矢野さんの単独カヴァー版もあるしよっぽど気に入りな曲。
2011.08.09
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矢野顕子 と rei harakami のスーパーコンビのヴァージョン
2011.08.08
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ハラカミさんの訃報を知るこの曲、オリジナルは細野晴臣。ハラカミ本人が歌っている。
2011.08.07
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通称:マスドレ の 気持ちよいSOUND
2011.08.06
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plenty は ちょっと 音楽という次元をはみだしているむきだしの魂 困惑したり 感動したり はらはらする
2011.08.05
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youtubeandropmusic さんが 2011/01/15 にアップロード 【androp「Bright Siren」Special site (PC only)】http://www.androp.jp/brightsiren/今も バンプと同じ編成のバンドは山ほどいるんだろう けどandrop は なにかが キラリンと光っている
2011.08.04
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youtubexxSyokupan さんが 2009/10/07 にアップロード 10年程前の曲。いまも新鮮。
2011.08.03
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2011.08.02
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さて
2011.08.01
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ゴシック・ロリータ的主人公を描いた倉橋由美子「聖少女」、その文庫解説が桜庭さんだったので 藻屑を悩ましくも思い起こしてしまった。彼女は もはや物語を超えて ユングの元型のように深層心理に眠っている甘美な黒天使だったようだ。大人であるということは 主体的自由を持っていることでもあろうが、それは他者と軋轢を生む醜悪なしろものでもある。そのような主体をできることなら放棄したい たとえ身体ごと壊されてもかまわない。そのような冥い願望を代わりに達成してしまったのが藻屑だったのだろうか。
2010.11.18
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東村作品て いつもは 思いつきのストーリー展開で当初のテーマや主人公はどこへやらだったりして 新キャラふえまくりの ぐだぐだの展開になるところがおもしろい という印象でしたが、本作品は きっちり計算された理知的な構成美をかんじました。 クラゲを 発達心理学でいう「移行対象」として再発見したところが秀逸。水母 というあて字のほうが この場合ピッタリ。女性主人公が母の欠損ゆえに よけいに執着するのが 母の記憶に結びついた 「お姫様のドレスみたいなフリフリのクラゲ」これが もう一人のよく似た心理事情をかかえた男子主人公のこだわる女性の衣装とむすびついて ドレスみたいなクラゲ が クラゲみたいなドレス に変換される、ただの退行的幻想にすぎないくらげが 世に出せる商品になりうる。というところとか、おもしろい。ペットのクラゲに なにゆえ「クララ」という命名なのか。地に足をつけて自力でたちあがるべきキャラクターのなまえが漂うばかりのクラゲにつけられているというのも 面白い。主人公の このままじゃいかんのだろうな的無意識の反映でしょうか。その若者へのツッコミはイタすぎでしょうといういたたまれない場面もありますが(笑)東村先生の愛ある おおきな世話主義 があるから大丈夫なんでしょう。
2010.08.09
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BOOK3 も 読了。なんでしょう この物語は。創作アイデアは 、地獄の黙示録、フレイザー金枝篇、折口信夫、大嘗祭、という連想かな。これに エバンゲリオン の とあるシーン を はさんで、 受胎告知 に 連結?。天皇制 と キリスト教 を 結びたかったのか。古今東西の宗教世界やサブカルチャーで再構成された現代の神話創作という意図は まちがいないでしょう。世界が 希望を孕むようにという 願いなのかな。翻訳されたときのキリスト教世界の反応が気になります。 それにしてもリトル・ピープル と 去年ぐらいからの「小さいおじさん」の目撃者急増って関係ないゆなー。まさかねー。
2010.07.10
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史上最強の哲学入門 飲茶 (著), 板垣 恵介 (イラスト) が でました。板垣氏は バキ という 格闘技コミックで有名らしいです。この本では表紙を描いているだけなのだけど飲茶氏の魂には 多大なる影響をあたえているようす。飲茶氏が32人の哲学者について語っているているわけですが学者さんの もごもごした哲学史解説本からは 決してえることのできないストレートな 魂の叫びが いいです。難解なレビィナスから こんな シンプルで すばらしいメッセージを読み取るなんて 学問的にはどうなのですがそんなことは どうでもいいんです。想像的誤読の見本。 ただの知的遊戯に堕しかねなかった 前2著を超えました。ウオッシャー っと 元気の出る 一冊です。
2010.05.29
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ツイッター って 機能が日記についたそうですがとりあえず なにがどうなるのか
2010.05.06
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「知覚されなければ存在しない」というバークリィ風命題と「知覚されなくても存在する」という客観実在論の命題は対立しているように見えます。 しかし 具体的な状況を想定してみるとそうでもないようです。「冷蔵庫をあけたらリンゴが入っていたけどまた冷蔵庫にいれてドアを閉めた」という状況の推移を想像しながらつぎの命題を順にみてください。 1 知覚されなければ存在しない2 知覚されるから存在する3 存在するから知覚される4 知覚されなくても存在する 場面ごとに 妥当する命題があるわけです。リンゴを思いがけず発見したときには 1,2 が妥当な命題でいったん このリンゴの存在が成立すれば 3、4が妥当。1 が妥当なリンゴ未発見の場面で 4は 不適当。4 が妥当なすでに存在を確認されて再度冷蔵庫にしまわれたリンゴについて 1を主張するのは 不適当でしょう。 バークリィ風 「知覚されなければ存在しない」は 存在が確定するまでは 妥当な命題。客観実在論の 「知覚されなくても存在する」は 存在確定後は 妥当な命題 であったのです。さらに 存在確定後は リンゴが最初に発見されたなら 発見される前から冷蔵庫に存在していたのは当然ですから「知覚されなくても存在していた」わけです。 さて 話をおおきくして宇宙は 人間が知覚しなくても存在するか?という疑問。 とりわけ人類誕生以前の宇宙についてもそれは 人間抜きに存在するか?もちろん「知覚されなくても存在していた」と思います。 しかし 宇宙は まずは最初に「知覚されなくては存在しなかった」のも事実です。もう 用済みになって 忘れてもいい命題かもしれませんけどね。 バークリィ命題が なんかお笑い種ではあるけれどなにか無視できない。どんな哲学史でも ちょこっとだけ紹介されているわけは そんなところにあったのでしょう。
2010.04.15
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「月は 見ている時だけ そこにある と君は本当に思うのか?」そう 問いかけたのは アインシュタイン。そのとおりと 答えたのは量子論、コペンハーゲン解釈の主唱者である ボーア。会話で比喩的に示された月は粒子としての電子のことだろう。(比喩じゃなかったりして?)観測する前は 電子は粒子としては存在しない観測するから 電子の波は粒子になる。そんな馬鹿な。という量子論をめぐる 解釈論争は科学哲学史 いや 哲学史でも 一番面白い場面だったのではないか。まるで あのバークリィの命題が復活したようなものだ。 「見ていないときだって 月は予想される位置に あるはず。」というのは 疑えない想像であり 確信だ。 なぜ このような確信が生じるのか。「見ている時でも 見る行為が 月にはなんの影響もあたえていない」という 経験があるからであろう。見ていても 見なくても 月の位置にはかわりはないのだ。月の存在や位置や運動は 観測からは独立自存したものごとだ。 しかし もし 観測が 対象の位置や運動のみならず 存在にも影響をあたえるとなると たいへんなことである。客観実在はどこにいってしまったのか。大学で量子力学の講義をとっても こういう哲学的解釈問題はスルーしているらしい。。科学技術として使えるところだけ勉強してくださいね、ということになっているらしい。なんとも寂しい話だ。科学者が哲学者でもなければという分野は生物学や脳科学のジャンルに移っているのかもしれない。 知覚しなければ存在しない というバークリーの命題はマクロな月にはあてはまりそうもない。 と 思っていたが月をはじめて見る子供にとっては そのとおりで知覚して初めて 月は存在を始める のではないだろうか。客観実在とはいえ もとは 主観と客観の間にある知覚的存在だったのだ。いったん存在すれば 見ていなくても存在する(はずの)月になる。日常的に 知覚から独立した客観的実在という考えが成立する。しかし 観測していない時には 波に戻ってしまうらしい量子っていったいなんなのさ。その波をあらわす波動方程式はたんなる数式なのか?それとも 未知の様相をもった実在なのか?だからさ 見れないもんを あれこれ解釈しても仕方がないという科学技術者は けっこうバークリィに近い立場なのかもしれない。ーーーー オススメ本 ---- 「哲学的な何か、あと科学とか」 飲茶 いいかげんなタイトルににあわず しっかりした本。 量子論を解説したところが 簡明かつスリリングな手際。 入門解説としては 最高かも。 著者の同じタイトルのHPでも読めます。 「量子力学が語る世界像 」(ブルーバックス) 和田 純夫「シュレディンガーの猫がいっぱい」 和田純夫 なかなか 日本の科学者で 量子論で自分の考えをおしだす 人はすくないようです。 コペンハーゲン解釈を否定する 多世界解釈派。 実在論、決定論でいきたい人は 一見とんでもない多世界解釈を うけいれるほかないかも。 「部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話 」ハイゼンベルク量子力学の黎明期。キラ星のごときスター科学者たち。ボーア、アインシュタイン、ゾンマーフェルト、パウリ、ディラック、プランク、シュレーディンガー。彼らとの哲学談義 って なんと贅沢な。プラトン対話編の再現みたい。いい時代ですなー。 「存在と知覚―バークリ復権と量子力学の実在論 」瀬戸 明 やっぱり 量子力学でバークリを思い出した人っているんですね。実在は知覚相関的、かつ知覚独立的である、というバークリと唯物論を止揚しようとする試み。明快な文章。
2010.04.12
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物も 心も 実在しない。というと仏教徒みたいだが、物理学者がそう主張していたとなると痛快。音速の単位に名前を残す、エルンスト・マッハの思想は感覚一元論、感性的要素一元論、などといわれる。精神物質二元論に対する表現だ。ふつうの文系のひとの書いた入門的な哲学史にはあまり名前がでてこないけど科学史には欠かせない人物でその影響力は アインシュタインら科学者はもちろん、プラグマティズム、現象学、ゲシュタルト心理学、、と幅広いそうである。(木田元「マッハとニーチェ」「反哲学と哲学」などによる)アフォーダンス理論、や構造構成主義もあげられるのではないだろうか。物と心、双方の実在を 形而上学的な余計なものと切り捨てる マッハにとってリアルなのは「感性的諸要素」のみ、物も心も実在せず 「感性的諸要素」から構成される対象、いわば 実在ではなく 仮説として存在する実在モデルのような存在であるようだ。 外界があるから見え、見る者がいるから見えるという常識には プラトニズムがしのびよる隙がある。感覚世界にはそれを成立させている原因があり感覚世界の向う側に、こちら側の奥に。ほんとうの実在があるという想像が「この現実は嘘であり 現実の背後に本当にリアルな世界があるかもしれない」この世界は 映画「マトリックス」みたいな包括的な懐疑の対象になる。 しかし マッハ的な考え方は 感覚世界がもっともリアルという考えの復権させプラトニズムに対する解毒剤になると思う。 マッハの思想の源流は カントを読んだことであるそうだがカントに残存していた決して人が知りえない現実の背後の物自体の世界を 形而上学的な無用考えとしりぞけヒューム、バークリィに 近い考えをつくりあげたそうだ。 バークリィの「存在とは知覚である」もデカルトのプラトニズムにたいする痛快なパンチだった。絶対的な確実性の保障を求める傾向には同じくらい 感覚世界への強力な懐疑がつきまとう。数学者、科学者でもあったデカルトに その両面は見事にあらわれている。 懐疑の対象である世界を確実なものにするには絶対確実な私が確実な数学的法則で世界を記述しつくせばいい。世界の背後に真にある統一的な法則こそリアルである。多くの科学者がとりつかれていた考えはそういうものであるらしい。 科学が成功するにつれ 一般人にもこの現実はみかけだけのもので その背後にある科学的世界像こそほんとうの世界像であるというプラトニズムが浸透していく。ニーチェやフッサールが 危機感を持っていたのはそういう世界像なのであろう。 人が知覚しようがしまいが客観世界は確かなものとして存在する、という理由で マッハ的な思想系譜は軽んじられてきたのだろう。知覚外の世界を信じているのは 日常的にはなんの問題も無い。生存に必須の信仰だろう。それは知覚の可能性を信じているということではないのか。人類以前の地球なんて姿を想像できるのももしそれを知覚するものがいたらという想定なのだろう。科学的世界像を検証しているのは 実は感覚である。客観世界に対する想念はかわりうる。 科学は 更新され修正されうる 仮説とモデルを提供しているわけで それを 有効にしているのは感覚の世界なのであった。錯覚にたいする常識もおかしいところがある。感覚そのものは 実はまちがえない 正誤の対象外だ。感覚の解釈という想念が 間違うことがあるわけだろう。
2010.03.31
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自然に数学的秩序がある あるいは読みとれる というのは実に不思議な話です。理系オンチの素人の私めがそう思うばかりではなかった物理学者や数学者でさえも しばしば そういう感慨をもらしているのにでくわします。特に観察からつみあげた数学ではなく 物理学へ応用されることなどまったく想定せずに 独自に創られていたある数学が ピタっと物理学世界にあてはまってしまうような時には なんでこんなにうまくいくのかとゾワーっとしてしまうそうです。数学的秩序といっても 素人には物理法則はなかなか理解がむつかしいけど、雪の結晶などなど 誰でも一目瞭然の数学秩序には圧倒されます。因果関係を含んだ物理法則は 時間の次元をいれた数学的パターンだと思えばわかりやすいが 波 なんていうのも相当へんなパターンですね。 「自然界の秘められたデザイン 雪の結晶はなぜ六角形なのか? 」イアン・スチュワート のような ヴィジュアル的にわかりやすい 自然のなかの数学的秩序を扱った本はいろいろありますが なぜ?という冒頭の疑問には応えてくれない。イアン・スチュワート も不思議がっていて 一応 人間もいろんな秩序をもつ自然の一部なんだからそういうパターンが理解できるのは当然なんだろう と納得できない短い答え。数学って 頭の中にあるけど 脳みそそのものという自然にあるわけではないですね。自然という経験世界からは独立している。それがなんで自然のなかにあるのか。 自然の中にあるわけではなくて やっぱ頭の中にあるとしかおもえんけど いずれにせよ 一致するのはなぞ。 おおまかとはいえ 科学法則は現実に成り立っているようです。でなきゃ 科学技術なんてありえない。 こういう疑問に応えてくれそうな 科学哲学というものを ひっくりかえしてもなかなか 解答は見つかりませんでした。ところで 現代の科学哲学に重要な役どころをしている 大昔のヒュームという人がいる。帰納法的検証では科学法則の正しさは証明されない、という彼の懐疑論は 結局 現代のポパーらの科学者の承認するところとなって、科学観をおおきくかえてしまった。ニュートン物理学全盛期の哲人、ヒュームに応じたのが カントですね。実は 科学哲学の教科書には 不思議となかなか名前が大きくでてこないんですがカントこそ おそらく 冒頭の疑問に答えをだそうとしていた科学哲学者だったんたんだと ようやく気がつきました。 いろいろカント本をあさるうち黒崎 政男の「カント『純粋理性批判』入門」にでくわした。この 前書きに感動。黒崎さんが 子供のころ アポロ宇宙船の月着陸があったそうだけどそこころからなんで 人間の考え出した数学みたいなもんの結果が 月や地球の運行とピッタリ合うのか、という 冒頭の疑問をずーーと持っていたそうである。永井均なんかもそうだけど 子供のときの素朴な疑問を育ててるのがいいですねえ。で 自分の疑問は 途方もなくおろかであり、なんら問うにあたいしないのかと思いかけていたところ。カントの「純粋理性批判」のテーマ、「ア。プリオリな綜合判断はいかにして可能か」という難解な表現で問われているのが実は その素朴な疑問のことらしい と気がついたそうです。いやー 同士ですなー。以前も見たことがある本だったけど そのときはもう半分のテーマである 形而上学批判のほうに目がいっていた、科学哲学を一応目をとおしてから見るとほんとに カントは現代的科学哲学者です。ポパーの科学と疑似科学の線引きとかにつうじることを もうやっているし、科学とは 自然それ自体のなかの真理を探究するものではないという 今の構造構成主義のはしりでもあるわけだな。 さて 冒頭の問いへのカントの答えは略。いまや カントの解説書は よりわかりやすいものが たくさんでているので。自分では人はなまの自然をそのまま見ているわけではなく数学秩序が成立するような側面だけをを あらかじめに無意識に自然から切り取っているのではないだろうか とか ぼんやり考えていたわけですけどあたらずとも遠からず、みたいです。ま カントの答えで 疑問が消えたわけではないですけど。ますます不思議というほうが あたってる。 やっぱ 哲学って 自主的に芽生えた愚問に応えている人がどっかにいるもんだなと思いますね。科学音痴の人には この ヒューム やカント の時代がニュートン物理学に圧倒された時代なのでけっこう ピッタリくるのでおすすめ。
2010.03.15
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西條 剛央さんの構造構成主義についてのインタビュー たいへんわかりやすい。人間科学における正しさを巡る信念対立を克服すべく構想された思想なのであるから わかりにくかったら話にならないけど。ずいぶん あたりまえのことしか言っていないようにも見えるが学者というもの ありまえの人種じゃないんだろうね。自分でつくった話に夢中になって周りがみえなくなる、しまいに 自分でつくった話である その結果の世界像であるというのを忘れてそういう話が唯一の世界のほうに内臓されていると信じだす。科学というより科学教になってしまう。池田清彦のいつもしている話は この科学教批判である。一方で自身も科学者なのだが あくまで世界像のつくり方について自覚的であり 一応自分がしあげた 構造主義生物論もひとつの世界の見方であるとする。科学もいろいろでよいという多元主義科学を提唱する。しからば 科学らしい客観性・普遍性はどこにあるのかというともはや唯一の世界自体が客観真理を持っているのではなくて、その世界像のつくり方について 誰にでも納得いくように説明できる共有できるということにのみ 科学の客観性・普遍性はあるのだとする。 竹田青嗣は文系のほうの人だが 別個に同じようなことをより徹底して考えてきていた。世界像が各自ばらばらでよいが それだけでは相対主義になってしまう。世界像の共有ではなくて 各自の世界像のつくられかたの原理ならなんとか共有できるのではないかという。 共有といっても 固定的なものではなく 相互検証の場にだせるという意味だけど。 竹田青嗣の考えるその原理は それぞれの世界像は関心や欲望によってあらわれるということだろう これを関心相関性と呼んでいる。 各自が 関心や欲望によって 言葉をとおして 世界像をつくりそれがまた 欲望の変化となって 循環していく。というのがおおざっぱな 世界像のつくられかたなのだろう。そのつくられかた を 自分でも社会関係でも 意識化して共有していくこと。 あたりまえじゃん。というなかれ。あたりまえだったら とっくに世の中平和になっとります。 こういう 一神教的ではなく多神教的な思想がでてくるのはずいぶん 日本的なのかも。宗教で言うと 宗教学で 世界の宗教を比較検討するなんてあたりまえの学問ができる日本のような国は少ないそうだ。そういう美徳は自覚的にのばしたい。いいかげん あいまい てきとー にも確固たる根拠があるのだ。 日本の無意識的に 対立を嫌う傾向はいいかもだけどど 同時に 理屈も嫌ってきたのが悪い。自覚的に多元主義を世界にも通じる普遍的思想として たちあげ理屈でも鍛えていこうようとする試みとして 構造構成主義は 注目。松岡正剛の編集工学なんかにもつうじていると思います。
2010.02.05
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現代のエスプリ no. 475) 西條 剛央 編著 おー これは。池田清彦の構造主義科学 や竹田青嗣の現象学 を うまく発展継承する西條剛央という人ががでてきてたんですね。 応援団としてほかに 内田樹 甲野善紀 養老孟司 も書いている。こりゃ みのがせない。 西條さんのインタビューが 下記にあります。 http://www.mammo.tv/interview/archives/no224.html 1974年生まれかあ。若いなー・・・・・・・・・・。次世代に こんなひとがでてきたのは うれしい。
2010.02.01
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乱読斜め読みの年明け。自分の関心がぼんやりしたまま連想法のようにしていろんな本を探していた。ふりかえると生命論関係が多かったみたいです。結局 自分の関心をだんだん明確にしていくのは自分自身を読んでいる ということでもあるけど、まさに そのことに重なるようなテーマを追っかけていたようです。 理系音痴なので 最近の科学はどーなっておるのかというのをみると、特にに生命を探求する複雑系以降の科学のあり方はみていると とっくに科学的対象を探求するということが同時に己事究明になりつつあるらしい。すでに物理学の観測者問題あたりからはじまってもはや 科学の対象が 探求者から独立してある客観実在ではなくなっていた。世界は探求者の関心と方法によってあらわれてくる。とすると 結局 探求者は いったい自分は何をやっておるのか?どういう衝動が探求に向かわせていっているのか?と問うことになるんでしょう。 とりわけ生命を問う とは なにをしている事になるのか。まさか生命を論文におきかえることが目的ではないだろう生きているとはどういうことか というと畢竟 探求者が生きているということ そのこと自体である。ということになりはしないか。 去年亡くなった 生物学者、日高敏隆さんのエッセイ 「生きものの流儀 」虫取り大好き少年が それを大人になっても続けたくて口実として学者をやってたような日高さんであったけどある蛾の繁殖生態の研究を依頼されて これ幸いと、夢中で蛾を追い掛け回した日々を回想してそうやって彼らの命をみていたこと それ自体が 僕の命だったんだ というようなことを書いておられた。わー やっぱ そーゆーことになるんだなあ。 本を漁るのも 昆虫採集とかに似てるのかも。背後の著者たちの生態を追っかけてるのか。斜め読みでは惜しい。じっくり再読したい本をすこし紹介。 デザイン学 (思索のコンステレーション) 向井周太郎 ムサ美の先生が書いたデザインの本。と思いきや 中身は極上生命哲学のちらし寿司的エッセイ。 「「デザイン」というコンセプトも極めれば生命。 物質をめぐる冒険―万有引力からホーキングまで (NHKブックス) 竹内 薫 著者が大森荘蔵の弟子筋とは知らなかった モノからコトへ。色即是空。 「生命」で読む日本近代―大正生命主義の誕生と展開 (NHKブックス) 鈴木 貞 「生命」コンセプトは すでに大正期にはじまっていたのです。 言葉と在るものの声 前田 英樹 意味分節という言葉の根本欲動の諸相を探る著者は武道家でもある ソシュール パース ベルクソン そして空海へ肉薄 物語の哲学 (岩波現代文庫) 野家 啓一 もともと科学哲学の著者が 科学の方法として 物語行為を説く。 人文と理系の区別が なくなっていくのかも。 複雑系の科学者がよく推薦している。 生命誌の扉をひらく―科学に拠って科学を超える 中村 桂子 自己組織化する宇宙―自然・生命・社会の創発的パラダイム エリッヒ・ヤンツ やっぱ一度は 宇宙、地球、生命、人類の歴史の最後に自分がいる ということを大風呂敷をひろげて統一的にふりかえってみたい。 西田幾多郎の生命哲学 (講談社現代新書) 檜垣 立哉 複雑系の科学者たちからも あらためて思い起こされている和製哲人西田。生命のかたち/かたちの生命 木村 敏 患者をモノとしては扱えない精神医学者による生命探求
2010.01.30
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本書は 「お客さん」を家に迎えるために「お掃除」をするということを目的にした本です。という前書き。なんだか そういう本によくでくわす。フランス現代思想と合気道、教育論と平和主義。それらが どう結びついているのかなにが専門なのか さっぱりわからない内田先生であったがここにきて あれこれの全経験が無駄なく編集されだしているようでスリリング。 主体的に世界の中心にいるとは思えない辺境人。極東の日本人。宗教も思想もファッションもロックもアニメも輸入とその変形でしのいできた辺境人の長所にとりあえずひらきなおって「日本という方法」を自覚しようというのが話半分。なにより 学び上手なんだから。しかし その手が使えない局面がある。すでになされた事実にどう対応するか は得意だけど自分が事実を創出するという側にたって考えることが苦手。つねに 起源から遅れる という宿命を負わされたものがそれにもかかわらず 今ここで一気に 必要な霊的深度に到達する方法として 武家や禅家が あみだしたのが「機」の思想 だという。ここんところの話が まだ予告編でこれからなんでしょうがやっぱ武道を実践・会得してきた内田先生ならではの白眉です。先後、遅速 という時間概念 と能動者、受動者 という2項対立を 一挙に揚棄してしまう。昔、清水博が『生命を捉えなおす』で柳生新陰流に見る共創の理、なんて事を言っていたけどそこにも通じるものがありそう。こういう事が可能なのは 時間と主体が双子のようなものだという 時間論哲学の流れを さらに超えるヒントがあるようです。先手必勝の主体的な計画ー成果主義を 必然系帝国主義とするならそれに対抗しうる 偶然系のゲリラ哲学ともとれる。日本人であることに ひらきなおりつつもうちょっとだけ がんばって そこを超えれば いい景色がみえてくるかも。辺境人とは 実は 世の中の9割以上を占める 才能もなけりゃ主体性も無いという凡庸な人々のことでもあろう。優れた人々を畏敬し 爪の垢でも飲んでやろうという 素直さだけがとりえ。 それは 実はすごい才能かも とも思えるとこも いいです。ますます 内田先生に注目なのである。生徒あっての先生なのだ。
2009.12.21
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谷川俊太郎さん の言葉をみつけました「言葉というものを使って仕事をして、50年以上になります。(創作に)疲れ切ったときもあります。自分をレモンの搾りかすみたいだと思ったこともある。・・・・でも、それは「自分の中」からでてくると思いこんでいたから。はその後、自分なんてそんなに豊かなものじゃないんだから、むしろ日本語という豊かなものに自分が分け入って、そこから面白い日本語、楽しい日本語、美しい日本語を自分が組み合わせればいいんだ、というふうにイメージが変わったんです。それからは楽になりました。むしろ今は、自分をからっぽにしないと詩が書けない。」 (斉藤孝 「上機嫌の作法」より)
2009.12.20
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著者はやまと言葉に込められた日本人の発想や感性を、読み解いている人。「さらば」「さようなら(ば)」とは、もともと、先行の事柄を受けて、後続の事柄が起こることを示す接続詞であるが、それがやがて、別れ言葉として自立したとのこと。 「さようであるならば」と、事柄の移り行きにおいて、いったん立ち止まり何ごとかを確認することによって、次の事柄に赴く。と たったそれだけが 本書の中心なのだけどとても 興味深い豊かななことが そこでは起こっていると思う。時間的存在者の生成とでもいいたくなる。時間と自己がどうかかわっているか 同時に生成されているのではないかという哲学テーマがあるのだけれど「さようなら」の一語にも それが 集約されていたとは。時間も自己もあらかじめあって そのうえで「さようなら」と言うのではない。「さようなら」の発語が 自覚的な時間と自己をつくりだすのだろう。別れる相手や風景などと一緒にあったことが 過去になり今 ここに 私は一人立たなければならない。多くの歌も文芸も そこに生まれているんだった。冒頭で 阿久悠さんの「人間はたぶん、さよなら史どれくらい ぶ厚いかによっていい人生かどうかが決まる」という言葉が引かれているがそうなのだろうな。 別れとは 主体的にはどうにもならない事態である。それは、「この世の定め」「無常」「運命」などであるが、、それらを総じて「おのずから」そうなったこととして「さようならば」と「みずから」受けとめ確認・納得しようとしているのだ、という。 如意の「みずから」と不如意の「おのずから」とは、両方からせめぎ合いながら、その「あわい」で人生のさまざまな出来事が起きている。「さようであるならば」の確認とは、そのふたつながらの確認・総括だという。 先に繋がる事柄の何たるかは問わないままに、ともあれ「こちら」を生き切ることによって、「向こう」の何かしらと繋がっていく、といった発想を日本人が持っていたともいう。さようなら、によって わかれつつ つながっていくものたち。今年も いろんな人たちが旅立たれたけど特に 加藤和彦さん さようなら。
2009.12.14
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最近 松岡さんの本は買ってないなとおもって とった本。http://www.shunjusha.co.jp/renjuku/index.html「日本流」「日本数寄」などの系譜の「日本文化の方法」についての本ですが本書は もっと日本を教えてくれ というリクエストに応えた 連塾という2003年7月の講義を収録したもの。聴衆が また さまざまな人々だったようで、鈴木清順、前田日明、しりあがり寿、和の本職では、歌舞伎の中村吉右衛門のほか茶や能の家元、なぜかIT業界幹部とか 外人さんも なぜか、鳩山由紀夫まで。ほんとに 松岡さんから 何かヒントを という熱心な人が多いんだなと あらためて驚きました。 講義は 明治の文明開化の時代、失われ行く日本を惜しむ外国人や日本を再発見すべく苦闘する日本人たちの話からなのでそういう日本に危機感をもった魂が 松岡さんや聴衆に乗り移っていくかのようで ド迫力、ライブ感覚。と真剣に読んでいると セイゴウさんの話は和風タラコ・スパゲティはいいね などと笑わせさせもしつつ、例によって 緩急自在、縦横無尽でいよいよ日本神話の謎に突入・・・・ 故・山口小夜子さんが最前列で熱心に聴いてらっしゃる写真に 涙。涙であります。ほんとに真摯な集まりだったんだなと 心打たれるものがあります。今晩の日曜美術館 再放送があり「根津美術館の至宝~救われた日本美術~」 に 松岡さんでてるそうです。あの声が好きなんです。やっぱ 松岡正剛さんは エネルギーがありすぎて 受け取るほうが いちどきには消化しきれないけどね志と体力のある日本の若武者たちは 正剛さんを丸ごとパクるべきでしょう。
2009.12.13
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人生に必要な思想がひとつだけあるとすればひょっとして タイトルのような偶然 とのつきあいかただけかもしれない。偶然性は 真善美を必然性の相でみるという伝統的な西洋的思考にとってなんとか排斥あるいは必然性に回収すべき課題でありつづけてきたようだ。偶然は存在の根拠、同一性、恒常性、自由意志をおびやかす。たいていのノウハウ書に どうも へきえき するのは思い通りになる無限の未来 が前提となっているからだろう。それが自由なのだろうか。ぽじてぃぶしんきんぐ? 本書の著者 野内さんの学問への機縁は 友人がさそった西洋史の講義になんとなく、ついていったところ これが野内さんの聞き間違いで実は 西脇順三郎の 西洋「詩」 の講義であった。それで マラルメに興味をもち・・・かかる成り行きの果てに こういう著書をだす次第に成ってるわけで 脇目もふらず己の企図の実現ばかりに夢中ではこんな おもしろい本も生まれていない。「みな無の深淵の上に壊れやすい仮小屋を建てて住んでいる人間たちなのだ」「人間は偶然に地球の表面の何処か一点へ投げ出されたものである。如何にして投げ出されたか、何処に投げ出されたかは知る由もない。ただ生まれ出でて死んで行くのである。人生の味も美しさもそこにある。」というのは 偶然や粋について考えた哲学者・九鬼周造の言葉。最後の一行は 必然のみを重視する思想からはでてきようがない。ニヒリズムやシニシズムしかでてこないだろう。 ところが 偶然に基礎を置く真善美もあるわけだ。諸行無常という真理、一期一会という倫理日本的儚さの美学 はもちろんだけどそれだけがでてくるわけでもない。臨機応変、いくらだって 価値が発生していそうだ、物語だってゲームだって お笑いだって 意外・予想外の偶然がなければ成立しないではないか。べつに失うものはないという 元気や勇気さえでてくることもある。必然的因果関係を求める科学技術の発明発見の事例の数々だってその過程には偶然が関与していて それは「セレンディピティー」と命名されている。 世界事象は 仮小屋のような必然性 と 根本的偶然性のからみあい。茂木健一郎のクオリアに次ぐ大テーマ「遇有性」もそのことらしい。宮台真司なら「偶発性」、「縁」「シンクロニシティ」も思い起こされる身近なことがらだ。必然性 は 主体性に 偶然性 は 他者性 にかかわる。主体や知や思想に いぜんとして役割があるとすれば偶然というゲストのために 場を整理 提供しておくことかもしれない。そんな さかしらさえ必要ないという 天然アナーキストや かんながら や 老子やフリージャズ に赴いてってしまうような器ではないので せめて 必然と偶然の間にたってみよう。それが無理のない「自然」というもの ではなかろうか。
2009.12.05
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サブタイトル;問題解決のための忘却メソッド-----「忘れる」ことは決して悪いことではない! 人間の記憶は膨大な情報を捨て去ることによって、整理され構造化され、思考力と問題解決能力が高まるメカニズムになっている。---- そのとおり、と うなずくことしばし。本の整理や処分をやっているうちに知らず知らず 本書の内容を実践していたからだ。 --個別の記憶への執着を捨てれば 思考や思想は全体へ向かいシステム思考力や 大局的俯瞰力や 他人の気持ちに立つ力幸せに生きる力を手に入れることができる-----と書かれると おおげさなかんじだがそういう方向にむかいつつある感触がある。 記憶への執着は お金への執着にも喩えられているが経済の本を読んでいたときに そういうアナロジーにも気づいていた。それで なんだかまず 死蔵している本への自分の執着がたいへん気になってきたので本の整理や処分をはじめたのだった。それが記憶の整理整頓につながっていった。単純にいえばスッキリしてきたわけだ。知らず知らずに なんだかうまくいってる事やおもしろくなってきたことがあったらこういうふうに方法を再自覚化して身についたスキル記憶にしてしまえばいいということも教えられた。これは松岡正剛の「多読術」にもかんじたことだ。 ノウハウ本のほとんどは利己的な競争にいかにして勝つかみたいな話ばっかりで だいきらいなのであるが前野さんには仏教徒的な香気があるから素直に読めたいままでに 前野さんの脳哲学本を読んできにいっていたからでもあるからだろう。・脳の中の「私」はなぜ見つからないのか? ~ロボティクス研究者が見た脳と心の思想史 ・脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説 は 茂木さんのクオリアこだわりが気になるむきには興味深い対論です。
2009.12.02
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「1Q84」村上春樹の世界 洋泉社MOOK すでに1Q84の研究評論本はたくさんでているが このMOOKは 格別におもしろい編集となっている。「多読術」松岡正剛 読むという不思議な行為を自覚化した読書方法論 と この2冊を本日購入。洋泉社 って 発行人が 石井慎二。この人は JICC出版局をたちあげ「宝島」をつくった人だったなと思い出す。 自分が定期購読していた雑誌をふりかえると石井さんの初期「宝島」、それから松岡さんの「遊」はおおきな比率をしめていたわけで影響もいろいろうけたなあと。思い出す。偶然 その2人がかかわる本を今日も買ってきたわけ。ところが偶然はまだあって「多読術」での松岡さんの履歴話によるとなんとこの2人、同じ九段高校の新聞部の仲。なんだか家で2人の同窓会がひらかれてる気分
2009.12.01
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いまでは 若者に説教しなくてはならない立場になっちゃった香山さんですが、彼女自身の 当時の雑誌・音楽文化に翻弄されたより道だらけの青春回顧録。 それが中学生で松岡正剛の本との出合いからはじまるというからおどろきました。しらなかったなあ。香山さんも早熟少女だったんでしょう。その後「遊」の読者になり さらに工作舎にたむろするようになってたんだそう。本書のブックデザイナーの祖父江慎さんもそういった工作舎青年だったそうです。当時は 松岡さんも教祖っぽく吉田松陰のようにやってくる青年から優秀な人材をえらんで 塾生として育てようとしていて大学なんかまだかよってるのか、と学生を脅していたそうだ(笑)当時 医大生だった香山さんは 塾生に選ばれそうになり そうなると医大をやめなきゃならなくなるかもと 恐ろしくなり逃げた先が・・・・とずっこけていく物語(省略) ちゃんと精神科医になってから 某イベントで松岡さんと同席するはめになった香山さんだったがあんたのせいで人生狂った青年もいるんだぞ、と言い出しかねないと 再会の挨拶をためらっていたところ松岡さんから寄ってきてやあひさしぶり 会いたかったよとハグされてしまいこの人にはかなわない、こっちへおいでと言われたら ついていってしまいそうだ、私はまだ松岡さんの磁場の圏内にいるんだと震え上がった、んですと。爆笑してしまった。松岡さんはカリスマ的だし香山さんは YMOやらジャイアント馬場もあがめてしまうミーハー体質だし。なんちゅー組み合わせじゃ。 こういう当時の松岡ファンだった青年が今は各界の責任ある立場になっててまた松岡ブームになってるんでしょうね。
2009.11.30
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ちょっと まだ とっておきたい古本、古雑誌、処分してしまうと自分の記憶までなくなりそうで。コピーすると そのコピー紙のファイリングがやっかいで それなら元の本をおいといたほうがまし。皆 あれこれ苦労してるようでデジカメで三脚たてて本を撮ってるというおそろしい猛者もいらっしゃるようですが、 「本 スキャナー」で検索するといろいろ。しかし 音楽の世界のようには本のデジタル化は簡単ではなさそうですね。本を捨てる覚悟で裁断しスキャンというタイプのADFは野蛮すぎるし、裁断機まで買いたくない。コピー機みたいにペターッと読み取り面に押し付けるとタイプは1ページずつ つきっきりでやってられない。読み取り速度も気になる その後のデータ処理も不安。というわけでスキャニング代行ビジネスってないのか。「スキャニングサービス」で検索するといろいろ。法人ではなく個人を顧客にに想定したサービスもあるけど本を壊さない無裁断で原本は返却で 1冊2500円、裁断で原本処分ならば1000円 というところがありました。これでも業界では超低料金みたいです。本の性質や スキャン後のデータ利用度によっては 利用価値があるサービスかも。 結局 やっぱり とりあえず 1万円ぐらいのスキャン機能つきの複合機プリンターを買ってやってみるほかないのかな。全自動で本をめくってスキャンするマシンってないのかーー。あるんだそうです 1時間で3000ページも。 しかし ぬあんと2500万円。書庫用のマンションが借りられる(笑)
2009.11.23
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古本整理中 昔の雑誌を発掘。The Meditation は メンタル・アドベンチャー・マガジン というサブタイトルで1977年10月創刊の季刊誌。表紙は 横尾忠則。発行社の平河出版社は 桐山靖雄の阿含宗の関連会社だが阿含宗の宣伝色はまったくだしていない。オンライン古書店「東京図鑑」さんのページにもありました。http://www.tokyo-zukan.com/catarogue/27Magazine1.htmlビートルズの1968年のインド旅行に代表されるヒッピー文化の影響が10年遅れで日本にも上陸か というかんじのサイケデリックな雑誌。ドラッグと宗教と音楽などが渾然一体となったあやしー雰囲気で盛り上がってます。松岡正剛さんもLSD体験者座談会にひっぱりだされてる(笑)伝説的進化論生物学者、今西錦司と横尾忠則の対談なんてのも。SF作家J・G・バラード・松岡対談も興味深い。雑誌ならではの 異色対談。人類の意識変革はありうるのか?という関心が編集者、寄稿者に共通にあったわけですね。 さっきスーパーで買ってきたインスタントの「チャイ」を飲んでましたが、こんなのも 当時のブームがきっかけでしょう。インド旅行経験者が流行らせたんだろうな。「精神世界」やエコロジー、イルカ、自然食、ジョギングとかこの時代が元になってる文化って けっこうあるもんですね。オウム真理教やらドラッグ文化をはじめ その後の悪影響もいろいろありますけどね。まあ 音楽だけなら安全です。 インドの宗教や導師(グル)に影響をうけた音楽家はアメリカなどのジャズ・ロック界にたくさんいました。YMOの細野さんなんかもですね。 音楽と瞑想特集の 当時のLPガイドもなつかし。ジャズ・ロック・現代音楽 という枠組みのない選出もこの時代っぽい。トリップします(トリップだって言わないよなー いまどき)コルトレーン、ドン・チェリー、ウエイン・ショーター、マクラフリン、タンジェリン・ドリーム、クラウス・シュルツ、小杉武久、武満徹、、スティ-ブ・ライヒ、テリー・ライリー、イーノCD時代になってから聴いてないけれど また聴きなおしたくなった。そういえば ずっと後に この文化のパロディー?筋肉少女帯の「日本印度化計画」なんて歌も笑えました。とびます とびます ♪http://www.youtube.com/watch?v=Rq41H6mgt_I
2009.11.21
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