オバかの耳はロバの耳 

2015/09/09
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■■ Japan On the Globe(915) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■

国史百景(16): 国連本部に翻った日の丸
~ 重光葵と国連加盟

 重光葵は、日本の国連加盟を実現するために、残り少ない余命を捧げた。


■1.国連総会議場にて

 1956(昭和31)年12月18日朝、ニューヨークは晴天で、凍てつく寒さだった。イーストリバー沿いのガラス張りの39階建ての国連本部ビル、その横の薄いベージュ色の平たい箱形の建物が国連総会議場だった。

 重光葵(しげみつ・まもる)外相はダブルの背広に蝶ネクタイ、オーバーコートに中折れ帽をかぶって、大きなガラス張りのドアを押し明け、総会場に入った。中は暖房が効いて温かい。随員たちと和服姿の娘、華子が後に続く。

 高い天井の下の広大な空間に、びっしりと机が並び、世界各国の代表団が着席していた。重光は議場内の席に案内された。重光が着席するのを待って、51カ国もの共同提案による日本の国連加盟案が提出され、全回一致で承認された。議長が「日本の国際連合への加盟が決定しました」と宣言し、割れるような拍手が湧いた。

 スピーチの指名を受けた重光が立ち上がる。右足が義足のため、杖をつき、足を引きずりながら、演壇に近づく。右足を失ったのは、昭和7(1932)年、中華民国への公使時代に、上海での天長節祝賀会で朝鮮人テロリストに爆弾を投げらたからだった。[a,b]

 演壇は半円形で、4段の階段がぐるりと取り囲んでいた。その階段を、重光は一段一段、昇っていった。


■2.「君に、国際連合への加盟を実現してもらいたい」

 国際連合への加盟は、亡き松岡洋右(ようすけ)が死の直前に、巣鴨刑務所で重光に頼んだことだった。この時、重光も戦犯容疑者として、巣鴨にいた。

 一貫して戦争を避けようと努力した重光を戦犯容疑者として逮捕したのは、ソ連の仕業だった。かつて外務次官の頃に、一様に共産化を恐れる欧米列強に対して防共協定を提案したことがあり、それを恨まれていたのである。

 松岡は、特別に重光との面談を依頼し、3分間のみ英語で話すという条件で許された。車椅子の松岡はこう語った。

__________
 君に、国際連合への加盟を実現してもらいたい。僕が席を蹴って立った国際社会に日本を戻してほしいのだ。どうか、君の手で、国際社会復帰を、果たしてくれ。この思いを、君に託さなければ、僕は死んでも死にきれない。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 鋭さを失った松岡の目に涙が光っていた。

「僕が席を蹴って立った国際社会」とは、松岡が1933(昭和8)年2月に、国際連盟総会で満洲国に関するリットン調査団報告書が採択された際に、席を立ったことである。これが契機となって、日本は国際連盟から脱退した。

 松岡の国際連盟総会退場は、国民から喝采を浴びたが、実は本意ではなかった。イギリスの代表団は、非公式に松岡に提案してきていた。「満洲での日本の利権を認めるから、いちおうリットンの報告を汲んで、顧問団を受け入れろ。その顧問団は日本人を主体にする」というのだ。

 松岡は「この提案を受け入れるしかない」と東京に打電したが、単なる口約束だと一笑に付されてしまった。「このままでは連盟による経済制裁が待っている」と再度、打電したら、その返事は「ならば脱退してしまえ」という指示だった。

 松岡は国際連盟脱退を深く悔やんでいて、重松に今生の頼みを託したのである。


■3.「私は、とにかく国交を回復できればいいんです」

 東京裁判では禁固7年の刑を受けたが、4年半の拘留の後、昭和25(1950)年11月21日に仮釈放された。64歳になっていた。

 この年、日本は国連加盟を申請していたが、ソ連が拒否権を発動した。常任理事国の1国でも拒否すれば、加盟は認められない。ドイツでも朝鮮半島でも、アメリカとソ連の冷戦が激化しており、日本が国連に加盟すると、アメリカの発言力が増すことをソ連は嫌ったのだ。

 昭和29(1954)年、鳩山一郎内閣が誕生すると、重光は9年ぶりに外務大臣に返り咲いた。まず注目したのは、インドネシアのバンドンで開かれるバンドン会議だった。アジア、アフリカの有色人種の国際サミットで、重光は腹心の加瀬俊一を送って、各国の日本加盟への支持をとりつけた。

 次に重光は国連本部に出向いて、総会議場のラウンジで、レセプションを主催した。飲み物を片手に、和やかな雰囲気の中で、重光は国連事務総長や各国代表に、日本の加盟支持を訴えた。

 3ヶ月後、国連の理事会で、日本の加盟に関する二度目の審議が行われたが、またもやソ連の反対で否決された。

 ソ連はアメリカ主導のサンフランシスコ講和条約を拒否した。日本の国民も、日ソ中立条約を一方的に破って、満洲で日本の居留民を襲い、日本将兵をシベリアに抑留したソ連を嫌っていた。しかしソ連の反対を覆さなければ、国連加盟は望めない。重光はソ連との国交正常化に取り組んだ。

 昭和31(1956)年7月29日、重光はモスクワの空港に降り立った。ソ連の外相やフルシチョフ第一書記とも会談したが、北方領土問題については、取りつく島がなかった。ここはソ連案を呑んで、領土問題を棚上げして国交正常化するしかない、と判断したが、日本政府も譲らない。重光は交渉を決裂させて帰国した。交渉失敗の批判は聞き流した。

 その後、駐日ソ連大使と綿密な事前交渉を経て、妥結が可能という手応えを掴んでから、鳩山首相をモスクワに送り出した。ソ連は重光には良い印象を持っていなかったからだ。

 鳩山首相は「せっかく、ここまで進めておいて、最後の仕上げをしないと、君が失敗して放り出したような印象を国民に与えるぞ」と言う首相に、重光は笑って「何と思われようと、かまいません。私は、とにかく国交を回復できればいいんです」

 10月19日、鳩山はモスクワで日ソ共同宣言に調印し、国交正常化を成功させた。新聞は、鳩山の成果と書き立てた。


■4.「たった今、可決されました」

 昭和31年12月12日の夜、重光は外務省の大臣執務室に泊まり込んだ。この日、ニューヨークの国連本部で、安全保障理事会が開かれ、日本加盟に関する採択がなされる予定だった。結果が出次第、ニューヨークの日本領事館が国際電話を入れることになっていた。

 スチーム暖房は夜間は切られてしまい、各人はオーバーコートを着込み、持ち込んだガスストーブで暖をとりながら、寒さしのぎに日本酒をちびちびやって、ひたすら電話を待っていた。

 朝5時、現地はもう夕方だ。遅すぎる。何か問題が起きたのではないかと、不安が心をよぎる。しかし、可決するまで、何度でも全力を尽くすしかない。それが自分に与えられた最後の使命だと覚悟した。

 その時、机の上の黒電話がなった。雑音とともに、興奮気味の声が聞こえた。「たった今、可決されました。日本の国連加盟が決まりました」

 重光が親指と人差し指でOKのサインを出すと、職員たちから大歓声があがった。総会での承認は12月18日となり、その日のうちに重光が国連総会の日本代表と決まった。

下に続く






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Last updated  2015/09/10 12:54:27 AM
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