オバかの耳はロバの耳 

2015/09/09
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国史百景(15): 終戦を支えた皇族たち

 789万人の陸海軍将兵に戈(ほこ)を収めさせるために、昭和天皇の大御心を説くべく、皇族たちは戦地に向かった


■1.「不退転のご決意を秘められた荘厳なお姿」

 昭和20(1945)年8月12日、在京の皇族男子全員12人が宮中の御文庫付属室に呼ばれた。空襲で宮殿も焼け落ち、分厚いコンクリートで覆われた暑く湿度の高い御文庫に、両陛下は住まわれていた。

 お出ましになった昭和天皇の憔悴されたお姿を目のあたりにして、竹田宮恒徳(つねよし)王は「天皇陛下は今まで拝したことのない程に緊張された御様子」「しばらくお目にかからない間に、なんと深いご心労を宿されたことか」と思った。

 8月9日深夜の御前会議で、昭和天皇の御聖断の下に、最高戦争指導者会議と閣議でポツダム宣言受諾の政府決定がなされた。しかし、このまま戦争を無事に収拾できるのか、降伏後の日本がどうなるのか、については五里霧中の状態だった。[a]

 集まった皇族方に、昭和天皇はこう話された。

__________
 私自身はどうなってもよいから、ここで戦争を止めるべきだと思う。そこで自分は明治天皇の三国干渉当時の御心労を偲び、ポツダム宣言を受けて、戦いを止める決心をした。どうか私の心中を了解してくれ、そしてこれからは日本の再建に皆真剣に取り組んでもらいたい。[1,p170]
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 そのお姿に触れた時の思いを、竹田宮は後にこう記している。

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 ふだんはむしろ女性的にさえ思えるほど、お優しい陛下が、この日本存亡の際にお示しになった、不退転のご決意を秘められた荘厳なお姿を、私は生涯忘れることができない。
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 最年長の梨本宮が、皇族全員を代表して「陛下の御英断に謹んでお従い致します。そして今後共国体の護持に全力を尽します」と奉答した。


■2.「自分の心中をよく第一線の将兵に伝えて欲しい」

 8月15日正午の玉音放送により、昭和天皇が直接、国民に終戦を告げられた。その翌日、朝香宮(あさかのみや)鳩彦(やすひと)王、東久邇宮(ひがしくにのみや)稔彦(なるひこ)王、竹田宮恒徳王、開院宮(かんいんのみや)春仁(はるひと)王に、昭和天皇から突然の御召があった。

 東久邇宮以外の3名が、まず昭和天皇の御前に案内された。昭和天皇は14日と同様の緊張した面持ちで、こう話された。

__________
 終戦をつつがなく行なうために、一番心配なのは現に敵と向かい合っている我が第一線の軍隊が本当にここで戈(ほこ)を収めてくれるという事だ。蓋(けだ)し現に敵と相対している者が武器を捨てて戦いを止めるという事は本当に難かしいことだと思う。しかし、ここで軽挙盲動されたら終戦は水の泡となる。

自分が自ら第一線を廻って自分の気持をよく将兵に伝えたいが、それは不可能だ。ご苦労だが君たちが夫々手分けして第一線に行って自分に代わって自分の心中をよく第一線の将兵に伝え、終戦を徹底させてほしい。急ぐ事だから飛行機の準備は既に命じてある。ご苦労だがあした早朝発ってくれ。[1,p173]
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 当時、陸海軍合わせて789万人の将兵がおり、特攻に使える航空機も6千機は残っていた[b]。特に中国大陸では、陸軍が国府軍を圧倒しており、突然、降伏を命ぜらたからと言って素直に従ってくれるかどうかは、まったく不明だった。

 もし、前線や日本本土で降伏を潔しとしない陸海軍将兵が戦い続けたら、終戦は有名無実となる。イタリアのように内乱状態になるか、ドイツのように全土占領されるまで戦いが続くことになるか、のどちらかだった。いずれにせよ、民の苦難は続く。

 昭和天皇は、これを恐れて、三方の宮を御自身の代理として戦地に派遣して、無事に戈を収めるよう説得しようとされたのだった。朝香宮は支那派遣軍に、竹田宮は関東軍と朝鮮軍に、そして開院宮は南方総軍にそれぞれ天皇の特使として終戦の聖旨を伝達しに行くことになった。


■3.「満洲帝国皇帝の亡命を助けよ」

 東久邇宮には、終戦決定の後に総辞職した鈴木貫太郎内閣の後を継いで、組閣の大命効果があった。誰も経験したことのない降伏後の混乱は、これまた昭和天皇の分身としての皇族内閣により乗り切るしかない、という判断だった。

 皇族が政府の長となるのは、明治政府が樹立された時に、有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王が「総裁」の地位に就いて以来のことであった。

 その日の午後、東久邇宮は組閣で忙しい中、竹田宮を呼び出して、東郷外相とともにこう依頼した。

__________
 竹田さんは満州に行くそうだが、もしできたら薄儀(ふぎ)満州国皇帝に会って、皇帝が希望されたならば、一緒に日本へ連れてきてもらいたい。もちろん、あなたの本来の任務は聖旨の伝達にあるのだから、無理をしてまでとの依頼ではないのだが。
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 竹田宮は、つい7月まで関東軍参謀として満洲帝国の首都・新京(長春)に赴任していたから、ソ連軍と中国軍の進駐を目前に控えた現地の混乱ぶりは容易に想像できた。果たして無事に帰れるかも分からないと思って、身辺の整理を始めた所に、さらにこの依頼である。


■4.「皇族の三人や五人は死ね」

 明治天皇は「男子皇族は軍人となって政治に関与すべきではない」との思召(おぼしめ)しを示され、竹田宮も軍人として生きてきた。

 竹田宮恒徳王は昭和13(1938)年に陸軍大学校を卒業したが、軍の首脳部は宮をあくまで安全な場所に配置しようとした。皇族を戦死させては、という心配が軍の内部にはあったからだ。しかし、竹田宮は、陸軍省の人事局局長と電話で激しく口論した末に、中隊長として中国の前線に赴くことになった。

 ただ、戦闘に加わる以上、皇族の身分を隠した方がよいということになって、「竹田宮」をひっくり返し、「竹」を「武」に代えて、「宮田武」とした。以後、「宮田参謀」が皇族であることは、軍の中でもごく一部しか知らなかった。

 後に、大本営勤務となった際に、南洋方面の戦略検討のために、参謀次長と軍令部次長がラバウルの前線司令部に出向くことになった時も、竹田宮は随行を願い出た。しかし、杉山参謀総長と東條陸軍大臣は頑として聞き入れない。竹田宮は眼に涙を浮かべながら、上司の辻政信班長に嘆願した。

__________
 班長さん、御願ひです。私を、ラポール(ラバウル)にやるやう、総長、大臣に班長から是非もう一度、申上げて下さい。私が皇族なるがため、当然なすべき仕事をさせて貰へないなら、今すぐ大本営参謀をやめさせていたゞきます。この大戦争に、もし、明治天皇様がお出になりましたなら、きつと、皇族の三人や五人死ね!! と仰言るでせう。[1,P197]
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 竹田宮の迫力に押された辻班長は、杉山総長に宮の思いを伝えると、「そうか、それほどの御決心か!」と涙を拭い、万一のことがあったら切腹する覚悟を固めて、自ら東條大臣を説得した。東條大臣も涙ながらに、これを許したという。

 竹田宮恒徳王の母親は、明治天皇の皇女・昌子内親王だけに気骨ある母親で、「皇族の三人や五人は死ね」とはその母からの手紙の中の一節であった。


下に続く





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Last updated  2015/09/10 01:03:47 AM
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