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恵果さまから多くの仏典や法具、曼荼羅、仏画をいただいた空海は、 このご恩に報いるのに、なにもわたしは持っていないと、自分の袈裟(けさ)を捧げて、ご恩に報いたといいます。 やがて、おわかれのときがやってきます。 十二月十五日、恵果さまは、六十歳にてこの世を去りました。 徳の高い師匠がお亡くなりになることを「入滅 にゅうめつ」といいます。 恵果さまは、入滅に際して、空海に、次のような遺言を遺していらっしゃいました。 (つづく)
2004年07月27日
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そのころ、早也は、宿坊の庭にある、どんぐりの樹をみつめていた。 夏の夜、どんぐりの樹のまわりを、カブトムシがぶんぶん飛び回っている。 木の下には、ひっくり返ったカブトムシが息絶えていたり。 きれいによく乾いている。美しいので、ニ、三日、玄関にオブジェとして飾りたくなる。 翌朝、アリンコたちが、朝からせつせと働いている。 カブトムシを埋めたいときは、アリの巣の近くにそっと置いてあげる。 あとは、勝手に、アリンコたちが、集まり、埋め、分解してくれる。 蝶(ちょう)、ダンゴムシ、アリヂゴク、蜂、カナブンたちも、そのうごきをいよいよ活発にしてきた。 夏の庭を心しずかにながめる。 どうぶつ、こんちゅう、花、生きものは、みな、生まれて、思い切り働いて、鳴いて、歌って、踊って、糞して、戦って、セックスして、死んで、そして、また土に帰り、つぎの いのちへと、バトンをつなぐ。 そこには、悲哀など、まったく、ない。 四季、あたりまえに、それらは繰り返される。 にんげんも、ほんらい、同じである。 ゆいいつ、人間にのみ許された特権といえば、 「悩み、解決方法を見出し、笑う」ということだと思う。 これは、虫や植物、ほとけさまにも、できない、 にんげんだけの特権である。 ならば、せっかく、今世、人間として生まれたのだ。 その幸運(けして不運ではない)に感謝し、 おおいに、悩み、解決し、笑おう。 せっせと、あるいは のんびりと、働いて生きよう。 せっかくだから、可々大笑、可々爆笑して、逝(い)こう。 あっという間に生き、あっという間に死ぬんであるから、 いちにち一日を、大切に生きよう。 で、なるべく長生きして楽しもう。 恐れることはまるでない。 人間が終われば、次のステージが待っている。 そこで、また、いっしょに遊ぼう。 お庭に出て、早也は思う。 「たとえば、こんなふうに、カブトムシが教えてくれる。」 山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)。 森羅万象(しんらばんしょう)、これみなわが師なり。 日本天台宗、最澄さまの教えである。 日本では、すでに、最澄さまが「密教」を広め、南都仏教(奈良仏教)を制圧、吸収しつつあつた。 しかし、空海の灌頂(しゅぎょう)は、未だつづいている。
2004年07月26日
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恵果阿闍梨は、空海に、こう伝えた。 真言密教のおしえはたいへん奥深い意味を含んでいるため、 図像や絵画をもちいなければ、その真意を伝えることはできない。 そして恵果阿闍梨は、 十数名の画家に「曼荼羅」図像を書かせ、 二十余名の写経の専門家に「純粋密教経典」を書写させ、 朝廷に仕える鋳(いもの)博士に、「密教法具」を新鍮(しんちゅう)させた。 これらをすべて、空海に進呈したのである。
2004年06月11日
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六月十三日。青龍寺(しょうりゅうじ)において、 空海は、中国密教界のカリスマメンター、 正統密教の伝道師、恵果阿闍梨(けいかあじゃり)に会う。 恵果阿闍梨は、徳の高く、人々に尊敬され、皇帝すら恵果を師として仰いでおられるほどの、人格者である。 初対面の空海に向かって恵果は微笑んだ。 「逢いたかった。ずっとあなたを待っていた。わたしは、余命幾ばくもない。すぐに準備にかかりなさい。」 空海は、いったん西明寺に戻って必要な品々をそろえて、六月中旬に胎蔵界を、七月上旬に金剛界を、八月上旬には、最後の儀式、伝法灌頂を受けた。最終日は、500人の僧侶が供養のほどこしを行った。 空海は、すさまじい速さで、真言秘密の大法をいっきにつづけて受法した。
2004年06月10日
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早也は、ひとりで、夜の歓楽街を歩いてみた。 さすがに、バーにひとりで入る勇気はなかったが、 歓楽街を歩いているだけで、じゅうぶんに楽しかった。 街では、美しき女性達がたくさん歩いていた。 早也は、口ずさむ。 「月下の美人は、郷を望んで哭(な)く。。。。。か」 詩(うた)が、どうしてもうかんでしまうときがある。 旅をしたときと、美しき女性に会ったとき。 ここ、異国の長安の歓楽街で、月をみあげながら、 旅人、早也は、詩人になっていた。 立花早也。 数々の詩(うた)をつくり、のちに、空海と並んで「平安の三筆」として、歴史に名をのこす人物になる。 ここ、長安で、空海と同じく、ひとりの天才が、いままさに生まれようとしていた。 でも、まあ、それはまた、また、べつの、おはなし♪
2004年06月09日
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空海の興味は、もろもろの宗教に絞(しぼ)られているが、 早也の興味は、にぎやかな商店街である。 早也は、思った。 「さすがは、最先端都市、長安だ。日本ではとても考えられないビジネスチャンスが、あちこちにころがっている。」 好奇心旺盛な早也は、空海を誘った。早也「おい、空海、たまにはガス抜きも必要だぜ。なあ、いっちょ、あのバー(居酒屋 いざかや)に入ってみんか。」空海「早也、おまえひとりでいけばいい。」早也「まあ、そういうなよ。俺の中国語はさ、ほら、まだカタコトだからさ。ま、通訳のつもりでさ。な、な。」 早也は酒が大好きである。そして、女好きである。 ここ長安で、道行くたびにすれ違う女性達の、なんと美しいことよ。 あの、バーに入れば、きれいな姑娘(クーニャン)や、美しい胡妃(ホステス)がいるに違いない。。。。。 早也は、必死で、空海を説得している。早也「空海、な、そう。世間勉強、世間勉強だぞ。おまえは、宗教や学問ばかりしている。俗世を知らずして、なんの学問か。」空海「ふむ。」早也「なあ、空海い、入ってみたいんだよお。頼むよう。」 空海は、ずんずん歩いていく。 早也「ちぇっ。」 早也は、取り残されて、大きな声で空海に叫んだ。早也「いいよ! おれ、ひとりでいくもんねっ!」
2004年06月08日
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さて、空海が、ここ『西明寺(さいみょうじ)』を根拠地にして、勉強すること、四ヶ月がたった。 空海は、この四ヶ月というもの、 ありとあらゆる、経典や書物を読破し、 ありとあらゆる、師匠に面談し教えを請い、 ありとあらゆる、長安最先端の文化を吸収していた。 文化都市、長安(ちょうあん)の城内(じょうない)は、ありとあらゆる、最先端の、宗教、文化、芸術が、花ひらいていた。
2004年06月07日
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早也「梵語(ぼんご)というのは、とても難解なものだぞ。」空海「いや、むしろ、密教は、原典つまり梵語で学んだほうが効率がいい。わたしは本日より、梵語、梵字(ぼんじ)を学ぶ。」早也「ふーん。そもそも、梵字とはなんだ?」空海「梵字とは、インドの文字だ。東洋独特の深遠なる芸術だ。」早也「へえ、芸術、か。」空海「インドの文字は西紀前8世紀ごろにフェニキアから移入され、最初は商人(あきんど)のあいだで用いられていたが、やがてインド一般に流布し、後代にはもろもろの宗教の聖典が文字に書写され、それじたいが功徳(くどく)として推奨された。」早也「書くだけで、功徳になるのか!? すごいな。」空海は、会話しながら、ずんずんと歩いてゆく。早也は、空海にやや遅れて、後に続いて歩いた。
2004年06月06日
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早也「急ぐために、遠回りする? いったい、どういうことだ。」空海「もっとも、はやく、密教を学ぶために、わたしは、語学を学ぶ。」早也「なんの、語学だ? おまえはもう、中国語がべらべらではないか。」空海「中国語ではない。サンスクリット語を学ぶ。」早也「サンスクリット語? なんじゃ、それは」空海「梵語(ぼんご)、すなわち、インド語だ。」早也「インド語!」
2004年06月05日
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早也「意味がわからんぞ、空海。一日も早く、恵果さまのところにいかなくちゃ!」 空海「密教は奥が深い。いま、わたしが恵果さまにお会いしたら、すべての奥義を学ぶのに、三年はかかるだろう。」 早也「ええっ、恵果さまは、三年どころか、もう半年も、もたんと聞くぞ! ど、どうする、空海」 空海「半年も、待てん。」 早也「じゃあ、一刻も早く」 空海「そのとおりだ。急ぐために、遠回りをする。」 早也「いったいどういうことだ、空海?」
2004年06月04日
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恵果阿闍梨さま、齢(よわい)六十歳。 正統密教七代目継承者にして、 中国密教界のトップ中のトップである。 そのトップが、日本から来た、32年の無名の青年に、会ってくださるという。 奇跡である。もったいないことである。 誰もが、おどろいて、口がふさがらなかった。 早也は、とびあがつてよろこんだ。 「おい空海、すげえよ、よかったなあ!」 ところが、空海、「まだ、早い。」 早也「えっ、おい、すぐ行かなきゃ。」 空海「今すぐ行くわけにはかない。」 早也「なにいってんの?意味わからんぞ。」 空海「恵果さまは、ご高齢で、もう、おいのちも長くないと聞いた。」 早也「そうだよ。だから、急がなきゃ。」 空海「だから、今行くわけにはいかんのだ、早也。」 空海は、いったい、何をいってるんでしょう。 ??????????
2004年06月03日
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最澄、最も澄んだひと。美しい名前である。 いま、唐(中国)より、無事、日本に、帰国したと聞く。 最澄さまは、あたらしい日本の仏教界のリーダーとして、日本で大活躍なさっている。そのうわさは、ここ、中国にまで、聞こえてくるほどだ。帝(みかど)さまはおおいによろこんでいらっしゃると聞く。最澄さまは、帝さまのご期待に応え、その能力を発揮していらっしゃる。いま、最澄さまの天台教学によって、日本の仏教界が、よいほうに、かわりつつある。 立花早也は、ためいきをついた。わたしは二十年を義務付けられた「留学生(るがくしょう)」という身分。日本に帰るときは、56歳になっている計算だ。娘ははたちを越えているだろう。さみしいなあ、日本に帰りたいなあ。あ、いかん、弱音は禁物。 さて、 対して、空海。 空海は、最澄さまとちがって、在唐二十年を義務づけられている「留学生(るか゛くしょう)」という身分である。 「唐の正統密教界のトップ、恵果さまにおあいしたい。」 空海は、未だ、無名の、一沙門にすぎない。なんとも大風呂敷をひろげたものだ。 しかし、言ってみるものである。 (最澄さまが帰国なさって半年後のことだ。) 805年、六月吉日のこと。 なんと、恵果阿闍梨(あじゃり メンターのこと)さまから、面談OKという許可が出たのである! 恵果阿闍梨さま、齢(よわい)六十歳。 正統密教七代目継承者にして、 中国密教界のトップ中のトップである。 そのトップが、日本から来た、32年の無名の青年に、会ってくださるという。 奇跡である。もったいないことである。 誰もが、おどろいて、口がふさがらなかった。 早也は、とびあがつてよろこんだ。 「おい空海、すげえよ、よかったなあ!」 ところが、空海、「まだ、早い。」 早也「えっ、おい、すぐ行かなきゃ。」 空海「今すぐ行くわけにはかない。」 早也「なにいってんの?意味わからんぞ。」 空海「恵果さまは、ご高齢で、もう、おいのちも長くないと聞いた。」 早也「そうだよ。だから、急がなきゃ。」 空海「だから、今行くわけにはいかんのだ、早也。」 空海は、いったい、何をいってるんでしょう。 ??????????
2004年06月02日
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楽天をお読みのみなさん、こんにちは。 わたくし、立花早也と申します。 上州(群馬県)で、サラリーマンをしております。 36歳、二児のパパです。 わたしはいま、この楽天を、805年の中国にて、書いています。 隣におりますのが、わたしと同じく、日本からやってまいりました留学生です。 語学が達者な、字のうまい、とてもいいやつです。 見た目も、なかなかのハンサムですな。 32歳というから、わたしより、四つ年下です。 さて、今日のグッドアンドニュー。 わたくしの尊敬する、いや、いま、日本で最も注目をされている、あの、あの最澄さまが、本日、二年間の伝授(しゅぎょうのこと)を済まされ、無事に、唐を出発なさったそうです! 拍手! ああ、雲の上の方、最澄さま。。。。 そのお名前は、誰一人として、知らぬものはおりません。 最澄さまは、あの、天台山にて、正統天台仏教を継承なされ、それを日本にひろめるために、命をかけて、この地、唐にやっていらっしゃったのです。すばらしいお方です。わたしには雲の上の人、いや、天上人(てんじょうびと)です。 最澄さまは、帝(みかど)さまの命(めい)を受け、日本の仏教会の新リーダーとその誉れも高い、素晴らしい方です。 いま、日本の仏教会は、形骸化し、僧侶たちは、なんだか、あまり、やる気がありません。僧侶は自分の私腹をこやし、いってることとやってることもちがうし、われわれサラリーマンのようにただ毎日お寺に通い、お経をとなえているだけです。勢力争い、派閥あらそいばっかりやっていて、まったく、「いまの仏教会は腐敗している!」と、帝(みかど)さまがお嘆きなさるのも、無理はありません。 最澄さまは、いまの日本仏教会に新風を吹き込まれるという、そーいう大役をおおせつかっていらっしゃるのです。 すごいなあ、憧れの最澄さま。。。。 すごく、カッコよくて、才能があって、すごい人格者なんです。まさに、僧侶のカガミ! と申せましょう。 えっ、今の日本の仏教界を批判してるけど、立花、おまえはどうなのかって? え、私は、あの、その、モゴモゴ。。。。 はい、私も腐敗してます。すみません。 で、でも、でもね、だからこそ、こうやって、命がけで、唐に来て、お勉強をしているってわけですよ。 がんばりますよ!立花は。 ふたりの娘よ、みていろよっ。いまにお父さんは、出世して、立派になってみせるからねっ! あ、さて、いま、隣で本を読んでおりますのが、私と一緒に日本からきた留学生です。僧侶です。32歳。わたしよか年下ですけど、語学堪能で、筆力抜群なんですよ。でも、すごくきさくなハンサムボーイ。とってもいいやつです。 わたしたちは、まだ、全く無名ですけど、これからたくさんお勉強して、立派な社会人になるんだいっ! それにしても、よく本を読むなあ。。。。。彼。 すごいスピードっすよ。いや常人じゃない。 私は速読っつっても、一日四冊が限度。 でも彼は、一日で、蔵一軒分、読破しちゃうんですよ! 速読の天才、じゃないかなあ。 まだ、無名ですけど、きっと、大成するよ。 いいおともだちができて、こころ強いです。 彼の名前? 空海(くうかい)さん、ていうんです。 素敵な名前でしょ。 さて、今日は、このへんで。 では、またあした☆ 延暦二十四年六月一日 唐(中国)にて 立花早也
2004年06月01日
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空海、ようやく、書物の蔵の中から、外へ姿をあらわした。 「う~ん」 空海は、おおきく、伸びをした。 こもりきりだつた割に、その表情は、さわやかである。 空海は、つぶやいた。 「密教の、理屈はわかった。梵語も、唐の言葉も完全にマスターした。しかし、学ぶほどに、密教、奥が深い。 密教は、書物だけではとうてい理解できないほど、奥深いものだ。それは天より高く、海より深い。 ほんものの、密教を、学びたい。 それには、密教の正統を受けつぐ、 七代目導師、正統密教のメンターであり、 中国密教界のトップである、 『恵果(けいか)』さまに、会いたい。」 この男、なんとも、非常識なことを言う。 無名の、資格もあやしい、一僧侶に、 中国密教界のトップである、恵果さまが、お会いしてくれるとでも思っているのか(笑)。冗談にもほどがある。 ところが、この、無名の男、 さらに、とんでもないことを、つぶやいた。 「わたしは、正統密教の、八代目になろう♪」 おいおい! 立場を考えろ! 無名の男の考えることか! 常識はずれにも程がある。 大風呂敷にも、ほどがある。 誰が、このときのこの男のこの言葉を信じただろう。 この男、まだ、何か言いたそうだ。 もう、よせ、それ以上言うな、 どうかしているぞ、もう、もう、言うな! 「思うに、」 言うなって! 「正統密教は、すばらしい。しかし、」 しかしっ、て、なんだよ、おいっ、しかし、って! も、もう、しゃべるなよ、こわいよ、おまえ。(ひや汗) 「しかし、中国密教は、まだ、完成していない。」 ああ。。。。言っちゃったよ。。。。。 この男、とうとう言ってしまったよ。。。(血の気が引く音) 「だから、私が日本に正統密教を持ち帰り、わたしが、正統密教を、完成させよう♪」 この男、とうとういい放った。 まわりのみんな、全員、気絶した。 この男、名は、空海。 言っていることとやっていることが同じの、 非常識をとおりこした、 弱冠、三十二歳。 資格もとりたて、まったく無名の、一僧侶。 目だけが、キラキラ☆と、輝いている。
2004年05月31日
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最澄。最も澄んだひと。美しい名前である。 最澄は、唐の天台山に向かう。天台山とは、天台教学の聖地である。最澄はそこの国清寺で、一ヶ月ほど滞在する間に、座主(ざす)より正統な法門を継承した。また、台州では天台山修禅寺の座主から、菩薩戒まで授かった。現地で雇った工人に経典を写経させる、その数、百二十部三百四十五巻。 在唐一年の期限はあっという間に終わりに近づく。 すべて、順調、予定通りである。長安で、帰国の仕度を整えている遣唐使団と合流。 予定では、このまま、最澄は、天台教学を日本に持ち帰るだけだった。 しかし、このとき、天が、命運を変える。 最澄ら一団は、このまま、日本に帰るはずだった。 しかし、「風」が、うまいぐあいに吹かない。 そこで、最澄は、日本に向けて航海するのにふさわしい「風」が吹き始めるまで、明州の浜にて「風待ち」。一ヶ月ほど、待機することになった。 予定では、もう、これ以上、最澄には、日本に持ち帰るものはなかった。 十分だった。 しかし、一ヶ月の間、ただ、ぼーっとしているのも仕方ない。 風待ちが一ヶ月間ということを知らされた最澄は、明州から近い、龍興寺を訪ねる。 そこで、最澄は、「密教」を学ぶ。 「ふうん、意外といいじゃないか、密教。」 当時、唐では、圧倒的ないきおいで、密教が広まっていた。まさに、成長カーブでいうところの、「密教成熟期」にあった。こんなに流行している「密教」だ。一ヶ月といえど、学んで損は無い。 最澄は、天台の一乗思想の一部として、密教を加えようと考え、龍興寺の順暁(じゅんぎょう)和尚の指導のもと、密教経典を百五十巻、書写した。 一ヶ月が経った。最澄は、意気揚揚と、帰国の船に乗り込んだ。 一方、同時期、無名の空海。 無事、長安に入った空海は、長安城内、西明寺で、ひたすら、梵語(サンスクリット語)を学んでいた。 とにかく、読む、読む、読む! 読みまくる! 四ヶ月、空海、篭(こも)りっきりである。 梵語を完璧にマスターした。得意の速読を使い、最新の経典、教学を読みきった。 「よし」 空海、ようやく、書物の蔵の中から、外へ姿をあらわした。 「う~ん」 空海は、おおきく、伸びをした。 こもりきりだつた割に、その表情は、さわやかである。 空海は、つぶやいた。 「密教の、理屈はわかった。梵語も、唐の言葉も完全にマスターした。しかし、密教、奥が深い。直接、密教のトップに会いにゆこう。」 インプットはおわった。あとは、実践のみである。 空海、三十二歳。 さわやかな風が、空海を包んでいた。
2004年05月30日
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第一船は、予定とはまったく違う場所に漂着してしまった。 上陸の許可がおりない。 説明しようにも、通訳の第四船は難破。 言葉が通じない。 第一船の大使(責任者)、葛野麻呂は、頭をかかえた。 「ああ、最悪の状態だ」 ゆらりと、ひとりの男が、前に出た。 空海、三十一歳。まだ、無名の一修行僧である。 「なんだ、おまえは」葛野麻呂が言うと、 「空海と申す、ただの一沙門でございます。」 「おまえ、唐の言葉に詳しいのか。」 「いえ、ちと、かじった程度にございます。」 「おい、誰か、紙と筆をもて(もってこい)。」 みなが、注目するなか、空海は、筆をとった。 「賀能啓」 光っていた。唐の言葉ができるなどというレベルではない。 その文章は、詩のように美しく、 そして、その文字たるや、一文字ひともじが、輝きを放っている。○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○ 賀能(葛野麻呂の中国名)が申し上げます。 高山は静かで沈黙したままであっても、鳥や獣は労苦を口にすることなく競って集まってくる。 深い水はものを言わないが、魚も龍も倦(う)むことをいとわずに急いでそこへおもむく。 山を越え海を渡る危険は、時に身を滅ぼすことは、承知の上でございます。 しかし、わたくしどもは、天子(唐の国王)さまの有徳を慕って命を捨ててやってまいりました。 天子が治めている御代は、霧や霜が季節正しくやってくる土地柄。天子がここに宮殿を建てることはまことにふさわしい。 賢明な天子が皇位を継承して、すぐれた皇帝が次々と出てこられた。 天下をおおいつくして、天子の徳の及ぶところ、八方の遠い土地を牢籠(ろうろう とらえ、おしこめること)している。 だからこそ、わが日本国の人々は、有徳の天子を慕って、身命をかえりみず、渡海してまいりました。すでに暴風雨が帆を破り大風が舵(かじ)を折ってしまった。高い波は天の河にそそぐほどであり、小舟はただ、きりきり舞う様子でありました。波の上で風にまかせて二ヶ月あまり、ついに飲み水も尽き、人は疲れ果てて余力もなし。 ようやく八月のはじめに突然山々(陸地)が見えたとき、その喜びたるや、赤子(あかちゃん)が母に会った喜びよりも大きく、ああ、今生きて再び日の目を見ることができたのも、これまさに、唐の皇帝の威徳のたまものでありもわたし自身の力の及ばざるものであります。 しかし、いま、わたしたちはまったく予定外の場所に漂着してしまいました。ここ福建省の役人のみなさまは、悲しいことに、われわれを、日本国の使いの者であるということを疑っていらっしゃるようです。 わたしは大使として、天子様に誠意を伝えるために唐の朝廷にやってきました。蓬莱(ほうらい)の国といわれる、わが日本国の宝を持ってまいりました。 伏してお願い申し上げます。皇帝の徳風に随順する者をして、遣唐使がいつも待遇されたように、わたくちたちを迎え入れてください。ささやかなねがいです。謹んで申し上げます。○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○ のちに、空海は、平安の三筆(さんぴつ)と称えられる。 その第一文字が、大使、葛野麻呂の目の前で鮮やかに踊った。 この手紙は、唐の天子に届けられ、 上陸の許可が、あつさりと降りた。 空海、三十一歳、唐へ上陸。 この無名の男、その天才ぶりは、まだ氷山の一角を見せたに過ぎない。
2004年05月29日
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最澄。最も澄んだひと。美しい名前である。 三十九歳。桓武天皇の信頼を一身に受け、遣唐使団として、 いま、無事、唐に入った。804年、九月のことである。 最澄は、短期間で帰国できる「還学生(げんがくしょう)」という、特別な身分である。天台仏教の聖地、天台山に入ることを許可されている。 対して、空海、三十一歳。 無名の、一修行僧である。 大学を中退、故郷を捨てて、出世の道からドロップアウト。 非常識だと批判をあびても、顰蹙を買っても、へいちゃらである。 遣唐使団に参加するために、急ぎ出家(しゅっけ)をした。 無名の空海は、「留学生(るがくしょう)」という身分である。 最澄と違って、在唐二十年が義務付けられている。 さて、この遣唐使団、全部で四船、 日本を出発早々、暴風雨に直撃される。 まず、録事らを乗せた第三船が、暴雨風にやられた。 次に、通訳や、医師を乗せた第四船も、暴雨風に沈んだ。 文字通り、命をかけた航海。 船は、暴風雨の中、次々と難破してゆく。 空海の第一船も、暴風雨に直撃された。 しかし、この男、むしろ、この暴風雨、逆境を、楽しんでいるかのようである。 「もし、ほとけさまが、わたしを必要としないのなら、船よ、沈むが良い。もし、わたし空海に、なんらかの使命があると思うのなら、必ず、助かるだろうさ。」 804年、八月。 最澄の第二船到着より、ひと月早く、 よれよれになりながら、空海の乗る第一船は、なんとか、陸に到着した。 しかし、空海の乗る第一船が到着したのは、なんと、唐ではなく、予定より、ずっと南の、赤岸鎮(せきがんちん)という場所である。 とんでもない場所に着いてしまった。 第一船の人々は、頭をかかえた。 「なんということか、一難去って、また一難」 上陸の許可がおりない。 説明しようにも、通訳の第四船は難破してしまった。 言葉が通じない。 最悪の状態である。 ゆらりと、ひとりの男が、前に出た。 空海、三十一歳。目だけが、ぎらぎら光っている。
2004年05月28日
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最澄。 最も澄んだひと。美しい名前である。 十五歳で出家(しゅっけ)し、二十歳で僧侶の免許を取得。 仏教的な雰囲気の中で生まれ育った最澄。 対して、空海。 その生い立ちは、最澄と、まったく対照的である。 佐伯直真魚(さえきのあたい・まお)。空海の本名である。 真魚は、幼年時に、二人の兄を失ったため、家の後を継がなくてはならない立場にあった。家族の期待を一身に受け、ずば抜けた成績をして、十五歳で長岡京へのぼり、十八歳で、長岡京の大学に入学し、儒教(じゅきょう)を学ぶ。親は、たいそうよろこび、「これで佐伯家も安泰だ」と思っていた。 しかし、真魚、大学も一年をすぎたあたりから、大学に行かなくなってしまう。二人の兄を失った無常感が、真魚の心から抜けない。儒学が、出世本位の学問に思えて、どうしても興味がわかない。 そんなころ、真魚は、山岳で修行する、あるドロップアウトした僧侶と、運命的な出会いをする。 異端の僧侶の名前は勤操(ごんぞう)。 勤操の語ることばは、真魚青年の「常識」をはるかに超えていた。 自然界が持つ、絶対調和の世界。 真魚は、佐伯家の後継ぎを放棄して、山岳修行にとびこむ。 僧侶の免許など、真魚は、持ってはいない。 ただの、無認可の、一修行者である。 狂ったか、真魚! 両親はじめ、佐伯家は、動揺した。 非常識で、不可解な行動である。 「貴物(とおともの)といわれるほど、親孝行な子だったのに。」 傷ついて泣く者がいた。 「もう、あいつは、おかしくなってしまったんだ」 あきれて、縁を切ってゆく者もいた。 「真魚は、消息を絶った。死んだ者と思おう」 佐伯一族は、真魚を更正させることを、やがて、あきらめた。 「空白の十年」があった。この十年間の記録は、さだかではない。 この間、真魚は、いったいなにをしていたのか? 一説によると、 好んで山水を渉覧(しょうらん)していた。 山藪が家であり、禅黙を心としていた。 「一度耳にしたら永久に忘れない」記憶術を身に付けた。 一方で、本、仏教経典を、読みまくっていた。 そして、ある本と、運命的な出会いをした。 本は、人生を変える。そしてときには、世界を、歴史を変えてしまう。この本との出会いがなかったら、のちの天才・空海の誕生は、ない。 その本の題名は『釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)』。 「願わくは早く蔵匿して、流転すべからず」と言わしめたほどの危険思想の本、なんと、日本では禁書扱いにされた本であった。 しかし、このとき、日本で、この本の真価を知ったのは、真魚だけであったろう。 「『釈摩訶衍論』は、素晴らしい。」 真魚は、ぐんぐんと読みすすめた。 速読を覚えていた真魚は、この本の、たった一行に、すばやく目を止めた。真魚は、鳥肌がたつた。 当時、日本の僧侶の「常識」は、東大寺を中心とする『華厳経』が最高のものだ、というものであった。 とすれば、この『釈摩訶衍論』は、「非常識本」である。 『釈摩訶衍論』、膨大な量の書物であるが、 そのなかの、たった一行を、すばやく、真魚は見つけた。 なるほど、危険思想の本である。 なんと、「華厳を超える境地がある。」と書いてある。 まさに、非常識な内容である。 「華厳を超える境地、それは、『密教』である。」 真魚のなかで、何かが、ぱちんと、はじけた。 西暦804年六月。 二十五年ぶりに難波を出る、四隻の「第十六時遣唐使船」が、港を出航しようとしていた。 当時の航海は、命がけである。 四隻のうち、二隻が、難破した。 生存率、50パーセントである。 文字通り、半死に一生。 ぼろぼろになって、二隻が、ようやく唐にたどり着いた。 生き残ったのは、第ニ船。そして、第一船。 第二船には、最澄が、乗っていた。 桓武天皇の信頼あつい最澄は、すでに、日本仏教界を動かす力をもっていた。 そして、第一船には、 まったく無名の、三十一歳の男の姿があった。 僧侶といっても、資格などもたない、「私度僧(しどそう)」である。目だけが、やたら、キラキラしている。 男の名前は、「空海」。 正統の最澄と、異端の空海。 ふたりは、このとき、まだ、お互いに顔を合わせてはいない。 運命の出会いは、もうすこし、あとの、話♪
2004年05月27日
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何ぞ忍びん 日 天矢のごとくにめぐって 人の童顔を うばう 不分(ねたい)かな 月殿 疾く来たりて 人をして 変異せしむ 弘法大師空海著『性霊集』中寿感興詩 たえがたいことかもしれないけれど みな、あっというまに、いい歳(とし)になって、 こどものような純粋なこころはなくなってしまった。 ざんねんなことかもしれないが、 月日は、あっというまにすぎさって、 ひとを、変えてしまうんだなあ お大師さまも、悩んだんだなあ。 諸行無常、 変わらないものなんてないって、 おしゃかさまは、いうけれど、 やっぱ、さみしいもんだよなあ。 お大師さまの、なげきが、聞こえます。 でも、なげきのあとに、 お大師さまの、こんなつぶやきが、きこえます。 時はめぐり 今日という日は、二度とない それもまた良し。 それもまた、楽し、と。 さて、 さいきん、 めまぐるしく、 私の前をひとが通り過ぎてゆきます いままで近くに居た人が去っていったかと思えば、 夢のようなひとが、わたしのところにやってきたり、 人生、いろいろあるなあ、と、 ただただ、呆然としています。 さあ、 素晴らしい人たちが結集(けつじゅう)しております。 出会いに、感謝。 サヨナラにも、感謝。 総じて、人生に、感謝。 南無大師遍照金剛 合掌
2004年05月26日
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木を食う虫は、尚皮木の外の味を知らぬ 弘法大師空海著『宗秘論』 自分のルールに、自分をしたがわせるのはいいさ。 どうして、世界を自分のルールで動かそうと、 悲しみ、苦しむんかねえ。 自分の知らない世界は、すべてないものだと思うのは、 知恵浅く、おろかなことである。 あなたがにぎりしめている、ちいさなルールを、 ちょっと、手放してごらん。 放せば、手に満てり。 いちど、目をとじて、 すべてのルールから解放された自分を 想像してみよう。 そして、 じぶんの人生を生きてみよう。
2004年05月25日
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曲直、用に中(あた)って損ずること無し 弘法大師空海著『性霊集』辞小僧都表 まっすぐなものも、まがったものも、 そのままに、つかいみちが、あるものである。 うちの子、国語はできるんだけど、算数が苦手なのよねえ。 じゃあ、国語伸ばして、算数0点でもいい。博士になれるよ。 あいつ、仕事できるんだけど、付き合い悪いんだよなあ。 自分を持っているひとだね、大成功するかもよ。 うちの主人、面倒見いいんだけど、すぐのめりこんじゃうのよねえ。 のめりこまなくちゃあ、福祉の仕事はできません。 一生懸命はいいんだけど、激しすぎるぞ、おまえ。 激しすぎなかったら、一生懸命になれないんです。 欠点なんか、ないんです。 短所に目を向けるか、長所に目を向けるか。 にんげんだから、両方あるさあ。 そいつが、どう見えるかは、自分次第さ。 相手は、自分の鏡なんです。 嫌なところが目に付くようなら、あなたの目が嫌なところに焦点をあてているところというだけ。 自分をせいいっぱい生きていれば、人のことなんて、気にする暇、ないもの。 短所を直せって? 直してみそ、直せるもんなら。直んないから、一生。 自分の短所も直せないのに、 他人の短所なんか、なおせるわけ、ないっしょう。 それよか、長所を伸ばせば? かならず、長所って、あるもんなんだよ。 およそ、形容詞は、長所と短所を、同時に抱えているもの。 おおらか←→のろま 鋭い←→ずるがしこい 頭がいい←→はなにつく 正直←→口が悪い 誰にでもいい顔をする←→裏表がある バイタリティがある←→過激すぎる 長所は短所。短所は長所。 社会性がないやつは、天才になれるってことさ。 曲がった奴は、曲がったままに、つかいみちがある。 わたしは保育園長。管理職やってるから、実感しています。 子供も、大人も、職員も、 曲がったひとはね、曲がったまま、使い道があるんだよ。 曲がっているって、すばらしい、ことなんだよ。 そんまんまで、すばらしいんだ。 欠点なんて、ないんだ。 短所は、そのまま、長所なんだ。 相手を変えようとするな。 じぶんの見方を、ちょっと、変えてみよう。 世の中、すべて、そのままでオーケーさ。 曲がったままで、OK。 これが、お大師さまの、ふところのひろさ、 そして、真理なんさあ。
2004年05月24日
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一身独り生歿す 電影是れ無常なり 弘法大師空海著『性霊集』慕仙詩 ひとは、独り生まれて、独り死にゆく たとえれば、それは、いなずまのように短い生涯。。。 あっという間に生まれて、 あっという間に死ぬんさあ。 これは、仏教では、基本中の基本。 「諸行無常(しょぎょうむじょう)」 変わらないものなんて、ないってことさあ。 いつかは、悩みも、悩みの本体たるじぶんも、 消えてなくなるんさ。 呆然と生きて、ぼやーんとして死ぬのも良し、 激しく生きて、激しく死ぬのも良し、 なにか、やりたいことは、ありますか。 メメント・モリ 「死を忘れるな」 あした、世界がおわるとしたら、 あなたは、今日、どうやって過ごしますか。 一身独り生歿す 電影是れ無常なり お大師さんの声が、身に沁(し)みるんさあ。
2004年05月23日
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玉は琢磨(たくま)に縁(よ)つて照車の器と成り 人は切磋(せっさ)を待つて穿犀の才を致す 弘法大師空海著『三教指帰』 玉は、磨かなければ光らないように 人も、べんきょうしなければ、才能を発揮できない 知識を得ることで、安心して動き出せる人もいれば、 知識を得ることで、いよいよ動けなくなる人もいます。 だから、行動せよ! 。。。。。というわけではなく、 行動しようが、行動しまいが、じぶんしだい。 動こうが、動くまいが、自分の人生。 どっちでもいいんです。 自分の人生です。 誰かの人生じゃありません。 おまえは違う、もっとこうしろ! と 言われたら、 貴重なご意見、ありがとうございます。 わたしは、あなたのご意見を100パーセント尊重いたします。 と、お答えなさいませ。 言っていることと、やっていることは、 合っているか? よーく、観察してみよう。 人間、言っていることじゃない、 やっていることが、そのひと自身。 仏さまの教えを、口で言うだけなら、本の三冊も読めば、 誰でも、できる。 でも、仏さまになるのは、誰でも出来ないんだ。 実践が伴(ともな)うからね。 行動しようが、 するまいが、 じぶんの選択、じぶんの人生。 お大師さまは、こう続けます。 春の花は枝の下に落つ 秋の露は葉の前に沈む 逝水住(とど)まること能(あた)はず 廻風幾たびか音(こえ)を吐く あした、世界がおわっても、じぶんに後悔が無いならば、 動こうが、留(とど)まろうが、 どっちでも、いいんさあ。 そうおもえたあなたは、なかなかの観察者。 私はまだまだ未熟者♪です。
2004年05月22日
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蒼生太(はなは)だ狂酔して 自心を覚(さと)ること能(あた)はず 大覚の慈父(じぶ)其(そ)の帰路を指したもう 弘法大師空海著『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』 ひとはまるで酔っ払って狂っているように毎日を過ごしており 自分のほんとうにやりたいこと、やるべきことを知らずにいる 過ちなく進むべき道を示すよう、めざめよ。 生まれ変わるなら、生きてるうちに。 あした世界が終わっても、後悔のないように。 合掌
2004年05月21日
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各々我は是なりい謂(い)い 並びに彼は非なりと言う 弘法大師空海著『三教指帰』 人は、みな、 自分が正しく、 他人が間違っていると思い込んでいる。 だから、あなたの世界と、わたしの世界は違う。 あなたの宇宙と、わたしの宇宙は、違う。 違っていていい。 意見が違っていて、ずっと平行線で、かまわないんです。 相手にあわせようとしたり、 自分にあわせようとしたり、 無理なことです。 自分の人生だ、 好きに生きたらいいさ。 かおるちゃん こうしょう先輩 かずみお父さん あまちゆうとさん みんな、そう言っていた。 大好きなひとが亡くなると、 かえって、そのひとが、胸に残るのは、なんでだろう。 いまも、みな、わたしのそばにいてくれます。 合掌。
2004年05月20日
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冬の凍り 春に逢えば すなわち そそぎ流れ 金石 火を得れば すなわち 消鎔するがごとく 諸法は みな 縁より生じて 自性なし 弘法大師空海著『三昧耶戒序』 春がくれば 冬の凍り(こおり)がとけ 火は すべてを 焼きとかすように すべては みな ご縁があっておこることだから、 いいとかわるいとか、いえるもんではない 春がくれば氷(こおり)がとけるように、 火にくべれば紙が燃えるように、 あかちゃんが泣くのはあたりまえ。 反抗期の子供が反抗するのはあたりまえ。 人間が感情的になるのはあたりまえ。 あの人がああいう性格なのはあたりまえ。 あかちゃんが泣いて困るといつたり、 子供がいうことを聞かなくて困るといつたり、 あいつは感情的だから、どうにかならないもんかと思ったり、 あの性格どうにかなんないかと怒ったりするのは、 春になったら氷が溶けちゃって困るなあ、と言っているようなもの。 すべてのことは、わたしにとって、 早すぎず、遅すぎず、 多すぎず、少なすぎず、 絶妙なタイミングで、適切なことがおこっている。 だから、なにがおきても、それはご縁(ごえん)。 不必要なご縁なんてないの。 良縁、悪縁、なんて、ないの。 あるのは、ただ、縁(えん)、だけ。 ね♪
2004年05月19日
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自心(じしん)に迷うがゆえに 六道の波 鼓動(くどう)し 心原(しんげん)を悟るがゆえに 一大の水 澄静(ちょうじょう)なり 弘法大師空海著『十住心論 第九』 人は自分のこころに迷って、 みずから苦しい世界を造りだしているのである。 心の実体を知ることさえできれば、 澄みわたって静かな世界に、平穏に生きることができる。 同じ環境にいても、同じことを体験しても、 よろこぶひともいれば、腹のたつひともいます。 松本人志さんは、腹の立つことを探しています。 そして、腹の立つことをおもしろおかしくしゃべることで、 芸能界で、天下を取りました。 石井貴士さんは、嬉々として失敗を続けています。 そして、失敗談をノウハウとして現金化することで、 若き起業家として今も最先端を走っています。 西原理恵子さんは、ばくちで借金をかかえ、鬱病者と結婚し、 それをマンガに書くことで、 天下無敵の作家となり、映画原作者となりました。 司馬遼太郎は、学校の先生とウマがあわなくて、 図書館で独学をする楽しみをおぼえ、 やがて、数々の名作を世に残しました。 ゲーテは、ガラスのハートの持ち主でした。 そして、20歳で『若きヴエルテルの悩み』を、晩年に『ファウスト』を完成させ、 詩人、哲学者として後世に名を残しました。 挙げればキリがありません。 このひとたちは、プラス思考ではありません。 ポジティブ思考でもありません。 ただ、怒り、悲しみ、苦しみを、そのまま愛する術(すべ)を、 昇華(しょうか)する術(すべ)を知った人です。 松本人志さんは、腹の立つことがなくなると、困ると言います。 石井貴士さんは、成功すると、しょんぼりしてしまいます。 西原理恵子さんは、大借金をしなければ、ただのイラストレーターでした。 司馬遼太郎が、学校の先生に恵まれていれば、後の作品はありません。 絶望するほどの失恋をしなかったら、ゲーテは、気のいいぼっちゃん議員として一生を終えたでしょう。 ひとは、 いいことも、いやなことも、経験します。 都合のいいことも、都合の悪いことも、体験します。 。。。。ということは、考えようによってはですよ、 なにごとがあろうと、 ひとは、それを、よろこびにも、悲しみにも、できます。 そして、どっちを体験することも、自分の選択次第です。 さらにいえば、どっちも、面白いんです。 あなたは、あなたの世界の創造主。 あなたは、自由自在。 お大師さまだって、ものすごく悩んだ方です。 非道い目にも多々あったのですが、 さて、 お大師さまは、しょんぼりと悩んでいたのでしょうか。 あるいは、「嬉々として」悩んでいたのかもしれません。 悩み方にも、悲しみ方にも、いろんなやり方があるんですね。 お大師さまの御著作は、そういうヒントの宝庫です。 『若きヴエルテルの悩み』ゲーテ(新潮文庫) 『ファウスト』ゲーテ(岩波文庫) 『風塵抄』司馬遼太郎(中央公論社 1991) 『松本の遺書』松本人志(朝日文庫 1997) 『ぼくんち』西原理恵子(小学館 1996) 『松本の遺書』松本人志(朝日文庫 1997) 『オキテ破りの就職活動』石井貴士(実業之日本社 2003)
2004年05月18日
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昇墜(しょうつい)は他の意に非ず 衰栄(すいえい)は我が是非(ぜひ)なり 自分が向上するのも堕落するのも、他人のせいではない。 栄えるも、衰えるも、みな自分自身に寄るのである。 弘法大師空海著『十住心論 第二』 相田みつをさんの詩に、「いいことはおかげさま わるいことは身から出たさび」というのがあります。 ご自分にも、厳しい方だったのかなあ。 自分に厳しく、他人にやさしい人。 自分に厳しく、他人にも厳しい人。 自分にやさしく、他人に厳しい人。 自分にやさしく、他人にもやさしい人。 自分は、上のどれにあたるかなあ。 あなたは、どの人だと、付き合いやすいですか。 どれでもいいんだと、お大師さまは言っています。 ただ、どれを選んでも、それは、 「自分で選んだのだ」ということを忘れないこと。 適度に、人のせいにしたほうが、気は楽ですよね。 いい人過ぎても、自分自身を責めちゃうから、自滅するもんね。 融通無碍でありたいものです。 自戒を込めて。合掌
2004年05月17日
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末学の凡夫、強(あなが)ちに胸憶(くおく)に任せて 難事(なんじ)の境界を判摂(はんしょうす) 自分の知っていることがすべてだという狭い考えでは、 広く深い真理の世界を知ることはできない。 弘法大師空海著『十住心論 第九』 『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』は、お大師様晩年の著作。 すべては、学ぼうとすることからはじまる。 たいへんなのは、はじめの一歩。 あとは、雪達磨式(ゆきだるましき)にすすむものです。 0(ゼロ)を1(いち)にするのが、難しいんだなあ。
2004年05月16日
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医眼の観る所は 百薬 薬と変じ 仏慧の照す所は衆生即仏なり 弘法大師空海著『平城天皇灌頂文』 医師が見れば、あらゆる毒は薬となる。 同じ様に、ほとけさまの視点からみれば、 あらゆる人はみな仏である。 ピンチはチャンスです。 凹んでもいいです。 失敗は、宝物です。 失敗イコール成功です。 失敗をするたびに、喜んでいる人がいます。 石井貴士さんという方です。 失敗した経験をノウハウとして売り、大成功をしている方です。 だから、いつも、積極的に失敗しては、嬉々としています。 だから、うまくいっているときは、元気がありません。 まわりの皆さんは、 「石井さん、元気ないですね。ひょっとして、成功したんですか?」 石井貴士さんいわく、 成功の反対は、失敗ではなく、 成功の反対は「何もしない」なのです。 切れる刃物は、人を殺しもするが、人を救いもします。 なまくら刀では、人も殺せませんが、人を救いもしません。 毒にも薬にもならない、という言葉があります。 毒は、薬になることができます。 だから、中途半端な正義や悪だったら、むしろ無いほうが良い。 私はそう、思っています。
2004年05月15日
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嗟乎(ああ)、俗に在って道を障(ふさぐ)ること 妻子尤(もっと)も甚(はなはだ)し 道家の重累は 弟子是れ魔なり 弘法大師空海著『高野雑筆集(こうやざっぴつしゅう)』 『高野雑筆集』は、空海の遺文のうち、とくに書簡類(おてがみ)を集めたもので、空海さまの交友関係や、活動状況がわかる、とても読みやすいものです。 最近、「空海さまの本をよみたいのですが、おすすめ本はありますか」という質問をたくさん受けるようになりました。空海本、密教本はピンからキリまでありますし、トンデモ本も多数あります。 きちんと学びたいなら、まず、加藤精一先生の『空海入門』(大蔵出版)をおすすめします。 また、直接、原典にあたりたいのなら、いきなり著作を読むのではなく、『性霊集』や、この『高野雑筆集』などの書簡類(おてがみ)から読まれると、よろしいかと思います。 ああ、ひとはみな、妻子への思いから、道を誤(あやま)り、 出家したひとは、弟子への愛情で、道を誤る。 それは、足かせのようなものである なんとも、人間くさい、空海様のおことばです。 このように、空海様のお手紙類は、とても読みやすく、 そして親しみやすいものが多いのです。 『徒然草』第九十七段にも、 「その物に付きて、その物をつひやし損(そこな)ふ物、数を知らずあり。身に蝨(しらみ)あり。家に鼠(ねずみ)あり。国に賊(どろぼう)あり。小人に財(こがね)あり。君子に仁義あり。僧に法あり。」という有名な一節があります。 小人物は、なまじ小金を持つと身を滅ぼす。 それと同じ様に、まじめな人は仁義によって滅び、 僧侶は、その信仰によって滅びる。 教えを守ることは大切だけれども、教えに、とらわれすぎてもいけないよ、という戒(いまし)めであります。 まあ、今日、わたし、久々に夫婦ゲンカしたので、こんなこと書いているんですけどね。いや、めったにしないんですよ、ホント。 ふだんえらそうなこと言ってますけど、自分の妻となると、やっぱり、期待値が高い分、いろいろ雑念が出てしまいますよね。 でも、空海さまに、「まあ、そういうもんだよ」と言っていただけると、すこし、ほっとします。 子供は、ほとけさまからのお預かりものだと思っていますので、自分の方針に従わせたいとか、あまり考えません。誰の言葉だったか、「長ーいホームステイ」のお客様だと思うといい、といわれたことがあります。 妻子は、自分の鏡です。 とくに子供には、本当に、教えられることが多いです。 妻には。。。すいません、と、寝顔にあやまっておこう。 今日は、反省文になりました。
2004年05月14日
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両諦は殊処にあらず 一心、塞融を為す 弘法大師空海著『ろうこ指帰(ろうこしいき)』 先日、上野の東京国立博物館で「空海と高野山展」、お参りしてきました。 われわれは、見学と言わず、拝観と申し上げております。 特別展のほうは、 『ろうこ指帰』(伝空海真筆) 『益田池碑銘』(空海真筆の模写) 『座右の銘』(伝空海の真筆) あゝ、素晴らしい。拝んできましたですよ。 どうしても、書に目がいきます。 そして、常設展では、『風信帖(ふうしんじょう)』も拝観。 空海さまが、天台の最澄様に当てた手紙で、 これこそ、うたがいなく、空海真筆。 いつも、実物を見るたびに感激します。 『風信帖』の前で友人に解説していたら、おばあちゃんたちが集まってきて、「あのー、どこに、空海って書いてあるんですか。」「わたしたちにも聞かせてくれませんか」と言ってくださったので、ひと法話いたしまして、喜ばれました。 おばあちゃんたちは、東京美術博物館の無料パスポートを持っているんですが、特別展には入れないので、常設展だけしか見られなかったと残念がっているので、いや、むしろ、こちらのほうが素晴らしいのですよ、と言ってあげたら、喜んでくれました。 喜んでいただけて、私もうれしかったです。 いや、ぜひ、「特別展」も拝観していただきたいですけど。 常設展だけでも、わたしにとつては、十分、すばらしかったです。ホンモノを拝見する機会に恵まれて感謝です。。。 さて、今日の名言は『ろうこ指帰』の中からの一節です。 真実への道は、なにも特別なことではない。 ようするに、心がそのすべてを決めるのである。 変わったことを、やろうとしなくてもいいんだ、とおっしゃっています。超能力とか、スプーン曲げとか、テレパシーとか、できますけど、できる人を否定しませんけど、別に、出来なくってもいんです。 できる人ほど、スプーン曲げや、テレパシーについて、あんまり語らないものです。謙虚です。 ただ、普通に、人格を磨(みが)くこと。そっちのほうが、難しく、そして、大切なんだ、と、私は思っています。 お大師さまは、フシギなこと、宇宙の真理についてもかたりましたが、まず、こういう、常識的なこと、道徳的なことを、しっかりわきまえた方でした。 宗教は嫌いだけど、空海は好き、という人が多いのも、そういうところにあると思います。たぶん。
2004年05月13日
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深般若をもって無自性を観ずるがゆえに、 自然に一切の悪を離れ 一切の善を修し、 自他の衆生をじょう益す 弘法大師空海著『三昧耶戒序(さんまやかいじょ)』 真の智恵をもって、宇宙の真相が、「空」であることを知れば、 おのずから一切の悪を離れ、一切の善をおこなうことができ、 結果として、じぶんも、他人をも、利益することになるのだ。 『三昧耶戒序』。「三昧耶戒」とは、真言宗の行者(修行する人)が、かならず受けなければならない戒(かい やくそくごと)である。著作年時不明。お大師様の代表作『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』の、ダイジェスト版といったところです。 空(くう)、とは、よく聞く仏教用語です。 空とは、「とらわれのない心をもってものを見る、聞く、感じる」ということです。 わたしたちは、社会通念や、両親から教えていただいたことや、組織などによって、規律や、ルール、マナー、モラルを学ぶわけです。それはとても大切なことです。 しかし、その、ルール、マナー、モラルが、逆に自分の枠(わく)を作ってしまい、きゅうくつな考え方を作り出してしまうということもあるのです。 いったん、善悪や、こだわりや、ルールから離れて、ものを見ると、ほんとうのものが見えたりします。 するとこんどは、「じゃあ、ルール無用で、こだわらなくていいなら、何をしてもいいのか」という反論が聞こえてきそうです。 それにも、こたえがあります。 「こだわらない、ということにも、こだわらない。」 「空(くう)にも、縛(しば)られない」 人間は、生まれてから、十数年、あるいは数十年、生きていく過程で、いろんな、「常識」を学んでゆきます。国によって、部族によって、180度ちがう常識もあります。 わたしは、日本の常識が好きです。 しかし、思考回路は、なるべく常識にとらわれないようにありたいものです。 やわらか頭でいきましょう。 ピンチはチャンス、チャンスはピンチ、と考えてみる。 短所は長所、長所は短所、と考えてみる。 たとえばそんなことだけでも、あたらしい発想が出てくるものです。 常識にとらわれた、自分で自分に制限をもうけた考え方を「枠内思考(わくないしこう)」、その枠を取りはずした考えを「枠外思考(わくがいしこう)」というのだそうです。 こどもは、枠外思考です。絵を書いていると、紙をはみ出して、机の上まで書いてしまいます。「この紙の範囲内に書かなくてはいけない」というのが、そもそも枠内思考なのです。 ダウンタウンの松本人志さんも、つねに枠外思考です。常人では思いつかない「発想」で、人を笑わせています。天才だと思います。しかし、日常生活は、非常に常識的な方で、礼儀正しく、しっかりした方です。松本人志さんは、「常識がしっかりしているから、非常識ができるのだ。常識がしっかりしていないと、非常識は笑いにならない。」と語っています。そのとおりだと思います。 まとめていうと、枠外思考で考えて、枠内行動を行う、というのが、バランスの取れたありかただと思います。 お大師さまは、発想は完全に「枠外思考」でした。 しかし、活動はしっかり当時の常識にのっとつた「枠内思考」でした。 だからこそ、成功者たりえたのです。 自由な発想をすることによって、結果的に、自分も、他人も、幸せにすることができる、と、お大師さんは結びます。 枠外思考、どこかで意識していたい言葉です。
2004年05月12日
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初地と十地と高下なし 伝弘法大師空海著『秘蔵記』 結果だけが尊(とうと)いのではない。 ほとけになろうとする、その過程(プロセス)が尊いのだ。 『秘蔵記(ひぞうき)』も、作者がはっきりしていません。 お大師様筆、という説もあれば、お大師様のお師匠様が述べたものをお大師様が書いたのだとか、確定できません。 でも、真言密教の入門書としては、とてもわかりやすく書かれているものなので、真言宗では、ながく親しまれています。 結果じゃなくて、その過程(プロセス)が面白いんだよ、と言っています。 失敗なんて、ないんです。 失敗は、かならず、身になり、糧(かて)になります。 逆説的ですが、身になり、糧になった時点で、失敗は失敗ではなくなります。 失敗の反対は、成功ではなく、 失敗の反対は「なにもしない」なのです。 成功したい、失敗したくない、と思うから、動けなくなります。 動き始めることに、躊躇(ちゅうちょ)してしまいます。 それよりも、小さな一歩から、はじめてみましょう。 気持ちは、おおきく、 行動は、ちいさな一歩から。 幸せは、なるものではないのです。 いま、幸せの中にいる、と、わかることが大切です。 結果ではなく、過程が大切。 そして、すべては、最初の一歩からはじまるのです。
2004年05月11日
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物を絶つには長刃を須(もち)い 衣を縫うには小針を用(もち)う 伝弘法大師空海著『宗秘論』 ものにはすべて、つかうべき用途と方法がある。 これは、とても重要なことです。 私は、大学院で弘法大師教学を学びました。研究者のタマゴであったわれわれに対し、まずいちばんに恩師がおっしゃったこと。 「信仰と学問は、分けて考えるべし」 「かつ、信仰、学問は、車の両輪だ。どちらが欠けてもならない」 専門用語で、 信仰、作法、などを、「事相(じそう)」と言い、 教えを科学的、学問的に研究することを、「教相(きょうそう)」といいます。 あたまでっかちになってもいけない、実践が大事。 実践だけではならない、理屈も必要。と、いうことです。 年間三万三千人の自殺者があります。一日百人、自殺しています。交通事故より多いのです。その大半は、鬱(うつ)であるといわれています。 わたしも自分自身で経験があるのでいいますが、 鬱のときは、休養、投薬、清潔(風呂)です。 以上です。 鬱のときに、精神論、プラス思考、ポジティブ思考、成功法則、宇宙の法則、食事療法、奇跡のたべもの飲み物、自己啓発セミナー、そして、宗教に走るのは、やめておくべきです。 私は宗教者です。その宗教者が言います。 鬱のとき「先祖供養が足りない」とか言って近づく人を、避けなさい。それが善意からのものであろうと、悪意からのものであろうと、関係ありません。 鬱が、病気が治って、精神力が回復してきたら、あとは自己責任において、好きに生きるといいです。 しかし、精神状態が弱っているとき、つまり、判断力がにぶっているときは、 「決断するのをやめなさい」。 刃物は、人を救いもすれば、殺しもするのです。 お大師様のことば、 ものにはすべて、使うべき用途と、方法があるとは、そういうことを言うのです。 ものには、理屈と、信仰、両方があります。 信仰に偏(かたよ)りすぎると、それは盲信となります。 お釈迦様も、ほんらい、唯物論者でした。 「池に浮かんだ石は浮かばないように、死んだ人が生き返ることはない。」 おしゃかさまのことばです。 空海の研究者から見ると、とんでもない「空海本」が多数出版されています。トンデモ本というのだそうです。 真言密教というのは、奥の深い、すばらしいものですが、勉強と、信仰と、両方が必要なのです。 正しい「空海本」を読みましょう。 きちんと学びたいのならば、まず、加藤精一先生の『空海入門』をお勧めします。
2004年05月10日
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万法は心に従(よ)って有(あ)り 舟行けば岸遷(うつ)ると謂(おも)い 雲 はしれば 月走ると見る 伝弘法大師著『宗秘論(しゅうひろん)』 行く舟から見れば 岸が動くように見え 雲の走るのを見ていると、月が動くように見える そのように、すべては、こころの持ちようによるのだ 昨日、天動説のお話をしましたので、そのつづきです。 同じ景色を見ていても、「夕日が美しいなあ」という人もあれば、「ゴミが浮いててきたない川だなあ」という人もあります。どちらも、主観です。 「コップに水が半分しかない」「コップにまだ水が半分もある」。どちらも主観です。 「コップに水が半分入っている」ということだけが客観的事実で、それをありがたいと思うか、不満に思うか、なにも思わないか、それはすべてあなた次第です。 そうやって世間を眺めてみると、あなたの思う世間は、すべて、あなたが作り出していることに気が付きます。 だから、この世の創造主は、あなたなのです。 さて、お大師様信仰は、全国にあります。お大師さまの湯、お大師さまの水、お大師様の手打ちそば。「この地にお大師様がいらっしゃった」という、いわゆる弘法大師伝説は、数え切れません。 じっさい、お大師様がそんなに全国を行脚(あんぎゃ 歩き回ること)したわけはありません。 でも、お大師さまを尊敬するこころ、そして、お大師さまの精神、スピリットは、全国に広がったのです。真偽、というと厳しい言い方ですが、それは学問的なものの言い方であり、信仰としては、すべて正しいといっていいのです。お大師さまは、いまもあなたの隣にいるのですから。。。。 同様に、お大師様筆、とされる書や、お大師様著、とされる著作も、数え切れないほどあります。もちろん、学術的な真偽はさだかではありませんが、お大師様の精神は、それらの書や、著作を通じて、われわれにいまも、語りかけてくれています。 『五部陀羅尼問答偈讃宗秘論(ごぶたらにもんどうげさんしゅうひろん)』、略して『宗秘論』も、そういったもののひとつです。 真言密教のいろんな疑問を簡単に説明したもので、お大師様初期の作品と伝えられています。お大師さまの精神がつめこまれている、とてもわかりやすい作品です。
2004年05月09日
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大弁は訥(とつ)なるがごとく 大智は愚なるがごとし 弘法大師空海著『真言付法伝(しんごんふほうでん)』 師匠から弟子につぎつぎに教えを伝えることを「付法(ふほう)」といいます。 お大師様の「付法伝」には、『秘密曼荼羅教付法伝』というのと、それのダイジェスト版『真言付法伝』との二種類があります。ダイジェスト版は別名『略付法伝』とも呼ばれています。 密教は、インド、中国、日本の三つの国を渡って、お大師さまの真言宗によってその完成をみるわけですが、この『真言付法伝』は、どんな人たちがどんなふうに密教を伝えてくれたか、その業績を称えているものです。 真言宗では、面授(めんじゅ)といって、師匠から弟子へ、直接口で教えを伝えることを大事にしています。密教は、本を借りて読んだだけではだめで、直接その師匠にお会いして、直接指導をうけること(面授 めんじゅ)が大切なのです。 お大師さまはいいます。 強く人を感動させることばは、 流暢(りゅうちょう)なものではなく、 むしろ、すばらしい智恵は、 一見、愚かなものにも見えやすい だから、ホンモノをみわける眼をやしなえ 地動説を唱えたガリレオが狂人扱いされたように、 新しい時代をつくるひとは、つねに「非常識」扱いされます。 しかし、その「非常識」なくして、あたらしいものは生まれません。 お大師さまは、「非常識」を、バンバンやった人でした。 お大師さまの「非常識」はやがて「最新鋭」と称(たた)えられるようになり、さらにそれは「伝統」へと昇華されてゆきます。 お大師さまは、われわれに、はじめの一歩を踏み出す勇気を教えてくれます。 バカだ、といわれるようなことを、あえてやってみよう。 いまは当たり前のことも、ちょっと昔には「非常識」なことだったのです。
2004年05月08日
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虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、わが願いも尽きん 弘法大師空海著『続性霊集』巻第八 おおぞらに太陽があって世界があかるくなるように、 大日如来様の光明(こうみょう)が この世を遍(あまね)く照らし、 迷いや煩悩に苦しむ人々がみな救われたとき、 わたし空海の願いも、おわるのである 人間は成長する限り悩むもんだ(ゲーテ) 悩みはつきねんだなあ、にんげんだもの(相田みつを) お大師さまだって、とても悩み苦しまれた方です。 でも、 小さな人物は、ちいさいことで悩む。 大きな人物は、おおきなことで悩む。 お大師さまの、この空よりも高く海よりも深い悲願は、1160年の時空を越えて、いまもわたしたちの胸を打つのです。 目を閉じて、胸に手をあてて、 本当のじぶんの人生を生きているか 生まれ変わるなら、生きているうちに
2004年05月06日
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それ如来の説法は必ず文字による 文字の所在は六塵(ろくじん)の体なり 六塵の本は法仏の三密すなわちこれなり 平等の三密は法界に遍じて常恒なり 弘法大師空海著『声字実相義』(しょうじじっそうぎ) この世でわたしたちが耳にする一切の音と言うものは 大日如来(だいにちにょらい)さまの声であり、 われわれが目にするすべての現象は すべて大日如来さまからのメッセージ われわれは、とことん感性を磨(みが)いて 大日如来さまの声、メッセージにアクセスしよう 佐伯真魚(さえき・まお)さまは、出家して最初、教海(きょうかい)と名乗り、のちに空海(くうかい)と改名したといわれています。弘法大師(こうぼうだいし)というのは、空海さま亡き後、お弟子さんたちの活躍により帝(みかど)よりおくられた「贈り名(おくりな)」というものです。 わたしたち現代人は、尊敬の意味をこめて、弘法大師空海さま(お大師さま)、とお呼びしています。 「人は、感動すると、なにかを書かずにはいられない。」 お大師さまは、生涯たくさんの著作を遺(のこ)します。すごいスピードで、草案(そうあん 下書きのこと)も作らずに、名文をどんどん書くので、お弟子さんたちはすぐ写し(控え)を書き取っておかないと散逸して(なくなってしまう)ので、大変な思いをした、と伝えられています。 お大師様の才能もすばらしいですが、われわれがいまお大師様の著作を読むことができるのは、一所懸命、写しをとってくれたお弟子さんたちのおかげでもあります。 さて、お大師さまは、どの著作にも、「言葉の持つパワー、言霊(ことだま)」の重要性を説いています。 お大師さまは、みずからの宗派を、「まことの言葉」と書いて「真言宗(しんごんしゅう)」と名乗ったほどです。 お大師さまがどんなに「ことば」を大切にしていたかが分かります。
2004年05月05日
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文の起りは必ず由(ゆえ)あり 天朗かなるときはすなわち象(しょう)を垂れ 人感ずるときはすなわち筆を含む 弘法大師空海著『三教指帰』(さんごうしいき)巻上 人が文章を書き起こすときは、かならず何か理由がある。 天が晴朗であるときは、吉凶のきざしを示し、 人が感動するときには筆を執(と)る 空海さまの本名は、佐伯真魚(さえき・まお)さまといいます。 真魚さまは、宝亀五年(774)四国で生まれ、優秀な大学に合格し18歳で上京します。成績もダントツで、就職もいいところに決まっていたのですが、あるメンターとの出会いに衝撃を受け、急に大学から姿を消してしまい、親族のみなさんに心配をかけました。 四年ほど、真魚さまは消息を絶ちます。阿波の大瀧獄や、土佐の室戸岬で修行したといわれますが定かではありません。謎の失踪をして四年のち、ある日、変わりはてた修行僧の姿で親族の目の前にあらわれ、関係者を驚かせました。 24歳の十二月一日、デビュー作『聾こ指帰(ろうこしいき)』一巻を書き記します。これが後に『三教指帰』三巻に改題されました。これは、真魚さまの出家宣言書、空海としてのデビュー作といえます。 さて、この『三教指帰』では、 「自分は大学を中退するが、それは親不孝をするのではなくて、将来かならず両親やこの国のためになることだから」と、その心情をそれはもう見事な文体で切々と訴え、読む人の胸を打ちました。 この『三教指帰』は、儒教や道教に比べて仏教の優位性を説く、日本初の戯曲(ぎきょく)であり、現代においては、国文学的にも仏教学的にも、各方面で高い評価を受けています。 このように、処女作から、空海さまの天才ぶりは発揮されていたのです。
2004年05月04日
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人を導くものは教なり 教を通ずるものは道なり 道は人なきときはすなわち塞(ふさ)がり、 教は演(のぶ)ることなきときはすなわち廃る 弘法大師空海著『続性霊集』巻第十 教えの道をひろめるのは人であります。 どんなに言いことを言っても、行動がともなわなければなにもなりません。 自分へのいましめにしたい言葉です。 さて、今日はある「成幸者」の語る、 理想の指導者(メンター)がもつ六つの特徴をお話します。1 幸せな人生を生きている2 感情的なバランスが取れている3 大好きなことを仕事にして、成功している4 人生で失敗、挫折(ざせつ)をして、それからしっかり学んでいる5 謙虚(けんきょ)で、普通の人生を生きている6 男女関係がうまくいっている 教えを請う側からすれば、メンターには完全な人格を期待しますが、完全なる人格を持った人など、この世には存在しません。 不完全なでありながらも、人生で折り合いをつけ、限り有る人生の生き方を包み隠さず分かち合ってくれるからこそ、メンターは人生の指導者たりうるのです。 「人の本当の価値を知りたければ、その人のパートナー、ごく身近な友人に聞いてみるがいい.彼らが賞賛の言葉を述べるなら、その人は本物の指導者だ。」 あなたの周りにも、きっとすばらしいメンターが居るはずです。 それは、実在の人物かもしれませんし、歴史上の偉人かもしれません。 1160年を経ても老若男女に愛されるお大師さま。 お大師さまをメンターにする人が現代にとても多いのは、お大師さまご自身も、人生を悩み、苦しみ、挫折しかけたことがあるからです。 だからこそ、わたしたちの心の痛みがわかる名言を遺してくださったのだと思います。 苦難の中にあっても、時期を待ち、そして天才的な能力を発揮されたお大師さま。 お大師さまはいつでもあなたを見守ってくださっているのです。 南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう) 合掌
2004年05月03日
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いかだは能(よ)く済(わた)し、車は能く運ぶ。 しかれどもなお、御(ぎょ)する人なければ、 遠きに致(いた)すこと能(あた)わず 弘法大師空海著『続性霊集』巻第十ここでいう「いかだ」とは大きな船の意味です。 大きな船は人を乗せて渡し、車はよくものを運んでくれる。 しかし、それには、良い舵取り(かじとり)がいなければ、 遠く(目的地)にたどり着くことはできない。 教えがどんなに優れていても それを教える人がしっかりしていなくてはならない そうでなければ 本当の目的を達することはできない メンターということばがあります。 メンターとは、人生を教え導く先生という意味です。 古くから、人生の教えは先生から弟子へと伝えられていました。 ある成功者が教えてくれました。 「わたしはたくさんの成功者を見てきた。 成功者は、すばらしいメンターに会えたから成功したのではない。 事実は逆で、 彼らがとてもいいセンスをしていたので、すばらしい師に出会えたのだ」 志を高くして生きていると、本当に人生を変えてくれるよい師に出会えるものです。 逆に、じぶんが腐っているときは、ろくな人と出会えません。 明日は、理想のメンターが持つ六つの特徴についておはなしします。
2004年05月02日
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一切の男子はこれわが師なり 一切の女人はこれわが母なり 一切の衆生は これわが二親、師君なり 弘法大師空海著『教王経開題』より 「開題(かいだい)」とは、解説、といつた意味です。お大師さまは、「○○経開題」というのをたくさん遺(のこ)していらしゃいます。密教経典以外のいろんなお経を、密教的に解釈したものです。 すべての男性は自分の父親であり、 すべての女性は自分の母親であると思いなさい すべての生きとし生けるものは みなわたしの両親であり、先生である 『心地経』というお経に、「すべての男性はすなわちこれ慈父なり、すべての女性はすなわちこれ慈母なり」という句があります。 お大師さまは、これに加えて、すべての生きとし生けるものは、みんな先生なのだ、とおっしゃるのです。 すべてのものにありがとう 出会う人すべてを敬(うやま)いましょう。 あなたが「嫌だな」と思う人こそ、 わたしの足りないところを痛烈に教えてくれる師(せんせい)かもしれません。
2004年05月01日
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身は華とともに落ちぬれども 心は香(かおり)とともに飛ぶ 弘法大師空海著『続遍照発揮性霊集』巻第八 身体は花が散るように死んでしまったけれど、 その美しい心は、芳香(かおり)とともに、 虚空(おおぞら)に飛び、世界をうめつくしている。 そもそも『性霊集』は、空海さまの直弟子(じきでし)、真済(しんぜい)さまが、空海さまの詩賦(しふ)・碑銘(ひめい)・上表(じょうひょう)・願文(がんもん)を集めて十巻とした詩文集。ところが巻八九十が散逸し(なくなってしまい)、そこで、さいせんさまがまた三巻を補填(ほてん)しました。それが『続性霊集』です。 これは、藤左近(とうさこん)さんの、亡きお母様の美徳をたたえている名文です。 いまは当たり前ですが、平安時代は、法事をするのは、まだ、めずらしかつたといいます。 大切な人を失ったとき、この言葉を思い出してください。 大切な人は、きっとあなたのそばに居るのです。 そしてずっと、あなたをお守りしてくださっていることでしょう。合掌。
2004年04月30日
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近くて見難(みがた)きはわが心 細にして空に遍ずるはわが仏なり 弘法大師空海著『秘蔵宝鑰』巻下 空海さまは、『華厳経』というお経をたいへん尊重していらっしゃいました。平安時代は、「華厳経が最高のお経だ」というのがおぼうさんたちの常識でした。 空海さまは「華厳経はすばらしいお経だ。でも真言密教はもっとすばらしい。」と説きました。 うえの文章は、華厳経を誉めた一句です。 いちばんわからないのは自分のこころです。 物事はなんでも、自分の心次第です。 同じ場所で、同じ時間、同じ一日をすごしても、 楽しい一日に出来る人と、つまらない一日に感じる人がいます。 同じことを体験しても、どう受け止めるかは、自分次第なのです。 平安時代の東大寺を中心とした僧侶たちは大きくうなづき、空海さまに密教を教えていただくために行列をつくりました。 その行列の中には、当時たいへん有名だった平安時代のスター、天台宗をひらいた最澄(さいちょう)さまがいらっしゃいました。 当時無名の空海さまが一躍(いちやく)最澄様とならぶ平安時代の有名人になったのも、最澄さまのおかげといってもいいくらいです。 空海さまはとってもポジィティブな方でした。ポジティブな人の周りにはすばらしい人が集まってくるんですね。 近くて見がたきはわが心。環境がどうあれ、今日一日をたのしく過ごすかどうかは、あなたしだいです。
2004年04月29日
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衆生のこころ清浄なるときは、すなわち仏を見、 若(も)し 心不浄なるときは、すなわち仏を見ず弘法大師空海著『弁顕蜜二教論(べんけんみつにきょうろん)』より 『弁顕蜜二教論』は、真言密教と、そのほかの宗派との教えの違いをわかりやすく説いたもの。 上下二巻、合計十九の点について密教の優位を説いています。 ほとけさまは、常にあなたの近くにいて、説法(せっぽう)しているが、 自分の目が曇っているうちは、理解できないし、ほとけさまの姿も見えません。 清らかなこころでもって日々をすごせば、 ほとけさまのお姿が、自然と見えるようになるのです。 あたりまえのことに感謝するこころが大切です。 何かを手にいれないと幸せになれない、と思いこんでいませんか。 あたりまえの毎日が、すでに、幸せなのです。 あなたはすでに幸せの中に居るのです。 ありがたい、ありがたい、ありがたい、と思って過ごしましょう。 有ることが難しいから、「有り難い」のです。
2004年04月28日
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遠くして遠かざるは すなわちわが心なり 絶えて絶えざるは 是れわが性(しょう)なり弘法大師空海著『遍照発揮性霊集(へんじょうはっきしょうりょうしゅう)』より 『遍照発揮性霊集』、略して『性霊集(しょうりょうしゅう)』とも呼びます。 お大師さまの詩文や碑文や書簡など110文にのぼる文章を、弟子が編纂したものです。 遠くにあるようで近くにあるのが仏法を求めるわが心であり、 離れているようで離れていないのが、仏性(ぶっしょう)、 すなわちほとけこごろである。 ほとけごころは、本来、あなたに備わっているものなのだ。 手の届かない遠くばかりに想いを寄せるより、 自己を見つめるのが肝心だということです。 お大師さまの、絶対の人間信頼がうかがわれる名文です。
2004年04月27日
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仏法はるかにあらず 心中にしてすなわち近し 真如外にあらず 身を棄(す)てていずくにか求めん弘法大師空海著『般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)』序文 般若心経(はんにゃしんぎょう)は、264文字ととても短く、しかし深い教えが書かれており、人気の高いお経です。 それをお大師様が密教的に解釈なさったのが、『般若心経秘鍵』です。 「般若心経を密教的に解釈するカギ」という意味です。 ほとけさまは、遥か彼方(かなた)にあるのではない あなたのこころの中にあるんだよ 真理は、あなたのすぐそばにある 自分を否定してどこに真理を求めるというのですか 人は向上しようとして目標をかかげ、精進(しょうじん)をします。精進するはいいのですが、あなたはあなた以外のものにはなれません。 いまの自分を否定して、なにものかにになろうとするよりも、 それよりも、 ありのままの、あなたの素晴らしさに気づいてください。
2004年04月26日
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生れ生れ生れ生れて 生(せい)の始めに暗く 死に死に死に死んで 死の終わりに冥(くら)し 弘法大師空海著『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』序文 秘蔵宝鑰とは、「ひみつの蔵をひらくカギ」の意味。 弘法大師空海の代表作で、人間の心を十段階にわけ、 最高の境地を真言密教(秘密荘厳心)であると説く。 人は自分の生れてきた意味、そして死の意味も知らぬまま、 次々と生まれ、つぎつぎと死んでゆく。 真言密教を学べば、生と死の意味を悟ることができる。 だから絶えず向上につとめよ。 お大師さまはいつもあなたの側(そば)に居てくださるのです。 俳人、王土(おうど)の句に、 「生れ生れ生れ生れて法の露」 (うまれうまれ、うまれうまれて、のりのつゆ) というのがあります。 次々に生れくるいのち、みな、 ほとけさまとのご縁がありますことを。。。。
2004年04月25日
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参考文献(敬称略)「いのちの哀切を超える」 寺林峻 「墨」 2003年 3・4月号「空海の名句・名言」 松本寧至 「大法輪」 2004年5月号
2004年04月24日
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