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Ryu-chan6708

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2006.05.28
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カテゴリ: 読書感想
私: 「唯幻論」 で有名で、私もかなり前に愛読したものだ。しかし、最近の氏の本を読んでいないので、昨年、出版されたこの本を図書館で借りて読んだ。 主題は、「一神教」と「多神教」の問題だ。両者は長所短所があるが、日本では、この両者がごちゃごちゃしていて、今や、捨てておけない状態だと氏は感じていると言う。 氏は、基本的に多神教的である日本に、なんとか、一神教の欠陥を避けつつ、その利点を取り入れる方法はないかと、虫のいいことを考えているという。

A氏: 今、テロなどで問題になっているのは、キリスト教とイスラム教の一神教の対立だと言われているね。一神教は歴史的にも民族虐殺や植民地支配を招きやすいという問題があるね。その点、 日本は多神教で「無思想」だと言われている。

私: ところで、この対談相手は、10人だが、驚いたことにトップに池田昌子氏(2006.05.26の日記参照)が登場していることだ。

A氏: 池田氏と一神教、多神教の問題は関係があるの?

私: 岸田氏も関係ないとあとがきで述べているが、昨年は、池田氏のブームなのか、出版社の意向なのではないの。関係ないのに対談のトップに来ているしね。

A氏: 岸田氏との対応は、養老孟司氏との対談(2006.05.20の日記)と比較してどうだった?

私: 岸田氏の困惑がありあり出ている対談だね。 養老孟司氏との対談とよく似ている。 死の問題は、池田氏の独特の考えの基礎をなしているが、それについて下記のようなやりとりがある。

岸田氏 が「池田さんは、宗教的に悟りの境地に到達している。」と多少、皮肉めいて言っているのに対して、 池田氏 「まさか。でも念仏宗教はちょっと解らないが、禅的な感覚は理解できる。」、 岸田氏 死を恐れるというのは、非常に個人差がある 。」、 池田氏 私には全然ない。それは死がないから。 徹底的に考えたら本当にない。」、 岸田氏 「自分の死なんてものは体験できませんからね。」、 池田氏 「そうです。だからないんです。他人が死ぬのを見て自分も死ぬんだろうなというのは類推にすぎない。 死体を見て、それを死だと思っているが、それは死体であって死ではない。 世の中どこを見ても死はないと気がついたら、ああやっぱり全部あるんだって分かる。」、 岸田氏 「自分が体験できないものが、存在しないと断定することは出来ない。 皆がすべて死の恐怖を持たないことができると限らない。 」と答える。

 すれ違いで終わるが、これこそ、ある意味で対談と言えるね。

A氏: 結局、池田氏の言うことは、要するに人は死ねば、すべて無になるということではないの?死ぬことは自覚されないから、死は本人にはないという理屈だ。逆に、生きている瞬間、瞬間が全世界だということだ。他人の死は本人の死でないので、自覚するのは死体だという理屈だね。 
 しかし、 今まで元気に会話をしていた人が、会話をしなくなり、死体に移行する状態が死ではないの?その変化をわれわれは見ている。同じ人間として自分もそうなるだろうことは類推して自覚できる。 自分の病気からでも類推できそうだがね。定義の問題のようだね。

私: だから、池田氏は「人類の歴史は、死の恐怖に動かされているので、 死はないと気がついたら一変する。 医学など死ぬことを避けて進んできた科学技術は、避けようとしている死がないと気がついた時に歴史は一変する。」という。

A氏: 確かに。医学が進んでいなかったら、いまだに、ペストや天然痘や結核で死ぬ人はいまだに多いかもね。そうなれば、今生きている人の多くは生まれていないから、全ては無かね。しかし、ご本人は軽いガンで入院して直っているそうなのでチャッカリしているね。

私: 迂回したね。知的街道を岸田氏の日本の多神教、すなわち、無思想にもどそう。





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Last updated  2006.05.30 08:24:11
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