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【2021年1月3日(日)】 だいぶ前ですが、去年11月11日の読売新聞の全面広告に、大阪重粒子センター(公益財団法人 大阪国際がん治療財団)の全面広告が掲載されていました。 私は片方の腎臓しかない状態で、残った腎臓の後ろに後腹膜悪性腫瘍を発病しました。半年の抗がん剤治療で、病巣は劇的に小さくなったものの完治には至らず、主治医からは透析ができるようにしたうえで、残った腎臓ごと切除することを勧められました。しかし、セカンドオピニオンで重粒子線治療を知り、この治療をすることで、残った腎臓を温存したまま、がんも完治といえる状態に導くことができました。 当時(2015年)は、関西で重粒子線治療ができるところは、兵庫県たつの市にある、兵庫県粒子線治療センターしかなく、そこに1ヵ月半ほど入院しての治療でした。その後、大阪にも重粒子線治療の施設ができたとの新聞記事が掲載されました。それがこの大阪重粒子線センターです。住所:大阪市中央区大手前3-1-10(最寄駅は地下鉄谷町線「谷町四丁目」)電話:06-6947-3210ホームページ:https://www.osaka-himak.or.jp/ 私が治療をした頃は、すべてのがん種が保険適用ではなく全額自己負担が必要でした。ただし、先進医療に指定されていて、民間医療保険の先進医療特約に入っていれば、保険金が出ました。幸い私の入っていた保険には先進医療がデフォルトで入っていたので、全額ではないですが、半額は保険金が出ました。全額負担なら約300万円負担でしたが、その約半額の負担で済みました。それでも高額でした(もちろん全額保険金が出る契約もあります)。 しかし、その後、治療の効果が認められたことで、保険適用になるがんが増え、現在では、前立腺がん、頭蓋底腫瘍、頭頸部がん、骨軟部腫瘍が保険適用になっています。私の罹った後腹膜悪性腫瘍は骨軟部腫瘍ですから、今なら保険適用になるはずです(ただし「切除非適応」の場合だけで、私の場合は腎臓が無くなって透析になるけれども切除ができないわけではなかったので、今でも保険適用になるかどうかは疑問です)。そして高額療養制度を使えば、10万円前後の自己負担で済むことになります。ここまで保険適用のがん種が増えたことは大きな進歩です。とはいうものの、まだ保険適用になっておらず「先進医療」の範疇のがん種も多いので、民間医療保険の「先進医療特約」は入っておくことがお勧めです。テレビでもよく宣伝していますが、保険料はそれほど高くなりません。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/01/03
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私は2015年3月に「後腹膜悪性腫瘍」のため重粒子線治療を開始しましたが、その直前に同じように重粒子線治療を受けたなかにし礼氏の講演会の動画を発見し、私のブログで紹介しました。以降、「がん」に関する本の紹介や、切り抜きでの新聞記事の紹介などをしてきました。 2015年5月からは朝日新聞の「患者を生きる」というコラムと読売新聞の「一病息災」というコラムの「がん」に関する記事をテキスト形式で引用し、私の体験や意見、気付きなどを添えるかたちで紹介してきました。(2015年12月に一般の新聞記事の切り抜き紹介は終了) 一つは私自身「がん」の治療中であったため、「がん」について広く知識を身につけたいという思いがあったためです。もう一つは、ネットには標準治療を頭から否定してかかる書き込みがあふれており、それらが多く読まれていることに危機感を覚え、微力ですが冷静な情報を提供したいという思いがあったためです。 幸い粒子線治療のおかげで、経過観察に移行でき、現在健康に暮らしており、社会復帰も果たしました。一方で、時間的に今まで通り投稿を続けるのがむつかしくなってきました。また、私の体験に基づくコメント・意見・気付きもほぼ書き尽くした感があります。 そこで、2016年12月15日投稿の記事(こちら)をもって、「がん」に関する新聞記事などの紹介投稿を終わらせていただきます。 もし、皆さまにお役に立つ情報が少しでも提供できていたとしたらこのうえない幸せです。1年10ヵ月という短い期間でしたが、ご愛読いただいた皆様には深く感謝申し上げます。___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2017/01/04
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。2016年11月2日からのお笑いコンビはんにゃ川島章良さん(取材当時34歳)の記事です。[お笑いコンビはんにゃ 川島章良さん]腎臓がん(4)告白して気分すっきり 今春のテレビ番組で、腎臓がんの手術を昨年初めに受けたことを告白した。 実は当初、相方・ 金田哲かなださとし さんとマネジャーにしか打ち明けず、公表するつもりはなかった。「病気のことを話したら、笑ってもらえなくなるんじゃないか」と心配したからだ。 しかし、今は「打ち明けて楽になりました」。 内緒にしている間はつらかった。例えば、手術後のお笑いライブ。突然シャツを脱いだ筋肉自慢の先輩芸人との絡みで「お前も脱げ」と振られ、うろたえた。 ポッコリおなかもネタの一つだったので、筋肉との対比は「おいしい場面」のはず。しかし、手術の痕を見せられず、中途半端な受け答えになってしまった。 後で共演者に事情を説明した。初めて「そういうことは言った方がええで」とアドバイスされた。公表すると「勇気づけられた」など好意的な反響が多かった。 コンビ結成10年目のがん発見。コンビ仲が冷えつつあった時期だが、「もうコントできないかも……」という危機感が、お互いの大切さを再認識させてくれた。大会に出たい。ネタ番組に呼ばれたい。相方と、再び言いたいことを率直に語り合うようになった。 初心に帰った。元々はコント師。来春、久々に単独ライブを開くつもりだ。>公表すると「勇気づけられた」など好意的な反響が多かった。 私が粒子線治療を選択し、治療に入ろうというとき、偶然なかにし礼氏の粒子線治療の経験談講演の映像資料に出会いました。 芸能人の方々の闘病からの復帰は、一般の患者に勇気を与えてくれますし、場合によっては「そんな治療法もあるのだ。」という気付きを与えてくれます。 そのときの私の投稿は⇒こちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村読売新聞「一病息災」の記事リストは⇒こちら___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/12/15
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。 2016年11月2日からのお笑いコンビはんにゃ川島章良さん(取材当時34歳)の記事です。 [お笑いコンビはんにゃ 川島章良さん]腎臓がん(3)妻の出産で想定外の事態 結婚前の身体検査のつもりで受けた健康診断で早期の腎臓がんが見つかった。「私も出産がんばるから、一緒にがんばろう」という妻の励ましを受け、昨年初め、正月休みを利用して、手術を受けた。 入院は約10日間。 肋骨ろっこつ 3本と筋肉も切ったので直後は「めちゃ痛かった」が、退院すると、すぐ舞台やテレビの仕事に戻った。「子どもが生まれると思うと休んでいられなかった」 手術から約半年後。今度は妻が出産の場面で、想定外の事態を乗り越えるがんばりを見せた。 朝7時頃、目を覚ますと、妻がトイレで携帯電話片手に産気付いていた。その少し前に破水し、病院に電話をかけたところだった。 「すぐ救急車を」という病院の指示に従い、今度は自分が119番通報した。救急隊員に「今の状況は?」と聞かれ、振り返ると、みるみる赤ちゃんの頭が出てきていた。 シュルッと便器に落ちてしまう、と思われた瞬間、妻が両腕でうまく抱え上げた。「ナ、ナイスキャッチ」。思わず、声を上げた。土壇場で見せた本能的な動きに、「母は強し」と感じた。 数分後に到着した救急隊員が、へその緒を切って「お父さん。最初に抱いてください」と赤ちゃんを差し出してくれた。ほっとしつつ、心の中でツッコミを入れた。「隊員さんの方が先に抱いてるじゃないの……」 お笑いコンビはんにゃ 川島かわしま 章良あきよし さん(34) >肋骨ろっこつ 3本と筋肉も切ったので直後は「めちゃ痛かった」が、>退院すると、すぐ舞台やテレビの仕事に戻った。 私は腎盂がんで、片方の腎臓を切除する手術をしたとき、腹腔鏡手術で、お腹側を腎臓が取り出せる程度切るくらいで、肋骨や筋肉を切ることはありませんでした。川島さんの手術は、ひょっとすると腎臓ごと取るのではなくて、患部だけを切除する手術なのでしょうか。 私の場合は、「全摘」しか選択肢を示されなかったので、迷わず「全摘」したのですが。もし、患部のみ切除という選択肢があって、そうしていたら、後で残った腎臓の後ろに「後腹膜悪性腫瘍」ができたとき、片方の腎臓ごと切除ということになったと思います。「腎盂がん」のときに左の腎臓を取り、「後腹膜悪性腫瘍」に対しては、粒子線治療で対応したので、右の腎臓が残ったかたちになっています。もし、「腎盂がん」で左側の腎臓を残したままだったら、「後腹膜悪性腫瘍」で右側の腎臓ごと切除したでしょうから、左側の腎臓が残っていることになります。 私が「腎盂がん」で腎臓を切除したとき、入院期間は11日でした。川島さんと同じくらいです。翌々日には出勤していましたし、2週間後には海外出張にも出かけました。昔ならもっと入院期間は長いでしょうし、退院してからも自宅療養が必要だったでしょう。医学の進歩に驚いたものです。 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/12/14
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。 2016年11月2日からのお笑いコンビはんにゃ川島章良さん(取材当時34歳)の記事です。 [お笑いコンビはんにゃ 川島章良さん]腎臓がん(2)妻の前向きな言葉に救われ 2年前、妻に正式にプロポーズしようと決意した日。健康診断を受けた病院から電話があり、「左の腎臓に2センチぐらいの影がある。早期がんの疑いが濃厚」との結果が伝えられた。 2人で温泉を訪れていた。電話を受けた時、彼女は入浴中だった。部屋に戻ってきたらプロポーズする予定だったが、その前に言わねばならない重大事案が出来てしまった。 「がんが見つかった」と突然言ったら、ショックを受けないか。心配したが、彼女はケロッと言った。「大丈夫っしょ。早期なら」 当時妊娠3か月目。「私も出産がんばるから、一緒に治療がんばろう」。彼女の言葉で前向きになれた。 気を持ち直して言った。「ややこしいんだけど、そこのふすまをあけてみて」。そこに、こっそり用意したプレゼントを隠していた。「結婚してください」と書いた手紙を添えて。 手紙を見た彼女はベッドに飛び込んで泣き出した。 感激の涙かなと思ったが、漏れてきた言葉は「なんか、想像と違う」。 「そうだよなあ」。人生の一大事みたいなサプライズ告白を二つ連続で詰め込まれたら、「話の振り幅が大きすぎて感情の整理がつかないよね」。彼女を抱きしめて2人で涙を流した。 「きっと、赤ちゃんががんを見つけてくれたんだよ」。また妻が前向きにしてくれる言葉を言った。お笑いコンビはんにゃ 川島かわしま 章良あきよし さん(34)>「大丈夫っしょ。早期なら」「がん」は不治の病、怖い病気でした。しかし、医学の発達で、そうではない場合のほうが多くなっています。早期じゃなくても、新しい治療法で治ることも多いです。私もその一人です。 待っていては答えは出てきません。患者や家族の努力、そしてあきらめない気持ちが必要です。 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/12/13
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。 2016年11月2日からのお笑いコンビはんにゃ川島章良さん(取材当時34歳)の記事です。 腎臓がん[お笑いコンビはんにゃ 川島章良さん](1)プロポーズ直前、衝撃の告知 リズムネタを生かしたコントで人気を集め、テレビでも活躍し、少し余裕が出てきた。コンビを結成して10年目だった。そんな2年前の11月のある日。妊娠3か月目の彼女にプロポーズしようと決めていた。 2人で訪れた温泉旅館。彼女が温泉に入っている間に、押し入れに「結婚してください」と書いた手紙入りのプレゼントを用意。驚かせようと思っていた。 携帯電話が鳴った。数日前に健康診断を受けた病院の医師からだった。 検査結果を伝えたいが、両親とマネジャーにも来てほしいという。 「どういうことですか。大丈夫だから、はっきり言ってください」。返ってきた答えは「腎臓に影がある。早期だが、腎臓がんの疑い濃厚」だった。 当時32歳。結婚する前に身体をチェックしておこうと受けた健診だった。メタボを指摘されるかなとは思っていたが、大病の経験はなく、健康には自信があった。がんの告知は思いもよらなかった。 「なんで、このタイミングなんだ! もうすぐ子どもが生まれるのに。これからプロポーズなのに……」 頭の中は不安でいっぱいだった。浴場から戻る彼女を待つ間、ひたすら携帯で病気の情報を検索した。「結婚しない方がいいのかな」という考えも頭をよぎった。とにかくプロポーズの前に、伝えなければ。お笑いコンビはんにゃ 川島かわしま 章良あきよし さん(34)(2016年11月2日 読売新聞夕刊掲載) 腎臓がんは、早期であれば片方切除で対応でき、予後も健康に暮らせる比較的性質のいい「がん」です。腎臓は腎機能さえ異常がなければ、片方でもほとんど問題なく生活が送れます。 私は、5年前に腎盂がんにかかり、片方の腎臓を切除しました。手術直後は、クレアチニンが少し高くなり、一般の人より腎機能が低下はしましたが、クレアチニン値は1.5程度で、生活には全く支障がありませんでした。さらに残った腎臓ががんばってくれて、次第にクレアチニン値が低くなっていきました。 そのまま収まってくれたらよかったのですが、残っている腎臓の後ろに後腹膜悪性腫瘍ができてしまいました。抗がん剤で小さくなったものの、完全には無くならず、透析をしたうえで残った腎臓ごとの切除手術が主治医からは提案されました。 しかし、セカンドオピニオンで粒子線治療の紹介を受け、粒子線治療を受けました。すでに1年半以上経過していますが、腫瘍もさらに小さくなったままおとなしくしてくれており、腎機能もクレアチニン1.5レベルで安定し、普通の生活ができています。フルタイムではないですが、仕事にも就くことができました。 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/12/12
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2016年9月30日の記事≫ (患者を生きる:3148)仲間と歩む 変えるために:5 情報編 患者が支えるがん研究 米国では、がん患者の支援団体が大きな目標を掲げて、医学研究や患者を支える活動をしている。 膵(すい)がん患者を支援する「パンキャン」が2010年に掲げた目標は、「20年までに5年生存率を2倍に引き上げる」だった。膵がんは進行してから見つかることが多く、治療も難しいとされる。 日本支部であるNPO法人「パンキャンジャパン」の真島喜幸(まじまよしゆき)理事長(68)は「米国の患者団体は、患者の支援だけにとどまらず、がん研究の推進にも力を入れている」と説明する。 団体に寄せられた寄付金から、がんの画期的な発見法や治療法の研究に対し、今年は約10億円を支援する。米国政府にも膵がん研究費の増額を働きかけ、10年間で約6倍になった。 患者には新薬などの臨床試験の情報を提供して新しい治療を受ける機会を増やし、同時に製薬会社の新薬開発を後押しする。 真島さんは「具体的な目標を立て、そのために何をすべきかを考えて、活動しています」と話す。 連載で紹介した乳がん患者のSNさん(49)も、米国乳がん連合(NBCC)の患者リーダー研修に参加し、積極的に活動する仲間の姿に刺激を受けた。 NBCCは1991年に創設され、会員数は約6万人。がん研究の支援や患者教育に取り組む。臨床試験を活発にするには医師、研究者と患者が互いに理解することが重要と考えているためだ。 SNさんが受けた研修には、米国外12カ国からを含め計約800人が参加。最新の治療方法や医療経済、政策を学んだ。 日本でも研究発展に向けて、研究者とがん経験者が力を合わせようという動きがある。 日本癌(がん)学会は今年から「サバイバー・科学者プログラム」を始める。がん研究を理解し、患者を支援できる患者を増やす試みだ。10月にある学会期間中、全国から応募した患者ら10人が参加。学会発表や専門家の講義を聴き、患者同士で討論してがん研究への期待を発表する。米国癌学会のプログラムにならった。SNさんや真島さんも助言にあたる。「がん研究は、患者と研究者が一緒になって考えないと進みません」と真島さんは指摘する。米国の患者支援団体の活動例>団体に寄せられた寄付金から、がんの画期的な発見法や治療法の研究に対し、>今年は約10億円を支援する 米国が日本と徹底的に違うのは寄付文化が根付いていること。こういう団体はそれに支えらているのだと思います。 私は米国に仕事の関係で、何年か滞在しましたが、寄付ということについてビックリしたことがあります。 経営的に会社が立ち行かなくなり閉鎖をすることになったのですが、現地の人事責任者が地域貢献のために寄付をしたいと言ってきたことです。生半可な額ではありませんでした。「倒産するのに寄付か。」と驚きました。そういう文化なのです。 きれいごとを言っても、結局はお金がないと進まないのが正直なところではないでしょうか。私も微力ながら個人的には寄付をさせていただいたりしていますが、個人レベルでは限界があります。「2人に1人はがんに罹る」ということが認知されてきたので、困っている人を助けるということではなく、互助の考え方で、日本でも企業などの寄付が増えていけばいいなと思います。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/10/12
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2016年9月29日の記事≫ (患者を生きる:3147)仲間と歩む 変えるために:4 学会、患者が学べる場に 乳がん患者のSNさん(49)は、社長を務める株式会社「キャンサー・ソリューションズ」で、がん患者を社員に雇うことにした。2010年4月以降、乳がんの外資系金融機関の元社員や社会保険労務士らが次々と入ってきた。現在、社員は8人。 乳がん患者向け冊子づくりでは、不安な気持ちへの対処法や家族との関係、食事、メイクなど、多くの悩みに応える内容にした。医療費に関する冊子は社会保険労務士が監修し、金額を具体的に例示して説明した。 一つの仕事を2人以上で担当し、通院などの日程をチームで共有して助け合うようにした。治療や子育てのための在宅勤務も認めている。15年3月、東京都の「がん患者の治療と仕事の両立」に取り組む企業として表彰された。 がん患者の働きの場を変えるとともに、学ぶ場も変えてきた。 10年に米国の乳がん関係の学会に参加したとき、患者向けセミナーに300人ほどが集まって最新の医療を学んでいた。日本の学会は患者が参加しにくい印象があったので、「日本でも」と考えた。 同じ思いの医師と一緒に、日本乳癌(にゅうがん)学会の当時の理事に働きかけた。11年から患者向けセミナーが学会の中で試行的に開かれ、2年後には公式企画になった。 今年6月、都内で3日間開かれた学会学術総会の最終日。約250人が参加した患者セミナーでSNさんが座長を務めた。4人の専門家が最新治療の成果を説明し、患者からの質問に答えた。 12年前に右乳房を全摘したSNさんは現在、半年に1回、聖路加国際病院(東京都中央区)で超音波やX線の検査を受ける。乳腺外科の林直輝(はやしなおき)・副医長(42)は「今は特に治療が必要ない状態。乳がんは経過が長く、治療の選択肢も多い。SNさんが学会で言うように、患者自身が治療法を知って決めることが大切」と話す。 9月中旬、会社で社員全員が集まる月1回の会議があった。「出版の提案が来ています」「講演の依頼も」と当面の仕事を確認し合った。 「再発患者をサポートする情報提供にも力を入れたい」。SNさんは次の手を見据えている。日本乳癌学会の患者セミナーで座長を務めるSNさん=6月、東京・有明(写真掲載は控えさせていただきました。) 株式会社「キャンサー・ソリューションズ」のホームページです。http://www.cansol.jp/よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/10/11
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2016年9月28日の記事≫ (患者を生きる:3146)仲間と歩む 変えるために:3 米で研修、背中押された 乳がんの手術を受けた東京都のSNさん(49)が、2009年12月に患者が安心して働ける株式会社を本格稼働させたのは、米国の患者活動にふれたのがきっかけだった。 その年の5月、米ワシントンであった米国乳がん連合(NBCC)の患者リーダー研修に参加した。活発な米国の患者支援団体の取り組みを直接見たいと考えたためだ。 4日間の研修では、連邦議会の議員への陳情体験もあった。グループに分かれて、自分の出身州から選出された議員を回った。日本から来たSNさんは自由に州を選べたので、有名ながん専門病院があって、移民などの課題を抱えるテキサス州を選んだ。この州の乳がん患者団体のリーダーで、20年以上の活動歴を持つ当時60代のサンディ・スタンフォードさんが喜んで迎えてくれた。 「『私は…』と自分の体験談から始めないように。『私たちは…』で、患者全体が何を求めているかを語って。その後で、『私は…』で感情を揺さぶるのよ」 サンディさんは議員への話し方を指示した。 研修中、サンディさんと行動をともにし、日米で患者が抱える悩みを語り合った。研修が終わってロビーでバスを待つ間、サンディさんに「なぜそんなに一生懸命なの」と尋ねてみた。「あなたの愛する人ががんになったとき、同じつらい思いをさせるのは嫌でしょう」という答えが返ってきた。 帰国後、勤め先をやめて起業に専念しようと思った。友人からは反対されたが、「あなたにしかできないことをやりなさい」というサンディさんの言葉に背中を押された。「患者が働ける場をつくろう」と覚悟を決めた。 「米国は学びに来た人には徹底的に教えてくれる」と、毎年渡米するようになった。11年には、研究資金を提供している患者支援団体が主催する臨床研究の審査会を見学した。 「副作用のケアが必要だ」「説明がわかりにくい」などと、患者たちが研究者に注文をつけていた。求めることを口にしていかないと、実現していかないのだと思い知らされた。2015年の学会で米国の患者仲間と交流するSNさん(右)。中央がサンディ・スタンフォードさん=米シカゴ(写真掲載は控えさせていただきました。) この記事を読んで、米国の患者活動をネットでもう少し調べてみようと検索していたら、2015年のCNNのニュースで次のような記事を見つけてしまいました。明があれば暗があるということなのでしょうが、悲しい気持ちになります。 ワシントン(CNN) 米連邦取引委員会(FTC)は、親族運営の慈善団体4団体が、がん患者支援の名目で2008~12年にかけて集めた寄付金1億8700万ドル(約226億円)を流用してぜいたく品の購入などに充てていたことが分かったと発表した。摘発には全米50州の司法長官が連携する異例の態勢で臨んだ。 摘発されたのは、がん患者支援をうたう「アメリカがん基金」など4団体。同基金など2団体はジェームズ・レイノルズ氏が代表を務め、乳がんや小児がん患者の支援を装った残り2団体はレイノルズ氏の息子や元妻が代表に就任していた。 FTCによると、レイノルズ氏らは集めた寄付金の約97%を、集金担当者への支払いや自分たちのための出費に充て、がん患者の支援に充てていたのは3%にすぎなかったとされる。 集めた寄付金は車代や私財の購入、大学の授業料、フィットネスクラブの会費、ジェットスキーでのレジャー代、出会い系サイトの会費、豪華クルーズ、コンサートのチケット代、プロスポーツ観戦などに流用していたという。 出典~http://www.cnn.co.jp/usa/35064756.htmlこのようなことは日本は米国から学んで欲しくないものです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/10/10
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2016年9月27日の記事≫ (患者を生きる:3145)仲間と歩む 変えるために:2 がんでも働ける会社設立 乳がんの手術を受けた東京都のSNさん(49)は、仕事と治療の両立が難しくなり、手術から2年半後の2006年12月、勤めていた設計事務所を退職した。やめてみると、仕事が生きがいだったことを痛感した。「条件さえ整えば、仕事は続けられたはずなのに……」と悔やんだ。 次の仕事はなかなか見つからなかった。緑化関係の社団法人に入ったのは08年2月。がんの治療中と上司に伝えると「お互いさまです。私も病気です」と言われた。 仕事の一方で、東京大の医療政策に関する講座に参加した。7人のメンバーでがん患者約400人にアンケートし、「がん患者の就労・雇用支援に関する提言」をまとめた。調査の結果は、76%の人が「これまでの仕事を続けたい」と答えていたのに、このうち31%は解雇や依願退職などで仕事が変わっていた。 「がん患者が働ける場をつくらなければ」という思いが強まった。それには患者自身が会社を設立して、仕事を生み出すしかないと考えた。当時42歳。「やるなら今だ」と覚悟を決めた。 09年11月に勤め先をやめ、株式会社「キャンサー・ソリューションズ」の社長として動き始めた。社名には、がん(キャンサー)患者の解決策(ソリューションズ)を切り開く思いがこめられていた。患者は「支援してもらう」対象ではなく、がんの経験を社会に生かして「対価」を受け取る。「小規模でも株式会社。患者が働けるように社会を変えたい」。患者を社員として雇った。 設立初期の社員で、乳がん患者のTMさん(62)は「SNさんとはがん患者が一人でも多く参加できる社会をつくりたいと、いつも語り合った」と振り返る。 業務は、製薬企業などから受託する調査や患者向けのパンフレットづくり、講師派遣など。病院に置かれるパンフレットも患者の視点を入れることで、多くの人が手に取ってくれるようになった。 現在、社員は8人。TMさんは13年に退職したが、「みんなでアイデアを出し合って仕事をするのが本当に楽しかった」。 起業を決めた背景には、米国で出会った患者仲間の存在も大きかった。社長を務める会社で社員と話すSNさん(右奥)=東京都千代田区(写真掲載は控えさせていただきました。)>仕事が生きがいだったことを痛感した。>76%の人が「これまでの仕事を続けたい」 「がん」に罹って再就した会社を辞めたとき、正直言って、やっていた仕事が生きがいとは感じられませんでした。元の仕事に戻りたいという気持ちもあまりありませんでした。生き長らえそうだということが分かったとき、本当にやりたい仕事をしたいと思うようになり、再就職した会社を辞めた後、京都での観光ガイドの仕事に就くことができました。収入は激減ですが、年金その他でやって行けそうですので、前の仕事を続けるより、よかったと思っています。 そういう意味では「がん」に感謝です。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/10/09
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2016年9月26日の記事≫ (患者を生きる:3144)仲間と歩む 変えるために:1 乳がん、復職したものの 東京都内に住むSNさん(49)は、がん患者のために情報を発信するコンサルタントや講演などを担う会社「キャンサー・ソリューションズ」の社長だ。厚生労働省の「がん対策推進協議会」の委員も務める。乳がんと診断されたのは今から12年前、37歳のときだった。 都市計画プランナーとして設計事務所に勤めていた。公園緑地の整備や都市再開発を担当するチーフデザイナー。思い描いたデザインが形になることにやりがいを感じていた。しばしば顧客から「SNさんにお願いしたい」と指名された。朝から深夜まで働き、会社に泊まることもいとわなかった。 2004年、会社の健康診断で右胸にしこりが見つかった。病院で詳しい検査を受けた結果、乳がんとわかった。 「頭の中が真っ白になった」 手術と抗がん剤治療が必要と告げられ、まず「手術までに仕事の引き継ぎをしなければ」と思った。 職場に病気を報告し、同僚と一緒に顧客を回った。見慣れぬ同僚を連れてきた理由を顧客に聞かれると、「がんになりました」と説明した。 診断から1カ月近くたった7月末、都内の病院で右乳房の全摘手術を受けた。2週間後に退院。入院には有給休暇を使ったが、抗がん剤治療は9月から翌05年1月まで続くため、休職を選んだ。副作用で髪が抜け、4月に復職したときは帽子をかぶって出社した。 ホルモン剤治療が始まり、月1回は会社を休んで通院した。仕事と治療に追われる日々が続いた。「役職から降ろしてください」と上司に申し出た。それでも仕事の量は減らなかった。同僚が働いている中、1人だけ早く帰ることはできなかった。イラストや図面を作成するため、パソコンのマウスを何時間も操作していると右腕がむくみ、うまく動かせなくなった。手術の後遺症だった。 がんは再発するのか、するならいつなのか、わからなかった。数年単位で取り組む仕事が入ってきたが、責任を持てず辞退した。 「工程が立たない人間は困る」 上司に言われ、「それだったらやめます」と答えた。06年12月、会社を退職した。 まだまだ「がん」患者が働きやすい世の中にはなっていません。でも2人に1人は「がん」に罹る時代。特別な病気でもないし、医療の発達とともに、働きながらでも、治療に取り組めるということが、次第に理解されるようになってはきていると思います。 私は、2回目の「がん」に罹ったのが60歳直前(59歳)で、年金がもらえる直前でもあったし、子供たちも独立しており、ローンも残っておらず、働くということに関して、収入をあまり気にせず選択ができたのがラッキーでした。 もう少し詳しく書くと、私が2回目の「がん」後腹膜悪性腫瘍の罹ったのは、M社を57歳でリストラされ、再就職したN社に勤め始めてから1年2ヵ月めのとき。抗がん剤治療が長く続く予定だったので、すぐに後任が置かれました。一応復職を目標にしました。抗がん剤治療後、粒子線治療に出会い、復職も可能な状態だったのですが、前からの夢だった京都での観光ガイドの仕事をできるだけ早く始めたいと思うようになり、会社は辞めました。 今、ちょうど観光ガイドの仕事を始めたところです。4年早く、夢を実現できたのも、「がん」に罹ったおかげです。家族とともに苦しみましたが、そういう意味では、「がん」に感謝です。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/10/08
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。 2016年8月31日からのキャッシー中島さん(取材当時64歳)の記事です。 《2016年9月21日の記事》[タレント キャシー中島さん]皮膚がん(4)キルトに込めた喜び・悲しみ 皮膚がんの公表からまもなく4か月。ブログで報告した後には、取材にも応じ、ニュースでも取り上げられた。原因に紫外線の影響があること、悪性度はタイプで異なること、見た目ではイボやほくろとの区別は難しいこと。正しい知識も伝えてくれたため、公表して良かったと心から思った。 今夏、自身の歩みを振り返る「キャシー中島 愛を 綴つづ るキルト展」を企画した。東京の展示を終え、26日まで京都高島屋で開催中だ。 自然豊かな静岡・御殿場での子育て中、幸せをかみしめながら、針を進めた作品もあれば、亡き長女七奈美さんを思い、まな娘が大好きだったオレンジを基調に作った一枚もある。 喜びも悲しみも詰まったキルト。お客さんが、自身の人生を重ねて共感してくれるのが何よりうれしい。 これからも、今しかできない作品を手がけたい。11月には、次女 雅奈恵かなえ さんの出産を控える。喜びのキルトが生まれそうだ。 今、気になるのは、最近話題のニューヨークのおしゃれなマダムたち。写真集を自宅に飾っている。 「すてきなおばあちゃまになって、70歳になったら、テレビにたくさん出たい。発言で物議をかもしても、『そんなこと言いました?』ってとぼけて、笑い飛ばしたいです」 ◇ タレント キャシー 中島なかじま さん(64) お孫さんの顔が見られそうでようかったですね。 私は一時は東京オリンピックを観ることは無理かもと思いました。しかし、抗がん剤治療、そして粒子線治療のお陰で、こうやって元気に暮らしており、競技場に行って観ることもできるかなと思っています。あとはキャッシ―中島さんのように、孫を持つことができたら、このうえない幸せです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/10/07
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。 2016年8月31日からのキャッシー中島さん(取材当時64歳)の記事です。《2016年9月14日の記事》[タレント キャシー中島さん]皮膚がん(3)ブログで公表、傷痕の写真も 普段は、いつも愛する家族が傍らにいるが、「闘う気持ちがなえちゃいそう」で、病院は一人で行くと決めている。今年2月の手術も、一人だった。 診断は「基底細胞がん」。転移はまれだが、できた場所で大きくなる。再発を防ぐには取り切ることが重要だ。「何回も手術するのはイヤ。しっかり取ってほしい」とお願いした。 傷は4センチほど。深さ1センチにくりぬいた直径2センチの穴は開けたまま、その先2センチは直線で縫合した。 穴の表面は真っ赤でも、何の感覚もない。毎日、感染予防のため念入りに洗い、肌色のテープで保護した。 午前中に手術をし、午後は、予定通り、キルト教室で指導した。周囲に心配をかけたくないと、「イボをとった」と説明した。 でも、分かる人には分かったようだ。長くテープをつけていたため、生徒にも、「悪いものでは」とのうわさが広まった。 「傷はなくならないし、言った方がラクかな」 今年5月末、テープを外す許可が出た夜に、ブログを更新。「まさか! 私が」のタイトルで、皮膚がんだったことを公表した。傷痕を指さしたアップの写真も掲載した。 「怖くて受診をためらう人もいる。皮膚がんも、いろいろ。キャシーみたいに、チャームポイントになるぐらいの傷で済むこともあると思ってくださればいい」 ◇タレント キャシー 中島 さん(64)>「まさか! 私が」のタイトルで、皮膚がんだったことを公表した。 有名人の「がん」闘病記は、「がん」についての情報を一般の人に知ってもらうという点で絶大な効果があると思います。私が回りの人や、ブログで発信することの何万倍も効果があるでしょう。知識だけではなく、一般の患者さんや患者の家族の励みにもなります。 そういった真剣な闘病記を一方的に揶揄する書き込みがあり、それらが多くの方に読まれているのは残念なことです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/10/06
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。 2016年8月31日からのキャッシー中島さん(取材当時64歳)の記事です。《2016年9月7日の記事》[タレント キャシー中島さん]皮膚がん(2)明るい家族に救われた 今年1月、東京都内の大学病院。診察室に、医師が集まってきて、右ほおをのぞき込んだ。組織を調べないと、がんの確定はできないが、ただならぬ事態と悟った。 主治医が決まり、説明を聞く中で、自然と、涙があふれた。 がんが怖くて泣いたわけではない。「60歳を過ぎると、そういうこともと思っていました。自分の顔に愛着があったし、傷がつくことを考えたからかな」 組織検査を受けるまでの5日間で、闘病の覚悟ができた。家族のがんを経験したことも大きかった。 2009年、長女七奈美さんを肺がんで亡くした。悪性度の高い小細胞がんというタイプだった。 結婚したばかりの29歳。「代わってあげたい、助かってほしいと祈りながら、弱っていく彼女を見守ることしかできなかった」「家族のがんの方がつらい。自分のがんは自分で納得して、始末をつけられます」 がんと告知された時、もう涙は出なかった。 家族に報告すると、反応は思った通り。夫の俳優勝野洋さんは「ママなら、そのぐらいの傷、チャームポイントになるよ」、長男洋輔さんは「見える場所で良かった。体の中なら手遅れになったかも」。次女 雅奈恵かなえ さんは「大丈夫」と抱きしめてくれた。 どんな時も前向きで明るい家族に救われた。◇ タレント キャシー 中島なかじま さん(64)>夫の俳優勝野洋さんは「ママなら、そのぐらいの傷、チャームポイントになるよ」>長男洋輔さんは「見える場所で良かった。体の中なら手遅れになったかも」。 もし家内がそうなったら、こんなふうに言えるかな? 家族の言葉、大切ですね。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/10/05
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。 2016年8月31日からのキャッシー中島さん(取材当時64歳)の記事です。《2016年8月31日の記事》 皮膚がん[タレント キャシー中島さん](1)痛くもかゆくもない赤い点 17歳で芸能界デビュー。俳優の勝野洋さんとの間に3人の子どもを授かった。ハワイアンキルト作家としても活躍してきた。 明るくてパワフル。猛暑の中、全国を飛び回る。自らの青春時代を描いた舞台のほか、キルトの作品展や教室での指導。9月も、1日から大丸神戸店での作品展が控える。 「昨年までは、撮影がないと、すっぴんの日もあったけれど、今は必ず、日焼け止めクリームを塗っています」 今年1月、皮膚がんと診断された。右目の3センチぐらい下の場所だった。 異変に気づいたのは、昨年初め。赤い点ができた。だんだん膨らみ、夏には直径5ミリになった。痛くもかゆくもない。 「イボなら、そのうち取ろう」と様子をみていたが、不安になってきた。黒いかさぶたがぽろっと落ちても、その下にきれいな皮膚ができない。 受診には、ためらいがあった。「がんならイヤだし、たくさん切るのは怖いなって。まさか私がという気持ちもあって」 季節は秋に。背中を押してくれたのは、次女 雅奈恵かなえ さんだった。インターネットでいろいろ調べてくれた。 「ママ、絶対良くない。がんかもしれないから病院に行って」 すぐに知人に相談し、大学病院の予約をとった。 ◇ タレント キャシー 中島なかじま さん(64) 「皮膚がん」は自覚症状がありながら、「がん」だと気付きにくい「がん」の代表格かもしれません。 一人なら放っておいたかもしれないところですが、次女さんが調べてくれて病院に行こうと決心されたのはよかったと思います。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/10/04
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2016年9月2日の記事≫ (患者を生きる:3129)仲間と歩む がんになっても:5 情報編 患者参画で進んだ対策 がんは1981年に国内の死亡原因の1位になった。がん対策に取り組む国の動きを後押ししてきたのが、患者や家族の声だった。 2000年代、都市と地方で受けられる治療の格差解消や、海外で使われている治療薬を国内でも使えるように求める患者らの請願などの活動が活発化した。05年には患者団体の呼びかけで「第1回がん患者大集会」が開催された。 こうした患者らの声が大きなうねりとなり、議員立法による「がん対策基本法」の成立に向けた動きが進んだ。06年5月の参院本会議では、民主党(当時)の故・山本孝史(やまもとたかし)議員が、自身ががん患者であることを明かして対策を訴えたことも、推進力になった。 がん医療にかんする国の検討会のメンバーは当時、医療者や有識者らだったが、この法律で対策の基本となる「がん対策推進基本計画」を議論する協議会に患者や家族を入れることが盛り込まれ、患者参画が明確に定義づけられた。 協議会の初代会長だった日本対がん協会長の垣添忠生(かきぞえただお)さん(75)は「医師や看護師ががんになって初めて知ることがあるように、患者目線の声に気づかされることが少なくなかった」と振り返る。 NPO法人「がん政策サミット」理事長の埴岡健一(はにおかけんいち)さん(57)は「国にならって都道府県でも患者参画の枠組みづくりが進んだ。その後の肝炎やアレルギーなどほかの病気の対策にとってもモデルケースにもなった」と評価する。 07年に策定されたがん対策推進基本計画は12年に見直され、現在の協議会でも、次の見直しに向けた議論が進む。会長の門田守人(もんでんもりと)・堺市立病院機構理事長(71)は「従来の患者中心のがん対策に加え、さらに患者自体を生まない対策も重視していきたい」と話す。 がん対策基本法成立から10年の今年、法改正に向けた動きもある。連載で紹介した天野慎介さん(42)が理事長を務める「全国がん患者団体連合会」は、小児がん、希少がん、難治がんの対策や患者らの就労支援などを求める。 天野さんは「声を上げた患者たちのおかげで患者参画は進んできたが、10年たった今後は、より良い医療のために貢献できているのか、患者自身も問われていくと思う」と話す。がん対策推進基本計画(要旨)>「声を上げた患者たちのおかげで患者参画は進んできたが、>10年たった今後は、より良い医療のために貢献できているのか、>患者自身も問われていくと思う」 確かにそういう時代に入っていくのでしょうね。患者やその家族が、医療に貢献することが求められる時代になっていくのですね。 果たして、私は何ができているのか、何ができるのか。恥しい限りです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/09/05
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2016年9月1日の記事≫ (患者を生きる:3128)仲間と歩む がんになっても:4 社会の支援求めて発信 2002年、悪性リンパ腫と間質性肺炎の治療を受けたASさん(42)は、免疫力の低下が原因とみられるウイルス感染を左目に起こし、視力がかろうじて光をとらえる程度に落ちた。 「それでも生きている。失ったものを悲しんでいても仕方ない」 退院後、仕事をしながら、悪性リンパ腫の患者会「グループ・ネクサス」の中心メンバーとして、病気の情報をまとめた冊子の発行や医療関係者の講演会、患者の交流会や電話相談に取り組んだ。 04年春、経過観察の検査で腹部のリンパ節の腫れが見つかり、2度目の再発が疑われた。 「甘くないな……」。将来のことを思い描ける、と思い始めていた頃だった。 抗がん剤治療の後、主治医からは骨髄バンクを通じた移植を勧められたが、東京都内のがん専門病院にセカンドオピニオンを聞きに行き、すぐに積極的な治療はせずに経過観察することを決めた。 09年には、がん患者の声を受けて「がん対策基本法」により設置された厚生労働省の「がん対策推進協議会」の委員に選ばれた。 協議会ではがん対策の計画の見直しにかかわった。こだわったのは「がんになっても安心して暮らせる社会の構築」という文言だ。 治療に伴う経済的問題や周囲の無理解に苦しむ声を、患者たちの話でも聞いていた。患者の悩みは病院の中だけで解決できるものではなく、社会的支援が必要、という視点を盛り込みたかった。 数年前に会社を退職。患者会で知り合った妻の奈津子(なつこ)さん(44)らと活動に専念する。最後の治療から10年以上たっても、体調不良が続けば、再発の不安はよぎる。 「がんの部位や住む地域を越えて患者会が連携すれば、もっと政策の現場に声を届けられるはず」 各地の患者会に声をかけ、昨春には「全国がん患者団体連合会」を設立して理事長に就任した。 患者の立場で会議に参加する時は、いつも緊張する。まさに治療中の人、治療の末に亡くなった人など、数え切れない人たちの思いを背負っていると思うからだ。 「少しはがんばったんじゃない?」と、旅立った患者仲間たちにも思ってもらえたら、うれしい。写真(略)患者の立場から講演するASさん=7月、東京都文京区 ASさんの活動に敬服いたします。私は、こうやって新聞記事と私の経験をブログで紹介するくらいですが。それでも、少しはお役に立てているのではないかという思いがあり、続けることができています。 この記事に出てくるがん患者団体のホームページ「グループ・ネキサス」http://group-nexus.jp/nexus/「全国がん患者団体連合会」http://zenganren.jp/よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/09/04
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2016年8月31日の記事≫ (患者を生きる:3127)仲間と歩む がんになっても:3 再発・肺炎・視力低下 悪性リンパ腫の治療を受けたASさん(42)は、2001年ごろから、同じ病気の患者が集まるインターネット上の掲示板で、患者同士の交流を始めた。 02年初め、悪性リンパ腫の患者会をつくろうという人たちが中心になって、患者や家族が集まることになった。東京都内の会場で、約100人が顔を合わせた。 「こんなに仲間がいるんだ」 生身の触れ合いには、ネットにはない感動があった。悪性リンパ腫の患者会「グループ・ネクサス」の中心メンバーとして活動を始めた。 退院から1年足らずの5月末。定期的に受けていた検査で、悪性リンパ腫の再発を告げられた。 「しょうがないか」。再発の可能性は聞いてはいたので、頭では理解したつもりだった。それでも、心は動揺した。度重なる抗がん剤や移植による治療を受けた上での再発。いよいよ死が身近に迫ってきたような気がした。 そんな時、東京慈恵会医科大病院(東京都港区)腫瘍(しゅよう)・血液内科の当時の担当医、小笠原洋治(おがさわらようじ)さん(49)から声をかけられた。 「我々医師は、どのような状態になっても、できることがあると信じてがんばります。共にがんばりましょう」 その言葉に、救われる思いだった。「人の言葉や態度が、これほどの支えになるんだ」。放射線と分子標的薬「リツキシマブ」を使った治療を受けた。 しかし、治療を終えた秋、今度は、放射線治療の副作用とみられる肺炎が見つかり、通院して治療を受けた。11月になって、突然息苦しくなって倒れた。「間質性肺炎」と診断され、大量のステロイド剤の投与を受けた。 さらに数日後、左目の視野がぼやけるようになった。眼科を受診すると、目の網膜に、ウイルス感染が原因とみられる障害が起きていた。これまでの治療で免疫力が低下していたことが影響した可能性があるという。網膜剥離(はくり)を防ぐ手術を受け、抗ウイルス薬を点滴したが、視力の低下は避けられなかった。 悪性リンパ腫、間質性肺炎に加えて視力まで――。「どこまでだめになるんだ」。半ばあきれるような気持ちになった。患者会では病気の情報をまとめた冊子を発行し始めた「間質性肺炎」は初めて聞く病名です。調べてみました。(出典:ヘルスケア大学 http://www.skincare-univ.com/article/010030/)●間質性肺炎とは 肺は「肺胞」と呼ばれる、直径0.1~0.2mmの小さな袋がブドウの房のようにたくさん集まってできています。肺胞が伸縮して酸素と二酸化炭素の交換(ガス交換)を行い、呼吸をしています。この肺胞の中に炎症が起きるのが一般的にいわれる肺炎ですが、「間質性肺炎」とは、肺胞の壁や周辺に炎症が起こった状態を言います。炎症によって壁が厚くなり、肺全体が固くなります。その結果、肺の膨らみが悪くなり、ガス交換がしにくくなります。●間質性肺炎の原因 間質性肺炎は、原因の明らかなものとそうでないもので分類されます。原因が明らかなものには、以下のようなものがあります。・じん肺:空気中に浮遊する微粒子(粉じん)の吸入によるもの・過敏性肺炎:ほこりやカビ、ペットの体毛などをくりかえし吸い込んだことによるアレルギー性 のもの・薬剤性肺炎:抗がん剤や解熱消炎鎮痛薬、総合感冒薬(かぜ薬)などの薬剤によるもの・放射線肺炎:放射線を照射することによって起こるもの・感染症:インフルエンザやマイコプラズマなどの細菌やウイルスによる急性(一時的な炎症)のもの・膠原(こうげん)病にともなうもの:関節リウマチ、強皮症、皮膚筋炎、多発筋炎、 シェーグレン症候群など また、原因が分からないものは「特発性間質性肺炎」と呼ばれ、難病の特定疾患に指定されています。●間質性肺炎の主な症状と進行速度 主な症状は、「息切れ(呼吸困難)」と「空咳(痰のからまない咳)」です。息切れは、運動をしたときや坂道、階段などを上がるときなどに起きますが、病状が進行すると着替えなどの日常生活の動作にも支障が出ることもあります。 症状の進行速度は間質性肺炎の種類によって異なりますが、特殊なケースを除き、日常生活に支障が出るような状態になるまでには数年ほどかかります。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/09/03
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2016年8月30日の記事≫ (患者を生きる:3126)仲間と歩む がんになっても:2 日々の治療、ネットで公開 27歳の2000年秋、悪性リンパ腫で先の見えない入院生活を送っていたASさん(42)は、病院を抜け出て、電車で高尾山(東京都八王子市)に向かった。 行き詰まった気分を晴らすように山道を登り始めたが、体力が落ちていて続かない。紅葉が残る景色と行楽客の姿を見ていると涙が出てきた。「少なくとも今は生きているし、この世にはまだ見るべきものがたくさんある。自分でできる限りはがんばろう」。治療を受けようと腹をくくった。 抗がん剤治療に続き、医師からは自分の「造血幹細胞」を移植する治療を勧められた。血液のもとになる造血幹細胞を採取して冷凍保存しておき、大量の抗がん剤で治療した後、血液細胞の減少を回復させるため体内に戻すという。 治療後も再発の可能性はあり、「抗がん剤の副作用で不妊になる」と説明された。以前も聞いたことはあったがショックだった。「ほかの人はこんな時どうしているんだろう」。病棟は年配の患者が多く、同世代と話したかった。 01年初め、東京慈恵会医科大病院(東京都港区)に転院し、無菌室に入った。大量の抗がん剤による副作用はそれまでと比較にならないほどひどく、激しい吐き気やだるさに襲われた。ただ、病棟では、悪性リンパ腫や白血病など同じ血液がんの同世代の患者たちとの出会いがあった。治療が落ち着くと、談話室に集まっては仕事や結婚、将来のことを語り合った。 「いつか医療が進歩して、『昔は大変な治療をやっていた』と言えるといいね」とも話していた。 女性患者の1人は幼い3人の子どもの母親だった。治療中もジョークを交えながら周囲を明るく励ます存在だったが、間もなく亡くなった。その後も何人も患者仲間を見送った。「自分は、たまたま生かされている」と感じた。 「助からないとしても、この経験が後に続く患者に役立つのならば」と考え、日々の治療の様子をネット上に公開し始めた。副作用の様子や医師の言葉、血液検査の値、治療費まで詳細に書いた。 移植から約1カ月後、「腫瘍(しゅよう)細胞は死滅しているとみられる状態」と判断されて、退院した。数えてみると、最初の入院から222日目のことだった。無菌室で自分の造血幹細胞を移植する治療を受けた=東京都港区の東京慈恵会医科大病院>「助からないとしても、この経験が後に続く患者に役立つのならば」と考え、>日々の治療の様子をネット上に公開し始めた。>副作用の様子や医師の言葉、血液検査の値、治療費まで詳細に書いた。 私もブログで日々の治療の様子を綴りました。最初は、ブログに書くことで、毎日毎日生きているということを自分で実感できるし、見ず知らずの人ですが、誰かが私の生きている証を読んでいていくれることが励みになるという気持ちで書いていました。しかし、治療を続けるに従い、他の患者さんやご家族の役に立つかも知れないという気持ちも芽生えて続けてきました。抗がん剤治療の後の粒子線治療のときも同じように続け、その後の経過観察の様子は今も続けています。 それが、一番下の【関連カテゴリー記事一覧】です。特に「振り返り」のカテゴリーは体系的にまとめたものですので、それなりにお役に立つのではないかなと思います。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/09/02
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2016年8月29日の記事≫ (患者を生きる:3125)仲間と歩む がんになっても:1 病院から逃げ出したい 「車の両輪として、患者の権利擁護という視点が不可欠であると感じます」 7月初旬、東京都内であった厚生労働省のがんの診療体制に関する検討会の冒頭、血液がん「悪性リンパ腫」の患者会「グループ・ネクサス・ジャパン」理事長のASさん(42)が発言した。 理路整然とした語り口で、切実な患者の思いを訴える。その背景に、自らの闘病体験と、出会った患者仲間への思いがある。 26歳の会社員だったASさんは2000年秋ごろ、のどの違和感と高熱があり、受診した近所の耳鼻科で思わぬことを言われた。 「扁桃腺(へんとうせん)の腫れ方が以前に診た悪性リンパ腫の患者と似ている。念のため検査を受けてください」 聞いたこともない病名だった。紹介された総合病院で検査の後、告げられた。「悪性リンパ腫です。すぐ入院治療が必要です」 20代の自分をがんと、結びつけたこともなかった。「誤診ではないか」。しばらくは現実を受け止めきれなかった。会社を休職して東京慈恵会医科大第三病院(東京都狛江市)に入院した。 悪性リンパ腫は血液細胞のリンパ球のがんで、リンパ節と、胃や大腸などリンパ節以外の臓器にも発生することがある。ASさんは「びまん性大細胞型B細胞リンパ腫」というタイプで、腫瘍(しゅよう)はのど、胸部、腹部に広がり、4段階ある病期は進行した3期だった。 複数の抗がん剤を使う「CHOP(チョップ)療法」を受け、のどの腫瘍は消えた。だが、胸部の腫瘍には十分な治療効果が見られなかった。 副作用で体はだるく、手足がしびれた。何を食べても、口の中は薬の味がするような気がした。 「治療もうまくいってなさそうだし、治るのかもわからない。仕事や結婚はどうなるんだろう」 不安は募るのに、自分でできることといえば、体力をつけようと屋上を歩くぐらいだった。たとえ医師の言動に疑問を抱いても、治療は結局、ゆだねるしかない。投げやりになることが増えた。 「病院の無機質な薬のにおいから逃げ出したい」。入院から約2カ月たったある日、「近くのスーパーに行ってきます」と言い残して、病院を出た。写真(略):20代の頃の天野慎介さん。自分をがんと結びつけたことはなかった=1997年11月>複数の抗がん剤を使う「CHOP(チョップ)療法」を受け、のどの腫瘍は消えた 悪性リンパ腫は、抗がん剤で完治する可能性が大きい数少ない「がん」です。 私の罹った「悪性軟部腫瘍」を始め、ほとんどの「がん」は抗がん剤治療は延命治療でしかありません。自分が「がん」になって初めて知りました。私がそうであったように、一般の人は、ほとんどの「がん」が抗がん剤治療で完治する可能性が、そこそこあると思っているのではないでしょうか。 医者も抗がん剤治療を始めるとき、そこのところをはっきり言わないことが多いので、患者さんも抗がん剤に期待してしまうところがあるのではないでしょうか。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/09/01
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2016年8月26日の記事≫ (患者を生きる:3124)仲間と歩む 情報届けたい:5 情報編 治療法、自ら勉強し理解 連載で紹介した兵庫県宝塚市のTTさん(68)が設立した前立腺がんの患者・家族の会「腺友倶楽部(せんゆうくらぶ)」に寄せられる相談で最も多いのが、「どの治療法を選んだらよいのかわからない」だ。 前立腺がんの治療は、前立腺をすべて摘出する手術や放射線治療、ホルモン療法がある。前立腺特異抗原(PSA)の値やがんの進行度、悪性度に基づいてリスクを分類し、治療法を決める。しかし、がんが前立腺内にとどまっているケースは、選択肢が多くなる。「選択の幅が広い分、患者は悩みやすい」と北里大学の佐藤威文(さとうたけふみ)准教授(泌尿器科)は話す。 手術では、腹腔(ふくくう)鏡を使った場合は出血が少なく回復が早いとされる。放射線治療は、手術に比べて尿漏れや勃 起不全の恐れが少ないことが利点だ。がんが前立腺の外に広がっている場合や、転移・再発がある場合は、進行を遅らせるホルモン療法があるが、長く続けると効きにくくなる。こうした患者のための新薬3種類が、2014年に保険適用となった。 TTさんは相談に訪れた人たちに「治療法の選択で後悔しないためには、医師任せにするのではなく、患者自らが利点や難点を理解したうえで判断することが大切。患者も勉強する必要がある」と伝えている。 ただ、ネット上の情報は玉石混交で、根拠がはっきりしないものもある。がんについては、国立がん研究センターの「がん情報サービス」や、認定NPO法人キャンサーネットジャパンの「キャンサーチャンネル」が参考になるサイトの一つだ。日本医療機能評価機構の「医療情報サービス Minds(マインズ)」は日本でつくられた診療ガイドラインを紹介しており、標準的な治療法を知ることができる。一般向けの解説も掲載している。 全国に約400あるがん診療連携拠点病院には「がん相談支援センター」が置かれており、面談や電話による相談が無料でできる。別の医師に治療法などの意見を求める「セカンドオピニオン」という方法もある。 佐藤准教授は「治療法は、年齢や人生観などを踏まえ、患者が医師と一緒に決めるのが基本だ。迷ったら、主治医とよく相談してほしい」と語る。がんの情報が得られるサイトの例>「治療法の選択で後悔しないためには、医師任せにするのではなく、>患者自らが利点や難点を理解したうえで判断することが大切。>患者も勉強する必要がある」 その通りだと思います。昔は医者以外には、情報源は本くらいしかありませんでした。その本も、本屋さんに全部並んでいるわけではなく、どうしても売れやすい本しか並びません。今は、本を買うにしてもネットで検索して、網羅的に探すことが可能です。外に出るのが困難なときも、本が買えます。 それに何と言っても、ネット上の情報です。網羅的なだけではなく、患者さんや家族の闘病記など、患者側に立った情報もたくさんあります。 しかし、それでも知り得ないことがあります。私は、後腹膜悪性軟部腫瘍で、抗がん剤の後の治療として、主治医から透析をしたうえでの腎臓ごとの摘出(腎盂がんで、すでに片方の腎臓しかないため)を勧められました。私がネットで調べたなかでは、それ以外の解は見つかりませんでした。 ところが、腎臓ごとの摘出手術の後押しをしてもらおうと思って聞きに行ったセカンドオピニオンで、腎臓を温存できる治療方法として、粒子線治療の紹介を受けました。その治療をしている兵庫県立粒子線医療センターで診てもらったところ治療の対象になるとのことで、粒子線治療を受けました。現在、治療終了後、1年4ヵ月経過しましたが、透析はしていないので、普通の生活ができていますし、腫瘍の小さくなり方も順調です。 粒子線治療というのを知っていたら、そのキーワードを使って、私の「がん」が治療可能ということが分かったかもしれませんが、標準的な治療ではないので、逆の方法ではなかなかたどりつけなかったのだと思います。 このように、ネット検索は万能ではありません。セカンドオピニオンは是非活用して欲しいと思います。仮に新しい治療方法が見つからなくても、主治医から提案された治療方法に納得のうえ治療に臨めるというメリットがあります。この精神的効果は大きいと思います。>ただ、ネット上の情報は玉石混交で、根拠がはっきりしないものもある。 ネットが重要な情報源になっている昨今ですが、問題はここです。標準治療を全否定しているブログ記事も多く、そういった記事のほうが、かえってたくさん読まれていることが懸念されます。そういった記事はアピール度が高いためにそうなるのでしょうが。 私は専門家ではないので、なかなかそれを論破できませんが、少しでも良質の情報(断っておきますが、新聞記事すべてが正しいとは思っていません)に触れていただく機会を持っていただきたいと思い、こうやって新聞記事を紹介させていただいています。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/31
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2016年8月25日の記事≫ (患者を生きる:3123)仲間と歩む 情報届けたい:4 交流の集い、心の支えに 前立腺がんで放射線治療を受けた後、自身のサイトで情報発信をしている兵庫県宝塚市のTTさん(68)は2014年11月、患者・家族の会「腺友倶楽部(せんゆうくらぶ)」を設立した。患者が顔を合わせて交流する場が必要と考えたためだ。現在、約250人が会員登録している。 神戸市のSTさん(58)はその一人。医師に勧められた全摘手術に納得できず、治療法の選択に悩んでいたとき、武内さんのサイト「腺友ネット」に出合った。 「術後の転移が不安」「性機能は戻るのか」。掲示板で交わされる患者のコメントを読んで心が楽になった。「悩んでいるのは自分だけじゃない」。尿漏れなどを起こすリスクや体への負担を考え、手術ではなく、放射線治療を選んだ。治療後、患者会に入り、任意団体だった患者会のNPO法人化に向けて規約や事業計画づくりに奔走した。 今年7月、TTさんは東京で患者会セミナーを開いた。闘病を20年間続けている男性(79)が、約130人を前に体験を語った。 「リンパ節にも転移し完治しません」と告知された後、ホルモン療法を受けた。食事は玄米と野菜中心に切り替え、朝晩の体操や散歩も欠かさない生活を送っているという。「家族の助けもあって、この年を迎えられました」 TTさんは「よくこれだけ長い間、がんばってきてくれました」と男性をねぎらった。会場から大きな拍手がわいた。 「がんを克服した人が目の前にいることが、私たちを元気づけてくれる」。この集いは患者の「心の支え」になっていると感じた。 一人で悩みがちな性機能についても、正しい情報を伝えるのが自分の役割だと思っている。手術や放射線治療、ホルモン療法によって勃 起不全や射 精障害が起き、女性に魅力を感じにくくなる。武内さんも経験した。「がんが治った後も人生は続く。治療後のイメージをして治療法を考えてほしい」 TTさんは、前立腺がんなど男性特有のがんの啓発活動に力を入れている。ひげのシンボルマークを使う海外の活動にならい、11月に大阪、12月に東京で、おもちゃのひげをつけてウォーキングやランニングをするイベントを計画中だ。写真(略):今年7月に東京都内で開いた患者会セミナーで、会員らと記念撮影をするTTさん(前列左から3人目) ネットでの交流も患者やその家族の心の支えになりますが、やはり同じ病気を抱える人と会って話をするというのは、もっと大きな支えになると思います。私は「がん」になって、こういった患者の会の一つに登録はしていますが、会合には出席したことがありませんので、よく分かりませんが、家内が別の病気で、患者の会に入って、それが支えになって快復に向かったということがありました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/30
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2016年8月24日の記事≫ (患者を生きる:3122)仲間と歩む 情報届けたい:3 サイトを開設、悩み共有 前立腺がんと診断された兵庫県宝塚市のTTさん(68)は、希望する治療法にたどりつくまでに約1カ月かかった。海外のサイトで得た情報をもとに、当時最先端の「強度変調放射線治療(IMRT)」を京都大学病院で受けたのは診断から約4カ月たっていた。 「同じように治療法がわからず、悩んでいる患者を助けられないだろうか」。退院後、趣味のマラソンのことを書いていた自身のサイトに、闘病記を掲載した。約3万字に上った。「こんな治療法があるとは知らなかった」と反応が届いた。 治療法の解説ページもつくった。少しでも理解しやすいようにと、がんを暴走する車に例えてみた。血液中の前立腺特異抗原(PSA)は排気量、がんの進行度は走行距離、悪性度はドライバーに見立て、正しい道(治癒)に戻るため、まずは病態を知ることが大切と訴えた。内容は主治医の溝脇尚志さん(52)ら専門医にチェックしてもらった。 最新情報を届けたくて、前立腺がんに関する学会に年2、3回足を運んだ。治験が進む薬や新しい治療法の講演を、医師らに交じって聞いた。米国の診療指針も読み込んだ。米国では当時、「リスク分類」という考え方が広がっていた。PSAやがんの進行度、悪性度の指標を元にリスクを分けて治療法を選ぶのに用いられていた。「日本でも広まりそうだ」と、英文を訳してサイトに載せた。 情報量が増えてきたため、12年に専用サイト「腺友(せんゆう)ネット」(http://pros-can.net/別ウインドウで開きます)を開設した。解説ページを「前立腺がんガイドブック」と名付けた。アクセス数が増加し、患者同士で相談し合う掲示板には「みなさんがいるから厳しい状況でも希望を持てています」といったコメントが並んだ。 面談を求める患者もいて、これまで200人以上に会った。「勃 起や射 精はするんですか」と小声で尋ねられることがたびたびあった。手術や放射線治療を受けると性機能に障害が出ることがあるが、医師には聞きにくいためだ。 また、「患者会はないの?」という問い合わせも増えた。 「情報サイトだけでは救えない患者がいる」写真:自身のサイトへの書き込みを読むTTさん=兵庫県宝塚市(写真略) TTさんの活動、敬服いたします。学会に足を運ぶ、英文を訳してサイトに掲載するなどなど。そして立ち上げられた「腺友ネット」のサイトも素晴らしいです。 特にここにも登場する「前立腺がんガイドブック」の内容は本当に充実していて、患者さんやその家族のバイブル的な存在になるのではないかと思います。医師や看護師のためにも、患者側の視点にたったガイドブックということで、大いに参考になるのではないかと思います。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/29
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2016年8月23日の記事≫ (患者を生きる:3121)仲間と歩む 情報届けたい:2 サイト翻訳、治療法知る 前立腺がんと診断された兵庫県宝塚市のTTさん(68)は2004年12月、セカンドオピニオンを求めた大阪市内の病院で「5年生存率は20%」と告げられた。最初に診てもらった地元の病院でその内容を伝えると、医師から「はっきり言われましたねえ」と言われた。2人の医師から突き放されたような気がした。 「勉強するしかない」。手術が難しい前立腺がんを治すことができ、副作用も少ない放射線治療はないのか調べることにした。 昼間は経営していた大阪市内の設計事務所で、夜は自宅でネット検索をし、医療機関のサイトや患者のブログに目を通した。読んだ本は10冊近く。だが、知りたい情報はなかなか見つからなかった。 当時は学会による前立腺がんの診療指針はなく、公的な情報サイトも整っていなかった。 一方、米国がん協会など海外のサイトには、治療法や副作用がわかりやすく書かれていた。ネットの翻訳機能や辞書を使って読み進めた。 検索を始めて約10日後、米国で普及している「強度変調放射線治療(IMRT)」を見つけた。コンピューターで放射線の強さを制御し、高い精度でがんの形に合わせて照射できるという。このため、周囲の正常な組織への影響を抑えつつ、がんにより強い放射線を集中できるメリットがある。 日本では京都大学病院で実施していることがわかった。前立腺がんの専門外来を受診すると、泌尿器科の医師に「根治率は50%」と説明された。放射線治療科の溝脇尚志(みぞわきたかし)准教授(52)からは、1日2グレイずつ計78グレイ照射する計画を示され、「がんばっていきましょう」と激励された。「治るかもしれない」と希望が持てた。 05年4月に入院。放射線を当てるときは、台の上にうつぶせになり、器具で体を固定された。照射は1回約20秒。角度を変えて5回繰り返した。十数分で終わった。痛みはない。2カ月間の入院中にこの治療を計39回受けた。 前立腺特異抗原(PSA)の値は次第に下がり、がんの大部分は消えた。落ち着きを取り戻してくると、こう思った。 「治療法を知るのに、なぜあれほど苦労したのだろう」京都大病院で放射線治療を受けるTTさん=2005年6月>検索を始めて約10日後、米国で普及している「強度変調放射線治療(IMRT)」を見つけた 当時(2004年)であれば、ネットにはまだ「がん」治療の情報はやはり少なかったのでしょうね。でも、このTTさんは、セカンドオピニオンでも、別の治療が見つからず、ご自分で懸命にネット検索して、IMRTという治療を見つけられました。 私も主治医から告げられた治療法を選択せずに、別の治療法を選択したのですが、プロセスが少し違います。 私は「後腹膜悪性軟部腫瘍」に罹り、抗がん剤治療を受け、11センチあった腫瘍が6センチまで小さくなりました。しかし、根治は無理なので、主治医から腎臓ごとの切除を勧められました。過去に腎盂がんで片方の腎臓を切除していますので、もう一つの腎臓をとるためには、透析ができるようにしてから切除をする必要があります。 抗がん剤治療のとき、セカンドオピニオンを2ヶ所聞きに行き、両機関とも抗がん剤治療がその時点ではベストとのことだったので、迷いなく抗がん剤治療に臨むことができました。その経験があったので、透析したうえでの残った腎臓ごとの切除を勧められたときも、その治療がベストとの後押しをもらいたくて、セカンドオピニオンをまた2ヶ所聞きに行きました。 ところが一つの医療機関(大阪府立成人病センター)のセカンドオピニオンで、治療可能かどうかわからないが、腎臓を温存する治療法として、重粒子線治療があるということを知らされました。その医療機関(兵庫県立粒子線医療センター)で診てもらったところ、治療可能とのことでしたので、最終的に腎臓を温存したまま、重粒子線治療を受けました。 治療終了後1年3ヵ月経過していますが、腫瘍は3センチまで小さくなり安定しています。副作用の腎不全を示す指標も高止まりしているようです。腎臓を温存したので、普通の生活ができており、最近、新たな仕事に就いて、社会復帰も果たしました。 再発、腎不全のリスクを抱えてはいますが、こうやって生活できているものセカンドオピニオンのおかげです。主治医に「粒子線治療」を受けると告げたとき、主治医は「あなたの腫瘍が粒子線治療の対象になることも知りませんでした。」とのことでした。標準医療でない場合、治療方法の候補にもならないことがあるということです。セカンドオピニオンでも粒子線治療が候補として、出てこない可能性も大きかったわけで、私は本当に幸運だったと思います。 当時私もネットで調べましたが、この粒子線治療には行き当たりませんでした。あとで調べると「粒子線治療」で検索すると「悪性軟部腫瘍」が治療対象になることが分かりました。私は「粒子線治療」という言葉さえも知らなかったので、治療法からアプローチするのはできなかったのです。 TTさんの時代に比べると、ネット情報は充実していると思いますが、有効な情報に行きつかどうかは、検索方法にも大きく左右されるという典型的な例だと思います。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/28
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2016年8月22日の記事≫ (患者を生きる:3120)仲間と歩む 情報届けたい:1 詳しい説明求めたが 兵庫県宝塚市のTTさん(68)は毎晩、自宅でパソコンに向かう。見るのは、自身が立ち上げた前立腺がん専用サイト。アクセス数は1日600件を超す。 「治療法がわかりません」「術後の尿漏れに困っていて」……。 そんな相談への返信は、1日20通以上になる。寝るのはいつも午前2時すぎ。患者に向けた情報発信を10年近く続けている。原点は自身の闘病体験だ。 2004年10月、排尿の勢いが弱まり、トイレの回数も増えたため、地元の病院を受診した。それまで健康には自信があった。40歳からマラソンを始め、100キロ超のウルトラマラソンも30回以上完走した。しかし、直前にあった視覚障害者のマラソン大会で、伴走中にトイレに何度も駆け込んだ。記録をめざす選手に迷惑をかけてしまい、病院に行く気になった。 泌尿器科の医師からは前立腺肥大症と言われ、念のため血液検査を受けた。3日後、悪性腫瘍(しゅよう)の疑いを伝えられた。 血液中の前立腺特異抗原(PSA)の値は147。医師から詳しい説明はなかった。翌日、ネットで調べてみると、PSAは前立腺がんになると増加する物質で、正常値は4以下だった。「かなり進行しているのか」 病院で前立腺に針を刺して組織を調べた結果、11カ所のうち10カ所からがんが見つかった。前立腺全体ががん化しており、一部はがんが皮膜を突き破っていた。医師は「がんを取り残す恐れがある」として、手術は難しいとの見立てを示した。この病院では放射線治療をしていなかった。 同年12月、セカンドオピニオンを受けるため、ネットで探した大阪市内の病院を訪ねた。検査結果を見た泌尿器科の医師も、手術は難しい状態と言い、放射線治療を勧めた。そして、「5年生存率は20%です」と告げた。 PSAの異常値から、画像に写らない微小ながんの転移があると医師は判断したようだった。放射線治療の詳しい説明を求めると、「改めて来院してください」。 木枯らしの中、電車を乗り継いで帰宅した。「5年生存率20%」が頭から離れなかった。「あと数年しか生きられないのか」視覚障害者マラソンの伴走をするTTさん(左)=2001年11月(写真略)>「5年生存率20%」が頭から離れなかった。「あと数年しか生きられないのか」 私は、後腹膜悪性軟部腫瘍に罹ったとき、放置すれば余命数週間から数ヵ月と言われました。抗がん剤治療をしましたが、生存率については話はありませんでした。 セカンドオピニオンでは、抗がん剤が効く可能性は、3割以下と言われましたが、生存率の話はここでもありませんでした。 ネットで色々調べましたが、5年間生存率は、「がん」のタイプによって、大きく違うようで、平均70%程度とのことでした。 詳細な病理検査の結果「脂肪肉腫」と判定されました。しかし、より細かい分類で5年生存率は、大きく違うとのこと。高分分化型なら10年生存率でも90%以上、粘液型で5年生存率70~80%、円形細胞型,多形型が最も予後が悪く、5年生存率は20~50%とのことでした。病理検査で、高分化型だが、そうでないものが混在している可能性はあるとの判断で、結局、5年生存率はよく分かりませんでした。 抗がん剤治療で、11センチあった腫瘍が6センチまで小さくなり、その後の重粒子線治療で3センチくらいまで小さくなりました。現在経過観察中ですが、大きさは3センチ程度を継続しています。治癒していてもCT画像上は残る場合も多く、重粒子線治療担当医は順調だと言ってくれています。 発病から2年経過、重粒子線治療終了から1年3ヵ月、このまま腫瘍が小さいままいてくれることを、3ヵ月のCTのたびに祈っています。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/27
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2016年8月19日の記事≫ (患者を生きる:3119)仲間と歩む フットサルで:5 情報編 患者が積極的に提言を 連載で紹介したフットサルチーム「湘南ベルマーレ」の久光重貴さん(35)は2014年4月から、日本肺癌(がん)学会の「肺がん医療向上委員会」で広報大使を務めている。肺がんの治療を受けながら現役選手として活躍していることを知った学会から誘われた。年に数回、学会や講演会で、自身の体験を語り、患者の立場から医療者への注文もしている。 肺がんの患者団体をめぐっては、15年11月、地域で活動する5団体で「全国肺がん患者会連絡会議」が設立された。 呼びかけたのは「神奈川・東京肺がん患者の会『ワンステップ!』」の代表、長谷川一男(はせがわかずお)さん(45)。10年にステージ4の肺がんと診断された。抗がん剤治療を受けながら「ワンステップ!」を立ち上げ、さらに「全国組織をつくってみよう」と考えた。現在は「日本肺がん患者連絡会」に改称し、6団体が加盟する。肺がん患者にとっての課題などを情報交換し、患者と医療者をつなぐ活動をしている。 この取り組みにも学会が協力している。会議の場所の提供や、運営への助言をしている。肺がん医療向上委員会の中西洋一委員長(九州大学教授)は「患者中心の治療をするには、患者側からの提言や要望が欠かせない」と話す。 連絡会は15年12月、新しいタイプの抗がん剤「オプジーボ」が肺がんでも承認されるのを前に、初回の治療は慎重に経過観察できるように入院をしやすくする措置を求める要望書を、学会と連名で厚生労働省に提出した。02年にイレッサが発売された直後、副作用の間質性肺炎による死亡が相次いだことをふまえた。 今年7月には、長谷川さんと連絡会メンバーの山岡鉄也(やまおかてつや)さん(55)が、神戸であった日本臨床腫瘍(しゅよう)学会で講演した。2人は、治験の情報を患者が入手しづらい状況にあるとし、「公平で、積極的な提供を」と医療者に訴えた。 15年に米国で開かれた肺がんの世界会議に参加した山岡さんは、患者からの「政策提言」が議題の一つになり、患者と医師が対等に話し合っていることに驚いた。「日本でも、患者が積極的に医療政策に関わっていくことが重要になっていく」と語る。日本肺がん患者連絡会に参加する団体 現在では、色んな患者団体があるようです。医療側の視点と患者側の視点は異なります。両方重要です。患者団体の横の連携を強化して、患者側の視点からの提言が、今後さらに医療政策に活かされるようになることを望みます。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/26
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2016年8月18日の記事≫ (患者を生きる:3118)仲間と歩む フットサルで:4 小児がんの子ら、支援 フットサルチーム「湘南ベルマーレ」の選手、久光重貴さん(35)は肺腺がんと診断されて約1年4カ月たった2014年10月、それまで使っていた分子標的薬のイレッサが効かなくなっていることがわかった。右肺のがんが再び大きくなってきていた。 神奈川県立がんセンター呼吸器内科の主治医、斎藤春洋(はるひろ)さん(52)に「治験という選択肢があります」と言われた。 治験は、医薬品や医療機器として国の承認を得るために実施される臨床試験。斎藤さんから、効果もリスクも十分にわかっていない段階であると説明されたが、久光さんは参加を希望した。 「新しい薬にチャレンジして、もし死ぬことになったとしても、その情報は次の患者のためになる。いつも呼びかけている『共に前進しましょう』の一つだ」 治験で使われるのは「タグリッソ」という新しい分子標的薬。久光さんは、がんがイレッサに耐性を持ってきていることや、特定の遺伝子変異があることなど、参加の条件を満たしていた。日本を含めた国際的な治験に、15年3月から参加した。 まず半年ほど、抗がん剤のシスプラチンとアリムタを点滴した後、11月からタグリッソを1日1錠飲み始めた。副作用はイレッサと比べて少なく、がんは小さくなった。治験はいまも続いている。 タグリッソは先行した別の治験データなどをもとに、日本では16年3月に承認された。 久光さんはがんに関する活動にも取り組む。日本肺癌(がん)学会の広報大使と、小児がん患者を支援する「フットサルリボン」だ。15年には活動を運営する「リングスマイル」を立ち上げ、フットサルチーム「デウソン神戸」の鈴村拓也(すずむらたくや)選手(37)とともに代表理事に就いた。鈴村さんは12年に上咽頭(いんとう)がんと診断され、翌年復帰している。 今年8月。両チームの試合後、会場出口のブースに久光さんと鈴村さんが並んだ。 「毎年2千人が小児がんと診断されています。そんな子どもたちを助けてください」 募金を呼びかけると、ファンたちが次々と応じた。久光さんはお礼に、ファンのTシャツや色紙にサインをし続けた。試合後、募金を呼びかける久光重貴さん(右)と鈴村拓也さん=神戸市のグリーンアリーナ神戸 リオ五輪のヨット競技では、肺がんで片方の肺を摘出したアルゼンチンの54歳の選手が優勝しました。 がんを患った、あるいは治療している著名人の活躍は、患者やその家族に勇気を与えてくれます。なかでもスポーツ選手は身体が資本みたいなところがあるので、なおさらです。 久光選手、鈴村選手、がんばってください。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/25
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2016年8月17日の記事≫ (患者を生きる:3117)肺がん 仲間と歩む フットサルで:3 試合後の反響に胸熱く 神奈川県立がんセンター(横浜市)で肺腺がんの治療を受けているフットサルチーム「湘南ベルマーレ」の久光重貴さん(35)は、2014年2月にあるホーム最終戦で復帰することを決めた。 「フットサルよりも、治療に専念を」と言う友人もいた。しかし、「フットサルがあってこそ、僕の人生」とできるだけ早い出場を希望した。 復帰すると聞いた主治医の斎藤春洋(はるひろ)さん(52)はこう助言した。「いま飲んでいる分子標的薬は、治療しながら日常生活を送れることがメリットです。久光さんにとってフットサルは日常生活ですから、がんばってください。ただ、無理はしないように」 厳しい練習をこなしつつ、2週間に1度は病院へ通い、がんの状態を調べた。選手登録の前日の検査で、肝機能、白血球、赤血球など数値がすべて平常値になり、斎藤さんとチームのトレーナーから試合出場を許された。 試合の3日前、チームのホームページで「選手登録」を知らせるニュースリリースが出た。 「治療を続けていても走れる姿を見てもらい、『がん』という病気が今は怖い病気ではないことを、自分の身体で体現していきます」 自分の思いを伝えた。 ただ体調は万全ではなかった。負荷の高いトレーニングで、右太ももが肉離れを起こしていた。 当日、痛め止めを飲み、足にテーピングをして、先発でピッチに立った。前半と後半それぞれ1分間出場したが、得点できなかった。1―5で敗れた。 沈んだ思いで、会場の出口で帰途につくファンを見送った。 「勇気をもらったよ」「毎日、嫌なことはいっぱいあるけど、がんばってみるよ」 目の前を通っていくファンから次々と声をかけられた。 試合後も、ファンやサポーターだけでなく、闘病中の人から「また見に来たいから、しっかり治療します」「生きるって、やっぱりすばらしいことなんですね」と手紙やメールが届いた。 「がん患者の僕がプレーするだけで、こんなふうに感じてもらえるんだ」 久光さんは胸が熱くなった復帰戦の終了後、花束を手にファンにあいさつした久光重貴さん>「治療を続けていても走れる姿を見てもらい、『がん』という病気が今は怖い病気ではないことを、自分の身体で体現していきます」 私は、二度「がん」に罹っています。最初の腎盂がんは早期発見だったし、片方の腎臓を取ってしまえば、何ら不自由なく過ごせるとのことだったので、あまりショックはありませんでしたが、その後罹った後腹膜軟部肉腫では、抗がん剤が効く可能性は高くても30%くらいと聞き、さすがにショックでした。しかし、幸いにも抗がん剤が効き、その後、片方しかない腎臓を温存できる粒子線治療を受け、経過観察まで持ち込むことができました。再発のリスクや腎不全(透析が必要)のリスクを抱えてはいますが、普通の生活を送ることができています。 「がん」は、昔に比べると、治療の技術も進歩し、治療の方法の選択肢も広がっています。しかし、患者や家族は、「がん」に罹ったとき、そのような過去の進歩は普通は知りません。どうしても「不治の病」ととらえがちで、それだけで気持ちが萎えて、治療にマイナス方向に作用したりするのではないでしょうか。 この久光選手や例えば鳥越俊太郎氏のように、がん患者である著名人が、仕事を続ける姿を見せることは、がん患者やその家族に勇気を与えると同時に、がんのことを正しく認識する機会を与えてくれるのではないかと思います。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん剤治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん剤治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/24
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2016年8月16日の記事≫ (患者を生きる:3116)肺がん仲間と歩む フットサルで:2 服薬して7カ月、復帰戦へ フットサルチーム「湘南ベルマーレ」の選手、久光重貴さん(35)は2013年6月に肺腺がんと診断された。翌7月、治療先として選んだ神奈川県立がんセンター(横浜市)に入院した。 がんはすでにリンパ節に転移していた。呼吸器内科の主治医、斎藤春洋(さいとうはるひろ)さん(52)は、肺がんの分子標的薬のイレッサを使う治療計画を立てた。分子標的薬は、がん細胞の増殖にかかわる特定のたんぱくや遺伝子を狙い撃ちにする薬。イレッサは錠剤で、1日1回、空腹時に1錠飲む。 治療前の遺伝子検査で、がん細胞に変異があることがわかり、イレッサの高い効果が期待できた。重い副作用に備えるため、入院したまま服用を始めた。 10日ほどで退院したものの、自宅では副作用とみられる下痢や湿疹に悩まされた。唾液(だえき)が減って味覚も失われ、食欲がなく、全身の筋肉が落ちていった。それでも約2カ月後には、約3センチあったがんが半分程度まで小さくなった。 「いつまでも寝てばかりいられない。待っているサポーターのために『復活』しなければ」 ベッドから出て、10メートル、20メートル、30メートルと歩く距離をのばした。歩けるようになると、自宅近くの公園などで軽く走った。ボールをけり始めると「ボールってこんなに重かったかな」と驚いた。 練習で活用したのが、指先に付けて血液中の酸素量と脈拍数を測る「パルスオキシメーター」だ。どんな数値のときに、体の動きがよいのかを探った。 14年の年明けから少しずつチームの練習に参加した。「無理するな」と仲間から声をかけられた。どうしたらチームに貢献できるかだけを考えた。 練習を重ねるうちに、最大3分間は全力でプレーできる手応えをつかんだ。フットサルは前後半20分ずつの試合中に何度でも選手交代ができるため、「3分間のベストプレー」をどれだけ繰り返せるかが課題になった。 苦しいとき、頭に浮かぶのは入院直後にサポーターと交わした「必ず戻る」という約束だった。 服薬開始から約7カ月後の14年2月、ホームの小田原アリーナである最終戦で復帰することが決まった。入院中、ベッドに横になっているときも、フットサルボールを足にはさんで感触を確かめた>10日ほどで退院したものの、自宅では副作用とみられる下痢や湿疹に悩まされた。 私の後腹膜軟部肉腫の最初の治療は抗がん剤治療でした。幸い、副作用で食欲不振や下痢になったのは、各クールの入院している間の5日間くらいで、それ以外は、普通に生活できました。白血球数が低下するので、感染症にならないよう外出は控えましたが。 見舞いに来ていただいた皆さんは、先入観で、もっと悲惨な状況と思っていたようで、結構元気なのに驚いていました。 脱毛もありましたが、全部抜けるということはありませんでした。自分では結構気にしていたのですが、もともとが既に薄かったので、皆さん「あまり変わりませんんやん。」と言っていただきました。嬉しいやら悲しいやら。 当然、薬の種類や濃度にもよりますが、同じ処方でも、個人差が大きいようです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/23
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2016年8月15日の記事≫ (患者を生きる:3115)仲間と歩む フットサルで:1 必ず戻る、みんなのため 日本フットサルリーグ(Fリーグ)の湘南ベルマーレに所属する久光重貴(ひさみつしげたか)選手(35)は今年7月、神奈川県寒川町での練習を終えると、電車で千葉市の千葉大学病院に向かった。久光さんは一線で活躍すると同時に、肺がんの治療を受けている。 千葉大学病院では、同じ肺がんの男性会社員(52)と会うことになっていた。男性は知り合いの医師が担当する患者。フットサルのファンで、プレーもしているということだった。医師を通じてサインを頼まれ、「せっかくの機会だから」と直接話をしてみることにした。 院内の会議室で2人は向き合った。はじめは湘南ベルマーレの戦績などをしゃべっていたが、やがて男性が病気の悩みを打ち明けた。 半年ほど前に肺がんがわかった男性は、リンパ節に転移があり、分子標的薬による治療を続けている。「副作用で、下痢が止まらなくて困るんです。5分おきにトイレに駆け込みます。朝に始まると、会社を休まなければならないこともあるんです」 「僕もありました」と久光さんは答えた。食べたものをすべてノートに記録し、下痢をしやすい食べ物を調べた体験を語った。「僕の場合、無農薬野菜中心の食事にしたらだんだんよくなりました」 別れ際、持参したチームの公式ボールとクリアファイルにサインをし、男性に手渡した。ファイルには「共に前進しましょう」と書き添えた。 がん患者にサインするときに、必ず入れる言葉だ。 ◇ 久光さんが肺がんと診断されたのは13年6月。湘南ベルマーレに入団して6年目の31歳だった。 開幕前に受けた健康診断がきっかけとなった。トレーナーから「ちょっと気になることがあるので、再検査をしてくれ」と言われた。勧められた大学病院でX線やMRI、PET検査を受けた。 「肺腺がんです」 医師に結果を告げられた。肺腺がんは肺がんの一種。肺の末梢(まっしょう)にでき、肺がんの中で日本人にもっとも多い。 「そう来たか」 久光さんは最近疲れやすさを感じていたが、年齢のせいだと思っていた。ただ、病院から母親の同席を求められたことから、深刻な病気かもしれないと覚悟もしていた。 「治療はどのくらいで終わりますか?」。練習を再開できる時期を知りたくて質問した。医師からは、右肺の上葉に3センチほどのがんがあり、リンパ節に転移していて、手術も放射線治療もできないと説明された。「抗がん剤治療が半永久的に続きます」 そして、「余命の話をしますか?」と尋ねられたので、「聞きたくありません」と断った。たとえば「余命2年」と言われれば、2年間をどう生きるかで頭がいっぱいになってしまい、その先の夢や目標を持つことが難しくなると考えたためだ。 「いままで通り、Fリーグの頂点を目指して、1日1日の練習を積み重ねながら、人生の夢を追っていこう」 心の中で誓った。 ◇ 約1カ月後の13年7月9日、チームのホームページで、久光さんが肺腺がんと診断されたことが発表された。その6日後にあったホーム開幕戦には、病院から外出許可を取って、会場の小田原アリーナであいさつした。 「チームや選手を、いままで以上に応援し、後押ししてください。その姿を見て、自分もがんばる力をもらいます。必ずここに戻ってくるので、またそのときは笑って会いましょう」 観客席を埋めた約3千人のサポーターから歓声と拍手がわき上がった。この瞬間、がんを治すことは自分だけの目標から、みんなの目標になったのだと受け止めた。 「がんは自分一人で向かい合うのではなく、みんなで向かい合う。僕のためだけではなくて、みんなのために、がんと闘おう」 * ひさみつ・しげたか 1981年、横浜市生まれ。ヴェルディ川崎ジュニアユースをへて帝京高校サッカー部に。卒業後、フットサルを始める。2002年に「カスカヴェウ」(現ペスカドーラ町田)に入り、08年に湘南ベルマーレに入団。09年には日本代表に選ばれる。13年6月、肺がんと診断された。現在も現役を続ける。背番号5。ニックネームは「ヒサ」。身長175センチ、体重74キロ。チームのメンバーと練習に励む久光重貴さん=神奈川県小田原市肺がんの男性と語り合う久光さん=今年7月、千葉大学病院久光さんが男性に贈ったサイン。「共に前進しましょう」と書かれている>「余命の話をしますか?」と尋ねられたので、「聞きたくありません」と断った。 私が後腹膜悪性腫瘍を宣告されたとき、何もしなければ「余命数週間から数ヵ月」と家族には話がありました。結局、抗がん剤治療しか選択肢はなく、抗がん剤治療をしました。抗がん剤治療をした場合の、余命は聞きもしませんでしたし、主治医からも話はありませんでした。しかし、セカンドオピニオンでの話や、ネットで調べた内容からは、5年のうちに死ぬ確率は非常に高いというのが明白でした。 最初はショックでしたが、不思議と仕事の引き継ぎや、京都検定の勉強を一生懸命することができました。死ぬなら、発つ鳥あとを濁さずで、ちゃんと引き継ぎをし、京都検定1級を合格したうえで死にたいと、そんな気持ちになっていたような気がします。 その後、効かないといわれた抗がん剤が効き、腫瘍の大きさが半分近くまで小さくなりました。さらに、残っている片方の腎臓(すでに腎盂がんで片方の腎臓を摘出している)を温存する方法として、粒子線治療を受けました。現在経過観察中で、腫瘍の大きさは、さらに小さくなって安定しており、普通の生活を営めています。 効かない可能性が大きいと言われた抗がん剤治療を、前向きな気持ちで受けたのがよかったのかもしれません。「病は気から」というのは大いにあるのではと思います。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/22
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。 2016年5月~6月の竹原慎二さん(取材当時44歳)の記事です。≪2016年6月22日の記事≫ [ボクシング元世界チャンピオン 竹原慎二さん]膀胱がん(6)13時間の手術、出血1リットル 手術は13時間かかった。開腹せずに、腹部に開けた小さな穴から内視鏡カメラと、細かい作業をする医療ロボットのアームを入れた先端技術で行われた。 痛みや出血量は少ないと言われていた。だが、1リットルの出血があり、とても痛かった。「でも、ボクシングで痛みに耐えるのは慣れていたから。術後半年の検査で良い結果が出て、ようやく一安心できました」 全摘の 膀胱(ぼうこう) の代用として腸で作った膀胱は、尿がたまりすぎないよう、必ず2~3時間おきにトイレに行く。「寝ている時も、目覚まし時計をかけてきちんと行っている。慣れたので、不便は感じません」 入院・手術費や、がんの抑制に良いと言われるものを試すなどして、1000万円かかった。今月で手術から2年たち、順調な回復を実感している。ジムでの指導も再開している。 「がんがわかってから、女房がオレのことを本当に大事にしてくれて……。もし一人だったら、とっくにあきらめていたでしょう」。今後の目標は、夫婦2人での富士山登山だ。 「広島の粗大ゴミ」だった少年が、1か月で10キロ近く減量する厳しい練習に耐え、世界チャンピオンになった。そのプライドを心に秘め、「がんKO」の闘いが続く。>入院・手術費や、がんの抑制に良いと言われるものを試すなどして、1000万円かかった。 私の後腹膜軟部肉腫の治療ではいくらかかったか、まとめておきます。◆抗がん剤治療(8ヵ月間)・入院・診察・セカンドオピニオンの自己負担額 約99万円 うち医療保険で入院60日分X6,000円カバー CVポート設置手術 60,000円カバー 実質負担 約57万円・交通費(家族の付き添いや見舞も含む) 約24万円・合計 約81万円詳しくは~http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201504290000/◆粒子線治療(2ヵ月間)・粒子線治療本体 2,883,000円です。 うち医療保険の先進医療特約カバー 1,560,000円・入院費・事前の診察の自己負担分 \267,000 でした。 入院保険はすでに抗癌剤治療で規定日数分使い果たしてしまっていて補てんなし。・合計自己負担額 1,590,000円 でした。・交通費・宿泊費約81,000円。・総合計 約167万円となりました。詳しくは~http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201505310002/◆抗がん剤治療+粒子線治療合計自己負担額 約248万円 私は、この竹原氏のように、あれこれ試してませんので、これ以外に、特に出費はありませんでした。 これくらいの出費で、今も普通の生活が送ることができており、幸運です。 私の経験を友人や後輩に話すとき、「がん保険」は保険掛け金も高くなるので、強力に勧めはしませんが、「先進医療特約」は掛け金がそれほど高くなるわけではないので、強く勧めるようにしています。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/21
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。 2016年5月~6月の竹原慎二さん(取材当時44歳)の記事です。≪2016年6月15日の記事≫ [ボクシング元世界チャンピオン 竹原慎二さん]膀胱がん(5)全摘手術にも「絶対に勝つ」 自覚症状を感じてから1年後の2014年1月、専門医の精密検査を受けた。 膀胱ぼうこう がんだった。尿をためておく膀胱の奥に直径2・5センチの大きながんの塊があった。病巣が膀胱の内部組織に拡大。膀胱の周りのリンパ節に転移していた。 「何人かの医者にも診てもらい、『早いと1年以内……』と言われたこともあった。42歳で死ぬんだ、と毎晩泣きました」 抗がん剤治療の副作用で髪の毛が抜けた。11キロもやせた。医師から、膀胱の全摘出と、尿をためておく袋(ストーマ用装具)の装着を告げられた。 「ストーマに尿代わりの300ccの水を入れて腰につけてみた。泣きそうになった。これからずっとつけるのは、耐えられないと思いました」 夫人は「あなたを必ず治してあげる」と情報集めに懸命だった。専門書を何冊も読み、重要なことを記したノートの表紙には「無知は罪」と書いた。がんに良いと言われるものは、全国から取り寄せたり、料理したりした。 病院を探し回り、膀胱の全摘は避けられないが、自分の小腸の一部を切り、それで新たな膀胱を作る治療法が見つかった。 「これなら、ストーマがいらないので、希望が出てきた。妻のノートに『俺は世界チャンピオンになった人間だ 絶対に勝つ』と書いて手術に臨みました」>夫人は「あなたを必ず治してあげる」と情報集めに懸命だった。 後腹膜軟部肉腫に罹ったとき、抗がん剤治療を勧められました。私は意気消沈していましたが、家内や娘たちが、ネットで色々調べてくれて、セカンドオピニオンを2ヶ所行きました。このときは、2つのセカンドオピニオンとも抗がん剤治療が現状ベストとのことで、迷いなく抗がん剤治療に臨むことができました。 抗がん剤治療を受けた後、腫瘍が半分程度に小さくなり、片方しか残っていない腎臓(すでに腎盂がんで片方摘出しているので)ごとの摘出を勧められました。透析が前提になります。それも止むを得ないと思いながら、抗がん剤治療前のときと同じ医療機関2か所にセカンドオピニオンを聞きに行きました。 一つの医療機関のセカンドオピニオンで腎臓を温存できる方法として、粒子線治療があるとの情報を得ました。結局、この粒子線治療を受け、現在のところ、腎臓を温存して、透析をすることなく、普通の生活ができています。 最初、家族の勧めでセカンドオピニオンを聞きに行ったことが、あとあと適切な選択をするきっかけになりました。 「がん」になると本人は意気消沈して、情報を集める気力もなくなりがち。情報集めのうえでも、家族のサポートは大切なものだと実感しています。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/20
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。 2016年5月~6月の竹原慎二さん(取材当時44歳)の記事です。≪2016年6月8日の記事≫ [ボクシング元世界チャンピオン 竹原慎二さん]膀胱がん(4)第二の人生満喫…今度は血尿 店員のアルバイトが見つかった。仕事に行く夫を、新妻は温かく送ってくれた。 「世界チャンピオンのプライドを捨てて、今を懸命に生きようと心を切り替えることができました」 母がやっていたように、自分の店を持ちたかった。引退から2年半後の1999年、イタリアンレストランを開店させた。 間もなく、テレビ局から出演依頼があった。バラエティー番組「ガチンコ!」で、若者をボクサーに育て上げる指導を頼まれた。スパルタ指導の鬼コーチを3年務め、高視聴率を支えた。 30歳から通信制高校で学び始めた。また、一般の人が楽しみながらボクシングで体を鍛えられる「ボクサ・フィットネス・ジム」を設立した。世界スーパーフェザー級とライト級の2階級を制した畑山隆則さんと共同で、長年温めていた構想を実現させた。2人は現在も、定期的に直接指導している。 第二の人生が順調に進んでいた時だった。2013年初め、頻尿が気になった。すぐトイレに行きたくなるが、出ない。出ても残尿感がある。医者に「 膀胱ぼうこう 炎だろう」と言われ、薬を飲んだが効かなかった。 「飲み過ぎだ」と言われて断酒したが、良くならない。熱い痛みの排尿痛が出てきた。「前立腺肥大」とも言われ、正確な治療ができずに1年がたった。大みそか、ついに血尿が出た。>熱い痛みの排尿痛が出てきた。>「前立腺肥大」とも言われ、正確な治療ができずに1年がたった。>大みそか、ついに血尿が出た。私の最初の「がん」は、2011年11月に分かった、腎盂がんでした。何も自覚症状がなかったのですが、ある日突然血尿が出ました。痛みは全くありません。すぐ医者に駆けつけたところ、「痛みのない血尿は、膀胱がんか、腎臓がんのことが多いです。」とのことで、すぐに内視鏡で膀胱内を見てもらいました。特に異常はありません。それでは、尿管から腎臓を内視鏡で見てみましょうということで、後日、2回にわたる検査入院で見てもらい、腎盂がんであることが分かり、片方の腎臓の摘出手術を受けました。この記事のように、兆候や痛みがあっての膀胱がんもあるのですね。何故、もっと早く内視鏡で膀胱を見なかったのかという点は疑問です。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/19
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。 2016年5月~6月の竹原慎二さん(取材当時44歳)の記事です。≪2016年6月1日の記事≫ [ボクシング元世界チャンピオン 竹原慎二さん]膀胱がん(3)相次ぐ目の病気で引退 23歳、負け知らずで世界ミドル級のチャンピオンになった。その半年後の1996年、防衛戦が予定されていた。だが、練習に集中できなくなった。 「視力はもともと良かったが、左目の視野が極端に狭くなり、左の横側がほとんど見えなくなった。右目も同じようになったらと、恐怖と不安でいっぱいでした」 防衛戦は第9ラウンドにレフェリーストップ。25戦目で初めての敗戦だった。極秘で直ちに入院した。眼球をカメラに例えると、フィルムに相当する網膜が眼球の壁側からはがれて視力や視野を失う「網膜剥離」と診断された。ボクサーに付き物の病気で、殴られた時の強い衝撃が原因となる。 失明に近い状態だった。2度の手術で網膜剥離は治ったが、視力はあまり回復せず、新たに白内障がわかり、また手術した。瞳孔のすぐ後ろにある水晶体が白く濁り、視力が低下する病気だ。老化以外にも、殴られて傷つき発症する。 視力は0・4まで戻ったが、目を悪くしたプロボクサーの復帰は難しかった。防衛戦から4か月後、再挑戦できないまま、不完全燃焼で引退を表明した。 まだ24歳。芸能界入りして仕事を待ったが、世間は甘くなかった。パチンコをして、時間をつぶした。間もなく結婚したが、元世界王者のプライドが許さず、仕事は見つからなかった。>元世界王者のプライドが許さず、仕事は見つからなかった。 私は後腹膜軟部肉腫に罹りましたが、粒子線治療のおかげで会社復帰もできるような状況になりました。プライドが高かったら、会社復帰という道を選んでいたでしょう。しかし、私には、他にもっとやりたいことがあったので、収入は激減しますが、別の道を選びました。 それでよかったと思っています。そういう意味では「がん」に感謝しています。 もちろん、私のプライドなど、ボクシングの世界チャンピオンと比べたら屁みたいなものすが。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/18
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。 2016年5月~6月の竹原慎二さん(取材当時44歳)の記事です。≪2016年5月25日の記事≫ [ボクシング元世界チャンピオン 竹原慎二さん]膀胱がん(2)世界奪取に「やればできる」 同じ広島県出身の会長のいるジムに入った。朝6時頃に起き、午後3時まで内装会社の職人見習いとして働き、同5時からジムで2時間練習。掃除をして、すきま風の入るアパートに帰る毎日だった。昼間に肉体労働した後だから、練習はきつかった。 ジムで真剣に練習している人たちを見て、父がボクシングを勧めた意味がわかってきた。「同じ年頃の子も頑張っている。負けるものかと思いました」。スタミナ切れの原因ともなるたばこをやめた。もう、けんかはしないと誓った。 1メートル86、70キロ余と日本人では大柄だったので、17階級中5番目に重いミドル級を選んだ。連戦連勝で全日本、東洋太平洋チャンピオンになった。 「どんな強い相手にも、正々堂々と闘うだけ。勝つたびに自信がつき、ファンが増えるのも励みになり、苦しい練習もできた」 上京して8年目の1995年、世界タイトルマッチに挑んだ。アルゼンチン人のチャンピオンは4回防衛しており、一度もダウン経験のない強敵だった。 日本人がこの階級で勝てるとは思われていなかった。世界戦なのに生中継はなく、深夜の放送になった。この悔しさもバネに、第3ラウンドにダウンを奪い、12回3対0で判定勝ち。「やればできる」とつぶやいた。 だが、防衛戦を控え、目に致命的な異変が起きた。「がん」に関係ないですが・・・・>世界戦なのに生中継はなく、深夜の放送になった。 1995年当時は、確かに世界戦は生中継が当たり前でした。今、ボクシングの生中継は少なくなりましたね。やはり視聴率がとれないからのようです。野球も中継が減っているくらいですから。テレビそのものを視る人が減っているだろうし、嗜好も多様化していますからね。 また、ダブルタイトル戦とかトリプルタイトル戦とかが当たり前になりました。チケットが高いから売れない、だから余計にチケットを高く設定する、もっと客は来ない、止むなく目玉を増やす、そんな悪循環に陥っているようです。 今に始まったことではないですが、WBA,WBC,IBF,WBOと4団体もの認定団体があるもの、チャンピオンの価値を下げ、人気低下に拍車をかけているように思います。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/16
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。 2016年5月~6月の竹原慎二さん(取材当時44歳)の記事です。≪2016年5月18日の記事≫ [ボクシング元世界チャンピオン 竹原慎二さん]膀胱がん(1)「広島の粗大ゴミ」上京決意 24戦無敗で、ボクシング世界ミドル級のチャンピオンになった。弱冠23歳、本当に強かった。日本人王者の中では最重量級だ。 引退後はテレビ番組「ガチンコ!」で、気の荒い若者たちをボクサーに育てる鬼コーチとして活躍。しかし、血尿や激痛で、2年前に 膀胱ぼうこう がんと判明、全摘出手術を受けた。死も覚悟したが、今は体調回復を実感できるようになった。 広島県の出身。焼き肉屋やスナックなどを切り盛りする両親と、一つ違いの兄の4人家族で、みんな背が高い。少年ソフトボール部のキャプテンをやり、中学は柔道部。だが、夜、両親のいない家は、同じ年頃の少年のたまり場になり、ワルの仲間に入ってしまった。 中学生なのにたばこを吸い、シンナーに手を出し、暴走族にも入った。高校への進学がかなわず、塗装会社の見習いなどをしたが、長続きしなかった。 けんかも繰り返し、大けがをさせたり、打ちのめされたり。そんな息子に、ボクサー経験のある父は「けんかをしたかったら、堂々とリングの上でやれ」とボクシングを勧めた。 「オレは大きな体を持て余した『広島の粗大ゴミ』。このままだと、悪の道に入ってしまう。当時の生活がいやで、自分を変えたくて、父が命じた東京でボクシングをやる決意をしました」 16歳の少年には、外国と同じくらい遠い所だった。 膀胱がんの症状について、「がん情報サービス」サイトを見てみました。>膀胱がんの症状は、赤色や茶色の尿(肉眼的血尿)が出ることが最も一般的な症状です。>また、頻繁に尿意を感じる、排尿するときに痛みがあるなど膀胱炎のような症状を>来すこともあります。 私は、後腹膜軟部肉腫に罹る3年前に、腎盂がんに罹り、片方の腎臓を全摘出しました。兆候は、この記事にも書いてあるように、はっきり分かる血尿でした。すぐ医者に行ったところ、痛くない血尿は、膀胱か腎臓の「がん」の可能性が高いとのことで、すぐ内視鏡で膀胱を見てもらいました。しかし、膀胱に異常はありませんでした。内視鏡で見たところ、左側の尿管から出てくるオシッコが濁っているようだということで、後日検査入院で、内視鏡で尿管から腎臓を見てもらいました。結果、腎盂に悪性腫瘍があることが分かり、左側の腎臓を全摘してもらいました。 腎臓は、片方しかなくても、普段の生活に問題なく、普通に生活していましたが、3年後に残った腎臓の後ろに、後腹膜軟部肉腫ができました。半年にわたる抗がん剤治療で、腫瘍の大きさが半分近くまで小さくなり、次の治療ステップとして、透析をしたうえでの残った腎臓ごとの摘出手術を主治医からは勧められました。 しかし、セカンドオピニオンで出会った粒子線治療を受けることにより、残っている腎臓を温存でき、現在(治療終了後1年3ヵ月経過)透析もせず、普通の生活を営めています。腫瘍も、さらに小さくなった後、小さいまま安定しています。 重篤な副作用のリスクとして、腎不全があり、腎不全になれば結局透析をしないといけなくなりますが、腎不全の度合を評価するためのクレアチニン値も、高止まりの様相を示しています。このまま、腫瘍の大きさもクレアチニン値も安定してくれたらと思っています。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/15
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。 2016年1~2月の東儀秀樹さん(取材当時56歳)の記事です。ネット版の「一病息災」の東儀さんの2回目の記事だけが何故か、全文読めませんので、2回目の記事を飛ばして、3回目の記事を紹介します。≪2016年2月11日の記事≫ [雅楽師 東儀秀樹さん]膝のがん(3)消えた死の怖さ 宮内庁で雅楽の 楽生がくせい だった1984年、25歳の時、左膝が痛んで入院した。屈伸するとお皿が痛かった。 母と医師が話している後をつけ、盗み聞きしてしまった。「本人には言えないが……」。医師はがんの可能性を母に伝えていた。当時、患者へのがん告知はあまりなかった。 「若かったので、あと1年ももたないで死ぬんだろうな、と想像しました」。医師や看護師に「どのくらい生きられるか教えて」と頼んでも、「がんじゃないから」と硬い表情で微笑するだけだった。裏では、延命のため、足を付け根から切断する検討も進んでいた。 「そんなに長くないが、死ぬまで一生懸命生き、完全燃焼しよう」。冷静になって、そう思うと、死の怖さがなくなった。曲のフレーズが浮かぶと、五線紙に書いた。お見舞いの花が絵になると思うと、スケッチブックを広げた。見舞客との時間も楽しんだ。 「わくわくする毎日を過ごしていました。すると、医者が首をかしげる奇跡が起き、検査でがんの可能性を示す数値が下がって、がんが消えてしまった」 数年後、再び同じ所が痛んだ。検査で、がんと思われるカゲが見つかった。医師は、膝の患部を切る手術を勧めた。「大丈夫という確信はなかったが、『しばらく様子を見よう』と決めました」。“達観”すると、がんがまた消えていった。>がんがまた消えていった。 1回目の記事のコメントを繰り返します。ただ、少しだけ書き足しました。 なかには、何もしないで、「がん」が消える方もごく僅かにいらっしゃるようです。ですので、自然治癒を目的に治療を受けないという選択をする方も多いようです。しかし、自然治癒は本当に稀な症例です。高齢や体力的な問題で、治療しないで「がん」と付き合いながら生きていくという選択はあっても、自然治癒を信じて治療をしないという選択には賛成できません。もちろん、進行が遅く、かつ転移の可能性が低いということであれば、様子を見るということでいいと思いますが。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/14
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。 2016年1~2月の東儀秀樹さん(取材当時56歳)の記事です。 ネット版の「一病息災」の東儀さんの2回目の記事だけが何故か「有料会員対象」となっていて、全文読めませんでしたので、スキップしました。その後、読売新聞社にこの問題を報告したところ、読めるようになりましたので、8月13日の記事として投稿します。≪2016年2月4日の記事≫ [雅楽師 東儀秀樹さん]膝のがん(2)修業中に交通事故 タイ、メキシコでの計8年の海外生活は「日本人であることを強く意識させてくれました」。日本の文化、美しさに目を向けるきっかけにもなった。 帰国して中学の後半は、帰国子女の「国際学級」で学んだ。普通科高校に進み、エレキギターのバンド活動に夢中になった。将来はミュージシャンかロックギタリストになろうと思っていた。その気持ちを親に伝えると、母が言った。 「そこまで音楽にこだわるなら、東儀家の音楽である雅楽をやってみたら」。それまで、雅楽に親しんだことはなかった。 「雅楽の息吹を初めて感じ、自分の血の中で何か騒ぐものがあった。1300年も雅楽を守り続けてきた家系に生まれた、責任感のようなものも感じました」 宮内庁で雅楽を7年間習う 楽生がくせい の試験に通った。皇居で朝9時から夕方まで、雅楽の主旋律を担当し、東儀家が代々受け継いできた管楽器の 篳篥ひちりき のほか、琵琶、歌、舞などを学んだ。 「篳篥の練習を始めてすぐに、楽器としての可能性があり、様々な音楽を生み出せるとわかりました」 修業を続けていた24歳の頃、交通事故で10メートル飛ばされ、脳内出血で病院の集中治療室に運ばれた。買ったばかりのバイクを友人に運転させ、後ろに乗っていたら、車と正面衝突した。回復は早かったが、間もなく、膝の異常が見つかった。>交通事故で10メートル飛ばされ、脳内出血で病院の集中治療室に運ばれた。>間もなく、膝の異常が見つかった。 他の病気で診てもらったときに、「がん」が発見されるのも、よく聞く話です。まさに「怪我の功名」です。翻って考えれば、それくらい「がん」は発見しにくいものなのだということですね。 従って、少なくとも検診が一般的になっているものだけでも、検診を受けることは大切なことだと思います。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/13
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。 2016年1~2月の東儀秀樹さん(取材当時56歳)の記事です。≪2016年1月28日の記事≫ [雅楽師 東儀秀樹さん]膝のがん(1)あらゆる音楽を吸収し育つ 奈良時代から約1300年、雅楽を世襲してきた 楽家(がくけ) に生まれた。宮内庁楽師から独立し、古典芸能の雅楽と現代音楽を融合した独自の活動で、新しい音楽を創り出している。 雅楽修業をしていた20歳代半ば、膝のお皿にがんが見つかった。死を覚悟することもあったが、「目いっぱい生きてやろう」と暮らすうち、がんが消える“不思議”な体験をした。 先祖は聖徳太子の参謀とされ、古くから皇室と縁のある家系で育った。祖父も雅楽師。その子が母になる。 商社マンだった父の仕事の関係で、1歳から7歳までタイで暮らした。両親が音楽好きで、様々な音楽がいつも身近に流れていた。 インターナショナルな幼稚園で、アメリカ人の友だちに影響され、ビートルズが好きになった。「ビートルズになりたいから、ギターを買って」と親にせがむと、小さいのでウクレレを買ってくれた。遊びながら、この弦を指で押さえるとこんな音がすると、自分で音楽感覚を養っていった。 ハーモニカを買ってもらうと、何も教えてもらわないうち、ベートーベンの「第九」のメロディーを吹き始めて、家族を驚かせた。 「音楽は、生まれ持ったものに恵まれて器用だと思います」。中学生になるとメキシコで暮らした。ロックやジャズ、クラシックなど、世界のあらゆるジャンルの音楽を吸収して育った。>がんが消える“不思議”な体験をした。 なかには、何もしないで、「がん」が消える方もごく僅かにいらっしゃるようです。ですので、自然治癒を目的に治療を受けないという選択をする方も多いようです。しかし、自然治癒は本当に稀な症例です。高齢や体力的な問題で、治療しないで「がん」と付き合いながら生きていくという選択はあっても、自然治癒を信じて治療をしないという選択には賛成できません。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/13
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。 昨日まで投稿してきた、大谷直子さんの記事の次の「がん」についての記事は、報道番組キャスター黒木奈々さんの胃がんについての記事でした。 この記事は、2015年8月6日から9月17日にかけて、7回にわたって連載されました。 しかし、残念なことに、最後の記事が掲載された直後の2015年9月19日、胃がんで亡くなられました。 亡くなられた直後に、これらの記事を投稿していますので、そちらのほうをご覧ください。 第1回 http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201509250000/ 第2回 http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201509260000/ 第3回 http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201509270000/ 第4回 http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201509280000/ 第5回 http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201509290000/ 第6回 http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201509300001/ 第7回 http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201510010000/ もう一度ご冥福をお祈りいたします。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/12
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。 2015年の大谷直子さん(取材当時64歳)の記事です。≪2015年4月16日の記事≫[女優 大谷直子さん]悪性リンパ腫(4)闘病生活 老境の役作りに 「隠とん生活」は4年続いた。人気女優だったとは想像できない、清貧の日々だった。やがて体力も回復し、還暦を迎えると、再び仕事が回ってきた。 復帰作は、大震災と原発事故をテーマにした映画「希望の国」。被災地の酪農家の妻で認知症という、今日的な課題を抱えた難しい役だった。 「自信がなくて、降板したくなることもありましたが、懸命に演じました。もう、女優として忘れられたと思っていたけど、また必要とされたことが、うれしかったんです」 この後も、尊敬する大女優の乙羽信子さん役や、大河ドラマなどに、相次いでテレビ出演した。 悪性リンパ腫との闘いで、人生を達観するようになった。「病気になると、一人で生と死を考える。体が弱ってきても、だれも私の痛み、心身の苦しみ、心の闇を取り除いてはくれない。自分が耐えるしかないのだ」と。この心境と体験が、老境の役作りに役立っている。 子どもは皆、成人。「一人で好きなように24時間過ごせるのが、楽しみです」。得意のハングルは、「頭の体操に良いので、続けていきます」。 おいしいものも口にせず、粗食で通している。無欲で、先々週、65歳になった。>おいしいものも口にせず、粗食で通している。 食生活の変化が、「がん」の罹患率が高くなっている原因の一つともいわれています。私も、再発予防のためにも、このことは肝に銘じたいと思います。それから、「がん」予防のためには、食が偏らず、色んなものを食べるのがいいともいわれています。色んな栄養素を摂るということではなく、リスクを分散させることが大切ということのようです。【補足】 私が粒子線治療で入院中の記事です。当時は新聞を切り抜いて、スキャナーで読み取って投稿していました。第4回~http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201504160002/ よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/11
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。 2015年の大谷直子さん(取材当時64歳)の記事です。≪2015年4月9日の記事≫[女優 大谷直子さん]悪性リンパ腫(3)抗がん剤治療 体重33キロに 「見舞いに来る子どもたちの沈んだ様子から、私の病状がかなり悪いことは、察していました」 実は子どもたちには2007年秋、母の「余命3か月」が告知されていた。母心で、子どもたちから聞き出すことはしなかった。 リンパ系組織は全身を巡っているため、悪性リンパ腫は他のがんと違い、外科手術はしない。4種類の抗がん剤と、新しく開発された、がん細胞を攻撃する抗体薬による点滴治療が始まった。 抗がん剤の副作用で、髪の毛が抜けてベッドを汚すのがいやで、先に病院の理髪店で丸坊主にした。「体重は11キロも減って33キロになり、骸骨みたいにやせました」。個室の空きがなく、4人部屋だった。「闘病中の人たちの痛みや悲しみが、よくわかりました」 1か月の入院の後、3週間おきに通院しながら、点滴治療を続けた。悪性リンパ腫の患者の生存率を高めている抗体薬が効いたのか、半年後、がん治療を終えることができた。 でも、体力が相当落ちていたので、女優の仕事はできなかった。無収入になり、これまでの貯金を取り崩して暮らした。 「子どもたちは大人になって、別に住んでいます。だから、ひっそりと一人で生きる、隠とん生活の毎日でした。華やかな芸能界には、もう戻ることはないと思っていました」>悪性リンパ腫の患者の生存率を高めている抗体薬が効いたのか、>半年後、がん治療を終えることができた。 悪性リンパ腫は、抗がん剤で治る可能性の高い「がん」の一つですね。ほとんどの「がん」は抗がん剤は延命治療でしかありません。しかも、色んな副作用が伴います。副作用のため、つらい生活を強いられたり、かえって寿命を縮めたりということもあります。止めどきの判断は大切だと思います。 【補足】私が粒子線治療で入院中の記事です。当時は新聞を切り抜いて、スキャナーで読み取って投稿していました。第3回~http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201504100007/よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/10
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。2015年の大谷直子さん(取材当時64歳)の記事です。≪2015年4月2日の記事≫ [女優 大谷直子さん]悪性リンパ腫(2)がん細胞転移 背骨が圧迫骨折 NHK連続テレビ小説の後も、「雪国」「天城越え」「橋のない川」などの名作を演じていった。「若かったのに、よくやったなと思っています」 2回の結婚で、3人の子の母となった。夫と別れ、一人で育てた。女優、子育て、一家のあるじの一人3役で、「一家を背負う重圧感は大変なものでした」。 それは、健康面にも表れてきた。30代半ばから、ひどい肩こりや、腰痛に悩まされるようになった。朝、起きるのがつらくて、頻繁にマッサージに通った。 「体の不調が続くのは、更年期のせいかな、とも思うようになりました」。ついに2007年、57歳の時に大きな異変が起きた。 テレビドラマのロケのため長野県に出掛けて、大好きなビールを飲んだ。とてもまずく感じて、飲めなくなった。2、3か月後、背中が痛み出した。病院でのエックス線検査で、背骨が圧迫骨折していたことがわかった。医師は「今すぐに」と精密検査を受けるよう指示した。 大学病院に行くと、「このまま入院してください。病理検査のため、おなかにメスを入れます」と言われた。検査で、血液の白血球に含まれるリンパ球ががん化する「悪性リンパ腫」と判明した。がん細胞が骨に転移して、背骨が圧迫骨折していた。臓器も腫瘍に圧迫されて、「内臓はぐちゃぐちゃだったそうです」。>がん細胞が骨に転移して、背骨が圧迫骨折していた。>臓器も腫瘍に圧迫されて、「内臓はぐちゃぐちゃだったそうです」。 やはり芸能人の方は、職業柄早期発見がむつかしいということでしょうか。【補足】 私が粒子線治療で入院中の記事です。当時は新聞を切り抜いて、スキャナーで読み取って投稿していました。第2回~http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201504090002/よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/09
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。2015年の大谷直子さん(取材当時64歳)の記事です。 私が抗がん剤治療後の次の治療で、粒子線治療で入院中の記事です。「がん」のことで色々当ブログを読むうち、標準医療を全面否定するような記事が、たくさん読まれていることに危機感を覚えていた時期でもありました。 私が粒子線治療のおかげで、がんを克服し、普通の生活に戻れるかもしれないという希望の光が見えた時期でもありました。そして、粒子線治療は「痛くも痒くもない」治療で、体力的にも精神的にも余裕がありましたので、私のできる範囲で、がん治療について参考になるような本の内容や、新聞記事の内容を紹介させていただこうと思い、2015年3月から毎日1記事ずつ投稿させていただいて、現在に至っています。 そのとき、この大谷直子さんの記事は、芸能人の闘病記としては、初めて紹介させていただいた記事です。当時は新聞を切り抜いて、スキャナーで読み取って投稿していました。第1回はありませんが、第2、3、4回がログに残っています。第2回~http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201504090002/第3回~http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201504100007/第4回~http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201504160002/ どこかにリンクが貼られているのでしょうか、私の「よく読まれている記事」のリストによく登場します。毎日の投稿は大変ですが、投稿を続けるモチベーションの源泉の一つになっています。≪2015年3月26日の記事≫ [女優 大谷直子さん]悪性リンパ腫(1)57歳で「血液のがん」に 19歳でNHK連続テレビ小説の主役を務め、人気スターになった。女優業と、3人の子育てに懸命の日々が続いた。 57歳で血液のがん「悪性リンパ腫」となり、「余命3か月」と子どもたちには伝えられた。抗がん剤などでの闘病から4年後、女優に復帰できた。 東京・北千住の下町に育った。快活な少女だった。「芸能界とは無縁で、大きくなったらBG(ビジネスガール)になるんだと思ってました」 高校1年生の時、岡本喜八監督が、戦争を題材とした自作品「肉弾」で、お下げ髪、もんぺ姿が似合う少女役を募集していた。知り合いが内緒で、大谷さんの写真を送った。知らないうちに、応募者約300人の中から選ばれてしまった。 「演技も何もわからず、この映画だけのつもりで出演したんです」。この映画がNHKのドラマ制作者の目に留まった。 1969年(昭和44年)から1年間放送された「信子とおばあちゃん」の主役に抜てきされた。同じ年頃の九州生まれの信子役。平均視聴率37・8%、最高視聴率は46・8%。大人気となった。 収録は高校3年の時から始まった。10代のヒロインとして、突然、全国で知られるようになった。 「でも、どこに行ってもじろじろ見られるので、好きな所にも行けません。とても不自由で、いやでした」 私も「余命数ヵ月」と言われました。しかし、こうして大谷直子さん同様、生きています。しかも、普通に生活できています。 寿命の伸びや、生活習慣の変化で、より多くの人が「がん」に罹る時代ですが、より多くの人が、医療技術の発達で、助かるようになった時代でもあります。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/08
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。2014年の記事です。≪2014年11月6日の記事≫ [俳優・歌手 黒沢年雄さん]8度のがん手術(5)「1回目」で恐怖消える 大腸と膀胱ぼうこうのがん手術の後、「定期検査、早期発見、早期治療に心掛けていました」。胃カメラ検査で、昨年は相次いで新たながんが見つかり、5回の手術に追われた。 昨年2月に食道がんで内視鏡手術をした。半年後の胃カメラで再発が確認され、初期の胃がんも見つかり、2か所を手術。さらに、悪性ポリープが胃の粘膜まで達している危険性があったため、年末におなかに小さな穴を数か所あける腹腔ふくくう鏡手術で、胃の3分の1を切り取った。食道がんの3回目の手術もした。 「壮絶な闘病生活と想像されますが、最初の大腸のがんの体験が僕を大きくしてくれたので、それ以後のがん手術に対する恐怖はなかった。早期発見での手術なので、入院もほとんど数日でしたから」 今やトレードマークのニット帽。がんとの闘いを決意して頭を丸めたが、物足りなさを感じてかぶり始めて22年がたつ。俳優、歌手から、バラエティー番組にも登場し、講演や歌で全国を回っている。 毎日、1個は道端のゴミを拾う。「すがすがしい気持ちになり、病気の予防にもいい」という。「一流は無理でも、『二流の中の一流』を目指して、ひたすら努力してきました」と振り返った。よろしかったらぽちっとお願いします。 8度のがん手術。やはり、遺伝の影響も含め、罹りやすい体質というのはあるのでしょうね。 8度のがん手術というと壮絶な闘病を想像しますが、黒沢さんのように、そうでもないこともあるのですね。ただ、やはり早期発見がやはりキーのようです。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/07
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。2014年の記事です。≪2014年10月30日の記事≫ [俳優・歌手 黒沢年雄さん]8度のがん手術(4)病院で会見 異例の公表 S状結腸がんになって、48歳での最初の手術は、内視鏡によるポリープ除去で、10分で終わった。翌日には退院。だが、取り出されたポリープは2センチを超える大きなものだった。 医師から「あと半年遅れていたら、危なかった」と言われた。そして、「転移している可能性が5%残っている」と開腹手術を勧められた。ポリープの周囲を切除するためだ。 「転移におびえて一生悩むより、思い切ろう」。家族の後押しも受けて、開腹手術を決めた。最初の手術から半月後に再手術。転移がないことが確認された。 その前に病院で記者会見を開き、がん手術を公表した。当時では異例だった。それまでのワイルドな髪形から一転して、つるつるの坊主頭で登場した。 髪の毛が薄くなってコンプレックスを感じていた。「手術後はこれまでとは違う自分を見せてやる、と決めていたので、あえて自分の恥部をさらけ出した」 抗がん剤は使っていなかったのに、副作用で髪の毛が抜け落ちた、との誤解を招いた。「再起は無理」と思われ、しばらく仕事がこなかった。心機一転、名前を「年男」から「年雄」に変えた。 2008年、膀胱ぼうこうがんになった。前回のがん手術の体験があるから、今度は本人も家族も落ち着いていた。内視鏡手術は1時間で終わり、5日で退院できた。>その前に病院で記者会見を開き、がん手術を公表した。当時では異例だった。 1992年のこと。今から約15年前。今でこそ、芸能人が「がん」告白するのは当たり前の世界。鳥越さんなんか、そのことも武器に都知事に立候補。隔世の感がありますね。必ずしも不治の病ではなくなったということの証なのでしょう。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/06
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。2014年の記事です。≪2014年10月23日の記事≫ [俳優・歌手 黒沢年雄さん]8度のがん手術(3)亡き母の言葉で決意 自殺を踏みとどまって2か月。最初にヒット曲「やすらぎ」で、苦境を脱した。翌年、ピエール・カルダンの専属モデルをしていた街田リーヌさんと結婚した。2年後、代表曲となる「時には娼婦しょうふのように」を歌った。 「きわどい歌詞で、最初は断っていました。でも、これを歌えるのはお前しかいないと言われて、嫌々歌ったんです」 人気が復活すると、「ドーベルマン刑事」「ハングマン」と続けてテレビの主役が回ってきた。順風満帆の10年が過ぎると、再び仕事運が落ちた。 1992年の正月、ハワイのホテルのトイレで大量の下血があった。48歳になる直前のことだった。血便は3年前からわかっていたが、かかりつけ医の診断は「痔(じ)」。これを信じていたが、誤診だった。自宅のトイレは外国製で、こげ茶色だったので、血便に気付かなかった。 専門医の検査で、大腸の「S状結腸がん」と診断された。初めてのがん告知は衝撃だった。死を考え、一人で号泣した。やりたい仕事もあったし、妻子を守ることができなくなる……。 同じがんで、40歳で若死にした母を思った。「俺たち4人の子を残して、ずいぶん心残りだったろうな」。涙が止まらなかったが、また、母の最期の言葉「頼むよ」を思い出し、がんとの闘いを決意した。>自宅のトイレは外国製で、こげ茶色だったので、血便に気付かなかった。 きたない話でごめんなさい。今でこそ洋式トイレで血便に気が付きやすいですが、昔の肥溜め式のトイレだったら気が付かないですね。それから肥溜め式時代でも、男性は男性用便器ですから、血尿を発見しやすかったでしょうが、女性はむつかしかったでしょうね。便器の変遷が早期発見に寄与しているといことがあるかもしれませんね。 それから、こういうことを考えると、便器はやはり白がいいんですね。思わぬ発見でした。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/05
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。2014年の記事です。≪2014年10月16日の記事≫ [俳優・歌手 黒沢年雄さん]8度のがん手術(2)一家の大黒柱 心折れそうにも 母の死で、16歳の人生が一転した。父は母の高額な治療費を払ってきたので、蓄えを失い、学費を出せなくなった。プロを目指した野球もやめ、高校にも行かなくなった。やり場のない憤りで、地元・横浜の繁華街でけんかに明け暮れた。 やりたい仕事を見つけるため、家出。東京から関西へ流れ、バンドボーイなどをした。数か月後、3人の弟たちが気になり横浜に戻ると、警察官に「お父さんが捜している」と言われて実家に帰された。 放浪生活でたどり着いた将来の職業が、映画俳優だった。「演技の勉強に役立てようと、3年間にセールスマン、ドラマー、バーテンダーなど30以上の職業を経験しました」 20歳で東宝のオーディションを受けた。真っ赤なジャンパーを着て、最終審査は5時間も遅刻。「目立つための作戦でした」。何万人もの応募者の中で、男優の合格者はただ一人だった。 若者らしい力演から「黒豹ひょう」と呼ばれた。映画「日本のいちばん長い日」では、クーデターを画策し、自決する青年将校を演じた。しかし、映画の衰退で東宝時代は7年で終わった。 それから3年は、仕事が途絶えた。父や弟たちの生活を支える大黒柱だったが、不安の重圧で心が折れそうになり、自宅から飛び降りようとした。母の最期の言葉「頼むよ……」が頭に浮かび、我に返った。 病気になったときの年齢、病状、身体状況、環境だけでなく、病気するまでどう生きてきたかが、病気になったときどんな気持ちになるか、どう対処するかということに少なからず影響するということを、1回目、2回目の記事は言いたいのでしょうね。 私は、この黒沢年雄さんのように波乱万丈ではありませんが、約35年間、それなりに山あり谷あり、楽しいことあり、苦しいことありのサラリーマン生活を送ってきて、やり切った感はありました。このやり切った感が、粒子線治療で社会復帰ができそうになったと分かったとき、サラリーマン生活には戻らず、別の道に向かう一要因になったと思います。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/04
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。2014年の記事です。≪2014年10月9日の記事≫ [俳優・歌手 黒沢年雄さん]8度のがん手術(1)40歳の若さで母 がん死 ワイルドな演技で人気を集め、「時には娼婦しょうふのように」などのヒット曲も歌った。48歳からがんとの闘いが始まり、古希を前にした昨年は、なんと5回も手術した。がん手術は合計で8度になるが、「手術をするたびに、前より元気になっている気がします」。 生まれた時は逆子で、首にへその緒が絡まり、仮死状態だった。助産師はあきらめたが、母が「初めての子なので」と懸命に頼み、産声をあげることができた。 食糧難だった終戦直後、3歳の時には栄養失調で消化不良をおこし、医者に見放された。こうした危機を脱すると、競走はいつも一番で、運動神経抜群な子どもに育っていった。 プロ野球選手になりたかった。母は夜遅くまでミシンで内職をして、野球道具を買ってくれた。野球部のレギュラーとして練習に打ち込んでいた高校1年の時、病気には無縁だった母が突然、体調を崩した。 担当医から長男をと、呼び出された。「お母さんは肉腫という病気で、治りません」と悲しい説明を受けた。咽頭がんが全身に転移していた。(当時、がんは肉腫と言われた) 10か月の闘病の最後に2人きりとなると、母がか細い声で「としお……、頼むよ……」と言い残した。翌日、40歳の若さで亡くなった。父と、16歳を筆頭に2歳違いの4人の兄弟が残された。>「手術をするたびに、前より元気になっている気がします」 私の場合、2回目の「がん」軟部肉腫に罹ったとき、やはり落ち込みました。しかし、一方で、残り少ない人生、大切に生きようとか、一生懸命生きようとか、好きなことをして生きようとか、感謝して生きようとか、人生観や生き方が前向きに変化するのも経験しました。体力的には加齢もあり落ちていると思いますが、気持は病気する前より元気になっているような気がします。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/03
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。 なかにし礼さんの最初の「がん」治療のときの古い記事です。その後、再発され、すでに復帰されています。≪2014年7月10日の記事≫ [作家・作詩家 なかにし礼さん]食道がん(6)「夢の治療」で腫瘍が消えた 聞き慣れない「陽子線治療」の病院に朝一番で電話した。食道がんはこの治療の適用対象に明記されていなかったが、面談した主治医は「完治をめざしましょう」と言ってくれた。 まず、心臓病の主治医の病院と連携して抗がん剤治療を行い、食道の腫瘍を半分に縮めた。この後の陽子線治療は1回30分。初めの25分は食道の動きなどの計測が行われ、最後の5分間、患部に陽子線が照射された。これを6週間で計30回。 全工程が終わり、1か月後の検査で腫瘍が消えたのが確認された。2012年秋、半年ぶりに仕事を再開、コメンテーターを務めるテレビ番組にも復帰した。 「夢の治療」といわれるが、実施施設は全国で約10施設。普及しないのは理由がある。医療機器が1基約80億円で、健康保険の対象にならない先進医療のため、患者の自己負担が約300万円かかる。欧米ではこの倍近い負担だという。 「多くの人が高いと言うが、自分の命に値段をつける気にはなれない。この治療を早く健保適用にして、実施病院を増やすよう、国が努力すべきです」 がんから生還し、我が国の行く末がいっそう気になってきた。言うべきこと、書き残すべきことを、きちんと次の世に伝えていこうと誓っている。>1か月後の検査で腫瘍が消えたのが確認された。 早い消滅ですね。医療機関のパンフレットには、1年とか2年で消滅する例が多く書かれているので、普通はそれくらいかかるようですし、ある程度小さくなった後は、変化ない場合もあるようです。CTに写っても、腫瘍が壊死していたりする場合はそうなるそうです。 私の場合は、粒子線治療後、しばらく急激に小さくなりましたが、以降は小さくなっていません。しかし、大きくもなっていません。粒子線の担当医にCTを撮影するごとにデータを送っていますが、順調な経過だと言われています。>健康保険の対象にならない先進医療のため、患者の自己負担が約300万円かかる。 私は医療保険に先進医療特約がデフォルトで付いていたので、半分が保険から出たので助かりました。「がん」保険は、掛け金がかなり高くなるので、積極的にはお勧めしませんが、先進医療特約はそれほど高くはならないので、積極的にお勧めします。 私の罹った軟部肉腫は粒子線治療が最近健康保険の対象になりました。有効性が認められたということの証でもあります。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/08/02
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