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2014年10月25日
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ディーツゲン「論理学に関する手紙 第六」 ( その 3)

今回は「論理学に関する手紙」の「第六の手紙」です。

これらの手紙は論理学が内容ですから、哲学、認識論ですから、抽象的で一般的な、基本的な事柄です。なれない事柄で読むには苦労しますが、その中に素晴らしい思想が見えてきます。

写真: DSCN2506

ほとんど 引用が中心ですが、ディーツゲンの言葉を多少意訳しながら追跡してみました。

第一の論点ですが、 P170 「キリスト教の神は精神であり、神を精神と真理として崇拝せよとしている。それに対し〔ディーツゲンは対置しています〕、精神は存在全体の一片であるから、それを神として崇拝するのは偶像崇拝であり、存在の全体を見損なっている。真理とは存在全体であり、世界と同一で、すべての事物はその形態、現象、述語、移り変わる姿に過ぎない」と。
 これは「第五の手紙」で指摘された一元論でもありますが、それは精神と存在のどちらが包括的で根源的かの根本問題です。エンゲルスの『フォイエルバッハ論』は 1886 年に書かれてますが、ディーツゲンの「論理学に関する手紙」は、 1880 84 年に書かれたものです。
この点をそれより前の『人間の頭脳活動の本質』
(1869 ) ではどういっていたのかも注目です。

第二の論点は、 P171 「論理学は人間の頭脳の普遍的解明を志すものだから、すべての真理の総計が専門である。このためにはいろいろな知識の堆積よりも真理の普遍的な認識の方が役にたつ。真なる諸概念を集めることではなく、むしろ真理の普遍的概念を明らかにすることが必要だ。これは個々の知識をいくら集めても、宇宙は無尽蔵だから不明瞭は必ずついてくる。それより普遍的対象すなわち無限の存在全体に結合している一般的絶対的な真理概念を扱う」。
 さらに言ってます。「個々の専門的知識は知性を明るくするが。すべての専門が真理そのものである一者は、もしくはすべての専門を統一において連関するとの認識は、ある普遍的な解明を与えてくれる。その普遍的な解明というのは、個々の専門研究に代わりえないもので、すべての研究の基礎となるものだ」と。
 ここであらためて世界は無尽蔵だということを強調しています。言葉の概念が分かりにくいのですが、言っている内容はエンゲルスが『フォイエルバッハ論』で言っている「実証的諸科学の道より、そしてその成果を、弁証法的思考を用いて総括する道によって、到達可能な相対的真理を追究する」のと同じ事柄です。その弁証法的思考による総括の意義ということを強調しているものです。

第三の論点は、 P173 「思惟能力の分析に限られた論理学ではなく、思惟能力を生きた活動として叙述する論理学が必要だと。論理学で問題にすることは、知的主体の分析よりも、むしろ思惟能力の目的と客体、すなわち知性自体によってではなく、知性と真理の世界との結合によって、存在全体との連関によって得られるところの、思惟能力の養成である」と。
「思想を分析と総合に分類したり、その他十種類もの認識ついて語りながら、思想と認識はどのように真理に関係するか、神的なものは何者であり何処にいるか、我々はどのようにしてそこに到達するか、との問いをしりぞける論理学は何の役に立つか」と。
 そして、この「しりぞける」きらいのある人たちを4者-懐疑論者、妄想的宗教者、自然科学者、形式論理学者を上げています。
 これは世界を知る上で真理にどのように近づくのか、認識論の問題です。先のエンゲルスが述べている事柄です。

 ここで、「自然科学は真なる諸概念を問題にするが、真理の概念を問題にしない」と、「自然科学と哲学」との関係を問題にしています。

P174
「自然科学者は専門的知識によって真理に近づいていくが、普遍的真理を総括的に対象とする哲学的研究に対して反感を抱き、見下している。これは間違っている」と。そのことは 「一つの機械や有機体の全体は、その部分の集合とは違ったものであることだ。それと同様に、世界全体は無機的な断片の堆積ではなく、生きている過程であり、この過程はその諸部分においてのみでなく、全体としても認識されなければならない」と。
 これまた「世界は諸過程の複合体としてとらえる」(『フォイエルバッハ論』)にかさなっています。

第四の論点は、 P175 「論理学は、我々および我々の思想と分かちがたく結合している事実の世界のみを問題とすべきである」との点です。
 以前に「第四の手紙」に出てきた「度外れ」という言葉ですが、その一つの意味がここにありました。
「我々の眼と耳がなければ、それを使う我々の知性が無ければ、全体は何者であろうか。世界『自体』が何であるかを、 ( それと切り離されて ) 思弁することは、まったく無意味な度外れの思弁であろう」と。
「度外れにも真理を『超越的に』、すなわち同じ穴の狢 ( むじな ) である哲学的形而上学、または宗教的妄想の中に求めようとする」「世界の真理から空しい仮象と苦しい憂き世とを作り上げようとする人たちに対して、我々はなお、この生きている世界が真のそして唯一の世界であることを、論理的に証明しなければならないだろう」と。
 我々の感性の知覚、思想は世界と結びついたものですが、それを切り離して、切り離された世界像を、妄想を求めようとする人たちがいる。
これをどのように批判するか、「桃は食べてみればよい」 (P175) と。
これはエンゲルスの『プディングの味は食べてみればわかる』 ( 『空想から科学へ』 1892 年英語序文 )に重なりますね。
してみると、エンゲルスが『フォイエルバッハ論』第四章でディーツゲンを紹介しているのも納得してきます。
ディーツゲンは認識論に限って述べていたわけですが、かなり分かりにい表現でもありましたが、それをエンゲルスは分かりやすく、かつ正確なものにして説いていた。なにより社会観も説いているわけですから。
それはともかく、ディーツゲンは『フォイエルバッハ論』を書く、大事な刺激になっていたんですね。

以上です。







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Last updated  2014年10月25日 22時52分19秒
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