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司馬懿は、魏の東方の軍事と外交を担当していました。彼のライバルである曹爽は西の軍事と外交が担当でした。当時、チャイナの北方には騎馬民族である匈奴や鮮卑がいて、魏にとっては厄介な存在でした。匈奴や鮮卑の西に別の騎馬民族である大月氏族がいました。曹爽はこの大月氏族と同盟を結ぶことに成功しました。これは大手柄ですから、ライバルの司馬懿はあせりました。自分の担当である東方でも、有力な国と同盟関係を結ばなくてはなりません。そこで司馬懿は邪馬台国という大国をでっち上げました。日本のどこかの酋長で占い師でもあったヒミコに、使いを魏の都に派遣させたのです。そしてヒミコの使いを魏の都をパレードさせ、邪馬台国がいかに強大な国であるかを宣伝したのです。そしてこの同盟を結んだ司馬懿が、大政治家であることを人々に悟らせたのです。魏志倭人伝は、邪馬台国の都が魏の都から1万2千里離れており、会稽郡東冶の東だと書いています。東冶は現在の福建省福州付近ですから、邪馬台国は台湾にあったことになってしまいます。そして、総人口は15万戸としています。百万人ぐらいですね。当時の魏の総人口が三百万人と推定されていますから、三分の一です。魏の敵国である呉は南方の国ですから、邪馬台国と同盟できれば呉を北と東から挟み撃ちできるのです。大月氏国の都がやはり魏から1万2千里のところにあるのです。そして人口は10万戸です。要するに、邪馬台国は大月氏国に匹敵する大国だったと宣伝したのです。司馬懿はこのようにしてライバルの曹爽を蹴落とし、彼の孫は魏を滅ぼして晋を建国しました。また呉や蜀も滅ぼしてチャイナを統一しました。三国志の著者である陳寿は晋の役人でした。そして晋が滅ぼした魏・呉・蜀の歴史を書くことを命じられたのです。チャイナでは、現王朝が滅ぼした前の王朝の歴史を書く習慣があります。晋もその伝統に従って三国志を書くことを陳寿に命じたのです。晋の役人である陳寿が、創業者である司馬懿がデタラメを言ったなどと書けるわけがありません。チャイニーズは日本人と違って事実をあまり重んじません。事実よりも、あるべき理想を語ることを好みます。事実が理想に合わなかったら、事実を変えて理想に合わせます。晋の皇帝にとっては、先祖である司馬懿が大政治家であることを証明する方が、事実よりも大事なのです。次回に続きます。
2005年06月30日
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日本に国家というものがいつ出来たのか、という問題を考えるのは非常に楽しいことです。私も邪馬台国(やまたいこく)に関する本を夢中になって読んだ時期がありました。江戸時代から300年以上にわたって、多くの素人や専門家がその謎の解明に挑戦してきました。新井白石などもこの謎解きに参加しています。高等数学を使ってその位置を推定したものや、邪馬台国というのは間違いで、正しくは邪馬壱国(いちこく)と読むのだという説もあります。大きく分けて、近畿にあったという説と九州にあったという説に分けられます。この位置が重視されるのは、それによって統一国家成立の時期が異なってくるからです。近畿にあったのなら、その邪馬台国とは後の大和朝廷につながるので、邪馬台国のあった3世紀には、日本に統一国家があったことになります。ところが九州にあったのであれば、近畿にもそれに対抗している国家があったということになり、日本の統一はもっと後ということになります。邪馬台国のことは、チャイナの正史である三国志にしか書かれていません。その中の魏書東夷伝倭人の条、俗に言う「魏志倭人伝」に邪馬台国が登場します。その内容が曖昧で矛盾だらけなのが大論争の原因です。邪馬台国のあった3世紀初めのチャイナは、魏・呉・蜀(しょく)の三つの国に分裂し互いに覇を競い合っていました。この三国の争いは、劉備玄徳(りゅうびげんとく)、諸葛孔明(しょかつこうめい)、曹操(そうそう)などの豪傑の登場で日本人にも良く知られています。一番有力な曹操は、後漢を滅ぼして魏を建国しました。実際は曹操の息子が魏を建国したのですが、くどいのでここでは曹操にします。魏など認めない豪傑たちが建てた国が、呉と蜀でそれぞれ皇帝を名乗りました。本来皇帝は世界中で一人のはずですが、三人が同時に名乗ったのです。三人とも他の二人を皇帝と認めないわけですから、互いに他を滅ぼすまで終わらないデスマッチになりました。魏には実力者が二人いました。皇帝の一族の曹爽(そうそう)と司馬懿(しばい)です。司馬懿は名将でしたが、蜀の総理大臣だった諸葛孔明にはかなわず、戦いで負けてばかりいました。孔明は自分がまもなく死ぬことを占いによって知っていました。そして死後、司馬懿が司令官になって魏が攻めてくることも分っていました。孔明は、自分の人形を作らせ、司馬懿が攻めてきたら人形を使って自分が生きているように見せかけろと命令しました。孔明が死んだとき大きな星が落ちました。それを見た司馬懿は孔明が死んだことを知り、蜀に攻め込みました。ところが蜀の軍を孔明が指揮しているのを見て、司馬懿は戦わないで逃げ帰りました。「死せる孔明生ける仲達(ちゅうたつ)を走らす」ということわざは、ここから生まれたのです。仲達は司馬懿のニックネームです。次回に続きます。
2005年06月29日
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あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る 額田王この美しい歌に対する天武天皇の返歌が紫草のにほへる妹を憎くあらば 人嬬(妻)ゆえにあれ(われ)恋めやも額田王は豪族の娘で、最初の愛人だった天武天皇との間に子供まで作っています。それを天智天皇が横取りし、この歌のときは天智天皇が愛人でした。気候の良い時、宮廷中で野原にピクニックに行ったのですが、そのときに天武天皇がかつての彼女に遠くから袖を振ったのです。当時袖を振るのは求愛のサインでした。これを見て彼女が「ちょっと、やめてよ 人が見るじゃない」と言ったのです。この歌には変なところがいくつかあります。額田王は宮廷に仕事を持っているキャリアウーマンで、有力者の妾という存在ではありません。愛人なのです。その仕事とは歌を詠むことで、例えば、山から国土を見渡しながらその土地をほめる歌を読ます。すると国土は喜んで豊かな実りをもたらすのです。額田王は特殊技能でもって宮廷に仕えているわけで、彼女を所有することは支配者の資格だともいえるのです。豊かな実りをもたらすことが支配者の務めであり、その特殊技能者を他人に取られたまま放置するのは、支配権の放棄ととられかねません。二人は、支配の道具である彼女を巡って争ったのです。そうでもなければ、子までなした女性を実の弟から取り上げるのは、如何に奔放な古代でもスキャンダルではありませんか。天智天皇にはすでに大勢の女性がいるのです。彼女をあきらめなければならない立場の男が、人の目を盗んで女にサインを送るというのは、格好の悪い話ですね。天武天皇にとって格好の悪い話ですから、単なる戯れ歌であれば万葉集の編纂者は気を使って削除するはずです。この事件はそれなりに意味があったから、歌を残したのではないでしょうか。私には、赤の他人に愛人を盗られ、彼我の力関係から自重している男が目に浮かんでしまうのです。
2005年06月28日
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私は、さらに国名を「倭」から「日本」に変え、又元首の呼び名を王から天皇に変えたのが天武天皇だという事実に着目しました。当時の日本はチャイナ文化の圧倒的な影響下にありました。天武天皇のブレインには華僑上がりのチャイニーズが大勢いました。又、日本は唐や新羅と交渉しなければなりませんから、チャイナの常識を前提に行動しなければなりません。チャイナの常識では、国名を変えるということは、新しい王朝が出来たことを意味します。天は、地上の人間達を幸せにするために有徳の男を天子(皇帝)に指名します。そして帝位はその子孫に継承されます。その子孫が極悪非道で天子を失格したら、天は新たに家系が全然別の男を天子に指名します。これが易姓革命です。天が命令を革(変)えて、別の一族を天子にするという意味です。実際には、世が乱れて群雄が割拠し、最後に勝ち残ったものが帝位に着くのを、理論的に易姓革命で説明するのです。天武天皇と天智天皇が兄弟であれば、同じ一族の間のお家騒動ですから、家系は変わりません。従って国名も変えません。実はチャイナの歴史書は日本に易姓革命があったことを記録しているのです。旧唐書には、下記記載があります。日本国は倭国の別種なり。其の国日辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。或は曰う、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為すと。或は云う、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと倭国と日本は別の国で、日本が倭国を併合したというのです。これからも天智天皇と天武天皇は赤の他人だったことがお分かりだと思います。天皇家は万世一系ではないのです。天武天皇は、日本の元首の呼び名を王から天皇に変えました。天皇と皇帝は同じ意味です。チャイナの皇帝には自分を天皇と呼ばせた者もいます。即ち、チャイナの皇帝と日本の天皇は同格ですから、チャイナの属国にはならないと宣言したのです。中華思想に凝り固まったチャイナは、天武天皇の宣言を認めるわけにはいきません。従ってそれ以後明治維新まで、1200年間チャイナと日本の間には正式な国交はありませんでした。天智天皇と天武天皇が、赤の他人でライバルだったという事実を頭に入れて額田王の歌を詠むと今までと違った解釈が出来ます。次回に続きます。
2005年06月27日
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天皇家の系図では、天智天皇と天武天皇は兄弟ということになっています。しかし彼らは兄弟ではない、と私は思っています。天智天皇は「大化の改新」というクーデターの首謀者ですね。弟とされる天武天皇は、天智天皇の皇子と天皇の位を争い、「壬申の乱」を起こした人物で、両者は天皇の中でも非常に有名な存在です。私以外にも二人は兄弟ではないと考える学者や作家はたくさんいます。両者の年齢を調べた学者は天武天皇の方が年長だから、二人が兄弟というのはでっち上げだという結論を出しました。天智天皇は671年になくなったのですが、その8年前の663年に日本軍は、朝鮮半島の白村江で唐と新羅の連合軍に大敗北しているのです。日本軍は3万人近い大軍でした。当時の日本の総人口は500万人で日露戦争当時の十分の一です。しかも当時は全土が政治的に統一されていたわけではありません。日露戦争で日本が国運を賭けて満州に派遣した軍隊が30万人でした。日本が白村江に投入した軍隊は日露戦争時よりも動員率としては高いのです。まさに国運を賭けた戦いでした。そして見事に負けました。新羅はともかく唐は人口でも国力でも当時の日本の十倍ですから、日本は、全国に要塞を築くなど防衛体制を固めました。そして中央集権国家を作るために、急いで律令制度を導入しました。朝鮮半島では、日本と同盟していた百済は完全に滅亡し、高句麗も唐に滅ぼされていました。そして、朝鮮半島は唐と新羅で分割されました。このとき唐と新羅の連合軍が日本に攻め寄せていたら、今の日本はなかったと思います。ところがこの時、唐と新羅は仲が悪くなったのです。新羅は唐に占領された高句麗の領土を狙っていたからです。唐は新羅もこの際滅ぼそうと考えました。そして両方が日本と同盟を結ぼうとしたのです。唐は天智天皇に接近しました。共に新羅を討とうというのです。唐と同盟を結ぶことが出来れば日本は安全だと考えた天智天皇は、唐との同盟に傾きます。新羅は天智天皇の有力なライバルであった後の天武天皇に接近したのです。新羅が滅ぼされたら次は日本の番だという理屈です。結局、天智天皇と後の天武天皇は、唐と新羅の代理戦争をしたのです。次回に続きます。
2005年06月26日
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満州人の版図は、今の満州、チャイナ、コリア、ウイグル、チベット、モンゴルを含む広大なものでした。この広い領域が全て「清」という国家になったわけではありません。これらは全て、独立した国のままでした。明が倒れた後のチャイナの領域に満州人が清を建国し、チャイナの皇帝になりました。その同一人物が、モンゴル、ウイグル、満州の元首を兼ねたのです。同君連合ということです。コリアは、伝統的に事大主義を採用していました。大勢力に服属するということで、自国の安全を図っていたのです。王朝が明から清に変わったときにも、自然に清に服属しました。チベットで一番偉いのは最高位の僧侶であるダライラマで、対外的には彼がチベットの元首として行動していました。ダライラマは僧侶ですから、独身で子孫を残しません。そこで先代のダライラマが亡くなって一定期間の間に、男の子に生まれ変わります。国中でその生まれ変わりの子を探し出して、次のダライラマとして育てるということを行っていました。先代の身の回りの遺品を示してその男の子の反応を見て生まれ変わりか否かを判定したのです。満州人の皇帝は、このチベットの習慣を尊重し、ダライラマをチベットの元首として扱っていました。ただチベットの首都であるラサに大使を駐在させ、軍隊を駐留させて一定の影響力を保っていました。20世紀になって孫文が革命を起こして満州人の皇帝を退位させました。その結果、それぞれの国はばらばらの独立国に戻りました。本来のチャイナにあった清を倒して出来たのが、中華民国です。この中華民国とその後の中華人民共和国が、これらの国を侵略し自国の版図に組み入れてしまいました。満州に関して言えば、もともと満州の元首であった満州人が建て、日本が応援した国が満州帝国です。この満州帝国の正統性について、当時の列強は異議を唱えていません。日本の敗戦後、チャイナは満州を占領しました。従って、今でもウイグル・チベット・満州・内モンゴルでは独立運動が続いています。日本の歴史家がなぜこの事実を書かないのか不思議でたまりません。
2005年06月25日
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モンゴル高原に留まった匈奴は、後漢末の大混乱で人口が十分の一になってしまった穴埋めに、三国志の英雄曹操に招かれてチャイナに移住しました。曹操の重臣の子孫が建てた晋王朝は、後継者争いで内乱が起こりました。そして、それぞれが内地に居住していた匈奴を軍隊に編入したので収拾がつかないことになりました。さらにモンゴル高原にいた遊牧民も侵入してきて、チャイナは大混乱になりました。後漢末と晋末からの混乱で、以前から住んでいたチャイニーズはあらかた死に絶えてしまい、現在の北チャイナの住民は大雑把に言えば北方騎馬民族の子孫だそうです。隋の創業者である楊堅と唐の創業者である李淵は、共に北方騎馬民族である鮮卑族の出身です。唐の後の宋は、北方の契丹人や満州人に圧迫され、最終的にモンゴル人によって滅ぼされてしまいました。異民族に圧迫されていた宋で民族主義が強烈になり、そこから生まれたのが夷狄を毛嫌いする朱子学です。儒教は元来民族的差別など無い思想ですが、宋の時に排外主義的で畸形の朱子学が主流になり、それが日本に入ってきたのです。モンゴル人が活躍したときが騎馬民族のピークでした。ユーラシア大陸の主要部分を征服したモンゴル人は、中央アジアの平原地帯の治安を維持し交易に努めました。その為この時代は東西貿易が栄え、世界的に好景気の時代でした。モンゴル人の侵入に抵抗し独立を維持しましたが、東西貿易から排除され辺境になってしまったのが、ユーラシア大陸の両端であるヨーロッパと日本でした。その後、ヨーロッパは海に活路を見出して挽回を図りました。ロシアも近代的な武器で、騎馬民族を圧倒してシベリヤに進出していきました。日本も若干の時間差がありましたが、明治維新で挽回をしました。このように、世界史を巨視的に見ると二千年前から1500年間は騎馬民族が優位に立っていました。その後の現代までの500年間は、ユーラシア大陸の端の辺境が主役に躍り出た時代です。チャイナも14世紀にモンゴル人の元を倒して明が出来ました。この明は17世紀に満州人に征服されましたが、満州人は遊牧民族ではなく農耕・狩猟民族ですが、騎馬の戦闘が強かったのは同じです。次回に続きます。
2005年06月24日
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鐙(あぶみ)とは、馬に乗ったときに両足を引っ掛けるものであることは皆さんもご承知と思います。両足がだらんと鞍の両側から垂れ下がっているだけでは、体を馬に固定することが出来ず、走っている馬の上では更に両手を使わないと落馬してしまいます。鐙を使うことによって、走っている馬の上で刀を振り回したり、矢を射ったりすることが出来る様になりました。騎兵の誕生です。鐙が発明される前は、軍隊の主力は戦車でした。戦う戦士を乗せた戦車には御者が必要で、混雑する戦車の上では身動きが不自由でした。又、戦車は平坦な地面しか走れず、車軸は摩擦熱でひんぱんに折れました。要するに戦車はそれほど優秀な兵器ではなかったのです。そのため、市民からなる重装歩兵で十分対抗できました。鐙が発明されたのは二千五百年ぐらい前で、黒海の沿岸に住んでいたスキタイ人が最初に使用したらしいのです。この騎兵によって北アジアから黒海沿岸までの乾燥地帯に住む遊牧民の活動が俄然活発になりました。孔子や孟子が生きていた春秋戦国時代の北アジアには、まだ鐙がなかったので北方遊牧民の戦力はたいしたことは無く、農耕主体のチャイナ優位の時代でした。騎馬民族が騎兵を組織しチャイナに侵入しだすのは、ちょうどチャイナが初めて統一された二千二百年ほど前のことです。漢王朝の創始者である劉邦は、騎馬民族である匈奴と戦って負けてしまい、匈奴の単于(王)であるボツトクが兄、劉邦が弟という関係の和睦をしています。劉邦の子孫である武帝の時漢の国力はピークに達し、匈奴を打ち破ろうと頑張りました。匈奴のライバルであった遊牧民の大月氏族と同盟を結ぼうとして張騫を西域に派遣します。又、衛青や霍去病といった名将を見出して匈奴と戦わせました。そして最後に匈奴を打ち破りました。尤も漢の方も国力を使い果たした様で、武帝の長い治世の間にチャイナの人口が半分になっています。負けた匈奴は分裂し、チャイナへの従属を潔しとしない分派は西方へ移動します。この西方へ移動した一派の子孫がフン族らしいのです。その王アッチラはハンガリー平原を拠点としてヨーロッパ中を荒らしまわりました。フン族に押されたゲルマン人は、ローマの版図になだれ込んで、ローマを倒してしまいました。ゲルマン民族の民族大移動です。余談ですが、ヨ―ロッパではこのアッチラ王はジンギスカンと並んで悪党の代名詞になっています。しかし実際は、ナポレオン以上の軍事的天才だったそうです。次回に続きます。
2005年06月23日
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ブログでも最近のベストセラーである「ダビンチ・コード」が話題になりました。そこで本屋に行くとその本が山積みになっているのです。驚いて手にとって見るとアメリカでは二年前に出版されて評判になっているというではありませんか。そこで私もこれを読む決心をしました。しかし「簡単に本は買わないぞ」と決意していますから、立ち読みするしかありません。図書館では順番待ちでいつ読めるか分らないのです。そこで吉祥寺の本屋二軒で交代交代に立ち読みし、本日読破いたしました。ストーリーをここでバラスのは立ち読みよりタチが悪いので致しません。イエスキリストは独身で死んだとされていますが、実は彼には妻と子があったというのです。この事実が公にされるということは聖書がインチキだということであり、カトリック教会にとっては大変なことです。そこで千年にわたり、その事実を明らかにしようとする勢力とカトリック教会が暗闘をしてきて、今またそれが再開されたというストーリーです。さすがにベストセラーだけのことはあるなと感じました。私には膨大なデータが本当かウソかを判断する能力はありません。ただ、一つの事実を知らない方がおられたら本の面白さが半減するので、ここで書こうと思います。そしてこの本を楽しんだら良いと思います。実はカトリック教会の結婚に対する態度は途中で変わっているのです。カトリック教会の神父は最初から独身だったわけではありません。当初は結婚しても問題はなかったのです。ところが僧侶の腐敗があまりにも激しくなったので、神父は独身であるべしという方針を教会が出し、信者の信用を回復しようとしたのです。聖書には「神父は独身であるべし」とは書いていません。それ以前に聖書には聖職者のことなど書かれていません。イスラム教はコーランで僧侶を否定しています。キリスト教は聖書がそのことを書いていませんから見解が分かれます。カトリックは、キリストがペテロを地上の代理人に指定したと主張しています。そこから僧侶という者を認めています。プロテスタントは聖書に書かれていないから神父などあってはならないと考えています。プロテスタントでは牧師(神父ではありません)は信者のリーダーという位置付けで特別の権限があるわけではありません。そして聖書に何も書かれていませんから、牧師が結婚してはならないとは考えてはおりません。プロテスタントの牧師は皆女房もちですよ。結局、この「ダビンチコード」は僧侶の結婚という伝統的問題をテーマにしたということです。
2005年06月22日
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話し合いで全てを解決するというやり方は、当事者に優しい解決方法ではありますが、非効率でもあります。成田空港の用地買収問題は30年以上かけてまだ決着がついていませんが、この経済的損失は莫大なものだと思います。東海地震とか首都圏直下型地震などの自然災害の可能性が高まっています。避難場所の確保や緊急交通網の整備などの事前の対策を急がなければならないはずです。大正12年の関東大震災の死者は15万人、損害は国家予算の1年4か月分でした。当時の東京の人口は約300万人ですから、5%が不幸にもなくなられました。この損害を現在に置き換えると、死者150万人・損害100兆円となります。現在の首都圏の人口は三千万人で、当時の十倍です。政府は、関東大震災と同じ地震が今東京に起こったら死者は1万三千人になると予想していますが、信用している人はいないと思います。10年前の阪神大震災の死者が6500人だったので、それを二倍しただけです。阪神大震災はM7.3でしたが、関東大震災はM7.9でした。M7とM8の地震エネルギーの差は30倍です。阪神大震災と関東大震災の地震規模はまるで違うのです。こういう危険に備えるための施設の建設も、住民の納得が得られるまで何年も待つのでしょうか。私が日本の地震に強い関心を持ったのは、10年前にアメリカの雑誌に載った阪神大震災の記事がきっかけでした。阪神大震災のとき、神戸の下町は大火で大勢の死者を出したが、通りが狭くて消防車が入れなかったのが原因でした。戦争末期の空襲で焼け野原になった後、大勢が他人の土地に勝手に家を作ったのです。神戸市役所は災害を心配して、何度も区画整理をしようとしましたが、他人の土地を不法占拠していた住民が、その違法行為が表面化するのを恐れて絶対反対を繰り返していたのです。これと同じ内容の記事は、日本の新聞には書かれていないのではないかと思います。日本人はこの事実を皆知らないからです。なぜ、日本のマスコミはこのような重要なことを伝えないのでしょう。養老孟司さんは「バカの壁をぶち壊せ 正しい頭の使い方」中で書いています。私が、「日本の社会は非常にもろい」と考えたのは、当事者の納得を重視するあまり、必要なことが後回しになり、ついには間に合わなくなる危険があるからです。私の危惧が現実にならないことを祈っていますが、「お互いの立場を尊重し、相手の納得を得るように努力する」という優しい態度が、とんでもない結果を招くことは知っておく方が良いと思います。
2005年06月22日
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反対派がここまで強行に葬儀場建設に反対するのは、それが彼らの宗教的感情を逆なでするからだろうと思います。「死穢」「怨霊」といったおどろおどろしい物を連想してしまったのかもしれません。ところが彼らは、その宗教的感情をうまく表現できないのです。反対派にも年老いた両親がいるはずです。いつかは自分達も死にます。自分の肉親や自分自身の遺体が穢れていて、生きている人から忌み嫌われていると思うといい気持ちはしないと思います。自分は例外だが、他人の遺体は穢れていると思っているのでしょうか。遺体という物質を問題にしているのではなく、魂を問題にしているのかもしれませんね。人格的に問題のある人間は、死後魂だけになっても生きている人に迷惑をかけると思っているのでしょうか。しかし魂は自由に移動できるはずですから、葬儀場や墓地だけを自分達の生活空間から離しても問題の解決にはならないと思います。結局、反対派の「純正日本人」の態度は上手く説明できません。「うまく説明できないが、嫌なものは嫌だ」ということなのでしょう。日本人はもともと非常に宗教的な民族だと思います。源氏物語の登場人物は、皆熱心な仏教徒です。鎌倉時代は、新しい仏教に日本中が熱狂したという感じです。更には、戦国時代の一向宗のエネルギーは大名をも圧倒していました。この日本人の宗教的な性格は、今も変わっていないと私は感じています。しかし、それを表面に出すことが恥ずかしくなっている様です。宗教を信じているのは阿呆だという固定観念が出来てしまったのでしょう。これは、明治以後の日本の知識人に責任があると思います。19世紀後半のヨーロッパ社会は、フランス革命の影響を強く受けて、教会が社会に干渉するのを排除しようと努力していた社会でした。この表面上の動きを無批判に日本の啓蒙主義者が受け入れ、「宗教は社会の敵だ」という考えを日本人に植えつけたのです。更に共産主義者が、「宗教はアヘンだ」と主張しダメを押したのです。確かに、今の日本では表面から宗教は姿を消しました。しかし新興宗教は後を絶ちませんし、テレビは占いやオカルトを盛んに放映しています。そして今回の葬儀場反対騒動です。「自分の歩んでいる人生が間違っていないか、死後にどうなるか」という問題は、各人のとって非常に重要な問題のはずです。それを無視することは出来ないし、賢明でもありません。宗教に反対するにせよ、賛成するにせよ、日本人は宗教にもっと眼を向けるべきだと思いました。次回に続きます。
2005年06月21日
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葬儀会社は、今の段階で建設を強行すれば商店街との溝が時間をかけても埋まらないと判断したのでしょう。結局反対派も葬儀会社も、法律上の権利義務を盾に争っているのではなく、「お互いの話し合い」による解決を目指しているのです。反対派の中には、「こんなところに葬儀場を作っても儲からないから、止めたほうが良い」と余計なお世話を言う人もいました。又、「まだ心の整理がつかない」という人もいました。内心では「葬儀場建設を阻止することはできない」と薄々は思っている様に私は感じました。葬儀会社のほうも、反対派のあきらめムードを待っている様です。もしこれがアメリカやヨーロッパなどの法律が現実社会を律している社会であれば、葬儀場の建設は法律で決着させると思います。私は、「何と日本は優しい社会なのだろう」と思いました。法律を盾に争うのではなく、相手の納得を得ようと最大限の努力をする社会なのですね。相手の納得を得ることがルールになっている社会ですから、このルールを無視したら、その反発がものすごいのです。「一方的だ」として、相手の態度・人格を非難することになります。日本人の争いを見ていると、最後には本来の争点とは関係のない相手の人格に対する非難の応酬になることが多い様に思います。アメリカで仕事をしている時、私が「偽日本人」だからというので、周囲のアメリカ人に良く意見を求められました。私は「人格を非難されることだけは避けた方が良い」と忠告しましたが、彼らは最後まで納得しませんでした。自分達の権利を主張することがなぜ人格的に問題なのか、理解できないのです。少しきつい言い方かもしれませんが、「日本の社会は非常にもろい」と私は最近考える様になりました。まず、「ごね得」に弱い社会です。相手の納得を得られるまで譲歩しなければならない社会ですから、当然です。いちいち私が挙げなくても、皆さんの周囲にもたくさんの事例があると思います。勿論アメリカにも「ごね得」はあります。「製造物責任」を追及されて、信じられない高額な賠償金の支払いを命じられた大企業もあります。しかし日本と違うのは、受けた被害が金額に評価したら幾らになるかを、お互いに争っているという点です。論理的に問題を解決しています。そして、被害者側の弁護士が優秀なため、企業側が負けたということです。日本の場合には自分が人格的に問題がないことを証明しなければなりません。「相手の納得を得るという日本のルールを尊重しており、一方的な態度はとりません」といわなければならないのです。反論するということは、自分が「相手の立場を考えない一方的な態度の人間である」ということを宣言するのと同じです。従って、相手の人格を非難することで交渉を非常に有利に出来ます。これに対して反論すると日本では喧嘩に負けます。最近、チャイナやコリアが日本を散々に非難していますが、これも日本人だけの特異なルールを利用して儲けようとしているだけです。次回に続きます。
2005年06月20日
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用事があって、今年初めに武蔵野に近い私鉄の沿線に行きました。駅を降りて商店街を歩いていると「葬儀場建設反対」の垂れ幕がたくさん下がっています。駅のまん前の商店街の中心に葬儀場を作る計画があるのです。火葬の設備はなく、お通夜や告別式を行うだけの様です。葬儀場は、車寄せや駐車場を備えるなど道路混雑にも配慮した設計になっており、建築基準法の要件は満たしています。従って建設許可はすでに下りていて、法律上は何の問題もありません。ところが、葬儀会社が区役所に建設着工の届出をするときになって、区の職員が「葬儀場建設に関する指導要綱」を作成し、その遵守を葬儀会社に要求したのです。これは、区の職員が区議会の議決なしで勝手に、国の法律より厳しい規則を出したことを意味します。葬儀場は法律の規定に反していないので、反対派は法律違反を持ち出すことが出来ません。そこで「繁華街に葬儀場を作るのは非常識だ。法律に違反していなければ何をしても良いのか」という主張をしています。葬儀会社はこの反対運動により建設着工が二年以上遅れていて、その間事業を行うことが出来ず大きな損害を受けています。しかし反対派は、自分達の行動が他者に大きな損害を与えていることなど、考えてもいない様です。私はこの「反対運動」に大いに興味を持ち、葬儀会社が主催した住民への説明会に、わざわざ電車に乗って聞きに行きました。私は野次馬根性が旺盛で、親からよく怒られました。葬儀会社は、弁護士まで帯同していました。一方、説明会を聞きに来た住民は、私以外は反対派の様でした。中には、ここの住民ではなく、遠方から反対派の応援に来た人もいた様です。葬儀会社は、「法律に違反していない」「杉並区の出した指導要綱は法的な拘束力がない」と主張していました。指導要綱は、建設会社に住民への説明会の開催を要求しているのです。指導要綱に法的拘束力がなく法律にも違反していなければ、葬儀会社が説明会を開く理由はありません。ところが葬儀会社は、杉並区の指導要綱を「尊重」して、説明会を開いたのです。この辺から「偽日本人」である私と、「純正日本人」との意識のギャップを感じてきました。次回に続きます。
2005年06月19日
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そのカルタゴに有名なハンニバルという将軍が出現しました。彼は軍事の天才で、ローマが総動員をかけて集めた10万の軍隊を全滅させました。そしてローマの城壁に迫ってきました。しかし彼はローマを攻撃せずそのまま引き返していきました。彼の戦略は、ローマの同盟国を離反させカルタゴと同盟を結ぶというものでした。その為、カルタゴ軍の方がローマ軍より強いと言うことをデモンストレーションするために、ローマの城壁に迫ったのです。このとき、ローマには城の外に出て戦う力は残っていませんでした。ところが、ハンニバルの期待とは異なって、ローマからカルタゴに寝返った同盟国は一つもなかったのです。ハンニバルは、毎年春になるとイタリア半島の中心部を略奪して周り、秋になるとイタリア南部の冬営地に帰っていきました。イタリア南部はもともとギリシャ人の都市国家が栄えていたところで、ハンニバルの当時も住民はギリシャ人でした。ギリシャ人はローマ人など馬鹿にしていましたから、彼らをろくに守れないローマ人を裏切らないとは、ハンニバルはどうにも納得できませんでした。民族的には優越感を持っていたギリシャ人も、ローマを本当に信頼していたということですね。そして最後には、ハンニバルはイタリアから追い出されてしまいました。同じことは、現在のフランスにも言えます。ローマと同盟を結ぶことで、ゲルマン人の襲来を防ぐことが出来たのでした。当時のフランスに住んでいたのはガリア人という民族で、ゲルマン人に風俗や言葉が似ていたそうです。そのガリア人がローマを慕うあまり、言葉もラテン語にしてしまいました。こうしてフランス人になったのですが、現在のフランス語はラテン語の方言です。このように、異なった文化・宗教を持った民族をそのまま受け入れる開放性がローマの成功の原因でした。そしてその基は、「サビニ族の女達の略奪」にあります。
2005年06月18日
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怒ったサビニ族とローマは四回戦いましたが、全ての戦いでローマが優勢でした。四度目の戦いのとき、略奪されたサビニ族の女が間に割って入りました。女たちは奴隷にされたわけではなく、妻となったので別に不満はなかったのです。そして最終的に両者は和解しました。アメリカでは、花婿が花嫁を抱き上げて新居の敷居をまたぐ習慣がありますが、これはこの事件以来ローマの習慣になっていたものが伝わったのです。ローマはサビニ族に単なる和平条約ではなく、両部族の対等の合併を提案しました。サビニ族はこの提案を受け入れ、部族を挙げてローマに移住しました。サビニ族の自由民全員にローマ市民権が与えられ、有力者は元老院議員になりました。そしてサビニ王とロムルスは共同統治者になりました。これは、敗者は奴隷にされるのが当たり前だった古代では、信じられない事件でした。このやり方でイタリア半島の中央部を統一します。この時併合された部族の有力者でローマの貴族になった者の子孫にジュリアス・シーザーがいます。シーザーに限らず、ローマの貴族の多くは併合された部族の有力者でした。ローマ中央部を統一した後は、それ以上の版図拡大はかえって非効率になるので、併合政策は廃止しました。その代わりに敵対する国を戦いで打ち破った後、攻守同盟を結ぶことにしました。戦いで打ち負かされた国の政治体制・宗教・支配者には手をつけず、ローマが戦争するときは応援軍を派遣させたのです。その代わりその国が攻撃されたら、ローマ軍は助けに行かなければなりません。領土はそのままでローマに割譲することはありませんでした。ただ、国有地の一部をローマ人に提供しなければならなかった様です。土地を割り当てられたローマ人はそこに移住しました。ローマの同盟国の有力者はローマ市民権を与えられ、更には元老院議員に任命されました。このやり方は大成功しました。同盟国は、領土・文化を保持したままで自国の安全が保証されるわけですから、すっかりローマのファンになってしまいました。ローマは、強力なライバルであったカルタゴと、百年間断続的にポエニ戦争をしました。カルタゴは北アフリカ一帯のほか、今のスペインとポルトガルを領有していたのです。次回に続きます。
2005年06月17日
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私は絵の才能がまるでなく、小さいときから絵を描かされそうになると逃げ回っていました。しかしいつの頃からか、他人の描いたいわゆる「名画」を見るのだけは楽しみになりました。世間で認められた「名画」しか見ようとしないので、本当の絵好きには相手にされない半端者なのでしょう。特にルーベンスとドラクロアが好きで、柄にもなく画集を買ってきて時々眺めております。絵が好きな人の中には、ルーベンスは好きでないという人もいます。彼の絵そのものより芸術家らしくない態度が嫌だというのです。ルーベンスは絵の工場を持っていまして、大勢の弟子達に下絵を描かせ、本人は最後に少し触るだけでした。彼は、生存中から巨匠の名をほしいままにしていましたから、このような「半分贋作」でも非常な高値で制作依頼がきたのです。ルーベンスが生きていた時代は宗教戦争の真っ最中で、カトリック信者だった彼はローマ法王やカトリック側の王侯貴族の広告塔でした。ローマ法王に信頼された彼は、法王庁の使節として各地の宮廷に派遣されてもいます。やはり彼には、純粋な芸術家というより、「御用絵師」というイメージがあることは否定できません。ルーベンスは神話や歴史的場面を題材に使うことが多く、これも王侯貴族に人気のあった理由の一つでしょう。かくして、ルーベンスの絵はヨーロッパの美術館に溢れています。このルーベンスが画いた絵に「サビニ族の女達の略奪」があります。これはローマの神話を題材にしたものです。紀元前753年に、羊飼いのボスであったロムルスは、テヴェレ川岸に都市を建設して王になりました。これがローマの始まりです。このとき、市民三千人のうち大部分が独身でした。要するに彼らは、周辺の村からはじき出されたアウトザイダーでお嫁さんをもらえる状態ではありませんでした。国を建てて生活が安定した彼らが、真っ先にしたことが女の補充でした。ロムルスは近くにすむサビニ族を祭りに招待しました。お祭りの日は戦闘が禁じられていましたから、サビニ人は、ただ酒が飲めると喜んで家族を連れてローマにやってきました。祭りの最高潮のときに、ローマの独身男たちはいっせいにサビニ族の娘に襲い掛かりました。不意を襲われたサビニの男達は残った家族を連れて逃げ帰りました。この伝説をルーベンスは絵にしたのです。次回に続きます。
2005年06月16日
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県は商業を行うための城塞都市です。貿易ルートの要衝にあり、周囲を城壁で囲み内部は道路が走っています。県の中で開かれる定期市に参加してビジネスをしたい者は、県の住民にならなければなりません。住民登録が必要です県の住民の果たすべき義務として兵役・労役・租の支払いがあります。兵役は、城壁外の原住民から県の組合員の特権を守る自警団に参加することです。租は、売り物の一部を県の管理費として現物支払いすることです。労役は県の雑用をすることです。住民税としての兵役・労役・租の支払い以外に、皇帝には税を支払わなければなりません。城門を通過する際に商品の10%を納めるのです。皇帝は、県からの税収のほかに直営の工場も持っておりそれを売って大いに儲けてもいました。鉄や塩などの必需品や景徳鎮の焼き物や錦などの高級品です。皇帝の収入は主として軍備や外交に使われました。皇帝から見れば、県城の住民である「民」がいわば「社員」であり身内でした。県城の外にいる原住民は「夷」であって、県城に食糧を提供するだけの存在です。領土という発想もありません。皇帝が支配するのは、広大な地域に点として存在する県だけです。この「夷」である農民からも租を徴収しますが、商業収入に比べればわずかなので、皇帝は重視していません。税率も低いのです。県知事は原則として無給です。そこで、この農民から「小額の租」を徴収することが知事に認められていました。知事たちは、この「小額の租」の徴収に全精力を注ぎ、結果として皇帝の取り分の十倍ぐらいになっていました。このように、県の組合員である「民」と県城外の「夷」である原住民は峻別されていました。実はこの区別は現在のチャイナにも厳存しています。農村の戸籍の者は都市に住めません。大学を出れば都市に住めますが、農村籍の者の進学は非常に困難です。従って彼らは、身分の不安定な現場労働者にしかなれません。現在のチャイナの経済発展の原動力は、この農民籍の「夷」を低賃金で外国企業に提供する人材派遣業です。都市住民である「民」と農村の「夷」は、まさに人種が違うという感じですね。そしてこれが、現在のチャイナの社会が不安定になっていることの大きな原因です。歴史的にチャイナの動乱期には人口が大幅に減少していますが、これは支配者が農民達を真剣になって保護しようと言う意識が少ないからです。なにしろ、後漢末の黄巾の乱が起きる前の総人口は五千万人以上だったのですが、半世紀後の三国争乱の時代には十分の一になってしまいました。三国志の英雄の曹操は、人手不足を解消するために北方の騎馬民族を招聘しています。彼らは農業を嫌がって流民化し、社会の不安定要素になりました。曹操の時代から百年後、チャイナで再び動乱が起きますが、これらの北方騎馬民族の子孫によっていっそう悲惨な状態になってしまいました。
2005年06月15日
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黄河文明については、黄河中流域の洛陽盆地に農業が発展し、人口が増えて都市文明が発生したという説明がされています。しかしこの農業起源説は、最近はあまり流行っていません。黄河流域は農業に適した土地ではないからです。下流は大洪水が頻繁に起きるし、上流は流れの侵食のために川の水が上手く使えません。黄河を渡るのは非常に大変なのですが、唯一簡単に渡れるところが洛陽周辺で、ここが交通の要衝なのです。最近は商業起源説が力を得ています。この渡河点を中心に商人が集まって文明が生まれたという説です。この洛陽付近の渡河点の都市のボスが王になったのです。チャイナの古い王朝に「殷」がありましたが、別名を「商」と言いました。殷の前の王朝は「夏」でしたが、別名は「賈」と言いました。どちらも「商業」を国名にしています。これらの古代王国の基盤は商業だったことを意味しています。我々現代人は、「昔は交換するような商品があったのか」という疑問を持ちます。しかし、太宰治は津軽の大金持ちの息子でしたが、先祖は江戸時代の初めの近江商人で、京都の古着を津軽に売りに来てたちまち財を築いたのです。このように経済的先進地帯の産物は、後進地帯では光り輝いていたので高額で売れたのです。古代のギリシャやカルタゴは商業によって栄えました。古代でも商業は強大な国を作り上げる力を持っていたのです。古代地中海世界では、ギリシャ人やフェニキア人の商人が移住して都市を築いています。既にある都市に移住したのではありませんでした。余った農産物を買ってくれる人がいなければ、農民は必要以上に作りません。商人が都市を作り、その商人に農産物を売るために周辺に農場が切り開かれたのです。世界中の古代都市はこのような過程で生まれています。チャイナでも事情は同じです。商業都市のなかで勢力のあるものが、植民都市を作り広域商業ネットワークを作り上げました。これが古代の夏に始まるチャイナの王国です。この商業王国という性質は、最後の王朝であった清まで受け継がれています。そして現在の共産チャイナも同じです。チャイナでは、王や皇帝は流通業の頂点に立つ経営者のことです。封建制度とは、日本やヨーロッパでは君主が臣下に農地を与えることです。しかしチャイナでは、地方の商業都市に世襲の管理人を任命することです。秦の始皇帝は、この地方の商業都市を皇帝直轄の都市にし、知事に官僚を派遣しました。皇帝の直轄とされた地方商業都市を県と言います。いくつかの県の安全を守る軍管区を郡といいました。これが秦の始皇帝が始めた郡県制度です。次回に続きます。
2005年06月14日
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チャイナに関する研究では、日本はアメリカやイギリスに比べて非常に遅れています。日本がチャイナと接した時間は、アメリカやイギリスと比べて短いのです。イギリスはアヘン戦争時から本格的にチャイナと交渉を始めましたが、これは明治維新の30年前です。江戸時代は、華僑が長崎という辺境の町に商売に来ただけで、交渉といえるほどのものはありません。「遣唐使があるではないか」と反論されるかもしれませんが、あれは単に留学生というだけのことです。確かに大使が任命されてチャイナに行きましたが、彼らは天皇から皇帝への手紙を持参していません。「大使」は単に留学生達の引率というに過ぎません。それは、「天皇」が「皇帝」と同格の為、中華思想に凝り固まったチャイナ側が天皇の手紙を受け取るはずがないからです。王は皇帝より格下ですから、チャイナも問題にしませんでした。日本の王が天皇を称したのは、7世紀末の天武天皇の時からです。同時に国名を「倭」から「日本」に変えます。それ以前は、チャイナの史書は「倭王○○が使いを遣した」と書いてあります。ところが、「天皇」と「日本」を採用した後は、「日本から使いが来た」と書いてあるだけで、誰の使いかは書いていないのです。例えば、宋書倭国伝には451年に下記記述があります。「二十年、倭国王済、使いを遣わして奉献す。復た以って安東将軍・倭国王と為す」これが旧唐書倭国日本伝の806年の記述では変わっています。「貞元二十年、使いを遣わして来朝す。学生橘免勢、学問僧空海を留む」日本の天皇とチャイナの皇帝の付き合いはなかったのです。このような重要な事実を、日本の歴史書は書いていません。その理由は分りませんが、この事実に気がついていないのであれば、問題外です。私が読んだ範囲でこの辺の事情をきちんと書かれているのは、岡田英弘教授です。岡田教授は東京外国語大学の東洋史の教授です。要するに7世紀末から1200年間、日本とチャイナはまともな交渉がなかったのです。更に日本人は、儒教の古典を通してチャイナを理解していると誤解しています。しかし前にも書いたように、これらの古典は哲学書ではなく実質的には「模範文例集」です。このような思い込みを積み上げた「研究」が、アメリカやイギリスの研究より遥かに遅れていることを日本人は自覚する必要があると思います。次回に続きます。
2005年06月13日
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漢文は、言葉の通じない者どうしが考え出した言葉が起源ですから、簡単な構造になっていて、複雑な内容を表現するようには出来ていません。このような起源の特殊な言語ですから、文法もありません。例えば「話」という漢字を見ても、「話す」という動詞にも、「はなし」という名詞にもとれます。「歩道」は「歩く道」と読めますが、「道を歩く」も可能です。又、過去か現在かの区別もありません。非常に曖昧な言葉です。しかし、チャイナ全土で統一的に使える文章語は「漢文」しかありませんから、後に行政用語となったのです。ですから漢字を並べて、それを教養あるチャイニーズにいきなり「読め」といっても無理です。あらかじめ文章全体の内容が分っていないと理解できないのです。チャイナの高級官僚の試験が、古典をどれだけ暗誦しているかで合否を判定するのはこのためです。古典とは、実質的には「模範文例集」です。これをたくさん暗誦していてはじめてお互いに手紙で意思疎通が出来るのです魯迅は、子供時代に古典を暗誦させられましたが、一つとして意味が分らなかったと自伝に書いています。同じ系統の言葉であれば、古くても何とか分ります。しかし日常使っている言葉と全然違うので、まるで分らないのです。二千五百年ぐらいの前の戦国時代になると、各列強の版図が広くなり官僚組織が出来てきたので、文書が使われるようになりました。又、外交文書も必要になりました。この時に、漢字の書ける儒者を下級官吏に採用したのが、後の儒教の興隆の始まりでした。儒者というのは、始めは死者の霊魂を呼ぶ一種の霊媒だった様です。その後孔子という大先生が現れビジネススクールを開きました。孔子は、社会の安定の為には主君に対する忠誠が大事だと教え、支配者の泣き所を抑えたのです。又、彼とその後継者はその思想を本に纏めましたが、儒者は「詩経」「春秋」「易経」といった古典を神聖視し、その読み方を厳密に定めていました。行政文書や外交文書の読み書きには、儒者は都合が良かったのです。戦国の列強は、下級官吏として儒者を雇いました。儒者はお互いの手紙によるコミュニケーションを円滑にするために、「模範文例集」として、儒教の古典を用いたのです。戦国時代の儒者は、倫理道徳を説く人材というより、文書作成の技術者と認識されていました。チャイナの官僚が「儒教に通じ思想的に優れた人間でなくてはならない」というのは建前だけです。実際は、儒教の古典を暗誦していることが、コミュニケーションに必要だったから、儒教が重視されたのです。
2005年06月12日
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私は大学生の時、外国語の一つとしてチャイニーズの講座があったので、興味本位に聴講してみることにしました。ところが少しかじってみて前途の困難さが分ってきたので、すばやく撤退しました。先生がいきなり、「チャイニーズを覚えたから現地で物を値切れると思ったら間違いです。皆さんが話すチャイニーズは通じません」と言われました。先生は、アメリカや日本の国会に当たる議会で、議員が演説しているフィルムを見せてくれました。議員が演説している演台の上にスクリーンがあって、そこにこの議員が演説している内容を文字で表示しているのです。そうです。「字幕」です。聞いている議員の大部分は、話している言葉が分らないのです。最後に「儒教を学んでも現実の解決には役立ちません」と言われました。殆どの学生は私同様逃げ出した様です。残ったのは将来学者になろうと考えているマゾヒストだけでした。この先生は、毎年学生を脅して半端な連中を追い払うので有名でした。チャイニーズと私の関係はそれで終わってしまいましたが、上記の先生の言ったことだけは覚えていました。その後、チャイナ出身者と話をする機会もあり、先生の言ったことは嘘ではなかったことが分ってきました。アメリカの先生が教えようとしたのは、北京官話でした。チャイニーズは自分達の住んでいる所を世界の中心と考え、周辺に住んでいる諸民族を、北狄・西戎・南蛮・東夷と称して低く見ていました。北狄とは、満州の狩猟民族、西戎とはモンゴル・トルコ系の騎馬民族、南蛮とはタイ系の焼畑農耕民、東夷とはコリアンや日本人です。これらは、言語構造がお互いに全然違います。チャイニーズとは、これらが交じり合って出来上がったもので、もともと一つの民族をなしていたわけではありません。従って、場所が違うとお互いに言葉が通じないのです。北京官話は北京周辺の言葉で、地方では全然通じません。チャイナの政府は、この北京官話を標準語にしようとしていますが、未だに普及率は低いのです。更にことをややこしくしているのは、「漢文」の存在です。日本人が「漢文」として学校で教わる言葉は、論語など古典が書かれている言葉ですが、生きている言葉ではありません。話し言葉がお互いに通じないので、「漢字」という文字を媒介として人工的に作り出された言葉です。
2005年06月11日
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高校生の一時期、私は夢中になってバルザックを読んでいました。バルザックは少しいかがわしい男です。そして成金趣味です。実際は平民の出なのに、自分で勝手に貴族であることを示す ド(de)を名前に挿入しました。そして骨董屋に騙されては、名門が持っていたという道具の偽者を集めていました。彼が死んだ時財産を整理した人物が、彼ほど物を見る眼がない男も珍しいと驚いたそうです。彼は人気作家でしたから、小説の印税でゆったりと生活していれば良かったのです。しかし大金持ちになりたいと思って、何回も事業を興しては大失敗して、巨額の借金を作ってしまいました。借金を返済するためにお金が必要だったので、朝から晩までコーヒーをがぶ飲みしながら小説を書いていました。なにしろ一日八杯コーヒーを飲んでいたというのです。借金返済のためとはいえ膨大な小説を書きましたが、それぞれの小説が皆繋がっているのです。ある小説では脇役だった男が別の小説で主人公になるという具合です。登場人物を数えた暇人によると全部で四千人になるそうです。バルザックはこの四千人の織り成す人間模様を「人間喜劇」と名づけました。彼の小説の主題は「情熱」です。その情熱の種類は問いません。盗みと騙しに対する情熱と貴婦人に対する情熱に差異を認めないのです。彼が問題にするのは、「情熱」の量です。そして「人間喜劇」に登場する主人公は皆並外れた量の情熱を持った者ばかりです。バルザックは、22歳のとき、44歳の貴族夫人で九人の子持ちと恋をします。彼女が「谷間の百合」の主人公である伯爵夫人のモデルです。そして晩年になり借金に追い立てられた彼は、ロシアの金持ち貴族の未亡人とやっとの思いで結婚します。そして結婚直後に死んでしまいました。バルザック自身が異常なほどの「情熱」の持ち主だったのです。長い間、バルザックを忘れていた私ですが、また彼の作品を読み始めました。そして改めて思いました。人は情熱を持ち続けなければならない と。
2005年06月10日
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蓮如上人の天才的な経営能力によって、信じるだけで救われると言う戦国時代向けのこの宗教は大流行します。そして「講」を軍事組織の単位とした「一向一揆」が日本中で頻発します。浄土真宗は色々な名称を持っています。「本願寺」や「門徒」という言い方もありますし、「一向宗」とも呼びます。「一揆」とは同じという意味です。皆が同じ制服を着ることを「一揆装束」と言いました。国人達が大名に対する反乱を企てるときは、村の一向宗の寺に集まります。そして例の「一山衆徒」の原則で会議を開きます。皆が平等の一票を持つ多数決で議題を決めていくのです。そして議決された事項を証文に書きます。その証文の最後は、神と仏に対してこの契約の遵守を誓う言葉で終わっています。反対意見を持っていた者もこの決議に従うことが書かれています。そして契約に違反したら、神罰にあっても文句は言いませんと約束しているのが普通です。この証文はメンバーの数+1枚作られます。一枚は燃やして、その灰を神水と一緒に飲みます。この場合、議決は人間がしたのであって、この点がキリスト教の多数決とは違います。神と仏はこの契約の証人です。この一向一揆は、「進めば極楽、引けば地獄」という、お釈迦様も親鸞聖人も言った覚えのない過激なスローガンを掲げて戦いました。宗教的な信念に基づいた軍隊ですから、とにかく強かったのです。加賀の国では、一向一揆が大名を追い出して、一向宗共和国を作りました。信長は石山本願寺相手に苦戦します。三河は一向宗が多いところだったのですが、家康の家来も一向宗の信者が多く、彼は若いとき大反乱を経験しています。室町時代から戦国時代にかけての一向宗の全国的大流行により、比叡山の議決方式であった「一山衆徒」の多数決方式は、日本中に浸透し、ついには日本人の常識になりました。現在、日本人は多数決をヨーロッパやアメリカがもたらしたものだと誤解していますが、比叡山発祥の伝統的なものです。従って、ヨーロッパ式の多数決と日本式多数決は、その宗教的背景の違いによって違う部分があります。ヨーロッパ方式は、多数決は神意の現れですから、神意に反する議決は出来ません。神の所有権の侵害である「基本的人権の侵害」は認められません。仏教には、人間は神の創造物という発想はありません。宇宙はなぜか分からないが昔から存在するものです。従って、神の所有権の侵害たる「基本的人権の侵害」という考え方もありません。日本のマスコミが、「基本的人権の侵害」を平然と行っていることからも、日本人が伝統的な多数決原理に従っていることは明白です。以前、このブログで書いた女子高校生の「裸刑」事件では、ヨーロッパ流の「基本的人権」が侵害されているとは、日本人は思いつきません。昔の日本人であったら、神や仏を恐れない行為だと考え妥当な結論を出せたでしょう。ところが、最近の日本では神や仏を持ち出すのが恥ずかしいと考えているのでしょうか。宗教的な善悪を持ち出しません。その結果、どうしてよいか分らなくなっている様です。
2005年06月09日
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戸籍から漏れた農民を保護し利用したのが地方の有力者で、彼らに未開墾の土地を開かせました。古代以来の豪族や土着した国司の子孫が、これらの農民を収容したのです。農民にしても、政府から割り当てられた水田は荒廃して農業が出来ないのに、年貢はたっぷりとられるので、こちらの方がましでした。土地を開墾した地方の有力者は、折角の土地を国家に取られるのを防ぐために、その土地を名目上都の公家に寄進しましたこれが「荘園」の起こりとなったことは皆さんも十分承知のことと思います。開発した地主は荘園の管理人となりましたが、これが武士の起源です。この名目上の所有者である公家が勝手なことを言ってくるのに嫌気がさして、武士が頼朝を担ぎ上げて自己主張したのが鎌倉幕府です。この古代からの日本の前提が崩れたのが室町時代です。土木技術の発達により、淀川や木曽川などの大河の下流で安定した田圃を作ることが可能になりました。このときになって初めて、多くの日本人が定住生活を始めます。そしてこれが日本を大きく変えます。まず、お米が沢山取れるようになって、人口が増えました。山麓から平野に農民が移動したことによって、平安時代以来の「荘園」が落ち目になり遂には消滅しました。農民が定住し大きな集落を作りました。これが惣村です。今の日本の村の四分の三は、室町に出来た惣村が起源です。この新しく出来た惣村に目をつけたのが蓮如でした。この惣村のリーダーが「国人」です。彼らは村の地主で、年貢を絞りに来る大名に反抗的でした。この国人と本願寺(浄土真宗の本山)が結びついたのです。本願寺が派遣した坊主と村のリーダーたる国人が中心になって、浄土真宗の信者組織である「講」を作り上げました。
2005年06月08日
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一山衆徒の多数決で重要なことを決める習慣は、天台宗から分かれた宗派にも受け継がれました。天台宗から分かれた浄土真宗にも当然ですが、多数決の原理が入り込みます。浄土真宗の開祖親鸞聖人は、都の下級公家の息子でしたが比叡山で修行した後、法然上人に弟子入りして浄土教に目覚めます。そして最終的に浄土真宗を創設します。浄土真宗は革命的な宗教です。「善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人おや」という名文句を、親鸞聖人ははきました。平安時代末期の1052年に、末法の世に突入したと当時日本人は考えました。お釈迦様の死後二千年が過ぎて、修行が行われない世の中になってしまったのです。修行をしないと仏教の目的である成仏が出来ません。その厳しい修行を行う人間が居なくなったわけですから、仏教界はやけくそになりました。もともと日本の仏教は戒律に対して甘い態度でしたが、親鸞聖人はついに居直って、「修行をする必要はない。阿弥陀仏を信じれば良い」と仰ったのです。なにやらキリスト教に似てきました。お釈迦様の定めた戒律を守って修行をしている人(善人)は、極楽に行けると安心して弛んでいます。そんな人でも極楽に行くことが出来ます。ましてや、修行をしたくても出来ない人(悪人)は、非常に謙虚ですから一心に阿弥陀様を信じて頼ります。極楽に行けないはずがないのです。親鸞聖人の死後暫くは、浄土真宗は全然流行りませんでした。しかし親鸞聖人の子孫で6世法主蓮如上人は、組織つくりの天才でした。彼が生きていた室町時代はものすごい勢いで世の中が変わっていましたが、彼はその時代の本質を見抜いたのでした。日本の歴史を二つに分けるとすれば、鎌倉時代と室町時代の間に線を引くことになるでしょう。その前と後では、あらゆることが違います。鎌倉時代までは日本の農業技術及び土木技術はまだ幼稚な段階でした。大規模な用水路や堤防を作れなかったので、大きな平野を田圃にすることが出来ず、山の麓の狭いところで農業をしていました。飛鳥や出雲など古代の都は山の麓にあります。当時はここが生産の中心地で、人口密集地だったのです。小さな流れは不安定なので、田圃はすぐに荒廃しました。水田だけでは不十分なので、焼き畑農業も盛んでした。日本の政府は奈良時代にチャイナから律令制度を導入し中央集権制度を作り上げようとしました。その基本が農民の戸籍を作り、年貢を取り立てることでした。ところが当時の農民は農地を求めて頻繁に移動しましたから、まともな戸籍が作れませんでした。よその国の制度をそのまま持ってきても、上手くいくわけがないのです。次回に続きます。
2005年06月07日
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またまた 蛍を見に行きました。今度は、国分寺です。国分寺駅の南に「お鷹の道」があります。武蔵国分寺のそばです。駅に案内板があるので場所はすぐわかります。そこは天然の蛍がいるところです。8時まで蛍が現れないのであきらめていましたが、最後に一匹現れました。私の目の前をふらりふらりとしていて、手で捕まえられるほどでした。5分ぐらい私とお話をした後、目の前の木の葉に止まりました。結局、私と蛍は一対一で10分ぐらい向かい合っていました。彼は私の魂に違いありません。そこで名前を付けました。「お鷹のジョージ」私達はすっかり仲良くなってしまいました。私のほかにほとんど誰も来ませんでした。「お鷹の道」はいいところですよ。もうすこししたら、蛍はもっとたくさん現れると思います。しかし、私はお鷹のジョージと会えてすっかり満足しました。
2005年06月06日
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比叡山には何度か行ったことがあります。「般若湯」を売る酒屋まである高野山とは違って、いかにも修行の場という感じが漂っています。天台宗比叡山延暦寺はまさに日本の仏教の中心地ですね。浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗という鎌倉仏教の開祖は全て比叡山で修行していました。今でこそ比叡山は、「お寺です」という顔をしていますが、戦国時代までは寺というより「大名」でした。全国に膨大な荘園を持ち、強力な僧兵を抱えていました。僧が武器を持って兵隊になったわけではありません。都の公家の荘園の管理人が武装して侍になり、本所の公家に仕えたのと同じです。比叡山の荘園の管理人が武装して比叡山に仕えただけです。寺に仕えるので武士の格好では都合が悪かったのでしょう。頭を剃ったのです。武蔵坊弁慶も比叡山の僧兵でしたが、お経など読めなかったのではないかと思っています。源平の争乱から戦国時代まで、各地の大名は興福寺や比叡山を完全に大名と考えて、同盟を結んだり戦ったりしています。武田信玄が遥かな甲斐から都に攻め上り、織田信長を蹴散らそうと決断したのも、比叡山と同盟を結ぶことが出来たからです。比叡山の座主は、皆天皇家か藤原摂関家の一族で強力な人脈を持っていました。鎌倉初期の座主で「愚管抄」の著者として有名な慈円も、法性寺関白藤原忠通の息子でした。比叡山はその強大な勢力を背景に、大名と戦うだけでなく、朝廷に強訴したり三井寺や興福寺など他の「大名寺」と戦ったりしています。合戦をするなどというような重要な決定は、比叡山の全員「一山衆徒」で会議を開き決めていました。全員が覆面をして暗い夜中に集まりました。こうなると皆が僧衣を着けているので誰だか分かりません。身分の上下を問わず全員が一票を平等に持つ無記名の議決が行われたのです。具体的に投票したのか、「賛成」「反対」の声の多さで判断したのかは、私の知識不足で分かりません。いずれにしても、多数決で決めたのです。次回に続きます。
2005年06月06日
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昨夜、蛍を見に行きました。夕方ものすごい雨で心配しましたが、6時頃には止みました。神田川と玉川上水の両方に蛍を放流していましたが、玉川上水のほうが蛍をまじかに見ることが出来ました。見物人が多かったですが、蛍も沢山光っていました。良かったですよ。デジカメを持っていきましたが、映りませんでした。明日か明後日には、別のところに天然の蛍を見に行きます。下の「多数決 3」も読んでくださいね。
2005年06月05日
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フェルゼンだけでなく、フランスの貴族が大勢アメリカ独立軍に参加し、ジョン・ロックの思想にかぶれて帰ってきました。フランスの人権宣言には神は出てきません。カトリックの神父の上層部を貴族が独占し国王の支持層を形成していたので、宗教は革命の敵だったからです。しかし革命思想の根本に神がいるので、革命派はその理由付けに苦労しました。過激派であったロベスピエールは、神の代わりに「最高存在」という物を発明しましたが、なんのことはない神と全く同じです。この様に、フランスでは宗教と政治を分けようとする考え方が主流です。現在も、公共の場所に宗教を感じさせるものを持ち込む事を禁止しています。その為イスラム教の女子高生が、スカーフを被って学校に行ったので退学処分を受けるなどしてもめています。イスラム教国であるトルコがEUに入りたがっていますが、「宗教が違うからダメ」と言えないで苦労しています。今度ローマ法王になったベネディクト16世は、早速「宗教の違うトルコがEUに入るのは反対」と言いました。ヨーロッパ中の総意を代表しての発言だと私は思いました。このようにヨーロッパの民主主義は、キリスト教そのものです。別に、キリスト教徒でない日本人がヨーロッパ流の民主主義を採用してはならない、ということはありません。しかし宗教的背景を持たないので正しく理解されていない、と私には思えます。アメリカであれば、「基本的人権の侵害だ」と大騒ぎされそうなことを、マスコミ自身が平然と行っているのも、人は神の所有物だという理解がないからだと思います。人間が人間に付与した権利は「特権」で基本的人権とは異なるものです。しかし日本人には、「基本的人権」と「特権」の区別が出来ていない様な気がします。「特権」を特定の人間に与えるか否かは人間が判断できます。都営のプールを無料で使用する「特権」を都民にだけ与えるのは当然です。他府県の者から入場料を徴収することは差別ではありません。参政権も特権です。人間の集団である国家が国民に与えたものです。従って国民でない外国人に与えなくても差別ではありません。他にも無理があります。例えば刑法202条の自殺幇助は、完全にキリスト教の発想です。神の所有物である自分を殺すのは、神に対する罪なのです。日本では自殺が全て悪いという考え方は無いと思います。切腹は自分の名誉を守るための手段で、むしろ称賛すべき行為のはずです。腹を切って苦しんでいる者を介錯するのは、むしろ立派な行為です。
2005年06月05日
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ジョン・ロックはイギリスの「名誉革命」の指導者でした。当時のイギリス人の多くはプロテスタントだったのに、国王はカトリック教徒でしたので政治的紛争が起こっていました。このときにジョン・ロックが「神から与えられている人間の権利を侵害している国王は敵だ」と叫んだのです。その結果カトリックの国王は追い出され、別のプロテスタントが国王になりました。これが名誉革命です。このプロテスタントの王様はオランダ人で、奥さんが追放されたイギリスの王様の娘でした。父と娘で宗教が違っていたのですね。今のイギリスの王室はその子孫ですから、いわば革命政権です。18世紀の中頃、追放されたカトリック教徒の王様の子孫が、王位を奪い返そうとイギリスに侵入しました。現王室の先祖は軍隊を率いて迎え撃ちました。この時現王室を応援する歌が出来ました。これが God save the king で現在のイギリスの国歌です。この歌は自然発生した歌で、作者が分っていません。戦争の応援歌ですから内容がかなり過激です。God Save the King 神よ 王様をお守りくださいLong live our noble King 高貴な王様万歳Send his victorious 神よ 王様を勝たせてくださいScatter our enemies 敵を蹴散らしConfuse their politics 敵の戦略を混乱させたまえMay he defend our laws 王様が我々の法を守ることが出来ますように日本の「君が代」とは、成り立ちも歌詞もかなり違います。アメリカは戦争までしてイギリスから独立しましたから、本来なら仲が悪いはずです。しかし、仲がいいのは同じ思想を共有しているからではないでしょうか。アメリカの独立戦争の刺激を受けて始まったのがフランス革命です。フランス王妃であるマリーアントアネットの愛人であったフェルゼンは、アメリカ独立軍の将校としてイギリス軍と戦いました。フランスとイギリスは伝統的に仲が悪かったので、イギリスを困らせることは何でも喜んでやりました。フランスはアメリカに巨額の財政援助を行いました。このときの借金もフランス革命の一因です。次回に続きます。
2005年06月04日
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今年も蛍を見て、私のアイデンティティーを確認します。私の住んでいる三鷹市からは少し離れているのですが、井の頭線の久我山で明日と明後日、蛍祭りがあるので見に行こうと思っています。人工飼育したものですが、皆さんも時間があったら如何ですか?神田川と玉川上水の両方に蛍を放流します。玉川と方が水がきれいなので、見に行く人が多いということです。玉川は草木が多く蛍が良く見えない様です。神田川と玉川の両方を見ることをお勧めします。尚、蛍が光るのは、午後7時半から9時ぐらいの間です。尚、一週間ぐらいは蛍は生きているので、後の日にしたほうがゆっくり見られるかもしれません。下記ホームページを参照ください。http://www.walkerplus.com/hotaru/kanto/event04.html私は、来週別の自然の蛍を見に行く計画も立てています。先ずは私が偵察します。良かったら、皆さんにもご紹介します。下の「多数決」も読んで下さい。
2005年06月03日
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ヨーロッパ式の多数決には制約があります。神の意思に反していることは議決できないという事です。下記のような事が、日本の高校で実際に起きたそうです。クラスで何か決め事をしました。そしてそれに違反した場合は、皆の前で裸になるという罰則も決められました。ある女子生徒はその申し合わせに違反し、その裸刑が実施されそうになりました。担任の先生はまずいと思い止めさせようとしました。生徒達は多数決で決めた自分達の結論をひっくり返すのは、民主主義に反しており、先生の横暴だとして雰囲気がおかしくなってしまいました。先生は、どこが問題なのか説明できませんでした。そして生徒達との議論に負けてしまいました。その結果、裸刑が実行されたそうです。日本では、キリスト教のヤハウェの神を持ち出しても誰も納得しません。だからその担任の先生は、「そんなことは、神や仏が許さない」と言えば良かったのです。キリスト教では人間は神の所有物ですから、人間が他の人間に勝手なことはできません。神の所有権を侵害することになるからです。神の所有物である人間の本質的な部分のことを、「基本的人権」と呼んでいます。これは多数決でも奪えません。1776年にアメリカは、イギリスからの独立を宣言し戦争になりました。このときのアメリカの「独立宣言」の序文は下記です。我らは以下の諸事実を自明なものと見なす。すべての人間は平等に造られている。創造主によって、生存、自由そして幸福の追求を含む侵すべからざる権利を与えられている・・・この独立宣言は、日本でも「民主主義」のお手本になっています。ヨーロッパ流の民主主義は、キリスト教そのものです。創造主たる神が個々の人間に与えたものだから、生存・自由・幸福追求の権利を人間は本来持っているというのです。神が与えたものを奪うことが出来るのは神だけです。人間は奪えないのです。この独立宣言を起草したのは、ジェファーソンやワシントンといったプロテスタントの指導者でした。彼らの師匠は、ジョン・ロックという17世紀末のイギリスのプロテスタント思想家でした。次回に続きます。
2005年06月03日
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ひょんなことから多磨霊園に行きました。そして与謝野晶子のお墓を見つけました。晶子は昭和十七年に亡くなったのですね。昭和二桁まで彼女が生きていたとは驚きました。そこで彼女の歌集である「みだれ髪」を買って読み始めました。さすがに良い歌がたくさんあります。今日は、彼女の歌を紹介したいと思います。髪五尺ときなば水にやわらかき少女ごころは秘めて放たじその子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな臙脂色は誰にかたらむ血のゆらぎ春のおもひのさかりの命海棠にえうなくときし紅すてて夕雨みやる瞳よたゆき清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢う人みなうつくしきやは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かなおばしまにおもいはてなき身をもたせ小萩をわたる秋の風見るうすものの二尺のたもとすべりおちて蛍ながるる夜風の青き恋ならぬねざめたたずむ野のひろさ名なし小川のうつくしき夏二十とせの我世の幸はうすかりきせめて今見る夢やすかれな罪おほき男こらせと肌きよく黒髪ながくつくられし我れこの最後の歌は最高です昨夜飲み過ぎました。今から又寝ます。
2005年06月02日
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ローマ法王の権威の根拠は「神の代理人」です。神がローマ法王をこの地上における代理人に任命し、法王の判断は神の判断であると認めたのです。先日も書きましたが、イエスがローマ法王を代理人に任命したのです。任命者であるイエスが、ただの人間では何の意味もありませんから、三位一体説でイエスを神にしたのです。代理人を任命できるのは本人だけです。神しかローマ法王を任命できません。コンクラーベの考え方の基本は、「多数派に神意が宿る」というものです。歴代のローマ法王は、自分が枢機卿によって法王に選出されたとは考えていないはずです。ある法王などは、自分が法王に選出された直後に、自分に投票した枢機卿に左遷人事を言い渡しました。日本のマスコミも今回のコンクラーベを盛んに報道しました。ある大新聞などは、イラスト入りで詳細に議決の手続きを説明していました。しかし、神がローマ法王を選ぶという大原則を伝えたマスコミは、私の知る限りではありません。日本の記者がキリスト教を理解していないのは当然です。しかし、法王が「神の代理人」であることは知っていたはずです。又、神が法王を選ぶという原則は、ヨーロッパ社会では常識ですから少し調べれば分かるはずです。日本のマスコミは、論理的に考える能力を使い果たしてしまったのでしょうか。或いは神というものの存在を、完全にフィクションとしてしか考えられないのかもしれません。それであれば余計始末が悪いです。神の存在を本当に信じている人も多いのですから、彼らの思考を誤解して伝えています。今回の報道を通じて私は、「日本のマスコミはヨーロッパ流の民主主義の本質を理解していないのではないか?」と、疑問を感じるようになりました。現在の議会の源流は中世の議会にあります。イギリスのパーラメントは封建貴族の議会が始まりです。フランスの三部会は僧侶・貴族・平民の分科会に別れた議会でした。これらの議会でもコンクラーベの原則を採用しました。「多数派に神意が宿る」です。家来達が何を決めても、それが家来の意向であれば、絶対的な権力を持つ国王は無視して何の問題もありません。それが「神の意思」ということになれば、国王といえども無視できません。それをも平然と無視すれば、今度はローマ法王が自分の権威を傷つけられたと考えて、怒鳴り込んでくるかもしれません。このようにしてヨーロッパの議会は、自己の権威を高めていったのです。中世が終わり近代になると議会は力を失っていきます。国王達が「王権神授説」を採用したのです。議会が神を持ち出したので、国王達も神を振りかざして対抗したのです。イギリスやフランスで革命が起きたときも、革命側は神を持ち出しました。ヨーロッパの政治は神の争奪戦です。
2005年06月01日
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