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いや~もうすぐですね~。何がって?決まってるじゃないっすか。FIFAワールドカップ。南アフリカ大会。決勝トーナメント。日本VSパラグアイの一戦ですよ~!いや確かにね。大会前の予想はグループリーグ3戦全敗でしたよ。ホンマすいません。だけどもまあ、そうですね~、オランダ戦が終わった時からっすかね。あ~コリャいけるんじゃないかと。デンマークには余裕で勝つのではないかと思い始めましてね。だからあの日本VS電幕戦はね。早く寝て朝の3時に起きて、キッチリ応援しましたよ。そんな感じで歓喜の日本列島の一部分としてしっかり役割を担いましたから。今日だってそりゃ最後まで応援しますよ。あのドーハの悲劇を札幌で観ていた時からは想像出来ない程強くなった日本ですから。勝つ可能性だって充分あるでしょう。今日は日本国民の半分以上が寝ずに応援しているはずです。ニッポンの長い夜を歓喜に変える為に、ガンバレニッポン!サムライブルー!
2010.06.29
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こんばんはでやんす~。そろそろ皆様の脳内から僕の名が消える頃だろうと、満を持して復活してみました。いや、何をしておったんだオノレは?と問われれば、勉強さ!と親指をグッと立ててニカっと笑うのみなんですが、とにかく5月の残業で遅れた勉強を元に戻す為に酒も控えめ、ここ大事ね。控えたのではなく、控えめにして勉学に励んでいました。時には数学の問題を一問解くのに1時間かかってしまったり、世界史の勉強中に机に突っ伏して3時間寝たり、数々の失態を繰り広げながらの6月でした。ようやく勉強も追いついてきましたので、また、こちらの世界に徐々にですが戻るつもりです。時はワールドカップ真っ盛り。明日の日本戦の前までは勉強を続けますが、その後、酒を解禁したいと思ってます。せっかくの一大イベントです。鴨ちゃんみたいに目測を誤る事の無きように注意しながら決戦の時を待ちます。とりあえずのご報告日記ですが、全開バリバリの元気で生きておりますので、今後もよろしくお願いします。
2010.06.28
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「昨日はアリガト。上手くいって良かった。」「ううん、毎日一緒にいたしさ。なんかホントに付き合ってる気がしちゃったし。」「そうだね、私もそんな気がした。」「でももう大丈夫でしょ。毎日来なくても問題ないんじゃない?」「うん…。そうね。」この時僕はもうすぐこの部屋から出て行く身。次に住むアパートの場所は加瀬さん以外だれも知らず、もちろん彼女も知らなかったのです。僕は徹底して仲良くする人間をより分けていたから。僕を子供扱いする人ばかりの中で、唯一加瀬さんだけが対等に遊んでくれたから。そして彼女さえもこの時はまだ、あちら側の人間だと思っていたのです。だからこんな状況であってもまだ、僕は彼女に心を開いていませんでした。何かが終わったような安心感からなのか、僕と彼女はしばらく何もしゃべりませんでした。これを泉郷の隠語では「言葉途切れ」と言いますが、この時はちょっと違うかもしれません。お互いに何故か言い出せないこの「続き」を。もしかしたら今しか言えない告白のチャンスを。誰かが、何かがきっかけのキューを振ってくれるのを待っていたのだと思います。そしてやっぱり彼女は僕より経験豊富だったのでしょう。いや、僕が心を開いていない事に気付いていたのかもしれません。そしてさっきの僕のもう毎日来なくてもいいって言葉に対する一つのアクションだった、のかもしれません。彼女はおもむろに言いました。「最後にたっぷりマッサージしてあげるよ。寝て。」僕はそれがこの先の劇的な展開の扉を開けるキーワードとは微塵も思わず。いつもよりたっぷり揉んで頂けるのはありがたいな、と。素直に横になったのです。続く。
2010.06.15
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そんな僕の場を読まない質問に彼女はいたって冷静な表情で答えます。「たぶんね、記憶ないからたぶんだけどしちゃってると思うの。だけど私○○君の事好きでも何でも無くて、上手く言えないんだけど、付き合うみたいな話になったらイヤだなと思って。」「うん。それで?」「それで、付き合うのを断る理由が必要じゃない?何をしゃべったかも覚えてないし、酔ってたからたからってのも言い訳にならない気がするのよ。」「うん。そうかもしれない。」「でね、加藤くん、私と付き合ってる事にして欲しいの。○○君と加藤くん仲いいでしょ。あれは酒の上の事故って事にして、それで終わりにするには一番いいと思うのよね。」「だけど俺たち別に何もないじゃん。」「だから既成事実を、ううん、違う。私今日から毎日加藤くんの部屋に来るわ。みんなに見られるだろうし、すぐ噂になるでしょ。そしたら○○君だって信じるだろうし。」「う~ん、わかったし、別にそれは構わないけど、なんか俺になにもメリット無い気がする。」「まあまあ、マッサージくらいはしてあげるわよ。ね。気持良くしてア・ゲ・ル。」少なからずも好意を抱いている年上の女性に高校生の時にこんなセリフを、しかも面と向かって自分の部屋で二人きりで満面の笑顔で言われたらどうしたらいいんでしょうか。僕はもういろんなところがメロメロでした。その日から彼女は本当に毎日僕の部屋に遊びに来るようになり、すぐに新聞屋の所長までがその事実を知る事になります。僕らは付き合っている。新聞屋さんの誰もがそう認識し始めた頃。僕と彼女とあの時一緒に飲んだ先輩二人の4人で会談が開かれました。議題は彼女の予想通りに交際を持ちこんできた先輩に対して、疑似恋人役の僕がビシっといわせる、でした。会議は紛糾しましたが、僕の本当に付き合っているかのような迫真の演技もあり、酔った勢いでいたしてしまった事を○○先輩に謝罪させるという結末で幕を閉じました。その次の日も当然のように彼女は僕の部屋に来ます。後から考えてみれば当初の目的は達した訳ですから特に来る必要は無かった気もします。でもとにかく彼女は来ました。続く。
2010.06.14
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はなしたい事がって言われても、当時の僕は何かを期待しちゃうほどスレてもいなくて、ただ本当に話をしに来ただけと思い、当たり前みたいに部屋に招き入れました。最初は昨日の事、僕がどこから酔っ払いに変身したかとか、二日酔いにならなかったの?みたいな話をしていたと思います。そんな中おもむろに彼女が衝撃的な告白をします。「ねえ、私、昨日。…○○君と…。」「え?何○○さんと何?」「しちゃったみたいなの」「?しちゃった?え?やっちゃったって事?」「うん。覚えてないの」「じゃあ何で?なんでそう思うの?」「これ、聞いて」彼女は一本のカセットテープを取りだしました。そう言えば昨日、盛り上がった様子を録音しておけば面白いんじゃない?って言ってずっとレコーダーを回しっぱなしだったのを思い出す僕。言われた通りにテープを再生し始めます。初めのウチは僕ら全員で盛り上がるバカな声。「もっと先、逆の面かも」僕は早送りした後、テープを裏返して再生します。ひっくり帰したテープは僕が帰った後の状況を流しています。彼女に言われるまま、少しずつ早送りしていると、先輩二人のウチ一人が帰る場面になりました。「ここから!」彼女がここからよく聞けと言わんばかりに声を張り上げました。僕は少し驚きつつ、でもまだ何が録音されているのか想像もできないので黙って聞いていました。先輩の残り一人、○○さんと彼女だけがいる部屋の音。テープには録音されないようなボリュームで二人は会話しているみたいです。「何話してるの?」「分かんない。分かんないのよ。」やがてテープからはクチュクチュと表記するしかない水っぽい音と、徐々に、しかしやがてはっきりと。彼女のあえぎ声が聞こえてきました。止めて!彼女の叫び声にビックリしてテープを停める僕。自分が聞いてって言ったのになんなの~って思いながら。ってかこの時の僕は普通じゃありませんでした。想像してみて下さいよ。頭の中は女の子の事で一杯な性欲旺盛な年頃ですよ。少なくとも、いやかなり好意を持っている女性が自分の部屋に来てですよ。事情はどうあれ目の前にその子がいる状態でその子のあえぎ声を聞いていたんです。なにがなんだかわからなくなって当然じゃないですか?そうでしょ?だれか同意してよ~~~~!テープを止めた後。僕の部屋いっぱいにスライムが埋め尽くしているかの如くの沈黙が襲いました。しかし僕は今みたいに空気も読めなければ会話スキルもゼロです。今思えば他にあっただろ!って発言でその場を切り抜けようとしました。「うん、○○さんとやっちゃった、で、なんで俺に言いに来たの?」つづく。
2010.06.13
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こーゆーのをスピンオフっての?僕の暮らした場所、でポロっと出てきた若き頃の僕の同棲。そんなに気になるなら詳しく書いちゃうぞベイベー!でもT子の話ほどグっと来ないから期待しないでね。ウフ。あとセックス&バイオレンスな表現多発な上、僕がとんでもないクソ野郎だから引かないでね。では始めま~す。 彼女と出会ったのは僕が新聞配達を辞めて新しく高校に通おうと夢を持った春。夢は破れ、高校には行けず、これから何をして生きるのかなどと考える余裕すらなく、決まっているのは寮を出た後、加瀬さんと同じアパートで暮らすって事だけだった頃でした。彼女は青森県出身の新聞奨学生。奨学生は学費を新聞社に出してもらう代わりに、新聞配達として卒業まで忠誠を誓わなければいけない存在です。そんな彼女が僕らの目の前に現れたのは3月の初めだったでしょうか。はっきり言ってそれほど可愛いって訳でもなく。いやむしろ今見たらどうなのよって感じの外見の人でした。それでも僕を含めた高校生の先輩二人(この二人は住み込みでは無かった)にとっては、今まで見た事のない大人の女です。魅力的に見えない訳が無いのです。逆に大学生の方たちから見れば学校で見かけるような垢ぬけた雰囲気など微塵もなく、田舎から出てきた野暮ったいネーチャンぐらいな感じだったのではないでしょうか。故に彼女を取り巻いたのは僕と先輩高校生の3人。名前が直子だからなっちゃんとアダ名をつけ、事あるごとに行動を共にするべく日々かまい続けました。ある日、じゃあ4人で歓迎会しようか、って事になり、新聞屋の裏にあった彼女の部屋で飲み会をしました。全員未成年ですがそんな事はどうでもいいんです。まだそんなに酒が強くなかった僕はあっという間にベロベロになり帰宅します。飲み会は盛り上がったような気もしたし、何にも覚えていないかもって状態でした。その翌日。彼女が僕の部屋にいきなり訪ねてきました。「加藤くん、ちょっとはなしたい事あるの」つづく~。
2010.06.12
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岡山のお店でアルバイトから正社員に強制的にさせられた僕。嫌がった理由はもちろん転勤でした。しかし正社員になってしまった以上避けられぬ運命として当然のように辞令が下るのです。次の勤務地は神戸は三宮。そして会社は社員寮である甲子園寮に住めと通達してきました。その寮には何度か遊びに行った事がありまして、まあ、僕はこんなとこ住みたくないなあって思ってまして、当然その通達は断った訳です。「住む場所は自分で探します」この宣言は転居を伴う転勤にも関わらず、引っ越し代以外は自分で出すんじゃボケェ!と同意です。かくして勤務先に乗り換え無しで行けて、尚且つ家賃も高くない物件を探す事数日。ドンピシャ以上の部屋が見つかりました。住所は兵庫県明石市大久保。日本標準時でお馴染みの明石の町のお隣です。しかし隣の駅、西明石を境にガクっと家賃が下がるので、その恩恵に授かったって訳です。ここは4階だてのエレベーター無しのマンソンなんですが、思いっきり南向きで、空いてた部屋は2階。辺りには日照をさえぎるものは何も無く、素晴らしすぎる日当たりです。部屋がまた広くて、6畳の洋室、和室、10畳以上はラクにあるLDK.占有面積はなんと55平米を超える広さでして、それで家賃は6万ジャスト。ああ、あの世田谷のアパートは何だったんだろう。この街であの家賃を出せば3LDKが借りれるよ。ここに住んでいる時の心の中は以前書きましたので割愛します。ただあまりにもいい部屋に住んでいたが為に、自分が抱えきれない程の荷物を抱えてしまいそうで怖かったってのを付けくわえておきます。僕はもっと身軽に、風になびく雑草のように人生を送りたかったんです。空は蒼く。穏やかな季節を。あてもなく歩く自分を夢想していたのです。
2010.06.11
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ビヤガーデンだけのつもりで戻った会社。なし崩し的にその後梅田のビヤホールに回され、更にバイトだというのに例の部長の押しの強さに負けて引っ越しを伴う転勤をすることになります。本社もビックリです。だってバイトに家賃控除の住居を出すなんて前例なしですから。でもまあ僕もそれなりの有名人ですし、押しの強さだけでなく適当に物事を突破する部長のおかげで様々な問題をクリアし、次の職場へ配属になります。場所は岡山。お店は岡山駅の地下街で、アパートは先祖代々その店のマネージャーが住んできたチャリで5分のアパートでした。住所は岡山県岡山市下伊福。ここでの生活も快適でした。電車乗らないでいいしね。知らない土地だからどこに行っても楽しいしね。ここで僕は日帰り温泉に夢中になり、一人で日帰り温泉同好会を名乗り、休みを利用して西へ東へと走りまわったのです。地方都市だから車も少ないですし、だけど新幹線は全部停車するしで、岡山に行った人はみんな帰りたくないって言うんだよな~って、部長が言ってたのは正解だなと感じていました。思えば四国に初めて行ったのもここにいる時。お遍路さんを見たのもその時。ついでに家で飲むのが多くなったのもこの頃ですかね。なにかと想い出の詰まった土地なのです。
2010.06.10
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思うところあって9年勤めた会社を辞め、その後の身の振り方をあれこれ考えていたんですが、新潟とか金沢とか福岡とか考えたんですが、どれもこれもイマイチピンと来ず、結局京都にいる事にしました。理由は彼女がいたからってのもありますが、それより大きかったのは引っ越し費用が少なくて済むって事でした。しばらく無職になるんですから出費は押さえないとね。で、次の仕事は職種だけ決めていたんです。大型トラックの運転手です。昔から憧れ的な部分がありまして、でもトラックって一生やる仕事でも無い気がしてたんで、ずっとやるにしろ、そうでないにしろ、今が一番のチャンスだなと思ったんです。なので無職期間中に大型免許を取得の後、無事に運送会社に就職しました。でもそこは半年ほどで辞めまして、理由は京都の某飲食店からスカウトされたんですが、そっちの飲食店も社長と折り合いが悪くて4カ月で辞めちゃいました。僕は仕事的にも放浪癖があるのです。ってか少しでも気に入らない事があるともうダメなので。で、その飲食店を辞める間際に前の飲食チェーンの関西営業部長から電話がありまして、京都駅ビルでビヤガーデンやるからそこの責任者をやってくれと言われたんです。その部長は僕が辞めた時点では東京にいたんですが、恵比寿の店の一番偉い方でものすごくお世話になった人なんですよね。仕事探す前だったし、頼まれて断る理由もさしてないので話を受けたんです。ただし社員では無くアルバイトとして。ビヤガーデンだけやって終わったらまた運送業かな~とか考えてたんです。が、しかし。この話を受けたばっかりにこの後放浪に拍車がかかろうとは夢にも思いませんでした。あ、家の話をしてませんね。住所は京都府向日市寺戸町字小佃。阪急電車の東向日駅から徒歩2分。電車到着のアナウンスが聞こえてから家を出ても電車に乗れる激近でした。しかもマンションの裏はSATY。まさに便利な家でした。しかし私鉄沿線の駅のそばなのに住所に字が付くのが面白いっすよね。この頃は釣りより酒ばっかでした。なんせ歩いて30秒のトコに居酒屋がありましたからね。日当たりは悪かったけど四方に窓があってなかなか良かった住まいでした。
2010.06.09
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そしてついに関西圏へ。ってな訳で次は京都その1です。僕の京都転勤に伴い、ってもういいか。またしてもレオパレスでした。京都から東海道本線で二駅目(当時)のJR向日町駅から徒歩10分。職場は京都駅ビルでしたので、通勤時間は30分にも満たず、通いやすい場所でした。ちなみに住所は京都市南区久世殿城町。くぜとのしろちょうって読みます。なかなか仰々しい地名でしょ?京都に来るのは初めてでは無かったですが、住むのはまた別の話です。有名観光地以外は知らない訳ですから、実際はほとんどがま新しい光景でした。北海道に渡った時にも似た感動を覚える毎日。仕事に遊びに飲酒に励む毎日。楽しくないハズはありません。この頃僕は釣りに激しくハマりまして、休みのたびにどこかの海に出かけていました。関西は釣りが盛んなので、釣り場も豊富だし情報量も多いしでもう大変。空撮の釣り場ガイドを眺めながら妄想して酒を飲むのが大好きでした。さて、札幌の頃から残業の多い仕事でしたが、京都に来てから1年ほど経った頃、急にお店がヒマになり始めます。それはウチだけでは無く全国的にそうなって来たらしく、当然残業は減り、収入も減りな訳です。それまでの生活を続けていれば当然おっつかなくなるのです。そうなった僕は当然のように転職を考えました。そして当然のようにどうせなら知らぬ土地に行こうか、とも思いました。しかし考えまくったあげく、転職をしながらも京都に残る事にしたのです。だけどここは会社の借り上げ。引っ越ししなきゃいけません。グッバイレオパレス、でした。
2010.06.08
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次は横浜で~す。僕の横浜転勤に伴い朝霞からじゃ通えないので、またしても会社が用意してくれたレオパレスです。ただこの時は僕も社内でそれなりの顔の広さを持っていたので、人事部の人が数件の候補物件の中から一番のお気に入りを選ばせてくれました。で、選んだのは横浜市栄区桂町。JR根岸線本郷台駅から徒歩8分の物件でした。住宅街の中にあって、あんまり駅から離れてなくて、乗り換えなしで職場に通えるって条件を満たしてくれていました。ただここに住んでいたのは僅か10ヶ月くらい。その割にはかなり遊びまくった記憶があり、ここを起点にスキーに行ったこと5~6度。飲んでタクシーで帰ったこと数え切れず。鎌倉方面のドライブも何度となく出かけました。ま、はっきり言っちゃえばそれだけ遊ぶ相手(女の子)が多かったって感じでひとつ。このアパートは周辺の環境も結構好きで、通勤も楽だったし、いい思い出が多いです。横浜の職場自体も好きだったしね。事務所の窓からランドマークタワーが見えるんですよね。今はもうあとかたもなくなちゃった店ですけど、桜木町の駅に降りると、ついつい探してしまう懐かしいお店です。父が死んだり、母親が長崎に里帰りしたりと、家族がまたしても離れ始めたころでもありますが、僕が成人してから一番頻繁に姉と会っていた時期でもあります。そんなこんなで、やっぱり忘れられない場所です。
2010.06.07
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えっと次は埼玉県朝霞市ですね。恵比寿へ通勤する為に会社が用意してくれていたレオパレスです。会社が用意した割に職場は遠くて、電車を乗り継ぎ1時間40分。ラッシュに当たらないだけ少しはマシなんですがね。でも遠いっすよね。大体がなんで東武東上線なのかよくわからんし。札幌から一緒に上京したのは6人だったんですが、ほとんどが会社の寮に行ったんですよ。で、最年長の二人、僕ともう一人ですが、一般アパートの借り上げ。しかしその二人が一番通勤時間がかかる。なんのこっちゃって思いました。引っ越し当初、アパートから駅が比較的離れていたので、自転車で駅まで行こうと駐輪場を借りたんですが、その駐輪場は終電前に閉まってしまうという謎の営業時間でして、毎日終電で帰るであろう僕にはあまり役に立たない物件でした。もっとも恵比寿がオープンして最初の2カ月や、T子と付き合っていた3カ月はまったく部屋に帰らなかったので、盗まれないように保管しておくという点で役に立ったのかもしれませんね。忙しい期間でしたし、1年ちょっとしかいなかったのであまり想い出はありませんが、ここからは東京競馬場と中山競馬場の両方に電車一本で行けるのがありがたかったですかね。でももう二度と行かない土地だろうけど。
2010.06.06
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さてさてついに北海道への移住です。行くまでの葛藤や住み始めるまでの経緯は過去ログ、それもごく初期の日記に記していますので興味がある方はご覧になって頂ければと思います。札幌には3年と二カ月ほどいましたかね。住んでいたのは札幌市豊平区平岸。地下鉄平岸駅から徒歩10分くらい。駅からは離れている割に近所には定食屋さんや居酒屋が立ち並び、変わった街だなあというのが第一印象でした。居酒屋さんはプリ兄と同棲するまでまったく行きませんでしたが、来てからは休み前になるとしょっちゅう暖簾をくぐった記憶があります。ウチのまわりはあらかた制覇したんじゃないでしょうか。僕らのお気に入りの店は平岸駅のそばにある焼き鳥屋「串鳥」でした。安くて美味しくて、いつも混んでいるから活気があって、いい店だったなあ。札幌ではその後長い間お世話になる飲食チェーンで働きます。休みは平日なので観光もスキーも空いている日に行けるのでありがたかったです。土日が休みの知り合いもいませんし、当時の僕には最高の職場でした。道内もくまなく回りました。温泉も入りまくりました。もちろん美味しい物も食べまくりました。だけど札幌で一番良かった事は、楽しい仲間にたくさん出会えた事だと思います。飲みに行くにも、仕事のあとちょっと遊ぶにも、旅行するのにも、声をかければすぐ乗ってくる人間が大勢いるのは楽しいですよね。そんな札幌でしたが、転勤に伴い離れなければならない日が来ます。青森から函館へ、自費でカーフェリーで渡った僕は、札幌から羽田まで、会社の経費で帰れるほどマトモな生活になりました。あの日離れて行く真っ暗な青森港を眺めていた時には想像もつかなかった日です。そしてこの後どんどん西に流れて行くなんて、この時の僕はもちろん想像していませんでした。
2010.06.05
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こんばんはお次はついに八ヶ岳です。ここでの生活はすでに書いているのでここであらためてってのもどうかと思います。なので今回は僕が八ヶ岳でのほほんと暮らしていた頃に、尾山台のアパートで繰り広げられていた人間模様でも書こうと思います。僕が山梨に永住目的で住み始めても、何故か尾山台のアパートは借りっぱなしだったんですよね。やっぱ戻る場所が必要ってゆ~か。だからアパートをまた貸ししまくったのです。最初の住人は東京での仕事仲間の大和田くん。モテ男の彼はウチをラブホ代わりに使いたいとかで、一月ほど貸していました。次が毅ちゃんです。山梨からフェイドアウトして素直に実家に帰ればいいのに、それはあまりにも生々しいと思ったのか、ぼくの部屋に住ませてくれと頼みこんだって訳です。毅ちゃんはアムウエィの名刺をウチの住所で作るという剛腕を振るっていたりしました。で、やがて実家に戻るんですがね。その次の住人は前後覚えていないんですが、恐らく毅ちゃんの嫁、谷中美穂だと記憶しています。彼女の元の住まいは千葉県。横浜市在住の毅ちゃんと逢瀬を重ねるには適した場所だったのです。このように毅ちゃん夫妻と密接な関係がある僕ですが、二人の最初の子供が僕と同じ誕生日だったってのは偶然にしても出来過ぎな感があります。谷中が多分結婚の為に退去した後、八ヶ岳の社員だったアルアルこと有賀が住むのですが、彼に関してはアホだったという以外に何もありません。だってコロコロは一回使い切りだと思ってたらしいし。やがて借りてがいなくなった部屋はついに引き払われ、僕は山梨に全財産を置く意味のわからないアルバイトになるのです。ベッドやタンス。テレビやステレオ。一歩間違えたら誰もが僕の部屋と思うほどの僕の部屋化した別荘。しかしそこは僕にとってあまりにも居心地の良い場所でもあったのです。それでもやっぱり生まれついての放浪者。サンバル君は彷徨う道を求めて動き出すのです。まだ若い僕に前進を妨げるものなど何もなく、どこにだって行けるし、何にだってなれると思っていた頃。それは多分、人生で一番幸せな夢を見れた時期だったのかもしれません。
2010.06.04
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こんばんは。僕が尾山台に住み始めた頃。月収は約20万円でした。家賃、光熱費、マルイのローンなどを払っても、月に6~8万は残る計算でした。まあはっきり言えば余裕のある暮らしが出来た訳です。毎週末飲みに行くのも余裕。競馬で多少負けたって余裕。余裕の優ちゃんです。そんな状態が半年、いや9カ月くらい続いたある日。勤務先の会社がビックラタマゲッタ事を発表しました。「来月から社会保険に全員加入します。給料天引きです。」その頃の僕は保険や年金に関する知識なんてゼロ。払わなくても済むものは払いたくない主義でした。だから当たり前ごとく年金はらわず、国保だけ払うって状態です。いや、国保さえ払っていたのか。そもそも保険証持ってたか?そんな感じです。だからこの話は寝耳に水。どれくらい天引きされるのかもわからぬまま。YESしか言えない通達を素直に受け入れつつ、ま~そうは言ってもそんなに引かれないでしょ~とタカをくくっていました。が、しかし。天引き初回の給料日。僕に手渡されたのは、いつもより4万円以上少ないお給料でした。うそ~!まじで!これじゃ自由に使えるお金って…。さんまんえん?いちにち、せんえん?ってかお昼は外食だから少なくとも500円でしょ。って事は朝晩で残りの500円以下に抑えなきゃイカンの?それが出来なかったら飲みに行く事も出来んのかい?いやや~!ありえへん~!思えばこの時から朝ごはんは米と味噌汁、おかず無し。晩ごはんはおかず一品、100円以下。そんな今に通ずるスタンスが出来上がったのかもしれません。この月からしばらく。僕は永福町時代ばりの極貧生活を送り、たまに開かれる飲み会の費用を捻出し続けました。今思えばバイトするなりの手はあったんでしょうが、その頃はもうすでにウチに魔物が寄り付き始めていたのでそんな考えも浮かびませんでした。ただひたすら、貧相な食事を続けるのみ。そりゃ当然のように、生活変えなきゃ。転職しよ。そう思うでしょ。そしてどうせ転職するなら、あいだに山梨を挟んでって思うじゃないっすか。こうして僕は、会社でローテーションで与えられる夏休みを7月の半ばに取り。プリ兄と茅ヶ崎の知人宅で過ごし、その直後に仕事をブッチして山梨へ向かいます。だってどうしても行きたかったんだもん。僕が目ん玉が飛び出るほどビックリだった事。それはいきなりの社会保険加入でした。チャンチャン。
2010.06.03
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こんばんは。上池台に住みつつも泉郷にばっかり行ってた僕。しかし二年目の夏が終わった後に一旦就職します。仕事はライトバンのドライバー。今で言うIT関連の会社に専属で入る運送屋さんで、役所に関わる色んなデータなどを運んでいました。楽だし、給料もそこそこで、結構いい仕事だったと思います。で、働き出してしばらくして、母から一人暮らしすれば~みたいな話があり、でも金ないしと答えると出してくれるっちゅうんで、こりゃ幸いと住む場所を探したのです。なんつったって色気づいたお年頃ですからね~。そりゃもうオサレな部屋を探して西へ東へですよ。住所が港区ってかっこいいよな~と六本木や海沿いを攻めてみたり、結局東横線沿線だよと、中目黒から順に一駅ずつ責めてみたり。不動産屋さん何件回ったのかも分かんなくなる程吟味を重ねました。そして家賃、間取り、住所、外観全ての要件をほぼ希望通りに満たしていた物件が、世田谷区尾山台のアパートだったのです。洋間8畳にキッチン、バストイレ。ベランダもあるし、なにより一棟に4部屋しかないので全部角部屋。採光も最高だし、出窓だし、家賃7万円なら当時としては満足のいくお部屋。あの頃はこの家賃なら安い気がしましたよね~アパマン池袋丸井店でバイトしてたプ○ま○さ○。んな感じで始まった2度目の一人暮らし。このアパートは色んな人間模様もからまり、忘れられない場所な人も少しいるでしょう。サイとか悪魔タケちゃんとか。まあそれは置いといて、引っ越した当時は収入的にもそれほど不自由なく暮らせる家賃だったこの部屋ですが、しばらくして目ん玉が飛び出る様な出来事があり、僕は一気に山梨が恋しくなるのです。だけどその話は次にでも。とりあえず今回はここまでです。
2010.06.02
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こんばんは次は再び大田区上池台でして、中学の時に住んで以来に戻った訳です。杉並のアパートから舞い戻ったのは、ちょっとしたトラブルが原因です。で、この時しばらくバイトを探してのんびりしてたんですよ。もう18になってましたし、その気になればなんでも出来る時代でしたし、納得のできる仕事をしようと思いまして。それまでは選択肢があんまり無かったですからね。そんな時みつけたのがリゾートバイト特集。僕はもうこれしかないと思いましてね。何でかはよくわからないんですが。で、日給とか場所とか吟味に吟味を重ねてたどり着いたのが八ヶ岳だったのです。母の家に住むのが居心地悪かったしね。遠くに行くのが好きだったし。だけど僕は泳ぐのそんなに得意じゃなかったから、海より山だろうと。で、どうせなら募集人数が多いトコの方が楽しいだろうと。新聞配達が寮生活だったから、気の合わないヤツと少人数で暮らす辛さは分かってましたからね。人数多ければ気の合わないヤツとは絡まないで済むじゃないすか。まあ、そんな感じでプリ兄を始めとする一生の友達に出会えるきっかけとなた場所。それが上池台なのです。そしてここにはこの後二年ほどいましたが、この家で生活したのはその期間の半分にも満たないと思います。やたらと八ヶ岳だったし。帰って来ても埼玉から江の島までドライブに行ったり、横浜市を一晩中ウロウロしたりしてましたから。だけどそんな僕でも、一度は引き取ったものの、自分の幸せが大事だった当時の母には邪魔だったみたいで。浮気相手の社長から、お金好きなだけ貸すから、一人暮らし、しなよ。と言われる僕。ああ、僕の居場所は。いつになったら出来るのだろうか。やっぱ自分で探さなきゃいけないんだろうか。そう思い悩む20の頃でした。「やっぱり高校くらいは出てなきゃだめだよ」この一言をどうして誰も言ってくれなかったのかなあって。今、つくづく思います。
2010.06.01
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