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2018.10.17
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カテゴリ: 教養書

ヘーゲルとマルクスの中間に位置するフォイエルバッハについて論じた本。1888年、エンゲルスが68歳のときの刊行。

●面白かったところのまとめ

・ヘーゲルの「現実的なものはすべて合理的であり、合理的なものはすべて現実的である」という命題が専制主義や警察国家などの現存するものの聖化として自由主義者の怒りを招いた。しかしヘーゲルにおいては現存するものがそれだけの理由で現実であるとは限らない。現実性という属性は同時に必然的でもあるものにのみ属するので、無条件に現実的であるということはない。かつて現実的であったものも発展の経過中に非現実的になり、その必然性、存在の権利、合理性を失い、死んでいく現実的なものに代わって、新しい生活力のある現実的なものが現れる。人類の歴史の領域で現実的であるすべてのものは時とともに不合理なものとなるのであり、はじめから不合理性を担っている。人間の頭脳の中で合理的であるものは、現存する見かけだけの現実性と矛盾しようと、現実的なものになるように定められている。現実的なものはすべて合理的であるという命題は、ヘーゲル的思考方法の規則に従って、すべて現存するものは滅亡に価するという他の命題に代わる。

・近世の哲学の大きな根本問題は思考と存在との関係の問題で、古代の人間は身体の構造について無知だったので、思考や感覚は肉体の働きではなくて肉体に住んでいて死んだら去って行く魂の働きだと考えて、魂が肉体から離れて生き続けるとすれば魂の死を考える理由がなかったので魂の不死という観念が生まれた。神が世界を創造したのか、世界は永遠の昔から存在しているのかという問題は観念論と唯物論に二分した。なんらかの世界創造を認めた人々は観念論の陣営を作り、自然を本源的なものと見た人々は唯物論の学派に属した。ドイツの新カント学派がカントの見解を復活を企てたり、不可知論者がイギリスのヒュームの見解の復活を企てたりしたのは科学的には退歩である。18世紀の唯物論は機械論的で、重力の力学がある程度完成されていたにすぎず、化学は幼稚な形で存在しているに過ぎなかった。科学的知識がない当時に非歴史的な自然観をヘーゲルが持っていたことは非難することはできない。1848年の革命で観念論は行き詰った。

・ヘーゲルにおける悪とは歴史の発展の推進力が現れる形式。あらゆる新しい進歩は必然的に神聖なものに対する冒涜、死滅しつつあるが習慣によって神聖化されている古い状態への反逆として現れる。階級対立の出現以来、歴史の発展の梃子となっているのは貪欲と権勢欲のような人間の最も邪悪な激情である。しかしフォイエルバッハは道徳的な悪の歴史的役割を研究することは思いもよらなかったので、フォイエルバッハの道徳は貧弱なものでしかない。

・フォイエルバッハは幸福を求める衝動が人間に産まれながらに具わっており、これがあらゆる道徳の基礎でなければならないというが、幸福衝動は外界との交渉を必要として、それを満足させる手段である食物、異性、本などを必要とするが、フォイエルバッハの道徳は幸福衝動を満たすこれらの手段や事物が各人に与えられていることを前提していて、手段を持たない人々にとっては実行不可能で値打ちがない。被抑圧階級の幸福衝動は支配階級の幸福衝動のために犠牲にされて不道徳だった。

・愛があらゆる困難を切り抜けさせる神通力をなしているというフォイエルバッハの道徳理論は以前の諸理論と同じで、あらゆる時代、民族、状態にあうように作られていて、そのためにどんな時代にも適用されず、現実の世界に対しては無力。フォイエルバッハは人間を歴史のうちで行動しているものとして見ることを拒んで、抽象の世界から現実の世界への道を見出すことができずに零落した。フォイエルバッハの新しい宗教の核心をなしていた抽象的人間の礼拝は現実の人間と歴史的発展の科学によっておきかえられなければならず、マルクスが『新聖家族』でフォイエルバッハを超えて発展させる仕事を始めた。諸事実と一致しないあらゆる観念論的幻想を容赦なく犠牲にすることが唯物論。

●感想

1960年の翻訳で古いけれど、内容は100ページ弱で論理的に簡潔に書かれているので哲学書の割にはわかりやすいほうだと思う。ヘーゲル、フォイエルバッハからマルクスに至るまでのドイツの哲学に興味がある人は読んでおいて損はない。
キリスト教圏では観念論から唯物論への移行ができずにいて、アメリカだと神が人間を創造したと信じている人がいまだに4割いるそうだけれど、日本でその問題がおきなかったのはなぜなのか。天皇の影響力がなかった明治時代以前は日本人は神々が日本列島を生んだという神道の神話を信じていなかったのかもしれないし、あるいは明治維新後に西洋化してキリスト教が布教されてはじめても魂の存在を否定する仏教のほうが浸透していたので、アメリカのような観念論者が生まれなかったのかもしれない。
私は無宗教なので、愛はフォイエルバッハがいうほど重要でもないと思っている。愛というのは原始的な偏桃体の感情の次元で、道徳は前頭前野の理性の次元である。動物にも愛情はあるけれど、道徳は人間にしかない。類人猿から進化したばかりで前頭前野の使い方をしらない昔の人はキリスト教のお墨付きをもらった愛を至上のものとして崇拝していたけれど、現代では神の影響力がなくなって神に永遠の愛を誓ったアメリカ人の半分が離婚している。熱愛していたカップルはドーパミンが切れて3年で別れるし、育児放棄する母親がいるのもホルモンの作用で起きることで、意思の力で親子の愛や夫婦の愛が生まれるわけでもない。愛がなくなったとしても配偶者や子供を捨てないで家庭を維持するのは道徳的判断である。愛がないよりはあったほうがよいだろうけれど、愛があらゆる困難を乗り越える切り札のようなものかというと違うだろう。

さて文学について考えてみる。恋愛やお涙頂戴物やホラーやポルノは原始的な喜怒哀楽の感情を刺激する、いわば幼稚な物語である。感情を刺激するのは楽しくてストレス解消になるけれど、それは思想の進歩や社会の改善につながるわけでもない。エンタメなら楽しければそれでよいけれど、芸術としての純文学がやるべきことは感情に対する刺激ではなく理性に対する刺激であるべきだろう。殺人鬼や幽霊が片っ端から殺しまわる恐怖を描いた物語はB級ホラーだけれど、殺人の動機を描いた『罪と罰』や『異邦人』は古典として読み継がれる文学になった。人間のありのままの本性を美化せずに書こうとする自然主義も、人間を理想化する白樺派も、どちらも道徳観に訴える文学らしい文学だった。愛や罪や道徳という抽象的な観念を具体的な物語として提示できることが文学の良い所である。
しかし戦後に純文学が衰退しているのはなぜなのかというと、思想的停滞が根本原因になっている。各人が自由に行動して、無宗教も含めて自由に宗教を選んで、自由競争の中で自分の才覚で資産を築いて幸福になるというのは搾取の問題こそあるものの、労働基準法ができて昔と比べてある程度の人はそれなりに人間らしく幸福になれる思想で、ソ連と中国の共産主義が強制労働で大勢の不幸な国民を量産して自滅したので世界的な資本主義体制が確立された。あとは各国で税率と富の再分配の仕方に違いがある程度で、資本主義そのものに反対する思想がない。格差への批判はあっても、富裕層への課税と貧困層への富の再分配の問題なので資本主義を否定しているわけでもない。
今の思想的なテーマは資本主義体制下での愛国主義になっていて、EUのように移民を受け入れて経済成長するか、トランプのように移民を排除して保護貿易をするかという点で、日本での外国人労働者の受け入れ拡大も国家の将来にかかわる問題である。これはキリスト教的な神の普遍的な愛が成立しないがゆえに、どのコミュニティを重視するか、別のコミュニティからきた部外者をコミュニティの構成要員として受け入れるか、コミュニティ内での利益の分配をどうするかという限定的な愛の問題になる。コミュニティ内での利益の分配は愛とは別の幸福の条件で、愛の代わりに金が人生の重大な問題になる。
『グレート・ギャッツビー』は愛で破滅した金持ちの物語、『怒りの葡萄』は恐慌で破滅した貧乏人の物語、『金色夜叉』は恋に破れた男が極悪非道な金貸しになる物語で、経済や金銭の問題が純文学のテーマにならないということはないはずだけれど、日本だと経済小説はジャンル小説の一種として別枠扱いされていて賞レースの対象にもなっていないのはよくない。被抑圧階級が貧乏すぎて幸福衝動を満たせないことが少子化やら移民やら人種差別やらの現代社会の問題になっているので、経済問題に向き合うことなしに現代社会に向き合うことはできないのに、小説家が政治経済の諸問題を無視して抽象的な人間を描いて、現実の人間を見て新しく現実的なものを探すことに参加していないのである。大江健三郎は左翼が盛んな頃に左翼的テーマをうまく小説にしたけれど、今どきの小説家は政治経済の問題についていけなくなっていて、小説がメディアとして思想の発信源になっていない。本屋がつぶれているのも単にアマゾンや電子書籍が便利だという問題でなくて、町の本屋が人生を充実させる知識や思想の発信拠点になっていないのである。本屋が良書を目利きして、読者が一冊本を読むたびに賢くなって、社会問題の対処法を見つけて生きやすくなって、人生への希望を見つけて幸福を得ることにつながっていれば、本屋は地域に必要とされていたはずだし、読書離れは起きないはずである。
暇な学生やフリーターや主婦が小説家になって政治経済から離れた身の回りの些細な出来事を書いたり、現実離れした妄想を書いたり、ビジネス左翼が歴史捏造本を売ったり、ビジネス右翼が愛国本を売ったりするような現状では文学にあまり期待を持てない。古典を真似て文学風にうわべの体裁を整えただけの趣味の文芸は毒にも薬にもならないので、作家が現代社会に向き合って問題提起をしてほしいもんである。

★★★★☆

フォイエルバッハ論 【岩波文庫 白】 / エンゲルス/松村一人(訳) 【中古】






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最終更新日  2018.10.17 13:23:30
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