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・演出と捏造は別の問題である
ショービジネスに台本や演出があることは問題ないと私は思っている。例えば一時期プロレスは視聴者には秘密にされていたブックが明るみに出て、キックボクシングとか総合格闘技とかのブックがなくてKOが出やすい派手なスポーツに観客を奪われて人気が低迷したけれど、それでもプロレスは個々のレスラーがキャラ作りをして派手な衣装や新技を取り入れて人気を盛り返した。観客はレフリーがヒールに襲われてカウントを取らないのが台本通りだとわかっているし、謎の覆面レスラーの正体も知っていたりするけれど、故障を抱えたレスラーが全力で迫真の試合をするからこそ楽しんで応援できるのである。『逃走中』という番組でよく卑怯な行動をした人が批判されるけれど、それが番組を面白くするための台本通りだというのも問題ない。
しかし捏造は演出とは別の問題である。例えばクイズ番組で街頭アンケートを取って一番人気の食べ物は何かという質問があったとして、クイズを面白くする演出としてふざけて明らかに間違った答えを言うのはいいけれど、一番人気はキムチ鍋だとアンケート結果を捏造するのはいけない。それは視聴者を騙す行為だし、放送を利用したスポンサーへの利益誘導や、世論形成やプロパガンダにつながりうる。
テレビ局側は橋祭り問題は視聴者は許しているという論調に持っていきたいようだけれど、視聴者は当事者ではないのだから視聴者の意見を聞くのは筋違いである。内山信二は誰も傷ついていないからいいと言っていたけれど、当事者の意識の低さにあきれる。捏造でだれが被害を受けるかというと、本気で番組を盛り上げようと頑張っていたのに裏切られた番組出演者たちと、変な文化を捏造されたラオス人で、テレビに出演する側こそテレビ局に対して怒るべきである。日本にイシマタラという文化があると韓国人記者に捏造された事件があったけれど、これは日本人がすぐにそんな文化はないと反論したから大事にならなかった。しかしラオスの文化には日本人はなじみがないので、文春が問題視しなければラオス人は変な祭りをやっていると誤解したままの日本人だっていたかもしれない。日本人がなじみがない国を相手にしてすぐに真偽がわからないような形で捏造したから余計に悪質なのである。
誰も傷つかないというのは、例えば「日本のバラエティをラオス人にやらせてみた」という企画なら橋渡りアトラクションをやっても全く批判されなかったと思う。宮川大輔が体を張って日本のバラエティはこうやるんだよと大袈裟に演出した手本を見せれば笑いになっただろうし、日本とラオスの文化交流にもなっただろうし、入賞者にスポンサーの商品を配ってラオス人が喜ぶ様子を映せばスポンサーの宣伝にもなっただろう。そういうのを誰も傷つかないという。傷つくかもしれない人の存在を無視してこれぐらいならやっても許されるだろうというのは誰も傷ついていないということではない。
演出として捏造をやっても許されるなら、もう世界の果てまでロケに行く必要すらなくて、群馬県の大泉町にセット作ってそこで適当に外国の祭りをでっち上げればいいじゃんということになる。しかしそれが魅力があるかというとない。実在の外国の祭りだからこそ視聴者は普段行けない外国でどんな祭りをやっているのか見たいのであって、テレビ局がひねり出した祭りっぽい企画を見たいわけではない。この程度の演出はバラエティ番組なのだからやっても許されるのだとイッテQを擁護する人は、番組の存在意義さえ否定している。
・現実とフィクションを区別するべき
小説やテレビドラマの場合はこの物語はフィクションで現実の団体や人物とは関係ないとちゃんと断りを入れている。しかしなぜかバラエティ番組やお笑い芸人は面白ければ視聴者を騙してもよいと思っているらしくて、それは視聴者を馬鹿にしている。
上岡龍太郎はオカルト嫌いで『探偵!ナイトスクープ』で除霊師に幽霊のお祓いをさせたディレクターに怒ったそうだけれど、テレビの影響力を知っているからこそ科学的根拠がない情報をテレビが無責任に放送することに批判的だったのかもしれない。番組が面白いことは無責任であることの免罪符にならない。テレビ局は『発掘!あるある大事典』のデータ捏造とか、佐村河内や奇跡の詩人を持ち上げたりするとか、目先の視聴率やスクープを求めたあげくの不祥事を何度も起こしている。事実を事実として放送する気がなく、演出した面白さを放送するなら、この番組はフィクションですと断りを入れるべきである。視聴者がフィクションだとわかっていれば、興味がない視聴者は見ないで済むし、嘘を信じないで済む。現実に即して面白い作品を作るのには多大な労力と時間がかかるし偶然の要素も必要だけれど、演出すればその労力を短縮できるので、製作側にとって演出は便利である。しかし番組を面白くするためには演出してよいという考え方は出演者にとっても損なことで、芸能人が何か月もトレーニングをしてチャリティーマラソンをしようが、ドーバー海峡を泳いで横断しようが、貧乏な芸人が長年の苦労の末に漫才のコンペで勝とうが、リアリティーショーで出演者が本気で恋愛しようが、テレビ局の企画だからどうせヤラセだろうと言われるようになって、視聴者は出演者の努力も苦労も真剣に受け取ろうとしなくなる。
フジテレビは偏向報道をしてバラエティだけでなく報道でさえ信用できないテレビ局として視聴者から愛想をつかされて凋落した。日テレも初動対応を間違って現地コーディネート会社のせいにして素直に謝らなかったせいで、もはや番組の問題ではなくテレビ局の体質を問われている。イッテQを打ち切りにしようがしまいが、同じ制作者が番組制作をする限り同様の問題は起こりうる。テレビ離れしている中でも高視聴率がある人気番組でテレビの信用を無くすことを自らやるのは馬鹿だし、これを機に襟を正すどころか問題ないと擁護する御用聞きの芸能人がわらわら出てくるのは業界として終わってると思う。
・フィクションは危険なものである
コンテンツビジネスは何でもフィクションとして現実をゆがめた形で消費しつくしてしまう。現実を娯楽のフィクションとして消費するということは、現実に向き合う力や現実を見定める力を失いかねない危険をはらんでいる。小説はテレビより古くからあるコンテンツで検閲を受けたりしたあげくに表現の自由を獲得したからこそ、まともな小説家は小説が毒になりうると理解している。しかしテレビ業界はテレビが危険なものになりうるという認識が甘いのではないかと思う。
イッテQの橋祭り問題では、製作者側がうわべの面白さだけを求めてラオスの歴史や文化に真摯に向き合うつもりがないという姿勢が露呈した。本来は文化を作る側であるはずのテレビ局が、現実の文化を軽視してフィクションとして消費する側に回っている自覚がなく、その姿勢のまま報道にも関わるのは恐ろしいことである。現実に基づいたフィクションは何度も参照されて長期間価値を保つのに対して、現実離れしたフィクションの衰退は起きるべくして起きる。20世紀半ばにアメリカで西部劇が流行ったときにインディアンは史実とは異なる悪役として誇張されて、それが結局は西部劇の衰退につながった。中国では抗日ドラマが作られて、素手で日本兵を引き裂くとかのあり得なさすぎる演出が飽きられている。フィクションが現実から離れすぎると、もはや現実世界に生きている人の関心事ではなくなる。純文学も衰退したのも同様である。小林秀雄は作家は小説を読んで小説を書くのではなく現実を見て小説を書けというようなことを言っていたし、菊池寛は若者が小説を書いてもしょうがなくて人生を見る目を持って世の中の出来事に触れないとだめだというようなことを言っていたけれど、現代の純文学作家は現実に向き合わない作家だらけになって純文学の社会的影響力はなくなっている。
現実を見る目をなくすとどうなるかというと、フィクションと現実を混同する人が出てくるようになって、フィクションが現実に悪影響を及ぼすようになる。西部劇が衰退した後も徒党を組んで馬に乗って「アワワワワ」と叫んで襲ってくる間違った先住民のイメージは残ったし、抗日ドラマが中国の都会の若者に見向きもされなくなってもテレビを信じる情弱な田舎の中国人の反日感情は残っている。吉田清治の捏造から慰安婦が国際問題になったように、意図的にフィクションを元に史実を歪曲しようという勢力もいる。マスメディアが嘘に加担して嘘の情報を広めてはいけない。しっかりした現実があるからこそ、消費者はフィクションを現実と切り分けて空想として楽しめる。消費者が安心してフィクションを楽しめるように、コンテンツを作る側こそフィクションの危険性を自覚して現実を見る目を持たなければいけない。
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