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量子力学について多世界解釈を中心にわかりやすく解説した本。
●面白かったところのまとめ
・量子力学が登場した当時のコペンハーゲン解釈では、共存していると不都合なことが起こりそうなので片方を無理やり捨てるというのが基本方針で、この操作を「波の収縮」と呼ぶ。これを受け入れるかどうかが量子力学の論争の中心で、無理やり捨てる考え方をせずに多くの世界が共存しても何も不都合が起きないという主張が多世界解釈。
・1920年代に量子力学はボーア、ハイゼンベルグ、シュレディンガーなどによってコペンハーゲン解釈が確立されて実用的には完成されたが、宇宙全体の事を量子力学で考えたらどうなるかという問題意識から多世界解釈がでてきた。1957年にエベレットは量子力学がこの世の根本原理だとしたら、原子一つ一つのみならず、それから構成される物体、人間、天体、そして宇宙全体も同じ原理で説明されるべきものであるという立場で多世界解釈に到達した。
・多世界解釈で無数の状態が共存しているといっても、あらゆる状態が共存しているわけではなく、波の形が状態の共存の様子を決める。電子の波の各点での高低が電子がその点に存在する状態の共存度を表す。「その世界の共存度がゼロだったら、その世界は共存していない。共存していないのだから、電子がそこに観測されることはけっしてない」「共存度がゼロでない状態が一つしかなければ、必ずその状態が観測される」「ある状態の共存度が、他の状態の共存度よりも「圧倒的に」大きければ、観測においては「まず」その状態が観測される」というのが多世界解釈の基本原理。
・多世界解釈では電子のようなミクロの対象ばかりでなく、観測装置もそれを見ている人間もすべて量子力学の対象として考えて、宇宙のすべての物体をセットとして一つの状態として考えるのが重要で、これを分離不可能性という。
・コペンハーゲン解釈は「波の収縮」と「確率解釈」を量子力学の基本的な前提(公理)として採用する。各位置に粒子がある状態の共存度の二畳がその位置に粒子が発見される確率に比例していて、この共存度(波動関数)の確率解釈によって、量が不確定になる量子力学でも何らかの予言ができるようになる。しかし人間も世界の中の現象の一つなので、共存している複数の状態の外側に立って全体を見通すことができず、自分が存在している状態しか観測することができないので、人間による観測に対しては量子力学が厳密な予言ができない。量子力学は自然を完全に記述しているが、人間はその一側面しか見ることができない。
●感想
新しい学問が従来の世界の認識を変えうるという点で量子力学は興味深い学問である。この本は昔読んだのだけれど内容を忘れたので、もう一回ちゃんと読むことにした。私は物理学はよくわからないけれど、シュレディンガー方程式の難しい計算式とかは出てこなくて門外漢でも要点がわかりやすい内容になっているのはよい。
さて量子力学とフィクションについて考えることにする。言語というのは音としては波長だし、記号としては母音や子音が組み合わさった原子のようなものである。例えば「あいうえお」が元素記号表だとすると、「あ」はモノマー(原子)で「あああああ」はポリマーで、「あい」は分子で、「あいしてる」は化合物である。そうすると言葉の解釈の違いも波としてとらえることもできる。言語が思考に使われると脳細胞のデータだけれど、紙やモニターに転写されると違う物質になるというのは言語の面白い所である。量子力学みたいに最小単位の子音の聞き間違いとかを考えてもあまりおもしろくないので、作品全体をどう解釈するかというのを考えてみる。
フィクションは無数の展開パターンがあるけれど、例えば主人公が生きている世界Aと主人公が死んだ世界Bが両方存在すると不都合なので、作者は片方のシナリオを無理やり捨てる。作者の頭の中にある無数のシナリオの中から不都合がない一つのシナリオに収縮して一つの物語を提示して、その作品を観測するすべての読者も作者が観測したのと同じ一つの物語を見て、作者の意図はああだこうだと似たような解釈に収束する。これがコペンハーゲン解釈的に波を収束させるフィクションのとらえ方で、本や映画として一個の完全な形で作品が提示されていた時代のフィクションのとらえ方である。一方でサウンドノベルの『かまいたちの夜』やアクションアドベンチャーゲームの『デトロイト ビカム ヒューマン』のようなマルチエンディングのゲームでは世界Aも世界Bも同時に存在していて、その作品を観測する個々のプレイヤーは違う世界の側面を見る。これが多世界解釈的なフィクションの考え方である。作者の意図が云々という批評の仕方は通用しなくなって、微妙に違う物語を鑑賞した個々人が自分はどう感じて何を考えたのかという批評の仕方になる。国語のテストで主人公が何を考えたのかを選ぶ4択問題も正解がなくなって、共存度の高さが違うだけでどの選択肢を選んでもその世界が共存しうる。
漫画の映画化や二次創作で原作のイメージが壊れると怒る人はコペンハーゲン解釈的にフィクションを作者が観測した唯一の正しい世界としてとらえていて、原作と違ってもそれはそれで楽しめる人は多世界解釈的にフィクションをとらえて作者が観測しなかった別の世界を見ているわけである。私は二次創作は受け入れられる反面、歴史上の人物がフィクションで大幅に改変されるのが気に入らないのだけれど、これは共存度が低い作品を史実と共存する世界として受け入れられないわけである。いまはメディアミックスが標準的になって人気の作品はすぐに小説と漫画と映画で展開してメディアの垣根がなくなっているし、コミケの二次創作も人気の証なので、これからは原作の解釈にこだわらなくなって多世界解釈的にフィクションをとらえるのが主流になると思う。しかし制作コストが低い小説が粗製乱造されて小説特有の技術がなくなって漫画やアニメのシナリオ供給源になりつつあるのはよくない流れである。
フィクションだけでなく宗教や思想も多世界解釈的に考えると、「波の収縮」をする必要がないという考え方のほうが平和的である。原典がある宗教で解釈が分かれた場合には多数派が異端派を弾圧したり、原理主義者がテロを起こしたりけれど、これはコペンハーゲン解釈的に一点の言語に波を収縮させようとして、宗教の観測点が異なる人を排除する宗教観である。しかし多世界解釈的にどの解釈も同時に共存しうる共存度が高い言語の波の観測点だと考えれば、解釈の正しさをめぐる不毛な争いはなくなるかもしれない。仏教は原典があやふやなので、宗派ごとに解釈が違っても最終的に解脱できればいいじゃんという感じで共存度の違いはあるにしても異なる宗派が「仏教」という広い波で共存できている。個人と解釈をセットにして、個々人がある宗教の違う側面を見ているとしても、異なる解釈を否定するわけではなく、個々人がその解釈に納得しているならそれでいいわけである。
世界中で移民の問題が起きているけれど、大量に外国人移民を受け入れている日本もいずれ文化の衝突を経験することになる。寛容であるということは曖昧さを受け入れるということである。状態の変化の曖昧さ、つまりは歴史の曖昧さも受け入れるということである。曖昧さを受け入れられない人同士が交わると衝突が起きるべくして起きる。イスラム原理主義者のような曖昧さを受け入れずに自分の主張を通すために攻撃してくる人たちにどう対処するのかは21世紀の課題になるだろう。
実業家とかはフィクションは時間の無駄だというけれど、金儲けの役に立たない娯楽だから無駄だというのは目先のことしか見ていない浅薄な考え方で、一神教の原理主義では思想が弾圧されて社会が停滞したり紛争が起きたりするのは歴史が証明しているように、世界の曖昧さを受け入れる価値観を養うという意味ではフィクションこそが100年単位での人類の発展を目指すときに人間に必要なものだと私は思う。リアリティのあるフィクションは現実世界が分岐した先で起こりえた別の共存度が高い世界像を提示するし、その世界から現実世界がもっとよい状態になる可能性が見つかるかもしれない。
★★★★☆
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