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最近は岐阜で大学生の野球部の集団がホームレスに石を投げて殺したり、なんでそんなことをするのだろうというような仁義のない酷い事件がしばしば起きている。というわけで仁義について考えることにした。
・仁義とは何か
仁義というと映画の『仁義なき戦い』のように任侠もののフィクションでよく出てくるけれど、元々は儒教の「五常」と呼ばれる仁義礼智信という道徳である。仁とは思いやりの心で万人を愛することである。義とは利欲にとらわれずになすべきことをすることである。仁を行動として表したものが礼である。智は知識が豊富で道理を知っていることである。信は友情に厚くて誠実であることである。
・仁義がない人への批判
岡村隆史がラジオでコロナウイルスでお金に困ったかわいい人が風俗嬢になるのが面白いというような発言をして批判されて不適切だったと謝罪したけれど、これも仁義がないと思う。岡村隆史の発言のどこが悪いのかというと、お金に困って風俗で働く人に対する思いやりの仁がなくて、風俗で楽しみたいという利欲にとらわれていて義がない。落ち込んだ人を笑わせて勇気づけるために芸を磨くのが芸人の仁義で、岡村の発言にはその仁義がなかったので女性蔑視と取られて、芸人仲間からも擁護する人がほとんど出てこなかった。風俗という職業自体が悪いわけではないし、風俗に行ってはいけないというわけではないし、結婚できない男性と金を稼ぎたい女性が合法的に取引するぶんには問題がない。落語の「明烏」のように風俗をテーマにした笑いもある。しかし芸人が風俗に通ってもそれを芸人の仁義につなげられなくて、かわいそうな女性の立場を思いやることができずに客を笑わせるどころか怒らせるのでは女遊びが芸の肥やしになっていないといえる。「医は仁術」というのが医者の倫理の基準になっているように、他人の不幸が自分の利益になることを喜んではいけない。死人が多いほど葬儀屋は儲かるし、台風の被害が大きいほど土建屋は儲かるし、不況になるほど金に困ったかわいい風俗嬢が増えるかもしれないけれど、それを喜んではいけない。自分の利益を喜ぶのでなく、仁義によって他人や社会の役に立つことを喜ぶべきである。
・なぜ仁義はなくなったのか
もともと日本は儒教の影響が強くて、江戸時代には朱子学や陽明学が侍の倫理の基準になっていた。学徒出陣した若者たちの親や国を思う忠孝悌の倫理観も立派なもので、もし私が徴兵されても国のために死ぬなんてまっぴらだとぐだぐだ文句を言って役に立たないだろう。ではなぜかつて日本人に共有されていた儒教的な倫理観がなくなってしまったのだろうかと考えると、第二次世界大戦の敗戦で天皇の権威や家父長制がなくなって忠孝悌の従者としての倫理観がなくなって、戦後の高度経済成長を経験して欲望にブレーキがきかなくなって個人の利益を優先して行動するようになったのが原因だろう。政治家や官僚は利権のために義をなくして、儲からない社会保障を削減しだして仁もなくした。経営者は終身雇用がなくなってからは従業員の生活を犠牲にして低賃金の長時間労働で利益を出すようになって仁義をなくした。仏教は信者を資金集めや投票に利用する政治団体化して仁義がなくなった。大学は就職予備校のモラトリアム扱いされて金儲けにならない教養を軽視して徐々に学力が下がっていって智がなくなった。昭和の芸能人はテレビに出る人としてふさわしい言葉遣いや立ち居振る舞いが要求されていたので芸能人としての礼節や貫禄があったけれど、芸人は落語のような厳しい師弟関係がなくなって芸人養成所の先輩後輩のゆるい関係で育ったので礼がなくなった。芸能事務所が力を持って専門家でないタレントがニュースにコメントするようになってメディアから智がなくなって、御用学者を使って偏向報道してメディアは信もなくなった。かくして自分が儲かれば他人がどうなろうが知ったこっちゃないという仁義がない人が社会の中枢でかじ取りをするようになって、社会から仁義礼智信がなくなった。
資本主義社会では金さえあればなんでもできるようになるけれど、そのぶん傲慢になって無知であることへの謙虚さがなくなり、他者への仁と礼を欠くようになり、義をなくして私利私欲を追及するようになり、金儲けにならない智を学ぶことを時間の無駄とみなすようになり、いずれ醜悪な本性がばれて信用を失う。利益だけを求めて仁義のない社会がどういうものなのかは経営者や芸能人といった金持ちの不祥事の多さに端的に表れている。
儒教の倫理観が絶対的なものというわけではないし、儒教が形骸化すると年功序列の縁故主義になる弊害もあるけれど、儒教的な倫理観があったからこそ日本に特有の庶民の民度の高さが保たれて発展した。発展途上国はその逆で、民度が低くてしょっちゅう暴動や強盗や殺人事件を起こしている。倫理の発展に伴って社会は発展するし、倫理が衰退すれば社会も衰退する。
・コロナウイルスで仁義が問われる
コロナウイルスのパンデミックで、個人や社会の様々な問題点が一挙に浮き彫りになった。個人の問題としてはコロナ感染の疑いがあるのに自宅待機せずに感染を広げる無責任な若者、他人が困るのにつけこんで品薄のマスクや消毒用アルコールを買い占めて高値で転売する人、マスクを欲しがってドラッグストアで暴れる人、非常事態宣言が出ても外出自粛せずに休日に遊びに行って立ち入り禁止の場所に侵入して潮干狩りやキャンプをする人、家族総出で不要不急の買い物に行く人、過度な自粛を求めて嫌がらせをする自粛警察が問題になった。社会の問題としてはリーダーシップがなくて対応が遅い行政、中国に工場が集中して国内にマスクや防護服の生産設備がないリスク、グローバリズムで世界中に感染が拡大しやすいリスク、経営陣の高齢化によるIT化の遅れ、東京の一極集中リスクが問題になった。
もともと道徳が乏しい個人は危機の時にその道徳のなさが顕在化する。慶応病院の研修医が不要不急の宴会をしてコロナウイルスに感染したようなのが典型的である。民主主義ではまずは個人の倫理観が変わらないと政治も社会も変わらないし、社会を良くしていこうという意識を持って選挙で投票するとかの行動しないと社会はよくならない。コロナウイルスで明らかになった問題点を改善しようとせずにそのまま放置しておくと、南海トラフ地震や富士山の噴火とかのコロナウイルスよりもひどい状況が起きたときにはさらに悲惨な状態になりうる。市民に良識がなくて社会を気にしないと、ヨーロッパのように行政の権限が強くなって警察が外出自粛しない人から罰金を取ったりするようになる。その行きつく先は中国のように個人の自由がない監視社会である。自分の生命や財産に対して無能な政府が強力な権限を持つというのは恐ろしいことで、そうならないように個々人が倫理観をもって社会を変えないといけない。特に社会的な影響力が大きい政治家や経営者の倫理観が社会の幸福度を左右する。「ガイアの夜明け」でビジネスで社会問題を解決しようとするボーダレス・ジャパンを特集していたけれど、これが起業家の仁義のあり方である。
地震や台風のような局地的な災害では被災者とそうでない人がはっきり分かれるので、募金や買って応援とかで個人で支援しやすかった。しかしコロナウイルスは被害者が多すぎて被害者像がはっきりしないので、そのぶん支援がしにくい。自粛に耐える資金がない個人経営の店、ホテルなどの観光業、人が集まるイベントがなくなったスポーツ選手やミュージシャン、鯛の養殖業者、内定を取り消された新卒、日雇いの仕事が途切れたネカフェ難民など、広範囲に大勢困っている人がいる。こうした広範囲の問題は個人の支援よりも行政が対処しないといけない。自分が投票した地方議員や国会議員がちゃんと働いているのか、困っている人を助けようとする仁義を持った人なのか、専門的な知識を学んで問題解決をしようとしているのか見極めて、次の投票に反映させる必要がある。知恵もなく利権にまみれて威張っているような仁義礼智信がない政治家に自分の生命や財産や自由に対する決定権を与えてはいけない。私はまだ大勢の日本人が仁義を重んずる倫理観を持っていると思うし、だからこそ岡村への批判も起きたのだと思う。その倫理観を政治家にもぶつけて、投票に反映して社会を変えてほしいものである。
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