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滋賀は、天智天皇が大津に遷都したり、聖武天皇が奈良の大仏を元は信楽に建てようとしていたことなど、歴史的に縁が深いところである。そんなこともあり、昔から石工職人が多くいて、そういった文化が早くから栄えていたところのようだ。今回滋賀を旅してみて、石段にしろ、石塔にしろ、ふんだんにその技術が生かされているなと感じさせられた。写真は80枚ほどあり、その中の何枚かで見られた方も感じてくださるのではと思う。まずは、長命寺に行った。(長命寺の解説)長命寺(ちょうめいじ)は、滋賀県近江八幡市にある寺院。西国三十三箇所第三十一番札所。天台宗系単立。聖徳太子の開基と伝える。琵琶湖畔にそびえる長命寺山の山腹に位置し、麓から本堂に至る800段余の長い階段で知られる。かつての巡礼者は、船で長命寺に参詣した。伝承によれば、第12代景行天皇の時代に、武内宿禰がこの地で柳の木に「寿命長遠諸元成就」と彫り長寿を祈願した。このため宿禰は300歳の長命を保ったと伝えられる。その後、聖徳太子がこの地に赴いた際、宿禰が祈願した際に彫った文字を発見したという。これに感銘を受けてながめていると白髪の老人が現れ、その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げた。太子は早速、十一面観音を彫りこの地に安置した。太子は宿禰の長寿にあやかり、当寺を長命寺と名付けたと伝えられている。その名の通り、参拝すると長生きすると言い伝えられている。「千手十一面聖観世音菩薩三尊一体」、つまり、千手観音、十一面観音、聖観音(しょうかんのん)の3体が長命寺の本尊であるとされている。本堂内陣の厨子には、中央に千手観音像、向かって右に十一面観音像、左に聖観音像が安置されている(いずれも重要文化財、秘仏)。千手観音像(像高91.8cm)は一木割矧造、素地截金仕上げで、平安時代末期、12世紀頃の作と推定される。十一面観音像(像高53.8cm)は、千手観音像より古い10世紀ないし11世紀の作と推定され、こちらが当初の本尊であった可能性もある。聖観音像(像高67.4cm)は鎌倉時代の作と推定される。これらの像を安置する厨子は前の間と後の間に区分され、後の間には地蔵菩薩立像と薬師如来立像を安置する。これらの観音像は厳重な秘仏とされ、平素は公開されていない。石段は808段ある。本堂、三重塔が見えてきた。800段の石段をようやく登ったようだ。ここでso-netでつなぎます。滋賀・聖徳太子ゆかりの寺(1部)
2009/09/30
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奈良・東大寺周辺(総合版)もso-netでアップしています。奈良・東大寺周辺(総合版)
2009/09/25
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引き続き東大寺周辺の写真を載せたいと思う。飛火野にて浮見堂にて。東大寺に戻ってきた。法華寺の解説法華寺(ほっけじ)は、奈良県奈良市法華寺町にある仏教寺院。奈良時代には日本の総国分尼寺とされた。本尊は十一面観音、開基は光明皇后である。宗旨はもと真言律宗に属したが、1999年に同宗を離脱し、光明宗と称する。光明皇后ゆかりの門跡尼寺として知られる。東大寺が全国の総国分寺であったのに対し、法華寺は総国分尼寺と位置づけられ、詳しくは法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といった。法華寺の地にはもと藤原不比等の邸宅があり、不比等の没後、娘の光明子、すなわち光明皇后がこれを相続して皇后宮とした。天平17年(745年)5月、皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりである。聖武天皇は天平13年(741年)2月14日、国分寺・国分尼寺建立の詔を発した。法華寺は、この詔に基づいて建立整備された国分尼寺である。国分寺・国分尼寺建立の詔が発せられてからの数年間、大和国の国分尼寺は存在しなかったのか、存在したとしたらどこにあったのかなど、創建経緯の細部については不明な点が多い。法華寺は皇后発願の寺院であり、国分尼寺という位置づけでありながら、伽藍の完成までには相当の歳月を要したとみられる。法華寺は平安京遷都以後は次第に衰微し、平安時代末期にはかなり荒廃していたことが当時の記録から伺える。治承4年(1180年)の平重衡の兵火では東大寺、興福寺が炎上し、法華寺も被害を受けたという。鎌倉時代に入り、東大寺大仏の再興を果たした僧・俊乗坊重源(しゅんじょうぼう ちょうげん)は、建仁3年(1203年)、法華寺の堂宇や仏像を再興した。現在も寺に残る鎌倉時代様式の木造仏頭は、この再興時の本尊廬舎那仏(るしゃなぶつ)の頭部であると推定されている。さらに、その半世紀後、鎌倉時代中期の真言律宗の僧・叡尊(えいそん)によって本格的な復興がなされた。その後、明応8年(1499年)と永正3年(1506年)の兵火や慶長元年(1596年)の地震で東塔以外の建物を失い、現在の本堂、鐘楼、南門は慶長6年(1601年)頃、豊臣秀頼と母の淀殿が片桐且元を奉行として復興したものである。なお、兵火や地震の被害をまぬがれていた東塔は宝永4年(1707年)の地震で倒壊した。法華寺は叡尊の時代以来、真言律宗における門跡寺院としての寺格を保っていたが、平成11年(1999年)、創建当時のように独立した寺に戻ることとなり、光明皇后にちなんで「光明宗」と名づけ離脱・独立した。本堂を撮影。本堂屋根瓦ここでso-netでつなぎます。奈良・東大寺周辺PART2
2009/09/25
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今回は、奈良の東大寺周辺のお寺や風景を載せたいと思う。70枚ほどなので2回に分けて、後でまとめます。人が多くて集中力がそがれた。それで東大寺の写真はあまりない。(東大寺の解説)東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の仏教寺院である。奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁僧正(ろうべんそうじょう)である。奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約100メートル)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座などの一部に当初の部分を残すのみであり、現存する大仏殿は江戸時代、18世紀初頭の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置づけられた。東大寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。南大門南大門の木造金剛力士像東大寺から春日大社へ向かった。東大寺の三月堂のすぐそばには手向山神社がある。ここでso-netでつなぎます。奈良・東大寺周辺
2009/09/25
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まずはいただきもののご紹介です。ブログ「La mia vita come va?」のKasuminさんにパンをいただきました。Kasuminさんのブログであんパン作りの記事を見たときに、あまりに美味しそうだったので、冗談で「送っていただきたいです。」と書いたら、本当にそれが実現してしまいした。(^^)vしかもたくさん送っていただいて、本当に申し訳ないです。嫁さんもお袋もパンがとても好きで、送っていただいたパンはその日になくなってしまいました。あんこの甘さが控えめでとても美味しかったです。(写真は半分ほど食べてしまった後で撮影しています。^^;)Kasuminさんはso-netでパン作り専門の記事も載せています。Kasuminさんの楽天ブログはこちら→→→La mia vita come va? so-netのブログはこちら→→シニョーラKはご飯党♪(パン作りの記録).......................................................みんは臆病な猫で、物音がするとすぐにこんな感じの顔になる。
2009/09/22
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鯖街道の総合版もso-netでアップしています。鯖街道(総合版)
2009/09/21
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引き続き鯖街道を載せたいと思う。瓜割の滝を後にしてから次に向かったのは明通寺であった。(明通寺の解説)明通寺(みょうつうじ)は、福井県小浜市門前にある真言宗御室派の寺院。本尊は薬師如来。大同元年(806年)、坂上田村麻呂によって創建されたと伝えられる。本堂と三重塔は国宝に指定されている。(福井には国宝は2つしかなく、それがこの寺の本堂と三重塔である。)熊川から小浜に向かう街道の南。松永川と遠敷川の2つの川が出合う地域は、遠敷(おにゆう)の里と呼ばれる。遠敷(おにゆう)にあるこの名刹は、深い杉木立に包まれ、古色を帯びた伽藍が立ち並ぶ。古代からの里、遠敷(おにゆう)を中心とする小浜界隈には、奈良時代創建の多田寺や羽賀寺をはじめ、130を超える寺院が文字通り林立する。まさに小浜は、「海のある奈良」という言葉にふさわしい、仏教文化が花開いた「浄土」であった。 ここでso-netでつなぎます。鯖街道(3部・最終)
2009/09/20
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引き続き、鯖街道の写真を載せたいと思う。興正寺を後にしたところからである。保坂熊川宿18世紀後半より大量の鯖が若狭から京へと運ばれた事から、鯖街道と呼ばれるようになった。この街道にある熊川宿は、天正17年(1589年)、熊川が交通と軍事において重要な場所であることから、秀吉に重用され、若狭の領主となった浅野長政により作られた宿場町である。現在は国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されており、古い建物を生かした資料館や喫茶店を散策することができる。熊川の町並みの特徴は、街道に面して多様な形式の建物が建ち並んでいるところである。嶺南病院の屋上から撮れば真ん中に道を入れて一番綺麗に熊川宿を写真にできることは容易に想像できたが、非常階段用のドアは閉まっており病院内に入ることは困難なので諦めた。ここでso-netでつなぎます。鯖街道(2部)
2009/09/19
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今回は、鯖街道沿いの村やゆかりの寺、名刹、滝など載せたいと思う。120枚ほどなので3回に分けて、最後にまとめます。(鯖街道の解説)鯖街道(さばかいどう)とは、嶺南地方で獲れた魚介類を京都に運ぶために整備された街道の歴史的名称。その魚介類の中でも、特に鯖が多かったため、「鯖街道」と言われるようになった。現在の福井県小浜市から京都市左京区出町柳までの区間を指し、国道27号(小浜市~若狭町上中)、国道303号(若狭町上中~高島市保坂)、国道367号(高島市朽木~京都市左京区)にあたる(往時の鯖街道は現在の国道367号ではなく、大見尾根を経由する山道であった)。なお、広義では若狭地方から京都へ海産物を運んだ街道全てを鯖街道と呼ぶ。若狭湾で取れた鯖に塩をまぶし、夜も寝ないで京都まで運ぶと、ちょうど良い味になっていたと言われ、京の一般庶民にまで喜ばれ、その到着を待ち望まれたために、これを運ぶ道にいつしか鯖街道の名が付けられた。運ぶ人達は「京は遠ても十八里」と唄いながら寝ずに歩き通した。現在も国道367号沿線には、鯖寿司を生業とした店が多数存在する。また、小浜市から京都市(左京区出町柳)までを当時のルートで走り通す「鯖街道マウンテンマラソン」(距離:76km)が毎年開催されている。ルートの大半が未舗装路であり、高低差も大きいことから、別名「ウルトラ山岳マラソン鯖街道マラニック(マラソン+ピクニック)」とも呼ばれる。現在の日本は、多くのサバをノルウェーから輸入している。これを指して、ノルウェーから日本への空路を「現代の鯖街道」と呼ぶ人もいる。なお、現在は塩をまぶすのではなく冷凍で送られており、アニサキスの心配はない。葛川安曇川朽木村ここでso-netでつなぎます。鯖街道(1部)
2009/09/19
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日吉大社のすぐそばに旧竹林院庭園がある。里坊のひとつで、延暦寺の中でも格式の高い寺院であった。庭園は国指定の名勝で、大宮川の清流を取り入れた曲水を主体にし、八王子山を借景としている。築山も起伏に富み、五重の石塔、井筒などの石造物も多く残る。天正年間に建てられた2棟の茶室と四阿(あずまや)は大津市の指定文化財となっている。旧竹林院庭園にて。ここでso-netでつなぎます。旧竹林院庭園と琵琶湖周辺の風景
2009/09/18
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今回は日吉大社の石橋を載せたいと思う。日吉大社の石橋も白州正子の著書「かくれ里」に紹介されている。「石仏だけでなく、他の石造美術にも傑作が多いが、中でも特筆すべきは日吉神社の石橋であろう。・・・堂々としていながら少しも重苦しさを感じさせない。(かくれ里)」日吉大社近く。琵琶湖が見えている。(日吉大社の解説)日吉大社は、滋賀県大津市坂本にある神社。俗に山王権現とも。日本全国に約2000社ある日吉・日枝・山王神社の総本宮である。中世には二十二社の下八社のひとつとされた。西本宮と東本宮を中心に、400,000m²の境内を持つ。猿を神の使いとして崇拝することで知られている。最澄が比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である当社を、天台宗・延暦寺の守護神として崇敬した。中国の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって山王権現と呼ばれるようになった。延暦寺では、山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いた。中世に比叡山の僧兵が強訴のために担ぎ出した神輿は日吉大社のものである。天台宗が全国に広がる過程で、日吉社も全国に勧請・創建された。元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちにより日吉大社も灰燼に帰した。現在見られる建造物は安土桃山時代以降に再建されたものである。信長の死後、豊臣秀吉は当社の復興に尽力した。これは、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であることから、当社を特別な神社と考えたためである。明治に入ると神仏分離令により、仏教色が廃された。また、本来の形に戻すとして、東本宮と西本宮の祭神を入れ替えて西本宮の大山咋神を主祭神とし、大物主神を祀る東本宮は摂社・大神神社に格下げした。昭和初年に元の形に復した。日吉三橋(大宮橋、走井橋、二宮橋)はいずれも重要文化財ここでso-netでつなぎます。日吉大社の石橋
2009/09/17
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前回に引き続き「山中にある美しい磨崖仏」を載せたいと思う。金勝山ハイキングコースを歩いているところからである。茶沸観音登ったり下ったりの道である。重ね岩見晴らしのいいところが何箇所もあった。ここでso-netでつなぎます。山中にある美しい磨崖仏PART2
2009/09/15
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今回は、金勝寺と狛坂磨崖仏の写真を載せたいと思う。金勝寺や狛坂磨崖仏は白州正子さんの著書「かくれ里」で紹介されているので実際に見に行かれた方もおられると思う。僕はその本を書店で見かけたことはあるが読んでいない。5年ほど前に、「婦人画報」の滋賀県の特集で狛坂磨崖仏の写真を見たことがあり、その大きさと美しさに深い感銘を受けた。それからしばらくたってはいるが、ようやく見ることができた。写真は80枚ほどあるので2回に分けて、後半で狛坂磨崖仏を載せたいと思う。金勝山近くの里山の風景。金勝寺入り口金勝寺金勝寺(こんしょうじ)は、滋賀県栗東市荒張にある天台宗の寺院。山号は金勝山。本尊は釈迦如来。開基は良弁(ろうべん)と伝える。古くは大菩提寺と称し、湖南地方の仏教の一大拠点として栄えた大寺院であった。寺は栗東市の南方、金勝山(こんぜやま)の山中に位置する。金勝山は単独の峰ではなく、竜王山(605m)、鶏冠山(491m)などの山系を指す名称で、東北方に位置する阿星山、東方に位置する飯道山とともに、金粛菩薩(こんしょうぼさつ)の霊地とされている。金粛菩薩とは東大寺の開山・初代別当とされる良弁(ろうべん)のことで、この地域には他にも長寿寺、常楽寺などの金粛菩薩(良弁)開基を伝える寺院群がある。金勝寺の開基も金粛菩薩とされ、往時は山中に36坊、付近に25別院を有する、湖南地方の仏教の中心寺院であった。現在も近隣には金勝寺二十五別院の一であったとされる寺院が点在する。また、金勝寺の西方の山中には平安時代初期の作とされる狛坂磨崖仏(国の史跡)があり、この地域の仏教文化の歴史の古さがわかる。金勝寺は初期には法相宗系の寺院であったが、近江地方は比叡山が存在する関係で天台宗の勢力が強く、この寺も平安時代後期頃から天台系となり、現在は天台宗毘沙門堂門跡(京都市山科区)の末寺となっている。金勝寺は、寺伝では天平5年(733年)、聖武天皇の命により、紫香楽宮の鬼門鎮護のため良弁(ろうべん)が創建したという。建武2年(1335年)には後醍醐天皇の綸旨により同天皇の祈願所となっている。往時は山上に36坊を数えたというが、天文18年(1549年)の火災で焼失し衰退した。その後再建され、近世には徳川家康が30石を与えているが往時の規模を取り戻すことはなかった。ここでso-netでつなぎます。山中にある美しい磨崖仏
2009/09/14
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当尾の里・石仏を巡る旅(総合版)もso-netに載せています。当尾の里・石仏を巡る旅(総合版)
2009/09/12
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3部に引き続き当尾の里の風景を載せて締めたいと思う。六体地蔵。ざくろ岩船寺前にて。岩船寺三重塔が見えている。(岩船寺の解説)岩船寺(がんせんじ)は京都府木津川市加茂町にある真言律宗の寺院である。本尊は阿弥陀如来。開基(創立者)は行基と伝える。アジサイの名所として知られ「アジサイ寺」とも呼ばれる。岩船寺の名は門前にある岩船(いわふね)にちなむ。岩船寺は京都府の南端、奈良県境に近い当尾(とうの)の里に位置する。この地区は行政的には京都府に属するが、地理的には奈良に近く、文化的にも南都の影響が強いとされている。近くには九体阿弥陀仏で知られる浄瑠璃寺がある。岩船寺、浄瑠璃寺付近には当尾石仏群と称される鎌倉時代を中心とした石仏(多くは自然の岩壁に直接刻んだ磨崖仏)や石塔が多数残り、その中には鎌倉時代の銘記を有するものも多い。当尾には中世には、都会の喧騒を離れて修行に専念する僧が多数居住し、多くの寺院が建てられたと言われ、今に残る石仏・石塔群はその名残りであるといわれている。岩船寺は寺伝によると天平元年(729年)に聖武天皇の発願により行基が建立したと伝わる。その後、平安時代初期の大同元年(806年)に空海(弘法大師)の甥・智泉(ちせん)が入り、伝法灌頂(密教の儀式)の道場として報恩院を建立した。弘仁4年(813年)には嵯峨天皇が皇子誕生を祈念して後の仁明天皇を授かったので、嵯峨天皇の皇后が伽藍を整え、岩船寺と称するようになったという。以上はあくまでも寺伝であり、中世以降の火災で古記録が失われているため、草創の正確な時期や事情ははっきりしていない。なお、本尊の阿弥陀如来坐像は坐高2.8メートルを超える大作であり、像内に天慶9年(946年)の銘記があることから、遅くとも10世紀半ばには岩船寺はかなりの規模の寺院であったと推定される。承久3年(1221年)の承久の変の兵火により建物のほとんどを焼失するが、室町時代に三重塔などが再建される。江戸時代には興福寺の末寺であった。本堂ここでso-netでつなぎます。当尾の里・石仏を巡る旅(4部・最終)
2009/09/12
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2部に引き続き当尾の里の風景を載せたいと思う。これが大門仏谷の如来形大磨崖仏。当尾の石仏中で最古最大のもの。大門石仏群大門石仏群の向かい側にあった神社らしきもの。ここでso-netでつなぎます。当尾の里・石仏を巡る旅(3部)
2009/09/12
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1部に引き続き、当尾の里の風景を載せたいと思う。藪の中の三仏磨崖像1つの岩に阿弥陀仏坐像、もう1つには地蔵菩薩とやや小さく観音菩薩の両立像がまつられている。ここでso-netでつなぎます。当尾の里・石仏を巡る旅(2部)続きは今日中に載せたいと思います。
2009/09/11
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奈良県と境を接する京都府加茂町の「当尾の里」は、平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけて浄土信仰の霊地として栄え、今も「石仏の里」として多くの人に親しまれている。「当尾の里」は、行政的には「京都府」ではあるが、奈良の興福寺の別所であったところであり、仏教的には南都奈良の影響下にあった。この里には「浄瑠璃寺」と「岩船寺」、それに多くの「石仏」がある。それらを歩いて撮影したのでその写真を載せたいと思う。170枚ほどあるので、4回ぐらいに分けて、最後に総合版として全部一気に載せたいと思う。これは当尾への行き際に撮影したもの。宇治田原町の近くにある町、和束町あたり。茶畑が広がっている。ここから当尾の里の風景。ここでso-netでつなぎます。当尾の里・石仏を巡る旅(1部)
2009/09/11
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今回は、前回と同じく茶畑と田舎の景色を載せたいと思う。撮影場所は同じなので前回と同じような画像がある。撮影は、コンデジの代わりになるだろうと思って買ってみたpanasonicのLUMIX DMC-G1である。女性をターゲットにしたデジタル一眼で、「女流一眼」をキャッチフレーズにして売り出したマイクロフォーサーズのカメラである。小さくて軽いのでとても楽しく撮影できた。これがpanasonicのLUMIX DMC-G1池田町にて。祭りの準備がされているようだ。池田町には茶畑が広がる。ここでso-netでつなぎます。茶畑と田舎風景&G1の感想
2009/09/08
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今回は、揖斐郡池田町の茶畑と春日村の田舎景色を載せたいと思う。今回撮影しているのは、キャノンのPowershot G10というコンパクトカメラで白飛びすることが多いので手放すことにした。予備電池込みで5万近くしたが撮ったショットは1500枚ほどだった。最後にということでそのカメラを使っている。9月に入ってから咲き始めている。池田町の眺め。茶畑が広がっている。北に向かって行くとどんどん田舎景色になる。ここでso-netでつなぎます。茶畑と田舎景色
2009/09/05
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山の辺の道の写真200枚ほどを一気に載せた記事をso-netでアップしています。奈良・古の人々に想いを馳せて(総合版)
2009/09/03
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今回は4部の続きを載せて締めたいと思う。景行天皇陵を後にしてまもなくのところ。ここでso-netでつなぎます。奈良・古の人々に想いを馳せて(5部・最終)
2009/09/03
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今回は、長岳寺から載せたいと思う。長岳寺前にて。大門(長岳寺の解説)長岳寺(ちょうがくじ)は奈良県天理市柳本町にある高野山真言宗の寺院。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は空海(弘法大師)とされる。関西花の寺二十五霊場第19番札所。日本最古の歴史の道といわれる山の辺の道のほぼ中間点に位置している。釜口大師の名で親しまれている。天長元年(824年)に淳和天皇の勅願により空海(弘法大師)が大和神社(おおやまとじんじゃ)の神宮寺として創建したという。盛時には48もの塔頭が建ち並んでいた。旧地蔵院(庫裏)楼門ここでso-netでつなぎます。奈良・古の人々に想いを馳せて(4部)
2009/09/03
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引き続き山の辺の道の写真を載せたいと思う。今回は、夜都岐神社を後にするところからである。夜都岐神社そばの田んぼのあぜ道に咲いていたコスモス。夜都岐神社を後にした。夜都岐神社近辺の民家。ブルーベリーと思われるものもあった。ここでso-netでつなぎます。奈良・古の人々に想いを馳せて(3部)
2009/09/02
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前回に引き続き山の辺の道の写真を載せたいと思う。石上神宮を後にしたところから載せている。まだ200枚ぐらいあるので4回に分けるつもりである。石上神宮を後にして、内山永久寺に向かった。このハス池には花はもうなかった。これはりんごである。山の辺の道沿いではいろいろな果物を目にすることができる。山の辺の道沿いにはいろいろな野仏が見られる。ここでso-netでつなぎます。奈良・古の人々に想いを馳せて(2部)
2009/09/01
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今回は奈良にある山の辺の道の写真を載せたいと思う。写真が多いので何回かに分けたい。(4~5回)奈良に興味のある方や、歴史に興味のある方はそれなりに楽しめると思うのでざーと見ていただければと思う。石上神社から大和神社(おおみわじんじゃ)まで歩いた。大体15キロほどを写真を撮りながら7時間ぐらいで歩いている。(山の辺の道の解説)飛鳥と平城(奈良)を結ぶ古の官道が山の辺の道。そのうち道がよく整備され、見どころの多いのが天理~桜井で、休日には大勢のハイカーを迎えている。野を過ぎ、林を抜け、小鳥のコーラスを聞いて歩く道沿いには、大和棟の美しい民家、神話の時代からまつられている神社、おびただしい数の古墳が残り、歴史へのロマンをかきたててくれる。まずは石上神社の駐車場から見える風景を。奈良らしい風景だなと思って撮影。(石上神宮の解説)石上神宮(いそのかみじんぐう)は奈良県天理市にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は官幣大社(現在は神社本庁の別表神社)。中世には二十二社の中七社のひとつとされた。尚、『日本書紀』に記された神宮は、伊勢神宮と石上神宮だけであり、その記述によれば、日本最古設立の神宮となる。まだ整理できていないので今回はここまでにして、続きを今晩遅くに載せたいと思います。
2009/09/01
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