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今回は、大晦日撮影の京都の風景を載せたいと思う。西本願寺の駐車場に車を置いて、歩き始めた。西本願寺にて。二条城に向かっている。二条城は休城していて入れなかった。それで次は平安神宮に向かった。鴨川にかかる橋、丸太町橋にて。平安神宮に到着した。平安神宮(へいあんじんぐう)は、京都府京都市左京区にある神社である。旧社格は官幣大社、勅祭社。現在は神社本庁の別表神社。1895年(明治28年)3月15日に平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧業博覧会の目玉として平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画された。当初は、実際に大内裏があった千本丸太町に朱雀門が位置するように計画されたが、用地買収に失敗し、当時は郊外であった岡崎に実物の8分の5の規模で復元された。博覧会の後は、建物がそのままにして、平安遷都を行った天皇であった第50代桓武天皇を祀る神社として創祀された。皇紀2600年にあたる1940年(昭和15年)に、平安京で過ごした最後の天皇である第121代孝明天皇が祭神に加えられた。平安神宮では、京都を守る四神の御守が授与されている。1976年(昭和51年)1月6日、火災が発生し本殿・内拝殿など9棟が炎上、焼失した。創建が比較的新しく文化財指定を受けていなかったため、国からの補助金が見込めなかったが、全国からの募金により3年後に再建された。この火災は、後に新左翼活動家加藤三郎の犯行であることが判明した。平安神宮の庭園を撮影。ここでso-netでつなぎます。大晦日、京都にて。(1部)
2009/12/31
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今回は、越前海岸の写真を載せたいと思う。昼過ぎまで雨が降っていたが、晴れ間が見えてきた。ここでso-netでつなぎます。越前海岸冬景色
2009/12/29
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12月19日、岐阜では雪が積もった。その日の昼ごろ、道路の雪が溶けるのを待って谷汲にある横蔵寺に行ってみた。そのときに撮影した写真を載せたいと思う。本堂は改修中なので撮影できず、中途半端な感じがしたので載せていなかった。(横蔵寺の解説)横蔵寺(よこくらじ)は岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原にある天台宗寺院。山号は両界山、本尊は薬師如来。西美濃三十三霊場第一番札所。国の重要文化財を含む多数の文化財を有し、「美濃の正倉院」とも呼ばれる。紅葉の名所でもあり秋の行楽シーズンには特に多くの参拝客が訪れる。平安時代~鎌倉時代の仏像等、多くの文化財を有する古寺であるが、草創や沿革については史料が乏しく、平安時代末期ころまでの寺史はほとんど不明といってよい。寺伝によれば、横蔵寺は日本天台宗の宗祖・最澄が自作の薬師如来を安置して創建した寺とされている。伝承によれば、最澄は比叡山延暦寺を開創する際に、本尊薬師如来像を自ら刻んだが、その薬師如来像を造ったのと同じ霊木から、もう1体の薬師如来像を造った。最澄は、その2体目の薬師如来像を笈(おい、山伏や山林修行者が背中に背負う箱状のもの)に入れて背負いながら諸国を旅したが、延暦22年(803年)、横蔵寺のある地まで来た時に薬師如来像が動かなくなったので、ここに一寺を建立して薬師如来像を祀ることにし、地元の三和次郎大夫藤原助基が寺を建立したという。最澄自ら、笈を背負って都から遠く離れた美濃の山奥までやって来たというのは、史実として信じることはできないが、当寺が延暦寺と関係の深い寺院であることを示唆しているといえよう。横蔵寺に現存する仏像の中で、大日如来像(重要文化財)には平安時代最末期の寿永2年(1183年)の銘があり、同年、三重塔の本尊として造立されたことが明らかである。また、金剛力士(仁王)像には、建長8年(1256年)の銘があり、作者は鎌倉時代を代表する仏師の一人である定慶(じょうけい)であることがわかっている。横蔵寺は、元亀2年(1571年)、織田信長の兵火で焼失し、現在ある本堂、三重塔、仁王門などの主要伽藍は江戸時代の復興である。織田信長の比叡山焼き討ちによって、延暦寺の伽藍が灰になった後、横蔵寺の本尊薬師如来像は、「延暦寺本尊と同じ霊木から造られた、最澄自作の像」という由緒ある像だということで延暦寺に移された。その代わりに、洛北の御菩薩池(みぞろがいけ、現・京都市北区の深泥池)から移されたのが、横蔵寺の現本尊である薬師如来像であるという。横蔵寺は、多くの文化財を有する寺として知られるとともに、「ミイラのある寺」として知られている。舎利堂に安置される「舎利仏」すなわちミイラは、妙心法師という人物の遺体である。妙心法師は横蔵寺の地元の村の出身で、俗名を古野小市良と言った。天明元年(1781年)に生まれ、諸国を巡って仏道修行をし、文化14年(1817年)、断食修行の後、今の山梨県都留市で即身成仏したという。遺体は何らの加工もなく、自然にミイラ化したとされ、当初は成仏した地の山梨県で保存されていたが、遺族らの要望により、明治23年(1890年)、本人の出身地の横蔵寺に移された。重要文化財(国指定) 木造薬師如来坐像(秘仏で六十年に一回開帳される) 木造大日如来坐像 木造四天王立像 木造十二神将立像 木造深沙大将立像 木造金剛力士立像 板彫法華曼荼羅 撮影:PENTAX K7
2009/12/27
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今回は、夕刻の東尋坊の景色を載せたいと思う。東尋坊(とうじんぼう)は、福井県坂井市三国町安島に位置する崖。越前加賀海岸国定公園に属する。海食によって海岸の岩肌が削られ、高さ約25mの岩壁が続く。この岩は輝石安山岩の柱状節理でこれほどの規模を持つものは世界に三箇所だけであり地質上極めて貴重とされ、国の天然記念物及び名勝指定を受けている。地名の由来は、乱暴あるいは恋愛関係で恨みを買って此処から突き落とされた平泉寺(勝山市)の僧の名前による。東尋坊は、今から約1,200 - 1,300万年前の新生代第三紀中新世に起こった火山活動で、マグマが堆積岩層中に貫入して冷え固まってできた火山岩が、日本海の波による侵食を受け地上に現れたものとされている。東尋坊の火山岩は白色の斜長石の斑晶や暗緑色の普通輝石・紫蘇輝石の斑晶を含む安山岩で、マグマが冷えて固まるときにできた五 - 六角形の柱状の割れ目(柱状節理)がよく発達している。この柱状節理の規模の大きさが地質学的に極めて貴重であるとされ、昭和10年(1935年)に国の天然記念物・名勝に指定された。また、平成19年(2007年)には日本の地質百選に選定された。帰るころには誰もいなくなっていた。撮影:Nikon D300
2009/12/27
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今回は、富山で唯一の国宝である「瑞龍寺」の写真を載せたいと思う。総門瑞龍寺(ずいりゅうじ)は、富山県高岡市にある曹洞宗の仏教寺院。山号を高岡山と称する。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は前田利常であり、開山(初代住職)は広山恕陽(こうざんじょよう)である。仏殿、法堂、山門の3棟が近世禅宗様建築の代表作として、1997年に国宝に指定されている。これは富山県下における初の国宝指定であり、2009年現在も富山県唯一の国宝である。加賀藩2代藩主前田利長(1562年ー1614年)が、織田信長・信忠らの追善のため、文禄3年(1594年)金沢に創建した宝円寺(後に法円寺と改称)が瑞龍寺の前身である。利長は慶長10年(1605年)、44歳の若さで家督を異母弟の利常(1594年 - 1658年)に譲り、自らは隠居した。利長には実子がなかったため、30歳以上年下の異母弟で、当時まだ少年であった利常を養嗣子としたのである。隠居後の利長は金沢から富山に移転するが、富山城の炎上を機に高岡に移り、ここに新たに高岡城を築いた。前述の法円寺は、利長死去の前年である慶長18年(1613年)、高岡に移された。前田利長は慶長19年(1614年)没し、後を継いだ3代藩主前田利常は、法円寺を利長の菩提寺とし、利長の法名瑞龍院に因んで寺名を「瑞龍院」と改めた。(後、さらに「瑞龍寺」に改称)前田利常は承応3年(1654年)から瑞龍院の伽藍の本格的整備に着手した。(伽藍整備の開始は、利長の三十三回忌にあたる正保3年(1646年)からとする説もある。)建築工事は、加賀藩お抱えの大工頭・山上善右衛門嘉広(代々「善右衛門」を名乗る)が棟梁となって進められた。山門、仏殿、法堂(はっとう)が一直線に並び、左右に回廊をめぐらして諸堂を対称的に配置する伽藍配置は中国の径山万寿寺にならったものといい、伽藍整備が完成したのは利長の五十回忌にあたる寛文3年(1663年)頃であった。瑞龍寺は近世を通じて前田家の手厚い保護を受け、寺領三百石を有する大寺であった。延享3年(1746年)の火災で山門を含む伽藍の前半部分が焼失し、山門が再建されたのはそれから約70年後の文政3年(1820年)であった。国宝 仏殿 棟札により万治2年(1659年)の竣工とわかる。入母屋造、一重裳階(もこし)付きで、屋根は当初こけら葺きであったが、現状は鉛瓦葺きとする。鉛製の瓦を用いる理由は、俗説では非常時に鉄砲の弾にするためともいうが、実際は冬季の積雪対策のためだという。内部を土間床とし、天井の構造材を見せて装飾としている点、組物(柱上にあり、軒や天井を支える構造材)を密に配する点などは禅宗様建築の特色であり、柱、扉、窓などの細部様式も典型的な禅宗様になる。法堂 墨書から明暦元年(1655年)の建立とわかる。入母屋造、銅板葺き。内部を土間床とする仏殿に対し、法堂は畳敷きで、横2列、縦3列の6部屋を配する方丈形式の間取りである。手前の3部屋の前面には広縁(板間)があり、その前面は左右に細長い土間廊下とする。こうした平面形式は曹洞宗建築の特色を示す。山門 延享3年(1746年)の火災で焼失後、長らく仮の門が建てられていた。現存する門は文政元年(1818年)に上棟、同3年(1820年)に竣工したものである。二重門(2階建てで、上層と下層の境にも軒の出をつくるもの)で、屋根は入母屋造、こけら葺き。二重門では下層の屋根を上層よりも大きくつくることが多いが、この門では上層と下層の屋根の出があまり変わらない。これは積雪時に上層屋根から落下した雪が下層屋根に当たるのを防ぐためといわれる。下層には金剛力士(仁王)像を安置、上層内部には釈迦如来と十六羅漢像を安置する。重要文化財 総門禅堂大茶堂高廊下北回廊南東回廊南西回廊紙本墨書後陽成院宸翰御消息その他 絵画、墨蹟などの文化財を多数有する。山門山門から仏殿が見えている。山門仏殿山門脇の回廊仏殿仏殿内の仏像仏殿内緑の屋根は法堂仏殿ここでso-netでつなぎます。国宝「瑞龍寺」
2009/12/26
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まずはいただき物のご紹介です。クリスマスプレゼントでそらまめさんから素晴らしいものをいただきました。(^^)v当選したカレンダーだけかと思ったら、チョコレートや猫の置物、猫の首輪などいろいろなものを送っていただけました。そらまめさん、ありがとうございました!みんの首輪が特に気に入りました。みんにはめてみて、あまりに可愛かったので嫁さんときゃーきゃー言ってました。^^;そらまめさんは何匹もネコさんを飼っていて、ブログでご紹介されています。美的センスに優れている方なので、撮られる写真もとても素敵なものです。そらまめさんのブログ→「そらの虹色おさんぽ写真」 ........................................................ここからは飼い猫「みん」を載せている。ここからはあるショッピングモールにて撮影。撮影:Ricoh GRdigitalあと2枚はso-netでつないでいます。いただき物のご紹介&みん便りなど
2009/12/22
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そうだ、京都行こう。(総合版)もso-netで公開しています。そうだ、京都行こう。(総合版)
2009/12/19
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引き続き京都の写真を載せ、締めたいと思う。清水寺からである。ここでso-netでつなぎます。そうだ、京都行こう。(3部)
2009/12/19
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引き続き、京都の写真を載せたいと思う。東寺を後にして、泉涌寺(せんにゅうじ)に行った。真言宗泉涌寺派総本山。通称、御寺。開山、月輪大師。天長年間(824~834)弘法大師が草庵を結び、法輪寺と称し、後に仙遊寺と改称。建保6年(1218) 北京律の祖・月輪大師の再建時に、境内に新しい清泉が涌出したことから泉涌寺に改号したと伝わる。仁治3年(1242)四条天皇が崩御し当寺に葬られて以来、歴代の御陵墓になり、皇室の御香華院(菩提所)として、御寺(みてら)と呼ばれるようになったという。仏殿・開山堂・大門などは国指定重要文化財で、その他多くの国宝、重要文化財を所蔵し、55名の皇族が眠るという月輪稜や、唐の楊貴妃をモデルにしたといわれている楊貴妃観音像なども有名である。泉涌寺仏殿手前は舎利殿、奥が仏殿。仏殿泉涌寺はここまで。泉涌寺を後にして清水寺へと向かった。清水寺の近くにそびえる八坂の塔を撮影。法観寺(ほうかんじ)は京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は霊応山。観音霊場として知られる清水寺の近隣に位置する。街中にそびえ立つ五重塔は通称「八坂の塔」と呼ばれ、周辺のランドマークとなっている。境内は狭く、塔以外に目だった建築物がないことから、「八坂の塔」は、寺自体を指す通称ともなっている。伝承によれば、当寺の五重塔は592年に聖徳太子が如意輪観音の夢告により建てたとされ、その際、仏舎利を三粒を収めて法観寺と号したという。聖徳太子創建との伝承は文字通りに受け取ることはできないが、平安京遷都以前から存在した古い寺院であることは確かとされており、朝鮮半島系の渡来氏族・八坂氏の氏寺として創建されたという見方が有力である。治承3年(1179年)に火災で焼失したが源頼朝により再建された。その後も幾度か焼失したがその都度再建されている。現在の塔は室町時代に足利義教により再建されたものである。その間、仁治元年(1240年)に臨済宗建仁寺派に属する禅寺となる。さらに暦応元年(1338年)より夢窓疎石の勧めにより足利尊氏が全国に安国寺、利生塔を建てたが、都の利生塔としてはこの塔を充て仏舎利を奉納した。戦国時代には、地方から上洛した大名が当寺に定紋入りの旗を掲げることによって、誰が新しい支配者・天下人になったかを世人に知らせたという。五重塔は高さ49mで東寺、興福寺の五重塔に次ぐ高さをもつ純和様、本瓦葺の建築である。中心の礎石は創建当初のものが残っておりそのまま使われている。初層内部には大日如来を中心とする五智如来像を安置する。塔の中は公開されることもあり礎石の上の心柱や諸仏を見ることができる。また階段を二層目まで登ることもでき窓から京の町並みを眺望できる。重要文化財に指定されている。他の堂宇としては、太子堂、薬師堂、茶室がある。太子堂には、聖徳太子の3歳と16歳の像がある。薬師堂には本尊の薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、夢見地蔵、さらに十二神将像が安置されている。 茶室は五重塔の風鐸の音を聞くことができることから聴鐸庵という。(風鐸とは塔の軒先に吊された風鈴状のもののことである。)ほか境内には、木曽義仲の首塚と伝わる石塔もある。二年坂にて。高台寺近くにて。ここでso-netでつなぎます。そうだ、京都行こう!(2部)
2009/12/18
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今回は、京都の写真を載せたいと思う。電車を使っているので、まずは米原の駅ホームにて。(pict0000~pict0014の撮影は、Ricoh GR digital2)ここからは京都駅にて。名古屋駅よりすごいのかと思ったら、そうでもなかった。東寺にて。(ここからの撮影は、PENTAX K7)ここでso-netでつなぎます。そうだ、京都行こう!
2009/12/17
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今回は、名古屋の風景を載せたいと思う。撮影:Ricoh GR digital 2名古屋駅にて。名古屋駅周辺には高層ビルが建ち並ぶ。ここでso-netでつなぎます。名古屋の風景(GRD)
2009/12/15
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今回は、飼い猫「みん」を載せたいと思う。これは実家で撮影している。機嫌のいい顔ではない。みんは猫が好きでないようで、実家の飼い猫を見るとふーふー言って怒ってしまう。6年程前には一緒に暮らしていたはずなのだが。
2009/12/11
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今回は、高賀渓谷と郡上八幡の写真を少しばかり載せたいと思う。高賀渓谷にて。郡上八幡にて。郡上八幡にある安養寺にて。郡上八幡城にて。ここでso-netでつなぎます。渓谷と郡上八幡
2009/12/10
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今回は、大垣にある文化施設にて撮影した写真を載せたいと思う。撮影:Ricoh GR digital 2
2009/12/07
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彦根城の紅葉(総合版)もso-netで公開しています。彦根城の紅葉(総合版)
2009/12/03
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引き続き、「彦根城の紅葉」を載せたいと思う。彦根城(ひこねじょう)は、日本の滋賀県彦根市金亀町にあった城である。江戸時代および明治2年(1869年)の版籍奉還後から明治4年(1871年)の廃藩置県まで彦根藩の役所が置かれた。近世にあたる江戸時代に滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城である。山は「金亀山」との異名を持つため、城は金亀城(こんきじょう)ともいう。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。明治初期の廃城令に伴う破却を免れ国宝の天守、附櫓(つけやぐら)および多聞櫓(たもんやぐら)のほか、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定されている。中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少であり、国の特別史跡に指定されている。一説では、大隈重信の上奏により1878年(明治11年)に建物が保存されることとなったのだという。日本で12箇所の安土桃山時代から江戸時代に建造された天守が現存する城郭の一つ(現存12天守)で、その内、国宝に指定された現存天守のある国宝四城の一つに数えられる。1992年(平成4年)に日本の世界遺産暫定リストにも記載されているが、世界遺産登録は厳しい状況にある。滋賀県下で唯一、城郭建築が保存された。 ここでso-netでつなぎます。彦根城の紅葉(2部・彦根城)
2009/12/03
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今回は彦根城とその隣にある玄宮園の紅葉を載せたいと思う。玄宮園(げんきゅうえん)は滋賀県彦根市にある旧大名庭園。国指定特別史跡「彦根城跡」の区域、および隣接する楽々園とともに「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されている。玄宮園の原形となる庭園が造営された時期や規模は明確ではないが、江戸時代初期の延宝6年(1678年)に彦根藩4代藩主井伊直興が整備したといわれる。江戸時代後期の文化10年(1813年)には第11代藩主井伊直中の隠居屋敷として再整備され、今日に近い形に整えられたといわれる。玄宮園は御殿部分の「楽々園」に対して名付けられたものであるが、この呼称がいつ頃から用いられるようになったかははっきりしない。玄宮園の位置は城内の北東部で内濠と琵琶湖の入江(松原内湖)に挟まれた第二郭と呼ばれる曲輪内にあり、築城当初は重臣川手主水の屋敷が建てられていたが、主水が大坂夏の陣で死亡してからは空家となり、寛永元年(1624年)ごろに下屋敷が建設されたといわれる。入江側は1940年代に第二郭の間近まで干拓が進み現在は堀状の溝で囲まれる形となっているが、往時は庭園北側の水門から舟で琵琶湖まで出られるようになっていた。園内は中国湖南省の洞庭湖にある玄宗皇帝(唐時代)の離宮庭園を参考に、「瀟湘八景」を「近江八景」に置き換えて作庭されたといわれる。天守を借景として、中心の入り組んだ池には4つの島と9つの橋が架かり、畔には臨池閣、鳳翔台、八景亭などの建物が配されている。映画『大奥』のロケ地となった。ここでso-netでつなぎます。彦根城の紅葉(1部)
2009/12/02
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今回は、養老の滝の紅葉を載せたいと思う。養老の滝は岐阜県の紅葉の名所になっている。自宅から車で15分ぐらいのところにあり、自分にとってはいつでも気軽に行ける場所である。それでちょっと行ってみた。養老公園近くのお寺にて。駐車場から滝まで歩いて15分ほど。その際に撮影している。ここでso-netでつなぎます。紅葉・養老の滝(1部)
2009/12/01
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