全5件 (5件中 1-5件目)
1
今回は、人生の花見気分の追加を書いてみようと考えました。 今朝、起きがけに与謝野晶子の 「 清水へ 祇園をよぎる 朧月夜 今宵会う人 皆美しきかな 」の歌が、何故か頭から離れなかったからであるが、この乙女ティックな気分に溢れた晶子の和歌が、自称万年十歳の能天気な老人の、何気なく人生を振り返った際の感懐に、何とはなくにピッタリな感じがしたからでもある。 私が人生の途上で出会った人々が、皆美しかったかどうかはこの際しばらく不問に付すとして、美しくく、懐かしく思い出される人々の数が多いことだけは、間違いのないことである。 そして又、悦子との幸せこの上ない生活を送ることが許されていた、数十年間はとりわけ幸福感に包まれて、謂わば無我夢中でいられたし、能村氏との望外に遣り甲斐のある仕事に恵まれた、これまた数十年も、悦子との私生活にいやが上にも彩を加えて、幸せ感を倍加させてくれている。 この際立って有難かった二人の恩人も、既にこの世を去って 悟りの世界 に遊んでいるようだ。私はもうしばらくこの娑婆と呼ばれる迷いの世界に留まって、某かの御恩報じが叶うならばと、密かに念じつつ、願わくは余り見苦しくない晩年を送りたいものと、神に御加護を期待しているが、どのようになるのか、予測はつかない。とにかく、その時々での自分のベストを尽くしたい。その思いだけで、他には何の望みも持ってはいない。 それにしても、人間界は様々な災難や大障害が次から次へと、これでもか、これでもかと襲ってきては善男善女の心を痛ましめる。 今、地球上ではコロナウイルスのパンデミックが到来する寸前の状況にあり、我が日本国もその嵐の渦に巻き込まれつつあり、未曽有の混乱状態を呈しつつある。 それにしても我が国では大災害が続発し続けている。神戸を中心とした地震、東北大震災、九州での地震、台風や豪雨での各地の大惨禍等など、枚挙に暇がないとはまさにこの事を言うのであろう。 耳を疑うような人災、野蛮人そこ除けの凶悪な行為の続発、これはもう平和な国などと言う戯言を発していられるような状態でないことは、誰の目にも明らかな筈なのだが、平和ボケした我々には、その実相がぼやけていて、見極め難い様子である。 所で、旧約聖書の読みの方だが、「列王記」を読了してこれから「歴代誌」にかかるところである。ユダヤ民族と彼等を指名したヤーウェ、これはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神などとも呼ばれるが、唯一絶対の神なのだが、この神と人間との関係は本当に一筋縄では行かない複雑なものであって、多神教時代の古代世界にあって、謂わば新興の新宗教であったキリスト教の神の地位が、実に不安定なものだったことが、私のような異邦人には明瞭に見て取れる記述が、延々と記されている。 乱暴に要約すれば、時代が経つにつれて神との聖なる約束を忘れ、勝手な行動を恣にする人間集団に対て、神は飽きることもなく辛抱強く働きかける。残酷な殺戮も厭わない。一時は正道に戻るも、またぞろ神との約束を忘れ、忘恩の行為に赴く人間たち。 人間とは過ちを犯す動物である。それを、人間の愚かな習性を糺す神の制裁が、表面的に過酷に過ぎ、非情に見えるのも事実である。しかし、神を真に信じるのであれば、そう、まっとうな人間は当然ながらら、真実の神を信じなくてはならないのだが、神を信じる以上は、その神の御意思に背いた時には、正当な処罰、然るべき制裁の鉄槌を甘んじて受けなければならない。 これは、何時、如何なる場所に於いても当て嵌る事であろう。私は、そう固く信じる。 そして、人間は社会的な動物であるのだから、集団成員の誰が犯した行為も、集団全員が責任を免れない。そう、連帯責任なのだから。自分だけは例外だと盲信している呆気(うつけ)者がいても、呆気者は何時の時代でも、何処の場所にでも大勢いるようであるが、神の正義は厳正にして動かす事は許されない。 私は、他人を批難しているのではない。自分を悲しくも、反省へと駆り立てているだけに過ぎない。 弘法大師空海は弟子の死に際会して、「悲しいかな、悲しいかな、………」を繰り返し連呼したとか。私もまた同じ言葉を何度でも繰り返さなければならないのだ、「悲しいかな…」と。 花の命は短くて苦しきことのみ多かりき、と林芙美子は色紙に書いたそうである。花の命と見定めたなら苦しい事ばかり多く思い出される筈もあるまいと、人様に対して 美しい花などを誇らしげに誇示出来ない私などは、花の時節は短くて、楽しきことのみ多かりき、とでも日記の片隅に記したい気分でいる。 苦しいと感ずるのは誰でも一様であろう。苦しい背景があるからこそ、人生はいやが上にも美しく、且つまた限りなく愛おしい。そう、強く感じるのではあるまいか。 平和で、何の苦労も感じない「極楽」での生活は、さぞかし楽で、平安無事であろうが、その見返りには単調で、退屈極まりない時間の「苦しみ」が、永遠に、平板に続く苦しさを想像してみ給え。想像しただけでうんざりしてしまうではないか。 人間に限らない、生きとし生ける者にとって、この世はトータルとして素晴らしい世界である。その事実を今現在生の只中にあってよく享受出来ている者は、理屈抜きで知っている。実感出来ている。 そうだ、この世こそ、究極の極楽であり、天国なのだ。余計な考えは止めて、自分に許されている限りの楽しみを味わい尽くすに如くはない。泡の如くに生まれては消え、生まれては消えする生命ではあるが、一瞬は同時に永遠でもある。この時間の不思議を体感する者に、現に限りない、無限の幸せが無条件で与えられている。我々生命体は地球と言う、類まれに美しい惑星地球が生み出した、正統の子供たちなのであるから、その無限に準備された幸福を、余すところなく享受しつくそうではないか。 幸福を感じる事に、何の遠慮がいるものか。地球という偉大なる母親は、無際限な慈愛に満ち、我が子である物質と、そこから綻び出た花々である諸生命体を、大きな慈愛の光で包み込んでいて、くれるではないか。ただ、人間の無謀で、浅はかな営みだけが、様々な災いや惨禍を呼び込む基を作り出しているだけ。人間よ、悔い改めよ。身を正し、生まれでたばかりの赤心を取り戻す努力を、しようではないか。 現に、正当な罰が、然るべき考慮の下に施されている。我々は素のままの自分を取り戻す努力をするだけで良いのだ。様々な余計な心配は、杞憂に過ぎなかったと知る時まで。
2020年02月29日
コメント(0)
前回の続き、生きて在る事は、無条件に素晴らしいという事実を、もう少し追求してみたい。 世の中は広い。様々な変人奇人が驚く程に大勢いて、私などを驚かす。私も変人奇人の部類に属する者と自認して、窃かに恥じ入ったりしているのだが、世の中には想像を絶した「ユニーク」な考えや思想を信奉して憚らない、不届き至極の大馬鹿者が後を絶たないようで、私の如き善人でさえ「悪魔」の存在を否定し切れない。 と言うのも、今世の中を騒がしている 狂人 が、故なく弱い立場に立たされている人々を、最悪の仕打ちで痛めつけ、散々な目に遭わせた上に、盗人猛々しいとは甘っちょろい表現で、殺人鬼猛々しいばかりでなく、一片の反省の色も見せない態度。 命の平等と、無条件に尊いと信じ、それ故に死刑断然反対を声高に叫びたい私でさえ、この最悪の碌でなし野郎は、人間の皮を被った悪魔の手先であるから、この出来損ないの悪魔を抹殺することは、「殺人」の範疇には入らないのだから、何の躊躇をもせずに、即死刑に処すべきと、判定する。 悪魔を成敗すのには議論も、審議も必要ではない。人間であるか、質の悪い悪魔なのかは、その者の為出かした仕業そのものを見ればよい。その悪魔たる行為には歴然たる悪魔の極印が押されている。その辺にいる悪党の部類とは截然たる区別が、誰にでも明確に見て取れるから。 そのような悪魔に、真人間に相応しい情けをかけたり、情状を酌量する余計な手間は要らないのだ。 そもそも、この世に存在する物で意味のない物などはない。あれは無駄だとか、これは無意味だなどと口から出るにまかせて放言する者は、自らがその無駄や無意味の代表だと、証明しているに等しく、その放言によって自己の悪魔性を保証しているようなものだ。 悪魔の話はこれくらいにしておきたいのだが、それでは悪魔のこの世に於ける存在価値は何か、と問われたら何としようか。深く考える必要など何もない。善性をくっきりと、鮮明に際立たせる為に、言わば善的な万物の背景として、本来なら無用の代表である物を、神は敢えて存在させているに過ぎない。自分が悪の陥穽に陥りかけていると感じたなら、即座に反省し、善の道、自分の本来に相応しい方向へと舵を切り直せば宜しい。ただそれだけのこと。謂わば、便宜のため、善男善女への重宝な杖として利用すれば事足りる。その程度の、ゴミクズにも足りぬもの。 善性の金、銀、宝石、その他美しく、魅惑に満ちた存在をこの上もなく際立たせる、添え物的な極端に自主的な存在価値を欠いた絶対無意味の在り方。 そうした意味合いから、悪魔的な物は真空に喩えるのがピッタリするであろうか。善の欠如によって、善の何たるかを物の見事に浮き上がらせる。神の深慮遠謀は人知では計り知れないことの、代表的な一例ともなろうか。 夢の中で実に美しい風景に出会った。絵心などまるでない私が、思わず知らずうっとり見蕩れてしまい、これはどうしても絵に描かなくてはならないと決心したほど。デッサンから始まって、この緑一色に彩られた早春の色彩を、この絶妙なグラデーションを、私に果たして描き切れるものであろうかと、逡巡する内心の声も聞こえているのだが、それでも尚且つ描かずにはいられない、強い衝動は身内から去らない。すると、どうした加減か、この美しい景色に翳りが現れ、たちまち黒雲に包まれ出し、その上にポツリポツリと雨までが降り出し、たちまち豪雨が襲うという恐ろしい場面にと変じて、目が覚めた。 月に叢雲、花に風と昔の人は言ったけれど、それどころの話ではない。それにしても、あの絶妙に美しかった景色の様子は細部に至るまで詳細に覚えているのだから、実に妙である。 大半の夢は細部は愚か、大筋ですら直ぐに記憶から消え去っていると言うのに。それにしても、あの美しさを描出するのは、人間業では不可能であろうから、この世に類まれな絶景は、私の記憶の中だけに存在する儚い幻の如き物と変じてしまった。してみると、この夢は、私の人生の象徴として夢の中で夢見た蜃気楼なのであろう。何であっても、有難い話ではあります。 この夢を今の時点で私に神が与えてくださったに就いては、それ相応の意味合いが有るに相違ない。それは私に私の閲して来た人生を与えられた神の意思と同様に、実に有難く、勿体無いものとして、謹んで感謝すると共に、私に出来る事で某かの為残しがあるとすれば、悔いの残らないように熟慮して、即断行せよ、との御諭なのであろうか。美しい景色に見とれている間に、暗雲が立ち罩るのが世の中というもの、くれぐれも油断の無いようにせよとの、念には念を入れた実に用意周到な御配慮があっての事と、取り敢えずは受け止め、これからも残された時間、エンジョイするとともに、為残しや無念が残らないように臨機応変の注意を怠らないように、精々注意して「この世の花見を致す」ことにしたいと考えるものであります。 遂に行く 道とは兼ねて 聞きしかど 昨日今日とは 思わざりを という在原業平の名文句を今更ながらに思い出して、遂に行く道に備えた日頃の備えを、忘れないように心しよう。とかく人間は、惰性と習慣とに流されて、夢現の間に日常を過ごしてしまう傾向がある。一分、一秒でさえ、人生という「名画」を構成している、非常に貴重な瞬間なのだから。粛々と、さりげなく、そして油断なく過ごしたいものである。
2020年02月22日
コメント(0)
普通であること、当たり前で居られることの非凡性、卓越性に就いて考えてみたいと思う。 ちょっと考えると、普通であること、当たり前の状態であることと、非凡や卓越が結びつくことは、矛盾している。そう思える。 ところが、さにあらず。我々命の中に生かされてある者は、既にそのこと自体で奇跡と呼んでよい、有り得べからざる現象なのであり、それは地球上の各種の生命体の在り方、生き方を仔細に観察するならばば、容易に首肯出来る事でありましょう。 私の体一つを例に取ってみようか。私は何処から来たとも、何時から意識して生き始またのかも分からずに、物心がつき、幾多の生命の危機をそれと意識せずに乗り越え、今日に至っている。 医学的には、大脳から指令が出て、体の諸器官が機能する云々、と誠しやかに、理路整然と説明されているけれども、翻って何故に、そんな風に自然に、しかも絶妙に生理作用、生命現象が滞りなく円滑に行われているのか、ちょっとばかり疑問を発したならば、全てが説明不可能な何かに行き着くことになり、それを我々人間は「創造の神の働き」と称して、一応の回答として来ている。 実は、何も回答は得られていない。何も、明らかにされてはいないのだ。人知を超えた不可思議な現象だから、それは人知を遥かに超えた存在者の手に委ねる。誠に理に叶った、賢明至極な処置であり、舌を巻くしかない。しかし、である。事態は依然として不明のままで残されている。理解しているのは全能者のみであって、死すべき運命にある、有限の存在の典型である我々の能力を、遥かに超えた埒外に置かれたまま、理解不能の状態は、永遠に続くしかない。人間の果敢で天晴れな不断の努力が、営々と続けられているにも拘らずなのだ。 いっそのこと、理解などというそもそもが不可能な行為を潔く断念して、外の道を行こう。その一つが仏教の坐禅を主体とした、宇宙との一体化の行為である。自己を客観的な対象と捉えるから不可能になるのであるのなら、対象も主観もない、彼我一如の境地に没入するなら、最初の疑問は物の見事に解消されて、そもそもの設問する当事者が消えてしまうのだから。 つまりは、実に不可思議な現象としての我々の生存がクローズアップされる。どこまで行っても、この繰り返しに終始してしまう。 つまり、普通であることは、金輪際普通などとは言えないのだし、当たり前であること自体が、当たり前などと、のんきに呼称し、形容してなどいられないわけなのでありました。 ところで、旧約の読みは「列王記」に入ろうとしている。イスラエルの民の苦難に満ち満ちた歴史が、神との交流の中で詳細に記述されている。今の私には正直、退屈であるが、順序として粛々と読み進んではいる。 自己との対話とは、実は「神」との対話でもある。私の神は私に無理なこと、残酷なこと、その他理不尽なことを要求することは、絶えてなかった。いつも「背後から」そっと私に寄り添って、背中を押し続けていてくれる。そんなイメージがある。それに最近では、悦子という守り神が加わって、応援してくれてもいる。だから、とても心強い気がして、死すらも厭わない感じになれている。有難い事であります。 この世が居ながらにして極楽と変じている。これ、念のために申し添えるなら、誰にでも起こりうること。ごく普通で、あえて言えば当たり前な現象なのだ。 人生そのものが矛盾とパラドックスに満ち満ちている。だから、普通は極めて非凡に通じているわけである。自分を素直に「普通だ」と思える人はそれで良いし、異常だ、特殊だ、例外的な存在だと感じている人もまた、それ自体素晴らしい事だと認識して生活すべきであろう。誰もが人生の主役であり、同時にまた単なる端役でしかないという事実。この矛盾背反がなんら支障なく同時に成り立っている事に、注目しよう。 それはまた、個人が主体でありながら、社会全体があたかも一つの生命体であるかのような、奇妙な、実に奇妙奇天烈なあり方を、現に我々の生存は示している。そのありのままを、素直に受け入れ、素晴らしいトータルとしての生命のあり方を、心の底から賛美しよう。そして、その中に生かされてあることの奇跡を、素直に、心の底から賛嘆しようではないか。 この世は実に美しく、魅惑に溢れた存在であることに、そしてそれがごく普通にまかり通っている事実に、注目しようではありませんか。 あなたがいて、私がいる。何と言う嬉しいことであり、何と言う無償の恵みの中に、生かされてあることか。誰か、私の書いたことに異論、クレームの有るお方がおいででしたら、どうか、真摯にご自分と向き合い、静かに自問自答されることを、衷心より希望致します。 生きているって、無条件に素晴らしいですね。
2020年02月13日
コメント(0)
今回は涙について思いつく所を書いてみようと思います。 涙にも色々な種類があって、一番ポピュラーなのが悲しみの涙だろうか。最近の私は年を取ったせいか、何かと涙脆くなっているが、悲しみで涙を流すことは、皆無に近い。 それではどんな時に、思わず涙ぐむかと言えば、ちょっとした感動を覚えた際などである。つまり、覚えずぐっと来て、だらしなく涙腺が緩んでしまう時などである。それも、人前では滅多にグッときたりしないので、一人でいる時に無意識に幸福感に浸っていて、幸福感の溢れ出た印としての涙が、多いのではないだろうか。本当にちょっとした瞬間に、思わず知らず感涙の涙を浮かべている自分に気づき、びっくりもしてしまう。これはつまり、現状が幸福感に溢れているからに相違ない。 しかし考えるまでもなく、これっておかしい。何故なら、両親を始め、妹や妻など身近にいた親しい人々との永訣を経験している。第一に、忌むべき老年を迎えて、終末も秒読みの段階を迎えているではないか。どうして、幸福などという暢気なフレーズを使うことが許されようか。 だが、思い当たる事はある。若い頃は一日を振り返って反省したりする心の余裕すら持てずに、ただひたすら、がむしゃらに生きることだけしかできなかった。 たしかに、現在の私は馬車馬の如くに我武者羅に生きてはいない。生活の糧を得るための必要にして止むことの出来ない「仕事」から完全に解放されて、貧乏ながらに生きていく事が、許された立場にある。つまりは、年金生活者に好むと、好まざるとに拘らず、追い込まれてある。 それと共に、過去を振返り、今の世を概観して某かの感慨を催すことが、可能な生き方をしている。それが私の 幸福感 のよって来たる基であろう。生きてある限りは不安と苦労は尽きない。それどころではない。老化による身体の衰え、病気に襲われる危険、天災や地異の恐れも絶えない。予測できない危険に生は満ち満ちている。だから、幸福などほんの蜃気楼にしか過ぎない、儚い錯覚である。 しかし、それは今現在に始まったことではない。この世に生を享けた瞬間から、いやそれ以前の、父母未生以前の過去の世から変わらずに継続している、この世の実相である。意識するか、しないか、それだけの違いがあるだけ。つまり、何も変わりはなく、生の不確実性だけが浮き出している。 さて、涙の問題に話を戻そうか。人間の涙は文句なく美しいと私は感じる。血の涙という表現があるが涙はまさに赤くない血液なのだろう。だとすれば、生命の源そのものである。だから美しいのか、とにかく視覚的にも、心理的にも美しく感じられてならない。 美人が涙を流すのを見れば、理屈抜きで感動するに相違ない。ここで思い出すのは、妻の最後の涙である。涙腺が詰まって、大粒の美しい涙が片目にだけ浮かんでいた。安らかで、幸福感に溢れた感動的な、真珠の如き一顆。悦子の命が美しく結晶したような、印象的な盛り上がりであった。私が生きてある限りは決して忘れることはあるまい。 妻の死の際の涙には、悲しみに包まれた感動という感があったが、喜びの涙には、無条件で人を感動させずにはおかない、純粋なものがある。喜びの涙、随喜の涙、もまた純粋と言えば、これほど純粋なものもないかもしれない。 涙が成分的に赤くはないだけで、血液に近いものだとして、その大部分は水、H2Oなのだが、この我々にとって非常に大切な物は、全宇宙から見ればとても珍しい現象なのだと言う。水の惑星地球に生まれて、常に豊富な水に囲まれている生物にとって、余りにもありふれたこの水は、今更改めて言うまでもなく生命体には必須にして不可欠なもの。自分以外の物を何でも溶かし込んで存在している水が、人間の涙として体内から流れ出て、人を無類に感動させる。 人の涙には、人間の魂の様々な成分も、きっと包み込んで、僅かな涙にも、無限の精神的な要素が含まれているに相違あるまい。嬉しいにつけ、悲しいにつけ、涙はいつだって確かな感動を与えないではおかない。それにはそれなりの深い理由があったのである。 こういう仕組みに人体をお作りになられた神様に、今更ながらに感謝を捧げたいと思うと同時に、驚異と賛嘆の意を禁じ得ないのである。神はこの一事だけからでも誠に偉大だと、つくずく感じる次第です。 人間の精神と肉体とが、相叶えるものならば、美しい涙の湧出にはそれに見合った内部の要素の出現が見られるのに相違はなく、実に、実に、巧妙なバランスの取り方ではある。 それにつけても、肉体の病の専門家たるドクターが、精神の病に関して殆ど関心を持とうとしないのは一体どうしたわけであろうか? もしかして、目に見える物質的な対象だけを追求すれば、それでもう十分なのだ、とするような誤った謬見が医学界全体に蔓延して、反省することがないとしたら、それは大きな誤りである。と同時に、ある種の奢りが、身の程を弁えない精神の傲慢がここでも、禍をもたらしているのではないかと、危惧されてならないのだが…。 事態をごく単純化して言っても、物質の世界が無限であるとすれば、精神の世界もまた無限であるのは、至極当然の帰結であり、それに対する相応の畏怖と驚異とを人間の理性が忘れているとするならば、問題は極めて深刻なのである。 人間という有限な対象を扱うことは、神という無限の対象にどこまでも肉薄する覚悟を、要求されているのであって、そのことを等閑に付してしまった、一種の思い上がりと怠惰とは、断じて許されるものではない。 すると、涙一つを取り上げるにしても、この現象の背後に複雑微妙に作用して働いている、或る絶妙な力、働き、エネルギーの存在を、不確かではあっても予感しない鈍感は、人間の尊厳に懸けても許されるものではないだろう。私は今、強くそう思っている。
2020年02月08日
コメント(0)
魂の癒しを通じて他者に貢献する行き方があるけれども、一種の消去法で、私には肉体の管理を主とするドクターの道は、幼少時に閉ざされてしまっていた。 と言うのも、こういう事情があった。個人の触れられたくない秘密というか、敢えて公開したくない事情が今は亡き妹の郁恵にあった。故人になった妹の事だから、妹の尊厳を傷つけることはないので、公然と言うのだが、妹が三歳か四歳の頃に一人遊びをしていて、裁ち鋏で自分の左の目を傷付け、視力を失ってしまった。ある種の身体障害者になったわけだが、気丈な妹は一生を健常者と何も変わらない、ハンデなしで過ごしてしまった。 事故当時、お転婆な妹が急に別人のように大人しく、元気が失くなった。その姿を見て、二歳年長の幼児期にあった私は、大人になったら医者になって、妹の目を治して上げるのだと、真剣に考え、両親にもその旨を告げたりしていた。すると同居していた祖父だったと思うのだが、「かついく、いくら医学が進歩したからと言って、視力を失った眼が再び見えるようになるのは、不可能なことなのだよ」と、やさしく窘めて、諭してくれたのだった。「なんだ、そうなのか。お医者さんて、そんなものなのか」と小学校に上がるか上がらないかの年齢だった私は、潔く医者になることを断念した。 当時の私に、医者になる能力や、経済的な背景が備わっていたかは、不問に付すとして、可愛がっていた妹を、何が何でも自分の力で、何とかしてあげたい。そう、切実に願った事だけは、一生忘れずにいる。自分の命に換えても愛する妹を、苦境から救い出したい。しかし、それは、その願いは果たす道がないと知った。このどうしようもない暗い絶望が、無意識のうちに私の人生を厭世的で、救いのない、いやが上にもペシミスティックなものへと変化させていた。そのように、人生も半ばを過ぎる人生行路の半ばで、自省的に知った、自覚した。 手当という言葉がある。患部に手を翳して治療を施すの意である。それならば、特別な技能や資格がなくても、誰にでも出来る事である。 魂に果たして手があるのかないのか、分からないけれども、自分の魂と他者の魂とを正対させることは、それほど難しい事とも思われない。 二つの相寄った魂の間で何事かが起こり、奇跡に近い現象が惹起されたとしても、少しも不思議とは思われない。そして、昔の人は霊魂は不滅であると固く信じていた。今人よりも古人の方が大抵の場合に正しいと経験上で知悉している私であるから、どちらとも取れる場合には古人に軍配を上げる事にしている私は、現世を去ったとされる悦子の霊力を、常に身近に感じ続けている。そして、彼女の慈愛に満ちた霊力の眼差しを受けて、充実した終末期を送ることが出来ている。そう、自分では当然の事を、当然の事として有難く感謝しつつ受け止め、拝受している。 これを、如来が悦子と化して、私に霊魂の眼差しを向けている。そう表現しても良いのではないかと、思ってもいる。いや、事実なのだから、この場合に客観的な事実などという表現は無意味なので、そう確信する者の主観は絶対的な正しさを、おのずからに有している。賢者が何を知っていようと、この私の身近な感触を云々する資格など、断じてないのだから、私は世に言う所の偉い人やら、賢い人の意見は参考程度に留めて置くことに、勝手に決めているのだ。 自分ひとりだけが幸せなら、それでいい、と言うのは私の流儀ではないから、当然に周囲の人たちにひとりでも多く、幸せのお裾分けをと考えている。 しかし、幸せの押し売りまがいの行為は、これまた私の流儀ではないので、ごく控えめに、これも古人に習ってごくごく控えめに、でしゃばらず、奥床しいスタイルでと考えている。 人生はやはり、生きるに値する、素晴らしい物と心底から言える人が、一人でも増え続けるように、私は残された日々を大切に、世の人と共に生きてゆきたい。そう願っている。 人間万歳! 人生に乾杯! そう呟きながら、ひっそりとこの世をフェドアウトしたいと、密かに念じてもいる。
2020年02月03日
コメント(0)
全5件 (5件中 1-5件目)
1


