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叩けよ、開かれん。求めよ、与えられん。とイエスキリストは言う。 狭き門から入れ、とも。野に咲く百合の方が、栄華を誇ったソロモン王よりも豪奢な衣装で着飾っている、とも喝破している。見事だと思う。この言葉だけを取ってみても、イエスが神の子である証明は既になされている。人間には、どのような天才であっても、この様な語句を口にする事は出来はしないのだ。 聖書を繙く時に、イエスキリストは様々な奇跡を何気なしに、事も無げに行っている。その見事な実施で難病からたちどころに解放された当事者や、不可思議千万な奇跡を目の当たりにした人々は、イエスの神性を文句なく信じた。ただ、ユダヤ教の宗教的支配者たちだけは、イエスをメシアとは認めず、邪魔者として排斥し、尚且つ殺し抹殺しようと意図する。 イエス自身も、彼を人間界に或る一定の目的のために送り出した父なる神も、それをよくよく承知していた。否、と言うよりも御自分の愛子を重罪人と一緒に磔の刑にかけるのが、父なる神の最初からの計画であった。そして、当然の如くにイエスは無残にも刑場の露と消えた。その後に復活という謂わば人間にとって驚異的な劇が仕組まれていたとは言うものの、神ならではの破天荒な計画は、つつがなく遂行される。 これは、人類の罪咎を救済する神の御業であると言う。そうであろうか、そうでもあろう。それだけであろうか、と私は疑うのだ。何故なら、人類による罪や咎はいまだに救済されず、ますますその量を増やしている。これは、神の誤算であろうか? いや、いや、そんな筈もない。現状も、すでに神は織り込み済みであろうから。然らば、我々はイエスの死をどう受け止めたらよいのか。 神による無償の愛の顕現。神は斯も偉大なる愛情を無条件で私たちに示された、何の見返りをも期待せずに。 爾の隣人を己自身の如くに愛せよ。左の頬を打たれたならば、右の頬も差し出せ。絶対の慈悲そのものである絶他者にして初めて言える、徳高い言葉。 だから、イエスキリストの磔の刑は、復活を待たずに完結した。そう見るのが本当だろう。神は我々人間と同じ低い地平にまで降りて来られ、甘んじて最悪、最低の境涯に身を置かれた。それも最愛の我が子にそれを課された。 人間である私は思うのだ。自身で耐え忍んだ方が、どれだけ苦しみ、悲しみが少なくて済んだことか、と。 この神による無限の愛情の傾注、有り余る慈愛の顕現。( えっ、証拠を示せ、ですって…。あなたは、そう仰るあなたは、本気でそう仰るのでしょうか? いえ、いえ、こう聞き返したのは、私にとって改めて証拠を示すことなど、思いもよらぬ事だからなのです、実際 ) 事新しく述べるまでもなく、この世は「奇跡」の集合体にほかなりません。見るもの、聞くこと、全てが不思議・奇跡の連続ではありませんか。もし、本当に、マジで「奇跡の証拠を」と言うのでしたら、私も真面目にお答えいたします。あなたが生きている事自体すでに奇跡の最たるものではないでしょうか。空を見上げてごらんなさい。太陽や、月や、無数の星星が煌めいているではありませんか。風が、野の草木があなたに語りかける声が、聞こえないのでしょうか。あなたが現に此処、地上に在る不思議を篤と噛み締めて見てください。改めて、証拠をなどと言われると、冗談を聞いたのかと、耳を疑ってしまうのは、私だけでは無いはずです。 私が申し上げたい事は、我々は全員が「絶対者たる神」の申し子なのだ、という紛れもない事実なのです。キリスト教徒であろうと、なかろうと、でありますね。つまり、イエスキリストと同列に置かれて然るべき神の愛子(いとしご)にほかなりません。 私が、折りあるごとに、最悪、最低の境遇に喘いでいる者こそ、最も神からの愛に浴している。そんな風に、一見は奇妙に聞こえる 逆説 を度々口にするのも、故あっての事なのですよ。 可愛い子には旅をさせよ。昔の人は言っています。可愛いと思う子供だからこそ、危険を伴う旅という環境に敢えて身を置かせて、子供の成長を密かに願うのが、子を持った親の務めと言うもの。手元において見守り、甘やかす親バカを事前に排す賢い育児法を、経験上から学び、それを子々孫々に伝えた。 人間の、人の親の人情の機微をよく弁え知った先人の知恵であります。昔より、全ての面で現代の方が勝り勝れている。そうした俗耳に入り易い迷信が、知らぬ間に私達を毒している。悪しき進歩主義の弊害であります。何かがプラスになれば、何かがマイナスになる。これが、解りきった道理と言うものです。が、とかく私たちは目先の幸運に目がくらんで、この初歩的な道理を忘れがちであります。 全てがよいなどという、子供だましの目くらましから、早く脱却するに如くはないのです。 同時に、全てが悪い。最悪だ、と絶望する悲観主義からも、早々に逃れて、健全で明るい心の健康も一日も早く取り戻したいもの。影が出来るのは、身近に日差しがある何よりの証拠ではありませんか。視点を少しだけ変えれば、全く異なる展望が開けるのは、謂わば当たり前の事であります。そしてまた、その影の色が濃ければ濃いほどに、指している日差し、光の強さが強いと知るのが、初歩的な知恵と言うものでありますね。 世の中、明るいと見るのも、暗いと感じるのも、共に誤りと認識しよう。そして、ごく常識的な人生観を身に付け、自然に身内に湧いてくる感謝の気持ちを、大切に保持しよう。これが、何よりも人間として大切な基本なのですから。出来れば、素直な、プラス志向の心を育て、人々と共に明るい未来に向けて足取りも軽く歩み続けようではありませんか、如何? そして日本に於ける極めて男性的、理知的、プラス思考の代表のような御方に弘法大師空海がいます。切り裂く・男性原理を縦横無尽に駆使して、密教の奥義を見事に打ち立てているのは、誰もが知るところ。即身成仏、密教、金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅等、極めて現世利益的な色彩の濃い宗教人でありますが、情けの人でもあり、とても人間臭い御方でありました。若き頃の人生に対する強烈な懐疑の時を経てて、仏教との劇的な出会いを経験なさった。暗黒から、突き抜けるごとき光輝へと大転換した典型例でもあった。現代でも、空海は死んではいない。即身成仏して、庶民とともになお生きておられる。これは仏教とは無縁のところでも、文字通りに信じられ、四国遍路の旅人だけではなく、人生行路の健気な旅人と共に永遠の旅路についておられる。 私がソクラテスやプラトン以外には、宗教関係の人物を多く引き合いに出すのは、特別に宗教心が強いからではありません。宗教心、信仰といった点からすれば、私はごくごく普通の、つまり平均的な日本人の一人であります。ただ、人生を深く考える際に、一番深く、要所を適確に突いていることにかけては、宗教関係者に勝る人が少ないので、自然そうなるだけに過ぎません。 空海を挙げましたので、包み込む・女性原理の代表のような伝教大師最澄も取り上げておきましょうか。何故、最澄を女性的かと言えば、その風貌と筆文字の印象もさる事ながら、比叡山延暦寺を根本道場とする天台宗という、総合大学的な仏教者の育成機関の開祖だからです。よい意味での女性原理をフルに発揮した代表のような存在で、日本では稀有なお方でしょうか。 最澄や空海だけではありませんで、日本には古代から宗教的な偉人が多数輩出して、我々庶民のよき導き手となっている。民族としての宗教心は、他の諸民族と決して引けを取らないものがあることを、歴史が証明してくれています。と言う事は、つまり人生の根本的な命題を深く掘り下げ、人間らしく生きる道を模索する基本的な資質に於いても、同様の事が言えるのです。 どの様なジャンルでもそうですが、何もリーダーや指導者になるだけが能ではないわけで、一人一人が自分自身を正しく教育し、成長させ、充実した日々を力一杯に生き切る。この事が肝心なのであります。 喜寿を迎えた私も、最後の時を迎えるまで、自己を精々成長させ、先祖から受継で来た命の命脈を、その最後を精々輝かしてみたいと、心に決めて居ります。 私の場合には、有難くも、勿体無くも、悦子が地上での活動を終えた今も、私の守り神として「肩の辺りに」位置して、具体的には、右の肩の一メートルあたりの空宙にですが、以心伝心で力を貸してくれていますので、ズボラで三日坊主、その上に意気地なしの能無しですが、何とか大過なく人生を全う出来る確信が持てているわけです。神のご加護と、その広大無辺な慈愛に、感謝、感謝、只管に感謝感激であります。皆様方に於かれましても、どうぞ、御自分の持って生まれた冥加を信じ、辛い時には、その神仏のご加護に頼り、すがり、与えられた命を最大限に輝かす努力をなさってみてください。 同じ時代、同じ日本に生を受けている者同士として、励ましあい、助け合って、日々をエンジョイ致しましょう。
2020年09月24日
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自己との私の対話も次第に佳境に入って来たようだ。 「心医」という韓国ドラマがある。昔の韓国に実在した素晴らしい医者の物語である。 最初の頃は、昔取った杵柄と言うか、ドラマで飯を食わして頂いた者として、その筋立てやドラマツルギーには何かと注文を附けたいと感じた事があった。しかし、それは枝葉末節にしか過ぎない。素晴らしいドラマである。 タイトルの「心医」とは仁を旨とする医者、患者を何よりも大切にする本物の医師を意味する。ここから私のテーマとしたい、霊魂(こころ)の撫育者としての個人の在り方の探求を始めたいと、思うのだ。撫育と言う今ではあまり使われない言葉を敢えて使ったのには、意味がある。「撫育」とは慈しみ育てることである。言葉にしてみれば、何のことはない。簡単至極、いとも容易い事のように思える。しかし、現代では真の 撫育 は地を払って、どこにも見られない。 対象者に対して、真正面から対峙し、相手の 心 を正しい意味で思い遣り、見守り、愛情を惜しみもなく注ぎ続ける。自分の利害などお構いなしに、ひたすら相手に愛情を、真心を傾注する。 こんな撫育の在り方は、今日では何処にも見られない、悲しいことであるが。 私は職業医師の存在を否定したり、そのあり方にあれこれ注文をつけようと意図するものではない。ただひたすら撫育に心がける人間の在り方を、強く、強く、待望するのである。 それも医術と言った、特定の技術とそれに伴う豊富な知識や体験を必須とする職業医とは別個に、つまり一種の生業としての医師集団の他に、アマチュアとして、従ってごく普通の、市井の平凡人として人生を生きる人の中に、無数の 自己撫育者 としての心医が生まれ出て、社会を彌が上にも豊かで、潤いのあるものにする、言ってみれば「地の塩」としての人々が多数登場して来てくれたら、どんなに良いだろうかと、素直に思うのである。 それでは、一体どうしたらその様な、霊魂の撫育者にして、真の心医たる人は形成されるのか。手段や方法は、そしてその辿る道筋は各種、様々であろう。だが、その目的と到達点とはひとつである。 自分の与えられた命を完全燃焼させ、生命のエネルギーをとことん輝かせて、譬えば一人一人が太陽・日輪に匹敵する光輝と熱量とを放散する。その果てに、潔く大爆発を起こして、死の闇の彼方に消え去る。それでこそこの世で享受された生命は真実の涅槃に達し、天上の極楽に再生出来るというもの。そうした究極の理想を実現させることこそ、そして、その一筋の道筋を子々孫々に伝えていくこと。 生きる究極の目的は何かと問われたなら、私は躊躇なく、そう答えるであろう。それでこそ本望を果たしたと満足することになろう。 そして、この世にいやしくも生を享けた者である以上は、誰もがその資格と能力とを身に備えている。後は、その目標を目指して邁進するのみ。毎日のたゆまぬ精進と努力こそ唯一必要なものであるが、これも心掛け次第で、難しい仕事では全くない。ごく自然に身内に沸き上がってくる意欲と伴に、一心不乱に三昧境に入れば済むのである。 誰もが自分自身を大切と思い、自己の人生をエンジョイすることが出来れば、自分と同様に愛おしい隣人を同様に大切と考え、慈しみ、共感し、伴に協力して生きる事の有難さ、勿体無さに目覚める。すれば、昨日より今日、そして明日へと好循環のスパイラルは、益々プラスの方向に勢いを増し、思いもかけない幸福が、命の充実が齎される。それは、必然である。 こんな風に私が、自分の「勝手な思い」を絵に描いた餅宜しく云々していると、決まってそれに茶々を入れ、雑ぜ返してくる臍曲がりな御仁がいる。 成せば成る、成らぬは人の為さぬなり ―― これは私が言うのではなくて、昔の賢人の名言で、人は何事に関しても、自分の思うに任せない現実に出会った際に、その原因を自分以外の何物かに擦り付けて、責任逃れをした気持ちになっている。 馬には乗ってみろ、人には添うてみろ ―― これも昔の人の言葉であり、至言である。何事にしろ、評論家の如くに他人事として傍観して居らずに、実地に自ら体験してみよ。真実は、たちどころに現れ、化けの皮は直ぐに剥がれるに相違ないのだ。 無心に、真摯に、自己に与えられた命と向き合う。その邪気の皆無な営みの只中から、何処からともなく立ち現れて来るもの。それを先ず、しっかりと見極めよう。 譬えば私は、イジメに遭って家に引き籠もりを何年も続けている、青少年や成年者に対しても、同様の事を同様に申し上げたい。いや、むしろ、そうしたこの世の地獄さながらの境涯を止む無く甘受せざるを得ない「不幸」な人々にこそ、私の声が届いて欲しいと切に願っている。親兄弟を含む、周囲の人々の思惑など一切忘れ去って、自分自身の霊魂(心)に耳を傾けて欲しい。あなたには、この世で一番の頼りになる味方が付いている、間違いなく。無条件でその事を信じてみよう。その「御方」の存在と無限の力とを素直に信じ、その上で自己を凝める。その時あなたは「自力」と「他力」との二つの掌の上に、しっかりと立っている。 私の言葉で言えば、絶対者たる神と、あなたの中の「神」とが融合し、一つの力、エネルギーと変化する。そのあとの事は何の心配もないので、先ずは実地にトライしてみて欲しい。私という人間は 嘘 を吐くけれども、絶対者・神は嘘などとは無縁でありますので。 そして、私が此処で提案し始めている 霊魂の医師 は、こうした生きながらの地獄の慘鼻を目下身を以て体験している貴方・貴女にこそ、いの一番になって頂きたいと念願しているからなのでした。 イジメの現象は人間の世界においては何時、何処にでも起こっているある意味では普遍的な人間行為でありますが、現代に於けるそれは、病膏肓に入る、というか、最も病的な質の悪いガン疾患の如きそれであります。 自分のケースの様なものは、その中でも最悪最低で、とても救いはないと自己診断して捨鉢になっている方が居るとしたら、その貴方・貴女こそ現代の救世主となる資格を有している「メシア」なのです。 だから、どうぞあなたの持てる勇気の全てを鼓舞して、周囲を取り囲んでいる深い霧の只中に、身を踊らせてご自身を救済して下さい。その道は、既に大きく開かれて、あなたが来るのを首を長くして、待ち設けているのですから。 念の為に申し添えますが、私は何かの妄想に取り憑かれて、以上の事を言ったのではありません。はっきりとした根拠があるのです。私自身が実地に体験した不思議な実話を基に、アピールしているのです。 もし、その体験を聞かせてくれ。もしかしたら、自分もその例に習うことが出来るかも知れない。そう思われた方は直接に私・古屋克征宛にご連絡下さい。神・絶対者への案内を、懇切丁寧にさせて頂くつもりです。導くのは凡夫の私でも、導く相手は宇宙で一番信頼の於ける尊いお方ですから御心配は無用です。 所で、一説に男性原理を「切り裂く事」とし、女性原理を「包み込む事」とするものがあります。切り裂くの極端な例は「人を殺すこと」、戦争の前線で活動する兵士は大半が男性であり、男性原理を最大限に発揮して来ています。包み込むの方の最も極端な例は、鬼子母神が我が子を食べてしまった故事に見られるように、殺人であり、男性原理も女性原理も共に「人殺し」に行き着く。 私は思うのですが、殺人者の側のある種の快楽に比較して、殺される側には苦痛しかないでしょう。しかも、原爆で一瞬に死のうと、交通事故で死のうと、無残至極な死であることに、何の変わりもありませんね。更には、イジメ等に遭って引き籠もり、長い孤独地獄の果てに自死する者も、救いのない点では同じなのであります。 戦争の悲惨さは私も大勢の人々と共に、もう二度と御免だと、声を大にして叫びたい気持ちでいっぱいですが、だからと言って、戦争の惨禍さえ地上からなくなれば、平和な人間社会が到来する、式の偏頗極まりない論調には、断じて与み出来ないのであります。 男性原理も女性原理も共に「人殺し」に偏る傾向があるとすれば、人間社会に真の恒久平和を期待するのは、安易に過ぎるでありましょう。 自分を自分自身で「平和境」に導く、霊魂の心医が待望される所以であります。 これは私の究極の願いであります。誰もがこの世にメシアとして誕生し、その能力と資格とを有しているのです。後は、ちょっとしたきっかけが、敢えて言えば偶然が作用すればよいのです。 私も、浅学非才の身にして、しかも、夢も希望も消え失せた老境にあって、地道な努力を続けております。それは私自身の意思でありますが、同時に絶対者たる 神 の御命令でもあるのです。 迷信だと、嗤うひとがあれば、どうぞ笑ってください。しかし、正当に信じるべき対象を見据えながら、それを否定したり、無視したりすることなど出来はしないのです。 この世で最も不幸な人。それは神の絶対の愛を信じられない人でありましょう。
2020年09月17日
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この世に 目出度くも 人として生まれたからには…。 前回は、兄の突然の死を迎えた心境などを書いてみたが、今回は私が 有難くも まだ享受出来ている「生」の在り方などについて、思いつくままに書いてみようと思う。 源氏物語の主人公・光る源氏は、文字通り「光り輝くばかり」の理想的なヒーローであります。彼を本心から憎むことの出来る人間など、この世に存在し得ない。そのように作者によって発想されており、これでもか、これでもか、と言うほどに語り手たる作者によって賛美され、褒めちぎられている。 どう考えても、こんな理想的な人物はこの世に存在し得ない。が、読み進むうちに、絵空事ではなく、リアルに人間臭く、本質は、人間としての基本的な在り方は、私のような凡人と大差ないと知れて、源氏の謂わば虜になっている自分に気がつくのだ。 その作者の大手腕は「お見事」と言う言葉の他に表現のしようもない。彼・光源氏はあらゆる女性は愚か、世のあらゆる男性からも愛され、慕われ、羨望の的となる。 こんな理想人物に苦しみや悲しみはあるのか。迂闊な読者は最初そんな風に、単純に考えてしまうかも知れないが、苦しみや、悲しみがあるどころの騒ぎではないのです。この世で一番の苦しみに襲われ、悲しみの極みを味わい尽くすことになる。 この一見矛盾した、逆立ちしたような人間の在り方。このモチーフの把握の仕方こそ、源氏物語の作者が持っていた天才たる何よりの証左なのだ。凡人、凡手には一生かかっても見出し得ない人間観なのだ。 この世でのあらゆる幸福と栄誉とを生まれながらにして身に帯していた人物こそ、この世で一番の苦しみと悲しさの極みを味わい尽くすのに、最も相応しい。一体誰が、そんな事を考えるだろうか。 神に並ぶかと怪しまれるこの大天才は、人間存在のパラドクシカルな在り方を、一瞬の神業で捉えて、長編歌物語の最後まで、一気呵成に描き切った。それが源氏と言う読めども尽きぬ素晴らしいストーリーとして、私達読者の訪問を常に待ち構えてくれている。これほどの幸せが、またとあろうか。ある筈もないのは言うまでもないだろう。 私は何故か、光源氏とイエスキリストとを洋と時代を異にして生まれた、双生児の如く考えてしまう。 イエスもまた、容貌について特別に描写されてはいないけれども、人間離れした魅力を湛えた人物として、無言のうちに私達をたちまちに魅了してしまう。その有様は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書の伝えている所である。 私は、キリスト教徒ではないが、福音書の伝えるキリストの存在を信じている。一部を信じて、一部を疑ったり、世にある物知り人の何か賢げな猜疑は、私とは無縁である。聖書の伝えるキリスト像は不思議な魅力に満ち満ちている。やはり、人間離れのした理想人物であるし、一部の似非信仰者以外は誰もが、文句なくチャームされ、尊崇の念を抱く。 その素晴らしい人物が、罪もないのに人として最悪の磔の刑に処せられ、命を落とす。何という痛ましく残酷な死をキリストは甘受したのか。神としての反面と、受肉した人としての反面。この矛盾する存在がこれほどまでに苦しみ、呻吟しなければならなかったのは、何故か? 福音書の伝える所では、当時の宗教的支配層の傲慢と無知と知れる。人間とはかくも愚かであり、残忍非道たり得るのだ。何時、何処の国、場所であろうとも。 傲慢極まりない似非支配者に呪いあれ! 所で、何故に全能の神は、手っ取り早く悪の、無知の根源を剔抉してしまわないのだろうか? 出来ないのではなく、されないのだ。その深い意味合いを今の私には理解する術はない。ただ、深い、深い意味合いが秘められている事は、それは、確信している。確信している。 さて、光源氏とイエスキリストとの類似という、突拍子もない発想は、一時的な、その場の思いつきなどではない。共通項ははっきりとしている。人間としての苦しみの極み、悲しみの極北にまで行ってみること。其処には一体何があるのか? 絶望だろうか、いや、いや、光であり、喜びであり、人生への全面的な肯定である。そう、強く断定する。 人間存在とは、このように不可思議で、途轍もない素晴らしさに囲まれた、奇跡の生き物なのだ。悲しみは美と崇高の別名なのだ。謙遜とは、その最高形において、最高の奢り昂ぶりに昇華する。昇華せざるを得ない。劇聖・シェークスピアがいみじくも見抜いた如くに、醜悪は最善美そのものなのであった。この謎めいたパラドックスの蔭に絶対者の神が隠れていることは、寧ろ必然であり、人間の通常の理解の及ばない所である。( 私は、謎めいた表現を用いて、このブログの読者を煙にまこうと、企んでいるわけではない。ただ、自分の言い得る最低限を吐露しているに過ぎない。表現の解りにくさは、現実の限りない深さに由来しているだけなのだ… ) さて、さて、私は8月28日で77歳、喜寿という年回りを迎えている。御蔭さまで身体に病気はなく、長年唯一の重荷だった花粉症ともひょんなことから決別出来た。米麹水を毎日飲んでいるからなのですが、目的は他にあって、花粉症の治療ではなかった。 私は若い頃から医者という人々と何かとかかわり合いが深いのですが、自分自身が患者として接する機会は殆どなかった。つまり、普通に健康だったからからであり、両親を始めご先祖たちに深く感謝しなければならないだろう。 昔から、医は仁術と言う。仁の本質は他人を心から思い遣ることにある。しかし、現代では医術は錬金術と無意識に考えている、不心得な、名前だけの医師も少なくないのではないだろうか。 職業の医師とは別に、命を輝かす真実の医者が要請されてしかるべきだと、私は常々考えている。未病という言葉がある。健康を絵に描いた様な人から、病気と言う専門医の診断を仰がなければいけない「完全な病人」に至る、手前の人々を漠然と、広く指す表現である。 通常は大多数の人がこの未病の範疇に属している。そして、当然に各自の身体の健康管理は銘々の管轄下にあり、医者を含む他人の介入乃至、容喙が無い。つまり健康の管理は各自の専権事項なのだ。 だからこそ、病気に罹らない前に、常識的な注意や用心をして、この未病状態を維持し、更に健康増進を図ること自体が、非常に大切だと分かる。個人としても、社会としても、である。 当たり前の事を当たり前に行う。誰もがちょっとした神経の使い方で出来る、この易しい健康法が、大切な生命を輝かせ、延いては美しい体や精神活動を盛り上げる基本だし、必要不可欠な道なのだ。 こと程左様に、人生は限りもなく奥深いのだが、その基本は簡明であり、誰にでも容易に実行可能な所から始まっている。複雑は単純だし、深淵は浅瀬でもある所以だ。 そして簡明極まりない事実だが、肉体・身体は霊妙至極な神の御業が行使される場所であり、それに合わせて我々人間の自ずからなる行動表現が発現する土台なのだ。健全なる精神は健全なる肉体に宿る。脆弱なる身体に強靭なる魂も宿ることはないと知れ。こと程左様に、物質たる肉体は発現される精神作用に見合った在り方で存在する。先ずは基本であり土台である健康な肉体の構築に専念し、然る後に魂の健全な発展を希求するのがよいのだ。 物事には順序というものがある。光源氏やイエスキリストの模範的典型例を自分なりに真似て、自分でも全く夢想だにしなかった奇跡が、何時、どのようにして始まるのか、実行者兼観察者として、篤と御覧じるがよい。 始めの一歩は、その時自分が置かれている状況の中で、最も緊急で止むに止まれない事柄に、精神を集中させて、無我夢中で突進すること。その後の事は、自ずから霧が晴れるように前方が開け、進むべき道筋と方法とが見えて来る。脇目も振らずに、一意専心にゴールを目指す、その行為が、次なる到着点を告げるのだ。これが、神との協働で行う我々の方法なのだ。 又、こういう事もある。我々は皆が、どういう理由かは定かではないけれども、物事が始まる前には既に事柄の全貌を知っている。或いは、知らされている、と言っても良い。結局は同じことなのだが。 何もかもを知っていて、しかも、何事も知らないし、理解できない。これが私たちの置かれている状況なのだ。虫の知らせ、と言う事がある。これは、知っている事が痒みや傷の痛みのように、突如ポカリと泡のように意識のアンテナにひっかかる際の、意識の水が泡立つ現象なのだ。 そもそも考えてみるが良い。全く知らない事柄を、どうして新たに理解するなどという芸当が出来るのかを。既に何もかもを知って、理解している自分がいるからこそ、新しい事態や現象に即応することが出来るのだし、泣いたり、悲しんだり、喜んだりと、外界との違和感ない接触が可能なのではないか。 その伝で行けば、見たことも、会ったこともない昔の偉人、例えば久米の仙人を私たちは「よくよく知っている」のだ。そもそも、赤の他人を理解するのも、理屈は同じことではないだろうか。譬えば、甘い食べ物を食べて、甘いと感じる。まだ同じ物を食べていない人が、何の躊躇もなく即座に頷く。そんな芸当を数限りなく我々が演じおおせている「不思議」を、まともに不思議と感じてみてはどうだろうか、如何?
2020年09月09日
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八月二十六日に兄が突然死亡した。危篤の連絡を受けて十時過ぎに病院に着いた時には、既にこの世の人ではなくなっていた。 この日、兄の死に顔をたっぷりと眺めることとなった。実に安らかで、兄嫁はしきりに「笑っている」と呟いていたが、私には最初のうち、いびきが漏れてくるような錯覚さえ起きた。 様々な事があった兄とのこの世での応接であったが、過ぎてしまえば正に夢の様に思われてならない。 これで、後に残った近親者とすれば、脳梗塞で右半身不随の姉だけになってしまった。 柩を覆って人生定まる、と言うが、それからすれば兄の人生はトータルとして善かったという事になる。心からの冥福を祈った。死に顔からすれば、あの世での安楽は固く保証されたも同然。両親や先祖の皆々様に「どうぞ宜しく」と愚弟からも声を掛けたくなる。 幼い頃、日頃可愛がって貰っていた伯母の当然の死に接した際には、まるで頭を何か硬いもので叩かれた様な、強い衝撃を受けた。父親の死に際した折には、ただ只管に悲しかった。妹の死は何か荘厳さを感じた。あたかも西方浄土から阿弥陀如来がお迎えに来られた如くに。現に、死後の数秒後に金粉が妹の顔の辺りに立ち込めて、死に顔をいやが上にも荘厳で美しいものとみせた。母の死は、好きな歌を歌い終えた誠にやすらかな、寿命を使い果たした安楽死であった。家内の死は、医師に管理された、そして実にあっぱれな覚悟の死であり、穏やかこの上ない安楽そうな最後であった。 こうして振り返ってみると、死は次第にその様相を変えて、私に見えてきている。忌むべき状態から、悲しいけれども、人本来の居場所に帰っていく。そんな自然さと、安心感とをもたらす、ある種の安らかさの感触と共に飛来する「恩寵」とも、感じる程。 それで私としては一種の安心立命を得た。そう感じている。さっき、ちょっと外出した折に、秋風めいた爽やかな風が全身を気持ちよく包んでくれて、猛暑でうんざりしていた気分と身体とをリフレッシュしてくれた。暑さという夏の贈り物の後には、爽やかで心地よい秋という継続手を用意してくれている。極寒の冬も、この時期から想像すると何か慕わしい気さえ起こさせる。 この世を地獄と観ずるのも、極楽と見て、即身成仏を成就しようと修行するのも、共に 親様 偉大なる父親の体内で撫育されている人間としての、本当に有難い存在であるお陰様なのである。奢りや、昂ぶりさえなければ、極楽浄土は必定であり、地獄か極楽かは各自の生き方が必然的に請来するもの。杞憂の如き様々な煩悩こそが、修羅道に堕した凡夫の救いの種ともなろうというもの。 安易な成仏も避けなければならないだろうが、絶望的な悲観もこれを回避して生きなければならない。 心頭滅却すれば火もまた涼し。逆説であって、断じて逆説ではない。真の正論である。 兄の葬儀が行われた八月二十八日は、私の誕生日で、喜寿の節目に当たっていた。何かの因縁でもあろうか。そう言えば、悦子の亡くなったのが四月の十三日で、能村氏の命日も五月の十三日であった。ついでに言えば、私の母親の誕生日が四月の十四日だったのも、何か因縁めいた感じを与える。 偶然と言ってしまえばそれで済んでしまうのだが、私にしてみれば、単なる偶然では済まされない、気持ちがどこかにある。あれだけ生前に縁故の深かった人々と、様々な形で複雑に結びついている。そういう感じがしてならない。 そもそも、生あれば死有りで、生と死は同等、同格である。死の海に囲まれた生と言えるのであれば、同様に、生の海に囲繞された死とも表現できるわけで、普通の場合、忌むべき死として死は生者の世界から遠避けられているので、たまたま体験する死者の様相に接して驚愕し、畏怖する仕儀となるのだ。 昔は、と言ってもそんなに遠い昔ではなく、つい最近までは我が国日本においても、死と死者との出会いは謂わば日常茶飯事であって、特別な事ではなかった。 だから、今時の若い人の不幸の一つは、身近であるはずの死及び死者との接近が、異常に、そして人為的に遠避けられ、遮断されている現実の有り様ではないだろうか。異国や、他人事としての死は、本来死が伴っている強烈なインパクトを欠いている。だから、生者にとっての死の意味合いが決定的に薄まり、死や死者が本来持っている役割が、意味を成さないほどに希薄となってしまった。つまり、相対的に生の意味合いや役割も希薄で、無意味な何かへと変化させられている。 これは、看過できない重大事である。歓喜して享受すべき生が取るに足らない瓦礫の如き、値打ちのない物に堕してしまっているのだ。死の無視が、生の下落を、暴落を招いている。そう言っても過言ではない。メメントモリ、死を忘れるなの言葉は非常な重みを以て現代人に語りかけているのだ。 幸い、と言うのか、私の場合は、近親者の死に正面から接する機会に恵まれ、知らず知らずの内に「死」の正当な学習が進み、世俗的な、或いは習俗的な意味合いの「忌むべき死」という表面的な見方を超えて、自ずから死の重層的な深い意味合いを学習することとなった。 生が重要大切な度合いを増すごとに、死もその多角的な意味合いを、垣間見せる。生と死は同等で同価である。死が意味を失うならば、生もまた本来の自由闊達さを喪失してしまう。この辺の兼ね合いを十分に熟慮する必要がありだろう。 死に「親しむ」事の大切さを教えてくれるものは、生そのものの持つ深淵なる愛しさであり、また汲めども尽きない清冽なる井戸水の如き、美味さであり、清涼なる喉越しなのである。 死がもし忌むべきだけの厭わしい存在であるならば、生もまた唾棄すべき忌まわしい存在と化するであろう。死を日常から遠避ける現代文明は間違っている。死を日常から遠避ける事で、尊く有難い、得がたい生を、二束三文のガラクタの地位に追いやってしまったのだから。 死に近い存在者としての老人の地位が、著しく低下している。生者の先輩として無条件で尊敬に値する長老に対する尊崇の念がなくなり、人生や経済の邪魔者、若者の活力にブレーキをかけ、人生のお荷物となり易い邪魔者。それが現代の一般的な老人観であるとすれば、それはやはり若い世代の行き方や考え方に著しい狂いが生じていると看做さざるをえないだろう。 役に立たない、生産性が低い、病気に罹りやすく医療費が高くついて、厄介者。そう言った俗耳に入り易い安易な老人感は幼稚であるだけでなく、生そのものを決定的に誤解している故に、危険だし、有害この上ないものだ。大昔には健全この上ない敬老思想が脈々と生きていた。そこでは、年を取る事は神に近づく事にほかならなかった。 私は、自分が老害の代表の様な極め付きの老人だから、それで、声高に敬老精神を鼓吹するのではない。理屈としても、死に一番近い老人への無条件の敬意が、活力ある若者の健全な生をしっかりと支えている事を、固く信じるからである。生まれたばかりの赤ちゃんが無条件で愛されるように、純粋無垢な健全な老爺や老婆が無条件で尊敬される社会の民度の高さを、無条件に信じるからである。 生はそれ自体で尊い。とすれば、そのどのフェイズを捉えてみても、それぞれに尊いのであり、何々だから、もしくは何々でないから、ダメだ式の低脳を絵に描いた様な「狂人」の戯言に、手もなく共鳴してしまう愚衆の、一見は最も至極と思われる愚論・暴論に振り回される愚とは、早々におさらばをするに如くはないのだ。 私達個人の体を例に取って考えてみようか。無数にある体細胞は常に新陳代謝を繰り返して、新しい細胞が古い、既に役目を終えた細胞と役割を交換している。その新しい細胞はこれから重要な役割を果たすから意味があって、古い役に立たない細胞は無意味だと断じたとすると、おかしな事になるだろう。生命体は一瞬たりとも活動を止めてしまうことは出来ない。それぞれの細胞が、古いのも、新しいのも、同等にして同価で活動を継続しているからこそ、尊い生命が維持されるのであって、新しく、活発に活動するだけが重要とは、誰が、どう見ても判定できないであろう。 個人を一個の細胞に例えれば、同様の事が言えるわけで、古い、新しい、活発な活動か否かは問題とは出来ない道理である。生命体のどの部分を捉えても、皆大切な部分であることは、赤子にも分かる自明の道理なのだ。 私は自分もそのひとりである老人だけを殊更に大切だなどと強弁しているのではない。敬老精神は先輩に対する最小限の礼儀であり、人としての道をきちんと弁える精神は、何時、何処の国においても尊重されて然るべきものなのだ。 死について述べることは、生について述べるよりももっともっと難しい事だが、決して蔑ろにしてよいテーマではない。生の最後にあり、個人の生を一際鮮明に際立たせる、ピリオッドの様な役割を果たしているのが死である。一つの死は、様々な多数の生を呼び込み、また多様な生を養っている事は、自然が我々に教えてくれていることだ。死を除外した生を考える事は邪道であり、あってはならないことであろう。 今回は、兄の死から触発されて、思いつくままに死に関する感想を綴ったが、また機会があればこのブログ上でトライしてみようと思う。 残暑なお厳しい折柄、諸兄諸姉におかれては一層のご自愛ご健勝を切にお願い申し上げます。死は私たちの直ぐ近くにあって、あなたを私を見守っているのでありますから、呉呉も後悔のないよう努めようではありませんか。
2020年09月02日
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