草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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草加の爺(じじ)

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2026年02月18日
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忠臣が諫めを納れるけれども、呉王はかつて用い給わざりしかば、余りに諫め兼ねて、ままよ、身

を殺して危うきを助けようと思ったのか、伍子胥は又或時に、ただ今新たに砥(と)から出た(研ぎ

立ての)青蛇(剣の名)を持ってまいりたり。

 抜いて呉王の前に拉(とりひし)いで申したのは、臣はこの剣を研ぐこと邪を退け、敵を払うため

であります。つらつらと国が傾くこうとするその基を尋ねると、みな西施から出ている。これに過

ぎる敵はあるべからず。願わくは西施の首を刎ねて社稷の危うきを助けん、と。

 そう言って、牙を噛んで立ったのだが、忠言は耳に逆らう時に、君は非を犯さずと言う事がない

ので、呉王は大いに怒って伍子胥を誅しようとした。

 伍子胥は敢えてこれを悲しまず、爭い諫めて節に死するのは、これは臣下の則(のり)である。我

は正に越の兵の手で死ぬよりはむしろ君王の手で死ぬことは恨みの中の喜びです。但し、君王臣の

忠諌に怒り吾に死を賜うこと、これは既に君を棄てたのでありまする。

 君は越王の為に亡ぼされて、刑剹の罪に伏さんことは三年を過ぎないでありましょう。願わんに

臣の両眼をくり抜いて呉の東門に掛けられ、その後に首を刎ねられよ。一双の眼(まなこ)がまだ涸

れない前(さき)に、君は勾践に滅ぼされて死刑に赴くのを見て、一笑を快くしよう。と、申したと

ころが、呉王は益々忿って、即ち伍子胥を誅せられ、その両眼を穿って呉の東門の幡(はたほこ)の

上に掛けられた。

          范蠡 呉王を撃って これを殺す

 この後では、君が悪を積めども臣は口をつぐみ、万人は目を以てした(目配せして非難した)。

 范蠡はこれを聞いて、時は既に到来した。と悦び、自ら二十万騎(ぎ)の兵を率っして、呉国に押

し寄せたのだ。

 呉王の夫差は折節晋国が呉に背いたと聞いて、晋国に向った隙であっあので、防ぐ兵は一人も無

かった。

 范蠡は先ず西施を取り返して、越王の宮に帰し入れ奉り、姑蘇臺を焼き払った。

 斉・楚の両国(りょうごく)も越王に志を通じさせたので、三十万騎(ぎ)を出して范蠡に力を戮

(あわ)せた。

 呉王はこれを聞いて、先ず晋国との軍をさしおいて、呉国に引き返し、越に戦いを挑もうとする

と前には呉・越・斉・楚の兵が雲霞の如くに待ち懸けた。

 後ろには又、晋国の兵が勝ちに乗じて追いかけた。呉王は大敵に前後を挟まれて、逃れるべき方

もなくて死を軽んじて戦う事三日三夜、范蠡は新手を入れ替えて息をつがせずに攻めたので、呉の

兵は僅かに三百騎になってしまった。

 呉王は自らあい当たる事、三十二か度、夜半に囲みを解いて六十七騎を従えて姑蘇山に取り上

り、越王に使者を立てて曰く、君王、昔、会稽山に苦しみし時に、臣夫差がこれを助けた。願うの

は、吾は今より後は越の下臣となって君王の玉足偏の沚(ぎょくし、御足)を戴きましょう。君がも

しも会稽山の恩を忘れないのであれば、臣の今日の死を救い給え、と、言葉を卑しくし、礼を厚く

して降参することを請われたのだ。

 越王はこれを聞いて、古の自分の思いに今人(こんじん)の悲しみはさこそと思い知りなされてい

るので、呉王を殺すに忍びずにその死を救おうと思われた。

 范蠡はこれを聞いて、越王の御前に参りて面を犯し(面前も憚らずに)、申したのは、木偏に可

(か)を伐るのにその則(のり)は遠からず(木偏の可は斧の柄、木を伐るのに現在もちいている斧の

柄が手本である、則ち手本は身近にある)。会稽の古は天が越を呉に与えたり。

 然るを越王は取ることなくして忽ちにこの害に遇えり。今却って天は越に呉を与えたり。取るこ

とがなければ越は又この様な害に遇うであろう。

 君臣共に肺肝を砕いて呉を謀る事二十一年、一朝にして棄てる事あに悲しからざらんや。君が非

を行って時に顧みざるは臣の忠である。と、言って、呉王の使者がまだ帰らない前(さき)に范蠡み

ずからが攻め皷を打って兵を勧め、遂に呉王を生け捕って軍門の前に引き出した。

 呉王は既に面縛(めんばく、手を背で縛られて、面を前に向ける事)せられて、呉の東門を過ぎ

る時に、忠臣伍子胥の諫めに依って、首を刎ねられるときに籏鉾の上に掛けた一双の眼(まなこ)h

三年(みとせ)まで涸れずにあったのだが、その眦(まなじり)が明らかに開いて笑う気色であるのを

呉王はさすがにこれに相まみえるのが恥ずかしく思われたのか、袖を顔に押し当てて首を低(た)

れて過ぎ給う。数万の兵はこれを見て、涙を流さない者はいなかった。

 即ち呉王を典獄の官に下されて、会稽山の麓で遂に首を刎ね奉る。

 古来より俗の諺に曰く、会稽の恥を雪(きよ)めるとはこの事を言うのであろう。

       范蠡は 万戸侯たることを辞して、五湖に遁(のが)れる

 これより越王は呉を併合しただけではなくて、晋・楚・斉・秦を平(たいら」げて、覇者(はし

ゃ、徳に依らずに武力で政治をとる諸侯の頭)となったので、その功を賞して范蠡を満戸侯(ばん

ここう、一万の戸数の在る土地を有する大名)封(ほう)じようとしたが、范蠡はかつてその禄を

承けずに、大名の下には久しく居るべからず、功なり名を遂げるは身退くのは天の道である、と言

って遂に姓名を替えて、陶朱公(とうしゅこう)と呼ばわりて五湖(ごこ、江蘇・浙江の二省にま

たがる太湖)に身を隠し、世を遁れてぞ居たりける。

 釣りをして芦花の岸に宿すれば、半蓑(はんさ)に雪を止めて(蘆の花が雪の如く蓑の半面を彩

り、歌って楓葉の陰を過ぎれば、孤舟に秋を載せたり。一蓬の月、満頃(ばんきょう)の天、紅塵

の外に遊び、白頭の翁となったのだ。

 高徳(たけのり)はこの事を思い准えて、一句の詩に千般(せんぱん)の思いを述べ、密かに叡

聞に達したのだ。

        天皇 隠岐の国に 御到着、配所における御動静
         太平記著者の 批評

 されほどに先帝は、出雲の三尾(みを)の湊に十余日間御逗留なされてから、順風になったので、

舟人共が纜(ともづな)を解いて、御艤(みふなよそい)して、兵船三百余艘を前後左右に漕ぎ並べ

て、萬里の雲に寄り添って進む。

 時に滄海沈沈として(青海原が静かに暮れてゆき)日は西北の浪に没して、雲山しんにゅうの超々

(雲や山が遥かで)として月が東南の天に出ると漁舟の帰るのが見えて、一灯が柳岸に幽かである。





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最終更新日  2026年02月18日 15時51分09秒
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