草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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草加の爺(じじ)

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2026年04月08日
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三月十二日の合戦の事
         赤松勢が 京都に入る 六波羅勢の発向

 六波羅ではかかる事とは夢にも知らず、摩耶の城には大勢を下したので、敵を攻め落とす事は日

を過ごさないだろうと、心易く思っていた。

 その左右を今か今かと待っていた所に、寄せ手が打ち負けて逃げ上る由を披露あって、実説はい

まだ聞かず。何とあることやらんと、不審が端多い所に、三月十二日、申の刻(午後四時)ばかりに

淀・赤井・山崎・西岡邊の三十余箇所に火を懸けた。

 こは、何事ぞ、と問うに、西国の勢は既に三万で寄せて来た。とて、京中が上を下へと返して騒

動する。

 両六波羅は驚いて、地蔵堂の鐘を鳴らし、洛中の勢を集められけれども、宗徒の勢は摩耶の城か

ら追い立てられ右往左往に逃げ隠れた。

 その外は奉行・頭人(引き付け頭人、引き付け衆の首席)なんどと言われて肥え膨れていた者ど

もが馬に舁き乗られて四五百騎馳せ集まったけれども、皆ただ呆れ迷うばかりであり、さしたる義

勢(気力、意気込み、見せかけの勇気)も無かったのだ。

 六波羅の北の方(北丁の長官)、左将監仲時は事の軆を見ると、何様、居ながら京都にて敵を待つ

ことは武略が足りない事に似ている。

 洛外に、馳せ向かって防ぐべし。とて、両検断の隅田と高橋に在京の武士二万余騎を相添えて、

今在家・作道・西の朱雀・西八条辺へ差し向けられ、これはこの頃南風に雪が解けて河水が岸に余

る時であるから、桂川を隔てて戦いを致さん謀である。

       両陣は桂川を隔てて 対陣す 赤松則祐は川を渡す
         六波羅勢の退却

 さるほどに赤松円心は三千余騎を二手に分けて、久我縄手・西の七條から押し寄せた。

 大手の勢は桂川の西の岸に打ちならんで、川向うなる六波羅勢を見渡せば、鳥羽の秋山風に家々

の旗が翩翻(へんぽん、ひるがえる様)として城南の離宮の西門から作道・四塚(よつづか)・羅城門

の東西、西の七條口まで支えて雲霞の如くに充満したのだ。

 されどもこの勢は桂川を前にして防げと下知されている、その趣を守って川をば誰も越えなかっ

たのだ。寄せ手は又、思いの外に敵が大勢であることを思惟して、左右なく打ちかかろうともしな

かった。

 只、両陣は川を隔てて矢軍にぞ時をぞ移したのだ。

 中にも、帥律師則祐は馬を踏み離して、徒歩立ちになり、矢を束ね解いて、押し寛げ、一枚楯の

陰から引き攻め、引き攻め、散々に射ったのだが、矢軍だけでは勝負は決しようがない、と独り言

を言って脱ぎ置いた鎧を肩にかけて、兜の緒を締め、馬の腹帯を固めて、只一騎で岸から下に打ち

下ろして手縄をかいくり渡らんとした。

 父の入道が遥かにこれを見て、馬を打ち寄せて、面に塞がって制したのは、昔、佐々木三郎が藤

戸を渡し、足利又太郎が宇治川を渡ったのは、兼ねて澪印を立てて案内を見置き、敵の無勢(ぶせ

い)を目に掛けて先を懸けた(先駆け、先に立って敵陣に攻め込む)ものだ。川上の雪が消えて、水

が勝り、渕瀬も見えない大河を嘗て案内も知らずに渡るならば、渡れるものであろうか。たとえ馬

が強くして渡ることを得たとしても、あの大勢の中にただ一騎で駆け入ったならば、討たれずと言

う事は有るべからず。

 天下の安危は必ずしもこの一戦に限るべからず。暫く命を全うして、君の御代(ごよ)を待たんと

する心はないのか。と、再三、強いて止めた所、則祐は馬を立て直して抜いていた太刀を収めて、

申したのは、味方と敵と對揚(匹敵)すべき程の勢にてだに候ならば、我と手を下さずとも、運を合

戦の勝負に任せて見候べきを、味方は僅かに三千余騎、敵はこれに百倍している。

 急に戦いを決しないならば、敵に無勢の程を見透かさてしまったならば、戦うと言えども利はあ

るまいと思われまする。されば太公の兵道の詞(ことば)に、兵勝之術、密察敵人之機、而速乗其

利、疾撃其不意、と言っている。是以我困兵、敗敵強陣の謀(はかりごと)にて候わぬや。と、言い

捨てて駿馬に鞭を進め、みなぎりて流れる瀬枕(川の早瀬の波が物に激して水面より高くなった

所。川底を寝床と見ると、その所は枕に当たるから言う)に逆波を立てながら泳がせたのだ。

 これを見て、飽間黒羽左衛門尉・伊東大輔・川原林二郎・木寺相模・宇野能登守國頼の五騎が続

いて颯と打ち入った。

 宇野と伊東は馬が強いので真一文字に流れを切って渡る。木寺相模は逆巻く波に馬を放されて兜

の手反(てへん、兜の頂上の辺り)だけが僅かに浮かんで見えていたが、浪の上を泳いだのだろう、

或いは水の底を潜ったのか人よりも先に渡りついて、川の向こうの流れ洲に鎧の滴らせてぞ立った

のだ。

 彼等五人の振る舞いを見て、尋常(よのつね)ならぬ者とや思いけん、六波羅の二万余騎は人馬が

東西に辟易して敢えて駆け合わせようとする者はない。

 あまつさえ楯の端がしどろになって色めき渡るのを見て、先駆けの味方を打たすな、続けや、と

て、信濃守範資・筑前守貞範が真っ先に進めば、佐用・上月の兵三千余騎の兵共が一度に颯と打ち

入って馬筏で流れを堰き上げたので、逆水が岸に余り、流れが十方に分かれて元の淵瀬は中々に陸

地を行くが如し。

 三千余騎の戸は向こうの岸に打ちあがり、死を一挙の中に軽くしようと進み勇める勢いを見て、

六波羅勢は叶わないと思ったのか、いまだ戦わぬ前(さき)に楯を棄て、旗を引いて、作道を北へ東

寺を指して引くもあり、竹田川原を上って法性寺大路へ落ちるのもある。その道の二三十町の間は

捨てられた物の具が地に満ちて、馬蹄の塵に埋没した。

            京中の 合戦

 さる程に、西七條の手、高倉少将の子息左衛門佐、小寺・衣笠の兵共、早京の中に攻め入ったと

見えて、大宮・猪熊・堀川・油小路の辺、五十余箇所に火をかけたのだ。

 又、八条、九条の間にも戦いがあると覚えて、汗馬東西に馳せ違い、鬨の声が天地を響かせた。

 只、大三災が一時に起こり、世界が悉く劫火の為に焼け失うかと疑われる。

 京中の合戦は、夜半ばかりのことであるから、目指すとも知れない暗い夜に鬨の声がここかしこ

に聞こえて、勢の多少も、軍建ての様も見分けられないので、何処へ、何を目指して軍をなすべき

とも覚えずに、京中の勢は先ずただ六条川原に馳せ集まって、呆れたるていで控えている。

         持明院殿 行幸 六波羅 の事
          光巌天皇 六波羅に 臨幸

 日野中納言資名(すけな)・同左大弁宰相資明(すけあきら)の二名が同車して、内裏に参り給いけ

れば、東西南北四方の門が徒に開いて、警護の武士は一人もいない。

 主上が南殿に出御なされて、誰にて候ぞ、と御尋ねであったが、衛府諸司の官、蘭臺金馬(らん

だいきんめ、弁官の唐名)の司もどへか行ってしまい、勾當(こうとう、掌侍・内侍司の三等官四人

の中の首位の者)の内侍と上童の二人の外は御前に侯する者は無かった。





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最終更新日  2026年04月08日 10時36分57秒
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