草加の爺の親世代へ対するボヤキ

草加の爺の親世代へ対するボヤキ

PR

×

プロフィール

草加の爺(じじ)

草加の爺(じじ)

サイド自由欄

カレンダー

フリーページ

2026年04月13日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
西八条の寺の前を南に打ち出でければ、信濃の守貞範三百余騎、羅城門の前にある水の潺(せせら

ぎ、水の浅瀬)で馬の足を冷やし、敗軍の兵を集めようと、旗を打ち立てて控えたり。

 則祐がこれを見つけて、諸鐙(もろあぶみ)を合わせて(両鐙を同時に使って、急いで)駆け入りけ

れば、追いかけていた八騎の敵共、善き敵と見ていたものを遂に打ち漏らしてしまったぞ。癪なこ

とであるよ。という声が聞こえて、馬の鼻を引き返したのだ。

 暫くありければ、七条河原・西朱雀にて駈け散らされたる兵共、ここかしこから馳せ集まって、

また千余騎になった。

 赤松はその兵を東西の小路から進ませて、七条辺で又鬨の声をあげたところ、六波羅勢の七千余

騎六条院を後ろに当て、追い返しつつ二時余りぞ責め合いたる。

 かくては軍の勝負は何時あるべしとも覚えざる所に、河野と陶山の勢五百余騎が大宮を下りに打

って出て、後ろを裏(つつま)んと廻りける勢いに後陣を破られて、寄せ手が若干討たれたので、赤

松は僅かの勢になって、山崎を指して引き返したのだ。

        河野、陶山の凱陣、臨時の宣下
          敵の首を六条川原に 曝す

 河野と陶山とは勝ちに乗じて作道の辺まで追いかけたのだが、赤松はややもすれば取って返さん

とする勢いを見て、軍はこれまでである、そんなに長追いをするでない。とて、鳥羽殿の前から引

き返し、生捕り二十余人、首を七十三取って切っ先に貫いて、朱になって(血まみれになって)六波

羅へと馳せ参った。

 主上は御簾を捲かせて叡覧なされた。

 両六波羅は敷き皮に座して、これを検知した。両人の振る舞いはいつもの事であるが、殊更今夜

の合戦に旁々(かたがた)手を下し、命を捨てる覚悟でなかったならば、叶わなかったであろうと見

え候ぞ、と再三感じて賞玩された。

 その夜にやがて臨時の宣下があって、河野九郎をば對馬の守になされて御剣を下され、陶山次郎

を備中の守になされて、寮(馬領・めりょうで飼養した馬、馬寮とは御牧及び諸国の牧場から貢す

る官馬の調習・飼養及び供御の乗具などのことを掌った役所)の御馬を下されければ、これを見聞

した武士達は、あわれ、弓矢の面目であるよ、と、或いは羨み、或いは嫉み、その名は天下に知ら

れたのだ。

 軍が散じて翌日に、隅田と高橋が京中を馳せ廻って、ここかしこの堀や溝い倒れていた手負いや

死人共の首共を取り集めて、六条川原に懸け並べたのだが、その数は八百七十三あった。

 敵はこれ程までは多く討たれなかったのだが、軍もしない六波羅勢共は「我は高名したり」と言

おうとして洛中・邊土の在家人(ざいけにん、田舎家の人)の頸を似せ首にして様々の名を書きつけ

て出した頸どもが多く入っていたのだ。

 その中には、赤松入道圓心と札を付けた首が五つあった。いずれも見知りたる人がないので同じ

ようにぞ懸けたのだ。

 京わらんべはこれを見て、首を借りたる人は利子を付けて返すべし、赤松入道は分身して、敵の

尽きない相をしているぞ、口々にぞ笑ったのだ。

        禁裏(きんり、宮中)・仙洞(せんとう、上皇の御所)
        御修法の事 付 山崎合戦の事
         諸社寺に於いて 祈禱を行うのだが 効験はなし

 この頃は四海が大いに乱れて、兵火が天を掠めた。

 聖主(天子、ここは光巌天皇)扆(い、中国で玉座の後ろに立てた屏風で、斧の形を赤地の絹のに

刺繍したもので、天子が諸侯に対面する時に用いた)を負いて春秋に安きときなし。武臣は矛を建

てて旌旗閑日なし。これ法威を以て逆臣を鎮めなければ静謐その期あるべからずと、諸社諸寺に課

して大法秘法をぞ修せられける。

 梶井宮(尊胤法親王)は聖主の連枝(兄弟)、山門の座主にて御坐(おわ)しましければ禁裏に壇を立

てて佛眼(息災の為に佛眼尊を本尊として修する法)の法を行わせ給う。

 裏辻の慈什僧正は仙洞にて薬師の法を行われる。

 武門また山門・南都・園城寺の衆徒の心を取り、霊鑑(神仏の霊妙な照覧)の加護を仰がん為に所

々の荘園を寄進して、種々の神寶を奉り、祈願を致されしかども公家(朝廷)の政道正しからず、武

家の積悪が禍を招いてしまったので、祈るとも神は非礼を承けず、語らえども人は利欲に耽らない

のか、只日を追って国々から急を告げる事隙がなかった。

       赤松は 中院貞能を立てて 聖護院宮と称す
        六波羅と戦い これに勝つ

 去る三月十二日の合戦に赤松は討ち負けて、山崎を指して落ちて行ったが、今は何事か有るべき

とて油断なされたので、敗軍の兵がここかしこから馳せ集まり、程も無く大勢になぅたので、赤松

は中院の中将貞能を取り立てて、聖護院の宮と號して、山崎・八幡に陣を取り、河尻(川口、鴨・

桂・宇治・木津の諸川が合流して淀川となる地点で、此処を扼くすると水陸共に西国との交通を断

ち得る)を差し塞ぎ、西国往反の道を打ちとどめた。

 これによって洛中の商売は止められて、士卒は皆転漕(陸と海から兵糧を運ぶ事)の助けに苦しん

だ。両六波羅がこれを聞いて、赤松一人に洛中を悩まされて今士卒を苦しめる事は安心ではない。

さる十二日の合戦の體を見るに、敵はそれほどに大勢ではなかったのに、言う甲斐ない聞き怖じを

して敵を辺境の間に差置くこそは、武家後代の恥辱である。

 所詮は今度に於いては官軍を遮って敵陣に押し寄せ、八幡・山崎の両陣を攻め落とし、賊徒を河

に追い嵌め、その首を取って六条の河原に曝すべし、と下知せられければ、四十八か所の篝、並び

に在京人、その勢は五千余騎、五条河原に勢ぞろいして三月十五日の卯の刻に、山崎へとぞ向かっ

たのだ。

 この勢、始めは二手に分けていたが、久我縄手は路は細くて深田なので馬の駆け引きが自在には

行かないだろうと、八条から一手になって桂川を渡り、河嶋の南を経て物集女(もずめ)・大原野の

前から寄せたのだった。

 赤松はこれを聞いて三千余騎を三手に分けた。一手には足軽の射手を選って五百余人、小塩山に

廻した。一手をば野武士(落ち武者を脅迫して甲冑などを剝ぎ取った土民又は武士の集団)に騎馬

の兵を少し交えて千余人を狐河の辺に控えさす。

 一手をば専ら打ち物(打ち鍛えた武器、即ち槍や刀の類)の衆八百余騎を揃えて向日(むかうの)

明神の後ろにある松原の陰に隠し置いた。

 六波羅勢は敵がそこまで出で合っているとは思い寄らずに、そぞろに(何の気もなく)深入りして

寺戸の在家(ざいけ、田舎家)に火をつけて、先駆け(先頭に立つ者)が既に向日(むかうの)明神の前

をを打ち過ぎた所を、善峰(よしみね)・岩蔵(いわくら)の上から足軽の射手が一枚楯をてんでに引

っ提げて麓まで降り下って散々に射た。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2026年04月13日 10時09分42秒
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: