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H19.12.18 腹腔内抗がん剤2クール目スタート 12月17日に静岡県三島の病院に新幹線を乗り継ぎ、またやって来た。 あと二日で、TS-1も三週間を迎える。腹腔内の抗がん剤は、二週間の休薬でどのくらい抜けたか分からないが、TS-1は(経口の抗がん剤)、飲みっぱなしだったのでーー;新幹線も、やっと乗って来たような感じだった。抗がん剤の副作用で、手のひらが超~~~~~~~~~~痛い。布巾なんて絞れないくらい。そして紫外線により、どくとくな顔の黒ずみが出てきて嫌になる。TS-1も、二週飲んで一週休みだといいけど、四週飲んで二週休みはかなり最後の週はきつくなってくる。 この、腹腔内の治療を始めてから、直腸の腫瘍のせいで毎日すごい血便をしていたのに、それが出なくなった。基本的に、大きくなった腫瘍には効果はないと言われているが、確実に痛みが和らいでいる。検査では、腫瘍の大きさは変わっていないが、私自身が感じる自分の身体の感覚は、本当に変わった。腹腔内に入れられた、タキソテール・シスプラチンは確実に、腹膜播種の癌細胞にダメージを与えているのがわかった。通常、点滴で血液に入れる、1000倍もの抗がん剤をこの治療では入れます。認可されていない治療です。ですが、私は根治を目指しこの治療に挑みました。 2クール目を始めるにあたって、先生とまたある程度のお話をした。先の手術で、私の身体は大きく変わること。人工肛門。子宮や膣、すべてなくなる事。場合によっては、人工膀胱にもなること。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。 米村先生は、 「なんとか、生きたい。と思っているのに、人工肛門で悩むのはおかしい。」そう言いました。 私は、余命宣告されているのに、人工肛門と命を手瓶にかけようといていました。それでもやっぱり、現実とても辛くて、辛くて。先生には、頭の中の言葉ではなく、 「宜しくお願いします。」と、答えていました。そうするしかないのですから。 そうして、2クール目の最初の腹腔内抗がん剤注入が始まりました。 この数日後、子供が通う、クリスマスお遊戯会が迫っていました。頑張って、観に行きたい。 ママ頑張るよ~~~~~~
March 24, 2009
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H19.12.5~17 休薬期間 腹腔内に、抗がん剤を入れる治療も1クールが終了し二週間の休薬期間となった。しかし、12月4日に注入した抗がん剤は、三日目辺りから副作用が強く出てきた。もう、気持ちが悪く食事もあまりとれず、大変。 外に出れたのは、一週間後…。キィ君とお買い物。 4歳になったキィ君。 また、数日後に抗がん剤が始まるから、沢山遊ぼうね
March 21, 2009
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H19.12.4三回目の腹腔内抗がん剤治療 私は、自分の先が短いとわかり、その現実をきっちりと受け止めてから、日々の写真を撮ったりして子供達に残そうと思った。「病気で弱弱しく死んで行ったんだ。」とは、絶対に子供達に思われたくない。自分の病気とちゃんと向き合い、愚痴をこぼさず、逃げず、頑張った。という私を子供達には見てもらいたい。大人になったときに、「ママはすごい。」と感じてもらいたい。そして、子供達が成長とともに訪れるであろう苦難は、逃げず頑張るんだということを学んで行ってもらいたい。今は、まだ5歳と4歳の子供達。大人になったとき、ママの子供で良かったと感じて欲しい。 なもんで比較的に、病人らしからぬ笑顔が多い私。 三回目の、タキソテール・シスプラチン。注入~~~。 三回目、1クール終了。いったん退院して、またまた新幹線で帰って、次のクールに備えよう。 しかし、東北に住んでいる私は、最先端治療を受けるにも交通費がかかる。 しかも、私の小腸癌は、PETなどの検査は保険が利きません。最悪です。発祥例がないからと、全く保険が利かないのは本当に(泣)です。 大臣さん達、なんとかしてよ。って感じ……。
March 12, 2009
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ポート腹腔内遊離癌細胞封じ込め療法腹膜播種の手術を行っても、目に見えない小さな癌細胞が浮遊していえば、予後はあっという間に再発し、完全に除去出来た場合との生存の年数が全く違う。その為、私は手術を行う前に、この腹腔内遊離癌細胞封じ込め療法を行った。 ポートを入れて…と、言われてもピンとこないですよね^^;抗がん剤を入れる前に、1000mlの生理食塩水を腹腔内に入れて、その生理食塩水の一部を回収。その中にどれだけの浮遊癌細胞があるか調べ、適量の抗がん剤を注入。抗がん剤を入れたら、次の注入時にまた生理食塩水を入れ一部を回収し、どれだけ浮遊の癌細胞が残っているか調べ、極力浮遊の癌細胞を死滅させる。 ポートの先端の円は、500円玉より若干大きいくらい。皮下内にその部分がきて、管は腹腔内へ。 ポート挿入時の様子。※私の、画像ではありません。(術法例です。) この腹腔内の抗がん剤治療を繰り返し、浮遊の癌細胞を死滅させれれば、後の手術の時に、医師は目に見える癌細胞を時間をかけて取り除き完全除去を出来ることとなる。 その為に、なんとか頑張って2クールを乗り越えたい。 小腸癌の私には、治療の道がない。さらに、腹膜転移である。とにかく、なんでも乗り越えないと。 この時、手術は痛かったが、それより直腸の腫瘍の方が痛みを増してきてて、本当に私の心の中は恐怖のみでした。
March 12, 2009
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H19.11.27 腹腔内治療二回目は入院 一度目の治療を、H19.11.17日に行ってから10日後の、11月27日(火曜日)に、二回目から三回目の腹腔内治療の為、静岡県三島市の池田病院に入院となった。この入院は私自身、タキソテールとシスプラチンがどの程度、副作用を出してくるか解からなかった為に、入院をすることとなった。12月4日迄の入院にして、腹腔に抗がん剤を入れることにした。 なんとも、休む間もなく、化粧を落とす前に、抗がん剤を入れ始めてます 腹腔内治療により、小さい浮遊してる癌細胞を叩きのめして、年が明けてからの手術に備えます。まだ始まったばかり、頑張ろう。 副作用が強くなきゃいいなぁ・・・・・・。
March 11, 2009
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H19.11.17 一回目 腹腔内抗がん剤治療 米村医師との最初の受診から約三週間後、11月17日(土曜日)一回目の抗がん剤の注入となった。 抗がん剤を注入する前に、腹腔に入れるためのポートを入れる手術を行うという。抗がん剤治療が終わるまで、そのポートはお腹に入れたままの生活。ちょっと怖かったので、前もって米村医師に電話で聞いてみた。そうしたら、「ぜ~~んぜん痛くないから、ポートを入れたらそのまま抗がん剤を入れて帰れるからね!!!」そうなんだ、と思って病院に主人と来ていた。時間的に手術をしてその日のうちに帰るのは、東北にいる私には不可能なので、入院することにした。付き添いの主人は、病院の近くにはホテルもなく、病院に頼んで病室に泊まることにした。 この私の余裕の笑顔この後の手術、目を覚ましたのは翌日でした。 米村せんせ~~~~~~~い痛くないよって、言ってたけど…。ポート手術は、部分麻酔。結構痛い終わってから、痛みや薬のせいで眠りに入った私。病室に戻ってから、入れたポートに点滴を刺し抗がん剤を注入。タキソテール・シスプラチン。全然、抗がん剤の注入時はわからなかった。 なんとなく、夕食はどうしますか?か、検温か、とか看護士さんが来たような記憶があるだけで、気が付いたら朝でした。 主人はソファーで寝てました。 物凄いムクんで気分も微妙に酔っている感じでしたが、頑張って新幹線を乗り継ぎ帰りました。 一週おきに抗がん剤を注入すること三回して、1クール。それを2クールやって、腹膜播種手術を行うと言う。 なんとか、頑張って乗り切りたい。 この時、私の体重、36kg。直腸の最大の腫瘍は四センチを超え、毎日、肛門から子宮からの出血で貧血を度々おこし、痛み止めは、経口の薬と座薬を交互にやってなんとか日々暮らしている感じでした。 この、治療。どんなに副作用がきても乗り越えてやるよ。 ママは、絶対頑張る
March 9, 2009
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後の治療先・入院先腹腔内抗がん剤治療をしたのは、米村医師の非常勤務先静岡県三島市 池田病院後の手術をした入院先病院 滋賀県草津市 草津総合病院昨年4月に私が退院する少し前に、病院内に出た広告です。 腹膜播種支援機構理事長 米村 豊医師一人にでもこういう医師がいて、その治療を受けた私の声が届くことを心から願います。
March 8, 2009
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医師の一言 H19.10.30東北に住んでいる私は、東北新幹線に乗り東京駅で乗り換え三島に行った。 主人と色々話してきた数週間、ついにこの日が来ました。 病院に着き、待合室で待っていたら、二組の患者さんが私の前にいた。お腹がボーンとでた患者さん。腹膜偽粘液腫か、転移をし腹水のある方と予想はついた。事前に見ていた医師の治療内容は、私の知っている限りではあり得ない、腹水がある方でも全然治療が出来るということ。今まで地元の病院では、腹水があると、もう駄目!って感じで落胆していたのに。 みんな、医師の所に来たんだ。そう、思いながら自分の順番を待った。 私が呼ばれ、中へ。 医師 「こんにちは。とても元気そうですね。」「小腸癌は、私の過去の患者のなかで、貴方が6人目です。一人は15年を生きていますよ。」「大丈夫!僕が貴方を治します!!!」 「ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。」 待合室を出てからも、パパの胸の中で泣き続けました。 今後の事も伺って、治療内容の小冊子も頂いた。 この日の外来で、私はすべての画像を持って行っていた。(最初の手術内容・CT・MRI・レントゲン等)それを見て、医師からは、★人工肛門は避けられないこと。(可能な限りならないようにはすると言われた)★この後、手術まで、腹腔に抗がん剤を注入するとのこと。★その後、手術をするので、年明け1月か2月に行うとのこと。★随時、医師とはメールで連絡し予定を組んでいくこと。 この内容を頭に入れ、三島の病院をあとにした。 とにかく、今迄はこの先がないことしか言われていなかった私。仮に、治療を受けても結果的にだめだったとしても、医師に言われた、「大丈夫。治しますから。」の言葉は、それだけで治った気分になり、私のまだ身体のどこかにあったNKT細胞が踊りだしたようだった。そんな気分にさせられた。魔法の言葉だった。「大丈夫。」 この先は、本当に大変だった でも、今の私があるスタートです。 「生きる」に、しがみつこう。ママ頑張る!!
March 8, 2009
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スーパーDrに連絡 TVを見てから、なんとか連絡をしようとして、「たけしの本当は怖い家庭の医学」のホームページを見た。その名医の、連絡先内容が載っていた。 TVを拝見してから、二日後に病院に連絡してみました。主人が電話をしてくれたのですが…。 岸和田徳洲会病院の腹膜播種外来・米村医師への電話が殺到。その為、病院の電話がパンクしそうになり、病院では対応しないとのこと。しかし、自分達で連絡をして下さいと言われ、なんと米村医師の携帯番号を聞くことが出来た。でも、その電話対応してくれた方が、「たぶん、コンタクトをとれるまで数ヶ月かかると思いますよ。」と…。そう言われても、なんとか連絡がとれないものか。とりあえず主人は、電話を切った。 すぐに、また番組のホームページを見た。しかし、全国からの電話が殺到し、医師名から病院名すべて非公開になっていた。 私は、米村医師自身を検索してみた。あった!!!NPO法人で「腹膜播種支援機構」と載っていた。あぁ、だから病院では直接本人に連絡して下さいと、言ったんだ。徳洲会病院には関係なく。 夜に、このNPO法人にメールを打った。先生見てくれるかなぁ!?と思いながら。でも、なんとなく携帯を手にしてみた。 今、子供達がパパとお風呂に入ってる。丁度いい。電話してみよう。 夜八時を回っていた。非常識と思いつつ。電話した。 数回のコールで「はい。米村です。」 心臓が口から飛び出そう。 「すいません、病院にかけて連絡先を聞きました。私のお話を聞いて頂けますか?」「はい、どうぞ。」優しい声で。 この先は、なんともアッサリです。 H19.10.30に静岡県三島にある、病院に来てくださいと言ってくれたのです。火曜日・土曜日(毎週ではないが)に、特別外来をしているというのです。大阪までは大変でしょうからと、気を使って頂いて。 まず、コンタクトを取れるか解からないと言われていたのが、一発で話ができ、なおかつ外来の予約まで出来ました。奇跡です!!!。奇跡です!!!。奇跡です!!!。 15分ほど話した電話を切ったあと、家中のガラスが割れんばかりの声を出し、「パパぁ~~~~~出た出た出たぁ~~~電話出たぁ~~~」その日、私は大泣きした!!!まだ何も起きていないのに大泣きした。 無理と思っていた自分の延命。もしかしたら……。 死を待っていただけの私に、違う選択が出来るんだというこのことに興奮し寝れなかった。 まだ、私には望みがある。
March 8, 2009
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H19.10命の分岐点 奇跡の視聴 病気が解かった6月から4ヶ月。たったそれしか経っていないのに、見つかった癌は、すでに腹膜全体に転移していた為、とりあえずの抗がん剤をやりながら、日々残り少ない人生を送っていた私。 大体の余命も解かっていた。それでもどうすることも出来ずいたが、どのくらいかの命を楽しく笑って過ごそうと頑張っていた。諦めの人生とも違う本当にいい時間を過ごしていた。誰も恨まず、過去の自分の苦労や辛かった思い出を最低の人生とも思わず、すべて私の形と認め、感謝の日々を送ろうと心の整理もつけ、イイ笑顔になっていた。過去に迷惑をかけた数々の方々のお顔を思い出し、感謝の念を送った。 それでも、どんなに感謝の念を送り、笑顔で頑張っても、癌細胞はどんどん痛みを増していき、徐々に一日中パジャマで過ごすだけの日々になっていた。 そんな時、いつも子供達にTVを占領されるのに、この時に限って、ゆっくり家族とリビングでTVを見ることが出来たのです。「たけしの本当は怖い家庭の医学」という番組です。小学校の女性校長先生がかかった、100万人に一人という、「腹膜偽粘液腫」(フクマクギネンエキシュ)という病気のことを紹介するところでした。見ていくと、腹膜に出来たこの癌細胞はいたるところにへばり付き、液を出しどんどんお腹を膨らませていくのです。実際のこの女性のお腹は臨月の妊婦のようでした。この、病気は胃がんや大腸がんの転移で起こる腹膜播種と同様、今迄は手術が不可能と言われていた。しかし、なんとこれを手術出来る医師がいるというのです。 番組のなかで、その医師が出てきました。大阪の、岸和田徳洲会病院の副院長「米村 豊」医師でした。 なんだか、私の身体が震えだしました。 これだ!!!!この人だ!!!!!私の神が、姿を出して現れました。 番組の中では、医師が開発したボールチップというメスを使い、鶏肉を身体にみたて実演しています。まさに、これでした。散らばった癌細胞を取り除くには、「切る」しかなかったわけですから、実際切ったら内臓は無くなり生きていけなくなります。ですから、この方法は癌を剥ぎ取るように焼いて行く感じなので、「切り取り除く」とは違うのです。 この医師に、会いたい。 TVを見ていたパパが、一言。 「ママ。生きれる可能性があるなら、諦めないで挑戦しよう。お金は何とかする。」 私の、人生が大きく変わりだす瞬間でした。
March 7, 2009
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ステージ4の小腸癌 腹膜播種になったらもうどうしようもない。そう言われ、小腸癌には発祥人数が極めて少ない為、薬の開発もない・・・。はぁ~。 実際、現在のがん患者の末期という判断を下されている方は、限界まで抗がん剤と闘うか、闘ったがもう限界を超え癌難民になるか、本人の判断で死を迎えるまで抗がん剤などを延命治療をせず自由に過ごすか。抗がん剤はやらないが、別の代替治療を検討したり食事療法や生活改善し延命を願うか、そんな感じでしょう。しかし、大半のがん患者は、医師のもと延命治療として、外科手術、化学療法、放射線治療などを順繰りやっていると思います。私は、ステージ4と判断されて、化学療法科に移され抗がん剤をしていくという判断をしたが、実際何が効くかわからない。それでも、子供を思ったり自身の死に対する恐怖からどんな薬でもやってと願った。 H19.10の時点で、もう進行は進む一方なわけだから、先生からの一声がかかった。 「抗がん剤はやめて、楽しく過ごされるという選択もありますよ。」はぁ~~~~~~~ず~いぶんアッサリ言っちゃってぇ~~~。 どうしよう。 主人が、「少しでも、手術をしてとるということは出来ないのでしょうか?」「腹膜播種は、播種なので取り除くということができません。仮に、手術をしようとしたら中身(内臓から膜から)全部とらなきゃないですよ。播種してるんですから。手術したとて、目に見えない播種が又すぐ腫瘍を作り出していきます。それに、人工肛門・人工膀胱など色々と避けて通れないこともあり、生活の質が落ちます。それより、自由に楽しい生活を送られては・・・。」 そうなっては、もう答えが一つ。毎晩続いてた話し合いも、結論が出た。 死ぬまでのママをビデオにおさめていき、子供達が記憶に無くても見てもれえるようにして私は、運命のまま生を全うしよう。そう決めました。 そう決めた私の次の日の洗濯は、とても晴れ晴れとした気持ちでベランダに立ち笑顔でした。本当です。 もう腹をくくった私は、怖いものはなく、とても笑えて、恨み辛みもなくて、最高です。本当です。 病気になる前に、なんでこんな気持ちを持った人間になれなかったんだろう。 私の夢、オーロラは死ぬまでに見たいなぁ この時まだ、この先奇跡的なことが起きようとは全く思っていませんでした。
February 28, 2009
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H19.10 死についての話し合い この頃は、まだ人工肛門もないし、日々抗がん剤で苦しいだけで自由にお風呂に入れたり、体調のイイ日は気晴らしに温泉に行ったり、歩いていた。 でも、癌の進行は全く衰えることはなく、私の身体を侵略し続けていました。どんな理由でか解からないが、片目の視力がグ~ンと落ちて、外に出るととにかく涙が止まらず、何度も何度も眼科に行きみてもらい気休めの目薬をもらっての繰り返し。あまりTS-1の副作用は強くはないが、とにかくダルくて、一日起きれない日もある。出血はさらに酷くなる一方で、直腸の痛みは顔を歪ませる。 子供を挟んで寝ている暗闇のベッドの中で、主人との話し合いがつづく日々。 私の死はいつ来るのか私はどうなって死ぬのか痛みで苦しんで死ぬのか私はパパの為に、お墓を母の実家に入れて欲しいとか。(もし再婚したら、次の奥様のためにと・・・。)お金のこととか。 病気になるということは、すべてのことを考えなきゃいけなくて本当に大変。しかし、主人との話し合いは、結婚生活の中でもっとも深く一番密な会話となった。 せめて、ゆったんが小学校に上がるまで、生きたい。 そう願って、毎晩話した。
February 27, 2009
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フコイダン H19.9月 出血がひどく、腫瘍の痛みが酷くなっても、痛みに関しては色々と薬があるのでまず我慢は出来る。日常の生活も、台所に立ったり洗濯をしたりと、なんとか出来る。まず、入院中は早く家のことがやりたくてウズウズしてた。ちょっとの一仕事をしたら、リビングのソファーで寝る。毎日そんな感じ。 このままでは、ヤバイ・・・・。 繰り返しの入院で知り合った、大腸がんで入院していた吉田さん。50代のこの吉田さんが、検査で大腸に癌があるとわかった時、肝臓にも影があると言われたという。もうこれは大変だと、思った吉田さん。次の肝臓の検査まで、とにかくフコイダンを毎日毎日飲んだという。なんと、次の検査の時には肝臓の影は無く、医者が驚いたというのです。大腸の腫瘍を手術するだけとなったと喜び、病室で朝・昼・晩・就寝時と4回欠かさず飲んでいました。 このフコイダンのパンフレットを頂いていたことを思い出して、今、着実に死に向かっている私は、何でも試さないとと、注文してもらうことにした。藁をも掴む思いで・・・。 180個のカプセルが入っている。一回5個を四回、一日20個のカプセルを飲むように言われた。9日間で無くなります。なんと、40,950円高い。この他、ドリンクのフコイダンも実は試してみた。6万はします。 これで、延命している人。奇跡的に治癒してる人のことがついていた。 その一人になれるだろうか。 この現実的に高い商品に、いやらしくも商売を感じる私。こんな気持ちでは、効くものも効かないのだろうか。複雑です。でも、何もしないよりはイイのではないかと思い頑張ってみる。
February 22, 2009
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調子がイイ日は 抗がん剤も身体から抜けてくると、かなり外を歩くときも目眩がしないので楽チンになるそんな日は、お出かけ。 病気だからといって、私は外に出るときはお化粧をしたい。いつ誰と会うかわからない。他人は、私をガン患者とは思わないので、極力頑張る。調子が良くないと、自分の化粧の匂いにやられ、吐きそうになるので、調子が良くないと出かけれない・・・。(誰も見てないっつーの・・・) でも、外に出た時に限り、混んでて座る場所がなかったり、子供が抱っことせがんだりとイレギュラーなことが起きてしまう・・・。家から出て、何度引き返したことか。でも、当時の写真を見ても、見た目には病気とわからないでしょう。 そう努力すること・・・私のプライドでした。
February 22, 2009
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H19.9 出血1クール目が終わり休薬期間もあと少し、となったころから痛みだけではなくなった。子宮からの出血です。もうトイレで、怖くなるのと同時に、自分の病気の進行の早さを実感し、胃から酸っぱいのがこみ上げてきた。実際、生理は病気が発覚する数ヶ月前から止まっていた。膣から子宮にかけて普通はやわらかくふさがっている状態だと思うが、私の膣から子宮はお風呂に入ると中にお湯が簡単に入っていくくらいただの筒になっているようでした。子宮の痛みはありませんでしたが、直腸の方はどんどん痛みが増していきます。この頃から痛み止めは欠かせない物となりました。また、徐々に出血が多くなってきているので、下着にナプキンというのも欠かせなくなりました。 腹膜播種、骨盤内一面に散らばるように転移している状態。 無数のガン細胞の中でも約4センチとなっている子宮と直腸の間にある腫瘍は、日に日に私の身体を奪って行ってるようです。一年は生きたい。しかし、このままだと、私の死は近い。
February 20, 2009
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TS-1の効果は・・・H19.8月から始めた抗がん剤。日々、口にするたびドキドキしていましたが、これが食欲はかわらず食べれるし、想像して吐き気を起こしていたのに、吐き気なんて全く無い。こんなに抗がん剤は楽だったとは・・・。あれよあれよと2週間が過ぎた。体調も安定したままだったので、自宅から通いでの治療となった。自宅に戻った時は、もう9月に入っていましたから、なんだか肌寒く風邪に気をつけながらの生活。でも、パパや子供達がいる生活が本当に楽しくて幸せを感じます。抗がん剤を飲み、1クール4週間を目前としたある日、近くのモールにバァバと子供達と買い物に出かけたときです。目の前の視界がグーーーーット狭くなり目眩が襲い皆の声が遠くから聞こえます。なんとか、バタっと行かないように座り込みました。途端、止まらな嘔吐。物凄い苦しくて苦しくて・・・・。今は、血圧が低下し貧血を起こした状態とわかりますが、その時は何が起きたかわからず本当に大変でした。子供達は泣き叫ぶし、バァバはアタフタして・・・4週間の期間飲み終え、休薬期間に入ったら徐々に目眩がひどくなり、外になかなか出れなくなりました。2週間の休薬期間。短けーよ・・・。しかし、抗がん剤を頑張ってるのに骨盤内の腫瘍が容赦なく夜な夜な痛みます。ウンチが出そうな気がして、一時間おきくらいにトイレに行きます。寝た気がしません。しょうがないので、3時や4時にもう起きて毎日のようにパンを焼きました。生地をこねってると、集中出来てなんとなく痛みがうせるのです。血液検査やCT検査などの結果を病院に聞きに行きました。腫瘍の大きさはさほど変わらないとのこと。安心。しかし、骨盤内の痛みがひどくなっているのは、やはり若干大きくなりつつあるのだろう。と言われた。自分でもそう思う。だって痛いもん、日に日に・・・。TS-1の効果は、やっぱり駄目かなぁ~。もっと飲んで頑張らないと。この時、H19年9月の私の目標は、1年生存を目標に頑張ることを決意する。頼むぞ・・・TS-1よ
February 19, 2009
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以外に元気 7月2日の手術から5日目、重湯から食事が始まった。 わたしの顔から、久しぶりに管類が取れてスッキリ(^_-)-☆ はは 体重32kg。 頑張ってたねぇ~~~~ しかも、この日は七夕だった。なんと、優しい看護師さんが病院の1階の飾りを私の携帯で撮ってきてくれた 嬉しかったなぁ~~~
February 16, 2009
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H19.7.1 手術前夜 最初の手術前夜。わたしは、まだこの時は手術が終わったら完治すると思っていた。 なんだか、嬉しそう。 この時、体重34kg。絶食中なので、首の静脈から高栄養の点滴で生命維持。小腸の(空腸)腫瘍が、腸を塞いでいて、唾液や胆汁が消化できず溜まっていくので、鼻から管を胃に入れてたえず抜いている。 驚くなかれ、なんとこの時点で、絶食40日あまり。 我ながら、スゴイ・・・・・・。
February 16, 2009
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H19.8 初 抗がん剤スタート一度退院するも、すぐにまた腹痛を起こし入院。この時は、数日で食事は摂れるようになり一安心。パパもなんとなく落ち着いてくれた。5月の入院から、パパは一日も欠かさず病院に来てくれた。どんなに、忙しくても必ず来てくれた。私は、遠くから来るパパの靴音がすぐわかった。背の高いパパの歩数がゆっくり来るのがわかるの。スニーカーの時はわからないけど、病室の入り口で必ず消毒する手の音ですぐにパパとわかる。カーテンから見えてきて、ほーらやっぱりパパだ。嬉しい。この頃の私の状態は。骨盤内の、一番大きい腫瘍がなんとも微妙な痛みを出すようになっていた。一番大きい腫瘍は子宮と直腸の間辺りにあるんだけど、嫌な表現をすれば、肛門から指を入れると肛門から3センチほどの所にあるので触れる感じ。直接は触れていないけど。この腫瘍が大きいので、いつもトイレに行きたい感じがするんです。たぶん、この頃は日に30回はトイレに行っては気張ってみることを何度もしてました。この腫瘍のせいで、大便をすると腸壁を便が擦って血が出るんです。トイレに行くたびに、便器が真っ赤になるんです。実は最初はこの状況がわからずに、先生に痔になったみたいと相談したんです。外科の先生にわざわざ病室に来て頂いて診てもらいました。今思うと、先生方はわかっていたはずなので、私の気持ちのままに接してくれて、ゆっくり説明してくれたんだと思います。手術から一ヶ月以上が過ぎ、お盆も病院で過ごしました。体調が安定してきました。いよいよスタートです。20ミリが一つのカプセル。TS-1です。一日80ミリ。朝二個夕二個。あさはかなもので、この頃は抗がん剤できっと腫瘍はなくなるんじゃないかと真剣に思っていました。まぁ今でもそうどこかで思いながら飲んでいますが。初めて飲んだ朝は、お昼の食事が来るまで、心臓が口の奥辺りでドクドク言って緊張して変になりそうでした。胃がんや大腸がんの手術が出来た方々で、再発防止の為にTS-1を飲むのはとても有効でしょう。私の場合は、沢山の転移してる腫瘍に、なるべく進行を遅らせる為に行う訳です。一番大きい腫瘍の大きさを基準に、抗がん剤を使用し、大きさが変わらなければ、効いているという事で続けることが出来る。しかし、少しでも大きくなれば、TS-1の効き目は無いということで、止めるという。なんだか、ため息が出るような内容です。はぁ~。心から進行よ・・・・止まってちょうだい。神頼みなんてしたことのない私。祈ってみた。
February 14, 2009
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小腸癌の患者数は?イレウスの症状も治まり、ひとまず退院し自宅に帰ってから、これからの私を考えるようになった。小腸癌の患者がいない為、薬など対処方法が極めて少ない。とりあえず、現在治療中の方がいないかネットで調べた。これが、いない。正確に言えば。一人いた。が・・・・。非常に私より状況が悪い。使っている抗がん剤等も一緒でした。その方は、同じ女性でしたが、私は空腸に腫瘍が出来たのにたいし、その女性は回腸に出来ている腫瘍でした。しかし、ほぼ転移のしかたも同じ。ただ、その女性は、今現在も私が恐れている、腹水が出来て苦しい状況にありました。今、過去の経験を綴っていますから、現在その女性のブログは閉鎖されてます。嫌な現実です。考えます。10万人に1~2人というなら、100万人都市なら10人~20人いる計算になると思うのです。これが、いないわけですよ。なんだか、恐ろしくなります。こうなると、私が身をもって色々な治療にチャレンジし開拓していかなければいけない。H19年8月初旬イレウスの退院後、セカンドオピニオン等をするべきか考え始めます。こうしてはいられない。
February 14, 2009
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イレウス退院してから、夏も本格的になってきた7月25日。朝方から、お腹に激痛が・・・・。もう、痛いなんてもんじゃぁない。消化器外科外来に駆け込んだ。たまたま手術をしてくれたU医師が担当。ラッキー。もう、説明なんて出来ない。しかし、そこは病院。こんな状態でも、CTやらレントゲンやら血液検査やらあちこち回される。救急車で来ればよかった・・・。マジで。結局、結果が出る前に、「はい、入院」。痛み止めでなんとか、会話が出来るようになったけど、あっという間に効かなくなる。病棟に行ったら、仲のいい看護士達が「お帰りぃ~~~。」オイオイオイ(--;)それどころじゃないっつうの~~。結果は、イレウス。腸閉塞です・・・だと。はぁ~~~これが噂の腸閉塞。もう下手な町医者より、色々な知識がある私。しかも、頭に入ってるだけじゃない、身をもって体験してるです。こんな体験してる医者はいないだろ。「我慢 我慢」、なんて言われ様もんなら、お前もなってみろ~~~と言いたくなる。鼻から管、バルーンを入れ腸をひろげて行くことに。この日から、食事がとれるようになったのは、一週間後。トホホです。このイレウス。なんと、この先も度々起こるなんて、このときはまだ思ってもいませんでした。
February 13, 2009
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H19.7.14 退院手術から、12日目に退院。お腹の傷もまず大丈夫。三日間、高熱と痛みに耐えた日から、こんなにも早く良くなるとは。人間の体の修復しようとする力は物凄いと思いました。退院をすることは、5月の入院から待ちに待ってたこと。気持ちは、嬉しいのが半分。どのくらい生きれるかという超不安なことが半分。微妙に交差してなんとも言えない気分。でも、看護士さんに見送られ、病院をあとにしました。次に病院に来るのは、一週間後の消化器外科&化学療法科の外来。まず帰ったら子供達とのスキンシップをしたいと思っていたのでお出かけをすることを計画。二人同時に連れて行くと、ママの取り合いになるし、私も体力的につらいので一人ずつ連れて行くことに2歳のゆったんは、まだ髪の毛も短くちっちゃい近所のショッピングモールにゆったんとお買い物。この日、ポテトを食べながら、一緒に撮ろうって言ってるのに、ふざけて撮らしてくれなかったキィ君恥ずかしかったようです。この日が、鮮明に思い出されます。チビちゃん達も本当に嬉しそうで、こうやって歩けて良かったと思いました。
February 13, 2009
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小腸癌・骨盤内転移H19年7月12日、手術から10日あまりで退院の説明がありました。早っ・・。私は、消化器内科・消化器外科から、化学療法科に移されました。化学療法???淡々と、医師から説明を受けました。小腸からこぼれた癌細胞は、骨盤内一面に転移していて手術は不可能ということ。今後は、自宅で自由に過ごすか、抗がん剤治療をしていくか・・・。しかし、医師がこんなことを言うのです。病院では小腸癌が初めてで、しかも世界的にも希な事。小腸癌に効く抗がん剤は今のところわからないということ。論文を見ながら医師は模索しています。主人と私と、医師の無言の時間がどれくらい続いたでしょうか。最初に口を開いたのは私でした。「子供は、まだ3歳と2歳です。少しでも母の仕事をさせて下さい。だから、全部の抗がん剤を試してください。」精一杯の搾り出した声でした。化学療法科の医師の部屋に入ってから二時間半がたっていました。小腸癌・骨盤内転移 腹膜播種7月2日の手術で、原発の小腸(空腸)、卵巣、一部横行結腸、等‥切除して、病理検査では、やはり進行性の悪性の癌。小腸癌から腹膜に転移してからの生存率はかなり低いとありました。もう、駄目か。病室に戻ってから、飾ってあった子供たちの写真を見ながら泣きっぱなし。寝れない私に、眠剤が渡されいつの間にか朝になっていました。もう、明日は退院の日です。
February 12, 2009
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H19.7.2朝、一番の手術。とうとうその日がやって来ました。チームリーダーの外科医師U先生が挨拶に来てくれて、自分のかみさんのつもりで頑張るからねって、言ってくれた。嬉しかった。ベットに寝たまま点滴をして状態で、皆に見守られながら私は扉の向こう側へ・・・。ここからは、まな板にのせられてるお魚さん状態(--;)次々と麻酔科の方々が作業をしてく。でも、この日を待っていた私は怖くなかったから、自分が頼んだバックミュージックをちゃんと聴いていた。でも、背中に入れた麻酔はちょいきつかったけど・・・。全身麻酔が入った。 もう、無・・・・。手術室に入る前に、パパが私の頭をなでながら、「大丈夫。大丈夫だよママ。これで良くなるからネ。パパがずっとついてるよ。安心して」お互い泣きながらバイバイして最後の別れのよう・・・・。あまりの激痛で目が覚めた。そうしたらビックリ!!!パパが大口開けて、ソファーのような椅子で、エビぞりになって寝てるではないかわたし的には、手術から目が覚めたら、パパの顔があって、「目が覚めた?大丈夫だよ。」みたいな感じがあるとばかり思っていたので、超、がっかり。でも、あまりの痛さにすぐ薬を入れてもらい寝た。ICUから二日後に出て、病室に戻ってからも痛みとの戦い。こんなに痛いとは・・・・。よく、TVで包丁で刺され死亡とかありますが、マジ死にます。これは・・・。この数日後、私はパパの口から衝撃的なことを聞いた。「腹膜全体に転移。取れなかったんだって。」どういうこと? え? どういうことなの? パパが外の方見て顔を拭いてる。泣いてるの?パパが泣いてる。 すべてが解かった。ごっそりとパパが、本を買ってきてくれた。グアム ・ バリ ・ ソウル ・ カナダ旅行雑誌です。グアムとソウルとバリはいつもお互いに仕事で行ってた場所。カナダは、死ぬまでにオーロラを見たいと私が言っていた場所。「グアム・ソウル・バリは、仕事だったから観光場所行ってないもんね」「俺がママにオーロラを見せに連れてくよ」笑いながら、パパは病室から仕事場へ出勤していった。言葉少ないパパだったけど、本当に意図するものが私にビンビン伝わってきてひしひしと現状を理解していった。「あぁ、死ぬんだなぁ。」 今日の私4日水曜日に5回目のWT-1ワクチンを接種してきてすこし痛いけど、抗がん剤が休薬に入ったので楽になってきたかな。今回の抗がん剤の副作用は粘膜障害が起きてしまい手のひらの痛み人工肛門の腸粘膜からの出血や口内炎が少し早く薬が抜けてくれるといいなぁがんばろう
February 6, 2009
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癌と言われ、カンファレンスルームから病室に戻って来る何十歩か、主人と手を繋ぎながら、「パパ、やっぱり癌なんだね。」・・・。手が氷のように余りにも冷たくて、パパは私の手を何度も何度もこすりながら、「だって病理検査では、まだ良性。手術してみないと解かんない。ママに限って、違うよ。」他にも患者がいる病室だったので、何も無かったかのように、やたら笑いながら病室に戻っていった。すご~く長い道のりに感じたなー。でも、泣くのを我慢した。すごい強がっちゃった。その後すぐ、パパは先生に呼ばれて廊下で何か話してる。もう怖くて怖くて、ベット脇に来たパパに、「なんだって?」って言葉が出せなかったの。聞いたらヤバイんじゃないのかなって。「手術したら、ご飯もちゃんと食べれるって。良かったね。」パパが話してくれた。このとき私は、腫瘍が腸を塞いでいるような状態で、絶食でした。生命維持は点滴。でも、普通の血管点滴では成人女性が一日に取らなくてはいけない栄養を取れないので(血管が壊れる)、首の静脈から高栄養の点滴を24時間ひたすら入れていました。まわりの患者さんの食事を、最初の頃は見れなくて(食べた~いから)、寝たふりをしてたけど、10日も過ぎた頃は食べるという行為は頭から無くなっちゃった。絶食は、40日ちょっと続くことになるけど・・・。手術日が決まり、H19年7月2日にしますって、消化器外科の先生が挨拶に来てくれた。すごく不安。でも、手術したら治るんだと思っていたから、どちらかと言ったら早くその日が来て欲しいと凄く思った。消化器内科の先生に、「私の腫瘍が悪性で本当に小腸癌だったら、治療方法はどうなるんですか?」って聞いたら、先生は、「この、病院に勤めてから初めてです。たぶん、病院では初めてだと思います。」「治療方法は、文献を見てみます。」はぁ~~~~~~~~???もう、どんどん色々考えました。この日から、ベットのカーテンを閉じては泣き、夜中も寝ずに毎日泣きました。子供は、3歳と2歳。どうして・・・・。毎日、毎日、毎日。泣いて泣いて泣いて。見舞いに来た人には、笑って普通に接して・・・。きっと、病気をした人はみんな経験してるんだろうなぁ~!?私は頑張れるから、みたいな振りをして、強がって。本当は、怖い。死にたくない。助けて~。笑ってる顔のお面をつけて、毎日泣く私、の始まり。携帯のインターネットで、何度も何度も小腸癌を検索してみたけど、本当にヤバイ。ベット脇にはフェイスタオルを三枚に増やし、泣く準備をして過ごす日々になっちゃった。 今日のわたしは抗がん剤も、6日目。奥歯が痛くなり、いきつけの歯医者に行って来た~弱いところにくるんだよね~もう嫌になるなぁ。それなのに、わたしったらしっかりエクレアを食べちゃった。本当は、ガン細胞はお砂糖が大大大好きダメだよねぇ~~~でも、美味しいよねぇ~~~~~~
January 27, 2009
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下の女の子が2歳3ヶ月を迎え、私も36歳の誕生日を迎えてから3ヶ月。私に異変が起きちゃった。前々から、貧血や体重が減ってきたとは思っていたけど、もう歩けない。食べれない。フラフラ頑張って病院に行った。でも、そこの先生ったら、心の悩みは?なんて言っちゃって、貧血の薬を出しただけで私は帰されちゃた。そんな~~~次の日も、もう限界でパパに送ってもらって病院行って、入院させてと直談判。(そんな病院あんの?)それから検査を繰り返すことになるんだけど・・・。わからないと言う。そうこうしているうちに、なんと31kgまで激減この状態で、何でもないなんてありえない。他の病院に救急で転院。胃カメラ・大腸カメラ・CT等などやっても、そこでも解からず。あきれた事に、ダイエットのし過ぎなんて言うんだもの、その先生がタヌキに見えてくる。病室に戻ってから、消化器内科の若い医師が、「この辺が変なんだけど」と私が指をあてた所を触診。顔色が変わった。なになになに!!!続々とあらゆる科の医師がベットのカーテン越しに立ってる。何やら話してて、なんと言うのか私は待ってたの・・。あなたの検査をする為には、小腸まで届くカメラが必要だから、一週間後にカメラが届いたら再検査ね!って。はぁ~、もう6回カメラ飲んでんのにその後、麻酔をして長~いカメラを飲んだ。カンファレンス後の先生に呼ばれた。約4cmの腫瘍が腸を塞いでる。おそらく、小腸癌です。10万人に1~2人で、今後のことは手術後、考えて行きましょう。36歳の私につきつけられた最悪の現実でした。 癌なんて。 今日の私は抗がん剤TS-1、今回、昨年の11月から、WT-1ワクチンという新ワクチンを打っているからか、結構飲み始めから気持ち悪いでも、今日も一日頑張った野菜のサプリも欠かさず飲んで、今日も寝ようっと
January 24, 2009
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