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〔番組の内容 2〕 いよいよ 全国水平社設立(1922年3月3日) に向けて西光らは大会への呼びかけのチラシを全国各地で配布した。 創立大会の宣言は西光が起草したものであるが、彼は部落民であることは決して恥ずべきことではないし、否定すべきことでもないことを訴えたかった。 西光は宣言にある一文を書き込んだ。「自分たちへの誇り」それはかつて「自分が部落民であることを隠し続けたつらい過去」を踏まえたものだった。 会場へは多くの人が集まってきた。しかし、部落民であることを隠してきた人々にとって、創立大会へ参加することは勇気のいることだった。 午後一時 水平社創立大会において「水平社宣言」が読み上げられた。「部落民よ団結せよ。われわれがエタであることを誇りうる時がきたのだ・・・」この宣言が読みあげられた直後の、満場の拍手の中で、参加者には「否定すべきことと思い込まされてきた現実」を正面から引き受けていこうという強い意志が共有されていった。 創立大会後、香川県で結婚を前提に女性と同棲していた男性が起訴される。裁判所は起訴を受けて部落民であることを隠してつき合っていたことは「誘拐罪」にあたる、という判決を下した。 司法の場で公然と行われた差別判決に対して、全国水平社は団結して闘った。判決は覆らなかったが、青年は仮釈放され裁判官は左遷された。 「水平社宣言」とその後の闘いは、人権を考えていく上では画期的な問題提起であった。 しかし、戦後も部落地名総監という悪質な文書によって行われた就職・結婚差別に象徴されるような差別は残り、いまだ解消にはいたっていない。 番組は最後に一人の女性を登場させる。 被差別部落で生まれたこの女性は、自分の体験を文章にすることで「命の重み」を訴え続けている、という。 この女性は20代の時、交際していた男性との間に子どもを身ごもった。そのことを男性に告げた瞬間、相手から発せられた言葉を一生忘れることができない。「今までのことはなかったことにしよう」「俺がすきでもお前らの家柄は悪いし血がにごれているからなあ」 出産後この女性は子どもと一緒に男性と出会い、「母子で東京にこれないか」「もう故郷には帰れないけれど」という申し出を受けた。男性はこの女性や子どもに愛情を感じつつも部落と関わろうとしなかったのである。 女性は自分たちを差別するこの男性を愛することができず、この申し出を断る。ひとりで子どもを育て始めるが2年後、子どもは亡くなる。 50年後、男性から電話がかかってきた。「子どもの写真を送ってほしい」という。 男性は泣きながら電話口で語った。「この世の中で俺の子は一人だけだった。わが子さえ差別していた俺はばちが当たっていた。あの世で子どもを抱ける父親になれるようがんばるからな。」この男性は半年後に亡くなった。 差別はされたものだけでなく差別したものをも深く傷つける。 女性は亡くなった子どもに語りかける。「父さんも悪かったって謝っていた。許してやってな。お母さんはもう少し生きて差別がいかに心を貧しくするか、親子さえも憎みあうことがあるんだということをみんなに話さにゃ死に切れんから・・・」 他人をおとしめ、自分自身までおとしめる差別。それはわれわれの日常の暮らしの中で形を変えながら今も繰り返されている。 西光万吉が水平社宣言の中で示した「人間は尊敬すべきものである」という考え・その精神は、「私たち一人ひとりが自分を、そして相手を大切にすべきであるという」原点としての輝きを失っていない。〔コメント〕 西光らの運動の出発点となった「論文」とは、雑誌『解放』1921年7月発行に載録された早稲田大学教授の佐野学による「特殊部落民解放論」。部落民自らが不当な差別の撤廃を要求し、その後労働者と連帯すべきと論じたものです。感激した西光たちは東京に佐野を訪ね、佐野も奈良の西光を2回訪ねたのだそうです。 近代が「確立」していった人権思想に照らして「現実の不当性に目を開き行動することを提起した人物」が当時の日本に存在したことは注目すべきでしょう。 ところで、近代思想家の中で私自身が高く評価しているJJルソーは「自由・平等」とともに「同情」の大切さを訴おり、この点では西光らの主張と対立します。 私自身もルソーに近い感覚があり、「同情」というのは「もし自分が同じ立場だったらどうだろう」「きっと情けなく悲しいことだろう」と想像するところから生まれる感情であり、決して全面否定すべきものではないと考えています。 確かに「同情ではなく共感すべし」という主張もあり、その意図するところは理解できるのですが、厳しい現実を「同じように体験することが原理的に不可能」である以上、簡単に「共感」などできるはずがないと考えるのです。 しかしながら、それでもなお「人間は尊敬すべきものだ」という西光らの言葉は圧倒的な迫力を持って迫ってきます。私たちが西光らの生涯(水平社運動)に触れることで沸き起こってくるのは決して「同情」ではないでしょう。「尊敬すべき人間たち」「その意思と呼びかけ」に対する共感といえるのではないでしょうか。(違和感を覚える表現について、微修正を加えました:2024年10月)にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.10.25
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前記事も受け、何らかの形で関連する過去記事をいくつか再掲したいと思います。〔番組の内容 1(放送日は2008年、4月)〕 いまから86年前の日本で、「人間は誰もが尊敬すべき存在である」とうたった宣言がつくられた。水平社宣言である。起草したのは西光万吉。彼は被差別部落出身の青年だった。 西光は部落出身であることを隠して生きるため18歳で上京する。(・・・)「部落民だということがわかったらどんなことになるんだろうと心配だった。」彼にとって部落民であることは恥ずべきこと、隠しておくべきことだったのだ。 そのような西光に転機が訪れた。1918年の米騒動である。生活に困窮した「部落民」からも「騒動」に加わる人がいた。警察は部落に対する徹底的な捜査を行い全国で8千人の検挙者のうち約9百人が部落民だった。 警察だけでなく、当時の新聞や雑誌も「部落民」の暴力を非難した。「部落民は伝統的に動物を殺すことを仕事にしてきた人たちの血筋だから、残忍な心を持っているのだ」(雑誌「一大帝国」)と。部落民であること自体が犯罪であるかのような理不尽な非難に西光は憤りを覚える。 差別され貧しさを強いられていた部落民が生きるために声を上げれば心根まで残忍だと非難される! しかし、振り返ってみれば自分自身差別から逃げたいあまり「部落民であることを恥ずべきこと、否定すべきことと考えていた。」そして、西光は決意する。「これからは自らが部落民であることと正面から向き合って生きていこう、」と。 こうして西光は故郷に戻るのであるが、何をどうすればいいのかわからない状況であった。しかし、ある学者の「論文」をヒントに「自分たちの力で現状を打破していこう」と一歩を踏み出す。 他方、大日本帝国の政府はいわゆる「融和運動」を始めた。 政府は部落民が反抗的であることは部落民の心根の中に問題があるとして、部落民の側が改善すれば世間の同情を受けて差別がなくなるといった「指導」をおこなった。西光はこのような政府中心の運動に強く反発したのである。 そもそも差別の原因が部落民にあるというその考え方が間違っているのだ。それを変えていくためには自分たちが声をあげ団結して行動を起こすほかはない。 こうして西光は「パンフレット」を作って全国各地へ働きかけ、集まった同士とともに団結のための組織をつくり「水平社」と名づけた。 1922年1月、西光はある新聞記者のもとを訪ねる。「部落民への同情や哀れみを呼びかけるような運動はやめていただきたい」新聞記者は納得しなかった。「私たちはあなたたち部落の人たちのためにやっているのだ。世間の同情を求めることの何が悪いのか。」 西光は机をたたいて訴える。「かわいそう、気の毒だから同情してやるという恩着せがましい態度こそが心外なのだ。そのような姿勢こそが部落民を見下しているのだ。」 そして西光は語る。「尊敬する気持ちを持って同じ人間を見てほしい、」と。西光の言う尊敬とは「人を家柄(・・・)等で見るのではなく、その人の個性を認め本質的に人が人と向き合うこと」だったのである 西光の訴えを聞いた新聞記者は、「同情してやる」といった自分自身の傲慢さに気づく。(「急に私自身が恥ずかしくなってきた」)人間は本来尊敬すべきものである、という西光の考えはこうして徐々に理解者を増やしていく。 全国水平社創立の2ヶ月前のことだった。〔コメント〕 ガンジーやキングのドキュメントもそうでしたが、現実を引き受け一歩踏み出していく西光の決意と行動が印象的です。(他者によって一方的に貼り付けられたレッテル・現実をまず決然と引き受け乗り越えていくことを主張したサルトルを思い起こすのは私だけか。) そして、人間は本来平等であり「尊敬すべきものだ」という西光の確信も、「人間相互が信頼し尊敬できる世界」を求め続けたガンジーの姿勢と共通するものがあるように思われます。 人間は「自分を認め、尊重してほしい」という根源的な願いを持っている、ということは200年以上前にヘーゲルが深く洞察していました。 そして、「一人ひとりがかけがえのない存在であり、尊重(尊敬)されるべきものだ」といった「人権思想」も「近代社会」が次第に確立し合意を形成していった「原理」です。 しかし、人間はその逆のことをなんと数多くしてきたことでしょう。「人間は尊敬(尊重)されるべきものだ」という原理が形式的にではなく確立されていくためには、西光のような多くの人々の苦しみと決意、そして長い闘いが必要でした。 それは、後世の私たちにも強い示唆を与えるものです。このような具体的な経験と現実に向き合う行動こそ、学校教育においても大きな説得力を持つものであると考えるのです。(違和感を覚える表現について、微修正を加えました:2024年10月)にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など1
2024.10.15
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法の本質など、一人ひとりの具体的でかけがえのない生と決して切り離すことなく深く描いており、考えさせられる番組だった。主人公寅子はその時々において「法の本質」を語るが、鍵となる言葉は三つ。最初の二つの内容は(録画していないため)記憶に頼って書いておく。 ①「水源」(共亜事件判決後の寅子の発言)法は「水源」のようなもの。特定の色に染められることなく、汚されず清らかさが保たれれば社会も個人も健全に守られる。 ②「人権」(戦後における寅子の発言)法は人々の基本的な権利を守るためのものであり、新憲法のもと、すべての人が平等に保護されるよりどころとなるもの。③「船」(最終週における発言)人の尊厳や権利を運ぶ船のようなもの。時に操作を間違えたり誰かを沈めることもあるが、漕ぎ手は船を修繕したり改造したりしながら進む。様々な人、すべての人たちが快適に過ごせるためには不断の努力が法をつかさどるものにとっては必要(末尾註)。 さて、前記事で私は「司法の独立」という民主主義の重要な原則において、明らかに日本が韓国に後れているという事実を指摘した。だが、「虎に翼」をとおして上記③に関連する事実=法をつかさどるものが「司法の独立」や「人権保障」に奮闘した事実にも目を向ける必要があると感じることはできた。番組で示されただけでも以下のものがある。・共亜事件(モデルは帝人事件)・・・検察の横暴で起訴された帝人社長ら全員に対して(事件そのものが存在しなかったとして)無罪判決がくだされた。・原爆裁判「賠償を受ける権利を明確にできない」など不十分な面を含みながらも、被爆者救済の道が開かれるきっかけとなった。・四大公害訴訟例えば新潟水俣病1971年の判決。「原因物質・汚染径路について様々の情況証拠により、関係諸科学との関連においても矛盾なく説明でき、汚染源の追求が被告企業の門前に達した時には、被告企業が汚染源でないことの証明をしない限り、原因物質を排出したことが事実上推認され、その結果工場排水の放出と本疾病の発生とは、法的因果関係が存在するものと判断すべきである」とされた。 ドラマでは、最高裁長官(桂場)による新たな法解釈として描かれた。・尊属殺重罰規定の違憲判決をもたらした「弁護人による陳述」「人倫の大本、人類普遍の道徳原理」に違反したのは一体誰なのか。本件において被告人はその犠牲者であり、被害者こそこの道徳原理をふみにじっていることは一点の疑いもない(・・・)。被害者の如き父親をも刑法第200条は尊属として保護しているのでありましょうか。かかる畜生にも等しい父親であっても、その子は服従を要求されるのが人類普遍の道徳原理なのでしょうか。本件被告人の犯行に対し、刑法第200条が適用され、且つ右規定が憲法第14条に違反しないものであるとすれば、憲法とはなんと無力なものでしょうか。(・・・)もはや、刑法第200条の合憲論の根拠は音を立てて崩れ去ると考えられるがどうでありましょうか。ドラマにおける弁護人山田よねの陳述は、明らかに上記に基づいて(台本が)書かれている。以上、司法機関に関係する個人・団体による奮闘は十分確認できるが、司法の独立・憲法の人権尊重などが押しつぶされた例も忘れてはならないだろう。1963 年「砂川訴訟」判決においては、高度な政治性を持つ条約(例えば日米安全保障条約)については、一見して明白に違憲無効でない限り、司法審査の対象外という統治行為論が採用された。この判決により、アメリカ軍の駐留は憲法違反ではないとされ、東京地裁の判決が破棄されたわけだが、2000年代に入ってから、砂川事件を担当した田中耕太郎最高裁長官(当時)が、判決前に駐日米国大使ダグラス・マッカーサー二世と連絡を取り合っていたことが、米国の公文書で明らかになった。これは、米国の圧力を背景に「司法の独立」を守れなかったのではないか、ということを疑わせる事実である。そして、その悪影響ははかりしれないほど大きかった。「憲法が最高法規で条約はその下」という、法体系の常識が日本の場合逆転してしまったのだ。ドイツやイタリアでなしえた米軍の「地位協定の改定」が極めて困難になっている大きな理由もここにあるだろう。「最高法規であるはずの憲法の上に、日米安全保障条約が存在している」ためだ。「地位協定」を本気で改定しようという意思が日本政府にない(なかった)ことは明らかだが、日米安全保障条約の下に憲法が置かれてしまった出発点は砂川訴訟の最高裁判決である。「統治行為論」として、憲法判断を回避したため憲法が安保条約の歯止めにならなくなったのだ。 さて、このような「統治行為論」は「法体系の常識の転覆につながった事例」といえるが、その他にも「検挙率」の高い日本において実に数多く生み出されてきた「冤罪」の問題。(袴田事件も象徴的であるが)仮に「死刑」が執行されなかったとしても、人生の多くの時間を奪われ精神的にも大きな負担を強いる「冤罪→服役による人権侵害」、あるいは「取り調べに際しての人権侵害」の例は、枚挙にいとまがない。 確かに「虎に翼」で描かれた家庭裁判所の活動のほか、例えば人間裁判と言われた朝日訴訟など司法にかかわる個人・団体による奮闘に目を向けることは大切だろう。しかしながら「不断の努力」によって改善していくべき課題はあまりに多いと言わなければならない。(引用者註)上記の下線部分「不断の努力が法をつかさどるものにとっては必要」については、違和感もある。「船を修繕したり改造したり」(法の改正や新たな制定)に責任を持つべきは判事や弁護士だけでなく、すべての主権者であると考えるからだ。第12条にもあるとおり「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」ものであること、さらにいえば私自身、「人民(国民)の主権」とは社会的な意思決定権であり、意思決定は原理的に代行不可能なもの」というルソーの見解が妥当だと考えているからだ。 2015年に集団的自衛権を容認する安保条約「改正」への反対運動が大きく盛り上がった際に国会で発言した奥田愛基も第12条に触れていたが、その後においても検察法改正法案(焦点となったのは「内閣や法務大臣が認めれば定年を3年まで延長できる」という規定が黒川検事長〔当時〕の恣意的な定年延長を正当化する問題)が、「ツイッターデモ」によって阻止されたことは記憶に新しい。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.09.30
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9月4日のBingNewsに以下のような記事が掲載された。(以下抜粋)NHK連続テレビ小説「虎に翼」の第112話が3日、放送され、ヒロインの学友、山田よねが弁護士として法廷に立つシーンが初めて描かれ、視聴者から大きな反響が寄せられた。・・・行われた裁判では、原爆投下が国際法に反しているかが争点となり(・・・)被告側の教授、嘉納隆義は、新兵器である原爆を想定していない国際法の規定を類推解釈すべきでないと(原告側に)反論した。反対尋問にたったよねは、・・・「いくつかの国際法に『戦闘における不法行為を行った国には損害を賠償する義務がある』と定められています」と述べた。そして、この義務は国家間にのみ発生するものかと確認。嘉納は、国際法の原則では不法行為による損害賠償は国家が請求するものだとし、個人が国に賠償責任を求めることも不可能だと答えた。その言葉によねは歩み寄り「主権在民の日本国憲法において個人の権利が国家に吸収されることはない。憲法と国際法および国際条約の規定と法的にはどちらを上位に考えればよいとお考えですか?」と再質問。戦時中に今の憲法は存在しないとはぐらかす嘉納に「原告は『今』を生きる被爆者ですが?」と詰め寄った。・・・(よねの)その姿に多くの視聴者がXで「立派になったなあ」「キレッキレ」「しびれます」などと感激。常に弱者に寄り添うよねの信念を改めて感じたという視聴者も多く「胸アツ」「朝から魂持っていかないで」「言葉に魂が籠ってる」といったポストも目立った。(抜粋は以上) 先入観がなければ、上記よねの発言は違和感なく納得できるものであろう。よねの主張を繰り返すと「主権在民・人権の尊重を基本原則とする憲法のもとでは、個人が受けた人権侵害に対して補償を請求する権利は国家に吸収されることはない」「憲法は国際条約の上にある」、というもので全く妥当な原則だ。実をいうとそれは、韓国の法廷が「朝鮮人徴用工が受けた被害(=賃金不払いや酷使・虐待)への日本企業による補償義務」を認定した根拠と同一である。本来ならば妥当な論理を「徴用工や韓国政府は日本企業に難癖をつけているだけ」という先入観によって否定しようとする現実はないだろうか。 基本的な論点は過去記事で整理しておいたので参照されたい。 黒部ダムだけでなく 「動員」された朝鮮人 | “しょう”のブログ - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)徴用工問題の「政治解決」について | “しょう”のブログ - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)確かに、日韓を問わず「政府」は戦時中や植民地支配のさなかに他国の民衆に与えた人権侵害・被害に対する賠償責任を否定する傾向にある。しかしながら、日韓の司法機関の違いについては明確にしておきたい。「政府の意向に忖度して判決が左右されてしまいがちな日本の法廷」に対して、相対的に司法の独立が実現しているのが韓国の法廷であることは、以下の例からも明らかだろう。韓国で「ベトナム民間人虐殺」裁判が大詰め 証言者に危険迫る懸念も|NEWSポストセブン (news-postseven.com)ベトナム戦争中、(米国の要請で出動した)韓国軍による残虐行為について、ベトナム人の視点からは非常にで痛ましい記憶が残っている。韓国軍は1964年から1973年の間に約32万人の兵士をベトナムに派遣し、多くの民間人に対する虐殺や暴行が行われた。(例:1968年2月12日にクアンナム省のフォンニ村・フォンニャット村で発生した虐殺事件がある。この事件では、韓国軍が無抵抗の村民約70人を殺害。)近年、ベトナム人被害者が韓国政府を相手に国家賠償訴訟を起こし、韓国の裁判所が韓国軍による民間人虐殺を事実と認める判決を下した。(韓国政府は当初、賠償責任を認めようとしなかったが・・・)ベトナム戦争民間人虐殺での賠償判決 韓国政府が控訴 | 聯合ニュース (yna.co.kr) ベトナム戦争虐殺での賠償判決 韓国外相「人権尊ぶ国として賢明に対処」 | 聯合ニュース (yna.co.kr) このような動きは、過去の出来事を再評価し、和解と正義を求める努力の一環として重要であろう。韓国の裁判所がベトナム人の賠償請求権を認めた根拠は、以下の点に基づく。1. 歴史的事実の認定:裁判所は、ベトナム戦争中に韓国軍が民間人に対して行った虐殺や暴行が実際に発生したことを認定。2. 人権侵害の認定:これらの行為が重大な人権侵害であり、国際法や人道法に違反するものであると判断。3. 被害者の権利:被害者が正当な賠償を受ける権利があると認められた。4. 国家の責任:韓国政府が当時の軍の行為に対して責任を負うべきであると判断された。これは、国家が自国の軍隊の行為に対して責任を持つべきという原則に基づく。 第二次大戦後、韓国は独裁体制から民主的な社会への移行に相当な年月を要したのは事実である。しかしながら現在、「司法の独立」という民主主義の重要な原則において、明らかに日本が韓国に後れているという事実としっかり向き合ったうえで、この社会の今後を考え、創造していく必要があるのではないか。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.09.07
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古市憲寿の発言が炎上しているという。以下のような内容も含めてらしい。 「知覧とか万世の特攻の資料館はよく行ったりするんですけど、特攻があったから今の日本が幸せで平和だっていうのはちょっと違うなと思っていて、むしろ特攻みたいなことをさせない社会にしていく必要があると思う」 「特攻の記憶を受け継ぐことはすごい大事なんですけど、それにただ感動して泣いて終わりにするんじゃなくて、こういう特攻みたいなものがもう二度とこの国に現れないようにするには『どうしたらいいんだろう』って、そういったきっかけになるような、そういうふうに平和を考えることがすごい大事かなって思います」。古市憲寿、メダリストの‘特攻資料館行きたい”発言に意見 「泣いて終わりにするんじゃなくて…」 - モデルプレス (mdpr.jp)https://mdpr.jp/news/detail/4352457 上記主張自体は全く当然と考える。著名人の発言を炎上させ、自由にものが言いづらい状況をつくる行為や空気はないだろうか。このたびはNHKのバタフライエフェクト『戦場の女たち』も題材にしながら特攻を考えたい。 この番組に登場したのはソ連初の女性航空士マリーナ・ラスコーヴァ、女性狙撃兵リュドミラ・パブリチェンコ、ドイツの天才飛行士ハンナ・ライチュなど。ライチュはテストパイロットを繰り返してナチスの兵器開発に協力、爆撃の命中率を高めたという。 興味深い場面やメッセージは数多くあったが、このたびは「特攻」に関連する部分だけをとりあげたい。上記のように、テスト飛行を繰り返し急降下爆撃の実現に貢献したハンナ・ライチュだったが、ドイツ軍の敗色が濃くなる中で、新型の爆弾(時速600キロで飛び、大きな破壊力をもつ爆弾)の命中精度を高めるため、それを人間が操縦することをヒトラーに提案したという。 飛行士は命中の直前に脱出することが想定されていたとはいえ、事実上の特攻(自爆)作戦である。彼女の提案に対してヒトラーは次のように応じたという。 「生きて帰還する可能性を兵士たちに残すべきではないか」と。どうだろうか。あのヒトラー(第二次大戦や障がい者・ユダヤ人の虐殺を引き起こし、およそ人権感覚などなかったと思える)の言葉がまともに聞こえるではないか。 このようにヒトラーでさえも躊躇した特攻(自爆)作戦を実施・継続した大日本帝国(その指導者たち)をどう見るべきか、ということである。「人間魚雷回天」もそうであるが、「志願」という名のもとに実施された、人類史上まれにみる非人間的な作戦というべきであろう。(爆弾を持ったまま戦車に飛び込む「陸上特攻」も本質的には同じ。) ここで、同じNHKの「ドラゴン桜」で吠えた桜木の発言を思いおこしたい。「『国はな お前らにバカなままでいてほしいんだ それが本音なんだ何にも疑問も持たず 何にも知らないまま調べないまま ただひたすら 制度の下で働き続け 金を払い続ける国民であってほしい、それを別の言葉で言い換えると何だ?馬車馬だ、国はお前らには ただひたすら 黙々と馬車を引く馬車馬であってほしいんだその方が都合いいからなどんなに努力しても どんなに力を振り絞っても 本質を見抜く力がなければ 権力者と同じ土俵にすら立てないんだ ルールを作るやつらはな この状況がおいしいから こういう仕組みにしてんだ(・・・)なぜ社会はこうなってんのか 誰がどんな意図で このしくみを作ったのか 本質を見抜き自分なりの答えを出す力をつけろ」 上記セリフの中で(・・・)に入る言葉は、「自分は関係ねぇからなんて言ってたら、一生騙されて高い金払わされ続けるぞ」である。しかし、国が差し出すことを求めるのは金だけなのか? 状況によっては「命までもすすんで(喜んで)差し出せ」と要求してくることは歴史が証明している。そして、すすんで差し出すのが当然という「空気」をつくりだすために利用されたのが「国のために戦って死んだ者は『英霊』として永久に讃えられる」という物語である。 桜木の言うように、全ての政治家が「国民は馬鹿なままでいてほしい」と願っているわけではなかろう。しかし、残念ながらそのような「権力者」は現在も存在しているようだ。われわれは騙され続けることなく「本質を見抜く力」をつけるためにも、しっかり歴史に学ぶ必要があるのではないか。 特攻作戦などを、実行(積極的に募集)し続けた軍(国家)上層部の戦争責任はもちろん、多くの若者を戦場に追いやった「教育の戦争責任」も忘れてはならない。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.08.16
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昨日(6月15日)、数人の仲間とともに標記の映画を視聴した。 ジョン・ラーベ ~南京のシンドラー~ (2009):作品情報|シネマトゥデイ)予告編 視聴にあたって作成したメモと、感想を紹介したい。Q ジョン・ラーベ(John Heinrich Detlef Rabe)とは? ドイツ人商社員であり、シーメンス社の中国駐在員(のちに中国支社総責任者)として約30年にあたって中国に滞在。彼は日中戦争の「南京攻略戦」時に、民間人の保護活動に尽力した。Q 彼の行動は?1937年、日本軍による「南京攻略戦」の際、ジョン・ラーベは十数人の外国人と共同で組織した南京安全区国際委員会委員長となり、中国民間人の保護に努めた。彼は(映画の予告編にもあるように)自分の所有する土地にハーケンクロイツ旗を掲げ、600人あまりの避難民(民間人)を戦禍から守ろうとした。〔すでに1936年に「日独防共協定」、1937年11月(「南京事件」直前)に「日独伊三国軍事同盟」成立〕。南京陥落後は、約20万人ともされる中国人避難民が殺到した安全区(南京城内の北西部に設置された外国人の施設や邸宅が多くある地区)の代表として、非人道的行為の防止に尽力。Q 彼の行動は(細部も含めて)なぜ明らかになったのか?帰国後、ラーベは日本軍の残虐行為を喧伝し、ヒトラーに上申書を提出。日本軍の行動を改善するよう働きかけたが相手にされず、ゲシュタポに逮捕されるなど苦境に立たされた。彼は失意の中で戦時中の日記を清書し、のちに孫のトーマス・ラーベおよびエルヴィン・ヴィッケルト(元ドイツ中国大使)によって出版された。2009年にはドイツ・フランス・中華人民共和国合作による映画『ジョン・ラーベ 南京のシンドラー』が公開され、彼の活動が映画化された。原作(日記)からは大幅に脚色されているものの、ラーベの人道的な行動が描かれている。朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう)・・・1937年12月2日、上海派遣軍司令官となり、直後の「南京攻略戦」に参加、現地にいたこともあって、いわゆる南京事件の実際の責任者の一人として疑いが持たれている。1937年の「南京事件」後、日本軍内で「慰安所」の設置を要望する強い意見が出された。「慰安所」は、性病予防や占領地での日本兵による「女性への暴行事件」への対策、戦意の向上、軍の機密保持などを口実に設置されたが、現実には・・・。Q ラーベの日記から想起される南京事件、戦争の恐怖を映像で追体験できる「劇映画(フィクション)」にもかかわらず、なぜ劇場で上映できないか。(この部分は朝日新聞社「論座」の趣旨を要約)右翼などによる暴力的な抗議や上映妨害が、市場原理(集客困難)とリンクして、自主規制へ追い込むという現実がある。1997年、事件60周年を機に日本公開となった『南京1937』が右翼団体によってスクリーンを切られるなどの上映妨害が起こった。(同時期、東京裁判を批判する『プライド・運命の瞬間』は全国公開された)。日本政府も歴史的事実としては公式に認めているにもかかわらず、事実そのもの・加害を否定する側の言動はいまなお激しい。加害性にこだわる個人を攻撃するのに、マスメディアでも当たり前のように使われるようになってきたのが「反日」という言葉。特に『ジョン・ラーベ』の場合、香川照之演じる朝香宮鳩彦王(上海派遣軍司令官)が捕虜虐殺を暗に命じるシーンがあり、「南京」と「菊」の“ダブルタブー”に触れるため、最初から「上映は無理」との見方が映画関係者の間であったという。※杉原千畝(1939年、ナチスに迫害されてリトアニアに逃れてきたユダヤ人6000人のビザを日本政府の了承がないまま発給)は映画化・上映されているが・・・。〇日本での視聴について 劇場での上映はなされなかったが、2014年以降市民による自主上映会は複数回行われた。有名な俳優が数多く登場していることもあり上映権は高額になるが、家庭で視聴するためのDVDは現在、比較的容易に入手できる。〇象徴的な言葉や場面、感想(一部ネタバレ)・ラーべが人道的で勇敢な「英雄」ではなく「普通の人(普通のナチ党員)」という設定。冒頭リンクの作品情報には「全編に漂う緊張感」という言及があったが、私が強く印象づけられたのは「日々行われる捕虜と市民の殺害に対してどうしようもない(安全区メンバーの)無力感」だった。「安全でない安全区に何の意味があるのか」、あるいは「日々運び込まれる重傷患者に対して麻酔もなくまともな治療ができない」という圧倒的な無力感である。そして、ラーベとウィルソン医師(ナチ党員のラーベ嫌っていた)とが、そのような無力感と弱さを共有しつつ手を結んでいく場面が強く印象に残った。 さて、1937年の南京ほどではないにしても、私たち自身「変えようがないと思える現実」の前で圧倒的な無力感を覚えることがあるのではないか。その点では、この映画は極めて特殊な場面設定とはいえ、ある種の真実・人間にとっての普遍性を感じさせるものがある。 どうにも動かしがたい現実に圧倒され、無力感に押しひしがれる状況の中でも、われわれは「ささやかなつながり」を創りながらその現実に向き合うことができるのではないか、「たとえ小さくとも一歩を踏み出す勇気が大切なのではないか」、そのようなメッセージを私は「ジョン・ラーベ」から受け取れたように思う。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.06.16
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以前から私は、「日清戦争」に明確に反対した勝海舟(日清戦争のはるか以前、「征韓論」「江華島事件」「台湾出兵」の時点においても東アジアへの高圧的な政策に一貫して反対)を高く評価してきました。そして、松浦玲の『勝海舟』(筑摩書房)を重要な資料としつつ、日清戦争の授業実践にも活かしてきました。私が知る限り、勝海舟というのは日清戦争に明確に反対した「唯一の著名人」です。日露戦争であれば、それに反対した幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三などは日本史の教科書にも明記されていますね。ただ、以前から腑に落ちなかったのは内村鑑三の態度でした。 彼は、日清戦争時点では戦争に賛成していたらしいがなぜだろうか。「キリスト教の人道主義の立場」からの非戦・反戦であれば、日清戦争に賛成する理由はないだろう。また、日清戦争に賛成、日露戦争に反対、という彼の態度が「キリスト教の人道主義」だけで説明できないとすれば、明確に非戦・反戦の立場にいたった決定的な要因は何なのか? 数か月前に読んだ『日本精神史 近代篇』(長谷川宏著)の第五章を読んで、「初めて腑に落ちた」、という感覚が得られました。関連する部分を引用することで理由を提示したいと思います。 〔以下、引用〕この時期(日清戦争勃発の時期:引用者)、ナショナリズムの嵐はそれほど強く、日本を席巻していたということだろうが、席巻のさまを伺うもう一つの事例として、明治の特異なキリスト者内村鑑三の『日清戦争の義』と題する論文がある。〔内村1〕「吾人(われわれ日本人が)朝鮮政治に干渉するは、彼女(朝鮮のこと)の独立いまや危殆(きたい)に迫りたればなり。世界の最大退歩国(中国のこと)が・・・彼女を抱懐し、文明の光輝すでに彼女の門前に達するにも関せず、・・・なお彼女を支配すればなり。・・・日本の勝利は東洋六億人の自由政治、自由宗教、自由教育、自由商業を意味し・・・。」福沢の場合(「日清の戦争は文野の戦争なり」)もそうだったが、内村のこの文でも日本が文明、自由、進歩の側にあり、中国が惨虐妄行(野蛮)、蟠屈(不自由)、退歩の側にあることはいささかも疑われていない。・・・ 日清戦争の始まるころに「日清戦争の義」を書いて日本の出兵を義戦として肯定した内村は、戦争の終わるころには日本の義に疑いを抱き、以後、一貫して戦争の非を説き続け、日露戦争においても・・・戦争否定の態度を貫いた。〔内村2「余が非戦論者となりし由来(三)」:由来の一が新約聖書の研究、由来の二が争闘を自制して心の平安を得たという個人的な体験〕「わたしをして非戦論者とならしめた第三の動力は、過去十年間の世界歴史であります。日清戦争の結果は、私につくづくと戦争の害あって利のないことを教えました。その目的たる朝鮮の独立は返って危うくせられ、戦勝国たる日本の道徳は非常に腐敗し、敵国を征服しても『足尾銅山(鉱毒事件を引き起こした:補)経営者』のごとき国内の荒乱者は少しもこれを制御することができなくなりました。これが私の見た戦争(戦勝)の結果であります。もしそれ、米国における米西戦争の結果を想いますれば、これよりもさらにはなはだしいものがあります。米西戦争によって米国の国是は全く一変しました。自由国の米国は、今や明白なる圧制国となりつつあります。現役兵二万で充分としてきた米国は、今や世界第一の武装国になろうと企てつつあります。そうして米国人をこの思想の変化に導いた社会の腐敗堕落というものは実に言語に堪えないほどであります。この堕落をもたらした直接なる原因はいうまでもなく米西戦争です。」 引用の前段では、朝鮮の独立を大義名分として日清戦争を戦った日本が、戦勝後に自ら朝鮮の独立を侵す政策を実行し、国内においても戦争のゆえにかえって道徳的な腐敗が進んでいることを指摘し、もって非戦論の論拠としている。そして後段では目をアメリカに転じ、1898年のアメリカスペイン戦争がアメリカ合衆国を自由国から圧制国と一変させ、帝国主義国家の一員としていたらしめた事実を指摘して、非戦論のもう一つの論拠としている。戦争が、とりわけ戦争に勝つことが人々の冷静な判断力を低下させ、道徳的な腐敗を招くという観察は鋭い。そこには高揚するナショナリズムに危うさを見て取る国の枠を超えた普遍的にして公正な目が働いている。また、後段でアメリカスペイン戦争を視野のもとにおいて自由国をも惑わす戦争の魔力に警鐘を鳴らす目配りの大きさは、日本の言論会にあって、内村を独自の思想家たらしめる特質だと言えよう。 〔引用は以上〕上記の長い引用に多くを付け加える必要はないでしょう。内村が非戦を自らの明確な立場とするに至った理由としては、確かに(通説の通り)新約聖書の研究をとおして獲得した「キリスト教的人道主義」があったわけですが、その視線は「神の思想」だけでなく「地上の現実」にしっかりと注がれています。「朝鮮の独立を大義名分として日清戦争を戦った日本が、戦勝後に自ら朝鮮の独立を侵す政策を実行し、国内においても戦争のゆえにかえって道徳的な腐敗が進んでいる」現実、「アメリカスペイン戦争がアメリカ合衆国を自由国から圧制国と一変させ、帝国主義国家の一員としていたらしめた事実」をしっかりととらえ、それに向き合いつつ非戦の立場を明確にしているのです。 『日本精神史 上・下』も素晴らしい内容でしたが、このたび読み始めた『日本精神史 近代篇』、「大きくうねる時代に呼応する思想・文学・美術・文化に現れる『精神』を描く」長谷川宏の力作です。とおり一遍の「教科書的知識」を超え、「時代の勢い」「ナショナリズムの嵐」に抗する強靭な精神をも明確に跡付けており、多くの人たちに読んでいただきたいとあらためて思いました。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.02.21
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 「ブラタモリ」(黒部ダムの建設をめぐる)前記事で、この難工事に多くの朝鮮人が動員され犠牲になったことに触れましたが、「1945年への道 そもそも徴用工って何?」では、日本側の資料に基づいてその実態が分かりやすく説明してありました。内容は全く妥当であると判断しています。 ぜひ、動画をご覧いただければと思いますが、主な内容を「文字化」してみましたので、ご一読いただければ幸いです。 Q そもそも徴用工とは?A 朝鮮半島から「動員」されて、大日本帝国内で労務にあたった(労働させられた)人々ここでは「朝鮮から日本への労務動員」に絞る。朝鮮から日本への労務動員とは、普通は国家総動員法に基づく労務動員実施計画で動員された約72万人の男性労務者のこと。(逃亡があったため実数67万人というデータも)Q この「動員」の時期は? A 1939年から45年。Q 主な動員先は? A炭鉱(それ以外は工事現場と鉱山)韓国では実態が強制だったものはすべて徴用と呼ぶ。日本政府は「徴用はわずかな期間だけ。あとは自由契約だ」と主張するが、募集も実質は強制だった。Q 問題点は?A 多くの人は強制的に動員された。(全員ではないが)最初は募集。最初の年だけは干ばつで、朝鮮でお米が不作だったため応募が殺到した。(だが、求人条件に嘘があったら自由な意思で契約したとは言えない。)Q 嫌なら辞めればいいのでは? A 強制労働とセットだからそうはいかない。動員が始まった半年後に「特高警察」がさまざまなトラブルをまとめている(求人条件と実態が違うとして起こった紛争も報告されている。)Q 募集による労務動員というタテマエだった頃から、既に実際は当局が強制的に動員したことを示す当時の文書がある。例:「実務は朝鮮官憲によって強制供出する手はずになっている、すなわち警察において、割当数を必ず集める。」(募集した企業がこういう認識だった。)1942年からは官斡旋と言って当局が正式に応募者を斡旋したが、年を追ってどんどん強烈な強制になった。1944年には朝鮮総督府の官報にこう書かれている。「労務に応じて希望の有無を無視し、各行政機関に供出を割り当て(強制供出)させていることは問題だと総督府のナンバーツーが説教した」ということだが、焼石に水。Q 実態は?A その三か月後に朝鮮を視察した東京の役人の出張報告によれば「出動は全く拉致同様、夜襲、誘い出し、その他の方策を講じて人質的掠奪・拉致の事例が多くなる。」(口が裂けても自由契約なんて言えないが、これが「官斡旋」。)そして44年9月からは正式に徴用開始。これは文句なしに強制。Q 2つ目の問題点は? A 強制労働。退職の自由がなかった。(縛りつけられていた)Q 縛った方法は?A1 日本に連れてこられた労務者は全員「協和会」という組織に加入させられた。協和会の会員証には職場がどこだと書いてある。会員証に書かれた職場と違うところにいたら捕まって連れ戻された。A2 宿舎を塀や鉄条網で囲って閉じ込めた多くの記録がある。Q 全部そうだったのか?A 監禁・軟禁は動員先によって違うが、強制貯金は全国共通。朝鮮総督府のマニュアルに生活費以外は貯金させろと書いてある。(貯金通帳を取り上げたら逃げにくい。)資料:業界団体が朝鮮人労務者の扱いのアンケートをまとめた冊子(日立鉱山の回答)「通帳は会社事務所が保管し、特別の事情がなければ、預金の払戻の取り扱いをしない。」Q 酷使虐待の実態は?A 場所によってさまざまだが、酷使は長時間労働休みなし。病気でも無理に出勤させる。朝鮮人労務者の大半は肉体重労働に回されたから長時間労働はなおさら危険。官報の統計によれば、一番きつい採炭夫に優先的に回されている。具合が悪いと申し出ただけで殴られたり蹴られたり、そんな暴力的酷使虐待が日常化していたことは、特高警察の月報にも残っている。殺した事例もある。※ 以上のような加害者側の記録が被害者の証言を裏づけている。Q 賃金不払いの実態は?賃金から寮費、食費を天引きし、それ以外は国元への送金と貯金。※国元への送金があまり届かなかった会社が一括送金する約束だったが、真面目に送金しなかった会社が多かったため。(国元の家族は働き手を取られ、お金も入らずめちゃくちゃになった。) Q 終戦で動員が終わった後は?A 貯金やら何やらきちんと清算しなかったところが多い。不払いの総額はわかっているだけで2億円近いとする政府の資料もある。(当時の金額)Q 戦後の対応は?A 終戦直後を除いて不払い賃金も賠償もいくつかの例外を除いて何も払ってないし、払うのをとことん拒んできた。なかったことにしようとする連中まで出てくる始末。これは朝鮮人労務者の慰霊碑を立てる事が出来た数少ない例(群馬県) 県庁がこれをどけろと言って裁判になっている。周りには強制連行は嘘だと言って史実を歪めようとしている連中がいる。史実が史実だと示すために今回は日本側の資料に絞って出した。が、実際の現場では生身の人間の血が流れた。その有様を知るには少しでもいいから被害者の証言を素直に読んでほしいと思う。ましてなかったことにさせてはいけない。 群馬県による撤去(代執行)に反対する声明 関連する東京新聞の記事 群馬・朝鮮人追悼碑の撤去、海外からも撤去反対の声 200人超署名 (msn.com)(社説)朝鮮人追悼碑 知事は撤去を中止せよ:朝日新聞デジタル (asahi.com) 2024年1月29日、ついに県による撤去作業が始まりました。遺憾というよりも恥ずかしいです。「戦後50年」の節目に来日したワイツゼッカー(もと西ドイツ大統領)が、「自らの非も含めて勇気をもって歴史と向き合う」ことを訴えていたことを思い出します。(1.29付記)群馬の森「朝鮮人追悼碑」代執行で撤去方針…それで「政治的な紛争」はなくなる? 抗議が止まらない理由とは:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp) 撤去直前の東京新聞の記事も上記に加えました。(2.4付記) 「戦後処理の問題」にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.01.28
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) ブラタモリは、私が好んでいるNHKの番組だ。 それぞれの地域の特徴を「ぶらぶら歩きながら、タモリが色々な問いかけ(地理的、地学的、歴史的問いかけ)に応え解き明かしていく」という視聴者の好奇心をかき立ててやまない番組。1月20日(土)に放送されたのは「秘境!黒部峡谷」の2回目だった。 前週は「絶景」を強調する回だったが、このたびは近々観光客にも開放される「黒部峡谷鉄道」に乗って、黒部ダム(とりわけ黒部第三ダム)の建設がいかに難工事だったのかを知らせ、考えさせる内容だった。 前回以上にわかりやすく素晴らしい内容だったともいえるが、「先人の膨大な労力によって戦後の発展も支えられた、すごいなあ」と無邪気に感動するだけで済ませてはならない問題が伏せられており、「いったい誰がその難工事に立ち向かったのか」を深める問いがなかったのは残念だった。 以下、紹介していきたい。 素晴らしい絶景のなかにある黒三発電所が完成したのは1940(昭和15)年。日本が戦争に向かっていく時代と説明されていたが、すでに「日中戦争のまっただなか」である。当然、軍需工場をフル稼働させるためにも膨大な電力が必要で、黒三の建設計画は重要な国策だったが、ダムの建設は困難を極めた。 難工事を実感させる当時の映像によれば、当初資材は断崖にかろうじて通れる幅の道をつくり、そこを歩いて人力で運ばれていた。地形があまりに急峻だったため、トロッコの線路を延長することができなかったわけだ。(当然、転落事故もあっただろう:引用者)。このように膨大な時間と労力(と人命)を費やす状況を打開するために、トロッコをそのまま高い位置へ引き上げるエレベーターがつくられたという。 大型の重機もない時代につくられた200メートル以上の巨大エレベーター。(それ自体が相当な難工事だったと考えられる。) 工事をさらに困難にしたのが「高熱隧道(すいどう)」だった。二つの地層の境目から湧きあがったマグマによって岩盤が熱せられた結果、60℃近い熱気の中、後ろから水をかけてもらいながら20分交代で24時間掘り続けられた。(番組では紹介されていないが、高熱のためにダイナマイトが自然発火して爆発する、という事故もあったという。) 番組で、第三発電所のダムについては大量の電力を供給することで軍需産業だけでなく戦後の復興期においても人々の暮らしや産業を支え続けた、とまとめられた。 しかしながら、番組の途中・終了後に私が気になったのは、この工事にたくさんの朝鮮人労働者が「動員」され、犠牲になった事実があったのではないか、ということである。日本人男性が次々に徴兵される時期の「国策事業」だけに、当然予想できることだ。博学のタモリのこと、おそらくそのような問いが発せられれば容易に思いいたったと考えられる。が、この番組においては最後までそのような問いが発せられることはなかった。NHKが関東大震災時における「朝鮮人虐殺」について、逃げることなく真っ向から扱っていたことを評価していただけに残念だった。 調べた結果、私が思ったとおり多くの朝鮮人労働者が動員され、たくさんの犠牲者を出していたことを中日新聞で確認できた。堀江節子によってまとめられ出版された「黒三ダムと朝鮮人労働者」、是非読んでみたい。 ⇒ 黒部ダムだけでなく、朝鮮人動員の史実にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.01.21
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 2023年9月1日、関東大震災から100年の節目にNHKが標記の問題提起を行いました。(「時論公論」)「福田村事件」をとりあげた「クロ現」もよかったですが、時論公論は現在おこっている問題と結びつけて、虐殺の歴史的事実から学ぶべきことを指摘していました。重要な視点だと受け止め以下に紹介します。〔番組の要旨〕 関東大震災から今年で百年。この震災の混乱の中、流言を信じた市民や軍警察によって、朝鮮半島出身の人たちが数多く殺害されるという事件がおこる。 この惨事がなぜ起きてしまったのかを振り返ると、「百年前のことだ」と切り捨てることはできない。現在の災害やコロナ禍での状況に通じる問題が見えてくる。Q 歴史的事件をどう見るか? その教訓とは? 1923年9月1日に発生した関東大震災は、激しい揺れに加え、大火災が東京東部や横浜の市街地の大半を焼き尽くし、死者10万5千人という未曾有の災害になった。その混乱の中、多くの朝鮮半島出身者が殺害された。きっかけは地震の直後から流れた流言、いわゆるデマだった。「朝鮮人が井戸に毒を入れた」、「2000人の朝鮮人が武器をもって襲ってくる」など、根拠の無い嘘の情報は、市民・国・新聞の3者の間で増幅し、殺害行為をエスカレートさせた。(急速に広がった流言を国も公式に発信し、市民をたきつける結果になった。) 国の治安のトップ-内務省警法局長が「朝鮮人が各地で放火し、爆弾を持っている者もいるので、厳重に取り締まるように」と言う通知を全国に発信。新聞も流言を鵜呑みにし、非常に多くの嘘の記事を掲載。この流言を信じ、棍棒や日本刀・猟銃等で武装した市民による自警団や場所によっては軍警察が朝鮮半島出身者を殺傷。ほどなく国は流言に根拠がない事に気づいて否定にまわり、警察は、朝鮮半島出身者の保護に乗り出すが、保護された人たちを市民が襲って殺傷するなど、暴行はすぐには収まらなかった。殺害された正確な人数はわかっていないが、国の中央防災会議がまとめた報告書は千人から数千人にのぼると推定。この中には中国人や朝鮮半島出身者と間違えられた日本人も含まれている。Q なぜ市民は朝鮮半島出身者を襲ったのか?A 「報告書」は殺害の背景に、当時、植民地支配されている朝鮮人の抵抗運動に恐怖心があったこと、朝鮮人への無理解や差別意識があったとしている。Q 裁判はなされたのか?A 震災直後に朝鮮半島出身者233人を殺害した罪で367人が起訴されている。噂を信じて、朝鮮人が自分の村に来たら村の為に害を除こうと思ったという供述もあった。専門家は差別意識に加え、共同体のために役に立ちたいという気持ちが殺害に繋がった面もあると指摘。Q 大虐殺否定論は?A 近年、文筆家や活動家などから朝鮮人による暴動や破壊活動は起きていて、自警団の行為は正当防衛だったなどとする主張が出て、ネットなどで拡散。Q 歴史学者やジャーナリストによる反論、その根拠は?A1 震災後(当時)の司法省の報告書は「朝鮮人による一定の計画のもとに脈絡ある非行はなかった」と暴動などを否定。A2 神奈川の警察責任者(当時)は「朝鮮人が悪事をしたという流言を徹底的に調べたが、ことごとく事実無根だった」としている。A3 震災当時、犯罪で有罪になった朝鮮半島出身者は十数名いたが、罪は窃盗など軽いものだったこと、日本人による殺害の直接証言が非常に多くある一方、「朝鮮半島出身者による暴動や破壊活動を直接目撃したという証言はない」。〔結論(反論の)〕・長年の研究によって実証されている事実を捻じ曲げ、(虐殺を信じたくない人たちが)自分たちに都合の良い嘘の歴史を広めている。Q 百年前のこの事件は社会状況が全く違う今日では起こり得ないのか?A 残念ながら大災害の度に、ネットなどで多くの流言が流れている。東日本大震災の被災地では、「外国人窃盗グループが横行している」「遺体から金品を盗む外国人がいる」などのうわさが流れ、警察は避難所を回ってそのような事実はないとするチラシを配り、打ち消しに追われた。Q 災害時の流言は広がったのか?A 流言を多くの人が信じ、広げた。東北学院大学の教授が仙台市と東京都の944人を対象に行ったアンケート調査の結果。「外国人が被災地で犯罪をしているという噂を半数の人が聞いていた。」そしてその噂を信じたかたずねた所、「86%の人が信じたと答えた」。震災の混乱と強い不安の中、普段なら疑うであろう流言を信じてしまう心理状態が広がったことがうかがえる。Q コロナ禍では?A1 外国人などへの攻撃がネットなどで横行。横浜中華街には感染が広がり始めてから、中傷の電話や手紙、メール、落書きなどが相次いだ。「中国人は日本から出て行け」「ウイルスを広げるな」など、事実無根の攻撃が数十件に上った。さらにSNS上には数え切れない非難やデマが流れ、二年間にわたって続いた。中傷を受けた関係者は「人間を否定される一番強いヘイト攻撃でサンドバッグ状態にされ、いつ終わるのか分からない恐怖があった」と話す。 A2 コロナ禍によるうっぷんを外国人に向けた凶悪な事件もあった。一昨年8月、在日コリアンが多く暮らす京都府宇治市のウトロ地区で倉庫が放火され、住宅など七棟が焼けた。逮捕された元病院職員の男は、ネット上でウトロ地区の人たちが土地を不法に占拠しているという誤った情報・流言を読んで一方的に不満を募らせ、わずか10日後に犯行に及んでいた。NHKの取材に対し。「朝鮮の人たちに直接話を聞いたり、関わったりしたことはないが、在日コリアンに嫌悪感があった」と述べた。 また、事件直前に新型コロナの影響で仕事を辞めざるをえなくなったこともきっかけの一つ、コロナ禍で支援を受けられなかった不満のはけ口・憂さ晴らしと答えた。Q 関東大震災(朝鮮人虐殺)の教訓とは?A 災害時、日頃からの差別意識を背景に、強い不安や恐怖、行き場のない怒りが外国人など少数者に向けられるという百年前の惨事と共通する弱さを私たちの社会が抱えていると言うこと。中央防災会議の報告書を執筆した東京大学の鈴木淳教授。「普段は常識の枠で抑えられているものが何かのきっかけで、地域に馴染みの薄い少数者に対して牙を向いてしまうことがありうると言うことを強く意識し、警戒し続けることが必要だ」。関東大震災における朝鮮半島出身者などの殺傷事件に向き合うことは、大きな痛みを伴うが、「何が起きたのか」「なぜ起きてしまったのか」を知ることが、現在もある弱者や少数者への差別や偏見に向き合い、解消する努力につながる。このことが関東大震災の最大の教訓のひとつ。 〔紹介は以上〕「災害や恐怖など、社会は強いストレスにさらされたときに試される」、というのも番組の指摘ですが、私も東日本大震災に先立つ「阪神淡路大震災」時(1995年)、「外国人労働者や朝鮮人がスーパーを襲っている」というデマが流れているということを聞いて「ドキッ」としたことを鮮明に覚えています。「これでは、関東大震災時と同じではないか」と思ったのです。 その時も兵庫県警が「そのような事実はない」と明確に否定したことでおさまったのですが、もし否定されなければ、どのような心理状態になっていったのか。恐ろしいものを感じます。 まさに、歴史の事実をしっかり受け止めながら、「われわれの社会の弱さ、われわれ自身の弱さ」に向き合うことが大切ではないでしょうか。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.09.24
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 「徴用工裁判判決」にそって、日本企業の資産が現金化される前に「韓国の財団が(日本企業による)支払いを肩代わりする」という方針が、韓国政府によって発表されました。「日本企業に賠償を命じた徴用工裁判の判決は国際法違反」であり、「政府や日本企業による賠償には応じない」という日本国政府の立場がどうにも動かないという現実を前に、「政治判断」で決着をはかろうとしたものでしょう。 上記のような日本政府の「頑なな態度」の背景の一つとして、「一切譲るべきではない」という保守強硬派はもちろん、かなりの日本国民が「終わったはずの問題を韓国は蒸し返している」といった認識・意識だという点があるように思われます。 しかしながら、私は韓国「最高裁における徴用工裁判判決」の妥当性を判断するために必要な情報が、「多くの日本人」に届いていないのではないか、という強い疑いを持っています。この間の対立点を簡単に整理すると、以下のようになります。 1,日本政府の立場・「日韓条約」(日韓請求権協定)で、日本は韓国に莫大な「支援」をしており、請求や賠償の問題も含めて解決済みである。2,「徴用工裁判判決」の立場(および、それを支持する立場)・「徴用工」が受けた被害(過酷な労働や賃金不払い等)への慰謝料や賠償を当時の日本企業に請求する権利(個人の請求権)は「政府同士の話しあい・手打ち」で勝手に解消することはできない。・政府間の問題に限っても、日韓請求権協定には、日本による「韓国への経済援助」が明記されているものの、それが植民地支配に対する「慰謝料ないしは賠償に換える」という趣旨の内容は一言も書かれていない。 1945年への道では、歴史を踏まえた「徴用工問題の重要な点」を簡潔に(6分間で)まとめられていますので、ぜひご覧ください。 率直に言って「日韓関係が難しい」根本的な背景には、近代以降の大日本帝国による植民地拡大政策があり、朝鮮半島に住んでいた人々への過酷な支配があります。ここは、遠藤統一郎氏の文章を引用しながら想像力を働かせてみましょう。 「ロシアとウクライナの関係に照らせばよく分かる。仮に今停戦が実現したとしても、あるいは講和条約が締結されたにせよ、侵略者ロシアに対するウクライナ人民の怨嗟がにわかに解消されるはずはない。とりわけ、家族を殺された人、傷つけられた人、家を焼かれ壊された人、故郷を追われた人、辱められた人・・・にとっては。」(遠藤) さて、停戦後、それなりの年数が経ったとしても、「終わったことをいつまで蒸し返すのだ」といったようなことを、「侵略した側」「支配した側」が言うべきでしょうか。確かに、保守派のみならず日本政府の立場は「韓国併合条約」は正式に結ばれており合法だ、というものですが、それが韓国の人々にとって納得できないものであることは、「ロシアが併合した四州」のことを考えれば理解できるでしょう。 「正式な住民投票で決まった」とプーチンは主張するでしょうが、多くのウクライナ人が「軍隊の圧力を背景にした投票結果は全く無効だ」と主張する理由は納得できるはず。「韓国併合条約」が「義兵運動を徹底的に弾圧した日本軍の圧力」を背景に結ばれたものであるとすれば、これを合法と認められない立場も当然理解すべきでしょう。ロシアの侵攻に対する多くのウクライナ人の受けとめを想像すれば、遠藤統一郎氏の以下の主張も理解できるはずです。(ただし、私自身は「ウクライナ戦争に関するNATO諸国の主張」には賛同しておらず、こちらの記事のような見解です。)「近代日本の天皇制権力は、富国強兵を掲げて侵略戦争遂行を国是とした。侵略戦争の結果としての植民地支配を国力強盛の証しとして誇示さえした。恥ずべき強盗の論理と言ってよい。強盗国家は、台湾を侵略し、朝鮮を侵略し、満蒙から、華北に侵略の手を伸ばして泥沼の戦争に陥った。」 (遠藤) 「ロシアのウクライナ侵略は、1年余である。近代日本の朝鮮侵略は、1876年の江華島事件以来の歴史をもつ。けっして日韓併合後の36年だけではない。積年の怨念が並大抵のものではないことを理解しなければならない。」(遠藤) 朝鮮の侵略のために、日本の軍隊が朝鮮の人民をどれだけ殺戮したか。甲午農民戦争(1894年1月 – 1895年3月)だけで殺戮者数は3万~5万人とされている。また「(3.1独立運動が拡がった)1919年、1年間で実に1542回にわたり行われたデモで、全国でおよそ7600人が死亡、1万6000人がけがを負い、4万6000人が逮捕・拘禁された」というのが、韓国政府の公式見解である。この「7600人の死亡」とは、日本の官憲による非武装のデモ参加者に対する虐殺ではないか。」 (遠藤) 「人民の被害だけでなく、韓国の権力側にも被害が大きい。閔妃(明成皇后)の暗殺は、ナショナリストには衝撃であったろう。立場を替えれば、朝鮮の軍人が皇居に侵入し皇后を暗殺したのだ。」 「さらには創氏改名を強要し、民族のアイデンティティである言語まで奪おうとした。もう過去のこと、十分に謝ったじゃないか、何度蒸し返すのだと居丈高となるのは、歴史に学ぼうとしない態度というほかはない」(遠藤) 「私見では、韓国大法院の徴用工判決は、穏当で説得力あるものとなっている。これに従うことが本筋だと思う。が、日本側が真摯な態度を見せることで解決に至るのであれば、もちろん、望ましいところ。(・・・)今、支持率低迷しながらも、親日保守政権である。日本側に問題解決の意思があれば、誠意を見せるべきであろう。誠意を見せる相手は、韓国の政権ではなく、植民地支配に虐げられた当事者としての民衆でなければならない。」(遠藤)〔長めの引用は以上〕※「徴用工」が受けた被害(過酷な労働や賃金不払い等)への慰謝料や賠償を当時の日本企業に請求する個人の権利は「国家同士の話しあい・手打ち」で勝手に解消することはできない。これは、「立憲主義」「基本的人権の保障」を原則とする憲法を保持する国においては「当然の原則」。(日本政府の言うとおり「日韓条約」を解釈したとしても、法の優先順位においては憲法のほうが上位にある。その意味でも「徴用工裁判の判決」を覆すことはできない)。 したがって、このたびの「政治判断」を原告の元徴用工に強制できるはずがないわけです。〔(徴用工判決で認められた)「債権者=元徴用工」の意に反する第三者(財団)の弁済は原則として認められない。〕それを踏まえ、みずから「加害の歴史」にもしっかり向き合いつつ「真摯な態度」を示すことは不可欠であると考えるのです。〔なお、強制動員問題解決と、過去清算のための共同行動が106人の賛同人を明記の上で声明を出していいることを知りました。その内容その1、その2について、全く同感です。:3月17日追記〕 加えて、大日本帝国による植民地支配、人権侵害を問題にしているのは韓国政府や裁判の原告・支援者だけではないことを確認できる資料を最後に貼りつけておきます。〔補足資料〕 国連の人権委員会に出されたマクドゥーガル報告書(1998年)「…この条約(日韓条約=日韓請求権協定)が当事国間の『財産』請求問題の解決を目指した経済条約であり、人権問題に取り組んだものでないことは明白である。韓国側代表が日本に示した請求の概要を見れば明らかなとおり、この交渉には、戦争犯罪や、人道に対する罪、奴隷条約の違反、女性売買禁止条約の違反、さらに国際法の慣習的規範の違反に起因する個人の権利侵害に関する部分は全くない… 従って、日韓協定第二条で使用される『請求権』という用語は、このような事実が背景にあるという文脈で解釈しなくてはならない。 日韓協定に基づいて日本が提供した資金は、明らかに経済復興を目的としたものであり、日本による残虐行為の個々の被害者に対する損害賠償のためのものではない。 1965年の協定はすべてを包含するような文言を使用しているが、このように、二国間の経済請求権と財産請求権のみを消滅させたものであり、個人の請求権は消滅していない。したがって日本は、自己の行為に現在でも責任を負わねばならない。」にほんブログ村 にほんブログ村 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など)
2023.03.08
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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。ほとんど観ませんでしたが、評判がいいので最終回だけ観ることにしました。印象に残ったのは、未来への希望として北条泰時と「御成敗式目」が描かれていたことです。〔大河ドラマ(最終回)でも「御成敗式目を制定した泰時。(何度も手を汚した義時に対して)泰時が執権だった時代に、御家人の粛清は行われなかった」とのことでした。〕 御成敗式目について中学校以来学ぶ機会はなく、当然、関連する専門書籍など持っていませんが、哲学者、長谷川宏の『日本精神史』に「御成敗式目―新興武士の合理性」(21章)という記述がありました。 以下、comment抜きで抜粋・紹介します。私自身は、興味深く読みましたが、いかがでしょうか。〔『日本精神史』第21章の抜粋〕 この章では、御成敗式目のうちに鎌倉政権の自己意識ないし自己表現を探りたい。 御成敗式目は1232年、執権・北条泰時が評定衆の協力を得て作成・公表した51か条の法典である。〔泰時が弟にあてた手紙〕 「この式目を作るにあたって、一体何を典拠としてこんな条文ができたのか、と非難する人もきっといるはずだ。これこそが典拠だといえるものはなく、ただ道理だと思えることを記したまでだ。(・・・)裁判の基本を定め、身分の上下にかかわりなく、えこひいきもなく採決がなされるようにと、一条一条書きとどめておいたのだ。」 当時は「執権」が最高の権力者だが、その執権を務める泰時が、力の強弱や身分の上下に左右されない「道理」にかなう「理非」をわきまえた成敗(裁判)を願い、そのために自ら式目を制定する。武家政権の革新性と合理性を示す注目すべき事実だ。 第七条と第八条で裁判の二大原則が提示される。第七条では、源頼朝から北条政子の時代までに将軍から与えられた所領は、それ以前の所有者が現れて返還を求めても、返還することはない、と定めている。(・・・)御家人が、勲功によって将軍から与えられた所領は、充分な法的根拠を持つ所有地と見なされる。この七条を「不易の法」と言う。(・・・) 第八条では、一定の土地を二十年以上継続して支配し、年貢を取り立てているならば、書類上の権利いかんにかかわらず知行権を認めると定めている。現場にあって農地経営に実績をあげているものこそが、その土地の正当な所有者だ。これを、「知行年紀法」という。 以上の二つが裁判の二大原則である。 武力を大きな助けとして生み出された現実に根ざしながら、その現実を人々の現に生きる場として捉え直し、そこに一定の秩序と規範を見出し、その秩序と規範を守るべきものとして明文化する知の動き。泰時の道理とはそういうものだ。武力の行使を否定はしないが、武力を大きく包むものとして秩序があり、武力を限定するものとして法があるとするのが道理の立場だ。武力に対する警戒心と批判を内に含む立場で、それが武力を本意とし誇りとする武士政権の中から打ちだされているのが興味深い。武士階層の政治的成熟を示す出来事だ。〔丁寧な目配りと合理的思考〕 京都方に味方したとの情報によって所領を没収されたものについては、味方してないという明確な証拠がある場合、没収地を恩給として受け取った御家人には代替地を与え、当の所領は元の領主に返すべきだ。代替地を与えるのは、承久の乱の勲功に報いるためだ。(・・・) 条文からしても、領地をめぐる訴訟の煩雑さが想像できる。多くの煩雑な事例を裁く基準をどう設定するか。御成敗式目の作成者に課せられたのは、高度な知的作業だった。 「京都方」に味方する者も多かった西国武士、それに対する鎌倉政権の強い不信の念にもかかわらず、西国にあって(父子のいずれかが朝廷方についた場合も)父子が離れて住んでいれば同心したと断定はできないという配慮を働かせる。そうして多くの人々の納得できる裁判基準を提示することが、北条泰時の言う道理の立場に他ならなかった。 変わりつつある現実の動向に目を凝らし、そこに新しい正当制の基準を探し求め、それを軸に社会秩序の安定を図ろうとする御成敗式目が、時代と関わる武士の新しさと積極性をよく示す文書だった。 また。女性が養子を迎えることの可否を述べた23条。 「『律令』では女性が養子を迎えることは許されないが、源頼朝の治政から今日まで、子のいない女性が養子を迎え、その養子に所領を譲渡するのを認めた例は数え切れないほどある。そして一般にもそうしたことが広く行われている。女性の養子をよしとする評議の内容は充分に信用できる。 」 中世から近世にかけて、特に支配層の間では男尊女卑の風が強まっていくが、この時期には女性にも領地の相続権が認められ、養子をとってそれに領地を譲ることも認められていた。御成敗式目は、そうした慣行が現に存在することを確認した上で、その慣行をよしとし、それを裁判上の基準にすると、明記している。農村における男女の共同生活という土着の生活実感が法の制定にあたってもリアルな実感として生きていることを示す条文だと言えよう。(式目全体として「武家政権の主体性」を示す) 思えば、自己の判断に基づく行動という意味での主体性は、すでに『平家物語』において随所に発揮されていたのだった。前に進むか退くか、退路をどう確保するか、敵の動きをどう察知するか、敗北が決定的になったとき、最期をどう迎えるかといった決断をその場その場で求められ、各自がその決断に基づいて行動していた。そういう主体性に支えられていたがゆえに、武士の行動は大胆でもあり、潔くもあった。その姿は、乱世に台頭してきた武士の新しさと生命力を示す重要な一面であって、武士の行動をやや離れた位置で客観的に眺める『平家物語』の語り手にも確実に見えていたものだった。 その主体性がその場その場の主体性というより、道理を踏まえた知的持続的な主体性として現れねばならないのが判決をくだす合議の場に他ならなかった。北条泰時をはじめとする鎌倉幕府の権力者たちはそのことに自覚的であり、自らそういう主体性を作り出そうとしていた。御成敗式目には五十一か条の条文の後に「起請」なるものが付されている。そこで、北条泰時以下13人の評定衆が以下のように公平な裁判を行うことを神仏に誓っている。 「評定の場にあっては、訴訟当事者に対する好悪によって理非を判断してはならない。もっぱら道理に従い、心に思う事を同僚に遠慮せず、権門を恐れることなくしっかり発言すべきだ。」 歴史上、権力はどのような権力であれ、おのれを強化し維持し、拡大しようとする傾向を持つ。鎌倉の武家政権とて例外ではない。承久の乱で京都の朝廷の権力を打倒して間もない時期のこと。政権内部に「権力意志」が燃え上がっていたに違いない。 そうした状況下で、政権自らが道理に基づく法の制定に乗り出し、現実に生きる道理にそくして新しい社会秩序を作り出し、維持していこうとする。土着の農村社会を基盤としつつ、頽廃の色濃い既成の権力に抗って登場してきた新興の武家権力が、その支持勢力たる下層農民や有力農民と太い絆で結ばれていることを示す事実だ。(・・・)現実をリアルに見つめ、そこに生きる道理を汲み取ることによって、秩序の安定を図り、自らの権力も維持しようとする武家政権の素朴さ、みずみずしさは一段と印象的だ。 北条泰時の書簡の一節を最後に引用しておきたい。 「関東の御家人や守護や地頭に広く公開して式目の趣旨を分かってもらいたい。また、内容を書き写して、守護や地頭の一人ひとりに配布し、国中の地頭や御家人に徹底させてほしい。51か条に漏れたものがあれば、のちに追加法として書き出すことにしたい。」 御成敗式目が社会に広く行き渡ることを求める言葉だが、ねらいは権力の強制力の浸透にあるというより、道理に基づく裁判の徹底にあると考えるべきだろう。道理への信頼が御家人や守護や地頭への信頼と重なるところが、武家政権の若さであり、素直さだ。引用末尾の追加法への言及についても同じことが言える。幕府の定めた法もそれを定めた権力もおよそ絶対的なものなどではない。必要があれば、必要に応じて追加すればよい、追加するのがよい。 権力者自身がそう考えるところに新興権力と御家人および農民との近さが感じ取れる。北条泰時にとって、法はそのようにして現実に生きるのであり、そのように法を生かすのが道理を貫くことにほかならなかった。 「御成敗式目」は日本精神史上まれに見る、高度な知性と合理性を備えた法思想の表現であり、政治思想の表現であった。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など)
2023.01.02
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Q 日清戦争の経緯(教科書の記述等)に照らし、福澤諭吉の主張と根拠、勝海舟の主張と根拠(前記事で紹介した資料)についてどう判断するか? 三、日清戦争、第二時3、それぞれの主張・根拠についてまとめた資料(模造紙)を用いて発表する。 自分がまとめた資料なので、生徒たちは要点を分かりやすく説明する。時おり、発表者としての意見も入る。「勝海舟のとらえ方は適切だと思う、」「福沢諭吉を一万円札の顔にするのはどうなのか、」など。4、両者の主張をどう評価するか、主張や根拠に問題はないか等、教科書の記述部分(あるいは地図などの資料)に沿って検証し、発言する。 出された意見・内容は以下のようなものだった。(複数の講座の意見をまとめて)。 高校入学までの基礎知識においては、「日清戦争が大きな問題をはらんでいた」という認識はあまり持っていなかったようだが、このたびの検証・意見交換にでは、「この戦、さらに名なし」と言い切った勝海舟を支持する者が多数、福沢諭吉を支持する意見は少数だった。5、当時において、なぜ福沢諭吉の考え方が多数を占め、勝海舟の考え方が広がらなかったのか、その理由を問いかけながら話をする。 「『時事新報』が良く読まれていた」とか「勝海舟の考えは当時一般には知られていなかったから」、「戦争前はどうしても反対論よりも賛成論が強くなる」といった意見が生徒から出る。特に三番目のものに関しては注意すべきだと確認。最後にガンジーの言葉を引用しながらPPも用いて、以下のように問題を提起。授業のまとめとした。(なお、日清戦争の授業に先立って、DVD「ガンジーとキング牧師」を視聴し、意見交換した実践を含めた報告はこちらのHP。) 福沢諭吉の言葉を再度確認してみよう。「日本は文明、清国(及びそれと結びついた朝鮮政府)は野蛮」、「朝鮮の実権は日本が握るべきで脅迫も当然」。ここで日本をイギリスに、清国や朝鮮をインドに置き換えてみると(上記スライドの国名を入れ替えると)、まさに福沢諭吉の考え方こそ、ガンジーが敵だとした「彼らの考え方」ではないだろうか。しかし当時、多くの日本人は「この考え方」に染まっており、ここにいる皆の多数が支持した意見(勝海舟のような意見)は広がらなかった。 それとは逆に、ガンジーとキング牧師の運動が広がった理由は何だろうか。(間)支配されていることには強い実感が伴うからではないか。「人間としてあるべき当然の権利」を唱えるガンジーの言葉や行動に対する共感は、「支配される立場」だったインドの人たちには広がりやすかった。それに対して「支配者であるイギリス人」(キングの場合には白人)へ通じていくためには多くの時間が必要で、ガンジーの不服従運動が始まってから、独立までにかかった年月は28年間だった。 ひるがえって、日清戦争当時の多くの日本人だが、いつの間にか(自由民権派も含めて)「支配する側の立場と視点」、自らを高く相手を低く見る発想(日本は文明、清国・朝鮮は野蛮)に染まっていたのではないか。そのような場合、支配する側の不当性を自覚・認識した上で、支配される側の苦しみに共感することが難しくなる。 現在にも通じる点はないだろうか。まさに、「歴史を公正に見られない言説」が増えているようにも見える。いつの間にか、支配する側の視点、自らを高く相手を低く見る発想に染まって歴史や現在を見ているのではないだろうか。 自国だけでしか通用しない独りよがりなものではなく「世界に通用する歴史観」をぜひとも身につけてほしい。にほんブログ村教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など)
2021.09.05
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このたびは、具体的な授業実践を紹介します。(2回にわたって) 主題と実際の授業内容は以下の通りです。特に、資料「福澤と勝の主張」にご注目ください。 日清戦争を同時代の視点で考える一、はじめに このたび報告するのは、日本史Aの授業実践である。主題は「日清戦争をどう考えるか ~福沢諭吉と勝海舟の視点から~」。日清戦争は近代日本がおこなった初めての「本格的戦争」であり、この戦争をどうとらえるかは「大日本帝国」の対外・対内政策についての歴史的評価を大きく左右する。できれば歴史的事実にもとづいて生徒自身がしっかり考える授業にしたかった。 そこで、この戦争の「大義」について、二人の人物(福沢諭吉、勝海舟)の異なる見解と根拠を読み取り明確にしたうえで、生徒自身が事実に基づいた検証を行うという授業を構想した。教材・資料として用いたのは、『日本史A』現代からの歴史〔東京書籍〕(2021年は『日本史A』人・くらし・未来〔第一学習社〕)、および文書資料、PP等である。前段も含む大まかな授業の流れは以下にまとめたとおり。二、日清戦争、第一時 学習の流れを簡単に。1、西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬、高杉晋作、木戸孝允、勝海舟、福沢諭吉の肖像写真を映示。この導入画像に生徒はよく反応する。若い時の勝海舟、福沢諭吉はなかなかわからないが、「有名な写真」を見ると気づく。2、資料1をよく読んで、日清戦争に対する福沢諭吉と勝海舟の主張、およびその根拠について2~3人組で確認し合い、模造紙にまとめる。(まとめた内容の例については資料の2を参照)基本的には、資料の内容に基づいて両者の見解・根拠をまとめるようにしたが、ネット上の資料に基づいて補足・補強したい場合は「世界史の窓」を活用するように(その理由も明らかにして)伝えた。資料1 日清戦争に対する福沢諭吉と勝海舟の見解福沢諭吉 日清戦争に賛成「日清の戦争は文野の戦争なり」〔1894年7月29日 時事新報の社説〕社説の趣旨:「文野」とは「文明」と「野蛮」。日清戦争は、文明国の日本が、野蛮な国である清(中国)を教え導くための「正しい戦争」である、としたもの。〔時事新報は1882年3月1日、福澤諭吉の手により創刊された日刊新聞。その後、慶應義塾大学およびその出身者が全面協力して運営した。なお、1885年に発表された「脱亜論」(欧米志向とアジア軽視の主張)については教科書の注記を参照。〕時事新報の社説本文の抜粋(口語訳で)※1 戦争は日清両国で起こったとはいっても、その根源は、文明開化を進めようとする者と、その進歩を妨げようとする者との戦いであり決して両国間の争いではない。(・・・)本来日本人は支那人(中国人)に対して私怨も敵意もないが、いかんせんかれらは頑迷で道理を理解せず、文明開化を喜ばないだけでなく、反抗の意思表示をしたために、やむを得ず戦争になったのだ。 (日本軍は)海戦で勝利し、一隻の軍艦を捕獲し、千五百の清兵を倒したという。(・・・)数千の清兵はいずれも罪のない民衆であり、これを皆殺しにするはかわいそうなことである。文明進歩の妨害となるものを排除するために、多少の殺戮も仕方がないというには多すぎる数ではあるが、彼等も不幸にして清国のような腐敗した政府の下に生れた運命としてあきらめるほかない。 もしも中国人が今度の失敗に懲り、文明の素晴らしさを悟って、その非を改めるならば(・・・)むしろ文明の誘導者たる日本人に対してその恩に感謝することになるだろう。〔引用者付記〕 同年11月の時事新報には、「文明流の改革のためには朝鮮に対する脅迫を用いざるを得ず、国務の実権は日本が握るべきだ」、「日清戦争の戦勝を願う理由は、(清からの)朝鮮独立、文明開化のためであるにもかかわらず、朝鮮はその決心がなく、もう勘弁できない。“一刀両断”の決意をすることも止むを得ない。」とする社説を載せた。 なお、日清戦争は社説「文野の戦争」が発表された4日前から始まっていた。 勝海舟 日清戦争に反対 日清戦争に際して海舟は詩(漢詩)を作ったが、その中で次のように言い切っている。 その戦、更に名無し(そのいくささらにななし) =そのいくさ(日清戦争)には全く大義名分も正義もない〔1894年7月16日、海舟が明治政府に出した意見書の趣旨(口語訳で)〕 日本は(清国や諸外国からの)朝鮮の独立を主張している以上、武力を背景に朝鮮の内政へ干渉することは不当だ。助言だけであればよいが、その場合においても自らの資格を問うべきである。そもそも清国は朝鮮の一揆(農民戦争)鎮圧のために求められてきた。日本は対抗して出兵したけれど名目は居留日本人の保護だった。その名目とは相容れない大軍を送り込み、あとから朝鮮の内政に干渉しようというのは筋が通らない。 勝海舟自筆の短文(原文)・明治二十七(1894)年夏、これ何の年ぞ。鶏林を蹂躙してその民ますます叛く。 ・隣国に兵を弄し、無辜(むこ=罪のないこと ・人)死するもの幾人。・国威を震わむとして、露英両国の地歩をなす。 註:「鶏林」は朝鮮の別称。 〔資料(『勝海舟』松浦玲 筑摩書房)〕「日清戦争にはおれは大反対だったよ。なぜかつて兄弟喧嘩だもの、犬も喰はないじゃないか。たとえ日本が勝ってもどうなる。支那はやはりスフインクス(註)として外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力が分つたら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る。つまり欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。〔註:エジプト神話におけるライオンの体と人間の顔を持った神聖な怪物。当時の清は「眠れる獅子」と言われていた。(引用者)〕 そもそも支那五億の民衆は日本にとつては最大の顧客サ。また支那は、昔から日本の師ではないか。(・・・)東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。おれなどは◎維新前から日清韓三国合縦(がっしょう)の策を唱えて、支那朝鮮の海軍は日本で引受ける事を計画したものサ。今日になって兄弟喧嘩をして、支那の内輪をさらけ出して、欧米の乗ずるところになるくらいなものサ。」 『氷川清話』勝海舟/江藤淳、松浦玲編(講談社学術文庫、2000年)より〔引用者付記〕 『氷川清話』は主に勝海舟晩年の談話をまとめたもの。海舟は日清戦争勝利後も、領土要求は欧米列強の新たな侵略をまねくとする立場からこれに反対。彼が予測した通り日清戦争後、欧米による猛烈な中国分割競争が始まる。 下線◎に関連した資料(幕末 神戸海軍塾設立の直前における)「勝海舟の日記」より口語訳 『勝海舟』 松浦 玲 筑摩書房 「現在、アジア州の中で、欧米に抵抗できる者(国)はない。それは、(国力の)規模が小さく欧米の遠大な策(帝国主義政策)に及ばないためだ。今こそ、我が国から船を出し、広くアジア各国の主に説くべきだ。相互の連携を強め、海軍力を増強し、手段を尽くして学問と新しい技術を研究しよう、さもなければ欧米諸国に蹂躙される流れを防ぐことはできないと。それを、まず隣国の朝鮮に説き、そのあとで中国に説き及んでいこう。」 Q 日清戦争の経緯(教科書の記述等)に照らし、福澤諭吉の主張と根拠、勝海舟の主張と根拠についてどう判断するか?(福沢、勝の主張をまとめ発表した後、この問いについて教科書等をもとに検証する。) 授業の続きにほんブログ村教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など)
2021.08.24
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近年(おそらくここ10年程の間)に幕末から明治の歴史に関する見方・評価が大きく動いています。 例えば、『墨夷応接録』〔ペリーと交渉をした幕府全権 林 復斎が残した応接(交渉)の記録。〕これは、「黒船来航」に対して、幕府は実に見事な二国間交渉を展開していたという明治維新以後150年の「常識」を覆す記録です。 また、『勝海舟』(筑摩書房)は歴史学者松浦玲が膨大な資料の緻密な検証をもとに勝海舟の全生涯と時代の総体を描ききった労作です。 また、ここが変わった! ここまでわかった! 『日本の歴史』(朝日新聞社)の幕末から維新を特集した号(2013年)には、今の私たちが持つ「志士」像は明治政府による英雄化の産物だった、という記述があります。「幕末から明治初期に命を失った「殉難者」への贈位などを通じ、勤皇の志士を政治的に顕彰することによって、明治政府は自らの権威を高めるような歴史像を形成していった、」というわけです。 なるほど、「ペリー来航後の幕府はあまりに無能だったので、勤王の志士たちによって薩摩長州を中心とする強力な政府をつくって大改革に成功したのだ」という物語は当時の薩長藩閥政府によってつくられた「彼らにとって好ましい歴史像」だった、という見方も一定の説得力があります。(上記資料『墨夷応接録』、『勝海舟』(筑摩書房)など参照) これまで私たちが常識と考えてきた幕末から維新の歴史が、「国家によって意図的に作られてきたものではないか」、「作られた歴史像に大きく影響されているのではないか」という問いを避けるべきではありません。そのような観点からすると、今日顧みられるべきは、その時代において明治政府に対して明確に示された批判的見識ではないでしょうか。 例えば、士族から始まり民衆にも広がった「自由民権運動」は、その過程で自ら民主的な憲法案を作るなど、当時の藩閥政府に対する根本的な批判を形にしたとも言えます。しかし、それが結局、「国権論」に取り込まれ、明治政府との対決姿勢を鈍らせていったのは有名な話です。 確かに、鋭く根本的な批判となると当時の日本人にはかなり難しかった面もあるかもしれません。日清戦争あたりから、国力・軍事力拡張の流れが時代の風潮になっていくとすれば、なおさらでしょう。 しかしながら、明治政府の要人に一目置かれながらも、上記のような風潮に流されず、鋭く根本的な政府批判を行い続けた人物がいます。それは西郷隆盛とともに江戸城を無血開城に導いた勝海舟です。 彼の言動については『氷川清話』、『海舟座談』(本人の証言)や『勝海舟』(松浦玲)などにまとめられています。 さしあたって、勝海舟 - Wikipedia から要点(一部)を引用しておきましょう。 海軍の生みの親ともいうべき人物であり、連合艦隊司令長官の伊東祐亨は海舟の弟子とでもいうべき人物だったが、日清戦争には反対の立場をとった。(・・・) 勝は戦勝気運に盛り上がる人々に、安直な欧米の植民地政策追従の愚かさや、中国大陸の大きさと中国という国の有り様を説き、卑下したり争う相手ではなく、むしろ共闘して欧米に対抗すべきだと主張した。(引用は以上、松浦玲の『勝海舟』に照らしても、上記の記述に問題なさそう。) 私は、勝海舟が日清戦争に反対だったことを数年前に初めて知り、感心しました。日本史の教科書には日露戦争に反対した人物(幸徳秋水や内村鑑三)は出てきますが、日清戦争に反対した人物は、出てきませんよね。 周知の通り、幕末、勝海舟は日本海軍の増強を主張し、海軍を支える人材の育成に力を注ぎましたが、あくまでその目的は日本に不当な圧力をかけてくる欧米諸国と対抗することであり、薩長両藩の優位に立つことやアジアに勢力を拡大することでは断じてなかったのです。 以下は、『氷川清話』に収められている海舟自身の言葉です。 おれは大反対だったよ「日清戦争にはおれは大反対だったよ。なぜかつて兄弟喧嘩だもの、犬も喰はないじゃないか。たとえ日本が勝つてもどうなる。支那はやはりスフインクス(註)として外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力が分つたら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る。つまり欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。 〔註:エジプト神話におけるライオンの体と人間の顔を持った神聖な怪物。当時の清は「眠れる獅子」と言われていたので、海舟はこのような比喩を用いた。〕 そもそも支那五億の民衆は日本にとつては最大の顧客サ。また支那は、昔から日本の師ではないか。(・・・)東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。 おれなどは◎維新前から日清韓三国合縦(がっしょう)の策を主唱して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものサ。今日になって兄弟喧嘩をして、支那の内輪をさらけ出して、欧米の乗ずるところになるくらいなものサ。」『氷川清話』勝海舟/江藤淳、松浦玲編(講談社学術文庫、2000年)より 下線◎に関連した資料(幕末 神戸海軍塾設立の直前における)「勝海舟の日記」より口語訳 『勝海舟』215頁 松浦 玲 筑摩書房 「現在、アジア州の中で、欧米に抵抗できる者(国)はない。それは、(国力の)規模が小さく欧米の遠大な策(帝国主義政策)に及ばないためだ。今こそ、我が国から船を出し、広くアジア各国の主に説くべきだ。相互の連携を強め、海軍力を増強し、手段を尽くして学問と新しい技術を研究しなければ欧米諸国に蹂躙される流れを防ぐことはできないということを。それを、まず隣国の朝鮮に説き、そのあとで中国に説き及んでいこう。」 〔以下、引用者付記:日清戦争に際して海舟は詩(漢詩)を作ったが、その中で次のように言い切っている。※ その戦、更に名無し(そのいくささらにななし) =そのいくさ(日清戦争)には全く大義名分も正義もない 海舟は日清戦争勝利後も、領土要求は欧米列強の新たな侵略をまねくとする立場からこれに反対したのですが、彼が予測した通り日清戦争後、欧米による猛烈な中国分割競争が始まるわけです。 さて、このような欧米による中国分割に対して一片の抗議もしなかった日本が、ずっと後に欧米帝国主義国の支配からアジアを解放するとして「大東亜共栄圏」という言葉を使いはじめます。 これが文字通り「アジア全体を各国が共存共栄する対等な共同体にする」、という意味であるとすれば、日本がアジアのどこか(例えば朝鮮や台湾)を植民地支配するということはあってはならないはずです。 ごまかしのない「大東亜共栄圏」は、(日清韓三国合縦を主張し、日清戦争に反対した)勝海舟や(日本はアジアに領土を拡張すべきでない、植民地を率先して放棄「模範を示」すべきであると主張した)石橋湛山の構想の延長上にしかないはずだと思うのです。 なお、一万円札の顔である福澤諭吉は「日清戦争は文野の戦争(文明と野蛮の戦争)」だと言って、戦争への賛成を表明しています。〔参考:日清戦争に対する福澤諭吉の見解はこちら〕 ただし、この論理でいえば、「欧米によるアジアの植民地化は正当な行為」ということになってしまいますが。にほんブログ村教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など)
2020.08.23
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安倍首相の「戦後70年談話」の際に公開した記事を改めて掲げておきます。 以下、再掲。 「戦後70年談話」で安倍首相は「歴史に真正面から向き合うこと」を強調しましたが、果たして言行を一致させることができるでしょうか。安保法案を何が何でも成立させようとすることや、歴史にまともに向き合っているように思えない育鵬社の教科書を推奨したり・・・。「談話」の内容にも結構突っ込みどころがあります。 (→末尾の注) ところで私は一か月以上前になりますが、「新しい歴史教科書をつくる会 」が主催する講演会「演題:日本を取り戻す教育」(講師:高橋史朗)に参加しました。 めったに聞く話ではないので、その内容を要約しておきます。〔( )内は、私の心のつぶやきの一部です。〕 自分は、渡米してGHQの文書を読み込み、研究してきた。 そこからわかったことは戦後GHQが、徹底的に日本人を洗脳し「義眼」をはめこんだことだ。例えば、靖国神社はA級戦犯が合祀されているから問題だといわれるが、そもそも「戦争を起こした罪」によって〔指導者を〕戦犯として裁くということは、当時の国際法からしても成立しない。 『菊と刀』というルース・ベネディクトの戦略的論文がある。 日本人には「内なる道徳律」がなく、世間の目(恥)が実質的な善悪の基準だという。 日本の軍国主義(集団同調主義)は本質的なものとして日本人に染みついているという趣旨の記述もあり。日本に来たこともないルースがなぜ日本人の本質について語れるのか? おかしいではないか!(中国・現地での聴き取り・取材・資料のまともな検討もしていない「特定の日本人」が、なぜ「南京事件」の虐殺は虚偽だなどと断言できるのでしょうねぇ:私) 朝日新聞をはじめとする戦後のジャーナリズムを見ると、日本人がいかに「義眼」をはめられ「自虐史観」の染まっていったかがよくわかる。従軍慰安婦は嘘であったにもかかわらず、韓国が問題として激化させている GHQによって日本人は罪の意識を埋め込まれた。 「原爆投下は戦争犯罪である」といった主張は言論界でも抑圧された。 朝日新聞などは早い段階で「義眼」をはめこまれ、自己検閲をしてしまっている。(そのような教育によって洗脳されたのは「ベトナム戦争」「イラク戦争」などに際しても一切米国を批判できない歴代首相では? 日米安保条約に基づいた「地位協定」という国際的にみても不平等な実態に関して歴代総理大臣が一言も発しないのは、ある意味「洗脳」状態にあるのでは? 「日本を取り戻す」というなら最低限見直し発言ぐらいすれば?:私 ) 「反日」の日本人が多い背景にはGHQによる洗脳がある。自虐的な教科書が横行している現実を変革していかなければならない。 日本人は東京裁判を正当化する「太平洋戦争史」に毒されてきた。日本人の弱点はこのような実態への批判的精神に乏しいことだ。「太平洋戦争史」に教師たちは反論していない。武士道の精神が残虐行為につながったなど、誤解が横行しているにも関わらず。 講演の要約は以上〔講演会後に私が会場で発言した内容〕 中学に通っている子どもがいるが、私は自由社や育鵬社の教科書で学ばせたいとは思わない。子どもには「世界に通用する論理・歴史観」を身につけてほしいからだ。「偏狭で自己中心的な観点から」自国の立場を強調する歴史を学ぶことは本当の誇り・「愛国心」とは無縁だと思う。 まず、「世界に通用する論理」について例を挙げたい1、「戦後50年」を機に来日したワイツゼッガー元西ドイツ大統領の演説 彼は、ドイツも日本も勇気をもって自らの歴史と向き合うべきことを強調すると同時に、連合国が勝つために行ったことの全てが正当化されるわけでは決してないことを主張した。 (東京大空襲等の無差別爆撃や原爆投下などを想定。)2、「東京裁判」におけるパール判事(しばしば右派に都合よく利用される)の論理 日本軍国主義は欧米帝国主義の悪しき模倣であり、いずれも道義的には許されないことであると厳しく主張すると同時に、当時の国際法には「戦争を起こした罪」を裁く観点は明記されておらず、「事後法」によってA級戦犯を有罪とすることはできないと主張した。 いずれも世界に通用する論理だと思う。偏狭な自己正当化を主張する歴史観が世界に通用するとは思えない。 続いて、自国の行為・歴史の見方について、日本とは別の事例を挙げたい。 私は過去に参加した原水爆禁止世界大会で、ある米国人のスピーチに感銘を受けた。彼女は、米国によって行われた「原爆投下」、「大空襲」を厳しく批判する(当時の米国人は日本人のことを「黄色い蛆虫」と呼んでいた!)と同時に、第二次大戦後、米国がベトナムやイラクで行ったことについて激しく非難していた。米国で彼女は「愛国心の足りない者」、「自虐的で不当に米国を貶めるもの」と非難されるかもしれない。しかし、このように真正面から自国の犯した犯罪行為に向き合う姿勢こそ、尊敬に足るものではないか。(自由社や育鵬社の教科書はどうだろうか?) 最後に、「軍慰安婦」の問題について発言したい。仮に軍による直接的な韓国人女性の強制連行の証拠が見つからないとしよう。しかし、慰安婦制度には根本的な問題がある。 そもそも韓国併合条約には「(日本による)韓国人の保護義務」が明記されている。 慰安婦の多くが「業者等に騙されて連れてこられた」ことはよく知られた事実であるが、「騙されて連れてこられた人たち」は当然(警察・軍隊によって)保護され解放されるべきである。しかし、現実には一人の逃亡も許さない形で慰安所の中に拘束された。これは、明らかに「韓国人の保護義務」に反することを国家(軍隊)が行ったのではないか。(「性奴隷制度」という批判に反論できないのではないか?) 私の、質問・意見は以上でした。 講師の反応は省略します(一部「70年談話」と重なるような発言もありました)が、私の発言に対して「そのような考えもあるんだ」という空気が会場に流れ、最後に主催者が、「先ほどのような質問・意見は私には出せない観点でした」とあいさつするなど、話はしてみるものだという「手応え」を得ることはできました。 (安倍首相の「戦後70年談話」に関する注) 例えば談話の途中に出てくる「・・・危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」などは日本の自慢話ですが、この時代についてインドのネルーは以下のように証言しています。安倍談話がしっかり「歴史に向き合うもの」といえるのかどうか、ということですね。ネルー著『父が子に語る世界歴史3』大山 聡訳 みすず書房(1975) 日本のロシアにたいする勝利がどれほどアジアの諸国民をよろこばせ、こおどりさせたかということをわれわれは見た。ところが、その直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をつけ加えたというにすぎなかった。その苦い結果を、まず最初になめたのは、朝鮮であった。日本の勃興は、朝鮮の没落を意味した。日本は開国の当初から、すでに朝鮮と、満洲の一部を、自己の勢力範囲として目をつけていた。もちろん、日本はくりかえして中国の領土保全と、朝鮮の独立の尊重を宣言した。帝国主義国というものは、相手のものをはぎとりながら、平気で善意の保証をしたり、人殺しをしながら生命の神を聖公言したりする、下卑たやりくちの常習者なのだ。にほんブログ村教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など)
2020.08.18
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「日韓対立問題」について、官房長官をはじめとする日本政府は「韓国に全面的に非がある」、「韓国は国際法違反の状況を是正すべきである」という主張をひたすら繰り返していますが、それを延々と垂れ流すNHKをはじめとする報道機関も困ったものだと思います。 以下(リンクの記事)で紹介されているように、「ワシントンポスト」は日韓対立の根本的な原因が歴史的な現実に正面から向き合おうとしない安倍政権の「歴史修正主義」にある、と喝破しています。 日韓対立で『ワシントン・ポスト』が日本の歴史修正主義が原因と指摘!「日本が罪への償いを怠ったことが経済を脅かす」 また、報道機関の問題について植草一秀の『知られざる真実』 「早晩修正を迫られる安倍内閣韓国敵視政策」でも適切に指摘されています。ぜひ、ご一読ください。 〈一部紹介〉 たとえばNHKは8月28日午後7時の定時ニュースで日韓問題について次の 報道をしたが、日本政府の表向きの説明である「安全保障上の観点から、わが国の輸 出管理制度を適切に実施するうえで、必要な運用の見直しだ」との主張と、「韓国側が国際法違反の状態を早急に是正するよう改めて求める」との日本政府の主張を垂れ流しているだけだ。 NHKは、韓国の司法当局が、日韓条約、日韓請求権協定を解釈した上で、国際法には違反しないとの判断の上に立って元徴用工に対する損害賠償を命じる 判決を示したという事実をまったく伝えない。 韓国を輸出管理の優遇対象国から外す措置について、徴用工裁判の判決に対する報復であることを日本政府が示唆していた事実にも一切触れない。 このニュースを聞いた者は、 「韓国は国際法に違反している」 「日本政府の措置は安全保障上に理由によるもの」としか受け止めないだろう。 そうなると、人々は、日本政府は適切に行動しているのに、韓国政府は国際法に違反していると理解し、韓国政府が悪く日本政府は正しいと考えてしまう。 世論調査が示す数値が仮に実態を示しているのだとすれば、その原因はメディアが、「意見が対立している問題について、できるだけ多くの角度から論点を明らか にすること」という放送法第4条の規定を遵守していないからである。 「日本が遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国 の人々に対して多大の損害と苦痛を与え」たことは、日本政府が公式に認めたことである。 1965年の日韓条約は、米国が主導して樹立した軍事クーデター独裁政権と 日本が、米国の圧倒的な支配力の下で締結した条約であり、1995年の村山談話に示される日本の歴史認識を反映するものでない。 同時に条約、協定は、韓国の国民の同意と支持を得て締結されたものでもない。 1910年から1945年にかけての日本による韓国の植民地支配は、村山談話が明記するように、国策を誤り、韓国の人々に多大の損害と苦痛を与えたものである。 そして、こうした植民地支配と侵略によって損害を受けた個人の請求権については、日本政府も公式に消滅していないことを正式に表明してきている。 徴用工問題が完全に解決したとの日本政府の主張は1965年の当時において は国際的に広く共有され、通用していたものである。 しかしその後、国連憲章(人権関連条項)、世界人権宣言、国際人権規約をはじめとする国際人道法が国際的に承認されるに至って、日本政府の主張はもは や法的正当性を主張できなくなっている。 「元徴用工の韓国大法院判決に対する弁護士有志声明」によれば、「重大な人権侵害に起因する被害者個人の損害賠償請求権について、国家間の合意により被害者の同意なく一方的に消滅させることはできないという考え方を示した例は国際的に他にもある(例えば、イタリアのチビテッラ村にお けるナチス・ドイツの住民虐殺事件に関するイタリア最高裁判所(破棄院)など)。 このように、重大な人権侵害に起因する個人の損害賠償請求権を国家が一方的 に消滅させることはできないという考え方は、国際的には特異なものではな く、個人の人権侵害に対する効果的な救済を図ろうとしている国際人権法の進 展に沿うものといえるのであり(世界人権宣言8条参照)、「国際法に照らしてあり得ない判断」であるということもできない。」と指摘している。 「韓国は国際法に違反している」との見解は、勉強不足の思慮の浅い判断でし かない。 日本の主権者が問題に関する広範な見識、知識、考察に触れることができないことは、日本の主権者が「知性」を失うことを意味するものだ。 安倍政治の「反知性主義」によって日本の主権者全体が「反知性主義」の状態 に陥れられていることが極めて深刻な問題である。 在韓国日本大使館前の少女像について、日本政府は「韓国政府は約束を守らない」と主張するが、そもそも、どのような約束をしたのかを正確に把握することが先決だ。 2015年12月28日の日本岸田文雄外務大臣と韓国尹炳世外交部長官による、「日韓合意」で韓国外相が公表した合意内容は、 「韓国政府は、日本政府が在韓国日本大使館前の少女像に対し、空間の安寧、 威厳の維持といった観点から懸念しているという点を認知し、韓国政府としても可能な対応方法に対し、関連団体との協議等を通じて適切に解決されるよう 努力する」というものである。(・・・) 人々に正確な情報、問題が発生する原因を丁寧に伝えることがメディアの本来 の役割ではないのか。(・・・) 徴用工の問題についても、国連憲章(人権関連条項)、世界人権宣言、国際人権規約をはじめとする国際人道法が国際的に承認され、重大な人権侵害に起因する個人の損害賠償請求権を国家が一方的に消滅させることはできないという 考え方に立った裁判所判断が示される事例が多数存在することは、国際人権法 の進展に沿うものだ。 54年も前の協定の内容だけを頼りに「解決済み」の一点張りで対応する姿勢 は「反知性主義」を象徴するものだ。(・・・) 秋嶋亮氏の著書にある「愛国者ほど国を批判し、売国奴ほど国を賛美する」の言葉を胸に刻む必要がある。(・・・)にほんブログ村 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など)
2019.09.15
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天皇代替わり、新元号(「新しい時代が来た」?!)といった洪水のような報道にうんざりしたのは私だけではないと思います。 代替わりでお祭り騒ぎするのもばかげているのですが、「令和」「令和」の大合唱も困ったものです。一方的に決定された元号をありがたがって大騒ぎする(マスコミが報道する一部の?)人々の姿は、明治憲法制定時における「臣民の姿」とどう違うのでしょうか?(明治憲法も「枢密院」で秘密裏に策定され、一方的に「与えられた」ものだったが、当時の国民は憲法発布をお祭り騒ぎで祝った。) 報道機関の姿勢にもあきれます。「そもそも元号は、時の権力によって政治利用するために生み出された」こと、「まさにこのたびの『令和』こそ、天皇と元号の露骨な政治利用である」という批判的な視点も含めしっかり報道すべきだったのではないでしょうか。 一部の報道機関を除き、そのような視点は全くないか極めて希薄でした。 念のために、以下の点を確認しておきます。 1、元号は、中国で皇帝が(領域だけでなく)時をも支配するという思想から、漢の武帝の時「建元」と号したことが始まり。日本では、「大化」が用いられたのが最初。当然、天皇中心の国家体制をつくっていくという政治的な目論見が根底にある。 2、明治政府が慶應4年を改めて、「明治元年」にするとともに、天皇一代につき一元号とする「一世一元の制」を定めた。これは、天皇を前面に押し出すことで自らを正当化しようとした「明治政府(薩長藩閥政府)」が天皇を権威づけようとして導入した制度。 3、このたびの改元は、まさに「天皇と元号の政治利用」 首相談話発表に続く報道機関への説明の中で新時代を「1億総活躍社会」等の自分の政権の具体的な政策と結びつけて説明した。 白井 聰(私物化された改元:新元号発表を政治ショー化した安倍晋三) また、「令和」は安倍首相と中西進氏の合作だったこと、そして、首相が令和を含めた六つの最終案を皇太子に事前説明したのは「(政治の側が天皇の権威を利用することを禁じた)憲法4条」に違反する疑義があること、などがすでに報道されている。 なお、紀元前の中国農民ですら喝破していた血統の無意味さを理解できない日本人 というブログ記事も紹介しておきます。 宮武嶺さん(弁護士、もと関西学院大学法科大学院教授)の「天は人の上に人をつくらず 人の下に人をつくらず」令和狂詩曲に物申すとも合わせてごぜひ一読ください。〔以下引用〕 マスコミが煽る「令和」「令和」の奉祝ムードに流されて、何一つ解決していないこの社会の問題をあっさりスルーする「普通の日本人」たち。実際、世界的に見ても、支配層にとってこれほど「ちょろい」民族は珍しいだろう。 そんな彼らが「日本は特別ですごい国(だから日本人のオレもそれだけですごい)」と考える根拠は、世界一長く続く《とされる》天皇家の血統であるらしい。 世界最強 日本の天皇陛下!ローマ法王も上座を譲るとてつもない権威! 「万世一系」とか言うが、天皇家に限らずいま生きている人間は、誰でも太古の昔から親から子へと連綿と命をつないで生きてきたではないか。(・・・) ■ 王侯将相いずくんぞ種あらんや こんなことは、人権や平等の概念を学んだ現代人だけでなく、古代の中国農民ですら理解していた。 秦末の農民反乱である「陳勝・呉広の乱」(紀元前209-208年)で、貧農出身の反乱軍リーダー陳勝は「王侯将相いずくんぞ種あらんや」という言葉を残している。これは「国王や諸侯、将軍や丞相などといっても、そのような人種が最初からいたわけではない」という意味であり、身分や血統を否定して人間の平等を主張したものだ。実際、陳勝自身は反乱に失敗したが、次の漢帝国を樹立した劉邦も村役人レベルの庶民の出身だった。(・・・) 日本の「愛国者」様たちは、古代からこのような思想を持っていた中国を引き合いに出して、「万世一系」の天皇陛下がいる我が国はすごいとかイキがっているのだから、もう笑うしかない。 (・・・)にほんブログ村 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など)
2019.05.06
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菅野完が以下の題名の記事を書いていました。本人への評価は色々あるようですが、意図するところは理解できましたので一部紹介しておきます。(ただ、最後の部分は心を病んだ人への差別性が垣間見えていただけませんが…。)「三・一独立運動100周年」で両国の未来を語った文在寅大統領。「反日で危険」と煽った日本政府 ◆韓国の三・一独立運動の100周年に関する政府対応への違和感 先日、お隣の国・大韓民国は三・一独立運動の100周年を祝った。 植民地支配を受けた歴史を有する国や地域の人々が、植民地支配に抗した過去の運動を称揚しその精神を受け継ぐために奉祝するのは当然のことだろう。それが韓国の場合、我が国は旧宗主国。我が国としては、かつての植民地支配への反省と友好親善のメッセージを送るのが、未来を志向した大人の対応だろう。事実、旧植民地側の文在寅(ムンジェイン)大統領はスピーチで「力を合わせ、被害者たちの苦痛を実質的に治癒するとき韓国と日本は心が通じる真の親友になることでしょう」<訳・徐台教(ソテギョ)氏>と、前向きなメッセージを発している。 しかし日本政府は正反対の反応を示した。なんと韓国国内に滞在する邦人に対し、「反日集会が行われるため、近づかないように」との「危険情報」を発したのだ。(・・・)〔引用は以上〕 虚心坦懐に「3・1独立運動で読み上げられた独立宣言」を通読すれば、それが「反日」というレッテルをはるかに超えた普遍性を持っているのはあきらかではないでしょうか。(前記事) 「大人の対応」というよりも正面から歴史と向き合い、「世界に通じる歴史観」に基づいた「相互尊敬に値する対応」をしっかり取っていきたいものです。にほんブログ村 にほんブログ村 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など)
2019.03.11
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2019年3月1日は、朝鮮半島で3・1独立運動が起こってちょうど100年目になります。 1910年の日韓併合条約によって日本の植民地支配をうけることになってしまった朝鮮の人々が独立宣言文を読み上げ、瞬く間に全土に広がっていった運動ですが、私自身、大変うかつなことに(遅まきながらようやく)この宣言文を読むことになりました。抄訳は以下のとおりです。独立宣言書(抄訳) われわれはここにわが朝鮮国が独立国であること、朝鮮人が自由の民であることを宣言する。これを世界の人々に告げて人類平等の大義を明らかにし、子々孫々に告げて民族自決という正当な権利を永久に持ち続けようと思う。[中略] 今日われわれの任務はただ自己の建設があるのみで、決して他を破壊することではない。[中略]すでに遅れた思想となっていたはずの侵略主義や強権主義の犠牲となって、初めて異民族の支配を受けることになった。自由が認められない苦しみを味わい、10年が過ぎた。支配者たちはわれわれの生きる権利をさまざまな形で奪った。[中略] われわれは、旧い思想、旧い勢力にとらわれた(・・・)不自然かつ不合理で誤った状態を改善、修正し、自然で合理的な正統の原点にかえそうと思う。 初めから日本と韓国(大韓帝国)との併合は、民族的要求にもとづいておこなわれたわけではない。その結果、威圧的で差別・不平等な政治が行われている。支配者はいいかげんなごまかしの統計数字を持ちだして自分たちが行う支配が立派であるかのように言っている。 このような支配が両民族間にいつまでも友好協力できない憎しみの溝を深めている。(・・・)勇気をもって果敢に過去の誤ちを正し、真の理解と共感にもとづく友好的な新局面を切り開くことが、おたがいに不幸を遠ざけ幸福を招く近道であることを知るべきではないか。[中略] また憎悪する二千万の民を武力でもって拘束することは、単に東洋の永久平和を保障しないだけでなく、これによって東洋存亡の主軸である四億中国人の日本に対するおそれと疑いを濃厚にし、その結果はついに東洋全体が共倒れする悲運を招くに至るであろう。 いま、目の前には、新たな世界が開かれようとしている。武力を持って人々を押さえつける時代はもう終わりである。[中略] われらはここに奮い立つ。 良心はわれらとともにあり、真理はわれらとともに進んでいる。[中略]着手がすなわち成功である。ただ前方の光明に向かって邁進するだけである。公 約 三 章一、今日我らのこの行動は正義、人道、生存のための民族的要求であり、自主的精神を発揮するものであり、決して排他的感情に逸れて進んではならない一、最後の一人まで、最後の一時まで民族の正当な意思を快く発表せよ一、一切の行動は秩序を最も尊重し、我の主張と態度をあくまで光明正大とすること 〔引用は以上〕 宣言文を読めば明らかなように、これは「武力闘争」や「日本人への憎しみ」を強調したものではなく、非暴力的に「朝鮮人が自由の民であることを宣言」し、「世界万国に告げて人類平等の大義を明らかに」するものでありました。言ってみれば「アメリカ独立宣言」、「フランス人権宣言」にも匹敵する普遍性を持った内容であり、当時、世界の潮流になりつつあった「民族自決の理念」を高らかに宣言したものだったのです。 現在の日本では、極めて残念なことに、この記念日を「反日」という感情的で狭い視点でしかとらえない言説がとび交っています。あらためて、宣言文の全訳を読み、歴史の事実に目を開くこと、一国の中でしか通用しない狭い歴史観ではなく、全世界に通用する普遍的な歴史観を共有していきたいものです。 なお、「世界史の窓」で三・一独立運動についてわかりやすく説明してあります。 世界に通用する歴史観については「新しい歴史教科書をつくる会」の集会に参加して発言したことがあります。 (記事「日本をとりもどす教育!?」) よろしければ、ご一読ください。にほんブログ村 にほんブログ村 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など)
2019.03.03
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韓国人徴用工に対する韓国最高裁の判決に対する攻撃は相当なものです。 「最高裁の判決」は日韓で合意された請求権協定に反する、というわけです。 しかし、そもそも自明のように取り上げられる「請求権協定」とはどのような内容でしょうか? まずは、リンク先の動画を見てみませんか。 https://ameblo.jp/shchan3/entry-12421998480.html「1945年への道」というブログ、大変すばらしいです。 ぜひご覧ください。にほんブログ村 にほんブログ村 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など)
2018.11.27
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「米朝首脳会談が行われる見通しとなったことを受け、スイスが会談の開催地として名乗りをあげた」(3月10日 読売新聞配信) この間、日本政府や多くの報道機関は文在寅大統を批判していましたが、「対話のための対話には意味がない」どころか、朝鮮戦争後の暫定的な「休戦協定」から「平和条約」へ一歩踏み出す希望さえも見えてきました。 前回、私は平昌五輪の開会式を「悪しき政治利用」と言わんばかりの報道に疑問を提示しましたが、その冷たい論調に関わらず、「米朝の開戦→壊滅的な事態」を回避するための文在寅大統の努力は大きな前進を生み出しつつあります。 そもそも、日本における文在寅大統領の「悪印象」は安倍政権の都合のいいようにつくられた面はないでしょうか。とりわけ、「慰安婦問題への文在寅大統領の対応はけしからん」という報道機関の「画一的な」見方に対しても大きな疑問を感じてきました。 志葉玲がこの問題に対する見解を述べていますのでぜひご一読ください。 慰安婦問題・日韓合意は破綻すべくして破綻した―日本側も冷静な論議を 以下はその要約です。 3月1日、韓国の文在寅大統領が、日本の植民地支配に抵抗した「三・一独立運動」(1919年)の記念式典での演説で、従軍慰安婦問題に言及。文大統領は「加害者である日本政府が『終わった』と言ってはいけない」と発言。これに対し、菅義偉官房長官は「絶対に受け入れられない」と反発。これらの応酬の背景には、従軍慰安婦問題の「最終的・不可逆的な解決」とした日韓合意(2015年12月)の欠陥がある。 従軍慰安婦問題が、なぜ今、再燃するのか。理由として、主に三つのことがあげられる。 まず、第一に、日韓合意が、従軍慰安婦とされた被害者達やその支援者らが積み重ねてきた責任追及の在り方、つまり「法的責任」を無視したものであったこと。 第二に、「不可逆的」というものに何を求めるかの日韓のズレがある。安倍政権としては、日本側が謝罪し続けることを終わらせたい、ということを求めていた。 他方、韓国側としては、日本側が従軍慰安婦問題について謝罪しても、またすぐに日本の政治家達が、慰安婦とされた人々の被害を否定するような歴史修正主義的な言動を繰り返すということに終止符を打つことを求めていた。 第三に、日韓合意の「裏合意」の存在。その内容は、「被害者支援団体による、第三国での慰安婦関連碑・像の設置を韓国政府が支援しない」「韓国側は、従軍慰安婦について『性奴隷』との表現を使わない」等というものであった。検証を行った韓国外務省の作業部会は、「被害者の意見を十分に集約しなかった」「韓国側の負担となる不均衡な合意」であったとして、朴政権の決定を批判している。 韓国に「性奴隷」という表現を使わせないということは、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」とする河野談話からも後退した、とも言える。 〇日韓合意破綻は当然の結果だったことを認めるべき 日韓合意がまとめられた経緯として、北朝鮮の核開発・ミサイル実験へ対応するため、米国が日韓両政府に圧力をかけたとされている。日韓合意は「合意のための合意」であって、そこに日韓両国の間の、本当の意味での和解はなかった。 文大統領の日韓合意に否定的な一連の言動に対し、日本の政府関係者やメディアの「合意したことを覆すのか」と激しく反発している。確かに、朴政権下で、あまりに当事者達を無視して合意してしまった韓国側の責任も決して小さなものではないが、真の和解もなく、政府高官同士が当事者達の頭越しに決めた日韓合意そのものが重大な欠陥を抱えるもので、その破綻は当然の結果であることを、日本側も認めるべきだろう。 にほんブログ村 にほんブログ村教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など)
2018.03.12
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バングラディシュのテロ、イラク・バグダッドでのテロ、フランスのテロ・・・、立て続けに起こる痛ましいテロ事件。これは明らかに暴力の応酬となっています。思い起こされるのはフランスによるISへの空爆(死刑を廃止した国がなぜ罪も犯していない一般人を虐殺するのか?)、そして、2000年以降、イスラエルが行っているパレスチナ自治区やレバノンなどへの大規模な攻撃(女性や子どもなどの非戦闘員も多数殺傷)。 このような事件に対する 日本政府(安倍政権)の責任について、雨宮処凛がまとめていた ので一部抜粋・紹介しておきます。〔以下抜粋〕 バングラデシュで痛ましいテロ事件が起きた。 テロの犠牲になった中には、日本人も7人含まれていた。その中には、武装集団に対して「私は日本人だ!」「どうか撃たないで」と英語で懇願した人もいたという。 「戦争しない国」「イスラムに敵視されない国」「軍隊がない国」。そんな漠然としたこの国へのイメージが国際社会で共有されているという思いがあったからこそ、「日本人だ」という言葉が出たのだろう。しかし、日本人であることで免責される時代は終わった。このテロは、その事実を突きつけてくる。 テロ事件の翌々日、テレビを見ていると、安倍首相が選挙の応援演説をしていた。その中で首相はバングラデシュでのテロ事件に触れ、「テロを根絶するために、各国と連携していく」などと街宣車の上で語っていた。 開いた口が塞がらなかった。 2015年1月、よりによってイスラエル国旗の前で2億ドル出すなどと「ISとの戦い」を事実上宣言したことで、安倍首相は人質となっていた後藤健二さん、湯川遥菜さんの2名の命を危機に晒した。そして、2人の命は無残な形で奪われた。 その際にISは、以下のような声明を出している。 「アベよ、勝ち目のない戦いに参加するというおまえの無謀な決断のために、このナイフはケンジを殺すだけでなく、おまえの国民を、場所を問わずに殺戮するだろう。日本の悪夢が始まる」 報道によると、武装集団は日本人を狙って殺していたという。また、今回のテロ事件の声明文には、「我々は日本人の殺害に成功した。このような攻撃を今後も継続する」という一文もある。 安倍晋三という一人の人間の、国際情勢をまったく把握していないかに見える無神経な言動によって、この国に生きる人々はISに敵視され、「殺戮の対象」となってしまった。(・・・) イラクの首都でのテロという報道を受け、改めて思い出したのは、イラク・ファルージャの惨状だ。イラク政府軍がISからファルージャを奪還するために、この数ヶ月、ファルージャでどれほどの悲劇が起きていたか、一体どれくらいの人が知っているだろう。 「人間の盾」として最大で9万人とも言われる市民がファルージャに閉じ込められ、支援物資は届かず住民は餓死寸前。5歳の子どもが「空腹に耐えられないから殺してくれ」と親に懇願するような事態になっていたのだ。 このことを知らなくても、ある意味で仕方ないのかもしれない。なぜなら、日本ではほとんど報道されないのだから。しかし、安倍首相だけには「知らない」とは言わせたくない。 これほどにISが台頭してきた背景にあるのは、まぎれもなくイラク戦争とその後の泥沼の混乱であり、安倍首相はイラク戦争当時、内閣官房副長官だっただけでなく、その後の多くの時期を責任あるポストで過ごしてきたからだ。日本が真っ先に支持した戦争によってイラクでどれほどの悲劇が日々繰り広げられてきたか、そしてそれが今も続いているということを、「知らない」では絶対に済まされない。 しかし、各国がイラク戦争を「間違った戦争」であることを認め、政府をあげて検証が進められている中( 英のイラク参戦「最後の手段ではなかった」)、日本はなんの検証もせず、それどころか「間違っていなかった」というスタンスでの答弁を繰り返して、安保法制は成立した。(・・・) それだけでなく、今度は「貧困層を、奨学金をエサに自衛隊に誘う」という、米軍とそっくりそのまま同じことをしようとしていることが最近明らかになった。(・・・)〔コメント〕 英国がイラク戦争の検証を徹底的に行って報告書を作成したのと対照的に、そのような検証作業を全く進めようとしていないのが、日本の著しい特徴です。過ちを繰り返し暴力の連鎖を引き起こすことを防ぐには、何よりも歴史を検証することが必要であるにもかかわらず・・・。 以前、ジャーナリズムの観点を中心にベトナム戦争を検証したNHKの番組を紹介しましたが、日本政府の責任追及の部分は甘かったように感じました。第二次大戦後、米国がベトナムやイラクで行った「侵略戦争」にたいして、日本政府は一貫して無批判に支持・協力しています。 立憲主義をないがしろにした安保法制、参院選挙後に「後出しじゃんけん」で出てきた改憲論議(首相は「自民党改憲案」を中心に「憲法の前文」から変えていきたい、といっています。明確に歴史の反省を踏まえたものが「前文」であるにもかかわらず・・・。) 米国の戦争への支持・協力という歴史を真正面から検証しない限り、「集団的自衛権の行使」は暴力の連鎖を生み出すほかないでしょう。 にほんブログ村教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) 〕もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など)
2016.07.17
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ワイマール憲法から学ぶ、自民党憲法草案緊急事態条項の危うさ 2016年3月18日、上記番組を報道ステーションが特集しました。 まさに、歴史の教訓と現実の問題を浮き彫りにする素晴らしい番組でした。 以下、内容・画像の一部を紹介しますが、全文文字起しのPDFもぜひご覧ください。 ヒトラーの息遣いは、どんどんどんどん大きくなっていった。 ただ、ドイツの憲法は、世界一民主的な、あのワイマール憲法ですよ。 独裁なんていうものが、許されるわけがないんです。 じゃぁヒトラーは、どうしたんだ? 実は、使ったのは、ワイマール憲法の第48条、『国家緊急権』というやつなんです。 これがポイントです。 これは、国家が緊急事態に陥った場合に、大統領が、公共の安全と秩序、これを回復するために、必要な措置を取ることができる。 にほんブログ村 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。) 〔 「しょう」のブログ(2) 〕もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など)
2016.03.26
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表記番組が放映されてから一か月以上経ってしまいましたが、あるコラムに関連する文章を投稿しました。よろしければご一読ください。 ▼数百万のユダヤ人の命を奪ったナチスの強制収容所。実は大虐殺の始まる数年前から、ドイツ各地の精神科病院にガス室がつくられ回復の見込みがないとされた病人や「障害者」が殺されていたのだという。(NHK「それはホロコーストのリハーサルだった」)▼ナチスのプロパガンダ映画の中で彼らは生きる価値がない存在とされ、医療者も自分たちは正義だと信じて積極的に関わっていた点が衝撃的だった。殺害は日常の一部になっていたのだ。▼何かがおかしくなってきているが、日常は続いているという状態。今の日本についても考えさせられた。現政権は、この二年足らずで、歴代政府であれば自制したであろう法律や政策(特定秘密保護法、安保関連法、辺野古着工等)を次々に実現した。しかも、報道機関に圧力をかけて世論を導きながら・・・。▼さて、政治的宣伝の中、「異常な日常」が続くナチス政権下で司教フォン・ガーレンは「障害者の安楽死は殺人」「色々な人がいて当たり前」「『非生産的市民』を殺害することが許されるなら、我々すべてが老いて弱った時殺されるだろう」と訴える。この説教は数多く書き写されドイツ全土に広がることで、「殺害の停止命令」を実現したという。▼司教フォン・ガーレンのように、「当たり前のこと」を訴えることは今なお重要な意味を持つ。SEALSの若者も訴えているではないか。「民主主義が終わっているならまた始めればいい」と。 以下はNHKのホームページからの引用(番組紹介)です。 ユダヤ人大虐殺に比べて、表だって語られてこなかった障害者の虐殺。終戦から70年たち、事実に向き合う動きが始まっている。きっかけの一つは5年前、ドイツ精神医学精神療法神経学会が長年の沈黙を破り、過去に患者の殺害に関わったと謝罪したこと。学会は専門家に調査を依頼、この秋、報告書がまとまった。何があったのか。日本の障害者運動を率いてきた藤井克徳さん(自身は視覚障害)が現場を訪ねる。語りは大竹しのぶさん。(第3回:ハートネットTVでは8月に、ナチス政権時代、20万人以上の精神・知的障害のあるドイツ人らが殺害されたことや、ユダヤ人迫害が強まる中、ユダヤ人障害者たちを自らの作業所で積極的に雇い、ナチスからかくまったドイツ人視覚障害者がいたことを伝えてきました。 第3回は、現地を訪れ、これらのことを直に取材してきた藤井克徳さん(日本障害者協議会代表・自身も視覚障害)が、ドイツの精神医学会の元会長を直撃。なぜ、これだけ多くの障害者が殺されなければならなかったのか。そしてなぜ、本来命を救うべき医師が加担したのか疑問をぶつけます。また、もっと早く事態を察知し、止めようとする人はいなかったのか-。歴史家や、障害当事者とも対話し、掘り下げます。 「戦後70年」の馴染みのキャラクターも登場。同じ過ちを繰り返さないために、いま私たちが「命の価値」についてどう考えるべきか、時空を超えて問いかけます。) にほんブログ村教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
2015.12.23
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ここが変わった! ここまでわかった! 『日本の歴史』(朝日新聞社)がかなり注目されているようです。 幕末から維新を特集した号では、今の私たちが持つ「志士」像は明治政府による英雄化の産物だった、という記述があります。「幕末から明治初期に命を失った「殉難者」への贈位などを通じ、勤皇の志士を政治的に顕彰することによって、明治政府は自らの権威を高めるような歴史像を形成していった、」というわけです。 だとすれば、これまで私たちが常識と考えてきた幕末から維新の歴史が、「国家によって意図的に作られてきたものではないか」、「作られた歴史像に大きく影響されているのではないか」という問いを避けるべきではないでしょう。 今日顧みられるべきは、その時代において明治政府に対して明確に示された批判的見識ではないでしょうか。 例えば、士族から始まり民衆にも広がった「自由民権運動」は、その過程で自ら民主的な憲法案を作るなど、当時の藩閥政府に対する根本的な批判を形にしたとも言えます。しかし、それが結局、「国権論」に取り込まれ、明治政府との対決姿勢を鈍らせていったのは有名な話です。 確かに、鋭く根本的な批判となると当時の日本人にはかなり難しかった面もあるかもしれません。日清戦争あたりから、国力・軍事力拡張の流れが時代の風潮になっていくとすれば、なおさらでしょう。 しかしながら、明治政府の要人に一目置かれながらも、上記のような風潮に流されず、鋭く根本的な政府批判を行い続けた人物がいます。それは西郷隆盛とともに江戸城を無血開城に導いた勝海舟です。 彼の言動については『氷川清話』、『海舟座談』などにまとめられています。 それではまず、勝海舟 - Wikipedia から要点(一部)を引用しておきましょう。 勝は日本海軍の生みの親ともいうべき人物でありながら、海軍がその真価を初めて見せた日清戦争には終始反対し続けた。(・・・) 勝は戦勝気運に盛り上がる人々に、安直な欧米の植民地政策追従の愚かさや、中国大陸の大きさと中国という国の有り様を説き、卑下したり争う相手ではなく、むしろ共闘して欧米に対抗すべきだと主張した。 (引用は以上) 私は、勝海舟が日清戦争に反対だったことを数年前に初めて知り、感心しました。日本史の教科書には日露戦争に反対した人物(幸徳秋水や内村鑑三)は出てきますが、日清戦争に反対した人物は、出てきませんよね。 周知の通り、幕末、勝海舟は日本海軍の増強を主張し、海軍を支える人材の育成に力を注ぎましたが、あくまでその目的は日本に不当な圧力をかけてくる欧米諸国と対抗することであり、薩長両藩の優位に立つことやアジアに勢力を拡大することでは断じてなかったのです。 以下は、『氷川清話』に収められている海舟自身の言葉です。 おれは大反対だったよ 日清戦争にはおれは大反対だったよ。なぜかつて、兄弟喧嘩だもの犬も喰はないヂやないか。たとえ日本が勝つてもドーなる。支那はやはりスフインクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力が分つたら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る。ツマリ欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。 一体支那五億の民衆は日本にとつては最大の顧客サ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。 おれなどは維新前から日清韓三国合縦(がっしょう)の策を主唱して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものサ。〔『氷川清話』の注:「維新前から日清韓三国合縦の策」は「政治今昔談」の「軍備と海軍」のところに、神戸海軍操練所を設立した意図の一つとして説明されていた。幕末文久元年から元治元年ごろにかけて、海舟はこのために奔走している。〕 今日になって兄弟喧嘩をして、支那の内輪をサラケ出して、欧米の乗ずるところになるくらいなものサ。日清戦争の時、こういう詩を作った。 隣国交兵日(りんごくへいをまじうるのひ) 其戦更無名(そのいくささらにななし) 可憐鶏林肉(あわれむべしけいりんのにく) 割以与魯英(さきてもってろえいにあとう) 黄村などは、「“其戦更無名”とはあまりにひどい、すでに勅語も出て居ますことだから」といって大層忠告した。それでも『これは別のことだ』といって人にもみせた。(・・・) ともあれ、日本人もあまり戦争に勝つたなどと威張って居ると、後で大変な目にあうヨ。 『氷川清話』勝海舟/江藤淳、松浦玲編(講談社学術文庫、2000年)以下同】 海舟は日清戦争勝利後も、領土要求は欧米列強の新たな侵略をまねくとする立場からこれに反対したのですが、彼が予測した通り日清戦争後、欧米による猛烈な中国分割競争が始まるわけです。 さて、このような欧米による中国分割に対して一片の抗議もしなかった日本が、ずっと後に欧米帝国主義国の支配からアジアを解放するとして「大東亜共栄圏」という言葉を使います。 これが文字通り「アジア全体を各国が共存共栄する対等な共同体にする」という意味であればいいのですが、だとすれば日本がアジアのどこか(例えば朝鮮や台湾)を植民地支配するということはあってはならないはずです。 ごまかしのない「大東亜共栄圏」は、(日清韓三国合縦を主張し、日清戦争に反対した)勝海舟や石橋湛山(「大東亜共栄圏」を主張するのであれば、日本はアジアに領土を拡張すべきでない、植民地を率先して放棄すべきであると主張した)の構想の延長上にしかないはずだと思うのです。〔なお、勝海舟 - Wikipedia はもちろん海舟自身の回顧を中心とする『氷川清話』も信頼性に乏しいという見方は当然できます。とことん資料に基づいて事実を追いかけた書として、松浦玲(歴史学者)の『勝海舟』(筑摩書房)がありますのでお勧めします。私自身も通読しましたが、上記記事の趣旨を根本的に変更する必要はないと判断いたしました。(2021年5月付記)〕 にほんブログ村 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。) 〔 「しょう」のブログ(2) 〕もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など)
2013.08.27
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