PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

k-nana

k-nana

カレンダー

お気に入りブログ

映画「海の沈黙」 New! みらい0614さん

モロヘイヤの種241126 New! いちろん92さん

記憶にない作品 ちぇちぇこりんたさん

飛ぶように売れる製… 鍛冶屋の息子さん
アフィリエイト・プ… 藍玉.さん

コメント新着

k-nana @ Re[1]:ミシンよ・・・(11/23) いちろん92さんへ ありがとうございます…
いちろん92 @ Re:ミシンよ・・・(11/23) おめでとうございます楽しい1年になりま…
k-nana @ Re[1]:晴天霹靂(11/20) いちろん92さんへ 苦手意識はありますが^…
いちろん92 @ Re:晴天霹靂(11/20) ラッキー☆笑 活用するのみ!
k-nana @ Re[1]:そればっかり(11/15) いちろん92さんへ 転職しまくってきまし…

フリーページ

2005年08月28日
XML
手結川 中マロさんへ。
掲示板で面白そうな話題があったので、トラックバックかけさせていただきました。
(レス書いてたら長くなってしまったので・・・)


>>明治の偉勲たちね、芸者さんと結婚しているんだよ。
*****
実はですね。
明治の偉勲たちって、ほとんどがもと下級の武士の次男・三男で、徳川幕府の敵対者でもあり、ずっとテロリストまがいの事を続けて生き残ってきた人なんです。

幕末~明治維新の数年は(日本にしては)ものすごい混乱の時代で、ひと口にはいえないんですが、外圧によって日本人が
「幕府の味方(佐幕)v.s.幕府の敵(討幕)」
に分かれてしまったと考えるのが一番分かり易いでしょうか・・・。

幕と 幕が混同して使われてるのが問題なんだな~。音が同じだし、意味も似てるから。
そこに攘夷(外国を追っ払うこと)か非攘夷かが混じっちゃうからもっと混乱しますが、はっきり言えば、攘夷を考えていない日本人(武士)はいなかった (外国を追っ払うために外国の力を借りようと考える人もいますが、それは最終的に「富国強兵」につながっていきます)
勤皇・尊皇という天皇崇拝の考え方を持ち出してきたのは幕府の将軍に対抗するためという事情もあるので、これも攘夷とひっくるめて、時勢を考えてる人なら全員共通の思想です。ので、尊皇で攘夷かどうかはおいときます。

「幕府=将軍(徳川)」と思うと分からないけれど、「幕府=政府」と捕らえるのがベターでしょうか。
今学校では討幕側に立った 「明治維新の功労者(倒幕派で討幕派)」 が辿ってきた道が教えられてるわけですが、どうしてどうして、佐幕側も色々(笑)
佐幕は佐幕でも無批判に幕府を守ってきた人は、どちらかといえば当時から軽蔑の対象でした。
(だから歴史の中でも分かりにくい時代ですが)

現代でいえば・・・そうだなあ。
「自民党をまったく肯定する人 (完全佐幕派) と、 「なんだかんだ言っても自民党かなあと思う人 (倒幕派で佐幕派) 」と、「自民なんか絶対ダメ (倒幕派で討幕派) とに分かれてる状態を考えるといいのかなっと。
( 青が親幕府派 赤が倒幕派
しかも思想の主流は 倒幕派 。よほど幕府万歳な幕府閣僚でなければ、皆倒幕を考えていました。 何しろ最後の将軍・徳川慶喜さえも倒幕派^^;(この人は、将軍やってるより幕府閣僚の時代の方がずっと長く、面白いです)
ただ、「 幕派」になってしまうと、 武力で解決するという過激思想 になるので、そこで意見が分かれました。
で、明治の元勲がどこに入るかというと、「 倒幕派で討幕派 」、その中でも最過激派といっていい。
その中心になったのが、 長州 ・薩摩の武士。多少土佐・肥後などが入ります。主導は水戸でしたが、途中で力尽きちゃった。
幕府がホントに崩壊したときは、まだどっちが勝つか分からないので、数日~数年は、様子見に徹した藩がほとんどです。比較的西側の方がドライだったんで、幕府側はどんどん北に追い詰められて、最後函館でドンパチやって終結します。それが 戊辰戦争
でも、最後の最後に文句を言ったのは最南端の薩摩ですけど(西南戦争)
(沖縄と北海道のほとんどはカヤの外^^; 調べれば色々ありますが)


明治維新の功労者の代表である、 伊藤博文・桂小五郎(木戸孝允)は長州、西郷隆盛や大隈重信は薩摩、坂本龍馬や中岡新太郎は土佐 です。
特に伊藤は過激派の中でも一番過激な 高杉晋作 の腰巾着だし。それに比べれば、桂はソフト路線ですねえ。

で、すいません。出だしが長くなりました。

連中エラソな顔してますが、実際は刀振り回し鉄砲撃ちまくりで、ホントに血の雨の中をくぐってきたような連中ばっかです。自分で斬った張ったはやってなくても、人には守られてるから、修羅場は日常茶飯事。
というのは、討幕派が、大規模な戦争を起こすと外国勢が喜んで介入してきてしまいには乗っ取られて植民地化されてしまうので、テロによって幕府側の要人を減らしてしまえという路線をとったからです。
同時期にアメリカの南北戦争があって、アメリカが日本どころではなくなったのはラッキーでした。

で、京都の遊女には、そういう人を影で支えてきた人も多いんですね。
遊女の世界も裏社会的なところがありますから。
その頃の テロたちが密会場所に遊郭を選ぶ ことが多いってのが笑えるっちゃー笑えるんですけど、一応 密室 なのと、基本的に 密談は夜 なのと、花街は「トラブルお断り」で「 敵に会っても知らんぷりしとけ 」という暗黙の了解があったのがポイント(笑)京都のお店ってイチゲンサンお断りが多いらしいですが、その気風は当時の方が今よりずっと強いので、自然に敵味方の 住みわけ もできていきますしね。佐幕派は堂々と官許の島原・討幕派はちょっとこそこそと非官許の祗園・先斗町など。なじみの遊女ができればその店に通うし、信用のおけない店や遊女は使えない。
・・・呑気といえば呑気デス。明治維新以降、そういう呑気な部分がなくなっちゃったのは惜しい(??)
だから、 彼女たちが仕事ができるっていうのは一種のタテマエ・照れ隠しで、要するに生死をかけ合い、 秘密を分かち合った (重要) なんです よね。
色んな意味で離れられませんね(爆)
伊藤博文・桂小五郎なんかは好例です。

もうひとつ。
当時、特に 武士 は男も女も結婚て「家」を守るための義務だったので、女性の方が強調されがちですが、男性にも相手を選ぶ自由はなかったんです。
特に次男・三男は、ムコ養子に行かない限り、存在価値のない厄介者・冷や飯食いです。
はっきりいって幕末の武士は上から下まで貧乏なんですが、身分制が固く、子供が多いからって給料を増やすこともほとんどできなかったんです。
だから、嫁さんをもらう・婿に行くというのは、切実な「一人前」の証だったわけです。
でも、子供が無事に育つ保証のない時代ですから、長男だけいればいいってモノでもなく、保険のためにも子供は多くいないと困る・・・。
一応一夫一婦ではないのでお妾さんを持つこともできましたが、妻も子も養えた上で、なおかつもう一軒分メンドウを見られる甲斐性が要求されました。月いくらって決まってたんですよ!
けど、下級武士にはそんな余裕は無いです。 最下級武士の年収は3両1分。
テロ時代も、公金もしくは金ヅル見つけてなければ遊郭行くことも遊女買うことも、まして身請けなんか絶対無理!
(それに、地方によっては遊女は妾にもできなかったようですし)

明治になってそのワクを彼ら自身が取っ払ってしまいましたから、喜んで遊女(というか、当時のアイドル的存在)を妻にもらったんだろうな~、と^^;
それに、大手を振れる金持ちになった分、ヨソに何人も女性囲ってたし(爆)


>名家の夫人どうしでも社交とか無い?
>「奥」って、どういう意味なんだろう...。
****
「奥さん」は、武士の妻で、本当は本当に家から出ちゃいけない存在だったんで、 「家の奥にいる人」=「奥さん」  文字通り。
だから、彼女たちには社交は無いどころか、実家・親戚か寺社に行く以外は家から出られません。散歩も不可です(あくまでタテマエ) 寺参りする女性が多かったのは、何も信心からだけではなかったみたいな(笑)もちろんお芝居もダメです。
社交界に女性が出られるのは、日本では古代貴族社会か、ヨーロッパの文化ですよね。
でも、実際は相当上流の人じゃないと、そんな生活は無理です。中級武士でも、ひょっとしたら夫婦ともに内職やってカツカツです。
武士は武士でも、妻が家事でも内職でも何もかもやらなきゃならない中級以下の場合、奥さんとは呼ばれなかったそうです。ご新造さん(≒現代の若奥さん)とか。
庶民はおかみさんかな・・。どんなに金持ちの商家でも。
それ以外の人が奥さんと呼ばれるのはタブーです。
(中級でも「奥さん」と呼ばれるのは、お世辞^^;)
旦那さん同様、奥さんもスティタスでした。

明治以降「奥さん」が流行ったのは、やっぱり身分制度が取っ払われたので、
  憧れの武士階級の尊称を使ってもお咎めを受けないぞ!
という庶民の気持ちの表れかもしれません・・・。

それ考えると、自分が家事全般やって仕事やってる現代セレブは、全然「せれぶ」じゃないんですよね^^;


>そういや、遊郭?の、売れっ子ってのは
>詩とか音楽とか一般教養を鍛えられて
>すごい高嶺の花なんだよね。
*****
どうも、 色と芸はワンセット だったんじゃないかなという気がします。
唄も踊りも、今みたく舞台でやってみんなに見てもらうものではないんですね。
つまりは接待業ですから、芸を見てもらい、お酒とトコの相手をしてナンボです。で、高級な遊女になるほど接待する相手のランクも上がっていきますから、お客に話を合わせるためにも、知識はたくさん持ってなければならないし、何か売りがなければお客もつきません。飽きられたら終りです。
今なら、ピアノ弾いてオペラ歌って社交ダンスもし、ハイセンスなお話もしなければならないし、かと思えばカラオケで演歌もポップスも洋楽もこなせ、クラブダンスもでき、下世話な話題にも対応できて、なおかつ床上手でないと(爆)
お酌をするのと寝るのとが同じ感覚というのも、なんかスゴイ気はしますけど^^;
その代わり、男の方もトコまで一緒にしてもらうには、馴染みになってお世辞の1つは言わねばならないし、1度馴染みになるとと浮気はできません(爆)選り取りみどりのようでいて結構規制は厳しい・・・。
3つか4つから仕込まれて、13・14くらいから現場に出て行き、27には強制引退(普通は27で年季あけなので)

だから場末の「色しか売れない」遊女は軽蔑されますが、遊郭の最上級遊女は現代のスーパーモデル級の扱いで、ブロマイド(浮世絵)も出るし、服装や髪形の流行も決めるし、気に入らない客は振ってもいいし、所属する会社(店)を変えることもできます(店主次第ですが)
情報誌もあって、よく売れたそうです。
まあ、そんなすごい遊女は本当にひと握りですが。
1両2分で一家五人が暮らせた時代に、一晩1両ちょいですからね~。
そんな遊女がどこにでもいるわけではなくて、江戸なら吉原、京都なら島原。祗園も島原に比べると、だいぶ格が落ちたらしいです(非官許だから)
景気の良くない時期は、客がいなくて辛かったようですよ。値下げするわけにも^^;
江戸では遊女を身請けしたりするのはやっぱりあまり品の良くないことなんですが、京大坂の遊女はむしろ誇りだったりしたようです。

ただ、あくまで遊女は店の持ち物 (借金のカタ。それも、普通は親の・・・) なので、いくら稼いでも借金返済でしかなく、お客がいなければその晩のゴハンも食べれません(客のお相伴)
芸事のお稽古代も着物も化粧品も自分で買わなければならないし(できないので、それも店から借金になる)、借金を返済するか、身請けされるか、27歳になるまでガマンするか、しかない・・・。
そう思うと、やっぱりつらい仕事です。

芸者(舞妓芸妓)は芸だけで色を売らない(建前^^;)ので、ずっと安いし、実は二流扱いだったりして^^;
自前(店に所属しないでフリーでやること)もO.K.なので、結構年がいってからもできたようです。
でも、公然と色を売る芸者は「枕芸者」と呼ばれて、やっぱり軽蔑の対象になるみたいですね^^;


ってことで、大きなお世話ですみません。
少しでも面白がっていただければ幸いです^^





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2005年08月28日 18時54分19秒
コメント(2) | コメントを書く
[新選組や幕末のこと] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X

Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: