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2021.04.03
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​  仲正昌樹「《日本の思想》講義」(作品社)


 最近ボケ防止のために読んでいる本がいくつかあります。たとえば、今読んでいる 仲正昌樹という人の「《日本の思想》講義」 という本がありますが、この本は戦後民主主義といえば、必ず名前が出てくる 丸山眞男 という政治学者の、あまりにも有名な 「日本の思想」(岩波新書) という本を、詳しく講義、講読しましょうという、多分実際の市民講座かなにか 仲正昌樹さん がおやりになった八回分の「講座」を本にしたものです。
 この本ですね。あまりにも有名な本ですが、この本についての講義です。何時間かの講義ということで、当たり前の話ですが、 「100分でわかるなんとか」 とは少しおもむきが違いますが、でも、まあ、似たような本です。
 ぼくは戦後民主主義であろうが、現代の日本社会であろうが、この国で「社会とは何か」と考える時に、 丸山眞男 とかから始めるのが常識だと教えられた学生時代を過ごしたからでしょうか、亡くなって、著作集とかが出た時に、勤めていた高校の図書館にそろえて並べたのですが、日本史だか世界史だかを教えている同僚に 「あの、これ、誰が読むんですかね?」 と問われて、 「そういうもんか」 と思いました。まあ、そうはいっても、この新書の中の 「であることとすること」 という文章は高校の国語の定番でしたから、反応の率直さに、ちょっと驚きました。もう、誰も読まないのですね。
で、その誰も読まない 丸山眞男 を、わざわざ講義しているところが、まあ、 「100分で」 の類の本とは少し違うのかもしれません。
 目次はこんな感じです。 ​​
前書き  丸山の“お説教”をもう一度聞く―「3・11」後、民主主義ははたして“限界”なのだろうか?と思う人々へ
講義第1回  「新しい」思想という病―「なんでも2・0」、「キャラ・立ち位置」、「人脈関係」という幻想
講義第2回  「國體」という呪縛―無構造性、あるいは無限責任
講義第3回  フィクションとしての制度―「法」や「社会契約」をベタに受けとらない
講義第4回  物神化、そしてナマな現実を抽象化するということ
講義第5回  無構造性、タコツボ、イメージ支配―ネット社会で「日本の思想」という“病”を考える
講義第6回  “『である』ことと『する』ということ”を深読みしてみる
後書き “即効性”の思想など、ない
​​ ​ 大きなお世話かもしれませんが、読み終えて思うのです。高校で 「であることとすること」 とかを、まだ授業なさっている国語科の教員の皆さんは、 第6回 くらいはお読みになられたらいいんじゃないでしょうか。
 ボケ防止と、最初にいいましたが、20代から30代に、読んだ 丸山眞男 なのですが、かなりきちんとした復習になりましたよ。 「国体」 「ナチス」 がどうのとか、そういえば、また流行っているかもという カール・シュミット ミッシェル・フーコー がどっちむいているとか、なかなか、リフレッシュしました。
 で、この講義は、面白い講義の常ですが、ちょっと横道というか、今、目の前の現実にオシャベリが拡がるところが、ぼくには面白かったのですが、一つ紹介しますね。
​その共通の像というものが非常に広がっていきますと、その化け物のほうが本物よりリアリティを持ってくる。つまり本物自身の全体の姿というものを、われわれが感知し、確かめることができないので、現実にはそういうイメージを頼りにして、多くの人が判断し行動していると、実際はそのイメージがどんな幻想であり、間違っていようとも、どんなに原物と離れていようと、それにおかまいなく、そういうイメージが新たな現実をつくりだして行く―イリュージョンの方が現実よりも一層リアル意味をもつという逆説的な事態が起こるのではないかと思うのであります。(「日本の思想」第3章「思想のあり方」)​
学問をしている人たちでも、学派や学会という「仲間内」で、実際に起こる、 丸山用語 でいう 「タコつぼ化」 について述べているところが話題になっているのですが、ここを引用して 仲正先生 はこんなふうにおしゃっています。​
「イリュージョン(幻想)」と「リアリティー(現実)」の逆転ということですね。これは間主観性論や共同幻想論の前提になっていることですね。現実とは違う事でも、当事者たちの間でその錯覚が「現実」として通用するのであれば、その人たちの間でそれが「現実」になってしまうわけです。
 ミクロなレベルで言えば、先ほどの、サイバー・カスケード化したネット共同体―実際には、ミニ・サークルであることの方が多いのですが、―の内部で、「本当の話」として通用するのであれば、出鱈目な話でも構いません。というより、仲間内で通用するものが「本物」で、それが本当に『ホンモノ』かどうか、サークルの「外」に出て確かめようなどとは思はない。当人たちは、 ネット上で自分たちと「同じ意見」を発見することによって、確認しているつもりになっている わけです。
​ ​もっとマクロなレベルで言うと、国家と下方とか道徳とか常識とか世論とかは、どこかに実在しているのではなく、みんなが信じていることによって「存在」しているわけです。 みんなが、「法なんてない!」と思うようになったら、実際、法は消滅します 。​
​​​​​ ​  丸山眞男 がこの話をしたのは1960年代だと思いますが、 仲正先生 は現代の「日本社会」の現象を語っていらっしゃると思いますが、実は10年前2012年ことです。
 で、 仲正先生 の解説で、ぼくがキーワードというか、ここがカギだと思ったのはここでした。
「当人たちは、ネット上で自分たちと「同じ意見」を発見することによって、確認しているつもりになっている」
丸山眞男の1960年 の「現代」には、もともと「閉鎖的」な学問の世界で起こっていた、真理の「幻想化」、「タコつぼ化」が、 仲正先生の2010年 の「現代」ではミニ・サークルの中で進行しているという指摘ですが、この講義から10年たった 2021年 の「現代」においては、ミニサークルどころか、マスコミも一緒になって、大衆的な大 「タコつぼ」化 しているように見えます。
「ヘイト」 な言葉を吐き散らす人たちの「歴史」や「社会」に対する認識の危うさに限らず、例えば 「コロナ」 に対する政策への理解のような、ある意味、人々にとって、直接的には 「命懸け」 になりかねない社会認識においても 「幻想的」 な理解の 「妄想性」 について、気づく手立てさえもを失いつつある現実が目の前にあるのではないでしょうか。
 マスコミが 「共同幻想」 の大量生産装置であることは、20世紀の常識であったはずなのですが、ネットやSNSという加速装置を手に入れた 「幻想力」 は、 仲正先生 がこの講義をなさってから10年、想像以上のパワーで 「巨大サークル化」 して、世界を変えつつあるように感じるのは「幻想」でしょうか。
 もうこうなったら、ボケ防止どころか、正気でいることの「不可能性」の時代という感じがしますね。
仲正先生 は、この後、「社会生活」をする個人に襲いかかっている 「キャラ化」 の問題についても触れられていて、 丸山眞男 はともかく、現代社会について、「ああ、なるほど」と納得する講義でした。
なんか、興味湧いてきませんか?まあ、「授業」とか「講義」とかいうものの常で、めんどくさいですが。

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最終更新日  2021.06.24 01:19:23
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