日記はこれから書かれるところです。

日記はこれから書かれるところです。

2005.12.01
XML
カテゴリ: 今日の言葉
今回は長い引用なので、冒頭にも少しコメントする。
自己決定権というイッシューは大変に奥の深いものである。以前も書いたが自己決定権はステレオタイプとしてではなく、個別具体的な現場における切実な<実践>においてしか主張されえないはずだ。そして、その主張の内実は、われわれ多数派には受け入れ難いもののはずだ。多数派に受け入れ難いものだからこそ、<権利>の主張となるはずだ。多数派に受け入れやすいものを「権利」として主張する必要などないのだから。
以下、立岩真也の議論を引用する。


「自己決定」は近代社会の基本的な原理とも言えるのだから、この主張は遅れてやってきた主張だということになる。なぜか。なぜこの時になって、ことさらに自己決定が主張されたか、されなければならなかったのか。
答えはいろいろ考えられるが、一つの主要な理由は単純なものだと思う。この人たちに自己決定させることは、この人たちのまわりにいる人たちにとって不都合であり、負担だからである。例えば、身体が動かない人の自己決定を尊重するとは、その人の身体の代わりに他の人が身体を動かさなくてはならないということである。また、その人がこの社会の中では稼げない人であるのなら、その人の自己決定を尊重した暮らしを送ることができるようにするとは、他の人の稼ぎをその人の生活のためにまわすということである。これは負担である。
だからこそ自己決定は実現されてこなかった。だからこそ実現しようという主張があり運動があったし、今もある。(ところで、「自己決定を尊重したいとは思うが、予算の都合で限界がある」とよく役所の人は言うし、私たちも言うのだが、それは「自己決定を尊重しない」こととほとんど同じであることには注意した方がよい。というのも、それ以外に自己決定を否定する積極的な理由はなく、ほぼそれだけが否定の理由なのだから、このような言い訳は「自己決定の尊重」を正面から否定しているのである。)――立岩真也『弱くある自由へ』


憲法条文に書かれている「権利」がステレオタイプ化し、それが守らねばならぬものとして「義務」という「自由の反対物」へと転化する可能性が常にあることは否定できない。あるいは、ステレオタイプで自由を賛美する人間は、世の中がおかしくなり始めたときには、率先して自由を呪うようになる可能性は否定できないどころか、容易に想像できる。これはちょうど「子ども」好きが、実は「自分の言うことを聞く子ども」が好きなだけだという卑近な例と似ている。
他者の自由を認めるということはどういうことなのか、自己決定を認めるということはどういうことなのか。これをしっかり考えていなければ、思わぬ反動の渦に巻き込まれて、「自由にも限度がある」などといった無根拠の蒙昧な意見しか吐くことはできまい。このような言を吐く者は、すべての自由を否定し、自らも放棄しなければならないはずだ。
自由とは、ある種の生き方の倫理を規定するものだ。それをどのように受け入れていくのか。自由は、自らの尊厳を持った民度の高い人たちにふさわしい<生き方>ではなかろうか。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2005.12.02 01:33:26
コメント(0) | コメントを書く
[今日の言葉] カテゴリの最新記事


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: