日記はこれから書かれるところです。

日記はこれから書かれるところです。

2005.12.10
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(上)


■日本が占領されることの何が怖いことなのか?

いつもならこのまま進みたいと思うような論の道というのがあるのだが、今回は迂回路戦略を採っているわけだ。そこは禁欲的にいく。また極論をぶつ。降伏して、占領されたところまで考えてしまおう。ここまで考えてくれているナショナリストの論に出会ったことがないのはどうしたことだろう。彼らはそういう最悪の事態を避けるために、一生懸命タンパク質を消費しているのだ、とでも言うのだろうか。しかし、どこが最悪の事態なんだ?ちょっと前に経験したことじゃないか。そして、多くの人間がそれを難なく受け入れたのではなかったか。今回の相手は違う?

さっきと同じ問いになったので、同じように繰り返して答えても良いのだが、もう少し、極論をぶってみよう。もしかすると、彼らは「同化政策」が怖いのかもしれない。面白いことに、パラノイアというのは、自分が非難された言葉を相手に投影して脅えるところがある。自分が過去にやったことだからこそ、その想像できる範囲内で想像して脅える。まあ、しかし、そういうことを言うよりも、極論ぶちつつ、それに付き合おう。相手が占領後、「同化政策」を採ったらどうなるか。


■同化政策はどこまで怖いか?

さて、俺はここからかなり際どい極論をぶつことになる。ある派からは非国民と罵られ、ある派からは差別主義者と侮蔑されるかもしれない。でもね、極論ですからね。俺がやってるのは極論で、そうなるべきだっていう論理構成と明らかに違いますのでね。念のため。

同化政策というのは、常日頃行われている。歴史的にみれば、ちょっと前まで国家なんて概念はなかったわけだし、天皇をして現在の物理的境界をもつ「日本」と呼ばれる土地の文化だか伝統だかを表象するのも、恣意的な後付け解釈の枠を超え得るはずがない。沖縄の人はそれをどう受け取るべきなのか、とか、歯舞の人はそれをどう受け取るべきなのか、とか、ちょっと考えればわかるんじゃなかろうか。琉球王国は平気で文化から捨象しておいて、天皇は表象させるってのは、「明治」を内面化しているからに過ぎない。それを超えないと意味がない。

だが、さらに、俺がここで言いたい「同化政策」ってのは、そういう周縁の人びとのこととは違う。国家を超えた<周縁>の人びとのことだ。俺もその一員でありたいと考えているのだが、俺のような立場から言わせてもらえば、アメリカに生まれていればアメリカっぽくなったであろう俺を、エジプトに生まれていればエジプトらしくなったであろう俺を、この土地に生まれたために「日本」に「同化」させられてるって言いたいだけだ。民族性なんて言うのはおよしよ。その概念からして、俺は「文化」に「教育」されてはじめてわかるものなんだから。

俺は文化的差異を認めないのか?いや違う。文化的差異を認めさせるための闘争の方法論の違いを言っているだけだ。アメリカの黒人を考えたい。あるいは、この島国に住む在日朝鮮人を考えたい。俺は、暴力的に連れて来られたという歴史的事実関係についてことさら言い立てるつもりはない。正直、俺はそういう方々と話したこともないからわからない。そんなことは、そもそも問題じゃないんだ。それよりも、今、現に生まれてきている<周縁>の人のことを言っているわけだ。彼らにとって「自分たちの」文化ってなんだ?ただ単に、外的環境による「同化」強制力に過ぎないんじゃないのか?言語も制度も強制力を持っているわけだ。

彼らの文化的差異を認めさせるには何が必要なんだ?国家による庇護か?いや、もっと正直な問いに変えよう。俺たちの文化的差異を認めさせるには何が必要なんだ?武装か?冗談じゃないぜ。お前等、文化を守るとかアイデンティティを守るって言って、俺の<文化>を奪おうってのか?冗談じゃないぜ。

ちょっと、ロックなノリになってきてしまったが、アメリカの黒人のことを考えよう。彼らの文化的差異の主張は(現状、とても誉められたレベルまで達していないが、それでも)、やはり、合衆国憲法の<実践>によって認められるところまで至ったんだ。勘違いしないでくれよ。俺はここで、憲法が重要だと言いたいんじゃない。文化的差異を認めさせるのには、国家という歪な殻に閉じ篭ろうとする方法と、民主的=立憲主義的<実践>の積み重ねを行うという方法の二つがあると言いたいだけだ。「自分らしさ」を確保するにおいて、ヒトラーを選ぶのか、キング牧師を選ぶのか、それだけのことだ。(まあ、これは極論で、その選択まで行くとは到底思えないけどな。)


■純粋な人たち

ナショナリズムってのがロマンティシズムと絡むのは、自分ってもの(の観念)への憧憬なんだろうと思う。不安を抱え、いろいろと揺れ動く自分ではなく、健全で確固とした自分を、文化とか伝統と呼ばれるもののなかに想定したいという希望に満ちているんだろうと思う。だから、心の弱い大衆に最も生じる幻想だといえる。純粋なんだな。ロマンティシズム。見たこともないローマ。きっと綺麗なはずのローマ。健全。美。愛。

でも、そこから排除される人たちがいることを忘れちゃいけない。というよりも、自分だって、そういう「一般」を想定すれば、どこかしら外れてしまうはずだ。三島由紀夫が怖さから特攻隊志願ができずにそれがトラウマになってあのような結末を辿ったように、そういう想定をすると、外れている自分まで許せなくなってしまう。そして、政治家たちは、そういう健全国家の想定を煽りつつ、自分の子弟は徴兵逃れをさせるというエゴを振るう。国家的アイデンティティというのは、純粋な者への抑圧に過ぎないのじゃなかろうか。汚い者を俺は憎む。そして、純粋な者が考えないことをもまた俺は憎む。


■「制度」は「教育」する

まあ、本当に書きたいことを横目に、だいぶ迂回路を辿った。もちろん、ちっとも書きたいことに近づいていない。でも、ある程度の距離でもって、しっかりと歩いた。最後に言いたいことは、人の集団は、すでに抑圧的だということだ。権力が介在するということだ。「制度」を形作るということだ。親と子、教師と学生、上司と部下、新しい場で、新しい共通言語をつくるときには、権力が介在してくる。そのことに自覚的であることが、これからの時代において最も大切なことではなかろうか。自分がいつ抑圧側に回っているのかわからないからこそ。





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Last updated  2005.12.11 02:22:28
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