日記はこれから書かれるところです。

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2006.02.22
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なんというか、「難しいことは考えずに今の感情に素直に従おう」という考えがまた最近出てきているように思えます。ちょっと怖いです。

前々回挙げた、無学文盲の人間は「神」というものに弱い、といったことと通ずる気がします。

特に、靖国問題については幾度か語ってきましたが、一生懸命お国のために戦って死んだんだから尊ぶべきだ、という言が、参拝を支持する人たちのすべてのスタートのように思われます。

そういう「志向性」(つまり、靖国を肯定的に捉えたいという意志)があると、すべてのことが肯定的に見えてきます。そして、反面、そのことで見えなくなるものもまた生じてきます。

確かに尊ぶべきかもしれない。でも、それは決して戦争肯定には至らないはずです。

ちょっとしたアナロジーを想起してみます。

酷い社長が経営する会社があるとします。酷い経営なんだから、もちろん業績は右肩下がりです。そのような中で、それでもここは自分の持ち場だからと、そこを離れずに、結局倒産するまで付き合う(言うまでもなく、倒産は関係者たちに迷惑を掛けます)。

確かに、この人は天晴れです。認めます。しかし、その人は、それをまた繰り返すのでしょうか。というか、繰り返すべきなのでしょうか。

いや、僕は嘘をつきました。そんなもんじゃない。

もっと考えなければならないのは、戦争に至れば、その人は死ぬってことです(いや、もっともっとの人がです)。その失敗を経験に変えることもできない。それは後世に伝えるとでも言うんですか? そして、それなのに教訓を何も伝えられていないかのように、再度同じ過ちを繰り返そうと言うのですか?

祖国のためって何でしょうか?

それは社長が間違っているとわかっていながら従うことでしょうか?

あるいは、社長が間違ってるんじゃないかと思えてきたときも、周りが一生懸命にやっている仲間達だからと、疑うことをやめることでしょうか?


そもそも、を語りましょうか。

会社に残る態度は天晴れだという考えについてです。

ちょっと難しくなりますが、その考え自体がイデオロギッシュです。つまり、自分がそう考えてしまうのは、そう思わされるような権力構造があるからです。

ヴィトゲンシュタインが「言語ゲーム論」で論証したのは、『私』が思考の主体としては存在していない、ということです。

つまり、自分で思ってると思ってることは、端的に「思わされてる」ことなわけです。

だから、「反戦老年委員会」のましまさんが語られていたように、「狂気、狂気、狂気。正気なのは売春婦ぐらいでした」というような「狂気の時代」が「全体的雰囲気」として生じてしまうわけです。皆が「直感的に信じて」それを導いていくわけです。

「素直」とか「直感」という言葉は本当に怖いものです。

繰り返しますが、それらが生じるのは、そうした感情を抱かせる「全体的雰囲気」があるからに過ぎません。

それのことを、僕は「<知>の前提」と呼んできました。

もうちょっと分析してみましょうか。

そうした感情を抱かせる要素はたくさんあり、そのときに応じて異なりますが、この国に住む人たち多くが、先のような社員を「天晴れ」と思う「<知>の前提」を考えてみましょう。

そこには、「忠臣の理想」がまずあります。多くの人が「忠」ということを評価するように教育されている。さらに、「祖国」という考えがあります。自分はこの国に生まれたという「運命性」を感じているはずです。

ですが、そうした事柄は、完全なる「刷り込み」のはずです。そうした<知>の前提に導かれて、我々はそれを「天晴れ」と「素直」に「直感」するわけです。

もちろん、昨今は変わってきたところがあることに気付かれているでしょう。

先の会社の例で語れば、そうした会社を見切らない方がバカだ。という考えもあるでしょう。

そして、言うまでも無く、それは「<知>の前提」が変わってきてるからに他なりません。多少の語弊を恐れずに、欧米化したとでも言いましょうか。

僕が、変わって良かったなんて言ってるわけじゃないことは、読者諸賢にはお分かりになるでしょう。ここで述べたいのは、「それは変わる」という事実だけです。


さて、僕はどうなのでしょう?

僕ももちろんそうした<知>の前提に支えられて思考しています。

だから、やはり先の社員を天晴れと思います。命を投げ出した方々を尊いと思います。

しかし、それだからといって、「素直」に、感じたままに、行動はしません。人を不幸にする事柄に与している可能性をいつも考えて生きる・・・のは無理かもしれませんが、少なくともそうしようと努力はしています。それくらいの責任は持たねばならないと思っています。

<自己へのケア>というのは、そうした「不断の自己反省」、つまり、自分が素直に思ってしまうことへの反省であるはずです。自分でない自分というものを志向する態度であるはずです。

どうして、そうするのか。

「直感」や「素直さ」は、事柄を「歪んで見せる」力があるからです。

先日miyauさんがコメントしてくださったように、誰もが悪いと認める事実さえもが目に入らなくなり、その人を賛美するようになってしまったりするからです。

前回、前々回に書いたように、そして次回また書くように、その陰で、最も弱き人たちをさらに不幸にすることを手伝っている可能性があるからです。

「素直」な「自分」は<自分>ではないという可能性に、目を閉ざしたくありません。自分が安心して生活できる位置にいるからこそできるような、簡単に「ラベル」を貼って満足するという態度はとりたくありません。もう少しだけ<他者>への開かれた態度を採りたいと考えているわけです。もちろん100%がありえない営為ですが、論理は、少しだけそこに近付くのを手伝ってくれます。





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Last updated  2006.02.23 05:09:43
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