日記はこれから書かれるところです。

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2008.01.10
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立憲主義というのは、非常に困った制度である。

何が困るかと言うと、立憲主義の哲学的基礎の、「哲学的」という部分が、もはや万人の共感を得にくい時代に入ってきてしまっているということなのだ。

立憲主義というものは、民主主義と、本質的に緊張を孕んだ関係にある、とよく言われる。

一般的な理解における民主的決定なるものは、多数派の意思が表現されたものだが、それに対し、リベラルな価値(つまり権利)を基礎とする立憲主義は、ときにそうした多数派の決め事にNOを言うからだ。

もし民主的なものに最高の価値を置くのであれば、そうした決定を縛るような「憲法」なるものは、むしろ邪魔な存在でしかないだろう。

そもそもどうしてわれわれは「憲法」なるものを戴くのか。

この問題に対しては、いくらか可能な解答がある。

(1)「憲法」は民主制とは別の哲学的原理である。(立憲主義優位の独立理論)

(2)「憲法」は民主制を効率的に運用するための、手続き的な決め事である。(民主主義優位の独立理論)

(3)「憲法」は民主制を立憲主義的で真に民主的なものにするための、哲学的な決め事である。(立憲主義優位の調和理論)

(4)「憲法」は民主制の結果、必然的に現れる決め事である。(民主主義優位の調和理論)

例えば、「社会契約」を「立憲主義」の基礎に据える議論は、(1)や(3)にわれわれを導く。
(1)の場合、現代における立憲主義と民主主義の「結婚」状況は「偶然」であることになり、(3)の場合、民主制は、立憲主義的価値(例えば自由・平等)を達成させるための道具ということになる。


■「社会契約」という困難

ところで、この「社会契約」の想定には、やはり、なにがしかの「啓蒙」思想が含まれている可能性は否めないだろう。

というのも、哲学的基礎を必要とするこの議論は、万人による同意を理論の中に先取りし、「よく考えれば、誰でもこの議論の正しさはわかるはずだ」という想定に立つか、あるいは、他の原理に頼って、他の誰かが賛成しようがしまいが、「これが正しいのだ」と強弁するしかない(しかしこの場合どのような権威によって制度化するのか?)。

例えば、現代の“ソフィスト”とも呼ぶべきR・ローティは、こうした「基礎づけ主義」に強烈な論難を加える。セルビアにおいてレイプや殺戮をする者たちには自分たちが人権を侵しているという意識がないことを例証し、そうした人権の哲学的正当化は時代遅れであり、哲学的基礎づけよりも、感情教育の方が意味があると述べる。

あるいは、20世紀最大の知の巨人とも呼ぶべきJ・ロールズは、自身の「公正としての正義論」の基礎を、当初の概念装置としての「原初状態」から、合衆国における憲法実践=文化の方に求めるという転換をする。(基礎的概念からの演繹的立論ではなく、「反省的均衡」によって実践のうちに最適解に至ろうとする戦略を採ったといえるが、もちろん、「普遍性」という観点からは、論の切れ味が鈍ったといえる。)

いずれにせよ、ここでの問題は、「憲法」の「普遍性」が疑われている事実による。現代において「憲法」を語るにあたっては、ここを出発点にしなければならない。


■共和国への愛?

さて、それならば、われわれには(2)という選択肢もあり得る。

立憲主義よりも、民主主義(あるいは共和主義)の方に価値を認めて、その十全な達成のために、「憲法」を「用いる」というものだ(この立場には、長谷部恭男の「公私区分論」や松井茂記の「プロセス的憲法観」が含まれると思われる。かつてこの両者がしばしば対照されて論じられていたのは、こうして考えると、興味深い)。

国家という権力秩序を「構成する」ものとして「憲法=コンスティテューション(構成)」を捉える立場だともいえる。

これは特殊近代的な立ち位置であり、自然法的なものをもとにした中世立憲主義とは違いを認めるべきものであるように思う。

さて、この共和主義的ともいえる立場は強力であるが、問題は「誰がそれを求めたのか」という実に素朴なことに尽きる。

この立場は、具体的な生活を考えたとき、例えば、身体障害者や孤独な独居老人が存在する状況において、何を価値とすべきかという規範的問いを回避してしまう危険を孕んでいる(この言説に僕がある現代的な価値判断を忍び込ませていることは率直に認めよう)。

個人の生活や自律よりも、制度としての秩序が重要であるという方向へも行きかねないこの立場を、正統なものとして捉えるためには、やはり、何らかの「基礎づけ」が必要なはずである。

そこで問題となるのは、「民主主義は民主主義によっては正当化できない」という論難に対して、何を正当性の根拠にするかだろう。ここで「個人の尊厳」などを持ち出すなら、そもそもこの立場の前提と矛盾をきたしてしまう。


■動態的概念としての立憲民主主義

とはいえ、逆に「立憲主義は立憲主義によっては正当化できない」という論難もまた同様の意味をもつのは言うまでもない。

以上の立場に共通するのは、何らかの原理主義である。

では、われわれにはどのような戦略が残されているか。

最後の(4)がまだある。

しかし、この命題が曖昧な謂いであることは間違いない。

そしてこの立場は、一つの信仰告白のようでもある。

もしかすると、自力で「憲法」を持つに至ったいくつかの国は、たまたま(偶然)、そこに辿り着いただけかもしれない。後世の歴史家が、それを普遍的なものとして読み取っただけかもしれない。

しかし、この立場に立つ者たちは、われわれ(人類)は、紆余曲折を経ながらも、そうしたところに到達するはずだと信じているかのようだ。

最終的には、人間を信じていると言ってもよいかもしれない。

もし、この立場に立つのであれば、「立憲主義=民主主義」とは、動態的なものである。

恐らく、他の選択肢(1)(2)(3)を行ったり来たりしながら前進していくものだろう。

(1)(2)(3)で用いられていた「哲学的基礎づけ」は、(4)においては、ただ一つの相対的言説として語られることになるだろう。

I・バーリンが引用する言葉「自己の確信の正当性の相対的なものであることを自覚し、しかもひるむことなくその信念を表明すること、これこそが文明人を野蛮人から区別する点である」という態度である。

もちろん、正直に認めれば、これもある種の哲学的基礎を持つ立ち位置ではあるが、他よりも少しだけ見込みがありそうに思える。


■テクストの重要性批判

さて、そうした理解に立つとき、テクストとしての憲法というものが、ひとつの議題になりえる。

可謬性のある人間として、われわれができることは、時には妥協であり、選択である。

「完全」なものは、こうした動態的憲法においてはあり得ないし、そもそも(われわれがすでに諦めた)権威や哲学なしには、それは制定すらされないだろう。

そうしたとき、われわれができることは何か。

これには二つの方途があるように思える。

一つは、そうした議論を常にもち、妥協や選択を続けることであろう。憲法政治を「deliberative(熟慮・討議)」の方向へと向かわせ、動態的な活力を与えることである。

いま一つは、憲法に生活を読み込むことであろう。「(構成的)解釈」という行為によって、憲法に動態的な活力を与えることである。

これはテクストを重要な要素としながらも、絶対なものとは考えない立場である。

例えば、イギリスは成文憲法をもたないが立憲主義国であるだろう。また、R・ドゥウォーキンの言うように、(正しい)権利は、修正1条だけからでも構成できるという可能性は十分考えられよう。

恐らく、憲法に関する重要問題は、テクストの外(動態的憲法に活力を与える動力の側)にあるように思われる。


■憲法の想像力

何よりも、憲法が良ければ、いろいろと解決するという考えが危険なように思う。もちろん、悪い憲法が、民主主義に対する大変な足枷になるのは間違いない。

だが、その基本をクリアし、この稿の冒頭の問題を前提とできる憲法であるなら、かなり見込みがあると思える。

僕としては、奥平康弘が述べるように「物語としての憲法」への「想像力」を働かせて、「生かし続ける」立場に立ちたい。





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Last updated  2008.01.10 05:39:47
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