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歴史にもしもは禁物ですが、もしかしたら豊前中津城が天下に号令を発する城になっていたかも知れません。築城主を思うと「さもありなん」と言った感じですが、中津城の築城主は豊臣秀吉からも「その気になれば天下を取るであろう」と言われた名軍師、黒田孝高(官兵衛)です。築城の名手でもあった黒田官兵衛の中津城ですが、古城図を見ると三角形の非常に珍しい縄張りをしていました。古城図で見ると大手門は枡形虎口になっていたようですが、現在も石垣の一部が残っていました。大手門の石垣現在は小学校の塀として使われています。三の丸から本丸の間には土橋と黒御門の枡形門があったようですが、現在は裁判所の敷地に変わっていました。黒御門跡わずかに枡形の名残があります。本丸大手口には石垣が残り、椎木御門の枡形が残っていました。椎木御門に続く本丸の石垣(二の丸から見たところ)本丸の内堀もあったのですが、明治になってからも拡張されたようで、後世になって積まれた石垣もあるようです。本丸本丸には奥平神社があり、長篠城の籠城戦で知られる奥平貞能・信昌・家昌が祀られています。江戸時代半ばの1717年より奥平氏7代の奥平昌成が中津城に入城し、代々奥平氏が城主となって明治維新を迎えました。奥平神社の横に天守が建っていますが、こちらは模擬天守です。模擬天守は観光を目的として、奥平氏を中心に市民の寄付で建てられたものですが、元々天守は建てられておらず、古城図にも天守の姿はありません。萩城の天守を参考に建てられた望楼型の5層5階建ですが、黒田官兵衛ならばこのような天守などは建てなかったことでしょう。中津城は1587年に、黒田孝高(官兵衛)が豊臣秀吉から豊前中津16万石を与えられて築城を開始しました。黒田孝高が黒田長政に家督を譲った後、関ヶ原の戦いの功績によって筑前52万石に加増され、黒田氏は名島城(のちに福岡城)に移っています。黒田氏の後は細川忠興が入城し、細川忠興が小倉城に移った後も細川忠利が中津城を居城とし、中津城の改修を行なっています。その後は小笠原氏、奥平氏と城主が代わり、奥平氏の時に明治維新を迎えました。黒田官兵衛については、関ヶ原の戦いの時、中津城の金蔵を開いて農民などから幅広く兵を集めた話があります。天下を分けた戦いが関ヶ原で行われていた時、天下を狙って九州で挙兵したとも言われていますが、真相はいかがなものでしょうか。日本城郭協会「続日本100名城」
2011/07/22
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これまでアプローチを試みながらも、本丸にたどり着けなかった城跡はいくつかあります。そもそも城郭の場所を見失ったケースもありますが、城跡を特定しながらも本丸にたどり着けなかったケースもありました。千葉県富津市にある造海(つくろうみ)城もそんな城跡の1つで、城跡の位置は特定出来ていながら、何度もアプローチに失敗している城跡です。造海城の全景この「城山」に城郭があり、頂上部には堀切跡のようなものが見えています。これまでは海側(西側)からのアプローチを試みて失敗していたので、今度は山側(東側)からアプローチしてみることにしました。城山の東側には灯篭坂大師があり、ここから城山の山頂に向かって尾根が延びています。灯篭坂大師造海城の大手口はこの灯篭坂大師にあったようなのですが、さらには灯篭坂大師の脇から細い道が延びているのを見つけたので、たどって見ることにしました。この道が尾根伝いに城山へ向かう道だと思うのですが、草藪に覆われていて進むことが出来ませんでした。「今度こそは」と思ったのですが、あまりにも荒れていたので途中で断念しました。軽装だったこともあるのですが、この道を発見したことで、次回アプローチのヒントを得たような気がします。次は天敵のヘビがいない季節で、軽登山装備くらいは用意して行こうかと思います。反対側の海側から造海城を見ると、東京湾の海岸線に城郭が張り出すような格好になっています。以前訪れた時、海岸線の岩場に船着き場のようなものがあるのを確認しました。内房の沿岸部にあるため、里見氏にとっては対岸の北条氏に対する重要な防衛拠点であり、同時に北条氏にとっては、房総に進出するための重要な上陸拠点でもありました。造海城から見ると、対岸の三浦半島はすぐ目と鼻の先のような感じがします。また造海城のすぐ北側には、白狐川の河口があります。この白狐川の河口から里見水軍は相模に向けて出航し、北条水軍はこの河口から上総に上陸してきたのだと思われます。造海城は上総の玄関口であり、現在で言うなら国際空港と言ったところかも知れません。時代が時代なら、「Yokoso Kazusa」となるのでしょうか。房総には戦国城郭が数多くありますが、この造海城は中でも屈指の名城だと思います。それだけにこの城山山頂に足を踏み入れてみたいものです。造海城は別名「百首城」とも呼ばれており、元々は真里谷城を本拠とする真理谷武田氏の築城によると言われています。里見氏の軍記などでは、里見氏初代の里見義実と息子の里見成義が真理谷武田氏の籠る造海城を攻め囲んだ時、「里見父子は文武両道に優れていると聞くが、この辺りの景色を詠んだ和歌を作り、手並みを見せてくれれば城を明け渡してもよい」との条件が真里谷武田氏から出されたそうです。この時里見義実と成義はたちまち百首の和歌を作ったのですが、ちなみにその和歌とは里を見よ はげしき春の山嵐 世をつくろみに さはらざりけり夜をこめて 灯篭坂を越えぬれば 味方のひかり 日の出ますますつくろうみ 川瀬定めぬ折なれど 下れる水は入るる大海などです。(「里を見よ」は里見にかけてあり、「灯篭坂」は灯篭坂大師のことだと思われます)百首の和歌が優れていたので、城内の武田氏は感服して造海城を明け渡したため「百首城」の名が付いたそうです。あまりにも美談ではありますが、これは後日里見氏によって創作された話だとされています。(創作は里見氏の「お家芸」ですが、そもそも近年では、第2代里見成義すら実在しなかったとする説が有力です)現代においても、和歌が優れているからという理由で、自分の家を他人に明け渡す人がいるでしょうか。(時代は戦国時代、お人好しにもほどがある気がします)実は百首城の由来にはもう1つ説があるのですが、こちらは生々しいので割愛させて頂きます。(こちらの方が説得力があるのですが)里見氏と房総の歴史には何度も登場してくるお城ですが、海と川に囲まれた天然の要害であり、それだけに重要視された拠点であると言えるでしょう。まず造海城が戦国時代の歴史に登場するのは、1533年に起こった里見氏の内紛(犬掛の戦い)の時です。里見氏当主であった里見義豊が、叔父の里見実堯(里見義堯の実父)を稲村城で殺害したことに端を発し、里見義堯と義豊の従兄弟同士の争いへと発展した有名な内紛です。結果は里見義堯が勝利し、里見第5代の当主となるのですが、この内紛の時に里見義堯が拠点としたのが造海城でした。この時里見義堯が海岸の造海城を拠点とした理由は、援軍を求めるためだったのですが、その援軍を要請した相手とは、なんとそれまで里見氏と敵対していた小田原の北条氏綱です。北条氏綱は里見義堯の要請に応じ、やはりこの造海城に援軍を上陸させています。。さらに1537年、今度は上総の有力豪族である真里谷武田氏で内紛が勃発し、武田氏当主の武田信隆は、異母弟である武田信応(のぶまさ)と争いの中で、真里谷城を追い出されました。この時武田信隆は真里谷城から移って造海城を拠点としたのですが、武田信隆が造海城を拠点としたのもやはり北条氏綱に援軍を求めるためです。この時も北条氏綱は援軍を造海城に上陸させたのですが、はるばる小田原から呼ばれた理由が兄弟喧嘩の助っ人でした。ちなみにこの武田氏の内紛をきっかけに、武田信隆が後ろ盾とした北条氏綱と、武田信応が後ろ盾とした小弓公方足利義明・里見義堯の対立へと発展していきました。そして北条氏綱VS小弓公方・里見義堯(房総連合軍)の、第一次国府台合戦が勃発し、この戦いで小弓公方・里見方が敗北すると、造海城の支配は里見から北条へと変わっています。北条氏綱の後を継いだ北条氏康も、やはりこの造海城を上総への上陸拠点としており、1554年に里見義堯の久留里城を攻めた際も、大軍を造海城に上陸させています。(北条軍にしてみれば、敵地にありながらも勝手知ったるお城だったことだと思います)造海城から見た東京湾房総で従兄弟や兄弟の喧嘩が起こる度に、北条水軍がはるばる渡って来た浦賀水道です。その後1567年の三船山の戦いで里見義弘が北条氏政に勝利すると、再び造海城は里見氏の支配下となり、里見水軍の重要拠点として機能していました。(海岸線の船着き場もこの頃造られたのかも知れません)里見義堯価格:720円(税込、送料別)現代語訳南総里見八犬伝(上)現代語訳南総里見八犬伝(下)
2010/06/08
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法隆寺五重塔・法起寺三重塔と共に「斑鳩三塔」を構成するのが法輪寺の三重塔です。法輪寺南大門江戸時代の宝暦11年(1761年)に再建された、「新しい」建造物です。法隆寺・法起寺・法輪寺ともに飛鳥時代の7世紀の創建で、また近接する場所にありながら、法輪寺だけは自然災害という不運な歴史を辿って来ました。法輪寺三重塔かつては国宝に指定されていましたが、昭和19年(1944年)に落雷で焼失してしまい、現在の三重塔は昭和50年(1975年)に再建されたものです。法輪寺三重塔の再建を指揮したのは、かの有名な法隆寺の宮大工棟梁、西岡常一さんでした。さらには「五重塔」の幸田露伴の次女で、作家の幸田文さんが資金支援の先頭に立ってくれたそうです。法輪寺の三重塔は創建時の姿で再建され、相輪の「風鐸(風鈴)」も当時のままに風になびいて音を立てています。この昭和19年の落雷による火災では、仏舎利が奇跡的に救出されるとともに、木造薬師如来坐像(国指定重要文化財)や木造虚空蔵菩薩立像(国指定重要文化財)などの仏像も、地元の方々によって救出されました。(太平洋戦争中のことで、男性は出征していたため、ご婦人方の尽力があったそうです)その仏像は、再建された講堂の中に安置されています。実は法輪寺は江戸時代にも自然災害に遭っており、正保2年(1645年)には台風で当時の三重塔を除く建造物が倒壊してしましました。現在の金堂は、宝暦11年(1761年)に再建されたものです。再建とは言え、江戸時代中期の建造物が現存しているので、重文に値すると思います。それでも奈良においては、江戸時代の建造物を国の重要文化財に指定し始めると、文化財だらけで全く収拾がつかなくなるかも知れません。(奈良に住んでいる頃、同級生の家が江戸時代創建なんてこともありました)
2018/11/01
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毎年7月の最終土曜日に行われる隅田川花火大会、その歴史を辿ってみると、1733(享保18)年に両国の川開きで行われた花火に始まります。途中何度か中断はあったものの、おそらく日本で最も古い花火大会ではないでしょうか。(「隅田川花火大会」と呼ばれるようになったのは1978(昭和53)年からで、中断される1961(昭和36)年までは、「両国川開き」と呼ばれていました)両国川開きが始まった当初、打ち上げは「鍵屋」が行っていたそうです。その後鍵屋から分家した「玉屋」も加わって、「玉屋」と「鍵屋」が打ち上げの腕を競っていました。歌川広重「名所江戸百景 両国花火」玉屋と鍵屋は別々の場所から打ち上げ、江戸っ子たちは良い方の名前を掛け声にしていました。総じて玉屋の方に軍配が上がったようで、「玉やだと又またぬかすわと鍵や云ひ」と川柳にも詠まれたほどです。両国の回向院の隣には花火資料館があり、そんな隅田川花火大会の歴史をうかがうことができます。花火資料館(夏場以外は閉館していることが多いのでご注意)大正時代と現代の打ち上げ筒3号玉から2尺玉までの花火の原寸大模型ところで真夏の夜空を彩る花火の色は、「炎色反応」によって描き出されます。高校の化学で「リアカー無きK村、馬力借りようと、努力するもくれない」と覚えていたのが、まさに花火を作りだす色でした。それでも一発に賭ける芸術は、科学だけで導き出せるものでもないように思います。
2010/07/30
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壇ノ浦付近の関門海峡には電光掲示板があって、アルファベット・数字・矢印が交互に点滅しています。関門MARTISの火ノ山下潮流信号所です。潮の向きが「W」(西向き)・「E」(東向き)で表示された後、潮流の速さが数字(ノット)で表示され、最後に「↑」(速くなる)または「↓」(遅くなる)が表示されます。西日が当たって見えづらいのですが、この時は西向き7ノットで速くなるようでした。天気晴朗なれども波高し関門海峡では玄界灘と周防灘の干満の差による潮流の変化が激しく、源平の壇ノ浦の戦いでもこの潮流の変化が勝敗を分けました。 潮流の速さも最大で10ノット(約時速18.5km)に達し、鳴門海峡・来島海峡などのうず潮級の海峡に次ぐ潮流の速さがあります。また関門橋付近では対岸までの距離が650mしかなく、古来より早鞆ノ瀬戸と呼ばれる海上交通の難所となっています。 下関側の火ノ山から見た早鞆ノ瀬戸関門海峡では全国に7か所ある「海上交通センター(MARTIS)」の1つである「関門海上交通センター(関門MARTIS)」があって、関門海峡の航行管制や情報提供などが行われています。関門海峡の航路図海峡というより運河のような感じですが、ここを1日600隻の船舶が航行しています。火ノ山下潮流信号所も関門MARTISからの潮流信号で、他にも大型船舶が通行する際に「H」や「T」の表示がされる電光掲示板もあります。関門海峡が太平洋・瀬戸内海と日本海を結ぶ最短ルートになるため、通過する船舶の交通量も1日あたり約600隻と、まさに海上交通の要衝となっています。今のご時世、関門海峡を通過するか大隅半島を回るかでは、スエズを通るか喜望峰を回るかくらいの違いがあるかも知れません。関門海峡通行中の注意事項と事故事例について→こちら「係留」は関門海峡特有かも知れません。
2011/11/24
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台湾に来てから、「いつもどこかで誰かが何かを食べている」というのが印象です。話題も食べ物に関するものが多く、中国語のレッスンでも同様で、初回のレッスンでマクドナルドの注文が出来るようになりました。オフィスでは日本人は私だけなので、普段は英語で話しているのですが、意外と難しいのが食べ物のの名前です。寿司・天麩羅・焼肉などはそのままでも通じるのですが、梅干や冷奴、さらには塩昆布や海苔になると、「はて、英語で何と言うんだろう?」といった具合です。(ナメタケやアジのタタキに至っては、私の英語力ではもはや説明不可能で、説明出来たところで得体の知れない食べ物になっていると思います)日本語→英語に限らず、中国語→英語も同じようで、お互いに何の食べ物の話をしているのか、想像がつかないこともしばしばあります。それでも漢字文化圏というのはありがたいもので、漢字で書けば「あ~、なるほど」と、お互いに納得して話が進むといった具合です。そんな中、何やらを食べに行こうと誘われたのですが、その何やらの部分が中国語だったので、全く理解が出来ませんでした。例によって紙に書いてもらったのですが、書かれたものを見ると「魚翅」とあります。「はて、これ何だっけな…」と首をかしげていると、「日本人も食べると聞いたのですが…」とのこと。続けて英語で「Shark Fin」ときて、ようやく「Oh,I see. 明白了。フカヒレね。」フカヒレのおいしいお店が信義區にあるということで、聞けば「日本より安い」とのこと。「Ok,Let's go」と、向かったのが信義路4段にある「吉品海鮮餐庁」です。吉品海鮮餐庁は広東系の飲茶形式のお店で、落ち着いた雰囲気のあるお店です。早速フカヒレを注文したのですが、メニューを見て目が飛び出そうになりました。フカヒレの量によっても違うのですが、彼女たちが注文したのは4枚の一番多いもので、2,500元(約7,500円)です。日本より安いと聞いてせいぜい2~3千円くらいを想像していたのですが、通貨の単位を確認したほどでした。何度見ても円ではなく元だったので、もちろん台湾での1品あたりの最高値を更新しました。(これまでの最高値は1品あたり400元=1,200円くらいだったので、ここで一気に記録更新です)そして出て来たのがこちらです。「どこそこで食べた何とか」と、記憶に残る食べ物はあるかと思いますが、まさにこれがその1品でした。干しアワビの入ったスープが絶品です。他にも色々と注文はしていたのですが、フカヒレ以外は全く覚えていないほどのインパクトでした。ところで日本人としてはここでビールを飲みたいところですが、台湾特に飲茶では食事と一緒にアルコールを飲まないものだと、最近何となく学習したところです。周りのテーブルを見回しても、ビールグラスが置いてあるのは他に1組しかなかったのですが、「ビールを飲んでもいいんだ…」と、ほっとしてビールを注文しました。(アサヒと台湾ビールがあったのですが、迷わず台湾ビールです)これでビールグラスが置いてあるテーブルは2組となったのですが、先のビール組から聞こえてくるのはどうも日本語で、こちらは日本人だけのようでした。どうやらここでビールを飲んでいるのは我々日本人だけなので、もしかしたらとんでもないことかと思い、「日本人はビールが好きだからね~、旅行に行ったら朝からビール飲んでいるくらいだから」と、必死でフォローしながらも「再一瓶」とさらに注文する始末でした。
2011/01/30
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今年2017年の2月7日に、高山右近の列福式が大阪で行われました。「キリシタン大名」と言えば、大友宗麟・大村純忠・黒田官兵衛・蒲生氏郷・小西行長などが代表的かと思いますが、その数々のキリシタン大名の中でも、筋金入りのキリシタン大名と言えば、やはり高山右近でしょうか。高山右近記念聖堂(カトリック高槻教会)教会敷地内にある「ジュスト高山右近」像その高山右近の高槻城については、城郭の遺跡は全くと言っていいほど残っていません。二の丸跡は野球場となり、本丸跡は槻の木高校の敷地になっていました。二の丸の内堀跡かつての三の丸跡には、「しろあと歴史館」が建てられており、高槻城を含めた高槻の歴史が紹介されていました。しろあと歴史館江戸時代の縄張図本丸と二の丸の北側と東側を三の丸が囲む縄張となっており、しろあと歴史館の場所は北側の三の丸跡になります。高山右近直筆の禁制(左)と和田惟長直筆の禁制(右)いずれも本山寺境内での竹の伐採を禁じたものです。かつて北側の三の丸には、高山右近(ジュスト)と父高山飛騨守(ダリオ)が行った布教活動の拠点、天主教会堂がありました。現在は商工会議所の前にその跡を示す碑が建っています。天主教会堂跡の碑発掘調査の結果、ここはキリシタン墓地の一部だったようです。同じ三の丸跡で、現在は野見神社の境内となっている一角には、安土から移転されたセミナリヨがあったとされています。野見神社高山右近が城主だった時に社領は没収されましたが、後の城主松平家信によって新造され、さらに高槻藩初代藩主永井直清によって社殿の修復と社領の寄進が行われています。かつての三の丸跡には「高槻城跡公園」が整備されていますが、城郭の遺構らしきものは見当たりませんでした。城跡碑この石垣も史実にはない模擬天守台です。公園の入口近くには、十字架を持つ高山右近像がありました。高槻城の歴史は古く、10世紀末に近藤忠範が築城したのが始まりと言われていますが、確証はないようです。戦国時代に入ると、三好三人衆の1人である三好長慶の支城となり、入江春継が城主となりました。その後は織田信長の支配下となり、和田惟政が入城、城郭の改修を行っています。実際に高山右近が高槻城主であったのは1573年からの12年間だけでした。しかしその間に領民2万5千人のうち、実に7割の1万8千人がキリシタンになったと言われています。当時の状況からすれば、すごい数字であり、高山右近の人徳が偲べます。高山右近もキリシタンながら、戦国武将であることに変わりはありません。豊臣秀吉が明智光秀を討った山崎の合戦では、豊臣軍の先鋒として功績を挙げています。その後の高山右近は、豊臣秀吉のバテレン追放令に対して改宗を拒否したため、領地を没収されていました。そして徳川幕府のキリスト教禁教令により国外追放処分を受け、キリスト教の1信者となった後、フィリピンのマニラでその生涯を閉じています。没後400年経った2016年1月、ローマ教皇フランシスコにより、福人に列せられました。
2017/06/03
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揖斐川・長良川・木曽川の木曽三川の河口にある三重県桑名市、ここを訪れた理由は2つあり、その1つが桑名城です。桑名城跡は九華公園として整備されており、公園の一角には見覚えのある鹿角の脇立兜がありました。本多平八郎忠勝の銅像大数珠を袈裟懸けにして、後ろには名槍「蜻蛉切」が控えています。本多忠勝の銅像があるのは、岡崎城と桑名城だけでしょうか。岡崎の本多忠勝像その風貌は銅像からは窺い知ることはできませんが、実はこんな感じです。大多喜城(千葉県立博物館大多喜分室)にてこの肖像画は複数残されていますが、いずれも本人が納得して描かせたものなので、デフォルメではありません。数々の武勇伝を残し、主君の徳川家康のみならず織田信長や豊臣秀吉も賞賛する本多忠勝ですが、桑名城はその本多忠勝の築城によるものです。桑名城の古城図揖斐川の水路を利用した水城で、各曲輪が浮島のように独立しています。幕末の戊辰戦争で桑名藩は旧幕府方についたため、戊辰戦争後に桑名城は官軍によって破却され、桑名城跡残っているのは当時の曲輪の跡だけです。九華公園図三の丸虎口跡ここが大手口だったのでしょうか。桑名城の石垣は明治政府によって取り壊され、四日市港建設の際に防波堤として転用されました。曲輪の跡は後世になって積まれた石積で囲まれており、もはや当時の石垣を見ることはありません。三の丸の外堀二の丸堀跡二の丸跡には公園管理事務所があり、そこの入口にわずかに当時のものと思われる石垣がありました。枯れ木も山の賑わいでしょうか。桑名城の築城当時、大小合わせて50の櫓が建ち並んでいましたが、現在となってはその面影すらありませんでした。本丸から見た二の丸跡本丸から見た西の丸跡当時は石垣も高く詰まれ、曲輪の間には深い堀が巡らされていたことと思います。本丸には天守も建てられていましたが、現在は公園広場となっていました。揖斐川の流れる北側に回ると、船着場のあった付近に当時の石垣が残っていました。江戸時代には東海道桑名宿の宿場町があり、「七里の渡し」の西側の発着点でもあったところです。船着場の近く、旧東海道に面した北大手門跡北大手門の枡形跡本多忠勝の桑名城を見てみたいという念願かなって、桑名に来ることができました。残念ながらその城郭を見ることは出来ませんでしたが、縄張りを見る限りでは築城主のような武骨一辺倒な印象はありませんでした。徳川家康が本多忠勝を桑名に配したのは、東海道を抑えることが目的だったのでしょうが、彦根の井伊直政と併せて桑名に本多忠勝がいること自体がプレゼンスだったのかも知れません。(桑名城の築城にあたっては、その井伊直政も普請を手伝ったそうです)家臣団の住む西の丸と本丸の間が近く、また本丸も城下からすぐ近くにあるといった感じで、むしろ親しさと優しい印象を受けたほどです。徳川家康の三河家臣団を絵に描いたように武骨な本多忠勝ですが、上総大多喜も含め城下町の町割りには定評があり、インフラの整備など善政を行ったと言われています。徳川家康の家臣として50回以上に及ぶ前線での出陣の中で、本多忠勝はかすり傷ひとつ負わなかったと言われています。徳川家康が武田信玄に大敗北を喫した三方ヶ原の戦いでは、その前哨戦である一言坂の戦いにおいて、本多忠勝の奮戦によって徳川軍は窮地を脱し、武田軍からは次のような落首が書かれました。「家康に過ぎたるものは二つあり 唐のかしらに本多平八」その本多忠勝ですが、隠居後のある日に小刀でうっかり怪我をした時、自分の最期を悟ったと言います。そしてその数日後に桑名でその生涯を終えました。戦国時代の桑名には地方豪族が割拠しており、現在の桑名城のある場所には、伊藤武左衛門の東城がありました。織田信長が桑名地方を平定すると、織田信長方の滝川一益の支配下となり、東城は廃城となっています。豊臣秀吉の時代になると一柳直盛が城郭を築き、その時に伊勢神戸城の天守を移築しました。その天守は神戸櫓として、近世桑名城にも残されていたようです。本丸の南西にある神戸櫓跡1601年の関ケ原の戦い後、上総大多喜から本多忠勝が桑名に移封となり、近世城郭を築城するとともに、「慶長の町割り」と呼ばれる城下町の整備と河川工事などを行っています。第2代藩主本多忠政の時に姫路に移封になると、以後は代々松平氏が桑名藩主となりましたが、幕末の藩主松平定敬は会津藩松平容保の弟であったため、桑名藩は戊辰戦争において幕府方に付くこととなりました。鳥羽伏見の戦いにおいては桑名城を無血開城し、新政府軍は本丸にあった辰巳櫓を焼却することで、開城の証しとしたそうです。辰巳櫓跡櫓台の上に大砲がありますが、なぜここにあるかは不明だそうです。
2012/08/06
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朝倉氏と言えば越前一乗谷、一乗谷と言えば白戸次郎でしょうか。1471年から1573年までの約1世紀の間、朝倉氏5代の本拠地と城下町が一乗谷にあり、発掘調査によってかつての城下町がよみがえっていました。江戸時代の町割りが残る城下町はいくつかあるものの、戦国時代の町割りが残る一乗谷の城下町は、とても貴重な遺構だと思います。一乗谷川が流れる谷間に城下町が広がり、下流部と上流部を城戸で区切った町割りだったようです。下城戸跡土塁で囲まれ、石垣の枡形になっていました。城戸から城下町へ続く道一乗谷川一乗谷川沿いを行くと、両岸にはかつての居館の跡が随所に見られました。朝倉景鏡(第5代朝倉義景の従兄弟)の居館跡中世武士の居館のように方形の土塁と堀で囲まれていたようで、その跡も一部残っています。一乗谷でも最大の支谷であったのが八地谷で、「八地千軒」の通称があるように、谷の奥まで屋敷が並んでいたようです。八地谷の雲正寺地区東西と南北に道路が通り、交通のインフラも整っていたようです。この辺りは民家になっていたようですが、掘立式の建物が建っていたようで、礎石の跡や敷地の井戸の跡などがありました。さらに一乗谷川沿いを行くと、かつての武家屋敷が復元された場所もありました。中世の武家屋敷が復元される例は滅多にないので、中世の建物を知る上では本当に貴重な遺構でした。ところでこの一乗谷ですが、ソフトバンクのCMのお父さん、白戸次郎のふるさとでもあります。
2013/06/16
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大河ドラマゆかりの地を訪れるのは、放映前よりも放映中、放映中よりも放映終了後の方が宜しいかと思います。(放映時は施設などが整備され、各種展示資料や解説も充実するのですが、放映中は混雑するのが難点です)二年前の大河ドラマ「真田丸」では、真田昌幸の本拠地として登場し、オープニングの映像にも使われたのが岩櫃城です。大河ドラマ放映中の平成28年4月にオープンした「岩櫃城址観光案内所」には、岩櫃城の模型が展示してありました。岩櫃城模型こうした展示物が充実するのも、大河ドラマのおかげだと思います。岩櫃城の背後にそびえる岩山が、オープニング映像でも流れた岩櫃山で、岩櫃山から北東に延びる稜線上に曲輪を配した縄張となっています。模型では高低差がデフォルメされていますが、まさに難攻不落の要塞といった感じです。そしてこの要塞を築き上げたのが、大河ドラマでは草刈正雄さん演じる真田昌幸でした。岩櫃城への登城口は、岩櫃山への登山口ともなっていました。ガイドの方によると、ここも虎口の跡のようですが、尾根の北側にあるため、大手口ではなさそうです。岩櫃城を登城にあたって、軽登山装備で来たのですが、まず取り出したのはクマ除けの鈴でした。大河ドラマの影響で人が訪れることもあってか、ガイドの人によると岩櫃山ではクマの目撃情報がないそうです。登城道は稜線の北側から「中城」の曲輪に向かって延びており、稜線の斜面を登る途中には腰曲輪の跡が残り、土塁や堀切の跡も見られました。土塁跡堀切跡登城道は斜面の樹林帯の中を通っており、樹林帯が切れて稜線上に出ると、視界が開けた先に曲輪と思われる削平地がありました。中城の曲輪跡です。中城の曲輪は何段かに分かれているようで、本丸の防衛拠点だったのかも知れません。登城道は中城の東側を通るようになり、すぐ横は切岸状の急斜面になっていました。中城東側の切岸うかっり落ちたら、そのまま転げ落ちるしかないほどの急斜面です。中城の縁を回って稜線に取り付くと、稜線の取り付き点には大河ドラマの幟が立っていました。いよいよ岩櫃城の本丸を目指すにあたり、大河ドラマのオープニング音楽が頭から離れなくなっていました。ここからは中城の南側の稜線上を行くようになり、何段かに分かれた中城の土塁を横に見るようになりました。中城の土塁物見台の跡でしょうか。二の丸の直下まで来ると、手前には巨大な堀切がありました。堀切跡登城道からは外れますが、この堀切の底を辿ってみると、本丸へ向かう斜面上に竪堀の跡がありました。竪堀跡(斜面下方向)竪堀跡(斜面上方向)右が二の丸で、左が本丸です。竪堀跡(斜面の上から見たところ)この曲がりくねった竪堀は、いかにも戦国城郭らしく、岩櫃城の見どころの1つだと思います。この竪堀の先は、本丸と二の丸の間の堀切となっていました。なんともトリッキーですが、左側が本丸で右側が二の丸です。まずは二の丸に登って見たのですが、意外に狭い感じがして、もしかしたら本丸の出丸か馬出のような役目だったかも知れません。二の丸岩櫃城を振り返って見ると、本丸を中心に丸馬出を多用した縄張のように思います。丸馬出は武田流の築城術で、武田氏の家臣であった真田昌幸が丸馬出を多用するのも納得のいく話だと思います。さらには真田幸村が、その丸馬出を「真田丸」として完成させたと考えるのは、いくら真田贔屓(アンチ徳川)でも考えすぎでしょうか。二の丸から見た腰曲輪(丸馬出?)本丸から見た二の丸と竪堀戦国の城跡めぐりでは、どの城であっても本丸にたどり着くのは感慨があります。一度も落城しなかった当時の岩櫃城において、真田氏の家臣以外で岩櫃城の本丸にたどり着いた人はいなかったと思うと、岩櫃城の本丸は感慨もひとしおでした。「真田丸」オープニング、0分14秒に岩櫃城が登場します。クレジットの役者さんはもちろんですが、登場する武将の名前が豪華すぎです。(かつては大河ドラマの主人公だった人たちもぞろぞろ)
2018/09/27
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