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獲得に手を挙げたのは、古巣の西武ライオンズ、資金の条件面で上回るソフトバンクホークス、そして貧乏球団の我が広島東洋カープでした。(逆転のカープは健在)NHKBSの「球辞苑」に出演していたころ(西武ライオンズ時代)、すごく好印象で「こんな選手がカープにいたらな~」などと思っていましたが、まさか現実になるとは思っていませんでした。カープファンとしてはもちろんウェルカムで、マツダスタジアムも盛り上がることでしょう。(今ごろ広島ではお祭り騒ぎでしょうか)黒田博樹投手(ニューヨークヤンキース→広島東洋カープ)、新井貴浩選手(阪神タイガース→広島東洋カープ)以来の感激です。緒方前監督の現役時代の背番号「9」を背負って、大暴れしてください。嬉しすぎる!!鈴木球団本部長のコメント→こちら
2022/06/27
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学生時代の友人に会うため、コロナ禍ながらも弾丸日帰りで、大阪は曽根崎界隈にやって来ました。まさに食い倒れ、昼に待ち合わせをしてこれで4軒目です。(やはり人は少なめ)その曽根崎で1703(元禄16)年、一つの心中事件が起こりました。平野屋手代「徳兵衛」と天満屋の「お初」の、叶わない恋の果ての心中事件で、その舞台となったのが現在も残る露天神社です。現代で言うならば三面記事といったところでしょうが、当時この類の事件は歌舞伎ではすぐに上演されていました。そんな中、この事件を上演しようと思いついたのが、人気低迷に苦しむ人形浄瑠璃の竹本座です。そして事件の脚本を依頼したのが、かの近松門左衛門でした。当時人形浄瑠璃で事件やニュースを扱うことはなかったのですが、近松門左衛門の名文によってたちまち大人気となりました。「此世のなごり 夜もなごり 死にに行く身をたとふれば あだしが原の道の霜 一足づつに消えて行く 夢の夢こそあはれなれあれ数ふれば暁の 七つの時が六つ鳴りて 残るひとつが今生の 鐘のひびきの聞きおさめ 寂滅為楽とひびくなり」(近松門左衛門「曾根崎心中」より)「誰が告ぐるとは曾根崎の森の下風音に聞こえ取伝へ貴賤群集の回向の種未来成仏疑ひなき恋の手本となりにけり」久しぶりに訪れた曾根崎界隈ですが、変わっていないようで変わっているような、そんな感じでした。お好み焼き「ゆかり」 阪急東通り店
2022/02/20
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御殿場方面から箱根方面に続く国道138号線は、沿道に見どころが多い道路だと思います。乙女峠のふじみ茶屋から見た富士山箱根カルデラの中でも、乙女峠・金時山・足柄峠からは、富士山の裾野から山頂までを見ることができます。その国道138号線にあって、今まで素通りして来たのが、箱根の森ガラス美術館でした。植生に違和感がありますが、紅葉の季節に訪れました。ガラスの滝の向こう側には、箱根外輪山の中心部である神山が見え、大涌谷の噴煙も見ることができました。積雪の中を登ったのを覚えています。ところでガラスの森美術館そのものは、シュールすぎて私にはよくわかりませんでした。
2022/02/16
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本丸に入って行くと、大手虎口は石垣で固められていました。吹石門脇石垣打ち込み接ぎの石垣で、江戸時代に入って築かれたものと思われます。現在二の丸と呼ばれる曲輪は元々の本丸で、実質的にも本丸の機能を持っていたようです。本丸虎口石垣が残っていますが、当時は枡形虎口となっていたそうです。本丸本丸からは建物の礎石群や陶磁器などが出土したそうです。烏山城の縄張りは南北に曲輪が連なる連郭式で、本丸・古本丸・中城曲輪・北城曲輪と連なっており、それぞれの曲輪の間は、堀切や空堀で区切られていました。本丸と古本丸の間の堀切当時は土橋が架かっており、その跡が残っています。古本丸西側の空堀空堀の先にある削平地は、西城曲輪と思われます。古本丸中城曲輪北城曲輪北城曲輪から稜線を辿っていくと、小さな削平地がありました。物見台の跡です。物見台からは搦め手口の登城道がついており、「十二曲がり」と名付けられています。十二曲がり十二曲がりの搦め手道は、七曲がりの大手口へと繋がっており、まさにセオリー通りのお手本のような縄張りでした。烏山城の築城は室町時代の1417年で、那須与一の一族である沢村五郎資重によって築かれました。江戸時代以後は烏山藩の藩主の居城となり、1659年には時の藩主である堀親政によって、三の丸に居館が置かれています。関東の戦国山城には珍しく、石垣が随所に見られますが、江戸時代に入って改修されたものだと思います。
2022/02/07
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関東の名門那須氏が輩出した那須与一の一族が居城としていたのが、烏山城です。烏山城遠景江戸時代に入って改修されたものの、戦国山城の様相が色濃く残っていました。現地の縄張図江戸時代になって改修され、江戸時代の三の丸は石垣で囲まれていました。関東の山城では珍しい石垣積みです。戦国時代の三の丸跡は、現在神社の境内になっていました。寿亀山神社なんとも縁起のいい名前だと思います。大手口の登城道は七曲りと呼ばれ、かつては通用門が置かれていたようです。七曲り口の虎口七曲りの登城道九十九折りの道が続いていました。七曲りの登城道を登り切った先には堀切跡があり、当時は車橋と呼ばれる橋がかかっていたそうです。車橋の堀切跡車橋とはその名の通りで、車のついた引橋が架かっていました。今では堀切の跡がはっきりと残っています。車橋からさらに登城道を行くと、腰曲輪の跡があり、かつての二の丸であった常盤曲輪に辿り着きました。腰曲輪跡常盤曲輪(二の丸)虎口跡常盤曲輪からは、いよいよ本丸に入って行きました。
2022/02/04
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関東管領上杉氏の本拠地であった平井城から約1kmほど行ったところに平井金山城があります。 平井城の詰城として機能しており、平井城が平城であるのに対し、こちらは山城です。 登城道入口久々の戦国山城なので、少し緊張気味でした。 登城道は搦め手方向から延びており、南側の斜面を直登するような格好となっています。 縄張図東西に延びる尾根上に本丸があり、さらに北に延びる尾根上にも曲輪が配してあります。縄張り図を見る限りでは、北側が大手でしょうか。 登城道の途中には野面積みの石積みが見られましたが、作業用に後世になって積まれたものだと思います。 尾根の直下の急勾配を登りきると堀切跡があり、尾根上には物見台と呼ばれる削平地がありました。 物見台跡 尾根上を行くと、削平された跡がはっきりと残っており、二の丸と三の丸の曲輪の跡だと思われます。 尾根の最も高い場所にあるのが本丸で、烽火台のようなものが置かれていました。 本丸何とも面妖な光景です。 本丸の反対側の尾根には、上州名物の雷用の避難小屋がありました。 さらに稜線をたどっていくと、井戸曲輪と呼ばれる曲輪があり、井戸の跡も残っていました。 井戸曲輪からは大手方向の南北に稜線が連なっており、櫓門の跡などが残っているようですが、再び尾根を上り下りするのが面倒なので、断念することにしました。なんだか戦国山城に対する姿勢がぬるくなっているように思います。
2020/04/23
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歴史の教科書などでは、1467年の応仁の乱が戦国時代の始まりとされていますが、それより30年も前の関東はすでに戦国時代にあったと思っています。しかも関東の戦国の歴史では、同じ名字の人が多数登場するので非常にややこしく、さらにはその人たちが対立し合ったりして、わけがわかりません。同族間での対立・抗争やクーデターなどが多発したことにもよるのでしょうが、当時の本人たちも「この人同じ名字だけど、敵だっけ、味方だっけ」みたいな感じではなかったでしょうか。ましてや現代人にとっては非常にわかりづらいので、個人的にはこれを整理するために、現代風に考えてみることにしています。すなわち京都の室町に本社のあるグループ会社があって、その関東エリアを統括する子会社が鎌倉にあり、いずれも同族で経営されていました。京都の本社から鎌倉の子会社へは、お目付役として世襲制の副社長が送り込まれ、代々これを監視する役目を負っていました。15世紀になって京都本社の絶対的権威が落ちてくると、鎌倉子会社は本社の言うことを聞かなくなり、やがては対立するようになりました。権威の落ちた京都本社は、その解決を鎌倉子会社の副社長に求めますが、解決どころか鎌倉本社の社長と副社長も対立する結果となっています。やがては世襲制の副社長も同族の派閥に分かれて対立するようになり、グループそのものが形骸化して弱体化してしまいました。その間隙を縫って小田原に本社を持つ別の会社が勢力を伸ばしてきて、やがては業界を席巻してしてしまうという構図です。京都本社=室町幕府(足利将軍)、関東統括子会社=鎌倉公方(のちの古河公方足利氏)、関東統括子会社副社長=関東管領(上杉氏)、小田原の会社=北条氏と考えるのはいかがでしょうか。さらに言うならば、その関東に秩序をもたらそうと、全く形骸化した上杉副社長職(関東管領)を継いだのが、越後にいる元部下、長尾景虎(のちの上杉謙信)です。現代に置き直してみたものの、やはりあり得ない話でしょうか。そんな戦国絵巻の渦中にあったのが群馬県藤岡市にある平井城で、室町幕府と鎌倉公方足利持氏が対立する中、足利持氏との抗争に備えて関東管領上杉憲実が築いたとされる城です。縄張図三の丸・二の丸・本丸の間に高低差がないため、曲輪の周りに一重の堀を巡らせただけの、中世の武士居館といった感じだったと思います。現在は本丸の一部が残っていました。本丸土塁本丸の曲輪跡本丸と二の丸の間は県道173号線(金井・倉賀野停車場線)で分断されており、二の丸跡には普通に畑が広がっていました。本丸からみた二の丸本丸の南西側にも遺構の一部が残っているようなのですが、本丸そのものも私有地で分断されているため、直接行くことはできません。住宅地の中を迂回するようなかたちで行ってみると、空堀の跡がはっきりと残っていました。空堀と土橋の跡に見えなくもないです。曲輪跡曲輪には石積みの跡がありますが、当時のものかどうかはわかりません。政権抗争の結果とは言え、「権威ある」関東管領の本丸跡には、様々な碑が建っていました。「関東管領上杉一族」の碑「上杉謙信公 奪還回復の城跡」碑上杉氏の家督と関東管領の職を継いだ時、本拠にしたのは前橋城ではなかったでしょうか。本丸から100mほど行った三の丸あたりには、「平井城資料展示所」と書かれた民家の一角に、三の丸の案内板が建っていました。資料展示所(普通の民家です)平井城資料展示所には、平井城に関する看板が掲げられています。平井城の歌永享の乱の歌どんなメロディーなのか、機会があればぜひ聴いてみたいです。関東管領上杉氏がいまも地元で崇敬されているのがよくわかりますが、それだけに栄枯盛衰を思わざるを得ません。平井城の築城時期については、2通りの説があります。1438年に勃発した「永享の乱」に際し、関東管領上杉憲実が、長尾忠房に命じて築城したとする説が一つ。そして1467年に同じく関東管領の上杉顕定が築城したとする説がもう一つです。室町幕府が開かれた後、関東を統治する目的で鎌倉公方が置かれましたが、その補佐を行ったのが関東管領上杉氏です。関東管領は代々上杉氏の世襲となりましたが、鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏は仲が悪く、何度も争いを繰り返しておりました。さらに上杉氏も一族での争いが絶えず、扇谷上杉氏と山内上杉氏に分裂して対立が続いていました。(扇谷上杉氏の家宰が太田道灌です)政治の秩序を全く失った戦国時代の関東において、その間隙を縫って台頭してきたのが、相模小田原の北条氏でした。共通の敵が現れると、昨日の敵が今日の味方になるのは世の常です。それまで対立していた(山内)上杉憲政・(扇谷)上杉朝定・(古河公方)足利晴氏は、北条氏に対抗すべく同盟を結びますが、河越夜戦で連合軍は北条氏康に大敗を喫しました。河越夜戦の敗戦で扇谷上杉氏は滅亡し、山内上杉憲政も平井城に逃れてきました。そして1551年、今度は北条氏康が2万の大軍を率いて、平井城を攻めにやってきました。山内上杉憲政は、わずかな供を連れて越後へ逃れますが、頼った先は長尾景虎でありました。上杉憲政は長尾景虎に上杉家の家督と関東管領職を譲り、ここに長尾景虎は上杉政虎と名乗るようになりました。新たな関東管領となった上杉政虎は、北条方の手に落ちた平井城を奪還しましたものの、厩橋城(前橋城)を関東の本拠地としたため、平井城は廃城となっています。関連の記事平井金山城→こちら
2020/04/22
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初詣では日本一の参拝者数を誇る明治神宮ですが、実はこれまで訪れたことはありませんでした。大鳥居訪れたのは自粛要請前の2月のことで、海外からの参拝客はほとんどいませんでした。それでも新型コロナウィルスの影響か、参拝客は思ったより少なく、清正井戸もほとんど並ばずに見ることができました。初詣の映像はテレビで観たことがあるのですが、同じ場所だとは思えないほどです。三の鳥居南神門拝殿も行列ができたりということはなく、すぐ参拝できました。いま(4月)となっては、参拝する人はもっと少ないことでしょう。
2020/02/23
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台風の影響がまだまだ残る箱根にあって、御殿場から乙女峠を越えて、仙石原にやってきました。箱根、特に金時山などの外輪山は何度も登っているので、仙石原は馴染みの深い地名です。しかしながらすぐ近くを通過するだけで、実際に訪れたことはありませんでした。今回は初めて、しかも仙石原が最も美しい季節に訪れることができました。(11月中旬の話です)仙石原は有名なススキの群生地です。ススキが群生すると圧巻で、風が吹くと穂が一斉になびいていました。背後には箱根カルデラ(外輪山)が連なっています。ちょうど夕日が傾きかけたところで、ススキの穂が逆光の中に映っていました。元々仙石原は箱根火山の噴火で出来たカルデラ湖で、現在は湖ではなく湿原となって残っています。(カルデラ湖は仙石原の南に芦ノ湖が残っています)ススキの草原仙石原に限らず、箱根に来るといつも地球のダイナミズムを感じます。大涌谷の噴煙と箱根山(箱根ガラスの森美術館にて)
2019/11/16
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無知と勘違いとは恐ろしいもので、「彼岸花」はお彼岸の季節、すなわち3月後半と9月後半の年2回咲くものと思っていた時がありました。本当に3月後半にわざわざ巾着田まで来たことがあり、その時はただ広がる耕作地を見て呆然としたのを覚えています。今回は彼岸過ぎの9月後半、満を持して巾着田にやって来ました。そもそもこの記事が季節外れなのですが、この時は「曼殊沙華まつり」が開催されていた時です。冬の12月になると説得力もなく、「そう言えば」といった感じですが、今年の秋は暑い日が続きました。そのせいか、9月の終わりにして曼殊沙華も3分咲きといったところです。ちらほら感があります。最盛期には「曼殊沙華のじゅうたん」のキャッチフレーズがあるくらいですが、どうも少し早かったようです。巾着田に来る前に一登りしてきた日和田山曼殊沙華に限らず、花のタイミングは本当に難しいです。
2019/09/27
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低山ながら関東100名山に数えられるのが、埼玉県日高市にある日和田山です。登山道入口登山道脇に曼殊沙華が咲いていますが、実は9月の話です。日和田山の山腹には金刀比羅神社があって、登山道は表参道も兼ねているようでした。金刀比羅神社一の鳥居一の鳥居の先で、登山道は「男坂」と「女坂」に分かれていました。男坂と女坂の分岐点ここは当然ながら、自信満々に女坂を行くことにしました。後で山頂で聞いた話によると、男坂はかなりの急登で、岩をよじ登る感じだそうです。長いつづら折りを登っていくと、樹林帯の先に再び鳥居が見えてきました。金刀比羅神社二の鳥居鳥居の先にあるのが金刀比羅神社本殿です。金刀比羅神社本殿金刀比羅神社のあたりは視界が開けていて、都心方面も望むことができました。新宿方面そして眼下には、巾着田を眺めることができました。巾着田実はこの巾着田が今回のメインの訪問地で、上から見ると本当に巾着のような形をしています。金刀比羅神社から一登りすると、日和田山の山頂に着きました。日和田山山頂(標高304m)日和田山で関東100名山も34座目となり、ようやく1/3を超えたところです。関東100名山
2019/09/26
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台南は台湾の歴史の縮図のような場所です。台北からその台南まで、高鐡(Taiwan High Speed Rail 台湾新幹線)に乗ったのですが、実は高鐵と台鐵は別会社なので、高鐵台南駅と台鐵台南駅は全く接続していません。高鐵台南駅から台鐡台南駅の移動だけで、シャトルバスで約40分の距離があり、横浜と新横浜どころの話ではありません。さらに台鐡台南駅からタクシーで20分、高鐵台南駅から台鐡台南駅の移動だけで1時間かけてやって来たのは、安平にある安平古堡です。安平古堡碑安平古堡は、元々「Fort Zeelandia」(熱蘭遮城、ゼーランディア城)と呼ばれ、オランダ統治時代の1632年に築城された、台湾で最も古い城郭です。安平古堡(Fort Zeelandia、熱蘭遮城)の展示模型総レンガ造りで、3段の曲輪が連なる輪郭式の縄張りとなっていたようです。赤レンガの城郭は、サトウキビと蠣殻を混ぜて積み上げられたもので、その高さも圧巻でした。築城当時から残っているものかはわかりませんが、赤レンガとガジュマルの組み合わせが絶妙です。隅石の部分1602年に東インド会社を設立してアジアへ勢力を拡大していたオランダは、貿易の拠点を求めて台湾に進出しました。当時の台湾は明の支配下にありましたが、明との講和が成立すると、貿易の権益を守るべく「Fort Zeelandia」(熱蘭遮城)の築城を開始し、1632年に完成しました。現在も残るオランダ時代の外壁。1662年には中国大陸から逃れてきた明の遺臣、「国姓爺」の鄭成功が熱蘭遮城にも攻め込み、オランダ人を排除して、「安平城」と改名しました。城内にはその鄭成功の像が建っています。「民族英雄」と書かれた鄭成功の像清との対立に敗れて台湾に逃れて来た鄭成功ですが、同じく毛沢東の共産党との対立に敗れて台湾に逃れて来た蒋介石とオーバーラップするのでしょうか。その後は鄭氏の拠点として機能した安平城ですが、清の時代になると城の重要性も薄れ、次第に荒廃していきました。そして1868年、原住民とイギリス人との衝突に端を発し、イギリス海軍は安平城を砲撃、砲弾が弾薬庫に命中して城郭は大きく破壊されました。城内には、当時の大砲が復元されています。中国語の解説では、「防砲」と書かれていました。日本統治時代の1930年には安平城に税務官舎が建設され、現在は安平古堡文物陳列館となっています。日本時代の安平古堡文物陳列館赤レンガの城郭の上にいきなり瓦葺の建物があるので、なんとも違和感があります。終戦後に日本の統治が終わると、国民政府により「安平古堡」と名付けられ、現在は台湾の一級古蹟に指定されています。関連の記事和蘭商館(長崎・平戸市)→こちら
2019/09/17
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前回記事から約2か月も空いてしましましたが、台湾旅行の2日目は台南へと向かいました。行った先はやはり城跡めぐり、在台時代にも訪れたことのある億載金城です。大手口にあるトンネル状の城門億載金城は、五稜郭(北海道)・五稜郭(長野)・品川台場(東京)・四稜郭(北海道)などと同じ、いわゆる西洋式城郭です。億載金城の外堀この幾何学的な縄張りが西洋式城郭の特徴です。億載金城は「四稜郭」で、東西南北にそれぞれ稜堡が置かれていました。億載金城の縄張り図日本で言うならば、品川台場や未完成ながら四稜郭が一番近いでしょうか。品川台場では中央部の曲輪に陣屋が置かれていましたが、億載金城では操練場になっていたようです。操練場跡億載金城は五稜郭(北海道)のような二重土塁ではなく、一重の土塁で周りを囲んでありました。土塁の上は歩けるので、北西南東と、麻雀とは逆に回ってみました。北側稜堡の先端部稜堡だけ見ると、北海道の五稜郭かと思うほどです。西側の稜堡先端部各土塁には大砲が置かれていたようで、その大砲も復元されていました。北西の土塁上に置かれた大砲西側の稜堡を過ぎると、さらに大きな大砲と砲台が現れました。中国語の解説では「阿姆斯脱郎大砲」とあったので、戊辰戦争でも使われたアームストロング砲だと思います。南側稜堡内側に「扶堡(中国語)」と呼ばれる土塁があり、このあたりは日本の五稜郭(北海道)によく似ています。億載金城の築城にあたっては、日本の歴史も大きく関わっています。1871年に宮古島の漁民が台湾に漂着した時、先住民が漁民を殺害したことに端を発し、1874年に明治政府は台湾出兵を行いました。この日本の出兵に対し、清国政府が台湾に赴任していた沈葆木貞に命じて築城したのが、億載金城でした。すなわち、億載金城は対日抗争を想定して築城されたことになります。
2019/09/16
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いつかは訪れたいと思いながら、在台時代も含め一度も訪問したことがなかったのが国立故宮博物院です。(公共交通機関での行き方がよくわからず、単に面倒だったのが理由です)ホテルのある南京復興からタクシーに乗り、運転手さんに「グーゴンボーウーグァン(故宮博物館)」と伝えると、意外にもちゃんと通じました。もっとも「宮」を「gong」ではなく「gon」と発音していたため、何度か言い直されましたが、通じていたのが不思議です。毎度のことではありますが、故宮博物院も事前に何も調べることなく来てしまいました。もっとも蒋介石の国民政府が台湾に臨時政府を立てるにあたり、中国本土から台湾に移してきたことや、その経緯から門外不出であることは知っていました。実際に中に入って見ると、展示品の数もさることながら、そのスケールに驚かされました。展示品の年代を見て最初は冗談かと思ったほどですが、紀元前10世紀前後の金属製の器の数々が完全な形で展示されており、大陸文化に圧倒される思いです。明や宋の時代の青磁器にしても、日本では破片すらも貴重なものが、美しい形で現存していました。事前情報の1つとして、故宮博物院を訪れた日本の人から「白菜がすごい」というのは聞いていました。その時は「何のこっちゃ?」と聞き流していたのですが、実物がこちらです。翠玉白菜葉の先にはキリギリスとイナゴがいるようです。台湾では白菜が貴重な野菜だというのが私の印象です。在台時代は自炊をしていて、日本の食材をそごうで入手していました。日本では当たり前に安く手に入る白菜が、台湾では小さい白菜が日本よりはるかに高かったのを思い出しました。在台時代にこれを見ていたならば、とても美味しそうに見えたことでしょう。なお、故宮博物院の展示物は撮影可です。
2019/09/15
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新発田城の本丸は周囲を内堀で囲まれ、その周囲をさらに二の丸が囲む輪郭式の縄張りだったようです。現地の縄張り図二の丸と本丸の間には筋違いの橋が架けられ、それぞれに門が置かれていたようです。二の丸側の「土橋門」跡本丸の虎口には櫓門形式の表門が現存しています。本丸表門(現存、国指定重要文化財)表門の渡櫓は開放されていて、中に入って見ることもできました。渡櫓入口なまこ壁の渡櫓です。渡櫓内部現存する渡櫓の中に入れるのは、新発田城の他には高知城しか経験がありません。新発田城には本丸表門以外にも十一棟の櫓と五つの門が現存していましたが、明治5年になってほとんどが破却されました。今も現存する建造物としては、旧二の丸隅櫓が本丸に移築されています。城内から見た旧二の丸隅櫓(現存、国指定重要文化財)こちらもなまこ壁の外壁になっています。旧二の丸隅櫓新発田城に限らず、やはり隅櫓などの建造物は、城外から見るのが一番だと思います。本丸では旧二の丸隅櫓の他にも、辰巳櫓や三階櫓が復元されていました。辰巳櫓(城内から見たところ)辰巳櫓(城外から見たところ)写真が残っていたためか、詳細に復元されていました。新発田城に天守は上げられず、三階櫓が事実上の天守だったようです。三階櫓(復元)新発田城の築城は比較的新しく、慶長3年(1598年)に加賀から移封された溝口秀勝によって築城されました。溝口秀勝は上杉景勝との戦いで落城した新発田重家の城跡を取り入れて築城し、以後明治に至るまで新発田藩主溝口氏の居城となっています。日本城郭協会「日本100名城」
2019/08/09
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日本100名城もいよいよ残りのカウントダウンとなってきて、向かった先は新潟県新発田市にある新発田城でした。新発田城縄張り図本丸と二の丸は輪郭式で、本丸の周囲を二の丸が取り囲んでおり、二の丸と三の丸は悌郭式という珍しい縄張りになっています。かつて三の丸と二の丸の間は水堀で隔てられ、二の丸には筋違橋と枡形虎口があったようですが、現在となってはわずかにその名残がある程度でした。二の丸「大手中之門」跡二の丸跡二の丸の南西側は「新発田城址公園」として整備され、芝生の広場が広がっていました。新発田城址公園二の丸の西側から北側は陸上自衛隊の新発田駐屯地となっており、本丸から眺めると自衛隊車両がずらりと並んでいます。城郭本来の機能から考えると何ら不思議ではない組み合わせですが、やはり奇特な印象があります。陸上自衛隊の新発田駐屯地は、明治4年に旧陸軍東京鎮台の歩兵大隊が置かれたことに始まっており、その後は陸軍歩兵第16連隊や第116連隊となり、現在は陸上自衛隊の第30普通科連隊となっています。陸軍時代の明治11年に完成した白壁兵舎は、移築復元されて現在は史料館となっていました。白壁兵舎フランス様式と和風城郭様式の和洋折衷で、日清・日露から太平洋戦争などの史料が展示されています。フェンスの外側から芝生広場を眺めてみると、何かのイベントがあるようで、迫撃砲の準備をしているところでした。チャイコフスキーの「序曲1812年」を演奏してくれるのでしょうか。
2019/08/08
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三保半島の先端部はお気に入りの場所の1つで、クルマを停めて海岸沿いを歩くことがよくあります。一応ここが三保半島の最先端です。駿河湾に突き出るような格好をした三保半島先端部からは、すぐ対岸に清水港の港湾部を眺めることができます。観覧車のある所がエスパルスドリームプラザだと思いますが、夜になるとガントリークレーンの光が海面に浮かんで、とても幻想的です。半島の先端部から三保の松原の方へ海岸沿いを歩いて行くと、途中には白亜の清水灯台があります。清水灯台例によって海上保安庁と燈光会のおなじみのデザインの案内板です。三保半島先端部の見どころは、何といっても清見潟や興津越しに見る富士山でしょうか。ここはお気に入りの富士見スポットの1つです。夕暮れ時は、夕陽に赤く染まる富士を見ることができます。2008年12月それにしても10年前と同じ船が停泊しているように見えるのは気のせいでしょうか。黒潮の流れる太平洋岸にありながら、ここは波も風も穏やかで、海鳥の鳴き声だけが聞こえてきます。時折清水港に入港する船舶が目の前を通過していきますが、そのエンジン音さえも心地よく響いてくるような静寂さで、何度来ても飽きない場所です。
2019/08/07
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「人は城 人は石垣 人は堀」の言葉にあるように、甲斐の国内では築城をしなかったのが武田信玄です。中世武士の居館を彷彿とさせるシンプルな躑躅ヶ崎館がその本拠地で、躑躅ヶ崎館の前面には重臣たちの館が躑躅ヶ崎を守るように建ち並んでおり、まさに「人は石垣」といったところでしょうか。その躑躅ヶ崎館の背後にある要害山城は、その名の通り堅固な要塞といった感じで、躑躅ヶ崎館とは異なった戦国山城らしい雰囲気がありました。 虎口跡虎口には石積みも見られ、武田氏滅亡以後に修復された遺構かも知れません。 曲輪跡藪に覆われていますが、広く削平されていました。要害山城の築城は武田信玄の父、武田信虎の時代です。武田信玄・武田勝頼の時代も城郭として機能しており、修復や整備もされていたようです。武田信玄の戦国城郭を見る機会はあまりないため、貴重な遺構かも知れません。実際に要害山城を訪れてみると、「人は城 人は石垣 人は堀」の言葉とは裏腹に、堅固な縄張りとなっていました。 堀切跡本丸に向かって曲輪が何重にも配され、曲輪の先にまた曲輪があるといった感じです。虎口跡曲輪跡曲輪を抜けた先には、また虎口が現れました。 虎口跡土塁跡やがて本丸直下にたどり着き、本丸の土塁が見えてきました。 本丸土塁本丸虎口本丸要害山城は1520年、武田信虎によって築城されました。今川家の家臣である福島正成(小田原北条家の家臣「地黄八幡」北条綱成の父)が甲斐に攻め込んだ時、武田信虎が籠城したのがこの要害山城でした。その時、信虎夫人は身ごもっており、この要害山城で生まれたのが、武田信玄です。本丸には「武田信玄公誕生之地」の碑が建っていました。 日本城郭協会「続日本100名城」関連の記事躑躅ヶ崎館(武田神社)(2008年12月)→こちら
2019/08/06
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甲斐源氏武田氏の躑躅ヶ崎館があった武田神社の北方、直線にして約3㎞ほどのところに要害山城があります。前回要害山城を訪れたのは10年以上前のことですが、その時は登城口にある積翠寺温泉が営業していました。その温泉施設は閉鎖されており、現在は他の施設となって、登城口には比較的新しい城跡碑が建っていました。 かつての積翠寺温泉城跡碑植生に違和感がありますが、実は昨年12月の話です。 現地にある縄張り図躑躅ヶ崎の館の方は典型的な中世武士の居館であり、周囲に堀をめぐらしただけのシンプルな造りですが、要害山城は防御設備を備えた有事の際の詰め城だったようです。見えづらいかも知れませんが、山腹に曲輪が幾重にも配されていました。要害山城の登城道はハイキングコースとしても利用されているようで、地元の家族連れなどが気軽に登っていました。登城道を登り始めると、物見台や竪堀などの遺構を見ることができました。 物見台跡(?)ハイキングコースにはありがちなスイッチバックですが、物見台の跡にしか見えませんでした。竪堀跡藪に覆われていますが、はっきりと残っていました。登城道を登り始めると、城郭の遺構が見られるようになり、虎口や土塁などが残っていました。虎口跡石積みも見られますが、武田氏の時代以降に築かれたものだと思います。 土塁跡要害山の下の方には「不動曲輪」と名付けられた曲輪がありました。 不動曲輪この不動尊は江戸時代後期に建立されたもので、不動曲輪の名前もこの武田不動尊に因んでいます。本丸への登城道から木々の間に目を凝らすと、雪を戴く南アルプスを望むことができました。 繰り返しですが、昨年12月のことです。
2019/08/05
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NHKのプロジェクトXでも採り上げられた富士山のレーダードームは、現在「道の駅富士吉田」に併設の富士吉田市立富士山レーダードーム館に保存されています。富士吉田市立富士山レーダードーム館レーダーリレーアンテナ富士山レーダーの気象情報は、このリレーアンテナで東京へ送られていたそうです。実はここを訪れたのは正月の三が日のことで、残念ながら休館中のため、中に入ることはできませんでした。それでもテラスの上には登ることができ、富士山を間近に眺めることができました。山梨県側から見ると、神奈川県側とはまた違った山容で、とても素敵だと思います。
2019/05/17
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先日のNHK「歴史秘話ヒストリア」で、戦艦大和が採り上げられていました。放映よりも前の1月、私用があって日帰りで広島を訪れ、空港に向かう途中で立ち寄ったのが呉でした。海上自衛隊呉史料館「てつのくじら館」その道を挟んだ向かい側にあるのが、呉市海事歴史科学館「大和ミュージアム」です。大和ミュージアム屋外には、瀬戸内海の柱島沖で謎の爆発で沈没した、戦艦「陸奥」から引き揚げられた遺品が展示されていました。戦艦「陸奥」の41センチ砲陸奥のアンカーなど。大和ミュージアムの内部に入ると、1階のフロアは「大和ひろば」となっており、戦艦大和の10分の1模型が展示されています。10分の1とは言え、普通の船舶ほどの大きさがありました。旧海軍の鎮守府や工廠が置かれた呉軍港は、その戦艦大和が生まれた場所でもあります。現在の呉港掃海艇でしょうか、海上自衛隊の艦船が停泊しています。そして大和が建造されたドックもありました。旧呉海軍工廠、現在はジャパンマリンユナイテッドのドックになっています。
2019/01/20
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海上自衛隊の中でも、潜水艦隊が配備されているのは横須賀と呉だけで、その呉の街には本物の潜水艦が展示されています。「海の忍者」と呼ばれ、絶対に姿を現さないのが潜水艦なので、全景を観る機会は滅多にないかと思います。潜水艦「あきしお」の全景道を挟んだ向かい側は、やはり呉にゆかりのある「大和ミュージアム」です。さすがは古くからの軍港といった感じで、SC「ゆめタウン」の真横に普通に潜水艦が置かれていながら、あまり違和感がありませんでした。艦橋と潜舵部分艦首の魚雷発射管潜水艦の魚雷発射管も、実際に下から眺めることはまずないと思います。「あきしお」が展示してある海上自衛隊呉史料館は、海上自衛隊の広報を目的に建てられた史料館で、「てつのくじら館」の愛称が付けられています。館内には海上自衛隊の活動が様々な展示物とともに紹介されており、実物の潜水艦「あきしお」の中に入って、見学することもできます潜水艦の内部に入ると、艦内にはアクティブソナーの探信音が鳴り響き、まるで潜航しているような神秘的な雰囲気がありました。潜水艦の中はとにかく狭いといった印象がありますが、実際に見てみると想像以上でした。寝室トイレとシャワー室士官寝室士官も二段ベッドで寝ていたようです。唯一の個室である艦長室おそらく海上自衛隊の艦長室の中で、最も狭いのが潜水艦でしょうか。士官公室食堂も兼ねていたようですが、「沈黙の艦隊」の中で、「たつなみ」の艦長である深町洋二等海佐がどんぶり飯を食べていたシーンを思い出しました士官公室の隣にあるのが発令所で、艦内各部に命令が発せられる場所です。「潜航せよ。ベント開け」そしてこちらが操舵室です。三次元の航行が出来る乗り物は航空機と潜水艦だけで、潜水艦にも航空機のような操縦桿が付いています。それでも航空機と潜水艦の大きな違いは、潜水艦は外を見ることが出来ないことでしょうか。退役艦ではありますが、潜水艦の最大潜航深度は機密中の機密です。深深度計は目盛が外してあるのか、見ても最大潜航深度はわかりませんでした。あきしおの潜望鏡は今もアクティブで、実際に外の景色を眺めることができました。艦長が潜望鏡を見ながら、「配置につけ、魚雷戦用意」と命令するシーンを見ることがありますが、元乗組員のガイドの方によると、古い戦法だそうです。ドルフィンマークを付けた「サブマリナー」は、海上自衛隊の中でも相当高い能力が求められるといいます。潜水艦勤務は食事などの待遇がいいとも聞きますが、それだけに想像以上に過酷な環境にあることがよくわかりました。ところで潜水艦を題材にした映画では、「Uボート」や「レッドオクトーバーを追え」などの名作が思い浮かびますが、個人的には「眼下の敵」が一番好きです。映画 眼下の敵 DVDアメリカ海軍駆逐艦とドイツ海軍潜水艦の一騎打ちが題材ですが、そこには艦長同士のヒューマニズムがあふれています。沈黙の艦隊 [DVD]
2019/01/19
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曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」では、安房里見氏初代の里見義実の娘「伏姫」が、母と共に参拝した場所として登場するのが洲崎明神(洲崎神社)です。堂々の安房国一之宮です。「南総里見八犬伝」では、玉梓の呪いによって口が利けなかった伏姫ですが、洲崎明神に参拝して役行者から数珠を与えられると、口が利けるようになり健やかに育っていきました。その役行者に与えられた数珠が、「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の「仁義八行の玉」で、後に八犬士となって、里見家の危機を救うこととなります。【彫刻置物】丸玉 水晶20mm (素彫り) 里見八犬伝 【パワーストーン 天然石 アクセサリー】その洲崎神社の拝殿は、階段を何段も登った高台にありました。拝殿から見た参道と鳥居その先には太平洋が広がっています。拝殿「南総里見八犬伝」は史実をモデルにしたフィクションですが、史実でも里見氏第6代の里見義弘によって崇敬され、神領も寄進されています。(洲崎神社の解説板では、里見義弘が「房総里見氏第七代」とされていますが、こちらの方が正しいのかも知れません)解説板によると、安房国に流れ着いた源頼朝も、ここで源氏再興と妻北条政子の安産祈願をしたとありました本殿南総里見八犬伝 全106冊揃 / 曲亭馬琴(滝沢馬琴)/重宣・英泉 他画 【中古】現代語訳 南総里見八犬伝 合本版【電子書籍】[ 曲亭馬琴 ]
2019/01/15
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三浦半島南側の城ヶ島では、1月13日から2月3日まで「城ケ島水仙まつり」が開催されています。この時期の水仙は南房総の代名詞だと思っていて、房総半島まで行こうと思っていたところです。同じ神奈川県で水仙が見られると知って、城ヶ島まで少し足を延ばしてみました。城ヶ島の東側は「城ヶ島公園」として整備されていますが、断崖や磯などの変化に富んだ自然地形が残っていました。高台にある展望台から眺めると、荒磯の中に建つ安房埼灯台を見ることができます。城ヶ島の東端、安房埼灯台高台にある展望台に登ってみると、目の前には太平洋が広がっていました。相模湾越しに見る富士山三浦半島南岸の絶壁と剣埼浦賀水道を挟んだ向こう側に見えるのは鋸山でしょうか。三浦半島と房総半島は浦賀水道を挟んで目と鼻の先のような感じですが、かつては三浦半島が「相模国」で、房総半島は「上総国」と「安房国」に分かれていました。現地の解説板によると、相模国の三浦半島にありながら「安房崎」の名前が付いているのは、その南房総の「安房国」を望むからだとされています。安房埼灯台安房崎から見た房総半島右側の双耳峰は「南総里見八犬伝」ゆかりの「富山(とみさん)」で、その左側は伊予ヶ岳だと思います。戦国時代には相模の北条水軍と房総の里見水軍が、浦賀水道の制海権を争った場所でもあります。現代のこの時期、「対岸」南房総の「水仙ロード」や「とみやま水仙遊歩道」でも、三浦半島と同じように水仙が咲き誇っていると思うと、戦国絵巻も遠い昔のように思えてきました。城ヶ島公園の水仙
2019/01/14
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日本で最初の西洋式灯台が観音崎に点灯したのは1869年の2月のことで、観音埼灯台が初点灯してから今年でちょうど150年になります。観音埼灯台の2番目に点灯した西洋式灯台が、房総半島最南端の野島崎にある野島埼灯台です。野島埼灯台は一般でも参観できる観光灯台となっており、灯台の上まで登ることができます。太平洋船舶に電波で方位を示すレーマークビーコンが見えています。(GPSが発達した現在では、その役目を終えました)野島崎の海岸線房総半島の方を振り返ると、里見氏初代里見義実の白浜城が見えていました。曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」にも登場する実在の城です。灯台ではおなじみ、海上保安庁と燈光会による解説板で、どの灯台でも同じデザインです。併設する資料館には、レオンス=ヴェルニーの像も建っていました。横須賀のヴェルニー公園にその名を残すフランス人技師で、横須賀製鉄所(横須賀造船所)のみならず、観音埼・野島埼・城ヶ島灯台などの西洋式灯台を建設した人です。元々船乗りになりたいと思っていたことがあって、灯台めぐりも趣味の1つです。資料館の受付の女性(海上保安庁の職員?)と灯台の話をしていると、灯台マニアだと思われたようで、マニア向けのフリー雑誌「灯台どーだい」(部数限定)をくれたりしました。「灯台マニア」という言葉を初めて聞いたのですが、灯台好きではあるものの、マニアではありません。(本当のマニアは神子元島灯台とか、平気で行くのだと思います)野島崎は何度か訪れていて、その度に立ち寄る場所があります。「見晴亭」の「アジづくし定食」ここに来るといつも思うのですが、アジフライってこんなに美味しいものだったでしょうか。
2019/01/04
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遅ればせながら、新年おめでとうございます。2019年の三が日も三日目にして、ようやく初詣に行って参りました。せっかくなので少し足を延ばし、向かった先は富士山の須走口に鎮座する東口本宮浅間神社です。葛飾区から横浜市に引っ越して来て、横浜で2回目の新年を迎えることになりました。しかしながら横浜には柴又帝釈天がないので、初詣はどこに行ったらいいのか悩んでいたところです。去年の夏に富士山の世界遺産を巡った時、古来からの富士信仰の深さを思い知らされると共に、各所にある浅間神社には強いパワーを感じていました。その時の印象が強烈すぎて、初詣に選んだのが浅間神社ですが、初詣としては初の浅間神社です。ユネスコの世界文化遺産の構成資産になっている東口本宮浅間神社ですが、意外と参拝客が少ない気がします。それでも昨年の夏とは違って、御神木にはしめ縄が飾られていました。拝殿で今年の抱負を誓うと共に、境内の数々の御神木に触れて、そのパワーをもらっていました。須走口から見た富士山(2018年8月)同じく須走口からの富士山雪と雲を従えていますが、相変わらず宝永の噴火口が痛々しいです。
2019/01/03
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数ある富士見スポットの中でも、箱根カルデラ(外輪山)から眺める富士山は、特にお気に入りのスポットです。その箱根カルデラの中でも、足柄峠~金時山~乙女峠と続く北側の稜線からは、富士の裾野から山頂までの全容を見ることができます。神奈川県箱根町から国道138号線の乙女トンネルを抜けて、御殿場市に入ったところにある「ふじみ茶屋」は、手軽に行けるスポットかと思います。ふじみ茶屋ふじみ茶屋から見た富士山実際に肉眼で見ると、こんな感じでした。本当の乙女峠は、乙女トンネルの真上の箱根外輪山の稜線上にあります。冬晴れのこの季節、乙女峠から金時山、そして足柄峠へと歩いてみるのもいいかも知れません。積雪期の乙女峠展望台(2014年1月)金時山頂から見た富士山(2010年2月)足柄峠から見た富士(2018年5月)最近は山歩きから遠ざかっていたので、久々に箱根カルデラの稜線を縦走してみたくなりました。特に雪が降った後の快晴の日、外輪山から眺めるパノラマと、アイゼンで踏みしめる新雪の感覚は、やみつきになりそうです。(金時山頂の「金時茶屋」で食べる「きのこ汁」は、これがまた体に染みわたるのです)
2018/11/25
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紅葉&富士見と欲張りな企画を立て、伊豆方面に向かってみました。伊豆スカイラインの巣雲山園地駐車場から富士山が見えるはずなのですが、残念ながら雲に隠れていました。ピンポイントで雲がかかっていて、裾野まで覆われています。駿河湾の方向手前に連なるのは「沼津アルプス」です。「沼津」の地名と「アルプス」の名称がアンマッチですが、2013年2月に縦走した時は、日本アルプス並みに疲れたのを覚えています。富士見は残念でしたが、紅葉の方はもっと残念で、すでに落葉しかけていました。相棒のZ33も、この日はご機嫌ナナメでした。
2018/11/23
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「水戸のご老公」こと、黄門様の徳川光圀がまさに隠居していた場所が、「西山御殿」(西山荘)です。西山荘は水戸城から北へ約20㎞行った常陸太田市にあり、人里離れたひっそりとした場所に建っていました。表門のような門構えですが、通用門だそうです。表門である「突上御門」は、逆に質素な造りになっていました。城郭でいうならば、ここが大手門です。徳川光圀の居宅も質素な造りで、とても徳川御三家の藩主の居宅とは思えないほどでした。徳川光圀の当時の住居は1817年に火災で焼失してしまい、現在の建物は1819年に水戸藩によって再建されたものです。徳川光圀の偉業の1つに「大日本史」の編纂がありますが、隠居後もこの西山荘で編纂作業を続け、ここで一応の完成となりました。やはり徳川光圀と言えば、「水戸黄門漫遊記」があまりにも有名かと思います。実際の黄門様は水戸城と水戸藩の江戸藩邸(小石川後楽園)を往復するくらいで、全国各地を巡ったわけではないようです。(藩の執務に忙殺されて、とてもそんな余裕はなかったかと思います)それでも「大日本史」の編纂にあたっては、家臣たちは史料を集めるため、各地を巡ったと言います。その家臣の中には、佐々介三郎宗淳(助さんのモデル)と、安積澹泊(覚兵衛、格さんのモデル)がいました。水戸城の三の丸、JR水戸駅前に建つ御一行の像「助さん」こと佐々木助三郎のモデルとなった佐々介三郎宗淳は、「ご老公」の隠居後も徳川光圀のすぐそばで暮らしていたようです。佐々宗淳(助さん)の居宅跡「水戸黄門」の名君ぶりはテレビドラマで全国区で有名ですが、実際の徳川光圀も常陸国(茨城県)では「義公」と呼ばれ、名君として称えられています。「徳川御三家」である水戸藩の藩主を退いて隠居の身となった徳川光圀は、一領民として水田を耕し、年貢米を納めていたそうです。徳川光圀の水田「ご前田」「水戸黄門漫遊記」が世に広まったのは幕末の時代で、ちょうど徳川斉昭が水戸藩主だった頃だと思います。徳川光圀が「義公」ならば、徳川斉昭は「烈公」として称えられ、常盤神社にはその義公と烈公が祀られています。(徳川斉昭も庶民的な藩主で、「偕(みな)と共に楽しむ」の「偕楽園」を造園し、身分を問わず一般開放した人でした)庶民派の徳川斉昭に、かつての庶民派である徳川光圀をオーバーラップさせて、「水戸黄門漫遊記」が生まれたのかも知れません。ところで、西山荘は紅葉スポットとしても知られており、実は紅葉がメインで訪れた場所でした。
2018/11/17
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今シーズン初の紅葉狩りは、多摩川水系上流部の支流、秋川にある秋川渓谷でした。秋川渓谷「瀬音の湯」「瀬音の湯」は足湯や日帰り入浴も可能で、季節を問わず奥武蔵の山登りの帰りによく立ち寄っていました。天然温泉で、水素イオン濃度でPH10.1のといいますから、結構なアルカリ泉です。(「秋川渓谷瀬音の湯」のHP→こちら)瀬音の湯から少し歩くと、秋川に架かる「石舟橋」があります。例年通り11月の中旬に訪れたものの、今年は紅葉のタイミングがバラバラで、まだ紅葉していなかったり、すでに落葉していたりしました。石舟橋から見た上流部この上流には「払沢の滝」があり、さらにその先には「三頭大滝」からの支流も合流しています。滝や渓流は画像では迫力がないので、例によって動画にしてみました。
2018/11/12
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10月の終わりに商用があって、また台湾に行くことになりました。桃園上空新北上空眼下を通るのは「中山高速公路」で、その先を流れるのが「淡水河」です。羽田空港のD滑走路と国際線ターミナルが開業し、羽田空港⇔松山機場便が開通したのは、ちょうど自分が台北に住んでいた2010年のことでした。2010年11月から2011年4月にかけて開催された「台北国際花卉博覧会(花博、Flora Expo)」では、松山機場へのファイナルアプローチコース(最終進入経路)が、花博会場の真上を通っていました。羽田から飛んできた日本の飛行機が、ランディングギアを下ろし、フラップを一杯に広げて松山機場に降りていく姿は、とても新鮮だったのを覚えています。(尾翼に描かれた日本の航空会社のロゴを見た時は、思わず手を振ってしまったほどです)そしておなじみの松山機場です。これほど便利な空港もないと思うのですが、在台時はオフィスが忠孝復興にあったため、台北捷運(MRT)でオフィスまで15分、自宅も計程車(タクシー)で15分といった距離でした。ちなみに「松山機場」をカタカナで書くと「ソンシャンジーチャン」となりますが、中国語では四声とピンインを間違えると全く違う意味になるので、発音と抑揚には注意が必要です。松山機場について言えば、フランスの「シャンソン」を逆にして「ソンシャン」と呼んで、「じーちゃん、ばーちゃん」の「じーちゃん」を付け、「ソンシャンじーちゃん」と言えば「松山機場」になります。(少なくとも私の経験では、通じなかったことがありません)今回の台湾訪問では空港に着くとさっそく動くことになり、1日目と2日目の日中はMRTやタクシーで台北市内や汐止、新北を行ったり来たりして、夜は会食といった具合でした。3日目は台湾高鐵(台湾新幹線、Taiwan High Speed Rail)で、「台湾のシリコンバレー」またの名を「風城」(Windy City)と呼ばれる新竹を往復していました。3日目の夜にようやく自由な時間が出来て、向かった先は在台時代によく行っていた「焼鳥バル 鶏匠」でした。一見するとお手頃感がありますが、通貨単位は「台湾元(NT$)」です。(約4倍すると日本円になります)台湾では啤酒(ビール)が安く、日本のビールも日本より安く飲めるので、自分のようなビール党には天国のような場所でした。(私は日本酒が飲めないので直撃はありませんでしたが、日本酒がとにかく高いので、日本酒党には地獄かも知れません)そして4日目は日本に帰る日でしたが、土曜日の休日でもあったので、夕方の飛行機までゆっくりできる時間がとれました。とは言え、どこに行くでもないので、朝からホテルで「台湾電視台」のニュース番組、「台視新聞台」を観ていました。「TTV 台湾電視台」、「台視新聞」のライブ放送在台時代、同じく中国語の勉強を兼ねてよく観ていたのが、台湾電視台の「百萬小學堂」です。「せっかく台北に来たのに」と思いつつ、依然することもなくて、とりあえずは行天宮の方に行ってみました。占い横丁ではひどい目に遭った思い出がある行天宮でしたが、今回は足裏マッサージが目的です。(「太極堂」も経営が日本人に変わったそうで、日本人だらけでした)足裏マッサージの後もさらに時間が余ってしまい、総統府や二二八紀念公園のある東門エリアの方に移動してみました。それでも向かった先はやっぱり「長栄海事博物館(Ever Green Maritime Museum) 」でした。長栄海事博物館を出た後も時間があったので、総統府の方へ行ってみると、台湾の統一地方選の真っ最中だったようです。台湾の統一地方選挙は自分も関心を持っていましたが、民進党の大敗で蔡英文総統が辞任したのは、この後の話でした。「Roman Holiday(ローマの休日) 」のアン王女とは違って、なんともグダグダな「台北度假(台北の休日)」でした。但是我想回來台北
2018/11/11
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かつて郡山城の本丸には天守が建っており、そのことは発掘調査によって明らかになっています。しかしながら天守に関する絵図や史料がないため、その構造まではわかっていないようです。天守台天守の礎石天守台から見た城内(本丸追手門の方向)奈良では石垣の石材が不足していたため、天守台の築造にあたっては墓石や地蔵石などが転用されました。転用石が使われた天守台こちら側は比較的新しい石垣技術が見られ、隅石の勾配を見ると、藤堂高虎の普請かと思われます。その天守台には地蔵石が転用され、今も「さかさ地蔵」として残っていました。さかさ地蔵地蔵には大永3年(1523年)癸末7月18日の刻銘があり、少なくともそれよりも後になって石垣に使われたものだと思います。郡山城が大規模城郭に改修されたのは豊臣秀長の時代で、石材が乏しい中で急ピッチで築城工事が進められたため、「さかさ地蔵」以外にも750基の転用石が見つかっているそうです。近世城郭としての郡山城は、1579年に大和国守護であった筒井順慶によって築城されました。築城にあたっては、松永久秀の多聞城の石垣なども転用されたそうです。そして、天守が建てられたのも筒井順慶の時代で、1583年のことでした。1585年には豊臣秀吉の弟である豊臣秀長が入城し、城郭の改修と拡張を行いました。天守台の「さかさ地蔵」もこの時だと言われています。関ヶ原の戦い後は水野氏や本多氏といった譜代が城主となりますが、いずれも転封となり、1724年に甲府城から入封して来たのが柳沢吉保でした。城内の本丸には、柳沢吉保を祀る柳澤神社が鎮座しています。柳澤神社「祭神 川越 甲府城主 柳澤美濃守吉保公」とあります。そして平成29年4月6日の「城の日」に、「続日本100名城」では奈良県で唯一郡山城が選ばれました。(日本100名城では、高取城が奈良県では唯一の選出です)日本城郭協会「続日本100名城」
2018/11/10
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総石垣の近世城郭に関して言えば、どうしても西高東低の感は否めないかと思います。大和国については、1560年に松永久秀が信貴山城や多聞城を築城し、近世城郭の先駆けとなりました。(織田信長が安土城を築いたのは、さらに時代が下って1576年のことです)関東で総石垣の近世城郭が登場するのは、さらに時代が下った1590年のことで、豊臣秀吉が北条氏の小田原城を攻めるために築いた石垣山一夜城が最初の総石垣造りでした。「織豊時代」または「安土桃山時代」とも呼ばれ、文化・芸術だけでなく城郭建築も発展を遂げたこの時代に築かれたのが、奈良県大和郡山市にある郡山城です。郡山城縄張図近鉄郡山駅の周辺には「三の丸」の名前を冠した施設がいくつかあり、三の丸の大手口にある門の跡も残っていました。「頬当門」跡「柳御門」跡桝形が残っています。二の丸虎口「鉄御門」跡渡櫓の櫓台だと思いますが、石垣には矢穴(石積み石を切断する時のミシン目)が残っていました。本丸の周囲は内堀で囲まれており、今も水堀が残っていました。二の丸「陣甫郭」から見た本丸内堀細長い陣甫郭の先、本丸の大手虎口には追手門が復元されています。追手向櫓(手前)と多聞櫓(奥)(いずれも復元)追手門(復元)豊臣秀長の時代の復元櫓で、白の塗籠ではなく黒の下見板張りに、西日本の近世城郭らしさを感じます。追手門から本丸へは直線的に入れない縄張になっており、天守のある本丸へ向かうにはUターンして、毘沙門郭を抜けないといけません。毘沙門郭からみた本丸内堀今度は本丸内堀を右側に見るようになりましたが、本丸内堀は何となく大阪城に似ている気がします。ところで一部石垣が崩壊して修復中のような場所がありますが、「白沢橋」と櫓を復元中とのことです。ボランティアガイドの方によると、この復元には私財が投じられており、旧城主である柳澤氏の家臣の末裔によって、億単位のお金が寄付されたそうです。
2018/11/09
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東大寺転害門から西へ約1㎞ほど行ったところ、大仏殿を見下ろす丘陵部にあるのが多聞城です。多聞城は松永弾正久秀による築城で、城跡は奈良市立若草中学校の敷地になっています。奈良市立若草中学校正門縄張は判然としませんが、佐保川の流れる南側、若草中学校の入口が大手だったと思われます。ここから先は中学校の敷地になるため、中に入ることはしませんでした。それでも校庭の周囲を見回してみると、戦国城郭の土塁のような跡が残っています。不自然に段差があって畝状になっていることから、城郭の遺構だと思われます。多聞城の由来は、築城主である松永久秀が多聞天(毘沙門天)を信仰していたことに由来しています。同じく松永久秀が築いた信貴山城も、やはり背後に毘沙門天を本尊として祀る朝護孫子寺があります。多聞城の城郭遺構については、1565年に奈良を訪れた宣教師、ルイス・デ・アルメイダの記録が残っています。現地の解説板によると、その時の記録として「瓦葺で白壁の障壁を備え、城内は障壁で飾られるなど豪華な造りであった」とあるそうです。これは興味深い史料で、織田信長が安土城を築く10年以上前、すでに松永久秀がここに近世城郭を築いていたことになります。その近世城郭では同じみの「多聞櫓」ですが、その名前は松永久秀が築いたこの多聞城に由来しています。多聞櫓(2017年8月、伊予松山城にて)さらに多聞城には「四階櫓」が建てられており、これが後の天守のプロトタイプとされています。残念ながら多聞城には当時の建造物は残っておらず、若草中学校建設の際も文化財保護法が制定されていなかったため、発掘調査も行われていません。文化財保護の奈良において、多聞城より1000年近く前の建造物が現存していて、「最近の」多聞城の建造物が残っていないとは、何とも皮肉な話です。それでも造成当時に出土した石塔などが、中学校敷地前の削平地に残っていました。およそ中学校の校庭に似つかわしくなく、かつ無造作に放置されているようですが、文化財として保管されているのでしょうか。出土した石塔の並ぶ場所も、かつての曲輪の跡だったと思われますが、土塁の法面のような場所もありました。かつては石垣造りで、近世城郭の先駆けとなる貴重な遺構が存在していたと思われます。多聞城は、築城年・築城主ともに明らかになっていて、1560年に松永弾正久秀によって築城されました。「梟雄」として名高い松永久秀は、当時畿内の最大勢力であった三好長慶の祐筆だったとされています。その松永久秀は三好家の中で頭角を現しましたが、三好長慶の没後は「三好三人衆」と対立するようになり、三好三人衆と同盟を結んだ同じ大和の筒井順慶とも敵対するようになりました。そして1567年に三好三人衆が大和に侵攻すると、松永久秀・三好義継連合軍VS三好三人衆・筒井順慶連合軍の間で戦闘となり、「東大寺大仏殿の戦い」が勃発しました。戦いは約半年間にわたり、三好三人衆は多聞城に近い東大寺に陣を置いていました。1567年10月10日、松永久秀がその東大寺を襲撃すると、大仏殿が焼失して大仏の頭部も落ちてしまったそうです。東大寺大仏殿(2018年10月)大仏殿が再建されたのは、江戸時代に入ってからで、約250年後の1709年のことです。東大寺津廬舎那仏座像(2018年10月)この出来事は「東大寺大仏殿焼討」として、松永久秀の「三悪事」の1つに数えられていますが、文献などによると三好三人衆の失火とみる説が有力のようです。松永久秀の「三悪事」を挙げたのは織田信長でしたが、この三好三人衆との戦いにおいて、松永久秀を援護したのも織田信長でした。一時は織田信長に恭順していた松永久秀でしたが、やがて織田信長にも反旗を翻し、織田信長軍に信貴山城を攻められて最期は自害して果てました。達磨寺(奈良・王寺町)にある松永久秀墓所現在は風化してしまっていますが、「松永弾正久秀墓 天正五年 十月十日」の文字があるそうです。信貴山城が落城して松永久秀が自害したのは、東大寺大仏殿が焼失してからちょうど10年後、1577年のことでした。さらには日付も同じ10月10日です。松永久秀については、自分が育った地元の奈良でも評価が分かれるところです。(奈良では松永久秀か、筒井順慶かの二者択一になるのでしょうが)三好長慶の祐筆から身を起こし、戦国時代で織田信長にも一目置かれるほど名を馳せた大和の英雄とする見方もあります。(そんな松永久秀ひいきは、「松永弾正」と呼ぶのでよくわかります)一方で、南都に戦乱を招き、東大寺の大仏殿まで焼失させた「悪党」とする見方もあります。(多くは筒井順慶ひいきの人で、高校の日本史の先生がそうでした)自分は松永弾正と呼んで、松永久秀を評価しているのですが、1つだけ許しがたい悪事があります。多聞城は聖武天皇・仁正皇后陵に続く東側の丘陵部にあり、この御陵上にも多聞城の曲輪が築かれていたようです。強力なリーダーシップで、この国の礎を築いた聖武天皇の御陵があることは、さすがに松永久秀も知っていたことと思います。大和支配の拠点として、その場所に城を築くとは、松永弾正おそるべしです。
2018/11/08
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大阪府と奈良県の府県境にある奈良県王寺町は、自分が育った場所でもあります。法隆寺のある「斑鳩の里」にも近く、聖徳太子にまつわる伝説や信仰が多く残る場所で、「片岡山伝説(飢人伝説)」のご当地でもあります。また府県境には「送迎」と書いて「ひるめ」と呼ぶ地名があり、聖徳太子が河内と大和の法隆寺を行き来していた時、大和と河内の両方から送り迎えしたことに因んでいるとされています。送迎を「ひるめ」と読むのは、ここで昼飯の時間になったので、「ひるめし」が「ひるめ」になったという説もあります。613年の聖徳太子の「片岡山伝説」(飢人伝説)にまつわるのが達磨寺で、達磨禅師の化身とされる飢人の墓の上に本堂が建っています。本堂以前はもっと古い建物だったのですが、前面の国道168号線の拡張に伴い、2002年に改築されたそうです。本堂の右手裏にも古墳があり、石室は法隆寺まで続いているという言い伝えもあります。本堂の内部は一般公開されていて、ご本尊の撮影も可能とのことでした。本尊左から木造聖徳太子坐像(国指定重要文化財)、木造千手観音像(王寺町指定文化財)、木造達磨坐像(国指定重要文化財)達磨寺ではずっと地元のボランティアガイドの方に説明を受けていたのですが、聞けば20年前に大阪から転居してきたそうです。地元育ちの私よりずっと地元の歴史に詳しいので、恐れ入りました。達磨寺の境内には、「雪丸」の石像も置かれていました。「雪丸」は初めて知ったのですが、聖徳太子の愛犬で、王寺町のマスコットキャラクターにもなっているそうです。境内に数多く建ち並ぶ石塔の中で、碑銘も何も書かれていない石塔があります。「松永弾正久秀墓 天正五年 十月十日」の文字があるそうですが、現在は風化してしまっています。天正5年(1577年)10月10日は、織田信長軍によって信貴山城が落城し、松永久秀が自害した日で、現在でも毎年10月10日になると、達磨寺では法要が営まれます。ここに松永久秀の亡骸を葬ったのは、同じ大和国で覇権を争ったライバル、筒井順慶でした。松永久秀の末裔の方々も、全国から達磨寺に訪れるそうです。ガイドの方によると、爆笑問題の太田光さんの夫人、太田光代さん(旧姓松永光代さん)も末裔で、達磨寺を訪れたことがあるとのことでした。久しぶりに西大和に帰って来ると、駅前などの都市の景観が変わっていたりしました。大阪のベッドタウンにあって、都市開発は避けて通れない波かも知れませんが、それでも文化財や史跡の保護を重視する姿勢だけは変わっていなかったように思います。さらにはボランティアガイドさんたちのように、その地元の歴史を後世に伝えて行く姿勢も、昔のままでした。漫画「片岡山飢人伝説」について→こちら(達磨寺のHP)↓奈良県王寺町観光プロモーション冒頭は達磨寺ですが、王寺駅と大和川沿い以外は行ったことない場所ばかりです。
2018/11/07
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信貴山城は、朝護孫子寺の空鉢護法堂のある信貴山雄岳の山頂を本丸とし、北側の稜線上に曲輪を配した縄張となっています。現地にある縄張図朝護孫子寺のある南側が搦手で、北側が大手方向になるようです。本丸直下の曲輪跡北側の尾根筋を下って行くと、戦国城郭の塁や腰曲輪の遺構が残っていました。土塁跡腰曲輪跡北側の稜線上には広く何段にも削平された曲輪があり、「松永屋敷」と呼ばれています。松永屋敷松永久秀の屋敷があったとされています。曲輪の一角には黒ずんで凹んだ場所があったのですが、井戸の跡だったでしょうか。松永屋敷の東側、縄張図でいうと水の手に近い場所には、虎口らしき跡も残っていました。土塁には石垣石のようなものが散見されましたが、石垣の遺構かどうかはわかりませんでした。空堀跡土塁跡松永屋敷(上から見たところ)信貴山上空には伊丹空港到着機の航空路があり、伊丹に向かう航空機がすぐ上をかすめるように飛んでいきました。 (羽田→伊丹便では、右側の機窓に朝護孫子寺と信貴山城を見ることができます)信貴山は大和国と河内国の国境にあるため、古くから築城が繰り返された場所です。現在の大阪府と奈良県の県境にある高安山には、天智天皇の667年に唐・新羅連合軍からの防衛のため、古代山城である「高安城」(たかやすのき)が築かれたとされています。また鎌倉時代には、護良親王が反鎌倉幕府軍の拠点としていた場所でもありました。戦国時代になると木沢長政が本格的に築城を開始し、現在の城跡は大和国を制圧した松永久秀の築城によるものです。大和国支配の本拠地となった信貴山城でしたが、松永久秀が織田信長に謀反を起こしたため、織田信長軍によって1577年に落城しました。50日におよぶ壮絶な籠城戦でしたが、織田信長が望んでいた名茶器「平蜘蛛茶釜」を粉々に砕き、松永久秀は自害して果てました。「梟雄」として知られる松永久秀でしたが、千利休とは茶の師匠を同じくする文化人でもあり、信貴山城からは茶臼や石臼の破片など、茶道を偲ばせる遺品が発掘されています。
2018/11/06
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私がよく購読するPHP出版の雑誌「歴史街道」では、『「梟雄」と聞いて思い浮かべる歴史上の人物は? 』というアンケートのランキングがありました。上位10位までが掲載され、1位、斎藤道三 2位、織田信長 3位、松永久秀4位以下は、宇喜多直家、北条早雲、豊臣秀吉、曹操孟徳、徳川家康、明智光秀、石田三成、と続きます。「梟雄=下剋上で名を馳せた人物」と解釈するならば、個人的には、斎藤道三は文句なく1位だとしても、2位が松永久秀で、3位が北条早雲でしょうか。(宇喜多直家も外せないところではありますが)その戦国時代の申し子のような松永久秀の築城によるのが、大阪と奈良の府県境にある信貴山城です。朝護孫子寺の空鉢護法堂のある信貴山雄岳山頂に本丸があり、現在は空鉢護法堂の参詣道が信貴山城への登城道になっています。空鉢護法堂参詣道への分岐点にある行者堂参詣道の鳥居子供の頃によくやっていた事ですが、鳥居の上に石を乗せるのは関西だけの風習なのでしょうか。信貴山の稜線は南北に連なっており、城郭の縄張でいうと朝護孫子寺のある南側は信貴山城の搦手にあたります。信貴山城の縄張図九十九折が続く空鉢護法堂の参詣道空鉢護法堂の参詣道を行く人は、手に手にやかんを持っていたのですが、下の水場で汲んだ水をお供えするそうです。途中には四阿があって、その先にはようやく城郭の遺構らしきものが見えてきました。斜面が人工的な切岸状になっていて、どこがどうと言うのはうまく説明できませんが、戦国城郭ではありがちな遺構だと思います。尾根線にたどり着いたところで、土塁らしきものも見えてきました。物見台の跡のようにも見えますが、よく考えれば信貴山雌岳の山頂部だったかも知れません。(縄張図を見る限りでは、削平地があって城郭に使われていたようです)朝護孫子寺の空鉢護法堂は信貴山雄岳山頂(標高437m)にあり、同時にここが信貴山城の本丸部分でもあります。空鉢護法堂の鳥居すでに視点が城跡ハンターになっているので、右手に土塁の跡が残っていると思うのは気のせいでしょうか。ところで日本で最初の「天守」を上げたのは、織田信長の安土城だとされています。「天守」という名前ではないものの、安土城以前に松永久秀が信貴山城に「高櫓」を建てており、天守のプロトタイプがここにありました。本丸に建つ城跡碑本丸からは大和平野の南側を見渡すことができ、信貴生駒山地とは山系が異なりますが、同じ府県境に連なる金剛葛城山地を望むことができました。奈良に帰って来ると、訪れている史跡の時代を認識するのが一苦労ですが、信貴山城から約200年前にはあの金剛山の千早城で壮絶な籠城戦が展開されていました。鎌倉幕府軍の大軍を相手に孤軍奮闘していたのが、当ブログのプロフィール画像にも使わせてもらっている楠木正成公です。いま自分が立っている時代をよくよく考えてみると、朝護孫子寺の空鉢護法堂は10世紀の930年に命漣上人によって建立されました。一方で、松永久秀がここに天守を建てたのは、16世紀も半ばの話です。ということは、松永久秀は朝護孫子寺の空鉢護法堂に本丸を置いたことになり、やはり「梟雄」というしかないのでしょうか。(松永久秀は、他にももっと恐れ多いところに城を築いており、それは後日紹介いたします)朝護孫子寺の本尊は毘沙門天ですが、同じ毘沙門天を厚く信仰していた人がいました。上杉謙信像(2018年8月 春日山城にて)上杉謙信も松永久秀も同時代の人で、アンチ織田信長では一致しているかと思います。信貴山城を攻め落としたのは織田信長でしたが、「なんで毘沙門天ばかり出てくるの?」といったところでしょうか。
2018/11/05
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なぜか信貴山の朝護孫子寺は、関東から訪れた人に好評です。 (中には「法隆寺や東大寺よりも良かった」という人もいました)奈良に住んでいる時、実家が信貴山の近くにあったのですが、朝護孫子寺を訪れたのは1回か2回しか記憶がありません。その朝護孫子寺の本尊は虎を守護神とする毘沙門天で、入口の赤門前には、阪神タイガースファンにはおなじみの「世界一の福寅」が置かれています。小学校の途中で広島から奈良に転校して来た時、それまで当たり前のようにいた広島カープファンは周りに全くおらず、阪神タイガースと近鉄バファローズ(当時)のファンばかりだったので、半端ないアウェー感を感じたのを覚えています。赤門信貴山と言えば、「信貴山縁起絵巻」(国宝)が有名かと思いますが、原本は国立奈良博物館に寄託されていて、霊宝館に複製が展示されています。霊宝館朝護孫子寺の本堂は、山の斜面に柱を立てた舞台づくりになっています。本堂から見た大和平野ちょうど画像の中央辺りが、実家のあった場所です。本堂は聖徳太子が堂宇を建てたのが始まりとされていますが、戦国時代に焼失してしまい、豊臣秀頼によって再建されたと言われています。本堂子供の頃、真っ暗闇の中を歩いた記憶があるのですが、本堂の「戒壇巡り」だそうです。朝護孫子寺には千手院・成福院・玉蔵院の3院の塔頭寺院があり、それぞれの境内には宿坊もあります。千手院の宿坊成福院の塔頭玉蔵院の塔頭玉蔵院の左に建つのが、「日本一の大地蔵」です。玉蔵院から見た境内手前の屋根がおそらく宿坊で、一番向こう側に見える屋根が本堂です。もし信貴山に足を運ばれる機会があったら、「信貴生駒スカイライン」はおススメです。信貴山から生駒山まで、府県境の尾根線を走るため、右手に大和平野、左手に大阪平野と大阪湾(六甲山や淡路島)を望むことができます。特に夜景は絶景だと思うのですが、ブラインドコーナーが多くて夜間は事故が多い場所でもあるので、運転に自信のない方は地元ドライバーに任せた方が無難かと思います。信貴スカも含めて、時間をかけてゆっくりと見て回りたいところでしたが、今回の目的は別にあったので、朝護孫子寺の境内を抜けて、まっすぐ信貴山雄岳の山頂を目指しました。
2018/11/04
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「大和三山」(耳成山・畝傍山・天香久山)の二等辺三角形の中心に位置するのが「史跡藤原宮跡」で、藤原京の中心部でありました。大和三山と藤原宮跡の位置関係藤原京そのものは碁盤目状の条坊制となっており、平城京よりも前に都城制を敷いた、日本で最初の首都です。さらにその規模は南北に約5.3km、東西に約4.8kmと、平城京や平安京も凌ぐ面積がありました。藤原京の全体図(現地解説板より)南は飛鳥が入る大きさです。その藤原京の中心部にある政治の中枢部が藤原宮で、現在は「藤原宮跡」として史跡に指定されています。藤原宮の地図(現地解説板より)大極殿跡と朝堂院閤門跡大極殿跡朝堂院閤門跡朝堂院東門跡朝堂院西門跡朝堂院西門跡からは、大和三山の三角形の北の頂点である耳成山を望むことができます。耳成山藤原京の北の端は、あの耳成山のさらに北にあったことになります。西の方に目を向けると、畝傍山には西日が傾いていました。畝傍山山麓には神武天皇陵である畝傍御陵があり、神武天皇を祀る橿原神宮が鎮座しています。藤原京は持統天皇の694年に完成し、平城京に遷都する710年までの間、ここが日本の首都でした。持統天皇は先帝であり夫でもある天武天皇の政策を継承し、藤原京を完成させると共に、701年には大宝律令を発令して、強力な中央集権化を推し進めました。持統天皇には、強くて有能な女帝のイメージがあります。政争に奔走していたであろう持統天皇が、藤原宮から詠んだ有名な歌があります。春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山大極殿から見た天香久山ところで、藤原京の条坊でいうと「三条西二坊」、藤原宮から北西へ約1㎞のところに、自分には最もなじみの深い場所があります。奈良県立畝傍高等学校正門昭和8年建築の校舎は、今も現役のようでした。本館北館(国登録有形文化財)校舎正面には、太平洋戦争当時の機銃掃射の跡も残っています。奈良の県立高校には学区制がなく、県内ではどの高校にも進学は可能です。高校受験の時、奈良市内にある某県立高校の受験を断念して、橿原市にある畝傍高校を受験しました。当時の実家からだと、奈良市と橿原市は方角的に正反対なのですが、両校の中間あたりに住んでいたので、距離的にはあまり変わりませんでした。(学力的な差はありますが)今思えば南都を擁する北の奈良市内に通うか、飛鳥を擁する南の橿原市内に通うかでは、その後の歴史観も違っていたように思います。日本史の中でも特に古代史が身近な土地で、うれしいニュースがありました。藤原宮跡が「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の構成資産として、ユネスコ世界文化遺産の暫定リストへの掲載が決まったそうです。(恐れ多いことに、高校時代のクラス対抗のスポーツ大会の練習には、世界文化遺産候補の藤原宮跡を使ったりしていました)藤原宮跡だけでなく、この構成資産はどれも貴重な史跡ばかりなので、ぜひ世界文化遺産に登録してもらいたいと思います。奈良県ではすでに、「古都奈良の文化財」・「法隆寺地域の仏教建造物」がユネスコの世界文化遺産に指定されていますが、同じ奈良県でありながら「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」は、上の2つとは時代背景も違います。もしも「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」が世界文化遺産に登録されたならば、より多くの人たちに古代日本史のロマンを知ってもらえると思っています。また、世界文化遺産ではなくても、「国のまほろば」である三輪・纏向・山辺の道や、後醍醐天皇・楠木正成の南朝ゆかりの金剛・吉野(一部世界文化遺産登録)などなど、奈良にはまだまだ見どころは数多くあるので、ぜひ足を止めてゆっくり見て頂きたいとも思います。とは言いつつも、自分も今になってそれに気付いた次第です。
2018/11/03
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奈良の観光地の中で、東大寺の大仏はあまりにも有名かと思いますが、奈良に住んでいる頃は、小学校の遠足でしか行ったことがありませんした。南大門(国宝)南大門の左右に立っているのが、有名な運慶・快慶の作による金剛力士像(仁王像)です。木造金剛力士像(阿形像)(国宝)木造金剛力士像(吽形像)(国宝)秋は恒例の「鹿の角切り」が行われる時期です。南大門を行き交う人たちを横目にして、角を切られた牡鹿が完全にやさぐれていました。「角切られた。。。」大仏殿は廻廊で囲まれた中にあり、南大門の先の回廊南側には、正門である「中門」があります。中門(国宝)インドからの観光客を数多く見かけたのですが、仏像の本場のインドからも大仏を見に来るようです。廻廊の西側が大仏殿への入口になっており、廻廊内部に入ると正面に大仏殿が見えてきました。大仏殿(金堂)(国宝)大仏殿の手前には、創建時から現存する八角灯篭(国宝)があります。大仏殿は2度の戦火によって焼失し、現在の大仏殿は1691年(元禄4年)に再建されたものです。第一回目の戦火は、平清盛の命を受けた平重衡による1180年の「南都焼討」でした。大仏殿は1190年に再建されましたが、戦国時代の1567年には、松永久秀VS三好三人衆・筒井順慶による「東大寺大仏殿の戦い」で再び焼失しています。(その松永久秀の居城も訪れたので、後日ご紹介します)そもそも東大寺の建立は、聖武天皇による741年の「国分寺建立の詔」によるもので、大和国の国分寺としての位置付けでした。聖武天皇から「大仏建立の詔」が発せられたのは、国分寺建立の詔の後の743年のことで、大仏が完成したのはさらに約10年後の752年のことです。銅造盧舎那仏坐像(国宝)鋳造に使われた銅は、長登銅山(山口・美祢市)で産出されたものです。廬舎那仏像の左右には、銅造ではなく木造の仏像が置かれていました。木造如意輪観音坐像(国指定重要文化財)虚空蔵菩薩坐像(国指定重要文化財)大仏殿を後にすると、正倉院や二月堂はパスして、転害門の方へと歩いて行きました。転害門(国宝)転害門の内側では、鹿が相変わらず普通に草を食べていました。ずっと当たり前の光景だと思っていましたが、市街地に野生の鹿が暮らしている光景は、奈良市以外ではありえないことでしょう。ユネスコ世界文化遺産「古都奈良の文化財」
2018/11/02
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法隆寺五重塔・法起寺三重塔と共に「斑鳩三塔」を構成するのが法輪寺の三重塔です。法輪寺南大門江戸時代の宝暦11年(1761年)に再建された、「新しい」建造物です。法隆寺・法起寺・法輪寺ともに飛鳥時代の7世紀の創建で、また近接する場所にありながら、法輪寺だけは自然災害という不運な歴史を辿って来ました。法輪寺三重塔かつては国宝に指定されていましたが、昭和19年(1944年)に落雷で焼失してしまい、現在の三重塔は昭和50年(1975年)に再建されたものです。法輪寺三重塔の再建を指揮したのは、かの有名な法隆寺の宮大工棟梁、西岡常一さんでした。さらには「五重塔」の幸田露伴の次女で、作家の幸田文さんが資金支援の先頭に立ってくれたそうです。法輪寺の三重塔は創建時の姿で再建され、相輪の「風鐸(風鈴)」も当時のままに風になびいて音を立てています。この昭和19年の落雷による火災では、仏舎利が奇跡的に救出されるとともに、木造薬師如来坐像(国指定重要文化財)や木造虚空蔵菩薩立像(国指定重要文化財)などの仏像も、地元の方々によって救出されました。(太平洋戦争中のことで、男性は出征していたため、ご婦人方の尽力があったそうです)その仏像は、再建された講堂の中に安置されています。実は法輪寺は江戸時代にも自然災害に遭っており、正保2年(1645年)には台風で当時の三重塔を除く建造物が倒壊してしましました。現在の金堂は、宝暦11年(1761年)に再建されたものです。再建とは言え、江戸時代中期の建造物が現存しているので、重文に値すると思います。それでも奈良においては、江戸時代の建造物を国の重要文化財に指定し始めると、文化財だらけで全く収拾がつかなくなるかも知れません。(奈良に住んでいる頃、同級生の家が江戸時代創建なんてこともありました)
2018/11/01
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中宮寺跡の北側に三重塔があるのは知っていて、よく目にしていました。しかしながらこの三重塔が国宝で、かつ三重塔がある法起寺がユネスコの世界文化遺産だとは知りませんでした。法起寺遠景法起寺を訪れるのは、今回が初めてです。西門法起寺の起源は、聖徳太子が606年に法華経を講説した岡本宮に始まります。622年に聖徳太子が亡くなる時、長子の山背大兄王に岡本宮を寺院にすることを命じ、山背大兄王の開基で創建されたのが法起寺です。三重塔は685年に恵施僧正によって建立が発願され、706年に完成したとされています。三重塔(国宝)三重塔では、世界最古の建築物です。講堂法起寺の本堂にあたり、江戸時代の元禄7年(1694年)に再建されたものです。法起寺創建時の金堂跡には、江戸時代になって聖天堂が建立されています。聖天堂文久3年(1863年)の建立です。「元講堂」と呼ばれる収蔵庫には、本尊である「木造十一面観音立像」(国指定重要文化財)が安置され、公開されています。元講堂撮影禁止なので画像はありませんが、確かに安置されていました。一旦境内を出て、コスモス畑の広がる南側に回ってみると、南大門がありました。南大門江戸時代初期に再建された門です。斑鳩の里の風景を眺めていると、江戸時代がつい最近のように思えてきました。ユネスコ世界文化遺産「法隆寺地域の仏教建造物」
2018/10/31
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飛鳥時代の中宮寺は法隆寺から500mほど東に行った場所にあり、現在は「中宮寺跡」として史跡に指定されています。現在は建物は残っておらず、かつての伽藍の跡には、一面のコスモス畑が広がっていました。遠景発掘調査の結果、金堂と塔の基壇の跡が明らかとなり、基壇が復元整備されています。金堂基壇基壇上部中宮寺跡の横を通る県道9号線は、奈良に住んでいる時によく通っていた道路です。同じ高校・大学の同級生が大和郡山に住んでいて、大和郡山に向かう時は、国道25号線の渋滞を避けるための迂回路として使っていました。奈良県道9号線季節を問わずよく見ていた風景なのに、こうやって足を止めてゆっくり散策したのは初めてでした。中宮寺東側の大和平野当時はその向こうの曽爾高原から立つ「かぎろひ」が見えたのでしょうか。ちなみに太陽が昇るあの山並みの向こうには、伊勢神宮があります。(もしかして高天原?)中宮寺は聖徳太子の母、「穴穂部間人皇女」の住居を寺院にしたとされています。また、中宮寺跡の北側には、蘇我入鹿によって滅ぼされた聖徳太子の皇子、山背大兄王の墓と伝えられる「富郷陵墓参考地」があります。富郷陵墓参考地(宮内庁管轄)聖徳太子一族が滅ぼされた戦乱は、遠い遠い過去のように思えてきます。自分にとって「秋の大和路」と言えば、この「斑鳩の里」の風景が真っ先に思い浮かびます。これまではクルマのフロントガラス越しにしか見て来なかった風景でしたが、足を止めてゆっくり眺めてみると、原点に帰って来たような気がしました。現在の中宮寺は江戸時代に移されたもので、法隆寺東院伽藍に隣接しています。現在の中宮寺有名な国宝の「木造菩薩半迦像」は、本堂に安置されていて、一般にも公開されています。本堂ただし、内部の撮影は禁止なので、中宮寺跡の解説版にある画像を撮影しました。昔の50円切手の図案で知られる像ですが、写真の方に慣れてしまっているせいか、実物を見てもすぐには実感が湧いてきませんでした。(実は実物を見たのは初めてでした)
2018/10/30
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美術や工芸の宝庫といった感じの法隆寺で、西院伽藍や大宝蔵院だけでも圧倒された後は、東門を通って東院伽藍へとやって来ました。法隆寺の伽藍配置図仏像などの美術工芸品から建造物まで、じっくり見ていると法隆寺だけで丸一日以上必要だと思います。東門(国宝)この日は地元の氏神様のお祭りか何かのようで、国宝の門の前でお祭りの準備が行われていました。自分もそうでしたが、奈良に住んでいると国宝建造物がどこでも当たり前のようにあるので、あまり有難味がわかってないと思います。自分は仏像などの美術工芸品はよくわからないこともあり、もっぱら興味は建造物の方に向いていました。法隆寺の建造物では、西院の見どころが五重塔ならば、東院の見どころは夢殿かと思います。夢殿(国宝)夢殿のあるこの地は、元々聖徳太子の一族が住む「斑鳩宮」があった場所です。7世紀の戦乱で焼失してしまい、それを惜しんだ法隆寺の高僧行信が、聖徳太子の没後約120年の739年頃、夢殿を含む上宮王院を建立しました。夢殿は聖徳太子を供養するためのお堂で、内部には聖徳太子像などゆかりの遺品が祀られています。絵殿・舎利殿(国指定重要文化財)聖徳太子が2歳の時、東に向かって合掌すると、手の中から現れたとされる仏舎利が安置されています。聖徳太子について言えば、十七条の憲法や冠位十二階、遣隋使の派遣と習ってきました。また、一度に十人の声を聞き分けたなどの伝説も残っています。私が住んでいた場所は、JR大和路線(関西線)でいうと法隆寺駅から一駅大阪よりに行った「王寺」という場所で、大阪と奈良の府県境にありました。大阪の四天王寺から奈良の法隆寺まで、聖徳太子がよく通っていたとされ、太子にまつわる伝承や信仰も数々残っています。(小学生の時に「わがまちの歴史」みたいなのを教えられるかと思いますが、聖徳太子の「片岡山伝説」は、まさに私の中学校のあった場所だとされています)現在の日本史では聖徳太子ではなく、厩戸皇子と学ぶようです。仏教が伝わった6世紀当時は、日本ではまだ新興宗教とされていました。その仏教を広めたのが厩戸皇子と蘇我馬子で、偶然かも知れませんがイエス・キリストも厩戸で誕生しました。(飛鳥にはその厩戸の跡も残っています)実は厩戸皇子こそ蘇我馬子だったと考えるのは、私だけでしょうか。ユネスコ世界文化遺産「法隆寺地域の仏教建造物」
2018/10/29
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大和は「国のまほろば」であり、自分が育った場所でもあります。実家は広島に移ってしまい、もはや奈良に帰る場所はありませんが、大阪に用事があったため、久しぶりに秋の大和路を訪ねてみました。法隆寺前の国道25号線は何百回と通っているのに、実は法隆寺の中に入るのは2,3回くらいしか記憶にありません。南大門(国宝)室町時代の建立だそうですが、この見慣れた門が国宝だとは知りませんでした。法隆寺では、建造物だけでも18件が国宝に指定されており、その他の美術工芸品などを含めると、何件が国宝指定されているのでしょうか。建造物について言えば、法隆寺にある47件のうち18件が国宝で、残りの29件は全て国指定の重要文化財です。三経院及西室(国宝)聖霊院(国宝)と東室(国宝)聖霊院には聖徳太子が祀られており、聖徳太子及び眷属像は国宝に指定されています。妻室(国指定重要文化財)重文の建物はそう滅多にお目にかかるものでもありませんが、法隆寺に来ると重文の格が下がるような錯覚があります。綱封蔵(国宝)奈良時代から平安時代に造られた倉庫で、高床式になっています。食堂(じきどう)(国宝)と細殿(国指定重要文化財)日本書紀では670年に法隆寺が火災で焼失したとあり、現在の建造物はその後に再建されました。聖徳太子の時代の法隆寺は残ってませんが、それでも廻廊で囲まれた西院伽藍は、世界最古の木造建築群となっています。五重塔(国宝)世界最古の木造建築物です。金堂(国宝)鞍作止利(くらつくりのとり)による釈迦三尊像(国宝)などが安置されています。金堂と五重塔廻廊(国宝)と鐘楼(国宝)大講堂(国宝)建造物だけでも圧倒されそうな法隆寺ですが、仏像などの美術工芸品も数多くの見どころがあります。「大宝蔵院」には、観音菩薩像や百済観音など、飛鳥時代から白鳳時代にかけての仏像(もちろん国宝)が綺羅星のごとく建ち並んでいました。(館内は撮影禁止なので画像はありませんが、法隆寺のHPにて紹介されています)個人的には「玉虫厨子」を楽しみにしていました。(これだけ身近に長く住んでいながら、玉虫厨子は美術や歴史の本でしか見たことがありません)実物を目の前にした時は、「これまで写真で見てきたものが実際にある」といった感じで、現実を認識するのに時間がかかったほどです。
2018/10/28
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群馬県からは沼田城・名胡桃城・岩櫃城が「続日本100名城」に選ばれており、いずれも真田氏ゆかりの城で、「上州真田三名城」とも呼ばれています。本丸に立つ幟大河ドラマ「真田丸」のオープニングにも登場する岩櫃城は、草刈正雄さん演じる真田昌幸による縄張です。大河ドラマ放映中の平成28年4月にオープンした、「岩櫃城址観光案内所」にある城郭模型戦国城郭の本丸となると、山頂部分が平らな削平地となっている印象ですが、岩櫃城に限っては本丸も一筋縄では行かないようです。本丸そのものも、何段かの曲輪で構成されているようでした。本丸の背後には岩櫃山があり、その岩櫃山に向かって尾根道をたどってみました。城郭では搦手方向になるため、さすがに城郭の遺構はないだろうと思っていたところ、稜線の斜面北側には、桝形虎口の跡がありました。本丸北桝形虎口近世城郭でいうところの「丸の内」、城郭の遺構もさすがにここまでだと思っていました。一応「尾根道」を辿って岩櫃山に向かっていると、「尾根道」と「沢通り」の分岐点である五合目までやって来ました。さすがにここまで来ると城郭の遺構はないと思っていたら、稜線から延びる竪堀の跡がありました。城郭には築城主の性格がよく表れるものですが、真田昌幸の周到さには恐れ入ります。北側の「沢通り」に稜線をトラバースすると、こちらの斜面にも竪堀の跡が残っていました。道を横切って竪堀が下へ続いています。途中には櫓台のような横矢の掛かった土塁跡などもありました。土塁跡稜線の北側には沢が流れており、ここが岩櫃城の「水の手」になります。城攻めにおいて、「水の手」を断つのは武田信玄の常套手段ですが、武田氏の家臣であった真田昌幸にしてみれば、ここが岩櫃城の生命線だとみていたのでしょうか。そう考えると、搦手の防御が堅固なのも納得できる話です。水の手にある「水曲輪」跡沢通りの下側から見た竪堀上は中城の曲輪まで続いています。沢通りを下りて北側斜面を下から見上げると、とてつもない急斜面に見えました。この斜面の先には二の丸や本丸があるのですが、さすがにここを攻め登るのは無謀としか言いようがありません。岩櫃城の築城は古く、鎌倉時代の初期に吾妻太郎助亮によって築城されたと言われています。城郭の規模は上州最大で、後に岩殿城(甲斐国)、九能城(駿河国)と並び、「武田領内の三堅城」と呼ばれていたそうです。1563年に武田信玄が上州を攻めた時、岩櫃城攻めを命じられたのが真田幸隆(昌幸の父)でした。真田幸隆は岩櫃城を落城させ、岩櫃城の城代となったのですが、1574年に真田幸隆は病死してしまいます。真田幸隆の後には、長男である真田信綱が岩櫃城の城主となりましたが、長男の真田信綱と次男の真田昌輝が長篠の戦いで戦死したため、真田氏の家督を継いで城主となったのが真田昌幸です。その後は真田昌幸の長男である真田信幸の支配となり、真田信繁(幸村)も幼少期を岩櫃城で過ごしていました。豊臣秀吉によって1590年に小田原の北条氏が滅亡すると、岩櫃城は真田氏の本拠地となった沼田城の支城となり、やがて1615年の徳川家康による一国一城令で、この城も廃城となっています。日本城郭協会「続日本100名城」大河ドラマ 真田丸 完全版 ブルーレイ全4巻セット BD
2018/09/28
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大河ドラマゆかりの地を訪れるのは、放映前よりも放映中、放映中よりも放映終了後の方が宜しいかと思います。(放映時は施設などが整備され、各種展示資料や解説も充実するのですが、放映中は混雑するのが難点です)二年前の大河ドラマ「真田丸」では、真田昌幸の本拠地として登場し、オープニングの映像にも使われたのが岩櫃城です。大河ドラマ放映中の平成28年4月にオープンした「岩櫃城址観光案内所」には、岩櫃城の模型が展示してありました。岩櫃城模型こうした展示物が充実するのも、大河ドラマのおかげだと思います。岩櫃城の背後にそびえる岩山が、オープニング映像でも流れた岩櫃山で、岩櫃山から北東に延びる稜線上に曲輪を配した縄張となっています。模型では高低差がデフォルメされていますが、まさに難攻不落の要塞といった感じです。そしてこの要塞を築き上げたのが、大河ドラマでは草刈正雄さん演じる真田昌幸でした。岩櫃城への登城口は、岩櫃山への登山口ともなっていました。ガイドの方によると、ここも虎口の跡のようですが、尾根の北側にあるため、大手口ではなさそうです。岩櫃城を登城にあたって、軽登山装備で来たのですが、まず取り出したのはクマ除けの鈴でした。大河ドラマの影響で人が訪れることもあってか、ガイドの人によると岩櫃山ではクマの目撃情報がないそうです。登城道は稜線の北側から「中城」の曲輪に向かって延びており、稜線の斜面を登る途中には腰曲輪の跡が残り、土塁や堀切の跡も見られました。土塁跡堀切跡登城道は斜面の樹林帯の中を通っており、樹林帯が切れて稜線上に出ると、視界が開けた先に曲輪と思われる削平地がありました。中城の曲輪跡です。中城の曲輪は何段かに分かれているようで、本丸の防衛拠点だったのかも知れません。登城道は中城の東側を通るようになり、すぐ横は切岸状の急斜面になっていました。中城東側の切岸うかっり落ちたら、そのまま転げ落ちるしかないほどの急斜面です。中城の縁を回って稜線に取り付くと、稜線の取り付き点には大河ドラマの幟が立っていました。いよいよ岩櫃城の本丸を目指すにあたり、大河ドラマのオープニング音楽が頭から離れなくなっていました。ここからは中城の南側の稜線上を行くようになり、何段かに分かれた中城の土塁を横に見るようになりました。中城の土塁物見台の跡でしょうか。二の丸の直下まで来ると、手前には巨大な堀切がありました。堀切跡登城道からは外れますが、この堀切の底を辿ってみると、本丸へ向かう斜面上に竪堀の跡がありました。竪堀跡(斜面下方向)竪堀跡(斜面上方向)右が二の丸で、左が本丸です。竪堀跡(斜面の上から見たところ)この曲がりくねった竪堀は、いかにも戦国城郭らしく、岩櫃城の見どころの1つだと思います。この竪堀の先は、本丸と二の丸の間の堀切となっていました。なんともトリッキーですが、左側が本丸で右側が二の丸です。まずは二の丸に登って見たのですが、意外に狭い感じがして、もしかしたら本丸の出丸か馬出のような役目だったかも知れません。二の丸岩櫃城を振り返って見ると、本丸を中心に丸馬出を多用した縄張のように思います。丸馬出は武田流の築城術で、武田氏の家臣であった真田昌幸が丸馬出を多用するのも納得のいく話だと思います。さらには真田幸村が、その丸馬出を「真田丸」として完成させたと考えるのは、いくら真田贔屓(アンチ徳川)でも考えすぎでしょうか。二の丸から見た腰曲輪(丸馬出?)本丸から見た二の丸と竪堀戦国の城跡めぐりでは、どの城であっても本丸にたどり着くのは感慨があります。一度も落城しなかった当時の岩櫃城において、真田氏の家臣以外で岩櫃城の本丸にたどり着いた人はいなかったと思うと、岩櫃城の本丸は感慨もひとしおでした。「真田丸」オープニング、0分14秒に岩櫃城が登場します。クレジットの役者さんはもちろんですが、登場する武将の名前が豪華すぎです。(かつては大河ドラマの主人公だった人たちもぞろぞろ)
2018/09/27
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ユネスコの世界文化遺産、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産の中で、最もアプローチが難しかったのが、荒船風穴でしょうか。史跡名は「荒船・東谷風穴蚕種貯蔵所跡」ですが、世界文化遺産では「荒船風穴」として登録されています。群馬と長野の県境近く、ここに荒船風穴があります。長野と群馬の県境は、碓氷峠に代表されるような勾配とワインディングロードが続き、国道254線だけでもかなりの登りになります。さらに国道254号線から分岐してからは、一部離合困難な細いワインディングが続きました。(さすがにゼットも2速入れっぱなしで緩々と)駐車場からは徒歩で行くしかなく、舗装道ながらさらに斜面を下って行きました。荒船風穴遠景この上に建物が建っていたようです。「風穴」と聞いて、まずは鍾乳洞を想像してたのですが、野面積みの石垣だったのが驚きです。第3号風穴の石垣第3号風穴内部第2号風穴鍾乳洞では、年間を通じての洞内温度は14℃前後で、夏は涼しく冬は暖かい天然のエアコンといったところです。荒船2号風穴では、真夏でも3℃前後しかなかったそうで、天然の冷蔵庫といったところでしょうか。2号風穴の温度外気温20.1℃で、風穴内部は野天でも4.1℃しかありません。(温度計に写っている赤白の縦じまは、私のカープタオルです)この温度に注目したのが、庭屋清太郎と千寿の親子でした。高山社に在学中の庭屋千寿が、父である清太郎に蚕種(蚕の卵)に適した場所であると報告し、清太郎が蚕種の貯蔵庫の建設を始めたのが、明治38年のことでした。明治38年9月竣工の第一号風穴それまで蚕種は年1回の春蚕だけでしたが、荒船風穴の蚕種保存庫が完成したことにより、夏秋蚕も養蚕が可能となりました。年1回の養蚕が年3回となり、さらには農業の閑散期にも養蚕ができるため、繭の増産が可能となりました。「大量生産」と「品種改良」がキーワードとなる「富岡製糸場と絹産業遺産群」において、荒船風穴を養蚕に利用した技術もさることながら、その発想こそが文化遺産に値すると思います。荒船風穴から駐車場へ戻る登り道をひたすら歩いていると、これから荒船風穴に向かう人とすれ違いました。おそらくあまりにアプローチがしんどかったのかと思いますが、いきなり「見る価値ありますか?」と聞かれました。「人によると思いますが…」と苦笑いでしたが、その後の歴史を考えると、先人たちの足跡は一見に値すると思います。ユネスコ世界文化遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」
2018/09/26
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ユネスコの世界文化遺産の中で、個人の住宅が構成資産に選ばれる例は少ないかと思います。世界文化遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」では、田島弥平旧宅が構成資産の1つになっており、さらには現在も住宅として使われているそうです。表門末裔の人の表札がかかっていました。田島弥平は幕末から明治にかけての人で、蚕の卵である蚕種を生産する養蚕技法「清涼育」を体系的に完成させました。それまでの自然飼育法と違って、蚕室で空気を循環させて温度と湿度を調整する近代的な養蚕飼育法が「清涼育」だそうです。清涼育では蚕室がある建物の向きだけでなく、その階数や屋根の構造も重要とのことでした。主屋1863年に建造された建物で、2階が蚕室となっていました。瓦葺の屋根の上には、空気を循環させるための櫓が付いています。この建築様式はここの地名をとって「島村式蚕室」と呼ばれ、全国に普及したそうです。新養蚕室跡やはり2階建ての蚕室で、屋根に大きな櫓が付いており、山形県鶴岡市の松ヶ岡開墾場の蚕室に踏襲されています。田島弥平が著した「養蚕新論」の碑敷地内には生活感のある離れが建っていて、「桑場」と書かれていました。屋根に櫓が付いていますが、養蚕は行われておらず、桑葉の収納と加工が行われていたようです。桑場の内部は公開されていて、ガイドの方もおられました。今回の「富岡製糸場と絹産業遺産群」の世界遺産めぐりでは、ボランティアガイドの方に随分とお世話になりました。「私も絹の事を勉強しているのですが、なかなか奥が深くて」と仰っていたのが印象的で、熱心かつ真摯に歴史を伝える姿勢には感銘を受けました。(どこかの世界遺産とは大違いです)田島弥平の清涼育は、高山社によってさらに技術改良され、「清温育」へと発展していきました。「大量生産」の技術だけでなく、「品質改良」の努力があればこそ、成し遂げられた栄光がありました。島村地区では、今も見本桑園で桑が葉を広げていました。ユネスコ世界文化遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」
2018/09/25
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神流川の上流部、支流の三名川の清流沿いに高山社跡があります。三名川そんなコミカルに言える話なのでしょうか。イノシシが出る山あいの中で、高山社の幟だけが妙に目立っていました。ユネスコ世界文化遺産の構成資産でありながら、高山社そのものは普通の古民家と言った風情です。長屋門が残っている民家も珍しくなりましたが、現在は修復中のようです。高山社の母屋明治維新からわずか40年後の1909年、日本は清国を抜いて生糸の輸出量で世界一になりました。その背景には、富岡製糸場の「大量生産」の技術だけでなく、高品質を追い求めた「品質改良」があったのは間違いありません。生糸の原料となる養蚕においては、高山長五郎によって「清温育」の養蚕法が確立されました。そして高山長五郎が1884年に自宅で開いたのが、養蚕の教育機関である「養蚕改良高山社」です。高山長五郎像高山社では、日本国内だけでなく中国や朝鮮半島からも生徒を受け入れていたそうです。とかく明治の「富国強兵」や「殖産興業」にはネガティブなイメージがついてきますが、日本の生糸が世界に認められ、外貨獲得の手段になったのは間違いありません。その背景には高山長五郎のように熱心に品種改良に取り組み、さらにそれを後世に伝えた人たちがいたことを忘れてはならないと思います。高山長五郎は1886年にこの世を去りましたが、その生糸の技術が後の日露戦争での国難を救ったと言っても、決して過言ではないと思います。ユネスコ世界文化遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」
2018/09/24
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