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光のスペクトラム。本当はこんなふう。 ダワの子どもたちも初対面の私にすぐになつき、ちょうど誕生日だった私にプレゼントをくれました。二女のペマちゃんは12才、小さい頃から日本に興味を示し、一人で日本語を勉強しています。お誕生カードもきれいな日本語で書いてくれました。お母さんのダワは『この子は日本人だったから・・・』と笑っています。そして『××子(私の名)はチベット人だったね』と。楽しく歓談をしていましたが、ふと『国』をもたない人の悲しみを感じるときがありました。フランス語を流暢に話し、英語にも不自由をしていません。フランスという国に溶け込んで暮らしています。チベット仏教の伝統を守り伝えることを自分たちがいるその場でやっています。最初は20名にも満たない小さなチベット仏教のグループが努力のかいがあって現在は年間何百名も訪れ、学ぶ場所になりました。それとともにご家族のプライベートな部分も守らなければならない状況になっているようです。周りはほぼ100パーセント、西洋人です。フランスで生まれた子どもたちを除けば、ダワ、ディギはインド生まれ、リンジン、チュキ、もう一人の娘さんで尼僧のヤンチャンはチベット生まれです。チベットでの生活も記憶しています。私が特別なのかもしれませんが、外国に暮らしていると、自分の国が恋しくなるんですね。懐かしむ・・なんか、軽く越えて恋しくて、恋しくてたまらなくなります。なんの変哲もない通りでさえ、懐かしさで胸が焦げるんです。何年も外国で暮らしそれなりに生活ができている人が晩年(それよりも前)に帰ってきた人を幾人か知っています。外国で暮らすことを自ら選んだ人でさえそうなんです。私はたった一年でそういう感情になりました。何が嫌ということはありません。ただひたすら故郷を想うのです。帰る事が出来れば幸いです。チベットに帰ることが果たせず亡くなっているチベット人が大多数です。チベット人だけではありません。世界中で帰る国を亡くした民が沢山います。『亡命』は『命を亡くす』と書きます。まさにその通りなんです。生まれ出た所と私たちは命の線で強く繋がっています。<<私の場合は当時の羽田空港に一歩足を踏み入れたときに、安堵感と『しまった!帰ってきちゃった!』という想いが交差しました。(笑)>>一年くらいでは半端なんですね。私がチベット人から受けた優しさは忘れることができません。旅先での孤独を癒してくれました。心情的に日本人に近く、細やかな思いやりをいつも示してくれます。明るく陽気で、自分たちが苦しいさ中であっても他の人たちへの思いやりを忘れない人々です。私はそんなチベットの人たちが大好きです。近い将来、チベットの人々が自国に帰り、生き生きと国づくりをする様子を見れる日が来ることを切に願います。今回、参加したところのホームページhttp://pagesperso-orange.fr/chanteloube/english/songtsen.htm
2009.08.28
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3年3カ月の間、リトリートをする家写真はニンマ派の伝統である3年3カ月のリトリート(外部との接触を断ち、ひきこもり修行する)場所です。農家だった建物で、この中で食事のとき以外は他の修行者とも接触がない、とききました。私の友人の大半はリトリートを何度かしています。このときは17名の男性がリトリートに参加していました。すぐ近くには金箔を施したストゥッパがあり、静寂に満ちた場所でした。森の中でもあり、鹿、イノシシなどの小動物が出没します。私も8匹のうりぼう(イノシシの赤ちゃん)が母親をさがしてうろうろしているのを見ました。可愛いけど母親がこわいので車から出られませんでした。さて、この場所を去る前日の夜、待望のリンポチェのファミリーのお宅にお邪魔しました。実はこの時間を心待ちにしていたのです。講座中はそれぞれが忙しく、再会を喜ぶ暇がありませんでした。それにご家族は信徒に崇拝されてます。軽々しく話しかけられる雰囲気でもありませんでしたので、ちょっと寂しさを感じてもいました。お宅に向かう車中で走馬灯のように思い出がよみがえりました。『思い出1』 私はピアスをしています。たどれば34年前にリンポチェの長女リンゼンにあけてもらったのでした。今でも忘れることができません。リンゼンは糸を通した縫い針を取り出し、私の耳たぶに突き刺しました。心臓が止まるかと思うほどの恐怖でした。『ギャー』という叫び声があたりに響き渡ったと思います。そして、糸を結びわっかにし、時々回しなさい、と言いました。回すのですが雑菌で、化膿してしまいました。そのうち高熱が出ました。あわてて病院に行き、破傷風の注射をしてもらい事なきを得ましたが、医者に叱られてもチベット式にピアスの穴あけをあきらめることができず、塞がってしまった片耳にまたあけてもらいました。バカな行為だとは思いますが、なぜかその時は、チベットの人々がしていることを、したい一心だったのです。『思い出2』・・・以前にも書いたかも・・・。現在は廃止されてますが、1974年ごろのダージリンは訪問するときにパーミッション(許可)が要りました。列車、バスで入ると1週間、飛行機だと2週間だけです。ではなぜ6カ月の長きにわたっていられたか・・・?それはチベット人になりすましていたからです。顔がチベット人と同じだからたやすい、といえばたやすいことです。でも言葉がだめです。当時お寺にはそれを怪しんでほぼ毎日ポリスが来ていました。あまり外出しませんでしたが、ある日、我慢ができなくなって、皆で街にくりだしました。しゃべらないようにしていたのですが、小耳に入ってきたのは、『あの人日本人よ』という言葉。ばれていました。困って、困って対策を練りました。ひらめきました。それは空のトランクを持って空港に行きパーミッションをもらう列に素知らぬふりをしてならぶこと、でした。成功するか不安でした。誰かが、リンポチェに訊いたら・・・?と知恵を授けてくれたので『そんな恐れ多い…』とは思いましたが、お伺いを立てることにしました。答えは『成功する』でした。即実行しました。成功でした。これで、延長分を含めて1カ月居られます。今思うと若いってすごいですね。怖さ知らずでした。疑うことを知らないわけですから、案外うまく行っちゃうことも多々ありました。(真似しないでね~。良くないことです。) 懐かしいファミリーと過ごした時間は至福のひと時でした。リンゼンの2人の娘たち。当時11才と8才でした。いたずらで、私をからかっては喜んでいたものです。長女のダワ45才、フランス人と結婚し3人の子どものお母さんです。二女のディギは41才、独身です。リンゼンの妹チュキは結婚せず、修行生活を続けている女性ヨギのような人です。チュキは若いころから物静かな、優しい人でした。それは現在も変わりませんが、優しさの中に凛とした厳しさも感じ、とても惹かれました。 ファミリー ☆~続く~☆
2009.08.27
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日本に帰ってから早くも2週間余り、こちらの生活にどっぷりひたっている毎日である。というか緊張が解け、風邪をひいてしまい、やっと回復した、というのが真相です。さて、フランスでの7月19日から31日まで12日間は朝9時からお昼休み3時間弱は与えられるが夜9時まで、とハードなスケジュールだったのです。約50センチ四方のスペースにほぼ一日中座っているのは、日本人の私にとってもそう楽なことではありません。このコースへ参加しているのは延べ人数200人余り。フランスはもちろんのこと、イギリス、ベルギー、ポーランド、ベトナム、インドネシアなどさまざまな国から来ています。長い脚を折り曲げ、最初のうちは結跏趺坐ができているのですが、途中から隙間を狙って脚を投げ出し本当に苦しそうです。講義の内容はほぼ顕教の部分。テキストはチベット語の経典の読み方をアルファベット表記したもので、意味も英語、フランス語で書かれています。解説をリンポチェがし、経典をチベット語で詠唱します。リンポチェのお話もとてもユーモラスで自由に質疑応答ができます。どんな質問でも機知に富んだ答えが返ってきます。12日間の内容は省きますが、参加者全員が真剣に仏教を学んでいました。講義中人々の手から手へ何かが渡ってくることがありました。テントですから端に座っている私に最終的に渡されます。何かな・・・?と興味津津でした。それは小さな虫でした。殺生をしたくないので、丁寧に丁寧に扱われます。何匹が救われたでしょう。それは、『セブンイヤーズ・イン・チベット』でみたミミズをピンセットではさみ、どけてから道路工事をする、有名なシーンを思い出し、なにかフッと笑いたくなるような微笑ましさを感じると同時に、より良く生きたい、という真摯な心に触れたような気がしました。 講座が開かれていたテント・・・お休み時間 これは貸しテント。暑くなると屋根に水が流 れる仕組み、の優れモノ。さて12日間の講座も終え、フランス滞在も残すところ5日間になりました。34年ぶりの友人たちとも順次再会を終えたところでの感想は、人間はあまり変わらないということです。もちろんいろいろな体験をし、その上書きによって考え方、年齢を重ねることの生活スタイルの変化などはあります。でも、それはすべて表面上のことに思えます。基本的な性格はあまり変化していない、のです。その人に対して過去に持った印象・・・長い年月を経て結晶化しているともいえそうですが・・・は変わらない。素敵に変わりません。(笑)たとえばフランス人僧侶マチュウさんは、あの当時から変わっていません。他の仲間たちも変わっていません。性格に色があるとしたら、その基本的な色が薄くなったり濃くなったり、の変化だけです。20代だった当時からみると、今回体験した時間は未来にあたるわけです。たとえば、きゅうりの種子からはきゅうり、トマトからはトマト、ヒマワリの種子からヒマワリというように生まれ持った種子が成長し、予定の成長をしていく、という気がしてなりません。こんなことがあって、あんなことがあって・・・と細かいことを語ればいろいろあるでしょう。良い、悪いのレベルを超えて、生まれ持った自分の種子を丁寧に世話をすることが未来の自分の在り方を決定します。生きものは間違った環境に置かれると死んでしまいます。間違ったと思ったら、すぐに訂正する勇気さえあれば、その種子はその種子なりの成長を始めます。最終的に何の花が咲くのか・・、どんな野菜になるのか・・・、(笑)わかりません。ただこの年になっていえることは、芽が出て茎、葉っぱがやっと出てきた今を学びと希望という名の水を与え、大事に育てようと…思います。奇しくも30数年という全くの空白期間をおいて再会・・・という体験。これは私にとって大きな学びとなりました。考えてみれば人生の学びは何かを得て、蓄積していくことではなく、逆に何かをそぎ落として素の自分(本当の自分)に帰っていくことかも知れませんね。 8月17日の日記の写真を編集作業して差し替えました。『NEW』のマークがでてしまっているかもしれませんが、内容は同じです。
2009.08.20
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チベット仏教には大きく分けて4つの宗派があります。◎ゲルク派・・・ダライ・ラマ法王、パンチャンラマが所属しています。◎カギュー派・・ミラレパ、先年チベットから若くして亡命したカルマパ17世が有名◎サキャ派◎ニンマ派・・・インド人僧、パドマサンバヴァが開き、チベット仏教では一番古いといわれる。私が出会ったのはニンマ派のリンポチェでした。当時、チベット仏教がどんなものであるかも知らず、仏教になんの興味もなかった私が導かれるように、リンポチェに出会い、その後の人生の幾多の山を越える知恵を自覚することなく授かったことは、不思議な縁としか言いようがありません。カンギュール・リンポチェ(1897-1975)は東チベットカム地方の出身です。この地方は体格も良く勇猛なチベット人が多いことで知られています。幼いころから非常に才能豊かな子どもで教えに関する純粋なビジョンを数多く体験し、人々を導いていたとのことです。また、中国のチベット侵攻を早くから予知し、事前にインドに貴重なお経を持ち出していたそうです。一つのエピソードがあります。ある日、ある熱心な信徒がカンギュールリンポチェにお寺を建てるための土地を寄進しようとしたそうです。あまり熱心にいうので、その土地を見に行きました。そこは荒野でした。カンギュールリンポチェはその一角に瞑想のために座りました。そして、瞑想の途中にやおら立ち上がりいった言葉は「ここは血ぬられた場所になるであろう。殺された幾人もの死者でおおいつくされる・・」だったそうです。そして、1959年にチベットから亡命。インド、ダージリンに落ち着きました。ところで、カンギュールリンポチェは西洋からの生徒を引き受けた最初のチベット人リンポチェです。これも予言していました。インドに亡命し、何年たってもリンポチェは西洋に旅をする気配がありません。予言を知っていた家族はいつになるのだろう、と心待ちにしていました。そこで、長男がリンポチェに尋ねました。「いつになったら、西洋に行かれるのですか?」と。答えは「行くのではない。向こうから来る」でした。亡命してから数年ののち、フランス人映画製作者アルノー・デ・ジャルダンが、あるドキュメンタリーを製作しました。それはカシミールからブータンに広がるヒマラヤの南側の中腹に亡命していたチベットの高僧たちに関するものでした。アルノーはそこへ2回行って数カ月滞在し、有能な通訳者を間に高僧たちと親しくなって撮影したものです。(これは、現在ビデオになっており、手に入れ持っています。60歳代の若々しいカンギュールリンポチェも映っています。)1966年にこのドキュメンタリーがフランスで放映されました。当時20才だったマチュウ・リカールさんもこのドキュメンタリーに感動しました。大学の長い休みを控えて、日本への旅を計画していたマチュウさんは行き先を変更しました。その時の感動を次のように表現しています。『私はまさに、自分たちが仏教の教えとして説いているとおりの存在になりきった人々を目の当たりにしたような気がしました・・・。彼らが漂わせている雰囲気に目を見張りました。どうしてなのかはっきりしなかったのですが、もっとも感動的だったのは、彼らが聖人の理想、完璧な人間、賢者といった、西洋ではもう見かけられない類の人間にぴったり一致したことです。・・・・中途略・・・・もし人間の身でありながら完璧な状態に達することができるとしたら、これしかないだろう』と思いました。 ー僧侶と哲学者ーチベット仏教をめぐる対話ーからとくにカンギュールリンポチェに惹かれたそうです。マチュウさんが最初の生徒になったのか定かではありませんが、このように西洋人の生徒が集まりだしました。今回のフランス滞在のステイ先になってくれた人のエピソードですが、彼は21才の時に大きなバイク事故に遭い生死の境をさまよったそうです。その時にカンギュールリンポチェの幻影をみました。まだ出会っていないときにです。その時には意味がわからなかったのですが、のちに初めて会ったときに『この人だ!』とその意味を悟ったそうです。このように、西洋から何人かの人々がダージリンに行きはじめました。予言どおりになったわけです。私がお寺にたどりついたころは、10名あまりの生徒さんがおり、世界に散らばっている生徒さんを含めて30名ぐらいになっていたと思います。その後、リンポチェがこの世を去られお葬式の時に全員に面会ということになりまた。私はある日リンポチェの夢を見ました。とてもクリアな夢でした。夢でリンポチェが立っていて、人差指でどこかを指さしていました。指し示すほうを見ると、リンポチェの息子さんのペマさんが立っている。それだけの夢でしたが、目覚めたあともくっきりとその情景が浮かびました。その夢をみてすぐ、リンポチェは亡くなった、のです。御知らせだったのでしょうか・・・?しかしなぜ、私ごときに、という疑問が残ります。この答えは長い年数を経た今、与えられたと感じています。縁とはまことに異なもの、粋なもの、といいます。たとえば一枚の布をねじり絞ったとします。そうすると、今まで接していなかった縦糸、横糸のあるポイントがくっつきます。縁を考えるとき、我々の想像を超えた何かが働いていている、といった不可思議を感じます。この物語はある一人の日本人女性が全くの異文化と触れ合い、感じた、私的な物語、としてとらえてくださったらありがたいです。ながながと読んでくださって、ありがとうございます。
2009.08.17
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街中の街路樹の下に植えられているラベンダー。 あたりはラベンダーの香りでむせかえるようでした。 続きを書こうといろいろ考えているうちに、鼻がグスグスなりだし、そのうち中途半端な熱までもでてきました。旅の疲れがドッと押し寄せてきているのかな~、と思いこの3日間は何もせずゆっくり静養。フランスでは過酷なスケジュールにもかかわらず、肉体的な疲れや頭痛など一度も感じなかった。終始健康でした。特別気を張っていたとも思えなかったのですが、やはり深いところで緊張していたのですね。今日は回復。一挙に元気になりました。健康ってありがたい。さて、列車は一路南西フランス、ドルドーニュ県へ。実は私は自分が行こうとしている場所がわからず、HPに載っていた案内と現地友人の助けで「だいたいここらしい・・」という見当がついてきました。キーワードはフランス、最寄りの駅・・ブリーブだけです。そのうち、娘やフランスに詳しい友人がいろいろ調べてくれ、世界遺産である「ラスコーの洞窟」の近く、という情報をくれました。キーワードがふえました。それでもチンプンカンプン??不安になるわけです・・・・・。ともかくパリに到着。次なる目的地『ブリーブ』にむけて出発です。駅ではプラットフォームが出発直前になるまで、わかりません。その列車に乗り込む人々が電光掲示板の前でじっと待ってます。日本では考えられないことですね。夏休みにもかかわらず、一等車両(安全を考えて、でしたが必要がなかった・・)は空席が。快適でした。これから4時間半後に34年間の空白を経ての友人との再会を控えていることへの期待感が高まってきました。まぁ、4時間の列車の旅を楽しむ、という心のゆとりもでてきました。パリを出てしばらくすると、もうそこは田園風景が広がります。ほどよく肥えたホルスタインという種の牛かな?ゆったりと草を食んでいます。真っ青な空、遠くに広がる地平線をみて、ここは大陸なんだな~、と思いました。駅に停車するときも事前に一度アナウンスがあるだけ、新幹線のように英語でのアナウンスはなし。私が降りるブリーブは最終駅だったので、不安はなかったが、途中下車だと緊張したでしょう。さて、ブリーブに到着。緊張が一気に高まります。見つけました!わかるものです。眼に見えないひもで一直線につながれるものですね。34年という時の流れを一瞬意識し、お互いに照れ笑い。彼は私の大恩人。34年前に出会い、チベット仏教に出会わせてくれました。とてもお世話になった方です。そして今回も私の引受先になりました。フランス式にハグし、ほっぺにチュ。これはフランスではあたりまえのことなんだけど、慣れていない私には『エ~、いいの・・?』という感じで私だけ大いに照れました。 えぐれた岩の上に建つお城。前日が雨で川の水がにごって いる。風景の中のあちらこちらにお城が点在。領主の邸宅と いうことか。彼の家に向かう途中、現在のコミュニティの様子をききました。インド、ダージリンでの様子とはまるで異なってことに驚きました。そして当時20名にも満たなかったチベット仏教の実践者がここフランスで大きな広がりをみせていること、などを話しくれました。とにもかくにも、リンポチェのご家族、仲間がいる所へと急ぎました。彼の家に到着。やはりチベット仏教を学んでいる彼の恋人が出迎えてくれました。産婆さんとして何人もの赤ちゃんをとりあげている女性でした。祖母がジプシィーだったという彼女は、エキゾチックでとても素敵です。荷物を置いて、まずはちょうど在仏中のマチュウ・リカールさん(以前の日記にこの人のことを書きました)とお母さんのヤンさんに会いに出かけました。 ☆~続く~☆
2009.08.13
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一昨日帰りました。~十年ぶりのまったくの一人旅(行き帰りだけ・・・?)しかも行ったことのない国フランス。パリのホテルで一人、「帰りたいな~」と思った。 シャルル・ドゴール空港でみたハーレー族の人たち 写真を撮ったらこちらをジーとみていた。 バスの裏にたくさんのバイクが・・・。でもなぜ空港に?だいたい旅の始まりから変だった。出発時刻は12時正午、ならば2時間前の10時に空港に到着すれば良いのだ、ということで3時間前に家を出発で、オーケーのはずだった。いつもは車で3時間もあれば到着できる。で、7時に家を出た。しかし、高速道路はあり得ないぐらいの渋滞。事故でもなさそう。のろのろと進まない。時間の限界まで我慢。しかし、家から20キロのポイントで2時間が経過。そして決断。高速道路を出、最寄りの駅に車を寄せた。そこから空港ダイレクトのエキスプレスの駅まで約30分かかり、更にそこから空港までが1時間半・・・間に合うわけがない!!どう考えても空港チェックインは11時20分・・・・・。顔は青ざめ、心臓は早鐘のよう。チケット取扱店に遅れるが今向かっていることを伝え、あとは神頼み。移動途中もエアラインから今どこか? もう何分したら着くのか、と再三の電話・・・。そして、11時30分、ついにチェックイン!トランクを放り投げるような感じで預け、娘と別れを惜しむ時間も与えられず、連れさられるような勢いで搭乗口へ。間にあった~。そして一路パリへ向かったのでした。エールフランスのパーサーは男性でも香水をつけるのですね~。ちょっとうっとりしました。13時間後に到着したパリは夕方6時というのに、真昼間のように明るい。バスでホテルに到着。夜間は大粒の雨、しかも寒い。アッ、もう一つ・・・シャルル・ドゴールエアポートではトランクの受け取り場所がわからず、何人もの乗客があっちへうろうろ、こっちへうろうろ・・・。空港の人もわからず結局受け取ったのは1時間後でした。あり得ない!!腹はたたなかったけれど、『ここインド・・・?』と思わせるような出来事でした。というわけで、花の都パリに居るのだ!という感動はなしに、今日一日のの出来事を振り返り、眠りについたのでした。翌朝早く、ホテルから目的地まで私を運ぶ列車に乗るためにタクシーに乗った。一時間ぐらいかかるという。駅には無事着いたのだが、ここではタクシー代を高く払わせられたのでした。額は恥ずかしいのでここには書けません。(><)しかし、天候は快晴でもあり、ここまで踏んだり蹴ったりされると、逆に「まぁ、いっか~」「なんとかなるワ~」という私本来の図太さが顔をだす不思議。心は一路、南西フランスの友人たちのもとに飛んでいくのでした。 ☆~続く~☆
2009.08.08
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