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たとえこの世界が「事実上、実際的にあるいは客観的」に終わっても、ぼくやぼくらがひとりでも生きながらえている間は、じつは「この世界」は終わらない。 ▲『雪降る朝の光』:写真をクリックすると拡大します。 たとえこの世界が「事実上、実際的にあるいは客観的」に終わっても、 ぼくやぼくらがひとりでも生きながらえている間は、 じつは「この世界」は終わらない。 「意識」がこの世界に対して「ある」限り、 そこに世界を見つめる「まなざし」がある限り、 世界はあいかわらずそこにある。 その様相がどのように変わろうと、 世界はそこにあって、 「意識」あるいは「まなざし」の前にある。 世界の現前とはそのようなものだ。 「現れ」とはそのように在る。 われわれの「意識」を欠いて「この世界」は現れえない。 from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2014.01.30
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人生とは個人の記憶のことだ。世界とは個人の脳が描き出して見せる仮想現実のことだ。唯一信じられそうなのはわれわれが感じる「リアリティ」なのかもしれない。 ▲『BLUE MORNING』:写真をクリックすると拡大します。 人生とは個人の記憶のことだ。 世界とは個人の脳が描き出して見せる仮想現実のことだ。 唯一信じられそうなのはわれわれが感じる「リアリティ」なのかもしれない。 「このリアリティ」こそがわれわれの正気を保つための唯一の手がかりなのかもしれない。 いま見ている「この世界」が「この現実」が、他の人々と共有されていて、自分はひとりではない、あるいは、自分は狂気ではなく,他の人々とともにこの世界に生きている。 そのような確信を持ってわれわれは生きているように思われる。 しかしそれは証明できない。 それは感覚的な、体験としての「確信」とでもいうべきものにすぎない。 そもそもこの世界に整合性があるなんていったいだれが証明したというのだろう。 われわれがこの世界が論理的整合性を持って存在すると仮定して、論理的整合性があるようにこの世界を観察し理解し観測し理解したのではないのか。 それらは「統計的事実」にもとづく「ファンクション(機能・関数)」であって「ファクト(確定的事実)」では無いということをいつしか忘れてしまっている。 われわれが理解し,生きているこの世界は「統計的事実」に基づく世界なのだ。「極限論的仮説としての世界」の可能なモデルのうち、もっとも妥当性のあると思われるモデルにすぎない。 それは「統計的関数」としての世界にすぎないということは憶えておいたほうがいいと思う。 もっとも実際の日常生活としての人生においてはそんなことなど意識すらしなくても、べつになんの不都合もないし、はるかにしあわせな気持ちになれるのかも知れない。 ぼくはこんなことを考えてしまうから、しあわせにはなれないかもしれない。 from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2014.01.29
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日の出があるのと同様に、あたりまえのこととして「夕暮れ」がやがてやってくるのだ、だれにでも。人生のピークを過ぎてから久しい僕にだって、同じようなことが起こっている。僕は夕暮れに向かって家路を急ぐ子供のような気持ちでいる。 ▲『冬の森』:写真をクリックすると拡大します。 かつて、秋にこんなことを書いたっけ 晴れなのか曇りなのかよくわからない。陽射しはあるのだけれど、建物を囲む森に遮られて(だから涼しいというのもあるのだけど)それは木漏れ日になってしまうので、直射日光を浴びるためには建物から少し離れなければならない。 きょうは頻繁に雲がやってきては通り過ぎていく。ここは雲や雲海の通り道なのだ。ここに住むようになって数年たってようやく気づいたのだけれど、山を眺めると微妙に森の色が濃かったり薄かったりして絵画のように綺麗でしょ? あれは雲の影なのだ。もちろん、暗くというか緑が濃く見える部分が、雲の「影」なのだ。どうしてこれまで気づかなかったのだろう。 そんなふうに思ったのも、もうずいぶんと昔のことになってしまった。 深夜、というかもう未明だけど、ラジカセから流れるジュリー・ロンドンの「思い出のサンフランシスコ」を聴きながらこのエントリーを書いている。春だったらもうすぐホトトギスが鳴き始めるころ合いだ。でも、それはない、もう秋だから。 居室のすぐ外で眠っているシベリアンハスキーのパルはもうすぐ13歳になる。人間でいったらもう90歳くらいなのだろうか。すっかり耳が遠くなって、聞こえたり聞こえなかったりするようだ。僕らの呼びかけも彼には届かなくなってきた。 しかたのないことだけど、人間より寿命の短い動物と生活を共にするというのはつらいことでもある。僕は彼の若かりし頃のこと、幼かった頃のことをよく思い出す。 なにをするにも大儀そうないまの彼の中にその姿を見いだそうとじっと見つめる。それは不確かな残像として彼の周囲に漂っている。とどのつまり、歳をとるというのはそういうことなのだ。生きるというのはそういうことなのだ。 日の出があるのと同様に、あたりまえのこととして「夕暮れ」がやがてやってくるのだ、だれにでも。人生のピークを過ぎてから久しい僕にだって、同じようなことが起こっている。僕は夕暮れに向かって家路を急ぐ子供のような気持ちでいる。 遊び疲れて泥まみれで空腹で、安息の地としての家に帰ろうとしている。生きて、やがて死んでゆくというのはそういうことなのではないのだろうか。もちろん、これはメタファーだ。 すくなくとも僕はすでに人生の秋を迎えている。あたりまえのこととして僕はそれを受け入れている。まだまだこれからだ、という考え方を「あえて」しないでいる。人生にはその年齢、その時期にしかできないことがあることを知ったからだ。「まだまだこれからだ」なんてがんばっちゃう必要なんて無いのだと思う。 もちろんひとそれぞれだから、名実ともに「まだまだこれからだ」というひとだってたくさんいるに違いない。それは素晴らしいことだと思う。でも、僕に限っていうならば、別に元気がない訳じゃないのだけど、そういうことなのだ。わかってもらおうとは思っていないけど。 生きること、死んでいくこと。そこからくみ取れること学ぶべきことがたくさんある。高原の森で暮らすということは、そういうことなのだ。イデオロギーとは無縁の世界で、生き様死に様を野生から自然から学ぶということなのだ。 長い思索のはてにたどり着くのはいつも同じこのような結論だ。 ※この日記は2007年9月9日に書かれた。いまは亡き愛犬パルに捧げる。 from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2014.01.24
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この世界ではどんなことでも起こるのだ。ありえないことなどなにもない、許されぬことなどなにも無い… ▲『厳冬期の森』:写真をクリックすると拡大します。 折しもFMでジョン・レノンの「イマジン」がかかっている。 いまならその歌詞の意味するところがもれなく理解できる。 もちろん「自分なりに」と言うことだけれど。 ぼくのきわめて限定的な人生経験に基づいてと言うことだけれど。 この曲を聴くたびにぼくはたまらなく哀しくなる。 ジョンが殺されてからもう33年もたってしまったのだ。 あのときの衝撃と哀しみと怒りはいまもトラウマのようにぼくにつきまとう。 ことかように、この世界は理不尽である。 ぼくはそう思った。 しかしそうではないことがいまのぼくには理解できる。 この世界ではどんなことでも起こるのだ。 ありえないことなどなにもない、許されぬことなどなにも無い、 僕らの想いや価値観や世界観や倫理観とはなんの関わりもなく、 どんなことでも起こるのだ。 世界は「ひと」ではない。 世界は思考も観念も価値観も持っていない。 ただそこにあってわれわれを支えている。 世界はわれわれの「容れもの」ではない。 むしろ「世界」は我の「脳」のうちにあるだけのことなのかも知れない。 世界と我々とは互いに並び立つ2本の木のごときものなのかもしれない。 ぼくらは世界があることを喜んでいる、たぶん。 世界のほうは喜ぶどころかまったく無関心なのかも知れない。 世界は人格をもたない、あたりまえのことだけれど。 「神」だって同じだ。 世界も神も怒ったり泣いたり笑ったりしないし、褒めたり罰したりしない。 もちろんわれわれの勝手な願い事なんか聴いていない、というか、 それは彼らの仕事ではない。 われわれが自らの意識の深淵 あるいは こころの奥深い薄明の世界に到達するとき じつはこれが「世界」なのだと気づくだろう。 from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2014.01.18
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繰り返しになるが、ジョン・レノンが唄う"God is a concept by which we measure our pain."という詞(し)は芸術表現である。 ▲『現代音楽的な氷柱(つらら)』:写真をクリックすると拡大します。 繰り返しになるが、ジョン・レノンが唄う "God is a concept by which we measure our pain." という詞(し)は芸術表現である。 ジョン・レノンは神が道具存在であると唄っているわけではない、もちろんこれは「たとえ」である。「神とはわれわれが自分の苦痛を測る概念である。」 そうだ、ここで歌われているのは「概念としての神」なのだ。 概念としての「神」は人間のように「思考」する。 だから人間のように振る舞うのだ。 哲学や形而上学における「神」は「概念」ではない。 われわれの「この世界」には決して現前しえない「観念」というべきだろう。 そのような「神」は人間のようには「思考」しない。 「観念」として「思惟」するのだ。 いずれにしても「神」は必要なのだ。僕にもあなたにも、きっと「神が必要」なのだ。 「神」が無ければ「救い」も「秩序」も無いから。 もはやわれわれは「神」ではなく、直接的に「救い」を切望すべきなのかも知れない。 しかし、「救済」は「神」の仕事ではない。 しかし、「信仰」は我々の側にある。 だから、そのために、「救済」を人々にもたらすためにこそ宗教はあるのだ、と僕は思っている。 from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2014.01.15
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ジョン・レノンは唄う… "God is a concept by which we measure our pain." ▲『氷柱と窓そして鏡』:写真をクリックすると拡大します。 ジョン・レノンは唄う。 "God is a concept by which we measure our pain." われわれの「世界」がそうであるのと同様に、われわれの「神」もまた「構成」された神である。 あるいは、 この世の不条理を合理的に受容するために(あるいは受容させるために)「創作」された神である。 そうでなければ神を語るに「奇跡」など必要ない。 なぜならば、 神の「ある」ことは集団においては伝承的事実、個人においては体験的事実だからだ。 神は「様々に自身を現わす」必要などない。 そもそも「神はあまねくある」からだ。 僕は自分の体験的、個人的「神」について書いている。 あるいは僕が個人的に生きている「この世界」について語っている。 嫌われるのを承知で、それでも「いま」書かずにはいられないから書いている。 from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2014.01.13
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ラビンドラナート・タゴールは言う、「時間は精神的な装置であり、存在しているものの相対的な位置を測るために私たちが使っている概念なのである。」 ▲今朝はマイナス21℃まで冷え込みましたが、日中は陽射しが温かくて心地よい気温になりました。雪質は近年まれなほど上質のパウダースノーです。:写真をクリックすると拡大します。 ラビンドラナート・タゴールは言う、「時間は精神的な装置であり、存在しているものの相対的な位置を測るために私たちが使っている概念なのである。」「もしリアリティをめぐるすべての知識が経験にはじまり経験に終わるとするアインシュタインが正しいならば、出来事の意味を汲みとる源となるような外郭のリアリティは存在しないことになる。」「われわれの知覚がそのようなものであると受け止めたもの、それが世界だ。そのことを疑う者はいない。われわれは心とは鏡のようなもので、外の世界の出来事を正確に映し出すだけだと思っているからである。ところが、じつは反対で、心のほうが創造しているのである。つまり、ひとは世界を知覚することによって、自分の世界を、時間と空間の中に絶えず創造しているのである。」折に触れて僕が言う 「我々の外に景色(美・あるいは世界)は存在せず、それは我々の心の中に構成されるものなのだ」 というのはそのような意味においてである。 先日「2345 創造され現れるものとしての世界」という記事で僕が書いたことは、彼らの考えに影響されたものではなく、僕自身の直感である。しかし僕は自分が孤独な夢想者でないことを知ってうれしかった。 いまある現実はあなたが同意することによって、そのように存在している。だからあなたはあなたの現実に責任がある。 このような自分の認識に僕自身堪えがたいところがあるのだけれど、これは真実なのだ、たぶん。 from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2014.01.12
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ブログを書くことはとても楽しいことだった。それは至福のひとときだった。しかしいつのころからか僕にとっては苦痛に変わってきたのだった。それはなぜなのだろう。 ▲『マイナス22℃の窓外風景』:写真をクリックすると拡大します。 ブログを書くことはとても楽しいことだった。それは至福のひとときだった。しかしいつのころからか僕にとっては苦痛に変わってきたのだった。それはなぜなのだろう。 つらつら考えてみたのだが、いまだによくわからない。考えれば考えるほどわからなくなる、人生にはそんな問題があるのだ。 ひょっとしたら考えるべきことではないのかも知れない。あるいは、考えてもしょうが無いことなのかも知れない。 考えないことにした。 いずれにしても、いまもなお僕は記事を書きながらカミソリで皮膚を切り刻むような痛みを感じることが多い。文字通り、身を削るようにして書いている部分があるのかも知れないし、そうではなくて単なる気のせいかも知れないのだけれど。 それはおそらく、僕が自分の匿名性を担保せずにほとんど実名でブログを書いているせいかも知れない。自分の考えをひとつの「作用」として公に発信することはそれに対する「反作用」をともなうのだ。例外はない。 僕はそれを引き受けなければならない。そのことが僕を苦しめる。嫌なら止めれば良いだけだ。それでも書き続けるならば、この痛みを受容しなければならない。 from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2014.01.11
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今朝の外気温はマイナス22℃だった。というか、午前7時の気温がそのまま今朝の最低気温で、それが上がるどころかさらに下がりそうなのだ。 ▲『つらら』:写真をクリックすると拡大します。 今朝の外気温はマイナス22℃だった。というか、午前7時の気温がそのまま今朝の最低気温で、それが上がるどころかさらに下がりそうなのだ。 天気は蓼科を知らないひとが想像するのとは反対に雲ひとつ無い晴天だ。晴れた日のほうが雪の日よりも気温が下がるのが当地の気候なのだ。 内では外に「最高気温・最低気温記録式寒暖計」というのを置いているので、このようなデータが取れる。それにしてもマイナス22℃というのは平年の年間最低気温にほぼ等しい低温だ。 当地はこれから厳冬期と呼ばれる文字通り低温の季節に入るので、このようなことはさほど珍しくは無くなる。雪もたくさん降る。しかしその一方でそのピークを過ぎるとにわかに陽射しが強くなり、一気に春めいてくる。 ゲレンデの雪質は、北海道にも負けないサラサラパフパフのパウダーで、しかもそれがまったく解けない季節だから、この時期を逃す手はないですよ。 ただし、防寒対策は万全に! from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2014.01.10
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我々は時間の中に内包されるものではない。 ▲『朝の雪景色』:写真をクリックすると拡大します。 『この世界は「神」によってこのようにある。 ただ意味もなく存在する。 「無意味性」はこの世界の本質である。 「啓示」はわれわれのインスピレーションに過ぎない。』 以前の記事で、僕はそのように書いた。 これは僕の世界観である。 しかし孤立無援の世界観ではない。 ヴィトゲンシュタインは言った、 「神秘的なのは、世界がいかにあるかではなく、世界があるということなのである」 と。 我々は時間の中に内包されるものではない。 サルトルが言うように人間実存とはそのようなものではない。 あるいは、クリシュナムルティが言うように 思考が時間である。 from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2014.01.10
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昨夜半、22時50分頃から蓼科の一部と白樺湖合計約1200世帯が停電していたのですが… ▲『昨夕の雪景色』:写真をクリックすると拡大します。 昨夜半、22時50分頃から蓼科の一部と白樺湖合計約1200世帯が停電していたのですが、復旧が遅れていた蓼科もつい先ほどようやく停電から復旧。ほっとしました。 なにしろ電気がないと暖房も給湯もなにもかも使えなくなってしまう土地柄なので… 外は氷点下10℃以下、ラウンジの室温0℃で停電したので、耐寒装備で羽毛布団をかぶって復旧を待っていました。 マイナス20℃以下の暴風雪の時に3時間も停電したら館内は移管が軒並み凍結してしまうこともあるので、気が気ではありませんでしたが、大丈夫でした。今回は温かな夜で運が良かった…^^;窓外ではずんずん雪が積もり続けています。湿雪なのでおそらく着雪あるいは倒木による断線が原因だったのでは無いかと思います。 from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2014.01.09
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我々を導いたり、救ったり、罰したりするのは神の役割ではない。 ▲『使徒の影』:写真をクリックすると拡大します。 語り得ぬもの この情景は美しい。 じつに美しく感動的だ。 しかし、本来的な意味において「客観的」に見るならば「美しく感動的な情景」はそこには無い。 それは僕のこころの中にある。 僕の精神活動の内にのみ存在する。 「美」とは我々の精神の内に「構成」されるものであって、「そこに存在するもの」が単に「体験」されるものではない。 同様に・・・ 様々な宗教が語る「神」はひとつのメタファーである。 「神」とは「語りえぬもの」だから、そして「神」は一切「語らない」し「何かを指し示すことすらしない」からだ。 それは神の無慈悲ではない、それは神の仕事ではない。 我々を導いたり、救ったり、罰したりするのは神の役割ではない。 それは人間に託された課題である。 この世界は「神」によってこのようにある。 ただ意味もなく存在する。 「無意味性」はこの世界の本質である。 「啓示」はわれわれのインスピレーションに過ぎない。 宗教指導者はそのことを秀でた信仰者として語るべき時である。 from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2014.01.08
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ブログを書くのは好きだけれど、ブログ記事をアップすることに追われるのは嫌だ。 ▲『積雪に落ちる影』:写真をクリックすると拡大します。 ブログを書くのは好きだけれど、ブログ記事をアップすることに追われるのは嫌だ。 アクセスしてくれるひとが多いのはうれしいけれど、アクセス数がブログの価値だとは思わない。 面白いヒトやモノやコトは大好きだけれど、ブログは面白ければいいということだけでもないと思う。 いずれにしても、自分なりに書き続けるのがいいと思った。誰も読んでくれなくなっても書き続けるだろう、たぶん。 でも、まあ、もう無理して書く必要もないか、18年も書き続けてんだから。 from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2014.01.07
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全国的にそうだったと思うのだけれど、今日は朝からモーレツに寒かった。 ▲『積雪に落ちる影』:写真をクリックすると拡大します。 さて、これまでのやりかたを変えて、先に文章を書いて、あとから適当に写真を選ぶことにする。先に写真を選んでしまうと、その写真に文章が引っ張られてしまうからだ。 このことはブログに写真を載せるようになって以来、1日も変わることのない傾向だった。僕がそういうタイプのひとなのか、一般論としてそのようなことが起こるのか、それは検証する気は無い。 全国的にそうだったと思うのだけれど、今日は朝からモーレツに寒かった。ここ蓼科高原でも、とりわけ僕がペンション サンセットをやっている北八ヶ岳山腹・標高1700mの別荘地では下から吹き上げてくる風がとても強くて、体感気温はおそらくマイナス25℃以下だったと思う。 写真を撮るためにラウンジの窓を開けると、これまでとは異次元の冷気が吹き込んできた。一瞬にしてなにもかもを凍結させる雪女が吹き付ける風のようだ。あっという間にカメラとレンズが冷えて来るのがわかる。 ひえてしまうとオートフォーカスなどの機能に障害が出るので、急いで撮影を済ませた。それ以前に自分が凍り付いてしまいそうだったからと言うのもあるけれど。 その一枚が今日載せた写真だ。 from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2014.01.06
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さて、ということで、今年最初の記事となりますが、このブログの書き方を変えようと思います。書く内容も変わるかも知れません。スタイルも変えるかも知れません。 ▲『新年の風景』:写真をクリックすると拡大します。 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。 ずいぶん遅くなりましたが、写真撮影に集中すると文章が書けなくなるという症状がひどくてまともに文章が書けない状態になっていたのです。 老化による能力低下なのか、そもそもそういう頭脳構造のひとなのか、自分でもよくわかりません。同時にふたつのことを行うのは、苦手と言うよりは、そもそも好きでは無いというのはありますが。 ということで、遅いご挨拶の段、平にご容赦下さいませ。 さて、ということで、今年最初の記事となりますが、このブログの書き方を変えようと思います。書く内容も変わるかも知れません。スタイルも変えるかも知れません。 冒頭に書いたように「ブログは文章だけにしたい」というのが僕の願いなので、その方向で行きます。 ということで、写真を載せることがあってもトピックス的になるかもしれません。あるいは写真だけの記事にするとか… どうなるかわかりませんが、できるだけ文章を書くようにしてペースを(以前のように)「毎日更新」に戻していければ良いなと思います。 よろしくお願いいたします。(*^-^*) from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2014.01.05
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