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こんな風景もあるんだなあと目から鱗が落ちる思い それが今日の写真 信州北八ヶ岳標高1700mの冬。 --- sunset/蓼科高原ピラタスの丘170130-DSC_2382-8dNIKON D610, 135mm of AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR
2017.01.31
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朝、鴉(からす)の声を聞く。 標高1700mで氷点下20℃になろうという土地でも 彼らは暮らすようになってきた。 生態系が変わってきている。 温暖化は確かにある。 信州北八ヶ岳標高1700mの冬。 --- frozen flowers/蓼科高原ピラタスの丘170130-DSC_2359-3dNIKON D610, 70mm of AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.30
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蓼科高原北八ヶ岳標高1700mの今日は快晴、 最低気温マイナス12℃、最高気温0℃。 とても温かい。 散らずに残った花はこのようなドライフラワーになる。 信州北八ヶ岳標高1700mの冬。 --- frozen flowers/蓼科高原ピラタスの丘170105-DSC_1788-12dNIKON D610, 300mm of AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.29
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蓼科高原北八ヶ岳標高1700mの今日は快晴、 最低気温マイナス17℃、最高気温マイナス3℃。 昨日よりさらに暖かく感じた。 今日の写真は年初に諏訪大社上社本宮に参拝したときのもの。 正面階段前の広い境内でこのように火が焚かれていた。 お焚き上げの火だろうか。 薄明の氷点下に燃えさかる火は不思議な力に満ちていた。 信州北八ヶ岳標高1700mの冬。 --- 火焔(かえん)/諏訪大社上社本宮170105-DSC_1788-12dNIKON D610, 50mm of AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.28
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今朝はマイナス14℃、最高気温マイナス4℃、晴れのち夕方から雪。 厳冬の天候が続いたのでとても暖かく感じた。 風が台風なみに強く、体感気温はマイナス25℃以下。 小さな電動ポンプで400Lの屋外灯油タンクに給油した。 寒さで体中が痛かった。 信州北八ヶ岳標高1700mの冬。 --- 天と地と/蓼科高原ピラタスの丘170126-DSC_2258-8dNIKON D610, 28mm of AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.27
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今朝はマイナス18℃、最高気温マイナス8℃、快晴。 強烈な陽射しで粉雪の野原が砂漠のように見えた。 信州北八ヶ岳標高1700mの冬。 --- 天と地と/蓼科高原ピラタスの丘170126-DSC_2263-14dNIKON D610, 28mm of AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.26
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今朝はマイナス22℃、最高気温マイナス12℃、快晴。 布団の中は温かくても顔に寒気を感じたのはそういうことだったのだ。 花も凍結してフリーズドライフラワーに。 雪はまったく解けない。 ぎゅっと締まったパウダースノーのままどんとそこにある。 信州北八ヶ岳標高1700mの冬。 --- FROZEN FLOWERS 23℃ UNDER ZERO/蓼科高原ピラタスの丘170125-DSC_2223-9dNIKON D610, 300mm of AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.25
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マイナス16℃の風の中、冬山登山なみの防寒装備で除雪作業開始。 おおよそ1時間後に完了したときの気温はマイナス18℃、今朝の気温はマイナス21℃。 ゴアテックスパーカのフードや襟に吐息が凍結している。 パーカの裏にも汗が薄氷になって張り付いていた。 それでもなお 除雪の手を休めてふと見上げる空の美しさに癒やされる 信州北八ヶ岳標高1700mの冬。 --- 雪景色/蓼科高原ピラタスの丘170121-DSC_2199-5dNIKON D610, 105mm of AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.24
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最低気温氷点下18℃の朝 突き刺す寒気 さらさらと粉雪積もる --- 雪景色/蓼科高原ピラタスの丘170121-DSC_2200NIKON D610, 210mm of AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.23
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粉雪 風 氷点下15℃ 私の心を刺したのはこの光この枯れ葉 --- 雪景色/蓼科高原ピラタスの丘170120-DSC_2185dNIKON D610, 300mm of AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.22
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一面の銀世界 冬の山は色が少ない 心にちくりと刺さるなにかを写す --- 雪景色/蓼科高原ピラタスの丘170120-DSC_2182-17dNIKON D610, 300mm of AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.21
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また雪が降った ようやく平年並みの景色になった 美しい --- 雪景色/蓼科高原ピラタスの丘170120-DSC_2180-2dNIKON D610, 35mm of AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.20
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羽子板(はごいた)を撮るのは たぶんこれが生まれて初めてだ --- 羽子板/諏訪大社本宮前170105-DSC_1776-C1dNIKON D610, 50mm of AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.19
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蒼くない空は蒼くないし 暗い空は暗いのだ --- 凍結した花/frozen flowers170117-DSC_2112-7dNIKON D610, 300mm of AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.18
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ロラン・バルト「明るい部屋/写真についての覚え書き」を読んでみたわけだが、映像論としてあるいはそれに含まれる写真論として読むとおっとっとと…と肩すかしを食らった気分になる。 そういう論考を期待するならばミシェル・フーコーの「言葉と物」の中にあるベラスケスの「侍女たち」に関する詳細な論考を読んだ方が良い。 あるいはジャン・ポール・サルトルの「存在と無」や「想像力の問題」を読んだ方がはるかに多くのインスピレーションを得ることが出来るだろう。 あるいはまた実際に映像に関わる巨人たちの作品や言葉に直に触れた方が良い。 まあそれは当然のことではあるのだけれど。 しかし個人的には「明るい部屋」と出会って、自分なりに写真を思考するきっかけと方向付けを得ることが出来たのもまた事実ではある。 ご興味のある向きは一読してみるのもまた一興かと。 ちなみに諏訪地域の複数の図書館で1冊所蔵されており貸し出し可否を含めてネットで検索可能である。貸し出し履歴は1985年に収蔵されて以来31年間で3回にすぎない(わたしへの貸し出しで3回目)。こうした書物を読むなら図書館で借りるのも大いにありなのだなあと目から鱗の落ちる思いがした。 --- untitled/green170117-DSC_2114-9dNIKON D610, 28mm of AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.17
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以下はロラン・バルト「明るい部屋/写真についての覚え書き」からの引用である: 「映像の前提条件となるのは、視覚である」、とヤノーホがカフカに言うと、カフカは微笑してこう答えたという。「いろいろなものを写真に撮るのは、それを精神から追い払うためだ。私の小説は目を閉じるひとつのやり方なのである。」と。 写真は無言でなければならない(騒々しい写真があるが、私は好きではない)。これは「慎み」の問題ではなく、音楽の問題である。絶対的な主観性は、ただ沈黙の状態、沈黙の努力によってしか到達されない(目を閉じることは、沈黙の中で映像に語らせることである)。写真が心に触れるのは、その常套的な美辞麗句、「技巧」、「現実」、「ルポルタージュ」、「芸術」、等々から引き離されたときである。なにも言わず、目を閉じて、ただ細部だけが感情的意識の内に浮かび上がってくるようにすること。 以上、引用終わり。 この考えをどう評価するか、受け入れるのか、受け入れないのか、共感を覚えるのか、違和感を覚えるのか、支持するか拒絶するか。それは各自の思考における直感あるいは素直な主観にゆだねるべきだと思う。 --- 夕暮れ時のカーテン/curtain at dusk170106-DSC_1827-9dNIKON D610, 50mm of AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.16
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写真は演繹すべき物ではない。写真は過去の一点で立ち止まっている。写真は未来を志向しないし過去を振り返らない。写真は写されたものの存在証明であり、存在の現れの記録である。同時に写真は表現を志向することによって芸術へと向かう。しかしそこにおいても芸術となるのはそこに写されたものであって「写真」そのものが芸術として現れることはない。写真はメディアではないし存在を入れる(あるいは保存する)容器ではない。 そんなことを思った。 ロラン・バルトの「明るい部屋/写真についての覚え書き」を読了した。 感想としてはいささか肩すかしだったというのが本音。 写真を撮ることを個人的に日々を生きた証としている自分にとってはバルトの論考に消化不良を感じざるを得ない。 サルトルやジル・ドゥルーズならもう少し異なったインスピレーションを与えてくれたかも知れない。 「ストゥディウム」、「プンクトゥム」という用語はなかなか刺激的であるが、分類としては優れている一方で演繹は困難である。 写真(そのもの)は思考対象としてはきわめて困難な存在である。 「写真を読む」ことあるいは分析することは極めて困難をともなうし、いわんや「積分」したり演繹することはおそらく不可能なのだ。 写真は「微分的映像」であり映画は「写真の積分的映像」であるという考え方は正しくはないのではないか。 動画機能を備えたカメラが一般的となったいま改めてそんなことを感じる。 --- 初詣/諏訪大社上社本宮170105-DSC_1769-2dNIKON D610, 35mm of AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.15
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大雪とはいえこの地で23回目の冬を迎える身としてはまあこんなものでしょうという規模の降雪です。これまでの積雪量はおおよそ50センチほどです。10数年前までは1回の降雪でふつうに1メートル積もりましたからそう感じるのですよね。ただ気温はものすごく低くて1月末の厳冬期なみです。最低気温は氷点下18℃、最高気温も氷点下13℃以下です。おまけに風が強い(おそらく風速10mから20m)ので体感気温は氷点下25℃以下に感じます。ここまで風が強いと除雪機で雪をかき飛ばすことも出来ないので風が止むまで除雪は手作業のみ。除雪してもあっという間にもと通しになってしまうのでまるで「禅の修行」をしている気分になります。その「修行」がどれだけ私の精神を成長させてくれたか計り知れないものがあります。道路はおおむね除雪されているので今日の日中に関しては幹線道路は通行可能でした。十分な注意と十分な準備が引き続き必要なことに変わりはありません。標高1700mの我が家では玄関を一歩出たらいつ遭難・凍死しても不思議ではない天候です。 --- 大雪/Heavy Snowfall170113-DSC_2012-16dNIKON D610, 300mm of AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.14
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それは「風景写真」ではない。「ルポルタージュ」ではない。「ポートレイト」ではない。それは「アート」ではない。ただひたすら「写真」であるような写真。「存在の現れ」の「存在証明」であるような写真。そこに記録された被写体が確かにそのときそこにあったというアリバイとしての写真。写されたものそれ自身がわたしたちの意識に対して現前し、写真そのものは決して姿を現さない。写真は事実の容器ではない。写真は存在のレプリカではない。写真は現れのメディアではない…なによりも写真は映画ではないし絵画とは本質においてまったく異なるということ。 --- 聖なる場所/sacred place170105-DSC_1754-C1dNIKON D610, AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.13
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それは突然やって来る。 それは奇跡ではなく純粋な偶然性である。 それは邂逅(encounter)である。 そのような「写真」がある。 --- MOON AND KAFKAS170110-DSC_1947dNIKON D610, AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.12
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ロラン・バルトの「明るい部屋 / 写真についての覚え書き」を読み始めた。 見返しには サルトルの「想像力の問題」にささぐ とある。 なんという邂逅なのだろう、これは出会うべくして出会った書物である。 --- 水溜まりの風景170110-DSC_1965-5dNIKON D610, AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.11
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こころ惹かれた「現れ」を「写真」として記憶に残したい。 --- 大社通り170105-DSC_1778-5dNIKON D610, AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.10
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現前する存在の全てにその意味その理由を求めてはならない。 --- 諏訪大社上社本宮の橋脚170105-DSC_1823-3dNIKON D610, AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.08
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今日の写真:「AROUND THE FIRE/諏訪大社上社本宮境内」170105-DSC_1756-8dNIKON D610, AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR --- 写真か文章かどちらかを選ばなければダメだ。両方は無理だと思う。なぜならば、わたしは写真でも文章でも同じものや同じことを表現しようとしているからだ。だから、両方は荷が重すぎるのだ。そのことにいま気づく。 同時に、写真は説明文を必要としないし、文章は説明写真を必要としない。それが私の考えだということもある。上手い下手は別として、自分の撮った写真にタイトルやキャプションを付けることは最も苦手とするところだし、自分の書いた文章に説明的な写真を添えることはなんだか違うなあと感じるのだ。 ひとを説得したり、自分の考えや感じたことを説明することにもいささか疲れてしまった、いや、倦んで(うんで)しまったといったほうがいいのか、よくわからないのだけれど。 説得したり議論したりして変えることが出来るのはひとの行動や行為や考え方の一部分あるいは誤解の存在していた部分(齟齬をきたしていた部分)だけであって、そのひとの信念や価値観や信仰を変えることは出来ない。これは私自身の経験に基づく結論だ。 だからそのようなことに時間や労力を裂くことはあまりしたくない。私の年齢になると自分の持ち時間をカウントダウンするようになるのだ。またひとに何かを伝えようとすることにも疲労感や徒労感を覚えがちになる。 私は淡々と「語る」ことにしようと思う。その手段はときには写真でありそしてときには文章であるだろう。しかし(これまでとは違って)写真にはタイトルもキャプションも付けない、文章では簡潔であることを目指し、余計な解説は排除してみようと思う。 このブログの最初のタイトルであった「オーナーのひとりごと」に還り、文章でも写真でもそのどちらにおいても独りごちてみようと思う。 ※過去記事(アーカイヴ)より加筆訂正の上再掲載。 from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.07
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今日の写真:「一の御柱/諏訪大社上社本宮」170105-DSC_1755-4dNIKON D610, AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR --- 龍安寺の石庭を見るときと同様に風景はそこには無い。風景は偶然そこにあってわれわれを待っているわけではない。そこには「見る」という行為が必要なのだ。 私の見る風景はあなたの見る風景とは異なるかも知れない。なぜならこれは「私の風景」でありそれは「あなたの風景」だからだ。風景とは個人的なものなのだ。 この風景はわたし自身の反映でありわたし自身を投影したなにかあるいは私の心に現前するなにかである。それは偶然であるかのように私が望む時、望むとおりに現れる。 風景と呼ばれるものにレンズを向けシャッターを切るだけでは風景を捉えることは出来ない。そのようなとき映し出されるのは単なる事象であり現象にすぎないだろう。 わたしたちが風景を「発見」する以前にそこにあるのは「空(くう)」あるいは「カオス」である。風景を「発見」するというのは風景を構成し創造するということだからだ。 ※過去記事(アーカイヴ)より再掲載。 from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.05
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今日の写真:「FROZEN COMPOSITION/蓼科高原」161230-DSC_1615-5dNIKON D610, AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR --- 書きたいときに書きたいことを書く、そんなふうにポリシーを変えました。以前は何が何でも毎日更新ということを十数年続けてきたのですが、それをちょっと変えてみたいので。 不思議なものだ。自分でも良く書けたと思える記事はそれが古いものであるほどいまの読者の方の眼に触れる確率が低いということから、積極的に再掲載していこうと決めた。 どうしても伝えたいことはヘヴィーローテーションさえしようと決めた。 しかしである。 そう決めて気が楽になったとたんに、毎回書き下ろしをしている自分がいる。 不思議だ、じつに不思議なものだ。 それはそうと、ブログ記事を書いて公開するということには3通りの意味ないしは目的があると思う。 第1には、そのときの感動や思いや気づきを自分自身が忘れないため。 第2には、そのことを読者の人にも是非共有して欲しいという思い(勝手な思いなのだけれど)。 第3にはそのことをどうしても伝えたいひとがいてそのために書き残すということ。 こう言ったからといって、四六時中、ブログを書くたびにそんな重々しいことを考えたり思いを込めたりして書いているわけではない。 そんなことしていたらと手も書き続けることなんて出来ない。 少なくともこの僕に関しては。 こうして書いていてもバックグラウンドにはじつに様々な想いが去来している。 その多様な思いや記憶の中からひとつひとつ言葉や表現をすくい上げてはホコリを払ったり磨き上げてここに記すのだ。 そのあたりが若いころの書き方と決定的に異なっていると思う。 だからこのブログのたとえば15年前の記事の書き方といまの書き方とは明らかに違う。 たとえその違いが読者にはよくわからなかったとしても。 昨年ぐらいから、自分の人生に起きた様々な出来事の記憶や思い出の中にトゲのように残る疑問や懸案のままにしてあったことを、(相手がいるならばその相手とのあいだで)解決したり決着を付けるという作業をしている。 相手にはそのことはわからないかも知れないけれど。 もちろんこうして記事を書きながら決着を付けることが出来ることも数多い。 いずれにしても、そのような年齢に僕も到達したと思うのだ。 ※過去記事(アーカイヴ)より再掲載。 from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.04
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今日の写真:「いつかの大雪/蓼科高原」130217-DSC00610w15 --- しだいに意識がはっきりしてくる。私は標高1700mの我が家の駐車場の60センチばかり積もった雪の上に横向きに倒れて埋もれている。除雪機を使っての除雪をしているうちに頑張りすぎて貧血を起こしたらしい。なにしろもう3時間も飲まず食わずで休むことなく除雪を続けているのだからやりすぎということだ。 冬山登山に近い格好で作業しているので、寒くもなければ冷たくもない。それでも分厚く積もった粉雪の感触とほのかな冷たさが心地よく感じられる。シベリアンハスキーのパル君が生きていた頃はよくこうしてふたりで新雪の中で遊んでは倒れ込んで空を眺めたものだった。ふとそんなことを想いだして哀しくなった。 すぐには起き上がらずにそのままころがっていることにする。ごうごうという風の音がする。こんな風に聴くのはじつに数年ぶりのことだろうか。「風の音」そのものというものはない、風が何かに当たって音を立てることをわれわれは「風の音」と呼んでいるのだ。 いま聞こえてくるのは氷点下17℃の突風が森の樹木の先端をなでていく轟音だ。ざわざわ、ゴーッという音が聞こえたなら、それは葉をすっかり落とした森の木々の間を風が通り抜けていく音だ。電線の少ない当地では都会のようにピューピューという音は聴くことがない。 風に吹き飛ばされてきた粉雪がゴアテックスのマウンテンパーカのフードに当たる音が懐かしい。ちょうど雨傘に砂が当たるような音だ。さらさら、ぱらぱらとそれは聞こえる。とても心地よい音だ。 秋に落葉松の針葉がひっきりなしに落葉するときにも同じような音がする。一度傘を差して落葉松林を歩いてみることをおすすめする。まるで粉雪のような音を聴くことが出来るだろう。 落葉松を含めて樹木の葉というものは、強風に引きちぎられるようにして落葉するのでは無いことを当地に移住して私も知った。なにもしなくても葉は終日落ちているのだ。たまさか一陣の風が吹いたときに大量にまとめて落ちるので、錯覚してしまうのだ。 気温は極寒だが、陽射しは強く柔らかくそして温かい。このまま寝入ってしまいそうだ。いやいやあぶないあぶない、自分のウチの駐車場で凍死するわけにはいかない。遭難するわけにはいかない。でも、この心地よさは一体何なのだろう… それはおそらく「自然との一体感」のようなものを感じるからではないかと思い当たる。いまこの瞬間、私は自他無くこの自然と、この大地と、この空と一体になっているという紛れもない実感がある。 つかのまの至福の体験であった。 ※過去記事(アーカイヴ)より再掲載。 from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.03
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今日の写真:「Blue In Green/蓼科高原」161108-DSC_0674-3dNIKON D610, AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR --- 風の音が聞こえる。しかし実際には風などほとんど吹いていないことを知っている。この音は私のこころの中、意識の中で吹く風の音なのだ。 これは秋の風の音だろうか、冬の風の音だろうか、それとも春の風の音だろうか。夏の風でないことだけはわかる。 セミ時雨が聞こえる。あるいは単なるセミの声なのだろうか。夏では無いのにセミの音を聴く。 すべては睡眠の深海から覚醒の水面へと向かう私の意識の中のできごとだ。ここではどんなことでも起こりうるのだ。 ふっと音が消える…すべての音がまるで水が吸い取り紙で吸い取られたように消えてしまう。 世界は終わってしまったのだろうか。 まあ、世界が終わろうとどうしようと私はかまわない、世界とは「私の世界」のことだからだ。 運が良ければ誰かの心の中にわたしは生き続けるのだ。それを除けば私の世界が終わろうがどうしようがほとんど誰も気づかないだろう。 べつに拗ねて(すねて)いるわけではない。たまたまそのことに気づいてしまっただけなのだ。私の死とは「私の世界の終わり」にすぎないのだということに。 「世界の終わり」とはそのようなことであって、それ以外のなにものでもない。 雨が降り、陽が射し、風が吹き、雲が流れる。 それと同じことが繰り返されているだけなのだ。 個人は消えてしまっても、世界は終わらないし、生き残ったものたちは死者を悼む。 そして死者のことを忘れることは無く、生者のなかに死者は新たないのちを得て生き続ける。 なんとすばらしいことなのだろう。 わたしたちが語るこの世界はそのように出来ている。 ※過去記事(アーカイヴ)より再掲載。 from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.02
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今日の写真:「遥かなる木曽御岳山/蓼科高原」161231-DSC_1626-C1 1NIKON D610, AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR --- 「いちばんよいことは、その日その日の出来事を書きとめておくことであろう。はっきり知るために日記をつけること。取るに足りぬことのようでも、そのニュアンスを、小さな事実を、見逃さないこと。そして特に分類してみること。どういう風に私が、このテーブルを、通りを、ひとびとを、刻みたばこ入れを見ているかを記すべきだ。なぜなら、変わったのは<それ>だからである。この変化の範囲と性質を、明確に決定しなければならない。」 ジャンポール・サルトルの出世作「嘔吐」の冒頭の文章だ。 もし学生時代にこの小説と出会わなかったなら、この文章を読むことがなかったとしたならば、私の人生に対する考え方、世界観、そして何よりも人生そのものはおそらく大きく異なったものになっていただろうと思う。改めていまそう思うのだ。 そのことがなかったならば、サルトルの「存在と無」をまくらに寝るようなこともなかったと思う。30年もかけて読み解くことも無かったと思う。 この文章はまさに私にとっても「我が意を得たり」といったものだったのだ。ここで語られていることのじつに深い意味については「嘔吐」を読んでもらうほかないのだけれど、これが私にとっての「この世界」への入り口となった。 それは同時に「宗教の語る神」への決別でもあった。 ひるがえってこのブログを思うに、どうも今日の日記の冒頭のサルトルの文章通りのことを行なっているような気分になってくる。 あるときは伝えたい一心でしたため、ある時はどうでも良いことのように感じながら記す日記。 しかしまさに、これはどういうふうに私が、この森を、山を、空を、ひとびとを、吹き抜ける風を、それらを観ているかを記している。なぜならば、変わるのは<それ>だからだ。 これは私の「世界観」に関わることだから変えようがない。 January 1, 2017・記 from 蓼科高原ペンション・サンセット
2017.01.01
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