サリエリの独り言日記

サリエリの独り言日記

2012.03.21
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カテゴリ: カーネーション
退縮する宇宙
 昨日の「奈津の姿を観ることによって、喚起される過去の映像を『共有』しているのは、観ている『私たちと糸子と奈津だけなのだ』」という話を、もう少し深堀りします。今目の前にいる奈津のしぐさ、眼差し、語る言葉によって、彼女とそれに付随した過去の記憶を、ありありと想起出来るのは、今や糸子と我々だけで、現在出ている他の登場人物たちは、すでに(三姉妹も含めて)誰もそれに参加出来ない。
 糸子と奈津がこの世を去ると同時に、ドラマ的にはその記憶は「消え去る=展開を閉じる」のです。私が安易な回想シーンは自制したほうが好い、とクドクド云っているのは、記憶とか映像というのは、そのようにして「想起され、消えて行く」ものなのだ、ということが言いたかったからなのでした。デジカメよろしく、いつでもどこでも誰でも取り出し可能な、万人に共有された記憶というものは、実はこの世には存在しないのです。
 であるがゆえに、今現在の奈津の立ち居姿をじっくり見届け、その画面自体から浮かび上がって来る、この二人の人生とか時間の経過とかを、確かにしかと受け止めてみたい、ということなのでした。
 何だかいやにロマンティックになってますね。

 閑話休題 
 今の話とはたぶん関係がないと思うのですが、少し話を変えます。
 例の内田樹さんの「レヴィナスと愛の現象学」(文春文庫)という本を読んでいて、ユダヤの宇宙創生神話について不思議な説があるのを知りました(ちなみにこの本は、E・レヴィナスというユダヤの超難解な哲学者の考え方を、内田流にダイナミックに詠みあげた不思議な本なのですが、よくこんなのを文庫にしたと思いますよ)。
 ここで取り上げるのは、もちろん私の手に余るこの本の中味の話ではなくて、要は「この世は、かつて神の身体だった宇宙が、神自身が縮むことによって生じた間隙を、埋めるようにして出来た」という、中世ユダヤのラビたちが唱えたらしい「宇宙創生神話説」のことなのです。このはなはだ意味不明というか、我々の理解の外にある考え方は、どないしても感覚的にも捉まえようがないでしょう。

 ところが「カーネーション」を観ながら、この創世神話説とは、案外素朴な生活実感から生まれて来たのではないか?というはなはだ無明な想念が、以前よぎった事があったのです。じつはこの話、善作の死の直後にUPしようかと思っていたのですが、何しろ例の「父性」性の話と並んで、荒唐無稽になりかねない中味なので、そのままにしておいたのでした。
 いかにも機会を失した感はあるのですが、ここで掲げておくことにします。先般の話同様、スルーしてもらって結構ですよ。

 「神が退縮した世界」とは、どういう事況を指すのか?要は、かつて確かに居たはずの神が、あるとき忽然と姿を消してしまった。しかし、それははるか異次元世界へ立ち去ってしまったということではなくて、確かに居た証拠があるにもかかわらず、神という実体だけがそっくり姿を消してしまったのが、この世界であるということでしょう。
 これをユダヤのラビたちは、「母性原理」で捉えようとしているらしいのですが、その理路は私にはちょっと難しくてよく分かりません。
 そこで考えたことというのが、これって、ひょっとすると、例えば突然肉親を失った家族の心理と似ているのではないか?ということなのです。
 肉親の生活の痕は家中にありありと残っているにもかかわらず、肝心の本人は確実にこの世から「姿を消している」。本人の息遣いや手触り感は、机にも布団にも食器にもそこらじゅうに残っているのに、本人の「姿だけは、絶対的に見ることが出来ない」。ふいに「ただいま」と外から帰って来そうなのに、本人は確実にどこかへ行ったまま「永遠に帰って来ない」。

 こういう事況を遺族が理解するのに、ある時ユダヤ人は、死者は別世界へ行ってしまったのではなく、「退縮した姿で、やはりこの世に在る(かもしれない)」と考えたのかもしれない。「退縮した」とは、限りなく縮んでしまって、我々はその姿を決して見ることは出来ず、呼びかけにも応えてくれないけれども、それでも確かに死者はこの世にいる(はず)としか思えない、というような理解の仕方で、ということです。
 それは例えば「セミの抜け殻を、内側から覗く」ような感覚であったかもしれない。空蝉(うつせみ)の襞々(ひだひだ)には、かつて「確かにそこにいた」はずのセミの跡が、ありありと残っているじゃないですか?
 ちょっとかなりユニークな死の捉え方かもしれないけれども、例えば日本では、死んだ人を弔うのに初七日とか四十九日とか、突然の喪失を遺族が納得できるように、緩やかに段階を踏んで死者をあの世に送り出す、という独特な生活習俗があるわけです。してみれば、世界には上のような考え方をする人たちも、あるいはいたのかもしれない(私見ですよ)。

 で、そうした死と死者への考え方を生活習慣としていた人たちが、破局的な民族離散とか滅亡というような事態を、歴史的に何度も経験せざるを得なかったとき、自分たちの崇める神は太古のある時期に、忽然と「退縮し、姿を消した」、というような理解の仕方をすることもあったのではないか、ということなのです。
 神の痕跡はそこらじゅうに「鳴り響くように」残っているけれども、神そのものは絶対的に「見ることは出来ず」、決してこちらからの呼びかけにも「応えることをしない」、それでも「確かにここに、我々と共に在る」という仕方で、です。

 やっぱり、かなり気難しい話になってしまいましたね!

― つづく ―





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Last updated  2012.03.21 11:54:33
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TNサリエリ @ Re[1]:Kyoto Tachibana High School Green Band 10.(09/07) ナガノさんへ  コメントいただき、ありが…
ナガノ@ Re:Kyoto Tachibana High School Green Band 10.(09/07) 2年遅れで、この文章を読んで泣けてしまっ…
TNサリエリ@ ふたたび、コメントありがとうございます。 cocolateさんへ 私自身、彼女の演奏に刺激…
cocolate@ Re:エレクトーンというガラパゴス 1.(06/17) 再びおじゃまします。 826askaさんのYouT…
cocolateさんへ@ コメントありがとうございます。 三年ほど前に826asukaさんのことを知り、…

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