サリエリの独り言日記

サリエリの独り言日記

2012.11.02
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「素人の節度」、あるいは「大人の振るまい」というものについて 3.
 「責任を取る」というのが、「辞任する」とか「腹を切る」ということを意味するのだとしたら、当該論件の「結果責任」は誰も「引き受け手」がいなくなってしまうことになる。「戦争責任」の取らせ方について、当事者たちが辞任し腹を切れば、すべて一丁上がりということであれば、その後を生きる人間は責任の引き受けようがなくなってしまうのです。この場合他国から非難罵倒されても、自身の「品格を保って謝罪する」ことが出来ない。戦前の当事者たちが「口をつぐむ」ことによって、戦後世代は「口を封じられている」のです。
 このあたり、「極東裁判は戦勝国の偏った裁判で無効」としたり顔で批判する保守派の人たちが、では自分たちの同国人のしでかした未曾有の失敗事例を、本当にキチンと検証する気があるのかと言えば、これははなはだ怪しい。ついでに言うならば、新憲法の象徴天皇制や第九条にしきりと異を唱える人たちも、現在の「日本国のかたち」がどのような歴史的文脈で生み出されて来たのか、明治以前にまで遡り場合によっては古代日本の根本から捉えなおす、というような仕方では絶対想定していないでしょう。ここには明治以後の西欧近代主義に対する恐ろしいほど無思慮な信憑があるのです。

 考えてみれば、日本人は「戦争責任」について、「自らを裁き始末をつける」ということを、敗戦後七十年近くこれだけ様々な戦争に関する言説がなされながら、実質的には何一つ明らかにしていない。自らの肉親ないし隣人、そして何よりも「天皇=国体」に正面から向き合うことを組織的に避けて来たのです。「百年二百年と時が経てば、いずれそんな問題は消えてなくなる」とでも思っているのでしょうか。今どきの様相はむしろ時が経つほどに、怨みが幻想的に増幅しているようにも見えるのですが。これは何も相手国政府が、自国の体制維持の都合で前景化させているからだ、というようなことでは済まされない。それと「自らの始末をつける」ということは別次元の問題です。いわゆる「愛国者」たちは他責的な状況を作ることによって、「自らの責任は自身で明らかにする」という人の尊厳を維持するにもっとも大事な根拠を隠蔽しているわけです。
 戦後の象徴天皇制がGHQの鶴の一声で決まったことに、この人たちは口をつぐんで何も言わない。自ら天皇制を引き受けようとするとき、「天皇(皇室)の責任」も問う立場に立たざるを得ないからです。私はもし敗戦直後に「天皇制廃止」の選択が行われていたら(その蓋然性はかなりあったのです)、この人たちは今と同じように我が身に向かい合わず、やはり口をつぐんでいたのではないかという気がする(ひょっとして、積極的に「共和制」を主導していたりして)。

 このあたりはよく比較されるように、(西)ドイツの場合と著しい対象をなしていますね。戦後のドイツが戦前の自国の体制にどのように正面から向き合って来たか、そしてそれを他国に明らかにして来たか、その長い経緯があるから、いろいろ言われながらも今のEUがあるわけで、でなければ今でも旧ナチスの幻影がヨーロッパ全体を覆うことになったでしょう。チェコやポーランドといったドイツ周辺諸国には、恐るべき旧ナチスの殺戮と残虐の記憶が今に至るも生々しく残っているわけで、これを前景化させたらEU統合などという理念はここから先も生まれようがない。
 しかし現在のドイツのEUに占める位置は明らかに主導的立場であって、戦後処理というような「贖罪的」な色合いはここから先もない。肝心なのはそれが圧倒的な経済力によってのみ形成されて来たものではないということなのでしょう。「贖罪」と「断罪」を前景化すれば、たちまちEU統合の理念など崩れ去る類のものです。かといって、浮ついた「未来志向」などという仕方で、アウシュビッツの記憶がきれいサッパリ消え去るわけがない(だいいち周辺諸国は絶対それを許さない)。ドイツの国民は敗戦後のヨーロッパで「今」を生き延びるために、あえて「親、肉親、そして隣人たちを裁いた」のです。旧ナチスを特別病棟に隔離して、我が身は無傷のまま他責的に断罪したわけではない。
 このあたり、具体的に現ドイツが戦後処理で何を行って来たかという事例よりも、戦後処理の「考え方の構え」というのをもっと研究してもいいのではないか知らん。「自身の品格と尊厳を保ちつつ、どうやって周辺諸国民と折り合って行くか?」というような。

 「旧ナチスと旧日本軍を同一視して断罪するのはおかしい」という反論がすぐにも出て来そうですが、かといってだから我が親の世代の為したことが、すべて免責されるわけでも隔離されてしまうわけでもない。戦後の日本人はGHQが裁きの「代行」をしたことを以って、我が身を隠蔽し未だに真の意味で旧日本に向き合っていないし始末をつけてもいないのです。
 靖国に戦犯を合祀するのは「日本古来の文化だから」と強弁するのは、論理のレベルでなく真情の吐露なのだからそれで結構。しかしそれと「死んだ者たちの戦争責任を問わない」ということとは別。「死者を弔う」ためには死者の魂が明らかにされねばならないのです。

 前にも言いましたが、それは何も戦争中の残虐と殺戮を何でもかんでも暴きたてよ、ということではない。平成の今の東アジアで周辺諸国と折り合って自身が生き延びるために、自国の歴史とどう向き合うか、そしてそれを自身の品格を保ちつつ外部にどう表明していくかという問題なのだと思う。
 それはへりくだった周辺諸国への「贖罪」という立ち位置とは違う。あえて言うなら「大人の振るまい」といったものでしょう。「大人」というのは、「児戯」めいた周辺の騒ぎに「同列では与しない」ということです。それは相手にしない、黙殺するということではない。相手が「自身の未熟性に気付く」まで、あえてこちらは大人の立ち位置を選ぶ、ということです。何もひたすらガマンせよ、ということではない。「未熟性」を気付かせる手立ては常に講じておくということなのですが、今どきの日本は逆に我から「かつての未熟性に陥ってしまいたい」という欲望が渦巻いているような気がしてしかたがないのですが。
 それがどんな経緯で生まれて来たのか、これまたそう古い話ではなさそうなのですが、また別の機会に考えてみたいと思っています。

― 「素人の節度」、あるいは「大人の振るまい」というものについて おわり ―





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Last updated  2012.11.02 16:09:03
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TNサリエリ @ Re[1]:Kyoto Tachibana High School Green Band 10.(09/07) ナガノさんへ  コメントいただき、ありが…
ナガノ@ Re:Kyoto Tachibana High School Green Band 10.(09/07) 2年遅れで、この文章を読んで泣けてしまっ…
TNサリエリ@ ふたたび、コメントありがとうございます。 cocolateさんへ 私自身、彼女の演奏に刺激…
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