サリエリの独り言日記

サリエリの独り言日記

2020.08.05
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カテゴリ: エレクトーンの日
こぼれ落ちるもの
 エリオットは、自身の詩心の起点を「思想」に置き、現代詩の有りようを切り開いた巨人の一人ですが、当然こうした一種冷めた「詠いかた」には、情緒優先の象徴派詩人たちからは反発があったでしょう。しかし第一次大戦後の荒廃し尽くしたヨーロッパ諸国の惨状を見るとき、彼はとてもじゃないが、従来の「詩心」で詠うことは出来なかったのです。
 爾来、彼の詩は難解かつ衒学的と言われ、早い話、代表作の「荒地」など、作者自身のダダ長い脚注が付いていて、素で詩を味わおうとする者の興をそぐ。しかもその注記が何を意味し、この詩が何を構想しているのか、西欧文学や哲学、宗教によほど精通した人でなければ、さっぱり分からないという代物で、この詩一編の解釈だけに、分厚い本を物した学者もおられるほどです(しかし、そもそも自身の作品を、自分の解説付きで出版するというのも、考えてみればヘンな話ですよね)。

 まあ、それはさておき、私がここで申し上げたかったのは、美学の起点が感情であれ思索であれ、それを学術論文みたいな分析でなく、「バラを嗅ぐような仕方で享受する」というアプローチが、芸術分野では確かにあるだろうということなのです。
 従来そうした美学教育というか、人の情操にかんしては、結局現物を当たらせるしかなく、教育現場では、現物の周辺情報を伝えるのが、精一杯だったような気がするのですが、物事を「享受する」という、人のいたって主体的な行為というものについて、もう少し論理的というか、意識した教育があってもいいのではないか?まあ今どきの受験体制教育では、そんな時間はとてもじゃないが、割けないのかもしれませんが。結局、そうした「享受」のヒントは現場の先生の器量に丸投げされているので、たまたま気の利いた先生に当たれば、大いに感性豊かな子供たちが育つのでしょうが、そうでなかった子供たちは、永遠に豊かな内面世界の涵養から外れるということになる、これって不公平ですよね。
 昔は(というか、私の小中時代は)、まだ教育現場の自由度が高いというか、良い意味でも良からぬ意味でも「面白い先生」がいて、例えば左翼系ビンビンの運動家先生と、旧日本将校あがりとおぼしき、強権的先生が同じ教壇に立っていました。今や文科省の縛りがどんどんキツくなっているので、そうした名物先生に出会うことはまずないでしょう。

 話は戻るのです。
 それにしても、寄田さんの響きを聴いていると、邦楽と洋楽の根本的な有りようの違いに、あらためて気付かされる。「洋楽」が、いわば分節された「単位(モナド)としての音」の集積で成り立っているのに対し、「邦楽」は明らかに分節されない音、あるいは分節以前の音で成り立っているのです。
 洋楽がなぜこうした「単位としての音」に、音楽をどんどん分節化することによって、西欧音楽を花開かせたのか、いろいろ説はあるのでしょうが、一つ言えるのはルネサンス以降の科学的合理主義の進展が、音楽の分野にもかなり早くから浸透していたのではないかしらん?

 しかし、尺八の一音は、たんなる単位ではなく、時間的にも空間的にも自由に伸び縮みしているようにみえる。となると尺八は、極端な言いかたをすれば、一音だけで人に届けられる「音楽」を構成することもあり得るわけで、そのあたりから、普化宗尺八の「一音成仏」などという言葉も生まれてくるのでしょう。
 じつをいうと私は、こうした格言的な言葉は、あまり好きではありません。「一期一会」だの「即身成仏」だの、いささか権威性を持って語られる熟語は、それが発せられるとき、その言葉の意味するところが十分に嚥下されないまま、言葉だけが勝手に飛び回ってしまうからです。
 とはいえ、分節されざる音なら、一音でも音楽が可能ということになれば、音楽世界が一挙に拡がるのかと言えば、そんなことはない。むしろそれは「音楽そのものの解体」という、恐ろしい地平に足を踏み入れるという、かなりな危険とも隣り合わせになっているのではないか?
 考えてもみてください。リズムもハーモニーも音階も溶解していくような音から、いわゆる「音楽」というものを、改めて構成することが出来るのかどうか。

 これには、一つの回答が待っているのです。それは西欧楽器も含めて、近代以前の世界の楽器というのは、多かれ少なかれ、こうした溶解した音たちによって、奏でられていたということです。このあたりは最近の民族楽器や古楽器などの研究で、明らかになって来たことでした。
 尺八に似た奏法とか音声を持つ木管楽器は、けっこう世界各地で見られるし、琵琶のような弦楽器でもそうでしょう。ただそれらと尺八や琵琶が違うのは、これらは十分洗練され尽くした楽器であって、いわゆる民族楽器とか古楽器に、尺八とか琵琶をカテゴライズするのは、明らかに無理があるということです。
 横山勝也や青木静夫の尺八が、すでに洋楽器に比肩し得る、洗練された響きを持っていたということは、今さら言うを待たないことですが、ただ一つ申し上げるとすれば、それらが普化宗尺八直系の海童道だの琴古流の伝承を多量に引き継いで、逆にそれらに付随した物語が、この楽器の響きが指し示している真の姿を、見え難くしていたところはあったかもしれない(別にそうであったことを、くさしているわけじゃないですよ)。

 しかし寄田さんの演奏には、不思議なほどそうした付随した「物語」、あえて言い換えれば夾雑物がない。あまたある伝承をすべて引き受けつつ、発せられる音は、まさしく「今、そこで生成されつつある」という新鮮さに満ちている。音楽が真に人に届くとは、どういうことなのか?というのは、ここのおしゃべりの根本命題ですが、何だか一つの回答を聞いたような気がしました。
 西欧的な分節的アプローチでなく、むしろそれによってこぼれ落ちる多量な響きのほうに注力し、それを洗練させて行くところには、何やらより自然に近しい生き物、例えば粘菌のような、私たちから見ればどうみても不合理、あるいは予測不可能な生命の有りようを感じてしまう(ちょっと、大げさですが!)。肝心なことは、それらが西欧音楽とは全く違ったアプローチでありながら、非常に堅牢な構築性を持って奏されているということでしょう。





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Last updated  2020.08.05 18:43:02
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TNサリエリ @ Re[1]:Kyoto Tachibana High School Green Band 10.(09/07) ナガノさんへ  コメントいただき、ありが…
ナガノ@ Re:Kyoto Tachibana High School Green Band 10.(09/07) 2年遅れで、この文章を読んで泣けてしまっ…
TNサリエリ@ ふたたび、コメントありがとうございます。 cocolateさんへ 私自身、彼女の演奏に刺激…
cocolate@ Re:エレクトーンというガラパゴス 1.(06/17) 再びおじゃまします。 826askaさんのYouT…
cocolateさんへ@ コメントありがとうございます。 三年ほど前に826asukaさんのことを知り、…

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