お気に入り雑貨♪ 0
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毎年、8月15日にはうちの裏の海で花火大会があります。すごくローカルなので、新聞とかには出ないほどの小さな規模だと思います。この街の住民にとどまらず、いろんな人が砂浜に出てきます。出店もこの数年前から見られるようになりました。花火を見ていつも思うのは、母の言葉。花火を打ち上げると「ヒュ~」という音。当時5歳だった母は戦争で「ヒュ~」といっては落ちてくる爆弾の音におびえていたため、大人になってもその音は嫌いだといっていたっけ。昨日は終戦記念日でもあり、母の言葉がず~んときました。5年前に母が他界して、2年前、父が肺がんで入院してました。そして、母の他界後からずっと父をみてましたが、かなり疲れていた私は、2年前の花火を見ながら「お母さん、お父さんのお迎えに来ていいよ」そう思っていました。すると、歩行は難しかったものの、容態は安定していた父なのに2,3日すると肺炎を起こし、食事をとることができず衰弱しそのまま父は他界しました。盆に花火を見ながらそう思って、2週間後には父が死んだわけです。よく、自分の強い思いは現実に起こるといった言葉がありますが自分が父に対してそう思ったから、父が他界したのでは…そう思うと、父に申し訳なかったという思いでいっぱいです。たまたまだと思いたいのですが、どうしても、自分の中でそう思ってしまうのです。あの時、花火に向かって母にお願いしたからこうなったのかな…もし、そうなら父に謝りたい気持ちでいっぱいです。去年も、今年もそんな思いで花火を見ました。これからもこの花火大会を見に行くたびにこの思いをするんだろうな…と思います。
2008年08月16日
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昨日、テレビをつけたら、たまたま「高齢者のアル中」の特集がありました。何となく最後まで見てしまって、懐かしいな~と思いました。父もアル中でした。父の場合、15歳からお酒を知り、ずっとずっと飲み続けてました。60歳ごろから昼間も飲むようになり、母が苦労する姿を見てきました。テレビに出ている人はアル中を自覚して、本人が治さなくちゃいけないと思って見ていてとてもうらやましいものでした。父は無理やりアル中のカウンセリングに連れて行って、先生の診断を受けて、アル中と言われましたが、認めませんでした。そして、何度説得をしても「治療をする必要はない」と意地を張りました。父に言わせると、酒をやめる理由がないからでした。アル中のために、階段しかない団地の5階に住んでいた父は階段の上り下りで転倒、道端で転倒、転倒、転倒…病院に運ばれては、そのたびに私が呼び出されてました。あわてて病院に行くと、顔面から倒れて、顔は血だらけでした。退院してはまた転倒して救急車で運ばれるの繰り返し。毎週のように病院から呼び出しの電話がありました。それも夜なので、小さい子どもがいる私には苦痛でした。転倒する際には必ず酒気おびて、酒を必ず持ってました。買い物(酒)の途中だったわけです。母を3年前になくして、かなり寂しかったんだと思います。アル中の患者は幼少のころに親の愛を受けられなかったなど、何かしら心に傷を負っている人が多いとのこと。父は次男で、幼少のころから祖母から「予備の子」と言われて育ったそうです。実際に乳母さん(当時は坊ちゃんだったとか)に育ててもらった父。そんなかわいそうな過去を知っていても、どうしてもアル中に理解を示せませんでした。アル中のカウンセリングで「アル中は『病気」です」と明言されました。「病気」なら治るのか…と思ったけど「完治」しないと言われ、さらには遺伝するといわれて、ぞっとしました。父の両親は酒豪で、伯父も大酒のみでした。その血が自分にも流れていることに、おぞましさを感じました。幸い、母が酒を飲まない人だったので、その血も半分、わが身に流れていることで精神的にも救われました。乳飲み子だった長女を連れて、アル中のカウンセリング、そして夜はアル中の患者の家族会に3人の子どもを連れて行ったこともあります。父がアル中じゃなければ、もっと父とのかかわり方は違ったと思います。アル中で、まともな会話も出来ず、日常生活もできなくなった父を情けなく思い、これが自分の親と思いたくない…そんな思いの毎日でした。実家から介護つきの賃貸マンションに無理やり引っ越しました。3回の食事つきで、友だちができたら酒の量が減るだろう…そんな思いでしたが、現実は甘くありませんでした。電話でなじみの酒屋に電話して、毎週のようにケースでビールや焼酎を買い込んでました。足腰が弱っていたので、現金管理は私が預かり、病院代などをわたしていたのですが、そのお金はすべて酒代に消えました。毎週、毎週、電話があるときは必ず「お金がなくて困ってます」「連絡ください」と酒代を要求されました。すべてのお金を酒に使い、使うべき病院代がなくなり、父は病院に行くことはありませんでした。少し大目のお金をわたしたら、その分だけ酒を買うことが目に見えていたからです。父のお金とはいえ、身体を壊して、大量のお金が酒代に消えてけんかばかりしてました。電話がかかってくるときはお金の要求しかないので、着信拒否をしたいと何度も思いました。マンションのヘルパーさんから身動きができなくなっても酒を飲んでいるようだと連絡をもらったり引っ越してもなお、私の苦悩、苦痛は減りませんでした。昨日見たテレビで「死んでほしい」と家族の人が言ってましたが、私にはその人の気持ちが痛いほどよくわかります。私もずっとそう思っていたからです。このまま父が希望を一つも持たずに余生を生きることはかわいそうで、また、私がこれだけ振り回されることには我慢の限界でした。そんな父との関係を見直そうとしたのが、肺がんの発見がきっかけでした。これで父から開放される…そう思いました。「がん」と知って、悲観にくれることはありませんでした。パーキンソン病、軽い認知症で肺がん。この3つの病気との付き合いは、私も手伝う気持ちにはなれましたがアル中だけはいやでした。幸い、がんの治療のためにたくさんの検査や治療をするために入院生活が始まったので、父はアルコールから解放されました。毎月4万も酒代に消えていた計算になります。入院生活は高額医療費の対象になったため、入院していたほうがお金の減りが遅かったです。アル中は、本人だけでなく、まわりを巻き込む病気だったな…改めてそう思います。何だかあれこれ考えているうちに、まとまらなくなったので、この辺でおしまい。
2006年12月29日
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1月から入院していた父が、先週、他界しました。病院の先生から、病状や余命をはっきり聞いていたので、慌てることなく、姉やおばに連絡を取り、無事に葬儀を終えました。危篤のときは延命措置を絶対にしないでくれと姉と私の一致した意見を先生に伝え、先生は理解してくれました。連絡をもらって10分くらいで病室に飛び込んだのですが、残念ながら、数分の差で父は旅立ったそうです。先生には自分たちの要望をきいてもらえたので、間に合わなかったのは残念ですが、先生方には感謝してます。それまで手や足首、足の指から点滴を受け、栄養が取れないからとチューブを鼻から胃に通し、そのチューブをとらないように、拘束をさせてくれと医療行為だからと言われた後にサインを自らの手でしたことが父が他界するよりも、なぜかつらかったです。父は以前より安楽死を希望していたので(まだ安楽死は今の医学では認められてないので)チューブや拘束は父にとって不本意だったろうなと思います。でも、必要な医療はしていかなくてはいけないという病院としての使命もわかります。拘束されていた父を見舞ったときは、認知症がどんどん進んで、自分の状況がわかってなければいいな~…なんてことも思いました。看護婦さんの手が回らないときにはお願いだから、おとなしく寝て、拘束をされなければいいけど…と拘束するところを想像したくなくて、子供たちの世話に集中して、考えまいとしてました。子供たちは父のチューブや点滴、拘束を見てました。絶対治る、そのためにはこの治療が必要と思っていたようで、死を伝えると、どうしてあんなに痛いことをしたのに…と怒ってました。完治できないのに、なぜ医療行為を続けるのかについて納得ができてないようです。最近、パワーストーンに興味を持っていた長男はこれは病気に効くんじゃないのかと、拾った石を父のベッドの近くに置いてました。とても余命については伝えず、そうだね~としか言えず、子供たちをだますような結果になりました。幸い?長男は次男の交通事故のショックで通っているカウンセリングがあるので、そのまま通院して様子を見るつもりです。私は両親の看病、介護などを自分の手でやってきたので、悔いはありません。なんで自分ばかりとは考えてません。近くにいるのは私だけだから、仕方ないでしょう。飛行機で2時間かかるところにいる姉にちょこちょこ来いなんて、現実的には無理な話です。看護や見舞いにいつも行けたのは夫や子供たちのおかげです。幼稚園のママたちが子供を預かってくれたこともあります。決して、私一人でやりとげたわけではないんだということをずっと忘れずにいようと思います。目の前で弱る姿は見ていてつらいものでしたが、遠くに嫁いでいる姉は私よりも精神的にきつかったのでは?と思います。が、姉は自分の考えを話すほうではないので、今でもよくわかりません。自分の気持ちの整理をきちんとできたらそれでいいと思います。今は役所に書類を取り寄せている(といっても、姉や夫にお願いしてる状態)段階で、書類が来てからやる作業以外はありません。姉夫婦や夫がばたばたと動いてくれたので、私はかなり楽をさせてもらいました。とりあえず、たまった洗濯物をしっかり干そうと思います。(今から4回目の洗濯です…)
2006年09月11日
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2週間ほど前から父の容態が急変しています。目の前で見ている私や病院の先生も驚くほど、悪化しています。先生の説明でもいい話はありません。緊急の場合でも、延命はしないことを確認しました。今日は見舞いに行ったのですが、声をかけても反応はありません。先週声にならない中、必死に「ありがとう」と手を握って言った父。命の重みをず~んと感じているところです。わが子たちも父の見舞いに付き合っているわけで、日に日に弱る父の姿にはショックを受けているようです。これも仕方がないこと、先生たちはベストを尽くしてくれているんだよと話しています。いつ別れの時がくるかわかりません。そんな思いでいるときに、福岡の飲酒による追突事故。幼い命が3つも天国にのぼってしまいました。事故現場は知っています。それだけに、ショックでした。命の炎が消えようとする自分の父は病気が原因ですが、事故は明らかに相手のせい。こんな形で命の炎が消えるなんて…命は大人や子供関係なく、重いんだよと、伝えたいです。
2006年08月29日
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一応、今回の抗がん剤の点滴で治療は終わります。今朝までいた病院を出る前に、違う病棟に入院している父の友達にご挨拶に行きました。父の少ない友人の1人です。父が1月から入院生活を送っては、見舞いに来てくれた方です。2ヶ月くらい前に風呂場で転倒し、歩行はおろか、口調も変わってしまって、久しぶりに会った私は、ベッド脇の名札を見なければ分からなかったほど。父は数日前にその友人を見舞って、友人の変わりすぎた姿にショックを受けていました。友人はゆっくり、ゆっくりと考えながら、一生懸命話してくれました。「お父さんを頼むよ、大事にしてくれよ」「オレの、大事な友達なんだ。大切にしてくれ」と泣きながら私の手を握って話す、友人。父も珍しく「絶対、頑張るから、お前も頑張れ」と励ましてました。年齢を重ねても、友情ってあるんだな~と、しみじみ思いました。病院を移動してからは、いつもの私の知っている父で、看護婦さんに甘えたり、わがままを言ってました。父が今度の治療でどこまで頑張るか分かりませんが、私は私にできる洗濯物を届けたりして、手伝おうと思います。
2006年07月12日
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今日は父の病院に付き添いました。現在、抗がん剤を使用した結果、どうなったかの話を聞くことになっていたのですが、急遽、検査が一つ加わりました。検査が加わって、内心、こりゃ、やばいと思いました。その話を姉にすると、姉は覚悟できているとメール。ずっと父と一緒にいたので、そんな顔を見せるわけにもいかず子どもたちの近況を話して、紛らわしました。さて、検査の結果は、今の段階ではまだ手術にもっていけないとの事。抗がん剤の効果は出ていたけれど、思ったよりもがんは広範囲にわたり、その辺り(肺)を全部摘出するのは今の段階では不可能とのことでした。はじめに指摘された場所は腫瘍で肺の入り口が完全にふさがっていたのですが、抗がん剤のおかげで肺へのトンネルが開通したような感じです。(イメージできるかな?)が、検査の結果、そのトンネルの外側にも腫瘍が広がっていて、その部分を摘出するとなると、生活する上での酸素の必要量が足りなくなるとか。これは個人差があるのですが、今の父には左の肺だけでは必要量を取ることが無理とのこと。しかし、抗がん剤の効果は出たので、今後も治療をしますときっぱり言い切る主治医。てなわけで、再来週、また某野球場横のでっかい病院に移動します。
2006年06月01日
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